折々の記へ

折々の記 2010 C

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】02/14〜        【 02 】02/17〜        【 03 】02/19〜
【 04 】03/02〜        【 05 】03/08〜        【 06 】03/20〜
【 07 】03/21〜        【 08 】04/01〜        【 09 】04/13〜

【 05 】03/08

  03 08 ‘フロンティアWindows7’の導入
  03 09 糖尿の検査 ●明治の女傑
  03 15 黄塵万丈
  03 18 社説 「政権交代から半年―新たな政治の芽を育てる」
  03 00 

 03 08 (月) ‘フロンティアWindows7’の導入

ぼつぼつ‘フロンティア(Windows7)’がヤマダ電気へ入荷します。  ‘DELL3100C’がフリーズしたために注文してあるのです。

フリーズのため失ったものはデジカメで撮ってきた映像データが一番こたえています。 ホームページへアップしてあるデータは困ることはないのですが、たくさんの映像データの消失は悔やまれます。

一年に3〜4回はコピーすることを心がけたい。

ちょうど原東彦さんにパソコンを勧めていて、‘フロンティア(Windows7)’が購入されていた。 そんなことがあって、同一機種を購入することにしました。 プロバイダーはWAKWAKにして老生のパソコンから入会手続をしました。

「設定マニュアル」はWAKWAKのURLからコピーしました。 先に老生のパソコン設定をしてみてから原さんの設定をするつもりでいます。

「明日有りと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」の歌の作者はどなたでしょうか?

ベストアンサーに選ばれた回答


親鸞

京都のお寺によく貼ってあります。

    『明日ありと、想うこころの、仇桜、夜半に嵐の、吹かぬものかは』

これは、親鸞聖人が、9歳の時、得度される前夜に詠まれた歌と聞いています。9歳でこんな歌が出て来るとは信じ難いですが『明日桜を見ようとしても、夜に嵐が来て、桜は散ってしまうかも知れない、桜の運命と同様、明日の事は私達人間には分らないのですから、今、得度させて下さい』と言う松若丸(親鸞の幼名)の心情を表わしたものであると言われています。

下のほうが・・・

 親鸞聖人は九歳で出家をされました。聖人は貴族の出身でしたが、下流貴族で、父母を亡くし生活にも困窮していたといわれています。出家の動機は今では想像するほかありませんが、その時のエピソードとして、こんな話しが伝えられています。

 聖人が得度(僧侶になること)するために青蓮院(ショウレンイン)の慈円和尚のもとを訪れた時、すでに夜は更けていました。得度には時間もかかりますし、たくさんのお弟子を集めなければなりません。「もう遅いから明日にしよう」といった慈円和尚に、わずか9歳だった親鸞聖人は和歌を詠んで答えたといいます。

   明日ありと 思う心のあだ桜
              夜半に嵐の 吹かぬものかは

「この世は無常であり、今を盛りと咲く桜が夜中の嵐で散ってしまうかもしれません。同じように、私の命もいつなくなってしまうかわかりません。どうか、今ここで得度の儀式を執り行って下さい」という聖人のそのことばに心打たれ、慈円和尚はすぐに得度の手配をされたということです。


すがすがしい歌だと思い出します。 糖尿を治していくにはこの心根が大事になります。 分かっていてもなかなかできない老生です。 今年は‘ホットアプル’で水中運動に参加するつもりです。

下伊那二三の会(S.23年度青年師範卒)

三月の第二月曜日を定例日としてきました。 佐々木賢明、小島徳郎二名は既に亡く、滝 昭利は数年床に伏せ、元気なのは六名です。 同級生はみんな夫婦だけの二人暮らしになっています。 渡辺 盛はトボトボ歩けるだけになり、木下秋彦の細君は物忘れが進み、それぞれ老人の悩みを抱えている。

昔の一成堂の十字路、道を挟んである「弥生」に世話になっています。

 03 09 (火) 糖尿の検査 ●明治の女傑

二ヶ月に一度の検査に行ってきました。 

  「どうだった?」

いつもの老妻の問いかけだが、冬期間は‘A1C’が高くなっていることは予想しているようだった。 寄る年波に身を任せている老生にとっては、こんな質問にも自分自身応えるのが億劫になっています。

病院では50年も前にいっしょに勤務していた木下先生としばらくぶりに顔を合わせた。 食道がんの治療で通っていると言う。 寂しいことに違いないのだが、明るく話している心根に心を打たれました。

それぞれ、人の世の終末期を迎えているのです。 


木の葉みて ちりゆく心の むずかしく




●恵那、岩村藩出身の下田歌子(平尾鉐)を調べていて、明治の女傑に会いました。 それを次に取り上げます。

  明治の女傑

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%94%B0%E6%AD%8C%E5%AD%90
下田歌子 - Wikipedia

明治4年、女子留学生。 津田うめ (9)、永井しげ (10)、山川捨松 (12)、上田てい (16)、吉益りょう (16)。姓名はいずれも当時のもの、数字はかぞえ歳。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E6%8D%A8%E6%9D%BE
山川捨松 - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E6%A2%85%E5%AD%90
津田梅子 - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%93%9C%E7%94%9F%E7%B9%81%E5%AD%90
瓜生繁子 - Wikipedia

それぞれ調べてコピーし、製本します。  それにしても明治初期といえば維新の変貌が渦巻くときなのに男性のみならず女性まで西欧文化を取り入れるための官費留学生を送り出していることに驚きを禁じえません。

次のような施策をたて実行していった明治時代を思うと、今の政党政治の国会議員の気宇の貧弱さを痛感します。

明治の海外留学生

http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_036.html
学制百年史 [第一編 第一章 第四節 四]

文部省
第一編 近代教育制度の創始と拡充
第一章 近代教育制度の創始(明治五年〜明治十八年)
第四節 高等教育
四 海外留学生と雇外国人教師

---------------------------------------------------------------------------

海外留学生制度の整備

草創期の高等教育と関連をもち欧米文化導入の上で重要な役割をもったのは海外留学生制度であった。海外留学の端緒は幕末期の諸藩がひそかに派遣した海外留学生にみられるが、維新後その数は著しく増大し、明治元年から五年までにアメリカに留学した者だけでも五〇〇人に達したといわれる。政府は三年十二月二十二日「海外留学生規則」を制定し、留学生をすべて大学の管轄とするなどの措置をとったし、三年八月には大学南校から、同年十一月には東校から、それぞれアメリカ、ドイツ等へ留学生を派遣した。しかし一般に留学生の選抜・給費・規律などについては必ずしも当をえていないという世評が高かった。

そこで学制本編の第五八章から第八八章まで、および六年三月の学制二編で文部省は詳細に新しい規則を制定した。すなわち、留学生を官選と私願とに分けそれらはすべて文部省の管轄にはいるものと規定した。官選留学生を初等と上等の二種類にわかち、前者は中学卒業者より一五〇人、後者は大学卒業者より三〇人以内を選抜することとした。初等留学生については督学局が、上等留学生については大学教師が試験を行なって選ぶこととした。初等留学生は五年間、上等留学生は三年間、それぞれ本人の希望と教師の見込みに従って、官より命ぜられた学科を修得することとし、帰朝後はふたたび試験を受ける必要があった。初等留学生にあっては年間八〇〇円から一、〇〇〇円、上等留学生にあっては同じく一、五〇〇円から一、八〇〇円が往復旅費とともに支給されたが、帰朝後は官に奉職するか、あるいはこれを返還しなければならなかった。私願留学生は官選留学生に準じた学科を修めたものを、その教師の見込書に基づいて認可したが、私費で留学に耐えるだけの財力を持つことが必要とされた。留学中は官選・私願にかかわらず、その地の公使を通じて文部省の厳重な監督を受けた。公使は留学生を監督し、毎年その勤惰・進退等、明細書を作り本省へ報告すべきことを定めた。

文部省の留学生

明治六年の文部省第一年報の示すところによると、当時官費生二五〇人、私費生一二三人計三七三人の留学生があった。元来文部省としては、将来高等諸学校の教授を担当すべき人材の養成を目的として留学生の派遣に意を用いたのである。しかるにこれら留学生は多く従前の各藩から選抜された人々であって、その選択について必ずしも適当ではなく、国費の濫費であるとさえみられたので、六年十二月遂に海外留学生をすべて帰朝させることとした。

八年五月、「文部省貸費留学生規則」が制定され、先に定められた「文部省留学生監督章程」が改正された。それによって留学生の選抜は慎重に行なわれるとともに、またその管理・監督を厳にしたのである。この規則公布後文部省は留学志願者を募ったが、資格があまりに厳格なため応募者もなく、そこで東京開成学校生徒中から選抜し、同年七月にアメリカに九人、フランスに一人、ドイツに一人、翌九年四月にはさらにイギリスに八人、フランスに二人を派遣した。かれらは十二歳から二十二歳の優秀な青年で、それぞれ法学・化学・工学等を専攻しようとする者であった。文部省ではこのほか、八年七月に伊沢修二ら三人をアメリカに、また十一年二月には三人をイギリス・フランス・ドイツにそれぞれ派遣して、師範学科を学ばせた。

十年、十一年には派遣しなかったが、十二年に至って東京大学の法・文・理各学部卒業生から四人を選抜し、イギリス(三人)およびフランスに派遣、医学部卒業生から三人をドイツに留学させた。さらに十三年には五人、翌十四年には八人をそれぞれイギリス・フランス・ドイツに留学生として派遣した。

このようにして選抜・管理を厳格にした留学生制度は、かなりの成績をおさめた。文部省としては当時外人教師が中心であった大学教授の職を邦人教師に移したかったのである。しかるに、これまでの留学生の学ぶ学科については本人の希望にまかせられていたので、文部省が自己の計画において必要とする学者を得るのに必ずしも適切な制度とは考えられなかった。そのため、十五年二月「貸費留学生規則」および「貸費留学生条規」を改め、「官費留学生規則」を制定したのである。これによると、貸費海外留学生は官費海外留学生に改められ、東京大学卒業生中、将来大成の望ある者の中から文部卿がこれを選命し、その学科・邦国・年限・校所等は文部卿がこれを指定することとし、帰国の上は留学年限の倍数に当たる年間は文部卿の指命する職につくべきことと定めた。このようにして、十五年には新たに七人を、十六年には四人を官費留学生として送った。

十七年三月には、東京大学職員で五年以上奉職するものは、その願いにより学術研究のため一年または一年半を、本官のまま私費で海外に留学することを許可した。これによって三人がドイツに留学した。十七年の調べでは、同年末において二二人が欧米に留学していたが、その内訳はドイツが圧倒的で二〇人、イギリス・アメリカがそれぞれ一人であった。十三年に満期となった留学生一〇人が帰朝し、次いで年々帰る者があったが、十七年には総数三二人の帰朝者があり、そのうち一五人が教職に、おのおの七人が官吏および技師に就職し、二人が民間にあり、一人が死亡している。十八年十二月に官費留学生規則を改正し、東京大学卒業生のほかに、文部省直轄学校の専門科もしくは師範学科の卒業生も留学しうることとなった。八年から十八年までの留学生の数を年度別に示すと、前ページの表のとおりである。

表8 留学生数の推移

少し時間がたてば「表」がだせます

文部省雇外国人

明治初期のわが国高等教育は、外国人教師に依頼するところがはなはだ多かった。明治六年四月の学制二編追加によれば、外国人教師を雇って西洋における学芸・技術を教授する高尚な学校は、これをすべて専門学校と称することとなっている。外国人教師から学習すべき学芸・技術は、法律学・医学・星学・数学・物理・化学・工学等であった。この制度に従って東京開成学校・東京医学校・東京外国語学校およびその他若干の官立外国語学校が官立の専門学校として取り扱われたことは先に述べた。

東京開成学校はこれより先、明治五年に南校と称し、普通科生徒約四四〇人をもって発足していた。これらの生徒は専攻する外国語によって英学生、独学生および仏学生に分かれ、多数の内外教師が授業を担当していた。そのうち、外国人教師は教頭フルベッキをはじめ米英人八人・ドイツ人四人・フランス人五人であった。また、東京医学校は四年十月ドイツの軍医ミュレルおよびホフマンの両人を迎えて、ドイツ医学を教授する方針のもとに、東校と称して開校されていた。その後外国人教師は年々増加を見たが、八年には七二人を数えるようになった。その配置は文部省一人、東京開成学校に二一人、東京医学校に九人、東京英語学校に一〇人、愛知・大阪・広島・長崎・新潟・宮城の各英語学校に各若干一七人、東京外国語学校一二人、東京女学校二人であった。東京開成学校、東京医学校においてはそれぞれ専門の科学を教授していたが、その他は外国語教師であった。文部省の雇外国人は学監モルレーであった。

表9 外国人教師数
少し時間がたてば「表」がだせます

文部省雇外国人の数は、これに代わるべき留学生が相次いで帰朝するに及んで減少をみたが、明治中期以後再び増加するようになった。七年以降大正十二年(明治十六年以後は十年ごと)に至る外国人教師の数を示すと、上の表のとおりである。

これらの外国人の中には、明治教育の発展を助け、あるいは明治文化を築きあげるのに多大の功績を残した人々が多い。明治初期に限って見ても、モルレー・フルベッキ・スコット・ベルツ・モース・フェノロサ、札幌農学校のクラークなど著名な人々をあげることができる。



喬木村の教育を考える、そのデータにしたい。 「知識を世界に求め大に皇基を振起すべし」が足音を立てて日本を変化させていく様子を髣髴させてくれます。 明治の変革は世界にその例がありません。

 03 15 (月) 黄塵万丈

いやぁ〜……、凄い。  黄砂が下伊那を覆いつくしました。 スゴ〜イ !!!  黄塵万丈という言葉が頭を貫いたのです。

この言葉を調べていると、四字熟語の研究の中で水原秋桜子編『俳句小歳時記』の「黄塵」には次の記述があるとして、次の説明が出ていました。

《戦前、満州に大勢の日本人がいたころ、彼の地で生まれた季題。満州は、春ともなれば蒙古や北支の黄土地帯で吹き上げられた大量の砂塵が空を覆い、いわゆる「黄塵万丈」の現象を呈する。天地は輝きを失い、屋根や地に砂塵が積もったりする。それを「黄沙」といい、その現象を「つちふる」ともいった。のち、この語が日本内地に入ってきて、赤土地帯で春の季節風の強く吹く地方では、この季題を用いるようになった。北九州地方では風向きにより、大陸の黄沙が降ることがあるという。》

もともと漢詩など見ていますと、万斛の涙とか白髪三千丈とか、大げさな表現が出ていました。

けれども、調べていますと大げさという受け止め方は受け止める側が間違っていたことがわかりました。 次を見ますと、理解ができます。


「中国は白髪三千丈の国だから……」は馬鹿げている。イカサマ本の無知を露呈しているに過ぎません。白髪三千丈の意味を理解しているのか疑問ですので、李白の「秋浦歌」を提示します。

  ---引用開始--------

       『秋浦歌(其十五)』李白
       白髮三千丈
      縁愁似箇長
      不知明鏡裏
      何處得秋霜


  ---引用終了--------

漢詩を知らない人の解釈は恐ろしい……
(Wikipediaの白髪三千丈)の解釈は若干の誤りがあり補足します。

そもそも、李白ほどの詩人が「白髪が10kmも長くなった」なんてバカなことを言うはずがありません。
【三千】漢詩では具体的数値を表現しているのではなく、多い数字の例えとして使われるものです。なぜ、三千なのかと言えば数字の中で平声は【三】と【千】しかありません。
日本語の思考回路では理解できませんが、李白は詩の美しさ(響き)を大切にしたのです。

  (例:)

       堯沒三千歳
      堂中各有三千士
      飛流直下三千尺
      燕趙美女三千人


これらは数字の「3000」を表しているのではなく、「たくさん」という意味です。

日本語の【八百】のようなもので「嘘八百」「八百会」或は万葉集の「八百日」と同じ意味と考えると解りやすいと思います。

李白、個人の詩を引用して国家を論ずること自体がナンセンスだと思います。
まあ日本の漢文と中国の漢詩は違うということでようか、私は高校の漢文の授業の時に、【老虎】を「老いた虎」と習いました。本来の意味は「獰猛な虎」「強い虎」という意味なんですけどね。


「丈」についての記述も参考になります。


【万丈・三千丈の丈の意味】  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

丈(じょう)は、尺貫法における長さの単位である。

1丈は10尺と定義されている。日本では、明治時代に1尺=(10/33)メートルと規定されたので、1丈は約3.03メートルとなる。中国では1尺(市尺)=(1/3)メートルなので、1丈(市丈)は約3.33メートルである。

丈は古代中国に由来する。「丈」は長い棒を手に持った形をかたどったものであり、そこから身長、身の丈(みのたけ)を表すようになった。「丈」は元々は成人男性の身長を基準とした身体尺であったと考えられる(「丈夫」は元々は身長1丈の男の意で、そこから一人前の男の意となった)当時の尺は約18センチメートルであり、丈は尺と関連づけられてその10倍の長さとされた。尺の長さが当初の倍近くになったため、丈も人の身長の倍程度となった。日本では大宝令以前から用いられてきた。

近い長さの単位に間(けん。1間=6尺)があるが、間が土地の測量や距離の計測に用いられたのに対し、丈は物の長さを計るのに用いられた。転じて、「丈」(たけ)は物の長さという意味にもなっている。

また、1丈四方の面積のことを方丈(ほうじょう)と言い、その広さの部屋や建物の事も方丈と言った。

丈(たけ)
丈(たけ)は、人や物の高さのこと。例:身の丈


 03 18 (木) 社説 「政権交代から半年―新たな政治の芽を育てる」

社説 〜朝日新聞の朝刊に掲載される「社説」で最新の時事を読む

最新14本

ネットの倫理―自由な言論は責任が伴う (2010/03/18)
 インターネット上の書き込みに対しても、名誉棄損罪は活字や放送メディアと同じ程度の厳しさで適用される。そういう初の判断を最高裁が示した。  罪に問われた男……

追加金融緩和―政府が民需を促す番だ (2010/03/18)
 将来のインフレやバブルの危険が気にならないはずはない。それでも、いまはデフレからの脱却を優先するしかない。日本銀行が「広い意味での量的緩和」と呼ぶ金融政策に……

混迷自民―そんなことしてる場合か (2010/03/17)
 終わりの始まりか、再生への通過点か。政権交代から半年。鳩山政権と同様、自民党もまた、正念場である。  鳩山邦夫元総務相が夏の参院選前の新党結成を目指して……

レアメタル―身の回りにも宝の山が (2010/03/17)
 身近な製品に使われる資源が足りなくなる。争奪が激化するという。ならば、捨てられる製品の山から探し出して再利用するリサイクルの仕組みをつくれないだろうか。 ……

政権交代から半年―新たな政治の芽を育てる (2010/03/16)
 政権交代から半年がたった。  朝日新聞社がこの週末に実施した全国世論調査によれば、鳩山由紀夫政権発足当初7割に及んだ内閣支持率は、3割程度にまで落ち込ん……

認知症ホーム―安全対策は待ったなしだ (2010/03/15)
 認知症のある高齢者が、生活の手助けを受けながら一戸建てやアパートで共同生活を送るのがグループホームだ。家庭的な雰囲気のなかで介護職員が見守る丁寧なケアは、認……

消費者庁半年―もっと出しゃばらねば (2010/03/15)
 消費者行政の司令塔役と期待され、産声を上げて半年。だが、何をしているのだろう、と思ってしまうほど消費者庁の影が薄い。  たとえば、多くの自動車ユーザーが……

クジラ摩擦―食文化の対立にするな (2010/03/14)
 売られたケンカは買うべきか。  しかし、買えば挑発に乗ることになる。シー・シェパード(SS)はまったく困った連中である。  海上保安庁が、オーストラ……

連休分散化案―まず、もっと休む社会を (2010/03/14)
 さて、どんなカレンダーができるのだろう。政府の観光立国推進本部が、列島を五つに切り分け、春と秋に5連休をずらして設ける案を打ち出した。  憲法記念日、敬……

温暖化と原発―依存強めぬ長期戦略を (2010/03/13)
 鳩山政権は、きのう閣議決定した地球温暖化対策基本法案の中で、原子力発電を推進していく姿勢を明確に打ち出した。  主要国が温室効果ガス削減の野心的な目標に……

子ども手当―保育所も、財源も考えて (2010/03/13)
 春の入園時期を前に、「認可保育所に入れない」「認可外もダメだった」と、親たちの会話に嘆きがこもる。こうした声は、鳩山由紀夫首相に届いているだろうか。  ……

98の空港―無責任のツケを誰が払う (2010/03/12)
 またひとつ、前途が心配な空港が誕生した。全国で98番目となった茨城空港。経営を黒字にできる確かな見通しもないままつくられたのは、なぜなのか。よく考えてみたい……

宇都宮新会長―「司法改革」を止めるな (2010/03/12)
 日本弁護士連合会の新会長に、多重債務者問題への取り組みなどで知られる宇都宮健児氏が決まった。  日弁連の会長選は、全国の弁護士約2万8千人が投票権を持つ……

東京大空襲―「戦略爆撃」という狂気 (2010/03/11)
 65年前のきのう、東京の下町は米軍の爆撃で焦土になった。  10万人が亡くなった東京大空襲だ。  夜を選び、目標の周囲に火の手を上げさせ、逃げ場をふ……



2010年3月16日(火)付
政権交代から半年―新たな政治の芽を育てる

 政権交代から半年がたった。

 朝日新聞社がこの週末に実施した全国世論調査によれば、鳩山由紀夫政権発足当初7割に及んだ内閣支持率は、3割程度にまで落ち込んだ。

 首相に実行力がない。言葉が軽い。政策は迷走続き。政治とカネの問題に真剣に取り組もうとしない――。

 支持率続落の要因は、はっきりしている。政治が変わると期待したのに、あまり変わったように見えないという幻滅だ。当然の反応である。

 しかし、そちらの面だけに目を奪われて現状を嘆くばかりでは、建設的でも賢明でもないだろう。

 私たち有権者が目を向けるべきもっと大切なことがあるのではないか。

 それは、鳩山政権のこれまでの仕事ぶりには失望を禁じ得ないにしても、有権者は政権交代を起こしたこと自体を後悔しているわけではないという事実である。同じ世論調査で、政権交代が起きたことを「よかった」と答えた人が7割近くもいた。「よくなかった」と答えた人は2割にすぎない。

 この数字が物語っていることの意味は、実はとても大きい。

■「過去」との決別切実

 改めて考えてみたい。

 有権者は昨年、なぜ政権交代を選択したのか。何より、あまりに長く続いた自民党支配の政治という「過去」の清算を選んだのだろう。

 民主党のマニフェストや政策の実現性をおおいに疑ったにもかかわらず、有権者は民主党を圧勝させた。その後、鳩山政権の支持率はじり貧でも、自民党支持率には回復の兆しがない。

 「過去」との決別を望む有権者の思いがいかに切実かを示す証しである。

 だからこそ、鳩山政権が古い自民党そのままの体質や政治手法を見せたときの、有権者の拒絶反応が並大抵ではないのは当然なのだ。

 不透明な政治資金の問題しかり。予算配分をてこに選挙で票を得ようとする利益誘導戦術しかり。政策よりも地元回り優先の選挙至上主義しかり。

 小沢一郎民主党幹事長は言った。

 「国民が主権を行使できる機会は選挙しかない。すぐ『選挙のために。選挙のために』とメディアが言うけれども、当たり前だ」

 選挙に勝ったら、後は好きにやらせてもらう。有権者は次の選挙まで黙っていて欲しい。そんな発想だろうか。だが、選挙に勝つことが何のためなのかを有権者に十分説明できなければ、小沢氏は結局批判を避けられまい。

 かつての政治への後戻りは御免だが、それに取って代わる「未来」の政治の姿は確かな形で見えない。それが政権交代半年の現状としても、手がかりがないわけではない。

■「未来」の政治文化は

 民主党がかねて重視してきたのは、統治の仕組みを官主導から「政治主導」に切り替えることであり、「お上にお任せ」の政治文化の一掃である。

 無駄な予算をあぶり出す事業仕分けや、日米密約の検証などは政権交代の成果だ。

 まだ足りない点は多いし、混乱も続くが、統治構造の変革という壮大な野望が簡単にかなうはずはない。時間をかけても、官僚の力や民間の知恵を政治主導に取り込んでいくことだ。

 同時にこの試みは、私たち有権者にも相応の覚悟を求めるものである。

 鳩山首相は、選挙という民主主義の回路とは別に、「政治や行政への積極的な参加」を有権者に呼びかける。また、みずからの政権の「神髄」を、「新しい公共」と表現する。「官」が主に担ってきた公共的な役割を、「民」が積極的に担っていこうという考え方である。

 例えば「コミュニティースクール」だ。公立の学校で、地域住民がクラブ活動や、総合的な学習の時間で指導する。算数や国語の授業にもボランティアが入る。

 「民」を後押しする政策づくりの中心が、政府の「『新しい公共』円卓会議」である。会議のメンバーを含む有志は、インターネット上での「新しい公共電子会議」も始めた。

■「参加」と「熟議」が鍵

 選挙抜きの民主主義はないけれど、選挙だけが民主主義ではない。そんな発想から民主主義を進化させようという模索は、なにも鳩山政権のオリジナルではない。

 住民自身が予算の配分を決める「参加型予算」。無作為抽出した市民に議論してもらい、民意のありかを探る「市民討議会」。「参加」と「熟議」をキーワードにした試みが、あちこちでとっくに始まっている。

 政権交代は、こうした新しい政治文化をくっきり目に見えるものにした。政権交代がもたらした功の部分であり、有権者の7割が「よかった」と感じる理由の一つであろう。

 鳩山政権ははがゆい。日米関係、財政や成長戦略など、基本政策でも不安の種は尽きない。鳩山、小沢両氏による今の民主党体制の困難は増す。

 現政権の先行きはどうであれ、私たち有権者は政治に背を向けては生きていけない。安易に政治を見放して手痛いしっぺ返しを食うのは、私たち自身にほかならない。

 私たちは「自分たちで選ぶ」ことで歴史的な政権交代を実現させた。さらに歩を進め、「自分たちでつくる」政治をめざす。退くわけにはいかない。



この主張が正統なものの考え方です。 NHKの討論番組を見ていても、多くの識者が新政権の功罪をとがめたり普天間問題をさも重大な日米間の問題であるような意見が多くて、一国民としてはその気宇の小ささにうんざりしています。 

ところがやっぱり朝日の社説は心中を吐露していて爽快です。

   石ばしる垂水のうえのさわらびの 萌えいづる春になりにけるかも    志貴皇子

春がきたよろこびを感じます。