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続折々の記 2023 ②
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 03 】02/03
  井上井月  江宮隆之:河出書房新社
  五輪書  岩波文庫 宮本武蔵
  日本の音  平凡社 小泉文夫
  戦争とプロパガンダ   みすず書房 2002 エドワード・サイード

 2023/02/03
井上井月    https://1000ya.isis.ne.jp/0454.html

   世の塵を降りかくしけり今朝の雪

 芥川龍之介の担当医に下島勲がいた。信州伊那谷の出身で上京して田端に開業した。芥川は『田端人~わが交遊録』をこの下島の紹介から始めている。「下島先生はお医者なり。僕の一家は常に先生の御厄介になる。又空谷山人と号し、乞食俳人井月の句を集めたる井月句集の編者なり」と。
本書は、その下島が句集を編んだ井上井月についての”伝説”をまとめたもので、妙に温かい。
上伊那郡原村(現・駒ヶ根市)出身。上京後苦学して商業学校、ついで東京慈恵医院医学校を卒業し軍医となる。日清戦争・日露戦争などに従軍して陸軍一等軍医となり、1907年軍隊を退く。同年、東京都田端348番地(現・東京都北区田端1丁目15番)に、楽天堂医院を開業。田端鉄道病院に嘱託医師としても勤めた。書画・俳句などを通じて芥川龍之介・室生犀星・久保田万太郎・菊池寛・板谷波山・萩原朔太郎ら多くの文士・彫刻家・画家などと親交を深めた。「道閑会」という田端在住の文士・芸術家達の交流の会の主要メンバーを務めた。芥川とは特別懇意になり主治医としてその最後を看取った。また郷里の伊那に埋もれていた井上井月を紹介した[1]。甥に下島連がいる。

 井月をしばしば放浪俳人という。しかし、どうもこれはあたらない。もともとは武士だったし、旅はよくしているが、放浪はしていない。ただいっさいの栄達を捨て、赤貧を厭わず、侘び住まいに近い日々を伊那谷に送った。どちらかといえば、一茶・良寛に並べて議論したほうがふさわしい。時代も近い。
 仮に放浪俳人だとしても、よく並び称される山頭火や放哉ほどに知られていないのは研究書も一般書も少ないからにすぎず、その俳句を知ればむしろ山頭火や放哉を凌ぐ深みのある句風に驚かされるにちがいない。
種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ しょういち)[1]、1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い[1]。 山口県佐波郡(現在の防府市)の生まれ。『層雲』の荻原井泉水門下。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。 半生を行乞流転の旅に生き、自由律俳句に命をかけた。しかし、当初から自由律に傾斜していたのではなく、むしろ定型俳句を専らにしていた。それが荻原井泉水の影響で、自由律へと傾いてゆくのだが、山頭火らしさが出るのは出家得度後のことであった。そこから俄然異彩を放ちはじめ、肩の力を抜いた平明無技巧な句風を身上とした。しかし、いかに即興即吟とはいえ、句の背後には、作者の重い境涯が横たわっている。 放浪の旅で親しんだ自然は、いつしか山頭火と同化し、自他の境目がなくなり、対象との対立緊張関係がうすめられてしまう。これは他の近代俳人にはない特異な現象といえる。
 たしかに魂は放浪者である。
 が、自由律の俳句ではない。正統の蕉風だ。実際にも芭蕉を慕った。慕ったというよりも、蕪村についで芭蕉を”再発見”した一人といってよい。それかあらぬか、写生が効いている。よく凝視し、よく耳をそばだてている。こんな句である。

   染め急ぐ小紋返しや飛ぶ小蝶
   のぼり立つ家から続く緑かな
   若鮎や背すじゆるさぬ身のひねり
   およびなき星の光りや天の川
   折ふしは人にもかざす日傘かな
   鶏頭やおのれひとりの秋ならず
   霧晴れや実りを急ぐ風の冷え

 そうとうに、うまい。「のぼり立つ家からつづく緑かな」とか、「霧晴れや実りを急ぐ風の冷え」とか。鮮やかでもある。「染め急ぐ小紋返しや飛ぶ小蝶」とか、「若鮎や背すじゆるさぬ身のひねり」とか。芥川が惚れたというのもよくわかる。

 井上井月は文政5年に越後高田藩に生まれた。7歳で養子に出されて長岡藩に移った。良寛と時代も生まれも近いようだが、良寛は井月が7歳のときに死んでいる。
 17歳で江戸に出る。昌平黌に入って首席、さらに古賀茶渓の塾に学んだ。ここまではどこが放浪俳人なのかとおもうが、やがて芭蕉を知ってから少しずつ変わっていく。そこへ弘化元年に上信越に大地震がおきて妻と娘と叔父伯母を一挙に失った。知らせとともに江戸に土くれ二塊が届けられる。娘に買い与えた土雛だった。井月は慟哭し、このときに武士を捨てた。俳諧にのめりこむのはこの直後からである。桜井梅室の門に入った。
 同じ長岡から前後して江戸に出てきていた後輩の河井継之助は井月の将来を惜しんだが、井月の意志は堅かったようだ。継之助はその後は山田方谷に学んで異例の出世をとげた。方谷は今日の日本が読むべき陽明学をもっている。
 しかし井月はひたすら芭蕉に憧れた。とりわけ『七部集』を偏愛し、かつての蕪村がそうであったように『野ざらし紀行』に没入していった。「野ざらしを心に風のしむ身かな」である。

 井月は旅に出ることにする。まず、京都に移っていた梅室を訪ねたが、あいにく梅室は死んでいた。  そこで芭蕉を追って奥の細道を逆に辿ることにした。まず芭蕉が生まれた伊賀である。それから日本海に向かっていった。さらには『更科紀行』の足跡を辿る。そして、その行く先々で芭蕉の句に合わせた句を詠んでみる。こんな合わせ技の妙である。

   象潟や雨に西施が合歓の花(芭蕉)
     象潟の雨なはらしそ合歓の花(井月)
   俤(おもかげ)や姥ひとり泣く月の友(芭蕉)
     山姥も打か月夜の遠きぬた(井月)
   不性さやかき起されし春の雨(芭蕉)
     転寝した腕のしびれや春の雨(井月)
   けふばかり人も年よれ初時雨(芭蕉)
     今日ばかり花も時雨れよ西行忌(井月)

 俳号の井月とは井戸に映る月ともいう意味だが、また四角い月でもある。井月がみずから矛盾と葛藤を背負う気になったことをよく象徴している。
 結局、井月は信州の伊那谷に入って、ここが気にいる。伊那谷は井月を温かく迎えたようだ。井月にはこの村の人々は福寿草のように見えた。幕末が近づいて、その伊那谷にも尊王攘夷の足音が聞こえてきた。ちょうど『夜明け前』の時代に重なっている。が、井月は青山半蔵とはちがって、ひたすら俳諧と、そして堪能な書にあけくれようとした。井月は書も名人級だった。これは想像だが、おそらく剣の心得もあったかとおもう。
 しかし、生き方はあくまで春風に身を任せ、秋雨に心を委ねるところに徹した。その気分は句によくあらわれている。

   菜の花のこみちを行くや旅役者
   山雀や愚は人に多かりき
   山笑ふ日や放れ家の小酒盛
   葉桜となっても山の名所かな

 時代は明治に入る。けれども時代の価値観の転倒は井月を動揺させてない。よし女という女にも惚れた。
 伊那谷に芭蕉庵をつくろうともした。そうした井月の執着に共感したのが医者の下島勲なのである。芥川に井月を教えた医者だ。下島は井月の句集も編んだ。
 いま、井上井月を読むということは、かなり時代錯誤をすることになるだろうとおもう。けれども、では井月よりもましな生き方をして、井月よりも味のある句をつくり、井月よりおもしろい字を書いている者がどこかにいるのかというと、すぐには見つからない。
本書をヒントに井月を知ってもらいたかった。

   松よりも杉に影ある冬の月

参考¶『井月全集』『井上井月全句集』が伊那毎日新聞社から刊行されている。そのほか春日愚良子に『井上井月』(蝸牛俳句文庫)、(『何処やらに』(ほおずき書籍)、清水昭三に『俳人・石牙井月の客死』(新読書社)、宮脇昌三に『井月の俳境』(踏青社)があるが、まったくメジャーの出版社ではとりあげられてこなかった。本書が最初であろう。著者はぼくより若い歴史作家。

 2023/02/03
五輪書    岩波文庫 宮本武蔵

 万里一空である。「山水三千世界を万里一空に入れ、満天地とも攬る」という心を題に、「乾坤をそのまま庭に見る時は、我は天地の外にこそ住め」と綴った。天地の外に住むというのが武蔵らしいところで、修行者としてどこか他所に目を向ける気概がある。空じているといえばたしかにそうであるが、その空を目の端に捉える余裕がある。
よく武蔵の兵法を「命がけの実利主義」ということがある。小林秀雄などもそういう感想を書いていた。けれども『五輪書』を読むかぎりは、そういう逼迫したものは感じない。むしろ武蔵は、武芸者はどちらかといえば大工に似たもので、達者でいるにはたとえば大工のように「留あはする事」をよく吟味するのだと綴った。これは留め打ちに通じる。またしきりに「ひやうし」という。拍子である。拍子に背くのが一番まずいことで、そのために拍子をこそ鍛練しなさいという。「さかゆる拍子」「おとろふる拍子」、さらに「あたる拍子」「間の拍子」「背く拍子」があるのだから、それによっておのずから打ち、おのずから当たる。それに尽きるというのだ。
こういう武蔵の言いっぷりは奥義を極めた者が秘伝を語るときの自信に満ちていて、坂口安吾のような者には我慢がならない訳知りに映るらしい。たしかにたいしてうまくない芸人の芸談にそういうことを感じることも少なくないが、『五輪書』に関しては、読めばそんな気持ちはめったにおこらない。安吾にしておそらくは吉川英治の作品武蔵から派生した感想か、『五輪書』を読んでいないかであろう。

武蔵が『五輪書』を綴りはじめたのは60歳のときで、それから2年後に筆をおき、すべてを了解したようにその2ヵ月後に死んだ。熊本雲巌寺近くの霊巌洞でのことである。60歳で綴っている武人の文章に訳知りは当たらない。
武蔵は慶長17年(1612)、29歳のころに豊前の船島で巌流佐々木小次郎と対決したのち、いったんは小倉藩にいたのだが、その後は杳としてその姿を消した。一説には、明石藩主の小笠原忠真に招かれて客分となり、明石の町割を進言したとも、そのころ養子として伊織を迎えて円明流を編み出したとも、小倉に赴いたのはその伊織だったともいわれる。また一説には、武蔵は尾張の柳生家に厄介になったとも、いっとき江戸に下って小河久太夫や遊女雲井と交わったのち、寛永14年には島原の乱の帷幕に参じたともいう。ともかくも細川忠利五十四万石の熊本の地に現れたのは、寛永17年(1640)の8月のこと、巌流島の決闘から28年もたってからのことである。そのあいだ、何をしていたかは実はまったくわからない。それからはまるで禅僧めいて、宮本二天として絵筆をもつ日々のほうが多い。《闘鶏図》《蘆雁図》など、さすがに気韻生動の呼吸をもっている。
五輪の書とは、地水火風空の“五輪五大”にあてはめて武芸兵法の心得を綴ったもので、地の巻から順々に空の巻に進んでいく。最後に「独行道」を書いたのが死の数日前だった。それが万里一空の心境である。これを三十五ヵ条の覚書にまとめて、忠利に奉呈した。
武芸書だから剣法の実技について書いてあるかというと、これがあまりない。むしろ心得ばかりであり、ときに禅書と見まちがう。それでは武芸に関係のないことばかりかというとそうではなくて、ほとんどの文章が武芸の構えや用意や気分にふれている。この、就いて離れ、放して突き、離れて着くところそこが武蔵なのである。

少しわかりやすく紹介してみる。
水の巻でいえば、まず太刀の持ちかたがある。これはぼくが九段高校で湯野正憲師に剣道を習っていたころ(九段では剣道は正課に入っていた)、「宮本武蔵はこんなふうに剣を持った」と説明され、試してみたがまったくできなかった。どういう持ちかたかというと、親指と人差し指を浮かすように持ち、中指は締めず、薬指と小指を締める。これをやってみると、薬指と小指を締めるのはちょっと稽古をすればできるのだが、そうすると親指にも力が入る。親指と人差し指がなかなか柔らかく浮いてはくれない。武蔵はそれでは「しぬる手」になると戒めた。おまけに中指の使いかたがわからない。
足づかいでは、爪先を少し浮かせて、踵を強く踏むのがよく、どんなばあいも「あゆむがごとし」を重視する。飛足・浮足・踏足は絶対に避けなさいとも書いた。これも容易ではない。立ち会いの試合をしてみればすぐわかってくるのだが、どうしても打ち込みの気分に入ったとたんに飛足が出る。だいたい爪先を少し浮かせたままでは打ち込めない。また、少し間合いがとれない対峙が続くと、踏足になる。
それでもなんとかこういうことができたとして、太刀を振るにあたっては「太刀をはやく振らんとするによつて、太刀の道さかひて振りがたし」と言うのだが、これがまったくできない。太刀をはやく振るなと言われても、相手に斬りこむときにどうしてもはやくなる。が、それはいけないというのが、会得できない。「振りよいように静かに振りなさい」というけれど、その意味はわかっても手につかない。やってみると、そういうことが伝わってくるのだ。
ぼくには武蔵の真似すらできないにもかかわらず、うっかりするとそのような気分が少しだけ擦過するときがある。そのときの感想をいうと、ふいに胸が大きく開いていることが実感できるのである。爪先を浮かし、親指が少し離れ、ああこのときかとおもって振り下ろすと、それまで知らなかった胸がちょっと開くのだ。
が、ここまでは準備である。ぼくはまったくお手上げだが、武芸者によっては素振りで練習できなくもない。けれども、剣法には相手がいる。太刀をうまく持てたとしても、相手が何をするかがわからなければ何もできない。しかも武蔵の時代は日本刀の真剣だ。そうとうな恐怖だったろう。
ところが武蔵は、相手のことを知るにはその先端だけを知れと言う。真剣の先端である。そこに「先」という言葉が出てくる。

火の巻にいう「三つの先」は、まず「懸の先」がある。これはこちらから懸かるときのことで、懸かる直前の思いきりを重視する。思いきりは「思いを切る」ことである。「待の先」は相手が懸かってきたときに引いてのちに打つ。相手の拍子を外すのだが、その外した瞬間にむこうの拍子がなくなる前にこれを引き取っている。そこがすさまじい。
最後の「躰々の先」はこれらが互いに交じる。組み合わさる。組み合わさるのだが、そこに「枕をおさゆる」ということがある。これはすこぶる興味深く、武蔵の独得の言いかたでは「うつの“うの字”のかしらをおさへ、かかるの“かの字”をおさへ、きるといふ“きの字”をおさゆる」というふうになる。「う」と「か」と「き」のドアタマを衝くわけだ。相手が飛ぼうとすれば、その「と」の字のところで決着をつけるわけで、これがいわゆる「気ざし」ということになる。このとき喝と突いて、咄と打つ。武蔵はそれを「喝咄といふ事」といった。喝咄とはいかにも武蔵らしい。
ともかくわれわれ凡人にはとうていできそうもないようなことばかりだが、そういうふうに自信がないときは、「角にさわる」「まぶるる」「かげを動かす」ということをしなさいとも勧める。そういう用意周到がある。
角にさわるのは相手の動きや技の角を確かめることである。まぶるるのはそのためいささか相手と押し合ってみることだ。かげを動かすのは相手の心が読めないので、あえてこちらの強引を見せることにあたっている。とくに相手の「角」を感じなさいというのがなかなかだ。たしかに人の心の動きというものには角がある。

こんなぐあいに『五輪書』は絶妙の間合いの話が次々にあらわれて目を奪うのであるが、とりわけ「縁のあたり」「場の次第」「けいきを知る」「渡をこす」が絶妙である。
(一)「縁のあたり」とは、簡単にいえばどこでも打ちやすいところを打ってよいという心得で、それだけなら何のこともなさそうなのだが、それが相手と自分の「縁」で決まるというところ、それもその縁が感じられれば、その縁の「あたり」を打てというのが恐ろしい。
(二)「場の次第」は場を背負ってしまえということで、実際の果たし合いではその時刻の日光を背負うことも入ってくる。さかんに時代劇の剣士たちがやってみせることだが、背負うのは太陽だけではなく、本当は場そのものの大きさと小ささなのだ。
(三)「けいき」は景気である。その場、その人の景気の盛んなさま、景気の衰えのさまによって兵法が変わっていくことをいう。ぼくも景気については『花鳥風月の科学』に「景気の誕生」という副題をつけたように、景気というものは日々の感覚の先端が感じとるべきもので、なにも経済企画庁や「日経新聞」のデータや噂に頼ることではないと思ってきた。景気は近くに落ちている。武芸においてもその景気をつねに見て、手足の先に感じていることが大事だというのだ。剣は景気なり、なのである。
しかしおそらく、『五輪書』で最も絶妙なのは「渡をこす」である。たとえば海を渡るには“瀬戸”を越えたかどうかという一線があり、四十里五十里の道にも度を越せたかどうかということがある。
これは長きも短きも同じことで、その「渡」を越したかどうかを体や心でわかるべきなのである。武蔵は人生にも「渡」があって、その「渡」が近いことを全力で知るべきだと言っている。それがまた短い試合の中にも外にもあって、その僅かな瞬間にやってくる「渡」にむかって全力の技が集まっていく。そう、言うのである。
なるほどわれわれにもつねに“瀬戸際”というものがある。ところがその瀬戸が近づいてくるところがわからない。たいていは急に瀬戸際がくる。武芸にはその瀬戸をはやくから知る方法がある。『五輪書』というもの、一言でいうなら、この瀬戸際をこそ問うていた。

附記¶武蔵の『五輪書』は自筆本が現存しない。武蔵の没後二十余年をへて寛文7年(1667)に、寺尾孫之丞が門人の山本源介に宛てた巻子本があるばかりで、これはいまは細川家の永青文庫に所蔵されている。複製はその永青文庫が昭和45年(1970)に頒布した。岩波文庫のほかに、「日本思想大系」の『近世芸道論』にも所収された。もっとも『五輪書』をめぐっては、多くの参考書がある。たとえば奈良本辰也『五輪書入門』(徳間書店)、戸部新十郎『考証宮本武蔵』(光風社)、桑田忠親『宮本武蔵・五輪書入門』(日本文芸社)、吉川英治『随筆宮本武蔵』(六興出版)、司馬遼太郎『真説宮本武蔵』(文藝春秋)、鎌田茂雄『五輪書』(講談社学術文庫)、谷沢永一『五輪書の読み方』(ごま書房)、寺山旦中『五輪書・宮本武蔵のわざと道』(講談社)、それに実像に迫った久保三千雄『宮本武蔵とは何者だったのか』(新潮選書)、加来耕三『宮本武蔵事典』(東京堂出版)など。

 2023/02/03
日本の音    平凡社 小泉文夫

 こんな魅力のある人は少ない。民族音楽の探求者としても、日本音楽の再発見者としても、その楽器愛においても、声の柔らかいところも、笑顔が最高だったことも、みんなとの遊び方も。
 残念ながらぼくは3度しか会っていないし、家に遊びにいって民族楽器をいじらせてもらったのも1回で終わってしまった。もっと会っておきたかった。
 小泉さんは急に死んでしまったのである。56歳だった。
 少なめの著書は残っているし、ビデオもある。多くの者が影響をうけてもいるから、後継者も少なくない。けれども、もっと生きていてほしかった。ぼくが民族音楽に関心をもち、そのまま日本音楽にも現代音楽にも入っていけたのは、順にいえば杉浦康平(参考:自著本談『遊』)と小泉文夫と、そして武満徹のおかげだった。
 その小泉さんの紹介に本書が一番ふさわしいかどうかはわからない。ぼくは小泉さんの本をすべて読んできたが、いまの気分で『音楽の根源にあるもの』がいいか、『呼吸する民族音楽』がいいか、『音のなかの文化』がいいか、ともかく全部読んでもらいたいのだから、一冊を選べない。とりあえず『日本の音』にした。小泉さんの短すぎたけれど貴重きわまりない生涯については、岡田真紀さんの『世界を聴いた男・小泉文夫と民族音楽』(平凡社)を読んでもらいたい。坂本龍一が帯を書いている。

 本書は「世界のなかの日本音楽」というサブタイトルがついている。最初に「普遍性の発見」とあって、日本音楽は特殊でもないし未発達でもないことが強調される。
 このテーマは小泉さんの独壇場のもので、とくに4種のテトラコルドをもってさまざまな日本音楽の特質を”発見”したことが有名だった。「民謡のテトラコルド」「都節のテトラコルド」「律のテトラコルド」「琉球のテトラコルド」である。テトラコルドというのは2つの核音にはさまれた音階の枠のことをいう。
 日本音楽は主に5音音階をつかうのだが、わらべうた・三味線・尺八などの音楽ではこの4種のテトラコルドを絶妙に組み合わせてつかっている。5音音階とは1オクターブの中に5つの音があるということで、その成り立ちからみると、2つのテトラコルド、すなわち4度の枠でできあがっているというふうになる。

 「民謡のテトラコルド」では、下から数えて短3度のところに中間音がくる。わらべうたや民謡で最も重視されているテトラコルドだが、小泉さんはそれが朝鮮・モンゴル・トルコ・ハンガリーにも共通していることを“発見”した。のちにこれは「ラレ旋法」とも名付けられた。
 「都節のテトラコルド」では中間音が短2度のところにくる。このテトラコルドを二つ積み重ねると、いわゆる「陰音階」、すなわち都節になる。わらべうた「ひらいたひらいた」にはこの陰音階が最初に出てくる。
 ぼくが最初に惹かれていったのが、この都節のテトラコルドだった。ここからほくは常磐津に、富本に、さらに清元へと入っていったものだったけれど、小泉さんはそれがインドネシアやアフリカにもあることを、手元の楽器をつかってにこにこしながら説明してくれたものだ。そういうときの小泉さんは陽気な魔法使いのおじさんのようだった。
 「律のテトラコルド」は雅楽を成立させている枠組で、長2度の中間音をもつ。律というのは、古代中国の音楽理論であった「宮・商・角・微・羽」の5音音階で構成した「律」(ドレファソラ)と「呂」(ドレミソラ)の音階システムから派生して日本に定着したもので、しばしば「呂律がまわらない」などと日常にも言われる、その律である。『越天楽』『君が代』(言葉の景色『陸達唱歌』もどうぞ)が律の音階の代表だろう。いわば「ソレ旋法」である。
 この「律のテトラコルド」がひとつ落ちていって、のちに確立してきたのが「都節のテトラコルド」なのであることも、小泉さんが最初に言い出したことだった。
 「琉球のテトラコルド」は長3度の中間音をもつもので、日本では沖縄にしか見られないが、アジアに耳を澄ますと、台湾・インドネシア・インド・ブータン・チベットに同じテトラコルドが生きていることがわかる。元ちとせの歌がそうであるように、これは「ソド旋法」である。

 日本の伝統音楽は、たいていこれらのテトラコルドを組み合わせている。  たとえば『通りゃんせ』は空間的にいえば、下に「民謡のテトラコルド」をおき、その上に「都節のテトラコルド」を櫛の歯のように差していった。上下の真ん中に共通の核音があることをいかした工夫なのである。こういう方法をコンジャンクションという。
 これに対して、沖縄の『たんちゃめ節』のように1音離れて接続させる方法をディスジャンクションという。  このコンジャンクションとディスジャンクションの話もよくしてくれた。たしか、観世流の弱吟(よわぎん)は民謡と同じコンジャンクトからディスジャンクトに移っているところに特徴があるんですよといったふうに。
 このときは、もっと話が脱線していって、たとえば「松岡さんが好きだという森進一ね、あれは新内なんでです。西洋音楽のいっさいから自由になってますね」とか、「ピンキーとキラーズの『恋の季節』はね、あれは何だと思います? 『あんたがたどこさ』なんですよ。ラドレミソラのね」といった話も次から次に出て、ぼくはもう感心したっきりだったのである。

 小泉さんがこのように、日本音楽を外からも内からも見るようになったのは、はっきりは知らないが「追分」に注目してからだったとおもう。
 「追分」や「馬子唄」はどう分析しようとしても西洋のリズム理論でも西アジアの例でも解けないものがある。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」を尺八と民謡で聞けばわかるように、ここには自由リズムとしかいいようのない「ひっぱり」と「つめ」があって、どうにも理詰めで解釈できないものがある。では、それはどこから来ているのかというようなことを考えていったのだろうとおもう。
 そこで小泉さんは能の「序破急」を音楽の序破急に拡張して研究したのではなかったか。前の音や音程が次の音を有機的に結びつけていくという方法の研究だ。しかし、この有機性がなかなか正体をあらわさない。しかも日本音楽には、インドのようにテンポを基本的には二つに分けるというような、見かけはあるにもかかわらず、どうも見かけとは別の進行がある。
 こうして、しだいに日本における「拍子」とは何かというすこぶる興味深い問題に突っ込んでいったのであろう。つまり「間」の問題だ。
 いまではよく知られたことだが、日本音楽の拍子では西洋のような強弱の拍ではなく、表の拍、裏の拍というふうに捉えるところがあって、それを「表間」「裏間」とよび、この2拍子でひとくくりしている。これが一組の「間拍子」なのである。ということは「追分」や「馬子唄」では、この間拍子をきっと馬の進み方や旅の急ぎ方によって、さらに自在にしているということなのである。
 これに気が付いてからの小泉さんは、もはや向かうところ敵なしだったとおもう。

 ぼくもこんな話をよく聞いた。
 「いま手鞠唄が唄われなくなったのはね、それは手鞠がゴムボールになったからですね。だってゴムボールはポンポン撥ねて速いリズムになっていく。これでは手鞠唄は合いません。あれは糸を巻いてつくったものなんですから」。
 「エスキモー(イヌイット)の歌を収集したんですが、あれはまさに呼吸音楽ですね。寒いからゆっくり息を吐いていたら凍えてしまうんです。だから早い呼吸で口元からリズムを出していく。エスキモーの人は体を鞴(ふいご)のような楽器にしているということなんですねえ」

。  こういう話をする人がいなくなってしまったのだ。誰かがこんなことをまた言ってほしいものである。たとえば、こんなぐあいに。
「ねえ、浜崎あゆみっていますね。あれはちょっとブルースをまぜた豊後節ですね。でも豊後節にしてはハリがない」。

参考¶小泉文夫の著作は以下の通り。『日本伝統音楽の研究』『日本伝統音楽の研究2リズム』(音楽之友社)、『世界の民族音楽探訪』(実業之日本社)、『音楽の根源にあるもの』『エスキモーの歌』『空想音楽大学』『民族音楽研究ノート』『おたまじゃくし無用論』『呼吸する民族音楽』『音のなかの文化』(青土社)、『日本の音』(平凡社)、『歌謡曲の構造』『小泉文夫フィールドワーク』(冬樹社)、『民族音楽』(放送大学教育振興会)、『小泉文夫民族音楽の世界』(日本放送出版協会)、『子どもの遊びとわらべうた』(草思社)。

 2023/00/00
戦争とプロパガンダ   みすず書房 2002 エドワード・サイード
   Edward W. Said : War and Propaganda : [訳]中野真紀子・早尾貴紀

キリスト教徒のパレスチナ人としてエルサレムに生まれる。父親はエジプトのカイロで事業を営んだが、サイードはエルサレムにあった叔母の家で幼年期の多くの時間を過ごしたほか、レバノンでも暮らした。アラビア語、英語、フランス語の入り混じる環境で育ったため、3つの言語に堪能となる。14歳になる頃にはヴィクトリア・カレッジ(英語版)に通った。この時期の生活については、自伝『遠い場所の記憶』に詳しい。 アメリカ合衆国へ移住後、学士号をプリンストン大学、修士号と博士号をハーバード大学にて取得した。英文学と比較文学の教授をコロンビア大学で40年間務めた(1963年~2003年)ほか、ハーバード大学、ジョンズ・ホプキンス大学、エール大学でも教鞭を執った。『ネーション(英語版)』、『ガーディアン』、『ル・モンド・ディプロマティーク』、『アルアハラム』、『アル・ハヤト』などの雑誌に寄稿しつつ、ノーム・チョムスキーらとともにアメリカの外交政策を批判し、アメリカ国内で最大のパレスチナ人とアラブ人の擁護者として発言を続けた。同い年の大江健三郎を評価していた。 晩年は白血病を患って教鞭をとることもまれだった。2003年9月25日、長い闘病生活の末に、ニューヨークで没した。67歳だった。  ①エドワード・サイードが亡くなった。最後に見た新聞写真に衰弱の気配が刻印されていたので驚いたのだが、それから数ヵ月後の死だった。ウェブサイトに『戦争とプロパガンダ』を遺した。
 ②イラクで日本大使館員が2人射殺された。ブッシュのイラク戦争はまだ終わらない。日本はいよいよ自衛隊派遣の決断を迫られている。
 ③イスラエルとパレスチナのあいだでは「仮の和解」がまたまた遠のいている。
 ①②③から見て、サイードの死が象徴的だというのではない。象徴的ではないというのでもない。考えることが多すぎると言いたい。考えることが多いのは、①②③を同時に受けとめるのは、現在の日本人の思考ではきっと灼けつくか、ひりつくほどの問題だということである。われわれはたとえば北朝鮮問題ひとつをとってみても、国民として(また政治家や役人や知識人として)、ほとんど灼けつきもしていないし、ひりつきもしていないままにある。こういう問題を文学や映画にもしえないままにある。

 サイードはエルサレムに生まれて、カイロで教育を受け、プリンストンとハーバードで学位をとった。『始まりの現象』(法政大学出版局)、『オリエンタリズム』(平凡社ライブラリー)、『文化と帝国主義』(みすず書房)はそのすべての越境的キャリアを賭けた著書であり、告発だった。
 こうしてサイードは西洋知の系譜に「オリエンタリズム」の偽装を見いだして、西洋と東洋の対立は捏造であることを指摘した。ここにはサイード自身が西洋植民地主義の辛酸を嘗めさせられたパレスチナ人として体験してきた「個は類である」「類は個である」という歴史的経緯が含まれている。
 これに対してわれわれは、近代日本が帝国主義の仲間入りをすることによって、やっとこさっとこ「西洋の知の系譜」を学んだという経緯をもっている。そこでは、「個」は西洋的な力を借りたものとしてあらわれ、そのうえ近代自我と日本人とが社会史と個人史の両方でぶつかった。一方、多くの日本人にとっての「類」は人類か、日本コミュニティに住む者かのどちらかなのである。アジアなんて、入っていない。このことは多くの日本人における「公」と「私」に対する認識の仕方を見るだけでも、およそ察しがつく。それゆえぼくが知るかぎりでは、「個としての日本人」を強く打ち出した知識人はめったにいなかった。
 ①②③が同時に並ぶと、問題がきわめて難解に軋んでくるもうひとつの理由がある。それはサイードの指摘したオリエンタリズムにおけるオリエントとは、おおむね中東やアフリカを含むアラブ社会をさしていたということだ。サイードはだから、中東に生きる者は一個の「個」であろうとする前に、「アラブ人、セム族、イスラム教徒、中東の多民族」とみなされてきたことを深彫りしてみせた。この中東感覚が日本人にはとらえにくいものになっている。

   日本には中東やアラブは近代史ではまったく登場しなかったし(むしろ先端的知識人はマルクス主義やエスペラント語のような「世界」を好んだ)、現代史においても石油輸入先であることを除くと、イスラムの社会文化を含めて、やはり疎遠のままだった。日本にとっての中東がいったい何であるのか、われわれは子供たちに説明できたためしがない。
 こういう見方は逃げ口上ではないかとも言われよう。たとえば問題を日本と朝鮮半島の問題に置き直しさえすれば、サイードの提起した問題はわれわれにも理解できるはずだということになる。ユダヤ民族やイスラエルの歴史ほどは古くないが、日本と朝鮮の関係は歴史資料があきらかにしているだけでも、紀元前後にまで、あるいは稲作到来あたりまでさかのぼる。「分かれて百余国」にはアジアが入っていた。清盛は日宋交易を好み、義満は明の皇帝の臣下になろうとした。そういう歴史をうけとめ、近代史における侵略と現代史における戦争の意味を現在化できるなら、われわれにもサイードに匹敵する決断や行動がもっとあっていいということになる。
 おそらくは、その通りなのである。われわれの近現代史は「西洋」の役割を朝鮮半島や朝鮮民族に押しつけたのであって、そうであるなら、われわれのなかにも何人ものサイードや何千人ものサイードがいて当然なのである。
 実際にも、「アジア主義」や「東洋主義」というカテゴリーは近代日本が勝手につくったもので、それは「オリエンタリズム」がもつ意味に近いはずだった。ところが、それが幸か不幸か稀薄だったのだ。岡倉天心の「東洋はひとつ」にも萩原朔太郎の「日本回帰」にも、宮沢賢治がかりそめに使った「東洋主義」という言葉にも、このような自覚は稀薄だったし、近代アジアの最大の研究者であった竹内好にも、朝鮮文化を愛した柳宗悦にも司馬遼太郎にも、この自覚はほとんど芽生えていなかった。
 むろんたくさんの例外はいた。藤原新也の『全東洋街道』(集英社文庫)や394夜にとりあげた甲斐大策の『餃子ロード』(石風社)は、そういう例外のひとつであったろう。こうして、われわれはサイードから学ぶべきことを、あらためて新たな例外をめざして考えこむことになる。

   本書はサイードがアラビア語の日刊紙「アル・ハヤート」に隔週連載した文章をまとめたものである。いまはホームページで英語で読めるようになっている。9・11事件前後からサイードがどのようなアピールをしつづけ、何を思索してきたかが手にとるようにわかる。つづいて刊行された『戦争とプロパガンダ2』は2002年前半期の文章が、『戦争とプロパガンダ3︲イスラエル、イラク、アメリカ』にはそれ以降の文章がピックアップされている。
 これらは日本で編集されたもので、時代の隔たりはあるものの、このような独自の編集が進んでいることに誇りを感じることができる。大半を訳した訳者の中野真紀子さんはサイードの『ペンと剣』(ちくま学芸文庫)や自伝の『遠い場所の記憶』(みすず書房)の翻訳者でもあって、さすがに訳文も訳注も「あとがき」もまことに適確で要衝を心得ていて、サイードの面目を鮮やかに現出させている。
 それでは、これらのサイードのメッセージに、われわれはどのように呼応できるのか。ぼくは残念ながらここで説明がつくほどの答えをもってはいない。答えをもっているのは、たとえば姜尚中である。1995年の「現代思想」3月号で姜尚中が「東洋の発見とオリエンタリズム」を書いたとき、彼はサイードのメッセージの本質を嗅ぎとっていた。
 もっとも、ぼくにもささやかにできることがある。それは『戦争とプロパガンダ』を、サイードの死のあとになってしまったが、2003年が暮れる前に、イラクに派遣されている自衛隊が解散する前に、サイードの最新の抵抗を磯崎新・カイヨワ・宮沢賢治・土門拳につづいて「千夜千冊」の一冊に加えることである。

   本書でサイードが告発するのは、次のような事情の渦中からのメッセージだった。「パレスチナに少しでもかかわりのある者はみな、いま、気の遠くなるような怒りとショックに打ちのめされている。ほとんど1982年の出来事(イスラエルのレバノン侵攻)の再現ではあるものの、現在、イスラエルが(父ブッシュのあきれるほど無知でグロテスクな指示のもとに)、パレスチナの人々に仕掛けている全面的な植民地制圧攻撃は、シャロンがパレスチナ人にしかけた前2回の大規模な侵略よりも、さらにひどいものである」。
 父ブッシュの無知でグロテスクな指示は、指示だけではなかった。武器と兵士とコンピュータが総動員されて、そこにヘブライ語で「ハスバラー」とよばれるものが大量に投下された。プロパガンダである。かつてジョージ・オーウェルはこのような意図的プロパガンダのことを「ニュースピーク」あるいは「二重思考」と名付けた。犯罪行為を隠蔽するのに、とりわけ不正な殺害を隠蔽するのに、正義や理性の勝利を見せかける意図のもとの広報活動をさす。

 アメリカがハスバラーをしているだけではない。まったく同じことをイスラエルの首脳が世界にハスバラーした。ニューヨーカーでもあるサイードの怒りはそこにのみ徹底して向けられる。そして、イスラエルが強固になればなっただけ、それだけ中東諸国の全体に過激な厄災をもたらすこと、それとともに同時にパレスチナ社会が崩壊することを予告する。  イスラエル政府の言い分は「イスラエルはパレスチナ人のテロリズムに抵抗して生き残るために闘っている」というものだ。サイードはこれを「グロテスクな主張」「狂ったアラブ殺し」と断罪したうえで、しかしその奥にひそむ本質を抉り出した。
 そのひとつは、イスラエルはパレスチナ人を「他者」として扱うことによって、中東およびパレスチナおよびアメリカに対して、イスラエルを不滅あるいは難攻不落に見せるという欺瞞がそこに作用しているということである。ここでサイードのいう「他者」がどういう意味をもつかについての説明は省く(これはなかなかむずかしい)。しかしながら「他者」の本質ではなくて、どのようにこの「他者」を利用するかという戦略ならば、すでにアメリカが「悪の枢軸」や「テロリスト」の“指名”によって何がやりやすくなっているかを見ればいい。

 アメリカという国は南北戦争に始まって、原住民、ハワイ、ナチス、日系移民、日本、ソ連、共産主義者、黒人、キューバ、イラン、テロリスト、イラク、北朝鮮というふうに、つねに「他者」を挑発し摘発することでアメリカの正当性を強力にプロパガンダし、そのつど戦争力を強化し、戦需経済をチューンアップしてきた国である。その戦略はベトナムを除けばほとんど成功したといってよい。
 ところがイスラエルはこの「他者」を内部に抱えていることを主張することで、アメリカがイスラエルを見放せないようにした。のみならずアメリカの戦略の大半を“タダづかい”できるようにした。こういう国は、現在の地球上ではイスラエルだけではないかというのがサイードの見方なのである(サイードは日本や中国には言及していない)。
 このアメリカとイスラエルの異常ともいえるほどに欺瞞的な同盟関係を、いったいどうすれば打ち破ることができるのか。むろんサイードは対抗軍事力や対抗テロリズムを持ち出すのではない。もっと悲痛なものを持ち出した。戦争とプロパガンダに対してサイードが持ち出したもの、それは、「一つのアイデンティティ」によって「他のアイデンティティ」をけっして押しのけないという大義によって成立する「バイナショナル・ステート」(二国民国家)というものだった。
 その提案がはたしてどのように有効なものなのか、サイードはそれを確かめる時をもてずに他界した。われわれはこのメッセージをどう受け取ればいいのだろうか。それにしても、①②③を同時に受けとめることを、自衛隊がイラクで何かを体験しないうちに考えるのは、やけに胸がひりつく問題だ。

参考¶エドワード・サイードは一介の文学者として出発した。ジョセフ・コンラッドの研究者だった。やがて『始まりの現象』(法政大学出版会)で「書くこと」と「生存すること」の根本的関連性、および「始原」はありうるのかという問題を問い、そこにフーコー思想につらなる「脱中心」の世界観がありうることを示唆した。この視野はつづいて一方では、『世界・テキスト・批評家』(法政大学出版会)や『知識人とは何か』(平凡社)は民族問題を抱えた知識人を俎上にのせて、あえてアマチュアこそを新たな知識人とみなそうとする方向に進み、一方では西洋の知識の限界を問う『オリエンタリズム』(平凡社)に向かった。こうしてひとつの総決算として大冊『文化と帝国主義』(みすず書房)がポストコロニアル社会の解放に向けて執筆された。晩年のサイードがアメリカとイスラエルの欺瞞の摘発に乗り出したあらましは上記の通り。サイードの自伝に『遠い場所の記憶』(みすず書房)がある。



 
 
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◆日付  2023/00/00
  

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