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折々の記 2011 E
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】09/01〜 【 02 】09/04〜 【 03 】09/09〜
【 04 】09/13〜 【 05 】09/23〜 【 06 】10/06〜
【 07 】10/10〜 【 08 】10/17〜 【 09 】10/19〜
【 01 】09/01
09 02 弾除けの神
09 03 野田内閣閣僚名簿
09 02 (金) 弾除けの神
夫が戦争に行く時に生きて帰ってほしいとは言えなかったという。夫が写真館で撮影した写真を形見にしてほしいと、タキ子さんに託した。居ても立ってもいられなかったタキ子さんは弾避け神社へと行き、写真を納めて祈った。祈りが届き、終戦から2年後夫はタキ子さんのところへと帰ってきた。老生が予科練へ飛び出していったとき、父が夜富田の兵事係の方へ合格を取り消しできないかと交渉にいったということ、出征してから後母は小川のほとりで涙を流して無事を祈ったということ、戦後しばらくしてこの話をききました。 戦争に行くということが親子に何を迫ったのか、今になって胸の痛みが増すのです。 まして次のNHKの放映を見て、みんな口には出さなかったものの悲しい思いに追いやられたことに胸を締めつけられる思いがしたのです。
9月2日放送 15:15 - 16:00 NHK総合
ろーかる直送便 生きて帰れ〜写真に祈りを込めた家族の軌跡〜
山口県にある三坂神社は弾除け神社と言われ、戦時中は2万枚を超える兵士の写真が納められた。写真を納めると弾に当たらないと信じられていた。終戦から66年、写真は神社によって少しずつ返されている。
島根県津和野町に住んでいる一般人は、かつて夫の写真を弾避け神社に奉納した。夫が戦争に行く時に生きて帰ってほしいとは言えなかったという。夫が写真館で撮影した写真を形見にしてほしいと、タキ子さんに託した。居ても立ってもいられなかったタキ子さんは弾避け神社へと行き、写真を納めて祈った。祈りが届き、終戦から2年後夫はタキ子さんのところへと帰ってきた。
夫は病でなくなり、その他一般人のところには奉納した夫の写真が届いた。タキ子さんは毎日写真に語りかけながら暮らしている。
山口市の三坂神社では、宮司のその他一般人が納められている写真を1枚1枚その家族に送り届けた。三坂神社の名前が全国に広がったきっかけは新聞記事で、日露戦争の際のご利益が伝えられたという。戦時中、参拝に来る人が多く、その数は1日800人を超えるときもあった。その他一般人は宮司の仕事の合間に写真を少しずつ整理しているという。
具体的な住所が分かっても連絡がつかないことも多く、写真を渡せない人もいる。写真の返却は戦後にその他一般人の両親が始め、それを引き継いで30年になるという。その他一般人の両親は、写真が遺族の心の支えになると気づいた思いがあった。ある日、軍国主義に協力した疑いで取り調べが迫っているとわかり、その時に必死に写真を隠したのだという。
その他一般人は残された時間は少ないと感じ、新たな手がかりを求め、写真を調べている。多くの写真が納められた村があることがわかり、39枚の写真の手がかりを、自ら足を運び探すことにした。
その他一般人は島根県の旧小川村に訪れ、戦時中から村で暮らしてきたという人を尋ねた。働き手を失った旧小川村は当時貧しい暮らしをしてきて、戦争による深い傷跡を残したという。
戦死した兄弟3人の弟が今も生きているということで、その他一般人はそのお宅へと訪れた。その弟は兄のことはもう忘れたといい、写真を受け取ってもらえなかった。家族の繋がりが戦争によって絶ち切ってしまい、遺された人たちは触れられてくない気持ちをしまいこんでいる。
三坂神社には、写真をもとに家族の記憶を辿ろうとする人も訪れる。訪れたその他一般人は3年前に父の写真を受け取っており、当時の参拝者の名簿を調べるとその他一般人の地区の代表者が参拝していたことがわかった。その他一般人は幼い頃死に別れた父の命日さえわからないことを改めて知ったという。父の消息をつかむものがなにもないと諦めかけていた時に、三坂神社から写真が届いた。
その他一般人は写真に最後の望みをかけており、父と同じくシベリア抑留されていた人を尋ねた。ここで父の写真の服装からいつ頃に撮られたものかを知ることとができた。家族に写真を送ることは元気だと知らせる以外のいろんな気持ちで送っているのだと、その他一般人は写真の意味を深く考えた。
三坂神社の佐伯治典さんは30年間写真を送り続けてきたが、今、体力の衰えを感じているという。多い月で600通の手紙を書いているが、ここ数年は案内を送れる数が限られ、写真を送る数も減っている。戦地で亡くなったその他一般人の家族が見つかった。
その他一般人は山口県下関市に写真を届けに行った。訪れたお宅の女性の、主人の父親の写真だった。戦争で残っているものが何もなく、写真を届けてくれたことに感謝をしていた。
三坂神社のその他一般人は、1枚1枚の写真を家族の元に帰る日を待ち続けている。
〜弾除けの神さんとして信仰された〜
「リュウソウサン【龍爪山】」のお札
毎年3月17日の夜、三島の山間部の集落、元山中・小沢・伊豆佐野では龍爪講【りゅうそうこう】のオフルマイが講仲間によって催されます。
龍爪講は山で狩猟・鉄砲を撃つ人たちの講でした。テッポウガミサンとも称され、明治以降盛んになった祭りで、山での災難・鉄砲による災難を逃れると信じられていました。
「龍爪山」「龍爪大権現」を祀った龍爪神社が各集落に建てられています。もともとは静岡市の北にある薬師岳・文殊岳の山頂近くに鎮座する穂積神社(通称「龍爪山」)から勧請【かんじょう】されたといわれ、静岡県東部には、江戸時代末〜明治時代にかけて多くの龍爪神社が勧請されています。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&utm_source=ja-hp(Googleマップ)戦後までは、三島にある3ヶ所の龍爪神社の祭りは盛大に催されていました。
国道1号線草薙から県道201号線(龍爪街道)から穂積神社への道がありそうです。
幟を建て、祭典の後、射場で射撃の腕を競った所もあります。
この時配られるお札は、鉄砲の弾にあたらないありがたいお札として、三島・駿東の人々が列をなしてもらいに来たものです。
戦争に行く夫や息子のために「龍爪山」のお札は絶大な力と信仰がありました。
明治後半から第二次世界大戦までが龍爪神社の祭りが最も盛んな時期ですが、日本が軍備を拡張し続けた時代と丁度重なります。
戦争に往くことを表立って反対することがはばかられた時代、大切な夫や兄弟・息子達の命が無事帰ってくるよう藁でもすがりつきたい痛切な思いで、遠路はるばる来た人々にとって、一枚のお札は、他に替え難い貴重なものでした。
多くの兵隊が「龍爪山」のお札を胸に、戦場へむかったものでした。
現在、三島の各集落の龍爪講は、それぞれ十数軒の講仲間により続けられています。今では鉄砲を撃つ人はほとんどおらず、先祖から続いている親睦会となっています。
オフルマイの時にお札が刷られ配られますが、他からお札を求めにくる人はいません。
弾除けのお札が多くの人に求められる時代はもう二度とあってほしくないものです。
09 03 (土) 野田内閣閣僚名簿
野田内閣が発足しました。
下のURLを開くと、全て調べることができます。
●野田内閣閣僚名簿
http://www.kantei.go.jp/jp/noda/meibo/index.html
●総理大臣野田佳彦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%94%B0%E4%BD%B3%E5%BD%A6
●総理以外の閣僚
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=Category:%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A%E3%81%AE%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E5%93%A1&from=%E3%81%AE
●内閣総理大臣の一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
●主要8ヶ国首脳会議
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E8%A6%81%E5%9B%BD%E9%A6%96%E8%84%B3%E4%BC%9A%E8%AD%B0
●20ヶ国・地域首脳会合
http://ja.wikipedia.org/wiki/G20
●民主党の国会議員
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A%E3%81%AE%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E5%93%A1
●自由民主党国会議員一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E5%93%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7
●共産党 国会議員一覧
http://www.eda-jp.com/link/jcp.html
●公明党 国会議員一覧
http://www.eda-jp.com/link/komei.html
●みんなの党 国会議員一覧
http://www.eda-jp.com/link/yp.html
●社民党 国会議員一覧
http://www.eda-jp.com/link/sdp.html
●無所属・他
http://www.eda-jp.com/link/others.html
名 簿 一 覧
(平成23年9月2日発足)
職 名 氏 名 備考 内閣官房副長官 齋藤 勁
(さいとう つよし)衆院 内閣官房副長官 長浜 博行
(ながはま ひろゆき)参院 内閣官房副長官 竹歳 誠
(たけとし まこと)内閣法制局長官 梶田 信一郎
(かじた しんいちろう)
●民主党の国会議員
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=Category:%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A%E3%81%AE%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E5%93%A1&from=%E3%81%AE
上記のウィキペディア(フリー百科事典)によって全ての大臣の概略を知ることができます。 総理大臣になった野田佳彦を見ると、次のような概略を知ることができます。
野田佳彦
野田 佳彦(のだ よしひこ、1957年(昭和32年)5月20日 - )は、日本の政治家。民主党所属の衆議院議員(5期)、内閣総理大臣(第95代)、民主党代表(第9代)、花斉会会長(初代)。
千葉県議会議員(2期)、民主党国会対策委員長(第7・10代)、財務副大臣(鳩山由紀夫内閣)、財務大臣(第14代)等を歴任した。
千葉県選挙区 船橋市選挙区
当選回数 2回
任期 1987年4月23日 - 1993年7月5日
【来歴】
生い立ち
千葉県船橋市出身。父は富山県の農家の6人兄弟の末っ子として生まれた自衛官(第1空挺団所属[1])[2][3]。母は千葉県の農家の11人兄弟の末っ子だった[3]。
学生時代
千葉県立船橋高等学校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。立花隆に憧れ、ジャーナリストを志していた[2]。
早大卒業後、松下幸之助が設立したばかりの松下政経塾に入塾(第1期生)。
政経塾卒業後は家庭教師や都市ガスの点検員等、様々な仕事を経験した[4]。
政界入り
1987年、千葉県議会議員選挙に立候補。なお、新聞社の選挙予想では泡沫候補の扱いを受けていたが、当時最年少の29歳で初当選を果たした。千葉県議は2期務めた。
国政へ
1992年、松下政経塾の評議員の1人だった元熊本県知事の細川護煕の下で日本新党の結党に参加。翌1993年の第40回衆議院議員総選挙に旧千葉県第1区から出馬し、当選を果たした。この総選挙では日本新党ほか新生党、新党さきがけが党勢を拡大して自由民主党を過半数割れに追い込み、8党派の細川連立政権が誕生する。日本新党所属の野田も細川内閣を支えるが、国民福祉税構想の頓挫や佐川急便からの1億円借り入れ疑惑で窮地に陥った細川首相は1994年4月に突如辞意を表明し、8ヶ月で退陣。続く羽田内閣も日本社会党の連立離脱により少数与党に転落し、非自民連立政権はわずか10ヶ月で幕を下ろした。同年末、新進党結党に参加する。
小選挙区比例代表並立制導入後初めて実施された1996年の第41回衆議院議員総選挙では千葉県第4区から出馬するが、自民党の田中昭一に105票差で敗北。この票差は全小選挙区でも最小の数字であった(田中昭一:73,792票、野田佳彦:73,687票。野田の惜敗率は99.85%)。新進党は加藤六月のような例外を除き(加藤の小選挙区でのライバルは橋本龍太郎)重複立候補を認めていなかったため、落選した。落選後新進党を離党し、民主党に入党。
2000年の第42回衆議院議員総選挙では民主党公認で千葉4区から出馬し当選。4年ぶりに国政復帰を果たした。同年、民主党総務局長に就任。翌2001年、民主党次の内閣でネクスト行政改革・規制改革担当大臣に就任する。
2002年の民主党代表選挙に際しては、菅直人・鳩山由紀夫の二枚看板(所謂「鳩菅体制」)に危機感を覚える前原誠司、松沢成文、河村たかしら中堅・若手議員で「第二期民主党をつくる有志の会」を結成。9月の代表選に前原、野田のどちらを擁立するかで調整が難航したが、中堅・若手議員を代表する形で野田の出馬に落ち着いた。鳩山代表の3選は阻止できず落選したが、選挙戦を通じて党内での知名度を高めた。その後、鳩山代表から政策調査会長就任を要請されるが、鳩山を支持するために代表選出馬を取り止めた中野寛成の幹事長就任を「論功行賞」と批判し、就任を固辞した。
2002年12月、民主党国会対策委員長に(〜2003年11月)、2004年には次の内閣財務大臣に就任(2005年9月まで)し、党の要職を歴任する。
2005年の第44回衆議院議員総選挙では千葉4区で自民党の藤田幹雄の猛追を受けるが、944票差で藤田を破り、4期目の当選を果たす。なおこの選挙で、千葉県内の小選挙区で当選を果たした民主党議員は野田ただ1人であった。
堀江メール問題での失脚
2005年、総選挙で惨敗した民主党は敗北の責任を取って辞任した岡田克也代表の後任に前原誠司を選出し、野田は前原執行部で再度国会対策委員長に就任する。しかし2006年2月、永田寿康が引き起こした堀江メール問題では、当初このメールの信憑性を疑わず永田を擁護する対応を取ったため、国対委員長を引責辞任した(追って前原も民主党代表を辞任)。なお、このメール問題について、2008年に刊行された民主党秘書らによる『民主党10年史』(第一書林)では「普通の企業なら当然備わっている危機管理と統治能力がなかった」 、「党執行部の仲良しグループ化が生んだ情報囲い込み」が原因だったと指摘している。また馬淵澄夫によれば、国対委員長を辞任した野田と神楽坂のバーで飲んだ際、野田は「いやー、いろいろあったけど墓場まで持っていくしかねぇな」と話したという[5]。
国対委員長辞任後は科学技術政策ワーキングチームの座長として宇宙の軍事利用の検討を行い、防衛目的の利用はできないという従来の政府解釈を転換し、非侵略での宇宙利用を容認する「宇宙条約」の締結を進める方針を示した。更に、「宇宙庁」の設置を主張している[要出典]。
2008年8月、「本当の二大政党なら政策論争をしないと意味がない」と主張し、民主党代表選への出馬を表明したが、幹部の松本剛明に強く自制を求められるなど自らのグループを纏め切れず、更にいわゆるメール問題の張本人の一人である野田の立候補には全党的に反発が強く[要出典]、推薦人(20人)確保の目処が立たず、出馬を断念した。これにより、小沢一郎代表体制の継続が事実上決まった。これについて2008年9月7日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』で立候補を断念した経緯を語った。またこの出馬断念に反発した馬淵澄夫が花斉会を脱会した[6]。2009年5月の小沢代表辞任に伴う後継選挙では岡田克也を支援したが、岡田は鳩山由紀夫に敗北。ただ、岡田が鳩山代表の下で幹事長に就任すると、幹事長代理として執行部入りし、復権を果たした。
鳩山内閣
同年9月の鳩山由紀夫内閣の成立に伴い防衛大臣就任が取り沙汰されたが、近著で集団的自衛権の行使を主張していることから、党内や連立政権での意見対立を刺激することが懸念されたため野田の防衛相就任は見送られたものの、その手腕を高く評価していた藤井裕久財務相の意向により、財務副大臣に就任。2010年1月に藤井が健康上の問題を理由に辞任すると、後任候補の1人として名前が上がり[7]、藤井も野田を後任に推薦する意向だった[8]が、菅直人副総理が国家戦略担当大臣から横滑りする形で副総理兼財務相に就任し、野田の財務相昇格案は見送られた。
菅内閣
2010年6月、鳩山が代表・首相辞任を表明し、6月8日に鳩山内閣は総辞職した。後継代表・首相には菅副総理兼財務相が就任し、菅内閣の財務相には野田が副大臣から昇格する形で就任することとなった。初入閣での財務相就任は初めての例であり、戦後の大蔵大臣時代を含めても比較的異例である。
同年8月20日、為替動向について記者会見で「重大な関心をもって注意深くみていく」と述べる一方、為替介入についてはコメントを避けた[9]。9月8日、円高について衆院財務金融委員会での答弁で「明らかに一方的に偏っている」とし、「必要なときには為替介入をふくむ断固たる措置をとる」「産業の空洞化にもつながりかねないということで、強い懸念をもっている」と述べた[10]。9月15日、政府・日本銀行が「円売りドル買い」の為替介入に踏み切ったことを発表。この介入により1ドル=82円台から1ドル=85円台に急落した[11]。10月8日、1ドル=81円台に上昇したことを受け「より一層重大な関心を持ってマーケットの動向を注視し、必要なときには介入を含めて断固たる措置をとるという姿勢に変わりはない」と述べた[12]。また同日ワシントンで開かれた先進7か国財務相・中央銀行総裁会議(G7)では為替介入について「批判的な意見は出なかった」と説明した[13] 。
2010年9月に発足した菅改造内閣でも財務相に留任。2011年1月の内閣改造に際しては内閣官房長官への横滑りも取り沙汰されたが、野田が財務相続投を強く希望したため、菅再改造内閣でも留任した。
スタンダード&プアーズによる米国債の格下げに伴い、2011年8月8日に行われたG7電話会談では、「米国債への信頼は揺るがないし、魅力ある商品だと思う」と述べ、円高に対してはマーケットの動向を注視すると述べた[14]。
民主党代表選挙・内閣総理大臣へ
2011年6月9日、菅直人首相の退陣表明を受けて仙谷由人民主党代表代行や岡田克也党幹事長らは民主党代表選挙に野田を擁立する方向で調整[15]。朝日新聞(2011年6月9日付)が1面トップでポスト菅の「本命」と報じ、夕刊の各全国紙が後追いした。野田は8月10日の文藝春秋で「時機が来れば、私は、先頭に立つ覚悟です」と党代表選への出馬に意欲を示し[16]、同日の記者会見では「脱小沢」路線は見直すべきとの考えを示した[17]。8月23日、代表選での連携を期待していた[18]前原誠司が立候補の意向を示した。
野田は8月26日に立候補を表明し、原発事故収束を優先事項に挙げる。また自身は脱原発依存の立場であり、原発は新設しないことを表明した[19]。朝日新聞が8月26日に発表した「次期首相にだれがふさわしいか」の世論調査の結果では、原口一博に次ぐ4位となった[20]。同26日には小沢一郎元代表の支持を受けた[21]海江田万里経済産業大臣が立候補を表明[22]。代表選には史上最多となる野田・前原誠司前外務大臣・海江田経産大臣・鹿野道彦農林水産大臣・馬淵澄夫前国土交通大臣の5人が立候補する形となった。
2011年8月29日に施行された代表選挙では、第1回目の投票で海江田の143票に次ぐ102票を獲得[23]。過半数を獲得した候補がいなかったため決選投票となり、小沢への批判票を集めた野田が215票を獲得して177票を獲得した海江田を逆転し、第9代民主党代表に選出された[24]。
投票前に行われた、いわゆる「ドジョウ演説」では、ジョークや相田みつをの詩を交えつつ、政治に「夢、志、人情」を取り戻すことを訴えた[25]。
党首選挙に於ける決選投票での逆転当選は、1956年12月自由民主党総裁選挙での石橋湛山以来55年振りで、民主党では初めてとなった[26]。
民主党代表選出後の8月30日、菅再改造内閣の総辞職を受け衆参両院で行われた首班指名選挙において、第95代内閣総理大臣に指名される[27]。9月2日に天皇による親任式を経て正式に就任し、民主党と国民新党の連立による野田内閣が発足した[28]。
【年譜】
2010年11月、アジア太平洋経済協力財務相会合にて議長に就任1980年:早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。松下政経塾に入塾(第1期生)。 1987年:千葉県議会議員に無所属で立候補。当選。 1992年:千葉県議会議員に無所属で立候補。再選。 1993年:第40回衆議院議員選挙に日本新党公認で出馬。初当選(1期目)。 1996年:第41回衆議院議員選挙に新進党公認で出馬。105票差で落選。 2000年:第42回衆議院議員選挙に民主党公認で出馬。当選(2期目)。 2002年:民主党代表選挙に、第二期民主党をつくる有志の会に推され出馬するが、鳩山由紀夫に敗れ落選。 2002年:民主党の党国会対策委員長に就任。 2003年:第43回衆議院議員選挙に民主党公認で出馬。当選(3期目)。 2005年:第44回衆議院議員選挙に民主党公認で出馬。当選(4期目)。 2005年:党国会対策委員長に2度目の就任。 2006年:党国会対策委員長を引責辞任。 2007年:党広報委員長に就任。 2009年:第45回衆議院議員選挙に民主党公認で出馬。当選(5期目)。 2009年:鳩山由紀夫内閣で財務副大臣に就任。 2010年:菅直人内閣で財務大臣に昇格就任。初入閣。 2011年:民主党代表及び内閣総理大臣に就任。
【政策・主張】
主に松下政経塾出身者の若手議員を中心とした「野田グループ」の領袖である。
沖ノ鳥島が領土であることを批判した唐家?中国国務委員(副首相級)に対し、「南沙諸島を実効支配している貴国にとやかく言われる筋合いはない」と述べた。更に、尖閣諸島に中国人活動家が上陸した折、日本の領土であることを確認する国会決議を提案したことがあり、一貫して中国脅威論を主張する。
小泉純一郎首相の靖国神社参拝が論争となっていた当時、民主党内ではA級戦犯合祀を理由に参拝を批判する見解が多かったが、2005年10月17日提出の質問主意書で「A級戦犯と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない。戦争犯罪人が合祀されていることを理由に首相の靖国神社参拝に反対する論理は破綻しているが、小泉総理の見解ではその論理を反駁できない」、「参拝の是非は国際政治的な利害を踏まえてなされるべきもので、誤ったA級戦犯理解に基づく是非論はA級戦犯とされた人々の人権侵害であり、人権と国家の名誉に関わる問題である」「東京裁判を受諾したという政府や外交当局の見解によれば、裁判における南京大虐殺20数万や日本のソ連侵略といった虚構も含め、日本が満州事変以降一貫して侵略戦争を行って来たという解釈を受け入れることになってしまう」と、保守派の立場をとった[29]。
「安全保障基本法」「緊急事態法」の制定を主張している。
鳩山由紀夫内閣における永住外国人への地方選挙権付与(外国人参政権)については「今、法案を出して、党内をばらばらにする必要はない。政府提案であっても、議員提案であっても、出すべきではない」と述べ、慎重な姿勢を示し、自身の外国人参政権に対する姿勢については「明確に反対だ。外国人が、帰化の手続きを簡略にできるようにすればいい」と述べている[30]。
経済政策では、与謝野馨らと並んで財政再建派・増税派の代表格とされる。東日本大震災の復興財源を賄うための臨時増税を示唆している[31]。
大連立推進論者である。自民党、公明党との大連立に関し「101回でもプロポーズしていきたい」と意欲を示している[32]。
【人物】
身長173cm、体重79kg。メタボ気味と自嘲。
一番最初に政治家を意識したのは3歳半の時[2]。当時の社会党委員長の浅沼稲次郎が右翼の青年(山口二矢)に刺殺されるテレビニュースを観て、母は「政治家って大変ね[2]」とつぶやいたという[2]。保育園に通っていたときには、ジョン・F・ケネディ暗殺が起きた[2]。「内外とも政治家は命懸けの仕事なのだ」と、幼児期には固く信じていた[2]。
野田は今でも、松下幸之助塾長との最終面接を鮮烈に覚えている[2]。笑顔で迎えてもらったが、目は笑っていなかった[2]。むしろ、射抜くような怖い目つきだった[2]。耳はとても大きくて、ピンと立っていた[2]。「キミの身内に政治家はおるか?」[2]「まったくいません」[2]「そりゃ、エエな。ところでキミの家は金持ちか?」[2]「どちらかというと貧乏です」[2]「なお、エエな」[2]。こうして、政経塾で5年間、あるべき政治の姿を学ぶことになった[2]。
駅前で通勤する人々に政策を訴える「朝立ち」を1986年10月から2010年に財務相に就任する前日まで24年間続けた。「駅前留学はNOVA、駅前演説はNODA」と言うフレーズを生む。[33]
民主党の中でも演説の上手さは定評があり、その風貌と相まって「ドスンパンチ」と呼ばれるほどの迫力がある。
地元の千葉県に松下政経塾の地域政経塾である千葉政経塾を地元の有志たちと共に設立するなど、地元の人材育成にも努めている。
性格は温厚で礼儀正しいと評される事が多い[34][35]。
財務省ではたばこ増税に取り組んだが、自身は1日2箱の愛煙家で、「(増税は)切ないテーマ」と認める[36]。東日本大震災の復興財源の税目として更なるたばこ増税が議論になったときは「税制を使ったオヤジ狩りみたいなものだ」と反発した。
酒豪で、日本酒が好き。若い頃は1升くらい飲んだこともあるらしい。
趣味は格闘技観戦で、最強と考えるプロレスラーはジャンボ鶴田。自身も柔道2段の有段者で、超党派で作る格闘技振興議員連盟の会長を務めている。本人曰く柔道でも政治でも寝技は苦手。
カラオケの十八番は「柳ヶ瀬ブルース」「思えば遠くへ来たもんだ」など。
第162回通常国会における2005年1月21日の小泉純一郎首相による施政方針演説の中で、凶弾に倒れながらも「男子の本懐」と漏らした濱口雄幸首相を小泉が自らになぞらえたことに対して、1月25日の代表質問の場において、狙撃後も命をかけて国会に出席し説明責任を果たしたことが浜口の真骨頂であり、ぼかして逃げるあなた(小泉)とは違うと批判を行っている[37]。
国土審議会委員。
【不祥事・問題を指摘された行動】
政治資金問題
過去に脱税事件で起訴された男性が関係する会社から、2007年6月に政治資金パーティーを行った際に40万円ずつ(計・80万円)のパーティー券を購入したことが判明した[38]。この男性の関係する会社は前原誠司外相、蓮舫行政刷新担当相、渡辺喜美(みんなの党代表)の政治資金問題にも関与していたことが明らかになっている[39]。自民党の西田昌司参議院議員は2011年6月3日の参議院予算委員会でこの問題を取り上げ、質問を行った[40]。
2011年1月20日に朝日新聞社が調べたところによると、関係政治団体「野田よしひこ後援会」が、2009年にクラブやスナックで支出した飲食費合計22万2500円を政治資金の交際費として支出したと、政治資金収支報告書に記載しており、野田の事務所は1月19日付で、報告書から削除した。この問題について、同事務所は「女性が接客する店の代金は、政治家の政治活動にはあたらない、と判断したので削除した」と説明した[41]。
2011年6月11日にJNNが取材したところ、法人税1億数千万円を脱税していた容疑のあるソフト開発会社から「民主党千葉県第4区総支部」に2003年、2005年の2年間で計50万円の企業献金を受けていたことが明らかになった[42]。
2011年6月16日には、業務上過失致死罪で医師が起訴された品川美容外科グループ創業者の男性から、2008年と2009年、2010年に各100万円の政治献金を受け取っていたことが明らかになった[43]。この問題に対し、野田は「返金を検討したい」と述べた。
民団に選挙協力で謝辞
2011年8月31日に「夕刊フジ」が報じたところによると、第45回衆議院議員総選挙の直後に行われた韓日友好イベント「マダン祭」で在日本大韓民国民団(通称:民団)に対し、選挙協力への謝辞を述べていたことが判明した[44]。野田はこの中で、「千葉民団の皆さんの力強いご推挙をいただき、力強いご支援をいただきましたことを、心から御礼申し上げたいと思います」とあいさつした。
経団連会長からの接待
2011年9月1日に、2010年10月29日の財務相就任時に、手塚仁雄・民主党総括副幹事長のほか、坂根正弘・日本経団連副会長(小松製作所会長)、丹呉泰健・前財務省事務次官と民間人1名と共に、住友化学の名で、日本経団連の米倉弘昌会長の接待宴に招かれていたことが判明した[45]。この問題について「しんぶん赤旗」は、衆議院が1985年6月25日に議決した「政治倫理綱領」が指摘する「公私混淆」に相当する疑いがあるとしている。
【家族・親族】
父(元自衛官)
弟・剛彦(政治家・船橋市議会議員[46])
妻
夫人は東京江戸川区の町工場に生まれ、音大で声楽を専攻[47]。
長男
次男
【系譜】
野田家(富山県富山市、千葉県船橋市)
父は富山県婦負郡野積村(現在の富山市八尾町水口[48])の出身[2]。農家の6人兄弟の末っ子として生まれた[2]。自衛隊の前身である警察予備隊に入隊し、定年で退官するまで自衛官としての人生を歩んだ[2]。習志野駐屯地勤務の折に、母と出会い、結婚[2]。母は千葉県の農家の11人兄弟の末っ子だった[2][3]。貧乏で結婚式も挙げなかった[49]
野田によると「農家の末っ子同士の間に生まれた子どもが、私です。選挙区が都市部なのにシティーボーイに見えないのは、そのせいかも知れません[25]」という。
出生時、係累に政治家は誰もいなかった[2]。
妻 ┏男
┣━━━┫
父 ┏野田佳彦 ┗男
┣━━┫
母 ┗野田剛彦
【著書】
『民主の敵―政権交代に大義あり』新潮社、2009年7月 ISBN 978-4106103230
【脚注】 省略
●総理大臣以外の民主党の国会議員
上記の野田佳彦総理と同様に、あいうえお順で調べて総ての議員の概要を知ることができます。