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折々の記 2010 C

【心に浮かぶよしなしごと】

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【 03 】02/19

  02 19 エコもだが「マルサスの人口論」も重要議題の一つです
  02 20 ‘心の宿の宮城野よ’
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 02 19 (木) エコもだが「マルサスの人口論」も重要議題の一つです

エコと言うのは ecology , ecological , economy , economical の単語四つあります。  ecology は名詞で生態、自然環境の意味で、 ecological その形容詞です。  economy は名詞で経済と節約・倹約があってエコとして使われるのは節約の意味です。 飛行機では economy class は一番安い座席のことですね。  economical は形容詞ですから経済的なの意味で使われます。  economical car は経済的な車のことです。

環境汚染を防ぐと言う意味ではエコという言葉は適切とはいえません。 外来語に対する感覚は、意味がはっきりしていなくて使われたりするから、日本人にとっては鷹揚なのです。

エコ、エコという。 問題は地球の温暖化をどう防ぐのか、ということにあります。 何故温暖化を防ぐのかと言えば、当然のことながらこのままだと、生存維持が保持できないからにほかなりません。

一方、諸国間の経済競争、それに端を発する紛争の数々、どうして人々はかくも哀れな守銭奴に成り果てたのでしょうか? ランドラッシュという新語までうみだして、競争心を掻き立てたり、平和を願う凡人の思いを大事にしてくれないのでしょうか?

どうして、お金や権力を大事にしてしまうのでしょうか。 自己保存とか自己防御とかそういう消極的立場をとってしまうのでしょうか。 老生にしても、自己保存とか自己防御とか、弱いものは本能的に消極手段を選んでしまいます。

    http://www17.ocn.ne.jp/~dprei3/001_kai/zinkou02.html
    <マルサスの人口論>

積極的に主張すべきことは、食糧生産の増加率は人口増加率においつかないということがら生ずる、紛争をどう防ぐかということです。 戦後後進国の人口が急速に増えてきたとき、産児制限の指導普及がさかんに叫ばれたことがありました。 だが、今では産児制限の‘サ’の字も聞くことはありません。 人口増加は世界的にも指摘されており、幾多の問題がおこってくるのが叫ばれているのにも関わらず、なんです。

そのことで感心できるのは、中国の一人っ子政策でした。 自分の家族がどうのこうのという問題ではなく、百年を見通した一国の政策としては優れた判断であり、それを実行した意思には敬服します。

日本では少子化が叫ばれています。 子どもが多いと生活できないという生活感情が先にきているのです。 これは無理からぬことです。 でもそれで、増え続ける世界人口に無関心であってよいという理由にはなりません。

これは他人事ではなく将来の地球の問題であり、緊急を要する課題に違いありません。 マクロの考え方もなく、ミクロの考え方のみが世間に横行しているのです。

地球環境汚染をどう防ぐか。 それは大事な問題です。 それでも国際間でも自国の利益に配慮して、これからもこの問題に取り組んでいくことでしょう。 だが、食糧確保と人口増加をどうするのか。

国連の議題としても即刻取り組まなくてはならない課題です。

 02 20 (金)  ‘心の宿の宮城野よ’

24〜5才頃、野口英世、宮沢賢治、石川啄木の三人を訪ねて東北の旅に出たことがありました。

最初に野口英世の生家とお墓を訪ねました。 


野口英世の生家とお墓

若いときの記憶は割りと鮮明に残るもので、猪苗代湖畔の翁島という駅で降りて、野口英世の生家まで歩き、藁葺きの土間のある小さな家をたずねました。 その後英世のお母さんが字を習ったという光明寺へ行き、寺の左奥にある墓地で英世のお墓を探し当てました。 丁寧にお墓参りをしてから墓石に刻まれた文字を書き写し、当時としては新型の箱型のカメラで写真を撮っていました。

気がついて見ると、お寺の本堂からこちらを立って見ているお坊さんがいました。 断りもなく墓地に入り込んで写真をとっいるところを見られて、気まずい思いがして頭を下げました。 お坊さんが手招きし同僚の先生とそちらに行きました。

咎められるかと思っていたところ茶室に案内され、よく信州から英世のお墓をお参りしてくださったと、思いがけない言葉に接しました。 じつはこの方はお坊さんではなく、英世の研究のためにお寺に世話になっていた沼田という彫刻家でした。

沼田さんは英世の家族に二人を紹介すると言い、生家の隣の家に連れて行ったのです。 そこで英世の姉で出戻りの目が殆ど見えないお婆ちゃんに紹介くれました。 人を訪ねてこんなに喜ばれビックリしました。 沼田さんはお母さんの野口シカが英世宛に書いた筆書きの手紙を涙を流して読んでくれました。 親子の絆はもとより人と人の絆のだいじなことを痛感いたしました。 今でもそのときの複製の手紙があります。

会津では鶴が城と東山の白虎隊自刃の地をみました。


仙台の島崎藤村

次が仙台で、青葉城で伊達政宗の像を見てから、南側の八木山山中の島崎藤村の歌碑を探しました。 そして拓本にしました。 いつ人がきたのかそんな様子は全くありませんでした。

        草  枕

     心の宿の宮城野よ

    乱れて熱き吾身には

    日影も薄く草枯れて

    荒れたる野こそうれしけれ


次の「文/赤羽康男 写真/山田 毅」による藤村の紹介は当を得ているのでしょうが、二人が藤村の下宿を訪ね歩いたが、町の人たちはあいにく殆ど知っていませんでした。 やっぱり長野県とは違うんだなという思いに駆られました。 このときは八月の七夕祭りでした。


臼井吉見の『安曇野』を歩く
10 仙台の藤村

  (良は)守衛との話が、「若菜集」になったとき、つい、欝憤が出てしまった。「若菜集」といえば、去年の夏、榛(はんのき)林の湧き水のはたで、守衛と透谷と冬子について語ったときから、まもなくの出版であった。
 「守さは、あのなかで、一番好きなのはどれなの?」
 まともに黒目がちの眸(ひとみ)で見据えられて、守衛はうろたえた。
 「どれっていわれても…」
 「どれも、これもみんな好き? そんなことないでしょ。(中略)島崎先生ってひとは、燃えガラでさえなかったかも知れないわ。燃えつくしたことなどあるものですか。あの詩集でそれがはっきりわかったと思うの」
 (第1部 その4)

異郷で人生の“夜明け”

 「あの東北の古い静かな都会で私は1年ばかりを送った。私の生涯はそこへ行って初めて夜が明けたような気がした」(藤村「抄本を出すにつきて」)
 24歳の島崎藤村は明治29(1896)年9月、東北学院の作文教師として仙台に赴任した。名影町の宿舎で書いた詩を毎月東京に送り、友人たちと出していた雑誌『文学界』に掲載、これが翌年『若菜集』として刊行される。藤村の最初の詩集であり、日本近代詩の出発点を画した青春文学と言える。

    心の宿の宮城野よ
    乱れて熱き吾身には
    日影も薄く草枯れて
    荒れたる野こそうれしけれ

    ひとりさみしき吾耳は
    吹く北風を琴と聴き
    悲み深き吾目には
    色彩(いろ)なき石も花と見き」(「草枕」)


 藤村は仙台で“変身”を遂げ、『若菜集』における清新な詩を歌い上げる。どうしてそれが起こり得たのだろう。
 それには仙台に行く前の藤村を知る必要がある。明治26年、20歳の藤村は明治女学校の教師だったが、教え子で婚約者のいる佐藤輔子(すけこ)を愛し、学校を辞め、関西にあてどない旅に出る。しかし、翌年四月には再び明治女学校の教師に戻った。このときの教え子の一人に相馬良(黒光)がいる。
 『安曇野』では良の回想としてこう描かれている。「一度退職した藤村は、生活の必要に迫られて、教壇に戻っていたが、いかにも熱がなさそうであった。(中略)生徒が調べに行って、意気ごんで質問しても、無表情でそらされるに決まっていた。時間がくると、さっさと教室を出て行ってしまい、相手にしてもらえない。石炭ガラという仇名(あだな)をつけたのも良であった」
 5月には友人の北村透谷が自殺、長兄が水道鉄管事件の巻き添えで捕まり、翌28年8月には結婚して札幌にいた輔子が病死した。傷心の藤村は明治女学校を再び辞職、そうして仙台に赴くのである。
 暗いトンネルから抜け出て、あのすがすがしい詩が次々生まれた。後年の小説『新生』に藤村自身の告白と思われる一節がある。「あの仙台の一年は忘れることの出来ない楽しい時代である。ずっと後になってもよく思い出す時代である。そしてその楽しかった理由は、全く女性から離れて心の静けさを保つことが出来た」。つまり異郷の、親しい女性のいない地に一人いて、初めて藤村は恋愛詩が書けた。心身が清らかに保てたからにちがいない。「詩というものをもっと自分等(ら)の心に近づけようと試みた。黙しがちな私の口唇(こうしん)はほどけて来た」のである。(「抄本」)

   藤村が下宿していた名影町は、JR仙台駅のすぐ裏側(東側)、宮城野区名掛丁と名称を変えていた。高層賃貸マンションが立ち並び、下宿のあった場所だけさら地で、ガンガンガンと建設のつち音が響いている。
 ところが、さら地の一画【写真がそのさら地】に古民家と土蔵がぽつんと残されており、近づくと、「日本近代詩発祥の地 『若菜集』 藤村下宿三浦屋跡地」の看板が置かれているではないか。古民家は三浦屋ではなく、三浦屋はすでに壊され、そこに立てられていた看板であった。
 近くのたばこ店のおばあちゃん(89)は「ここに藤村がいたっちゅうことは聞いているよ。大家さんはずうっと下宿屋をやっておられて、最近まで建物もあったよ」と話してくれた。
 保存できなかったかと思うが、地元の名掛丁は、藤村の滞在(100年以上前のわずか10カ月)を大事にしていたと知って、うれしかった。看板を残しているところを見ると、再開発後も何らかの形で後世に伝えていくのであろう。またそう願いたい。

 文/赤羽康男 写真/山田 毅


花巻の宮沢賢治

毛越寺、平泉の光堂を見学して、花巻の宮沢賢治の生家へ行きました。 弟の清六さんが冷たい飲みものを馳走してくれました。 賢治の詩、早春の‘青き Gossan 銅の脈’の Gossan とは? など厚かましいがお聞きしてまいりました。 その詩は今見るとこんな風なんです。

      早  春

   黒雲峡(カヒ)を乱れ飛び

   技師ら亜炭の火に寄りぬ

   げにもひとびと崇アガむるは

   青き Gossan 銅の脈

   わが索(モト)むるはまことのことば

   雨の中なる真言(シンゴン)なり


Gossan とは月山でした。 出羽三山は、山形県庄内地方にひろがる月山・羽黒山・湯殿山の総称で、修験道を中心とした山岳信仰の場として、現在も多くの修験者、参拝者を集める。  ウィキペディアに詳しい解説があります。

生家をおいとまして、終焉の地‘羅須地人協会’へいきました。 高村光太郎の石碑もありました。

賢治の詩の中に 「 春 」 があり、30才で花巻農学校の先生を止めて農業に打込んだときの詩です。

      

   陽が照って鳥が啼き

   あちこちの楢の林も

   けむるとき

   ぎちぎちと鳴る汚い掌(テノヒラ)を

   おれはこれからもつことになる



渋民村の石川啄木

さて次に石川啄木を訪ねました。

盛岡を過ぎて渋民村へ入っていくと、ひなびた東北の景色に変わったことが印象的でした。 それだけに、鶴飼橋からの北上川の景観は今も網膜にはっきりと写されております。

渋民小学校を先ず訪ねました。 啄木が下宿をしていた斉藤さぞうさんは、啄木を訪ねてはるばるきたことを大変に喜ばれ、涙を流しながら啄木が村人に追われて函館へ去ることも話してくれました。

 『一握の砂・悲しき玩具』石川啄木 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇には次のような記事が載っています。


一家の窮状を見かねた父が突如として家を出てしまったのだ。 蒸発である。啄木はその日の日記に「我家の記録の中で極めて重大な一日であった」と綴り、「一家は正に貧といふ悪魔の翼の下におしつけられて居る」と書いた。これではリアリズムにめざめるしかなかったろう。

学校をやめた啄木は北海道へ行くことを決意する。 節子と生まれて5カ月の乳飲み子(京子)を盛岡の実家に戻し、妹を小樽の姉の家に行かせることにして、函館をめざした。まさに絵に描いたような一家離散だった。22歳になったばかりの啄木は、函館青柳町の松岡蕗堂のところへ転がりこんだ。 明治40年5月4日のことである。


そして、将にこのときの気持ちが次の歌になっているのです。

  石をもて追はるるごとく ふるさとを

     出(い)でしかなしみ 消ゆる時なし


それなのに、斉藤さんの家の前には活字体の小さな歌碑が建てられていました。

  かにかくに渋民村は恋しかり 

     おもひでの山 おもひでの川
   (斉藤さん宅前の石碑)

  やはらかに柳あをめる 北上の

     岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
   (鶴飼橋公園の石碑)

この二つは北上川を詠んだものであり、岩手山を仰いで詠んだ歌

  故郷の山にむかひて いふこと無し

     ふるさとの山は ありがたきかな


をのこしています。  これらの歌を色紙に書いてのこしておきたいと思っています。