09 24 (金) たかぎ子育て憲章 |
10ヶ条の憲章 | 内容のとらえ・分野 | 大まかなとらえ |
@ 元気な挨拶心が通う 明るい返事が心を結ぶ |
人間関係の基本 (徳育) |
生活の根っことなる心の育成 |
A いつも心に感謝の気持 言葉に出そう「ありがとう」 |
思いやりの心 (徳育) |
生活の根っことなる心の育成 |
B 地域の子供は我が孫・我が子 ほめて叱って見守って |
故郷の心情を築く (徳育) |
歳老いてから心の大きな支えとなる |
C 群れて遊んで関わり合って 仲間と育つ心と体 |
故郷の心情を築く (徳育) |
歳老いてから心の大きな支えとなる |
D ルールとマナーと思いやり 手本を示して育もう |
思いやりの心 (徳育) |
生活の根っことなる心の育成 |
E 親子の約束互いに守り 信頼・絆を深めよう |
親子の絆づくり (徳育) |
家庭場面に特定した具体化 |
F テレビやゲームは時間を決めて 食卓囲んで楽しい会話 |
共同生活の基本 (徳育) |
家庭場面に特定した具体化 |
G 親と子と読書毎日二十分 椋の想いを受け継ごう |
豊かな心 (知徳育) |
学問のススメ … 原型の一端 |
H 早寝早起き朝ごはん 家庭がつくる生活リズム |
健全な身体 (心体育) |
健全なる精神は健全なる身体に宿る |
I 我が家の1条を 家族で決めましょう | 家訓に学ぼう (心情育) |
先人の知恵を借りない手はない |
【11B】太宰春台の学校論──学問と徳行才芸が兼備する人材の養成 from http://www.geocities.jp/goromaru134/goromaru/seitoku11b.html 江戸思想史には幾人かの巨人が存在するが、中でも伊藤仁斎(いとうじんさい・1627〜1705)と荻生徂徠(おぎゅうそらい・1666〜1728)の2人は中期を代表し、以後の思想史に影響を与え続けた2大学者である。仁斎は京都在住の町人学者として、徂徠は5代将軍綱吉の側用人として絶大な勢力をふるった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の儒臣として、活躍した。特に徂徠は、赤穂浪士への対応問題で主君柳沢吉保を動かしたことで知られる。徂徠は彼らの行動は法的には幕府の法度・決定に反し、道徳的には忠義という君臣関係のあり方にかなうものとして、切腹という、武士らしい死に方が可能な処断を主張したとされるが、事実、そのようになったのである。 徂徠に始まる学問傾向は、徂徠学とか、塾の名を取って〓園学(けんえんがく)、また古文辞学(こぶんじがく)とか言われる。それは同じ儒学でも、思想的性格の強い朱子学と違い、文献学的傾向を持つものであった。古典は、具体的には儒学の古典である『論語』や『孟子』のことだが、後世の解釈や注によってはならない。古典は、それと同時代の資料によって読まねばならない。中国古代の思想界は儒学を含む「諸子百家」と言われた学者思想家たちが活動した時代であった。老荘家、墨家、法家、縦横家、兵家などの諸流派が儒家と並んであった。前漢王朝以来、儒学が国定思想となったために他の学派は異端と見なされることとなった。だが、儒学から見ると異端思想と言われるものであっても、『論語』や『孟子』と同時代の文献であるから文献的、言語的、歴史的な研究対象となる。これまでの儒学の歴史の中で冷遇されてきた、中国古代の非儒学あるいは反儒学の立場から書かれた諸子百家の著作もまた、重要な文献となったのである。 (注)「〓けん」は「茅かや」の異体字。荻生徂徠が日本橋茅場町に塾を開いたことにちなむ。 しかし徂徠学は文献学を重視したために、その政治性・思想性と同程度に文学的・人文科学的性格を帯びることとなった。徂徠自身はバランスを保っていたものの、彼の弟子たちは2つの傾向に分裂していった。服部南郭(はっとりなんかく・1683〜1759)は文学派、太宰春台(だざいしゅんだい・1680〜1747)は思想派を代表する徂徠の2大弟子である。文学派の方は、文学自体が持つ怠惰な傾向に流れたが、太宰春台はすぐれた学者・思想家として活躍している。 春台、太宰氏、名は純、字は徳夫、俗称は弥右衛門。春台は号で、別に紫芝園とも号す。正徳5年(1715)、江戸川に自分の紫芝園塾を開いたことによる。春台の詩文を集めた『春台文集』を1名『紫芝園稿』というのはこの別号にちなんでいる。春台は織田信長の守役をつとめた平手政秀の子孫で、信州飯田に生まれた。父は飯田藩・堀親昌に仕えたが、その姻戚・太宰氏の跡を継いだために姓を変えた。15歳の時、春台は出石藩・松平忠徳に仕えたが、病気を理由に辞職した。以後10年ほど学問の為に遊歴したのであるから、病気というのは口実であった。 彼は初め、朱子学を学んでいたが、正徳元年(1711)32歳の時、朱子学を放棄して徂徠の門下に入った。したがって春台の学問の基礎的部分は、すでに出来上がっていた段階であった。事実、彼の学識は高く、入門後すぐに徂徠門下の思想的傾向を継ぐ弟子として見られている。 春台は、孔子の儒学は「古代の聖人が政治の道具として述べたものだ」と考えた。だから学問とは、「経世の学」すなわち世のため民のためのものであるべきだ、とした。春台は徂徠の弟子として文献学的業績『論語古訓』などの著作を残しているが、本領は経世学方面にあった。 春台の著作は多いが、『経済録』が主著である。『経済録』は彼の経世思想を書いた、現代的には政治論・経済論であるが、第1「経済総論」、第2「礼楽」、第3「官職」、第4「天文地理」、第5「食貨」、第6「祭祀・学政」、第7「章服・儀仗・武備」、第8「法令・刑罰」、第9「制度」、第10「無為・易道」の10巻からなっている。このうち春台の学校論・教育論は、第6「学政」の項、その他の著作では『聖学問答』『弁道書』などに展開されている。 春台は「学政」で次のようにいう。 「学政というは、学術の政令なり。天下国家を治むるには、人才を得るを先とす。人才は学問より出るなれば、天下の人に学問をなさしめて、人才の出る様にする政を学政という。‥‥およそ学政はただ人才を多く得るを要とす。人才は国家を治むる道具なる故なり」 では、天下国家を治める人材とはどのような人間をいうのか。それは、博い知識と広い視野を持ち、見識の高邁な人物を指す。春台によれば、このような人物は学問をすることによって育成されるのである。だからこそ、学校という組織が必要なのである。 「学問なき者は、今日、目に見、耳に聞きたるばかりを知りて、遠き古の事、広き天下の事を知らざる故に、聞見狭く知識少なくして、一己の身を修め、小さき家を治むるにも是非に惑い、処置に惑うことあり。‥‥書を読み学問したる者は、この国に居りて異国のことをも知り、今の世に生まれて千万年の遠き古をも知り、聖賢の教えを守り、歴代の治乱、政事の得失を考えて、今日の時宜にしたがう、これ学問の益なり」 続いて、中国を例に引きながら、人材主義を主張するのである。 「今の世に、七八才以上の童子を師の所に集めて、物書くことを教え、小謳を教え、今川状、庭訓、式目などを読まして、九九八算などを教える如くなり。‥‥さて十五にして大学に入りて、先王の礼楽を学び、士大夫となりて朝廷に立つべき礼義を習う。‥‥総じて中華の風は、古より今の世に至るまで、学問才芸によりて立身して、庶民の子も爵禄を得て、富貴にも進むが故に、人々競って学問を励むなり」 徹底した学問中心の人材論である。しかし、ただ学問だけではない。「徳行才芸ある者」でなければならない。 春台が学校教育によって養成する人材とは、学問と徳行才芸を兼ね備えたものであったのである。そのような人物こそが、天下国家を治めるにふさわしいことは、言うまでもない。 【注記】 聖徳大学(千葉県松戸市)の人文学部日本文化学科において、主に3年生を対象として1996年度から99年度までの4年間、専門科目として「日本思想史」を講義した。 【11B】太宰春台の学校論──学問と徳行才芸が兼備する人材養成の講義内容。 平手政秀の子孫 信長の父、織田信秀の家臣の平手政秀は、真面目で責任感が 強かった。 信長が生まれると教育係に任じられた。しかし、青年時代の信長 は粗暴、奇矯な振る舞いが多く、政秀がいくらたしなめても聞き入 れない。信長は信秀の葬儀の席でも、乱行に及び、教育係として の責任を問われた政秀は、2年後の天文22年1月13日、領地の 志賀村に戻って切腹、死をもって主君の信長を諫めた(享年62歳) この時信長は20才。のちに政秀寺を建立して政秀の菩提を弔っ ている。 堀親昌 堀 親昌(チカマサ)1606年生まれ。下野烏山藩第2代藩主で1672年、 信濃飯田2万石に転封。1673年死去。後を長男・親貞が継いだ。 堀親昌1672-1673 | 堀親貞1673-1685 | 堀親常1686-1697 | 堀親賢1697-1715 | 堀親庸1715-1728 | 堀親蔵1728-1746 | 堀親長1746-1779 | 堀親忠1779-1784 | 堀親民1784-1796 | 堀親シゲ1796-1846 | 堀親義1846-1868 | 堀親広1868-1871 | 廃藩置県 出石(イズシ)藩・松平忠徳 兵庫県の北東部に位置する出石町 但馬の小京都と呼ばれるこの町、江戸時代には但馬地方で経済 の中心的な役割を担っていました。 平成の大合併により隣接す る豊岡市に併合。現在は豊岡市出石町となっています。 |