03 03(火) ひな祭り |
「雛祭(ひな)の宵」(作詞者不詳 長谷川良夫作曲) 長年、はっきりした歌詞を知りたいと思っていてURLを 調べていたが、この歌詞は判らなかった。 ところが、 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/bbs/yybbs.cgi? 「なつかしい童謡・唱歌」の「たずね歌・さがし歌」の 「掲示板」へ投稿したら、3時間ほどのうちに返事をいた だき、ここへ載せることができました。 本当にありがたいことです。 1 ぼんぼりに灯を 入るるとて 電灯殊更 消すもよし 瓔珞(ようらく)ゆれて きらめきて 物語めく 雛祭(ひな)の宵 2 十二一重の 姫君の 冠少しく 曲がれるを 直すとのべし 手の触れて 桃の花散る 雛祭の宵 3 官女三人(みたり)の まねすとて 妹まじめの 振舞に 加わりたまう 母上の えまいうれしき 雛祭の宵 「えまい」を広辞苑第四版でみると、次のようにでている。 えまい【笑まひ】 @ にこにこわらうこと。ほほえむこと。万一八 「なでしこが花見るごとに少女らが えまいのにほひおもほゆるかも」 A 花がひらくこと。永久百首「花の―のくちびるも見ず」 |
雪洞に灯を入るるとて 投稿者:下平 投稿日:2004/03/04(Thu) 07:45 No.25990 「雛祭」の歌 雪洞に灯を入るるとて 電灯ことさら消すもよし 瓔珞ゆれてきらめきて 物語めく雛の宵 で始まったと思います。 正しい歌詞をどなたか教えてください。 おねがいします。 ------------------------------------------------------------------------- Re: 雪洞に灯を入るるとて めぐみ - 2004/03/04(Thu) 08:34 No.25991 下平さま おはようございます。 おっしゃってる歌詞と違いますし少ししか載ってなかったのですが 長野県の飯田市で昔唄われていた歌で 「ぼんぼりに灯をともすとて、電灯ことさら消すもよし、桃の花散るひなの宵」 というのがありました。これだけしか書いていませんのでお役に立ちませんが。 長野県の飯田市役所農政課から出ている 情報ガイド飯田 のページ http://www.city.iida.nagano.jp/furusato/015/f1500.htm ここのふるさと歳時記です。 ------------------------------------------------------------------------- Re: 「雛祭(ひな)の宵」 こもこも - 2004/03/04(Thu) 08:42 No.25992 「雛祭(ひな)の宵」 ♪ぼんぼりに灯を 入るるとて・・ 今回も深山さんが歌詞を書いて下さっていますよ。 このページの上の 「過去ログ」 → 「P22」 → 「移動」 → キーワード 「雛祭(ひな)の宵」 か 小文字の 「 25281 → 「検索」 左の「過去ログ」に3番まで書かれていますが、 「旧過去ログ」にも1番だけ書かれていますね。 ------------------------------------------------------------------------- Re: 雪洞に灯を入るるとて めぐみ - 2004/03/04(Thu) 10:07 No.25995 うっかりしていました^_^; こもこもさま ありがとうございます。 ------------------------------------------------------------------------- Re: 雪洞に灯を入るるとて 下平 - 2004/03/04(Thu) 10:36 No.25998 ほんとうに有難うございました。 栄華の春も 移ろえば 雲北嶺に 群らがりて 六波羅の夢 破れよと 荒ぶは木曽の 青あらし この歌詞をお尋ねした時、すぐ、「薩摩守」という題で昔の高等小学校第一学年 の唱歌の本にあったことを、連絡いただきました。 今回も、今朝入力したのに、もうご連絡くださいました。 心休まる曲でしたので、そして長年捜していた曲でしたので、心からお礼申し上 げます。 めぐみ 様 こもごも 様 ほんとうに有難うございました。 ------------------------------------------------------------------------- Re: 雪洞に灯を入るるとて ちゃた - 2004/03/04(Thu) 11:37 No.25999 この前のNHKラジオ「歌の日曜散歩」でこの「雛祭の宵」が西六郷少年少女合 唱団の歌で流れていました。いかにも文部省唱歌らしい歌ですが、心に残るメロ ディですね。私には初めて聞く歌でした。 2番の2行目は「冠少しく曲がれるを」と「く」が入っているように聞き取れま した。 ------------------------------------------------------------------------- 訂正 深山 - 2004/03/04(Thu) 15:23 No.26001 前に書いたとき「く」が抜けていましたか。「少しく」が正しいのです。ご指 摘有難うございました。 ------------------------------------------------------------------------- Re: 雪洞に灯を入るるとて 下平 - 2004/03/04(Thu) 22:28 No.26007 ちゃた様、深山様 ご親切に有難うございました。 深山さんが書かれていた「冠すこし…」をコピーしましたが、その時かってに 「く」を入れてホームページへ載せました。 夜になってこの「掲示板」をみて、ちゃた様や深山様のご意見なり見解なり、 ご投稿を読ませていただき、頭が下がります。 再度お礼申し上げます。 有難うございました。 |
03 04(水) 天寿・天命 |
03 05(木) 米沢藩訪問の下調べ (二) |
<上杉治憲 - Wikipedia> |
伝国の辞 伝国の辞(でんこくのじ)とは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した 3条からなる藩主としての心得である。 内容は下記の通り。 一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候 一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候 右三条御遺念有間敷候事 天明五巳年二月七日 治憲 花押 治広殿 机前 伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。 |
人物・逸話 正室である前藩主の長女幸姫は脳障害、発育障害があったといわれている。 彼女は短い生涯であったが、2人は仲睦まじく暮らした(但し一度も交接すること無し)。 しかし後継者が絶えることを恐れた重役達の勧めで、治憲より10歳年上で 上杉家分家の姫である豊姫(お豊の方)を側室に迎えた。 35歳の若さで隠居し、実子がいたのに家督を前藩主・重定の実子・治広に譲ったのは、 重定が存命中に自分が養子に来た後生まれた治広に家督を継がせることで 養父を安心させたいという鷹山の心遣いだったとされる。 有名な「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、 成らぬは人の、為さぬなりけり[2]」 〔『上杉家文書』国宝の抜粋 上杉鷹山書状。弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん 『書経』)に由来〕の歌は 「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた[3]。 2007年(平成19年)に讀賣新聞が日本の自治体首長に対して行ったアンケートでも理想のリーダーとして 上杉鷹山が1位に挙げられている。 米沢藩中興の祖である鷹山は現在の米沢市民にも尊敬されている。その例として、他の歴代藩主は敬称なしで 呼ばれることがあっても、上杉鷹山だけは「鷹山公」と「公」という敬称を付けて呼ばれることが多い。 当時、米沢藩では直江兼続は奸臣扱いされており、法要すら憚られていたが、鷹山は兼続を再評価し 「上杉家で直江殿夫妻の法要も営まず、香典も添えないのは人情ではない」として200回忌を挙行、 香華料を捧げたという。 アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディや第42代ビル・クリントンが、日本人の政治家の中で 一番尊敬している人物として上杉鷹山を挙げたとして、話題になった事がある (英文で発表された内村鑑三の『代表的日本人』の影響によるものと考えられている)。 ケネディが鷹山について発言した際には、日本人から「Yozanとは誰か」と質問が出たとも言われる。 鷹山の知名度や人気が上昇した背景には、米国大統領が知っている有名人を日本人が知らなかった、 という驚愕の事実が背景にあると言われる。ただし現在の所、ケネディや クリントンが いつ、どこでこの発言を行ったかというソースが存在しないため、この逸話の正確性には疑問があると言われる。 |
改革について 鷹山存命中の藩政改革は、竹俣当綱をリーダーとして産業振興に重きを置いた前期の改革と、 前期の改革後の隠居から復帰した莅戸善政をリーダーとして、財政支出半減と産業振興をはかった 「寛三の改革」と呼ばれる後期の改革に大別される[4]。 鷹山が藩主だった前期改革を鷹山の功績として讃えるケースが多いが、前期改革は頓挫して隠居、 米沢藩の再建が実現したのは、鷹山隠居後実施された「寛三の改革」によるものであり、 幕府から美政を讃えられるほどの健全財政が実現したのは、鷹山の死の翌年である。 鷹山の改革のお陰で飢饉の時も餓死者が藩内から出なかったといい、鷹山の推奨したウコギの垣根も、 若葉は食用で苦味が有るが高温の湯や油で調理して現在でも食べられており、 根の皮は五加皮と言う滋養強壮剤になる。 |
脚注 [1] 実際、家臣団の人数は47万石の福岡藩にほぼ相当していた。 [2] 伝国社 特別展「上杉鷹山〜改革への道〜」 [3] 現代では鷹山の和歌の方が馴染みがあるが元々は武田信玄の名言をコピーしたもので、武田信玄の名言 「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」を変えて言ったものとされる。 「してみせて 言って聞かせて させてみる」の言葉を残しており、山本五十六 (武田家家臣山本勘助の子孫と伝えられる山本家の養子)も信玄の影響を受けたとされる。 [4] 鷹山の施政の多くは、米沢藩の礎を築いた直江兼続の事業を模範にしたものといわれる。 |