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折々の記 2009 B

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】02/21〜        【 02 】02/23〜
【 03 】02/25〜        【 04 】03/03〜
【 05 】03/06〜        【 06 】03/09〜



【 04 】03/03

  03 03 ひな祭り
  03 04 天寿・天命
  03 05 米沢藩訪問の下調べ (二)

03 03(火) ひな祭り

2月、むつみ会に出席しました。

その折、‘昔唄った歌で、好きな歌をあげてください’と誘われてこの歌を取りあげてお答えしました。

やっぱり、TVから流れてくる

    「うれしいひなまつり」 サトウハチロー作詞・河村光陽作曲

        1 あかりをつけましょ ぼんぼりに
          お花をあげましょ 桃の花
          五人ばやしの 笛太鼓
          今日はたのしい ひなまつり

この歌に比べてみると、[ 7 雛祭(ひな)の宵  ]のほうがいい。

以下、http://park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.228.htmlから転載したもの。



    [ 7 雛祭(ひな)の宵  ]

        1 雪洞に灯を 入るるとて
          電灯ことさら 消すもよし
          瓔珞ゆれて きらめきて
          物語めく 雛祭の宵

        2 十二一重の 姫君の
          冠少しく 曲がれるを
          直すとのべし 手の触れて
          桃の花散る 雛祭の宵

        3 官女三人の 真似すとて
          妹まじめの 振舞いに
          加わりたまう 母上の
          えまいうれしき 雛祭の宵

この曲が持っている独特の風合いは、歌詞の優雅さとともに、ほかの「ひなまつり」という節句の歌とは比較にならない。ほめすぎても可笑しいけれども、おっとりとした郷愁が漂っている。

大の大人が好きだというのも、この歌が持っている雰囲気というか、ほのぼのとした家庭の愛が歌詞の端はしにも読みとれて、いかにも日本の情緒が目の前に浮かんでくるからだ。しっとりとした安らぎを感ずる。

これを探し当てた事情は、 「折々の記」に説明した。




    「雛祭(ひな)の宵」(作詞者不詳 長谷川良夫作曲)

       長年、はっきりした歌詞を知りたいと思っていてURLを
       調べていたが、この歌詞は判らなかった。
       ところが、
       http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/bbs/yybbs.cgi?
       「なつかしい童謡・唱歌」の「たずね歌・さがし歌」の
       「掲示板」へ投稿したら、3時間ほどのうちに返事をいた
       だき、ここへ載せることができました。
       本当にありがたいことです。

    1 ぼんぼりに灯を 入るるとて
      電灯殊更 消すもよし
      瓔珞(ようらく)ゆれて きらめきて 
      物語めく 雛祭(ひな)の宵

    2 十二一重の 姫君の
      冠少しく 曲がれるを
      直すとのべし 手の触れて
      桃の花散る 雛祭の宵

    3 官女三人(みたり)の まねすとて
      妹まじめの 振舞に
      加わりたまう 母上の
      えまいうれしき 雛祭の宵

    「えまい」を広辞苑第四版でみると、次のようにでている。

    えまい【笑まひ】
      @ にこにこわらうこと。ほほえむこと。万一八
          「なでしこが花見るごとに少女らが えまいのにほひおもほゆるかも」
      A 花がひらくこと。永久百首「花の―のくちびるも見ず」


この曲が持っている独特の風合いは、歌詞の優雅さとともに、ほかの「ひなまつり」という節句の歌の比ではない。ほめすぎても可笑しいけれども、おっとりとした郷愁が漂っている。

私の好きな歌の一つである。

実は、この歌がわかったのは、「懐かしい童謡・唱歌」 
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html
というURLの「たずね歌・ちがし歌」という「掲示板」へ‘たずね歌’として投稿したところ、その結果、判ったものでした。


雪洞に灯を入るるとて 投稿者:下平 投稿日:2004/03/04(Thu) 07:45 No.25990

「雛祭」の歌

  雪洞に灯を入るるとて
  電灯ことさら消すもよし
  瓔珞ゆれてきらめきて
  物語めく雛の宵

で始まったと思います。
正しい歌詞をどなたか教えてください。 おねがいします。

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Re: 雪洞に灯を入るるとて めぐみ - 2004/03/04(Thu) 08:34 No.25991

下平さま おはようございます。
おっしゃってる歌詞と違いますし少ししか載ってなかったのですが
長野県の飯田市で昔唄われていた歌で
「ぼんぼりに灯をともすとて、電灯ことさら消すもよし、桃の花散るひなの宵」
というのがありました。これだけしか書いていませんのでお役に立ちませんが。

長野県の飯田市役所農政課から出ている
情報ガイド飯田 のページ
http://www.city.iida.nagano.jp/furusato/015/f1500.htm
ここのふるさと歳時記です。 

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Re: 「雛祭(ひな)の宵」 こもこも - 2004/03/04(Thu) 08:42 No.25992

「雛祭(ひな)の宵」 ♪ぼんぼりに灯を 入るるとて・・
今回も深山さんが歌詞を書いて下さっていますよ。
このページの上の 「過去ログ」 → 「P22」 → 「移動」 →
キーワード  「雛祭(ひな)の宵」 か 小文字の 「 25281 → 「検索」

左の「過去ログ」に3番まで書かれていますが、
「旧過去ログ」にも1番だけ書かれていますね。

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Re: 雪洞に灯を入るるとて めぐみ - 2004/03/04(Thu) 10:07 No.25995

うっかりしていました^_^;

こもこもさま ありがとうございます。

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Re: 雪洞に灯を入るるとて 下平 - 2004/03/04(Thu) 10:36 No.25998

ほんとうに有難うございました。

 栄華の春も 移ろえば  雲北嶺に 群らがりて
 六波羅の夢 破れよと  荒ぶは木曽の 青あらし

この歌詞をお尋ねした時、すぐ、「薩摩守」という題で昔の高等小学校第一学年
の唱歌の本にあったことを、連絡いただきました。

今回も、今朝入力したのに、もうご連絡くださいました。
心休まる曲でしたので、そして長年捜していた曲でしたので、心からお礼申し上
げます。

めぐみ 様
こもごも 様
ほんとうに有難うございました。

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Re: 雪洞に灯を入るるとて ちゃた - 2004/03/04(Thu) 11:37 No.25999

この前のNHKラジオ「歌の日曜散歩」でこの「雛祭の宵」が西六郷少年少女合
唱団の歌で流れていました。いかにも文部省唱歌らしい歌ですが、心に残るメロ
ディですね。私には初めて聞く歌でした。

2番の2行目は「冠少しく曲がれるを」と「く」が入っているように聞き取れま
した。

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訂正 深山 - 2004/03/04(Thu) 15:23 No.26001

前に書いたとき「く」が抜けていましたか。「少しく」が正しいのです。ご指
摘有難うございました。

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Re: 雪洞に灯を入るるとて 下平 - 2004/03/04(Thu) 22:28 No.26007

ちゃた様、深山様

 ご親切に有難うございました。

 深山さんが書かれていた「冠すこし…」をコピーしましたが、その時かってに
「く」を入れてホームページへ載せました。
 夜になってこの「掲示板」をみて、ちゃた様や深山様のご意見なり見解なり、
ご投稿を読ませていただき、頭が下がります。

 再度お礼申し上げます。 有難うございました。




佐久地方の「流し雛」がしられています。 桃の節句の由来を開いてみると、その説明が載っていました。

下伊那地方には佐久平のような風習は見られません。 でも、‘雛まつり’には 『雪洞に灯を入るるとて ……… 』 の歌が春を迎える節句によく似合うのです。

03 04(水) 天寿・天命

先日は通称 「おばあちゃ」 の小林昭治という同級生が亡くなった。 老生の年齢になると、年上の方も年下の方も亡くなった人が多い。

顔色がわるかったり、唇の色が良くなかったり、血圧が高かったり、それぞれ人にはその人の特徴がありますが、それぞれ天寿を全うしたものと思います。

あるいは、天命を全うしたものと思います。

養生如何もいろいろと評定できるんでしょうけれど、やっぱり、天寿を全うしたものと思います。

いくら母が恋しいといっても、いつかわ人は亡くなるものです。 死んでいくという言葉は耳障りになりますが、死んでいくものです。 死んでいくようになっているのでしたら、やっぱり天寿を全うしたと考えることがいいのです。

自殺した、と聞きますと何やら悔やまれたりしますが、よくよく考えてみますと、天命かもしれません。 天命だとしますと、天寿を全うしたと言ってもいいのです。

そういうことが正しいのです。 老生はそう思います。 亡くなった人はそれぞれ天寿を全うしたのです。

辞書によれば、天命というのは意味が三つあります。 

   (1)生まれた時から定まっている運命。 宿命。
   (2)天から授けられた寿命。 天寿。
   (3)天の命令。 天から与えられた使命。

天寿というのは辞書によれば、天から授かった寿命という意味だそうです。

生まれたときの命も天から授かったものとすれば、死んでいく寿命も天から授かったものなのですね。 あくまで日本人としての発想なのです。 そしてそれは正しいのですね。

03 05(木) 米沢藩訪問の下調べ (二)

山形県南部の米沢地方訪問の下調べで、その歴史までさかのぼるということはなかなか大変です。

OECD生徒の学習到達度調査は低下の一途をたどっています。

政治家は困ったことだと思っても、何らかの手立ても探し出せないようです。 さらに、教育それ自体の低下を憂いている学者や評論家にしても、誰にもわかる道標(ミチシルベ)すら立ててくれてはいません。

OECD生徒の学習到達度調査は低下に歯止めをかけ、教育の重要性に目覚めるきっかけが、江戸時代の藩校にあるとみています。

ですから、「天地人」の直江兼続に焦点をしぼって見ているのです。 それとともに、藩校による青年の育成および子育ての親の構えに焦点を絞って、風土の影響を見てきたいと願っているのです。

<上杉治憲 - Wikipedia>

   <上杉治憲 - Wikipedia>

    鷹山の実父は日向高鍋藩主・秋月種美。
    母は黒田長貞の娘・春姫。
     母方の祖母の瑞耀院が米沢藩第4代藩主・綱憲(吉良義央と富子(第2代藩主・定勝の娘)の長男)の娘である。
    1802年(享和2年)、52歳の時、剃髪し鷹山と号する。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山
    (しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。

    文政5年3月11日(1822年4月2日)、死去。享年72(満70歳没)。

まず「上杉治憲(鷹山)」をプリントアウトして見ていくと、次のサイトが必要となる。

   <秋月種美 - Wikipedia>

    種美は「国家の至宝は人材に有り」と述べているが、後に鷹山が成功したのは
    このような父親の藩政を見習ったためかもしれない。

   <高鍋藩 - Wikipedia>

    江戸時代中期、6代種美の次男は米沢藩(上杉氏)に入り、名君で有名な上杉鷹山(治憲)となるが、
    その兄に当たる7代種茂も、高鍋藩の歴代藩主の中の名君として、治績を上げた。
    1778年(安永7年)には藩校明倫堂を開いた。

   <竹俣当綱 - Wikipedia>

    上杉鷹山の改革助言者。
    漆・桑・楮(こうぞ)各百万本の植樹計画は、財源の回復と山間部の農村復興を目指した。

   <莅戸善政 - Wikipedia>

    上杉鷹山の改革助言者。

   <かてもの - Wikipedia>

    飢饉のときの食事指導書。

   <かてもの>

    飢饉のときの食事指導書。

   <上杉家の歴史>

    米沢藩歴代藩主総覧    米沢藩上杉家系図・外戚関係図    米沢藩上杉家の家格について
    米沢市発行「享保10年米沢城下絵図」    上杉家所領の変遷    東京上杉家ゆかりの地

   <山形県立米沢興譲館高等学校 - Wikipedia (米沢藩学館)(興譲館)>

    興譲館という校名は、「大学」の一節「一家仁一国興仁、一家譲一国興譲」から採られた。
    興譲とは、譲を興すとよみ、「恭遜の道を繁昌さすること也」(細井平洲、建学大意)

    1618年(元和4年7月) - 上杉景勝家老直江兼続が禅林寺(現法泉寺)に藩の学問所禅林文庫を創設。
    1697年(元禄10年6月) - 米沢藩第4代藩主上杉綱憲が学問所を建立。 (11月) 聖堂を造営。(藩校の始め)
    1771年(明和8年5月2日) - 第9代藩主上杉治憲(鷹山)が学問所を再興し、
                      招聘した細井平洲(紀徳民)を馬場御殿の松桜館に迎え学生に講授。
    1776年(安永5年5月19日) - 学館が落成し、藩校「興譲館」と細井平洲命名する。
                      (9月12日) 平洲再び米沢に入る。このとき学則(先生施教弟子是則・・)を揮毫し、
                      (9月19日)初めて学館に於いて書経を講じる。

   <複眼で読む上杉鷹山公秘話>

    上杉鷹山公秘話のホームページ。

   <細井平洲 - Wikipedia>

    明和元年(1764年)、米沢藩主となる上杉治憲(後の鷹山)が14歳のときに師となり、後に米沢藩が財政再建を
    成功させたことは有名である。3次に渡り米沢に下向し、講義を行っている。藩校興譲館は平洲が命名した。

    安永9年(1780年)、53歳の時、御三家の筆頭・尾張藩に招かれ、藩校・明倫堂(現・愛知県立明和高等学校)の
    督学(学長)になった。

    寛政8年(1796年)、69歳の時、第3次米沢下向。あらましを弟子の樺島石梁宛の書簡に詳述している。

    平洲が遺した言葉として、米沢藩主になろうとしていた上杉鷹山に送った「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして
    何をもって行なわんや」がある。要は「何をやるにしてもまず勇気が必要である」と言う意味である。

    米沢市の松岬神社に、上杉鷹山と共に祀られている。


( 上杉謙信のサイトに付記されているもの )


  伝国の辞

  伝国の辞(でんこくのじ)とは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した
  3条からなる藩主としての心得である。

  内容は下記の通り。

  一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
  一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
  一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
  右三条御遺念有間敷候事
  天明五巳年二月七日  治憲 花押
      治広殿  机前

  伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。



  人物・逸話

  正室である前藩主の長女幸姫は脳障害、発育障害があったといわれている。
  彼女は短い生涯であったが、2人は仲睦まじく暮らした(但し一度も交接すること無し)。
  しかし後継者が絶えることを恐れた重役達の勧めで、治憲より10歳年上で
  上杉家分家の姫である豊姫(お豊の方)を側室に迎えた。

  35歳の若さで隠居し、実子がいたのに家督を前藩主・重定の実子・治広に譲ったのは、
  重定が存命中に自分が養子に来た後生まれた治広に家督を継がせることで
  養父を安心させたいという鷹山の心遣いだったとされる。

  有名な「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、 成らぬは人の、為さぬなりけり[2]
  〔『上杉家文書』国宝の抜粋 上杉鷹山書状。弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん 『書経』)に由来〕の歌は
  「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた[3]

  2007年(平成19年)に讀賣新聞が日本の自治体首長に対して行ったアンケートでも理想のリーダーとして
  上杉鷹山が1位に挙げられている。

  米沢藩中興の祖である鷹山は現在の米沢市民にも尊敬されている。その例として、他の歴代藩主は敬称なしで
  呼ばれることがあっても、上杉鷹山だけは「鷹山公」と「公」という敬称を付けて呼ばれることが多い。

  当時、米沢藩では直江兼続は奸臣扱いされており、法要すら憚られていたが、鷹山は兼続を再評価し
  「上杉家で直江殿夫妻の法要も営まず、香典も添えないのは人情ではない」として200回忌を挙行、
  香華料を捧げたという。

  アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディや第42代ビル・クリントンが、日本人の政治家の中で
  一番尊敬している人物として上杉鷹山を挙げたとして、話題になった事がある
  (英文で発表された内村鑑三の『代表的日本人』の影響によるものと考えられている)。
  ケネディが鷹山について発言した際には、日本人から「Yozanとは誰か」と質問が出たとも言われる。
  鷹山の知名度や人気が上昇した背景には、米国大統領が知っている有名人を日本人が知らなかった、
  という驚愕の事実が背景にあると言われる。ただし現在の所、ケネディや クリントンが
  いつ、どこでこの発言を行ったかというソースが存在しないため、この逸話の正確性には疑問があると言われる。



  改革について

  鷹山存命中の藩政改革は、竹俣当綱をリーダーとして産業振興に重きを置いた前期の改革と、
  前期の改革後の隠居から復帰した莅戸善政をリーダーとして、財政支出半減と産業振興をはかった
  「寛三の改革」と呼ばれる後期の改革に大別される[4]

  鷹山が藩主だった前期改革を鷹山の功績として讃えるケースが多いが、前期改革は頓挫して隠居、
  米沢藩の再建が実現したのは、鷹山隠居後実施された「寛三の改革」によるものであり、
  幕府から美政を讃えられるほどの健全財政が実現したのは、鷹山の死の翌年である。

  鷹山の改革のお陰で飢饉の時も餓死者が藩内から出なかったといい、鷹山の推奨したウコギの垣根も、
  若葉は食用で苦味が有るが高温の湯や油で調理して現在でも食べられており、
  根の皮は五加皮と言う滋養強壮剤になる。



  脚注

  [1] 実際、家臣団の人数は47万石の福岡藩にほぼ相当していた。
  [2] 伝国社 特別展「上杉鷹山〜改革への道〜」
  [3] 現代では鷹山の和歌の方が馴染みがあるが元々は武田信玄の名言をコピーしたもので、武田信玄の名言
    「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」を変えて言ったものとされる。
    「してみせて 言って聞かせて させてみる」の言葉を残しており、山本五十六
    (武田家家臣山本勘助の子孫と伝えられる山本家の養子)も信玄の影響を受けたとされる。
  [4] 鷹山の施政の多くは、米沢藩の礎を築いた直江兼続の事業を模範にしたものといわれる。