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折々の記 2011 E

【心に浮かぶよしなしごと】

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  09 09 ニュースの真偽・武器使用基準 国民合意なき危険な発言・品性
  09 11 9.11十周年 3.11半年

 09 09 (金)  ニュースの真偽・武器使用基準 国民合意なき危険な発言・品性

田中宇の国際ニュース解説を見ていると、今回の野田政権について次のような見方をしています。

【拙速分析・2011年8月30日】
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●野田新政権と日本の閉塞戦略

 民主党の党内選挙で、野田佳彦前財務相が次期首相になることが決まった。これは、どんな意味を持つことになるのか。世界が、米英覇権体制の延命の方向性と、英米覇権体制瓦解(その後予測される覇権の多極化)の方向性の間で、綱引きの状態にある中で、日本の政権交代がどのような意味を持つのかという点が、私の今の関心事だ。民主党内の小沢派や自民党などとの協議、組閣に時間がかかるようなので、まだ拙速分析の段階だが、少し考えてみた。

 海江田万里が首相になるのなら、鳩山がやりかけた小沢路線の復権であり、アジア重視や、沖縄米軍撤退の容認(今年6-7月に米上院で審議された「辺野古移設は無理だ」という方向性を日本側が肯定する動き)などが予測された。現実は、民主党内で小沢路線を支持する勢力が弱く、むしろ党内の過半数が「反海江田」「反小沢」で結束した。

 こうした展開は、今の日本として自然なことだ。8月5日にS&Pが米国債を格下げしたが、米国債は下落せずむしろ上昇し、債券金融システムの力がまだ強いことが示された。米国の金融財政システムは潜在的にかなり疲弊しているが、そのことは日本でほとんど指摘されておらず、日本では世論も政界関係者の多くも、米国の覇権の危うい状況に気づいていない。そうした状況下で、小沢一郎の対米自立・アジア重視の路線を支持する人が少ないのは当然だ。

 日本と同様、国家の潜在力は強いのに対米従属を何十年も続けてきた欧州のドイツでも、メルケル首相が描くギリシャ救済策を通じたEU統合強化(欧州の自立)の戦略が、与党内からすら「ヒステリー状態(hysteria)」的な猛反対を受け、議会をなかなか通らない状態になっている。日本より早く、冷戦終結と同時に欧州統合・対米自立の戦略を開始したドイツでさえ、こんな状況なのだから、日本が対米従属に固執するのは当然といえる。 (Euro bail-out in doubt as 'hysteria' sweeps Germany)

 しかしその一方で、米国がリーマンショック前のような隆々とした状態に戻り、中国が台頭して米国が衰退する現状が逆の流れ(米国再台頭、中国瓦解の方向)に転換し、日米同盟が名実ともに再強化できそうな状況でもない。米オバマ政権は、世界経済の運営に関し、急台頭する中国と協調するしかない。米政府は、米軍駐留費の半分(もしくはそれ以上?)を出してくれる日本に対し、表向き「日米同盟が大事だ」と言いつつも、実質的に日本より中国を重視し続けるだろう。中国や韓国が「右翼」とレッテルを貼る野田が首相になり、前原誠司が外相に返り咲いたりしても、日本が中国中心のアジアを重視する方向に転換する時期を遅らせることしかできない。

 野田はかつて、東京裁判の歴史観を否定して「A級戦犯は戦争犯罪人でない」と主張し、これが中韓が野田を右翼とみなして嫌う根拠の一つになっているようだが、東京裁判は米英主催であり、戦後の米英覇権の土台を作るための歴史観の創造(捏造)行為である。東京裁判史観を否定し続けると、野田は、米国を敵に回し、日米同盟を損なうことになる。だから野田は、首相になる今後、過去の自分の主張を曖昧化して、東京裁判史観を否定することをやめるだろう。野田が首相になった後も東京裁判史観を否定し続けるとしたら、連合軍諸国のプロパガンダ戦略を暴く行為として立派だが、それは期待できない。

 日本の政界は全体的に、小沢の親中国路線を警戒する半面、前原の「中国と一戦交えてでも日米同盟を再強化する」という路線にも警戒している。菅直人は、こうした状況下でバランスをとろうとして、対米従属のプロパガンダ色が強い国内マスコミから批判中傷され続け、信頼を失ったまま辞任した。野田は、前原的な日米同盟再強化路線に少しかじを切ろうとするかもしれないが、それは小幅にとどまりそうで、大きなものになりにくい。野田政権の日本は、菅政権が採ったどっちつかずの状態を維持するのでないか。国民はマスコミの煽動を受けて「政治不信」を続けるのだろうが、それは、世界が綱引き状態にある中、日本がリスクを避けるために閉塞的な姿勢(閉塞戦略、いないふり戦略)を続けざるを得ないという、世界規模の事情に対する視点を欠いており、浅薄だ。

【拙速分析・2011年9月6日】
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●野田に辺野古移転の圧力をかけるオバマ

 米オバマ大統領が、9月1日に行われた野田新首相との電話会談で、普天間基地の辺野古への移転問題を早くやれと圧力をかけてきた。この動きは、今年5月に米議会上院で「日米とも財政難なので、巨額の金がかかる辺野古移転をやめて、普天間の海兵隊をグアムとハワイ、米本土などに移す安上がりな計画に転換すべきだ」という提案が出てきたころからのものだ。 (日本が忘れた普天間問題に取り組む米議会

 日本の官僚機構は、辺野古移転を先送りしつつ米軍駐留費の半分(以上?)を拠出し続ける買収戦略で、日本の対米従属策の大黒柱である米軍駐留を米国に続けてもらってきたが、米側から、日本側の戦略に乗る余裕もなくなってきたというシグナルが発せられたわけだ。この動きに対抗すべく、新首相になろうとしていた外務省傀儡の前原誠司が、7月に名護市の辺野古移転推進派を訪問して策略を練ったり、米国を足しげく訪問したりしていた。前原は米側から、辺野古移転を早くやれと厳命されていたのだろう。) (米国から厳命され普天間の辺野古移転を実現しようと必死の前原誠司)

 結局のところ前原は首相になれなかったが、前原に劣らず官僚重視の観がある野田が首相になった。その直後、野田と電話会談したオバマが、それまで非公式に日本側に伝えてきた「早く辺野古移転を実現しろ。さもないと・・・」という厳しい姿勢を、初めて公式な電話会談の議題として持ち出した。「さもないと・・・」の部分に入るのは、日本での常識だと「永久に普天間基地を使い続けるぞ」であるが、そうでなくて、米上院が提案した「海兵隊をグアムとハワイと米本土に撤退」かもしれない。

 野田政権はあわてて辺野古移転の実現を急ぐ姿勢を見せ、仲井真知事に圧力をかけた。しかし、沖縄県民の大半が反対している辺野古移転の実現が無理であることは、政府もよく知っているはずだ。前原なら、尖閣諸島で中国と一戦交えて緊張を高めて状況を変えるぐらいのことをしたかもしれないが、野田政権はもっと「バランス」重視だ。玄葉新外相は就任早々の記者会見で「日米が基軸」とお題目を言いつつも「多極化(地域覇権国としての中国の台頭)という状況があり、かつてのように単に西側の一員で日米だけやっていればいいというわけではない(中国を重視せざるを得ない)」と述べ「覇権の多極化」を外務大臣として認める発言をしている。 (玄葉外相、辺野古移設案推進の意向「沖縄に向き合う」)

 FT紙は野田新政権について「民主党政権の目標の一つは、日本の真の権力者である官僚から権力を奪うことだった。だが、この目標は達成されていない。野田はこの目標をあきらめた感じであり、菅に比べ、官僚とより密接に関係しそうだ」と書いている。確かにそうなのだろうが、対米従属に固執する日本の官僚機構が、政治の脱官僚化(民主化)と対米従属からの離脱を試みる小沢一郎らとの戦いを続けている間に、官僚機構の後ろ盾だったはずの米国(軍産英複合体)が、かなりぐらついてきている。鳩山政権から2年経ち、日本人自らが、自分たちを対米自立させるのは、ほとんど不可能なことになってしまったが、米国の覇権が壊れ、今や外務省お墨つきの公式用語となった「多極化」が進むことで、日本の自立が成し遂げられることになるかもしれない。この展開は他力本願的、神風的で、日本人にお似合いかもしれない。 (DPJ falls short on `political leadership' pledge)



琉球新報 社説 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-181466-storytopic-11.html

武器使用基準 国民合意なき危険な発言  2011年9月10日

 見過ごせない発言だ。民主党の前原誠司政調会長は米国での講演で、海外派遣の際の自衛隊の武器使用基準を緩和すべきだという考えを示した。

 一歩間違えれば開戦につながりかねない政策変更である。国民的合意もないまま外国に「空手形」を切るかのような言動を、前原氏は控えるべきだ。

 武器使用基準の緩和は、一緒に活動する他国部隊が攻撃された場合、反撃できるようにする狙いがある。

 しかしこれは憲法が禁じる海外での武力行使、集団的自衛権の行使に当たる可能性が高い。何より諸外国は「日本が戦争をする国になった」と受け止めるだろう。

 憲法論争を巻き起こさずにはおかない大きな方向転換が、事前に国民的議論を経たわけでもなく、外国で唐突に表明されたことに強い違和感を覚える。

 政権政党の政調会長といえば、国の政策を決める最重要人物の一人だ。その立場が、米国に対し、発言の実現性を保証する意味を持つ、ということも前原氏は十分承知しているはずだ。いわば「確信犯」的発言といってよい。

 「専守防衛」が大前提だったはずの日本だが、近年は制約が外れつつある。1991年の湾岸戦争では自衛隊を初めて海外派遣し、2003年のイラク戦争では派遣する自衛隊に「正当防衛」「緊急避難」の際の武器使用を認めた。09年成立の海賊対処法は、他国の船舶も護衛の対象にし、海賊船への射撃も認めた。戦争回避の歯止めを徐々に失っているのである。

 前原氏はまた、武器輸出三原則の見直しも訴えた。これもまた、集団的自衛権行使に道を開く重要な「国是」の変更だ。

 武器に関する外国との共同研究を可能にし、防衛産業の国際競争力を高める狙いがある。だが、防衛産業と言えば聞こえはいいが、要は武器製造業だ。武器を外国に売る行為を国民が望んでいるのだろうか。

 戦後、日本は外国と戦火を交える可能性を慎重に排除してきた。武器を売りつけるのも忌避し、それにより諸国から敬意と信頼も勝ち得ていた。これこそ外交上最大の「資産」だったのではないか。

 前原氏が提唱するのは、それを根底から崩しかねない政策変更である。国民投票に付すべき事案といってよい。最低限、総選挙で国民の信を問うべきだ。

【下平追記】

* アメリカの言うがままに、平気で発言する前原。 国の行方についての指導者には不向き
   な人物です。

* 国内だけのマスコミの報道は米国よりの偏ったプロパガンダに流されていて信頼できない。
   ことに世界の政治経済の動いていく方向分析と、日本のめざす基本姿勢が、通常のテレビ
   や新聞では判りません。

* 地球を取り巻くニュースは膨大なもので、専門家が素人にも判るような分析統合をしたもの
   を配ってくれませんと見当もつかないものです。 ところが長いこと田中宇の国際ニュース
   解説を見ていると、間違いなく世界の動向が動いていることがわかります。



■品性

テレビを見ていると、ニュースは役立ちます。 

‘朝ドラ’‘ためしてガッテン’‘大河ドラマ’‘歴史秘話ヒストリア’‘クローズアップ現代’などよい番組があります。

そのほかの番組を見ていると、NHKでさえその場の参加者が‘キャンキャンお笑い番組’化したものがとても多くなりました。 ‘NHKあさイチ’もお笑い番組になりかねません。 

 09 11 (日)  9.11十周年 3.11半年

日本には『恩讐の彼方に』という菊地寛の作品がある。 奈良、平安の頃から大陸から仏教を学び、全国に広がっていきました。 そしてその教えは人々の心の奥深く根をはっています。

アメリカでは 9.11事件に対して、テロとの戦いという方向で国の方針が定められてきました。 無法攻撃に対して反撃という選択を選びました。 当然といえば当然のことかもしれません。 それでも国連の決議を待たずに、一国で方向を決めだして動き出したやり方はおかしいのです。 仇に対しての報復でした。

なぜ 9.11 事件が発生したのか? 日本では昔からの諺として‘火のないところに煙は立たず’という言葉を承知しています。 ‘一寸の虫にも五分の魂’という諺も承知しています。 論理的にも、‘その現象は何故起こったのか’という原因の検証が必要なことは小学生ですらわかりきっていることなのです。 “なんだもんで?”という疑問には全く触れた記事は見当たりませんでした。 これはおかしなことです。

中国では「メイファーズ(没法子)」とよくいう言葉が使われると聞いています。 方法がない、お手上げだ、ということから転じて“しょうがない”といった諦めにもなっています。

おおらかさ明るさ 「これでいいのだ」

 赤塚不二夫のキャッチフレーズ「これでいいのだ」の由来もわかった。 中国では「メイファーズ(没法子)」とよくいう。 方法がない、お手上げだ、ということから転じてしょうがないといったあきらめにもなっている。 赤塚不二夫は帰国後の生活でいじめや貧乏にぶつかり、漫画家デビューにも苦労した。 その中で中国でよくいった言葉を思い出し、自分の言葉に作りかえた。 おおらかに明るく人間も世の中も 「これでいいのだ」 と生きることを肯定したのである。


赤は赤 白は白 斑は斑(マダラ) それがいい   (好上)


◆きょう昼休みの時間は東北岩手の久慈市で「NHKのど自慢」がありました。 震災の悲しみが深いのに皆で元気よく歌い、聴衆もまたひとときの娯楽を楽しんでいました。 締めくくりに千昌夫さんが 「北国の春」 を歌ってくれました。 東北の人々の心を偲び胸が締めつけられる思いがしました。

北国の春   作詞:いではく、作曲:遠藤 実、唄:千 昌夫

 1 白樺 青空 南風
   こぶし咲くあの丘 北国の
   ああ 北国の春
   季節が都会では 分からないだろと
   届いたおふくろの 小さな包み
   あの故郷(ふるさと)へ帰ろかな 帰ろかな

 2 雪解け せせらぎ 丸木橋
   落葉松(からまつ)の芽が吹く 北国の
   ああ 北国の春
   好きだとお互いに 言い出せないまま
   別れてもう五年 あの娘(こ)はどうしてる
   あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな

 3  山吹 朝霧 水車小屋
   わらべ唄聞こえる 北国の
   ああ 北国の春
   兄貴も親父似で 無口な二人が
   たまには酒でも 飲んでるだろか
   あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな

《蛇足》 昭和52(1977)年2月にミノルフォンから発売されました。発売後しばらくは大した反応がありませんでしたが、2年後、爆発的な人気を博しました。
 日本のみならず、アジア全域で愛唱されたことは、よく知られているとおりです。

 なお、「こぶし咲くあの丘 北国の ああ 北国の春」という箇所は、遠藤実のオリジナルではこうなっていました。これを一般に歌われているように改めたのが遠藤実自身なのか、編曲者なのかはわかりません。
 しかし、この改変により、単純になった一方で、歌いやすくなったことは否めません。

 いではくは、八ヶ岳の東麓に広がる長野県南牧村の出身で、本名は井出博正。県境を挟んで群馬県側にも同名の村がありますが、いではくは長野県のほうの出身です。

 早大商学部を卒業後、作詞家を目指して遠藤実に師事しました。
 この歌が最大のヒット作ですが、そのほか杉良太郎の『すきま風』や森昌子の『信濃路梓川』などの佳作も生んでいます。

 この歌は、南牧村の野辺山高原の春をイメージして作詞したものといわれます。

 私は大学2年(昭和37年〈1962〉)の8月、野辺山で行われた1週間の合宿に参加しました。場所は、日本最高地点の鉄道駅・野辺山駅から7,8分のところにある信州大学農学部の付属農場でした。

 当時は、駅のすぐ前から畑や野原、林が広がる、のどかで美しいところでした。10数年して、そのあたりにしゃれたペンションやらホテルやらが何軒も建ったという話を聞きました。
 今はどんなふうになっているのでしょうか。
 思い出深い場所、忘れられない年です。 (二木紘三)



次の歌は東北そのものを歌っているわけではないのだが、‘北へ帰る’その気持ちを思うときいつも胸がキュンとなる歌なのです。 東北の人々の純朴な人柄と困難に屈せず故郷を思う秘めた心根が、なぜか老生の心を惹きつけるのです。 新宅のおばさんが教えてくださったこの歌を静かにゆっくりと歌いたいのです。

津軽海峡・冬景色 作詞:阿久 悠、作曲:三木たかし、唄:石川さゆり

 1 上野発の夜行列車
   おりた時から
   青森駅は 雪の中
   北へ帰る人の群れは 誰も無口で
   海鳴りだけを きいている
   私もひとり 連絡船に乗り
   こごえそうな鴎見つめ
   泣いていました
   ああ 津軽海峡・冬景色

 2 ごらんあれが竜飛岬
   北のはずれと
   見知らぬ人が 指をさす
   息でくもる窓のガラス ふいてみたけど
   はるかにかすみ 見えるだけ
   さよならあなた 私は帰ります
   風の音が胸をゆする
   泣けとばかりに
   ああ 津軽海峡・冬景色

   さよならあなた 私は帰ります
   風の音が胸をゆする
   泣けとばかりに
   ああ 津軽海峡・冬景色

《蛇足》 昭和52年(1977)に発表された大ヒットかつロングヒット曲で、『天城越え』と並んで、石川さゆりの代表曲。

 先ごろ、中学だか高校だかの音楽教科書の1つに掲載されたというので、話題になりました。時代の変化を実感させます。かつては歌謡曲が音楽の教科書に載るなど、思いもよらぬことでした。

 石川さゆりはこの曲で、同年の日本レコード大賞歌唱賞などを受賞するとともに、NHK紅白歌合戦への初出場も果たして、演歌の代表歌手と目されるようになります。

 青森・函館間を結ぶ青函連絡船が運航していたころの歌です。青函連絡船は、青函トンネルが完成し、鉄道路線が開通した昭和63年(1988)3月をもって廃止されましたが、旧青函連絡船八甲田丸前および竜飛岬と、歌詞ゆかりの地に歌碑が建てられました。

 なお、竜飛岬の本来の地名は竜飛崎(たっぴざき、またはたっぴさき)です。阿久悠が音数を合わせるために竜飛岬としたわけですが、この歌の大ヒットにより、竜飛岬と呼ぶ人が多くなりました。

(二木紘三)



坂本九 上を向いて歩こう

日航機御巣鷹山墜落事故より18年
坂本九の上を向いて歩こうは、1962年、ヨーロッパで紹介され、大ヒットした。 フランスなどでは原題と同じ意味のタイトルで発売されたが、イギリスでは「SUKIYAK-I」、ベルギーやオランダでは「忘れ得ぬ芸者ベイビー」と改題され、それぞれヒットした。

    がんばれ!!!日本!!!
    九ちゃんも天国でそう祈ってるはず!!!

      些少ではありますが給料の生活費分を残して義援金に寄付しました-。
      夕食後この歌を聞いていました。家内が生活費の半分を『お小遣い-にして』と持ってきました。
      子供も来ました。3人で泣きながら何回も聞きました。いい歌です-。
      被災地の皆さん。がんばってください。

    上を向いて歩こう  作詞:永六輔、作曲: 中村八大

         上を向いて歩こう
         涙がこぼれないように
         思い出す春の日
         一人ぼっちの夜

         上を向いて歩こう
         にじんだ星を数えて
         思い出す夏の日
         一人ぼっちの夜

         幸せは雲の上に
         幸せは空の上に

         上を向いて歩こう
         涙がこぼれないように
         泣きながら歩く
         一人ぼっちの夜

         思い出す秋の日
         一人ぼっちの夜

         悲しみは星の影に
         悲しみは月の影に
         上を向いて歩こう
         涙がこぼれないように
         泣きながら歩く
         一人ぼっちの夜
         一人ぼっちの夜

 09 12 (月) 弘前からの贈り物

【津軽富士(岩木山)】

東北自動車道を走って津軽SAで車を止めると、美麗という言葉がよく似合う津軽富士に対面することができます。 津軽のリンゴ園が広がっていていつまでも心象に残る風景です。

老生はもう30年余にもなる昔、家内と一緒に北海道旅行のたびに出かけたのですが、そのときに見た印象が今でも鮮明に残っているのです。 津軽の‘おいわきさん’は素敵でした。

津軽出身の人たちにとっての“故郷の山”、いい山ですね。

【啄木の故郷を偲ぶ短歌】

 昭和29年頃渋民村を訪れたとき、啄木の故郷の山‘岩手山’と啄木の心のつながりをしみじみ感じたものでした。

斉藤さぞうさんの家へお寄りしたときにお聞きした話や鶴飼橋の北上川の流れを眺めた印象は、人と自然がいかに深く関わっているのか、そして故郷のイメージによっていかに人が救われるものなのか痛感したものでした。

  石をもて追わるるごとくふるさとを  出でしかなしみ消ゆる時なし

  やはらかに柳あをめる北上の  岸辺目に見ゆ泣けとごとくに

  ふるさとの山に向かいて言ふことなし  ふるさとの山はありがきかな

  かにかくに渋民村は恋しかり  おもひでの山おもひでの川

  今日もまた胸に痛みあり死ぬならば  ふるさとに行きて死なむと思ふ

啄木がいかに故郷と結びついていたか、訪ねる人はだれも胸に迫るものが多いのです。

田舎館村、弘前市と隣り合わせの落ちついた集落のようです。 弘前中央高等学校はお濠をはさんで雄大な岩木山を背景とした弘前城に接していました。 すてきな環境です。

‘いのち’という銘菓を頂きました。 すがすがしい心遣いに感謝します。 素晴らしい故郷、だいじにしてください。

■ 東北の被災地の皆さん頑張ってください。 応援しています。 第七回義援金をお送りしました。