折々の記へ
折々の記 2011 E
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】09/01〜 【 02 】09/04〜 【 03 】09/09〜
【 04 】09/13〜 【 05 】09/23〜 【 06 】10/06〜
【 07 】10/10〜 【 08 】10/17〜 【 09 】10/19〜
【 08 】10/17
10 17 小諸散策とピアノ教室発表会
10 17 (月) 小諸散策とピアノ教室発表会
※ きのうはピアノ教室発表会がありいってきました。
一昨日10時に家を出て鶴巻へ二時ころに着きました。 その夜は「金すし」で夕食をいただき、北国街道沿いの「つるやホテル」へ泊まりました。
16日は発表会当日でしたが、森住宅へ挨拶にいきその後布引観音、小諸義塾記念館、浅科の道の駅、五郎兵衛用水記念館へ立ち寄りました。
■ 布引観音
【布引観音入口、駐車場】 【布引観音入口前の千曲川】
布引観音へ着いたときには断崖の上のほうは
布引山釈尊寺
「牛に引かれて善光寺参り」の伝説
で知られる布引山釈尊寺は、神亀元年
(724)の創建と伝えられています。
天文十七年(1548)、武田信玄が
楽巌寺入道、布下仁兵衛を攻めたとき
に兵火にかかって消失したのを、弘治
二年(1556)望月城主であった滋野
左衛門佐が再建しました。その後も享
保八年(1723)に再び野火のために
炎上しています。
現在ある伽藍の多くは、小諸城主牧
野周防守泰明によって再建されたもの
です。観音堂内にある「空殿」は国の重
要文化財に、また「白山社社殿」は県宝
に指定されています。
中部北陸自然歩道
環境省 長野県
まだ朝霧がかかっていた。
この辺りは牧の原台地が絶壁の断崖になって
いるところで、すごい景観です。 絶壁の下を
流れる千曲川の石は、大きな岩石が多く、これ
また壮観です。
参道入り口の左側に「布引山釈尊寺」の案内
板があって、左記のような解説がしてありました。
創建当時の歴史年表を見ると、
710 平城京に都が移される 奈良市を中心
に大和郡山市にかけて。唐の都「長安」を模
倣して作られた
712 古事記が作られる 安萬侶によって献
上。日本最古の歴史書
720 日本書紀が作られる
日本伝存の最古の正史で、六国史の第一。舎
人親王らの撰で神代から持統天皇の時代まで。
723 三世一身の法 墾田の奨励のため、開
墾者から三世代までの墾田私有を認めた法令
とあり、善光寺とともに古い時代にできたことが
わかりました。
【臭木(くさぎ)の実 2011.10.16 撮影】
写真で見るとおり、紅い五弁と紫の丸実、径は 3cm ほどの花木です。
早速調べてみていると、
<自然体験・教室|静岡県掛川市 ヤマハリゾート つま恋>
に紹介されており、更に
<植物観察図鑑>
には非常に詳しい解説がありました。
開いてみると驚きです。 スティーブ・ジョブズの「Stay Hungry」という
‘探求集中力の継続’(「折々の記」2011/10/09)を痛切に感じます。
【解説の一部分】
クサギの果実は色鮮やかです。 赤いところは萼(がく)で、藍色から黒色(濃い藍色)の部分が果実です。このように対照的な2色からなっていると、非常に目立ちます。これを2色効果とよび、鳥にアピールしているものと考えられます。
名称 布引観世音
昔、信心のうすい老婆が住んでおりました。 この老婆が千曲川で布をさらしておりますと、どこからともなく一頭の牛が現れ、その布を角にかけて走り出しました。
老婆は、驚いて、野を越え、山を越え、牛の後を追いかけましたが、ふと気がついてみますと善光寺の境内まで来ておりました。 老婆は、やっとのことで牛に追いついたのかと思ったのもつかの間、牛は金堂のあたりで、突然姿を消してしまったのではありませんか。
驚きと悲しみに疲れ果てた老婆は、あっけにとられてその場にたたずんでしまいました。
日も暮れる頃、どこからともなく一条の光明がさし、その霊光の尊さに思わずひざまづいて、菩提心を起こし一夜を金堂にこもって罪悪を詫び、家に帰ってまいりました。
ある日の事、ふと布引山を仰ぎ見ますと、岩角にあの布が吹き付けられているではありませんか。
老婆は何とかして取り戻したいと思いましたが断崖絶壁の事で取るすべもありません。
一心不乱に念じているうち、布とともに石と化してしまったということです。
この布引山の断崖には今も白く布の形をした岩肌が眺められます。
布引観世音菩薩が、牛に化して信心うすい老婆を、善光寺阿弥陀如来の許に導いて教化をしたのだそうです。
この話は、信濃四大伝説の一つとして、今に語り伝えられております。
小 諸 市
■ 小諸義塾記念館
【小諸義塾記念館】 【惜別の歌 歌碑】
布引観音を見てから島崎藤村ゆかりの小諸義塾記念館へいきました。 調べてみると、次のことがわかりました。
小諸義塾は、明治26年11月、小諸の青年小山太郎等の熱意ある要請にこたえて、木村熊二によって誕生した私塾です。
木村熊二は、明治初年アメリカに渡り12年の留学によって近代の西欧文化を身につけた新進気鋭の教育者であり、キリスト教の牧師でした。
生徒は、当時高等小学校を卒業し、なお向学の志に燃える近郷の青年で、遠隔の者には寄宿舎を与え寝食を共にしました。
その後私立中学校認可を得、やがて島崎藤村等を教師陣に加えて充実した中学校教育へと発展しました。
その背景には、町当局や有志、また都会からの積極的な支援がありました。
しかし、日清日露の戦を契機にして、個性的で自由を特色とする教育は国家的な教育制度に阻まれて、遂に明治39年小諸義塾は、13年間の短い歴史を閉じました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
塾長木村熊二は、教育やキリスト教伝道の他に開発にも尽力しました。
小諸においては、三岡に洋桃や苺の栽培を指導し、明治末から大正にかけての地区の一大産業に発展させる糸口をつくりました。
明治31年には懐古園の南、中棚に鉱泉を発掘し、広く人々の憩いの場にするなどその業績は大きいものがあります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
個性に満ちた教師たち
@ 島崎藤村(1872〜1943)
明治32年4月、旧師木村熊二の招きにより英語・国語の教師として28歳で赴任する。
教師の傍ら第四詩集「落梅集」を刊行、その後自然主義文学に転じ
「旧主人・藁草履・爺・老嬢・水彩画家」などを次々に発表する。
小諸の風土や小諸義塾生活を題材にした「千曲川のスケッチ」は当時の小諸の様子
を生き生きと今日に伝えている。
A 三宅克己(1874〜1954)
明治32年晩霞にひかれて来諸、図画教師として着任する。
明治大正にかけての水彩画の先駆者。丸山晩霞とも親交があり、義塾において島崎
藤村とは絵画や文学の上でのよき友であった。
B 丸山晩霞(1867〜1942)
小県郡弥津村の出身、養蚕農家の次男として生まれ、18歳で上京、水彩画を学び
明治32年欧米に渡り、明治35年、三宅克己の後任として義塾教師となる。
日本水彩画研究所の開設に尽力する。水彩画家小山周次は塾生以来の弟子である。
C 鮫島 晋(1852〜1917)
東京大学物理学科第一期卒業、東京物理学校(現東京理科大)の創設者の一人
である。
明治28年小諸義塾の教師となり、数学・物理・化学などを教える。
ぼうようとして、物事に頓着しない性格で閉塾後も長く塾生に愛された。
藤村とも気心が通じ合い親交があった。
義塾の最後まで深いかかわりを持った教師である。
‘「折々の記」2008/07/15’‘「折々の記」2009/04/16’‘「折々の記」2010/04/27’で取りあげたように、身近な人々の中に素晴らしい先人がいたことにを脳裏に刻んでおかなければなりません。
時間の都合によって拝観せずに、記念館右にある「惜別の歌 歌碑」をカメラに収め、自動演奏のテープを聴いてきました。
惜別の歌 島崎藤村作詩
藤江英輔作曲
遠き別れに耐えかねて
この高楼に登るかな
悲しむなかれわが友よ
旅の衣をととのえよ
別れといえば昔より
この人の世の常なるを
流るる水をながむれば
夢はずかしき涙かな
君がさやけき目の色も
君くれないのくちびるも
君がみどりの黒髪も
またいつか見んこの別れ
君の行くべきやまかわは
落つる涙に見えわかず
袖のしぐれの冬の日に
君に贈らん花もかな
この歌については、『二木紘三のうた物語』を開いて、作曲者藤江英輔の解説を読むといい。
■ 五郎兵衛記念館 佐久市甲14番1
【道の駅、ホットパーク・浅科から五郎兵衛新田眺望】 【五郎兵衛記念館横の関所破りの桜】
平成17年、旧佐久市と合併した浅科村にあります。
ここの「五郎兵衛記念館」で‘五郎兵衛用水路開削’を知り、またまた大変驚きました。 小諸義塾の木村熊二、浅科の市川五郎兵衛二人とも心すべき行動力を持った男丈夫です。
記念館で購入した『五郎兵衛用水を歩く(見学ガイドブック)』1〜2ページには、次のような記事があります。
江戸時代初期は、全国各地で新田開発が進められ、わが国の耕地面積が飛躍的に増加した時代でした。 佐久地方も例外ではなく、各地で新田開発が進められました。 なかでもよく知られているのが、「佐久の四新田」と総称される五郎兵衛新田(佐久市)、塩田新田(立科町)、御影新田(小諸市)、八重原新田(東御市)です。
このうち五郎兵衛新田は、上州羽沢村(群馬県南牧村)出身の市川五郎兵衛真親(サネチカ)が゙、寛永3年(1626)12月に小諸藩から新田開発の許可をもらい、総延長約 20キロメートル の五郎兵衛用水路を開削し、その用水を基に「矢嶋原の芝間」を開発したものです。 この結果、田畑合わせて 70ヘクタール 余りの耕地が新たにつくられました。 ちなみにこの田んぼから取れる米は今日、「五郎兵衛米」と呼ばれ、おいしい米として評価されています。
もっとも、五郎兵衛が開発したのは、これだけではありませんでした。 三河田新田・市村新田 (ともに佐久市) も五郎兵衛が開発したものです。 また相浜新田へ、五郎兵衛用水を分水することもしています。 これによって合浜村(佐久市)がつくられました。
このように五郎兵衛は、今日の佐久市の土台をつくった一人といえます。
五郎兵衛が生まれた市川家は、上州南牧谷 (群馬県南牧村あたり) を根拠地とする在地土豪で、五郎兵衛が生まれたころは甲州の武田家につかえていました。 このことは、五郎兵衛の子孫である市川育英家に伝えられた古文書からわかります。
なかでも、永禄3年 (1560) 5月6日付の武田家感状写は重要です。 そこには、武田信玄へ忠節を尽くしたので、佐久郡小田切 (佐久市) ・ 高野町 (佐久穂町) 120貫と、蓬田・桑山 (佐久市) 80貫を市川右馬助へ、佐久郡海瀬 (佐久穂町) ・ 三分 (佐久市) 130貫と、崎田 (佐久穂町) 70貫を市川右近助へ与えると記されています。
信玄からそれぞれ 200貫の領地を与えられた二人のうち、市川右馬助が五郎兵衛の曽祖父だということですから、五郎兵衛が生まれる以前に市川家は佐久地方に領地を持っていたことになります。 しかも蓬田・桑山 は、後に開発される五郎兵衛新田のすぐ近くですから、市川家はこの辺のことをよく知っていたと推測されます。 こうしたことが、後の水田開発につながったと思われます。
もう一人の市川右近助は、同族である砥沢 (南牧村) の市川家の4代目で、その「先祖書」には「譜代の家来130人余り扶助」と記されています。 市川家に、130人余りの家来がいたことがわかります。
永禄三年の武田家感謝状
(武田信玄)
朱印
(佐久郡) (佐久郡)
此度就忠節、小田切・高野町百弐拾貫、
(佐久郡) (佐久郡) (佐久郡)
蓬田・桑山八拾貫之処右馬助、海瀬・
(佐久郡) (佐久郡)
三分百三拾貫、崎田七拾貫之処右近助
出置候、向後弥奉公肝要候者也、仍而
如件、
(禄)
永録三庚申五月六日
市川市川右馬助殿
市川市川右近助殿
■ 関所破りの桜(しだれ桜)
この記念館の敷地内に「関所破りの桜」と呼ばれる(地元の方は苗代桜と呼ぶそうですが)大きな桜の木があります。
関所破りの桜 日本隅々の旅 全国観光名所巡り&グルメ日記を開くと、老生が撮った写真よりりっぱな花盛りの桜が紹介されています。 次のような由来も出ていました。
<関所破りの桜・由来>
江戸時代の1768年に地域開拓の功労者市川五郎兵衛を祭る神社(真親(サネチカ)神社)を建立することとなり、五郎兵衛の出身地である上州の菩提寺から枝垂桜の苗木をもらい、それを持ち帰るべく碓氷峠にさしかかったところ、通行手形を持っていなかった為通行が許されませんでした。
そこで、訳を話したところ関所の通行を許されたため、「関所破りの桜」と呼ばれる様になったそうです。
<下平記>また別の資料によると、
今、その真親神社は記念館の向かい側に、諏訪神社の末社として残っています。
この神社、これだけでなくて稲荷社やら10社くらいが合祀されておりますので、
鳥居もたくさんあったりして なんだか面白い社です。
五郎兵衛新田を見渡せる小高い丘には、「真親(サネチカ)神社」の隣に「五郎兵衛記念館」、続いて「関所破りの桜」があり、隣続きに「五郎兵衛の墓」があります。
■ オータムコンサート2011)
第11回下平音楽教室発表会
とき : 10月16日(日) 13:30〜
ところ : 交流文化館浅科 穂の香ホール
第 1 部
8 小犬のワルツ (ショパン) 下平涼羽 14 ふるさと (岡野貞一)
もののけ姫 (久石 譲)木村 琴
下平涼羽16 むこうむこう (中田喜直)
オペラ「ドン・ジョバンニ」より
ぶってよ、マゼット (モーツアルト)島田 光
第 2 部
7 ねこバス (久石 譲) 真田莉子
下平涼羽8 パイレーツ・オブ・カリビアン (バデルト) 下平涼羽
下平真弓11 ストロベリーフィールズ・フォーエバー (J・レノン) 霧 万次郎 15 フィレンツェの花売り娘 (ロッシーニ)
スタンドアローン (久石 譲)下平真弓
最終ステージ
全 員 手 を つ な ご う (ショパン)
*涼羽のピアノ演奏と歌唱
ピアノの演奏力には舌を巻きました !! どうしてこんなに上手くなったのか、驚くほどに上達していました。 後で手を合わせてみたが、まだまだ小さい掌なのに …… !
生まれてきたときから、母がピアノを弾く音を耳にし、ピアノを弾く手さばきを目にしてきたことに由来するところが大きいのだろうと思います。 指の動きと大脳の動きは絶えず連動している筈です。 これからの数年の成長が楽しみです。
よくやりましたよ、涼羽 !!
「ふるさと」と「もののけ姫」を、木村琴さんと二人で直立のいい姿勢で歌ってくれました。 涼羽は口の開き方がよく、声は静かに音域は広いように感じました。 声量はこれから出るようになるだろうと思います。
ピアノとともに歌唱力も良かった。
*真弓さんの素晴らしい歌唱力
@ 『La fioaia fiorentina フィレンツェの花売り娘』 (ロッシーニ)
I piu bei fior comprate,
私のかわいい花をもっとたくさん買ってください、
fanciulle amanti e spose:
そこの素敵でお若いお嬢様方。
son fresche le mie rose,
私のバラは咲いたばかりで、
non spiran che l'amor.
愛を語ることはできないけれど。
Ahime !
あぁ!
Soccorso implora mia madre, poveretta,
私のかわいそうな母を助けてあげてください。
e da me sola aspetta del pan e non dell'or.
母は独りぼっちで待っているのです。黄金ではなく、パンを。
A スタンドアローン (久石 譲)
司馬遼太郎の長編小説を原作とするスペシャルドラマ『坂の上の雲』の主題歌
調べていると、「評価の高いコメント」として次のようなものが載っています。
司馬先生はイデオロギーで頭脳を硬化させるものの考え方が大嫌い-でしたね…。なぜなら、それが何主義であろうと自由な価値判断で-その時その時代を賢く正しく生きる為に様々の考えを持った人々が-問題に真剣に向かい合い生き生きと議論して最善の道を見つけ出す-人間共同体制の妨げになるからだとお考えになっていたからだと思-います。我々日本人は、自らの過去を必要以上に卑下する必要もな-ければ夜郎自大的に慢心する必要も無いでしょう。歴史の真実を赤-裸々にあばいて知って、誇り高く人類全てに寄与出来る国民であり-ましょう!@については花売り娘に扮した真弓さんから説明がありました。
Aのドラマ『坂の上の雲』はTVであらましはみてありましたが、歌詞の中味は知りません。
「フィレンツェの花売り娘」と「スタンドアローン」、ともに専門ソプラノのような素晴らしい歌唱で一段と磨きがかかっていたと感じました。
神の恵みとでも言ったらいいのか、歌唱については潜在能力の遺伝的要素が多分にあるように思えます。 医学や 遺伝学の研究が飛躍的に進んできて、各種遺伝因子が基盤として次世代に伝承されていることが明るみになってきています。
個人の技能的能力はそのままにしておけばその能力はそのままであるが、技能の訓練によっては独自の能力は広がりと共に深まりを増すものと思います。
真弓さんの努力には敬意をささげます。 素晴らしい進歩をお喜びします。 ありがとうございました。