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  03/03 応仁の乱   何故いま応仁の乱なのか?
        (1) Google による検索   ①~⑩
             ・ 応仁の乱について
             ・ 第32回 応仁の乱と衰退する室町幕府

 03 03 (金) 応仁の乱     何故いま応仁の乱なのか?

何故いま応仁の乱なのか?
新書が20万部超のヒット なぜ? 略記
      http://www9.nhk.or.jp/nw9/digest/2017/03/0302.html
      2017年3月2日(木)

1467年は何の年でしょう?

「『応仁の乱』ですよね。
「今年(2017年)はこの乱が起きて550年なんですが、一体どのような戦いだったのか、誰が関わっていたのか、よくわからないという方も多いのではないかと思うんです。
そんな中、実は今、応仁の乱について詳しく書いたこちらの新書が、発行部数20万部を超えるベストセラーになっているんです。 著者自身がびっくりというほどの売れ行きだそうですが、なぜ売れているのでしょうか?」

異例の20万部超 その秘密とは…

『応仁の乱』編集担当 中央公論新社 並木光晴さん 「信じられない数字、いまだに。」

室町時代、京の都を中心に、11年に及んだ戦乱です。

8代将軍・足利義政(よしまさ)の弟・義視(よしみ)と、子の義尚(よしひさ)との間で起きた後継者争いと、有力大名の対立が複雑に絡み合い、長期化しました。しかし、その詳しい内容はあまり知られていません。

「応仁の乱(知っている)?」
「歴史では習ったけど、覚えない。」
「聞いたことはあるけどわからない。」

新書『応仁の乱』著者 呉座勇一さん
「あんまり単純化、図式化してしまうと、応仁の乱を扱った意味がない。 複雑だからこそ学ぶ意味がある。」

 教科書などで主に取り上げられるのは、足利将軍家と両軍の有力大名です。

 これに対し、呉座さんが登場させた人物は、およそ300人。 呉座さんは、関係者の多さこそが、乱が長期化した大きな理由だと分析しています。相次ぐ裏切りや同じ一族での争い。さらに、将軍義政らが早期終結を画策しても、反対する人が出て収拾できなくなってしまったのです。

 応仁の乱にひかれ、実際に小説を書いた人もいます。 人気作家の垣根涼介さんです。

今年、直木賞の候補となった「室町無頼(むろまちぶらい)」。 応仁の乱前夜の京都で、貧富の格差が拡大する中、一揆を起こそうと画策する浪人らの姿を描いています。

 作家 垣根涼介さん
 「結局、社会・国が守ってくれることを完全に期待していていい時代ではない。そういう時代の中でどうやって生きていくのか。」垣根さんは、応仁の乱の新書に、現代を重ね合わせた読者もいたのではないかと感じています。
 「今の閉塞感に似ている気もする。バブル崩壊後のこの20年くらい。 『いつかはよくなる』といろんな試みをするが、本質的には右から左へ物事が移っただけとか。そういう部分と重なる部分があるのかもしれない。 結局、自分なりの武器を持って生きていくしかないんだろうと。」
 にわかに高まる「応仁の乱」への関心。 不透明感が増す現代社会に生きる私たちの心を反映しているのかもしれません。

 実際、ツイッターでも…。
  “室町ブームは、やはり現代が中世化しているからなのか”
  “歴史はしみじみ、意図したようには動かないものですね”

  「応仁の乱」 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)2016/10/19 呉座 勇一 ¥ 972

☆                    ☆                    ☆
【下平】

 安保条約により日本の政治権力はUSAの思惑通り、保守一辺倒という形で進んできており、加えてトランプ大統領になるや否や日本の総理はご機嫌伺がてら渡米してきました。一方国内では石原慎太郎の豊洲市場移転にかかわって土地交渉のドロ沼が明らかになり、大阪の森友学園建設にかかわっては国有土地売却「格安の謎…査定9億円、学校法人へ1億円で売却」

   格安の謎…査定9億円、学校法人へ1億円で売却
      ごみ撤去に8億円、妥当か  毎日新聞2017年2月16日
4月に開校する小学校建設のため、学校法人に売却された大阪府豊中市の国有地について、財務省近畿財務局がいったん売買価格を非開示としたことに端を発し、売却を巡る経緯に注目が集まっている。土地は評価額を大幅に下回る価格で売却されたことから問題視する声が上がるが、国は地下に埋まったごみの撤去費を差し引いたと正当性を主張。開会中の国会でも取り上げられた。【服部陽】
が明るみに出て、政治の行方は国民不在の行政になっている。

日本の政治の歴史を鳥瞰してみても、日本独自の identity を組み入れた政策を主張した人たちは、司法組織をはじめ安保条約の相手国USAの意向に沿って政策実現が根底から覆されてきた。

ピケティの経済格差の原因についても一顧だにしない。 一人当たりのGDPをみても、富裕層の人々を保護する方向は変えようともしない。

恒久平和という言葉は国民を誤魔化した絵に過ぎない。 戦争への転落は急速に進んでいる。 前車の轍を踏まずという戒めは政治家の頭に思い浮かばなくなっています。

将に、応仁の乱そのものは温故知新の故事なのに、そして発行20万部という数字は「不透明感が増す現代社会に生きる私たちの心を反映している」のに、私たちはこの事実にまっとうから対処していない。

「応仁の乱」20万部の超ヒット、こうした一般庶民の反省やら批判に対して、マスコミは引っ込み腰でいる。 政治家の政治権力に対して、マスコミの表現自由の権力は国民を代表する権力であるはずだ。

さらに言えば、こういう言葉で言ってはおかしいけれど映像文化の進展により、心の文化と視覚表現文化がアンバランスをきたしてきている。 




応仁の乱 google検索
      https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1&*

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      約 442,000 件 (0.54 秒)

① 応仁の乱 - Wikipedia
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1
応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政 ...

② 応仁の乱について
      www12.plala.or.jp/rekisi/ounin.html
足利将軍家のお家騒動、守護大名の家督争い・・・。まさに、人よ空しい応仁の乱を詳しく見てみましょう。

③ 応仁の乱とは (オウニンノランとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
      http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1
応仁の乱とは、応仁元年(1467年)~文明九年(1477年)の間に起った、将軍家をはじめとする幕府勢力の内乱である。応仁・文明の乱とも呼ばれ、戦国時代の端を切った戦乱としても有名である。...

④ 応仁の乱|新書|中央公論新社
      http://www.chuko.co.jp/shinsho/2016/10/102401.html
2016/10/20 - 室町後期、諸大名が東西両軍に分かれ、京都市街を主戦場として戦った応仁の乱(一四六七~七七)。細川勝元、山名宗全という時の実力者の対立に、将軍後継問題や管領家畠山・斯波両氏の家督争いが絡んで起きたとされる。戦国乱世の ...

⑤ 応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書) | 呉座 勇一 |本 | 通販 ...
      https://www.amazon.co.jp/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1-%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E7%94%9F%E3%82%93%E3%81%A0%E5%A4%A7%E4%B9%B1-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%91%89%E5%BA%A7-%E5%8B%87%E4%B8%80/dp/412102401X
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⑥ 応仁の乱 | ニューワイド学習百科事典 | 学研キッズネット
      https://kids.gakken.co.jp/jiten/1/10020780.html
細川勝元派(東軍)と山名持豊派(西軍)とが,1467(応仁1)年から11年間,京都を中心につづけた戦乱。

⑦ 応仁の乱(おうにんのらん)とは - コトバンク
      https://kotobank.jp/word/応仁の乱-38826
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 応仁の乱の用語解説 - 室町時代末期,足利将軍家ならびに管領畠山,斯波両氏の継嗣問題に端を発し,細川,山名両有力守護大名の勢力争いがからみあって,東西両軍に分れ,応仁1 (1467) 年から文明9 (77) 年 ...

⑧ 第32回 応仁の乱と衰退する室町幕府 - 歴史研究所 - 裏辺研究所
      www.uraken.net/rekishi/reki-jp32.html
京都を舞台に1467(応仁元)年に発生した応仁の乱。これにより日本は戦国の時代へ突入していくのですが、その前哨戦が積み重なり、ついに大きな戦争になってしまいました。さて、何が原因だったのでしょうか。すなわち、将軍家や守護の家督争いです。

⑨ 応仁の乱について|社会の部屋|学習教材の部屋 - Biglobe
      http://www7a.biglobe.ne.jp/~gakusyuu/rekisi/ouninnoran.htm
8代将軍の足利義政(あしかがよしまさ)には、なかなか子どもが生まれなかった。そのため、自分の弟である足利義視(あしかがよしみ)を養子としてむかえ、次の将軍とすることにした。ところが、その後に足利義政(あしかがよしまさ)の妻の日野富子(ひのとみこ) ...

⑩ 応仁の乱を超簡単に解説、人気が無いけど重要な時代だぜ | わかりやすい ...
      tetutora.black/?p=33
2015/09/27 - 応仁の乱を超簡単に解説し、その内容を知っていただく記事です。 受験勉強などで「意思むなしい応仁の乱」などと年号暗記をした方も多い応仁の乱は、1467年に京都を中心に東西の勢力に分かれて戦った大規... 応仁の乱に関連する検索キーワード

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① 応仁の乱 - Wikipedia  コピー済
② 応仁の乱について  簡単な概要

応仁の乱について

 応仁の乱(おうにんのらん)とは、1467年、20万を超える兵が全国から京都へ集結。二手に分かれて実に10年もの間戦い続けた戦乱です。

 では、応仁の乱について少し詳しく見ていきましょう。

 室町幕府8代将軍の足利義政(あしかがよしまさ)は、男子に恵まれず跡継ぎ問題に困っていました。そこで、義政は弟の義視(よしみ)に後を継がせることに決めます。

 ところがです。その後、妻の日野富子との間に(義尚・よしひさ)という男子が生まれてしまいます。親としては、自分の子に後を継がせたいと考えるのは当然の事。そこに、妻である日野富子の強い説得もあり、義政は後継者を義視から子の義尚に変更してしまうのです。

 それに怒ったのは義視です。

  「いったん喜ばせておいてなんじゃそりゃ!」

 これにより、将軍家は義尚派と義視派の2手に分かれてしまうのです。

 同じ頃、有力守護大名の畠山氏や斯波氏の家でも家督争いが起こっておりました。

 畠山氏の家では、将軍家とほとんど同じパターン。

 畠山持国(はたけやま くにもち)には、跡継ぎが出来なかった為、弟の持富(もちとみ)を養子にしますが、その後、義就(よしひろ)という実子が生まれてしまいました。そこで、弟、持富の子である政長(まさなが)と持国の実子、義就の間で跡継ぎ争いとなります。

 また、斯波家でも斯波義健(しば よしたけ)の養子である義敏(よしとし)が重臣と対立し家督を取り上げられると、新しく養子となった義廉(よしかど)と義敏の間で家督争いが始まります。

 まさに、人よむなしい(1467年)応仁の乱ですね。

 さらに、彼らは家督争いを優位に薦めようと、実力者を後ろ盾にしようと考えます。山名宗全や細川勝元です。

   実は、この山名宗全(やまな そうぜん)と細川勝元(ほそかわ かつもと)も娘婿の関係なのですが、ちょうど、この頃対立中・・・。

 そんなこんなで、細川勝元側(畠山政長、斯波義敏、足利義視)東軍約16万VS山名宗全側(畠山義就、斯波義廉、足利義尚)西軍約12万の争い勃発です。

 開戦直後、細川軍が足利義尚を主君として担ぎ、翌年には山名軍が義視を担ぐなど敵味方入り乱れての戦乱は1477年まで続きます。10年もの間、戦い続けた結果、幕府の力は衰退し、その後の群雄割拠の戦国時代へときっかけとなるのです。
③ 応仁の乱とは (オウニンノランとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
  人名の索引が豊富にあるから、本(応仁の乱)を読むときの参考にするとよい。
 書籍紹介のみ
 アマゾンでの案内のみ
⑥ 応仁の乱 | ニューワイド学習百科事典 | 学研キッズネット
  単語の解説は丁寧に出て学習にはよい。
⑦ 応仁の乱(おうにんのらん)とは - コトバンク
  日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 がよい。
⑧ 第32回 応仁の乱と衰退する室町幕府 - 歴史研究所 - 裏辺研究所
  歴史研究所の日本史部分に包含されている。適切な解説。

第32回 応仁の乱と衰退する室町幕府

○跡継ぎ選びを間違えると・・・
 京都を舞台に1467(応仁元)年に発生した応仁の乱。これにより日本は戦国の時代へ突入していくのですが、その前哨戦が積み重なり、ついに大きな戦争になってしまいました。さて、何が原因だったのでしょうか。すなわち、将軍家や守護の家督争いです。

 代表例は次のとおり。

    関連図あり

 どういうことなのか、足利将軍家を例に説明するのが一番わかりやすいのですけど、さっさと引退したかった8代将軍の義政は、妻の日野富子に対して「あいつと私の間には子供を出来ない」とあっさりと決め付けて、弟でお坊さんになっていた足利義視を「次の将軍はあんたにするから、準備よろしく~」と。そこまでは、まあいいでしょう。

 ところが、そのうちに足利義政の息子(足利義尚)も誕生してしまった。
 当然のことながら、日野富子は「もちろん次の将軍は我が息子・・・」と考え、足利義視も「将軍になる準備はいつでもOKですよ!」という状態。ここで義政が「こうだ!」と決断を下せばまだいいのですが、そうではない。そうすると、お互いに有力な味方を得ようとします。

 そこで、足利義尚側を山名持豊(宗全)を中心としたグループが、さらに足利義視を管領の細川勝元を中心としたグループが支援。実は、細川勝元の嫁さんは山名宗全の娘で、元々両者は仲が良かったんですけど、互いに守護としての領国を多く持っており、どちらが幕府の主導権を握るかで対立を始めていたのです。

 これに畠山家、斯波家などの、やっぱり将軍家と似たような感じで起こった家督争いが合体。さらに、各地の守護に「味方して!」と要請し、京都に軍隊が集結してくる。こうして爆発してしまったのが、応仁の乱です。足利義政にしろ、足利義視にしろ、「戦争するんじゃない」と未然に警告は出したんだけど、意味はありませんでした。

 さて、初期の対立構造はこうなってます。

  細川勝元方(東軍)・・・足利義政、足利義視、畠山政長、斯波義敏、武田信賢、赤松政則、京極氏など
  山名宗全方(西軍)・・・足利義尚、畠山義就、斯波義廉、一色義直、六角氏など

 細川勝元は、本陣を京都室町の幕府将軍の屋敷、花の御所におき、山名宗全は、花の屋敷よりも西側にある、自分の屋敷を本陣としたことから、その位置関係より「東軍」「西軍」と呼ばれるようになります。

 さて、1467年5月。ついに戦いがスタートします。
 まず、最初の段階で東軍が勝利を収め、将軍の足利義政と、足利義尚を迎えることに成功。緒戦では東軍が西軍に先制パンチをかけますが、同年8月、西軍に周防・長門などの守護である、大内政弘率いる大軍が援軍にやってきます。そして同年10月、相国寺の戦いで西軍は東軍を大いに打ち破りました。

 そして、京都を焼け野原にする戦闘が各所で行われたのち、しばらくは「にらめっこ」状態になります。そのうちに、「いつ俺は将軍になれるんだ」と不安がっている足利義視を、なんと西軍が「うちにおいで」と誘い、これに成功。あらあら、足利義尚と義視が逆転しちゃいます。

 一方、京都で戦争をやっている間に、自分の本拠地では一揆が発生するなどして、帰国するのもの多数。特に西軍に離脱者が多く、争いの当事者の一人である、管領の斯波義廉も京都から撤退して帰国。大内政弘も「帰国しなければ」と帰り支度はしたものの、山口に帰るためには、播磨の赤松氏の領内を通過しなければいけない。・・・やむをえない、東軍に降伏じゃ~。

 なんてやっているうちに、細川勝元と山名宗全が相次いで死去。それからまもなくして、みな帰国して応仁の乱は終結しました。なお、1477(文明9)年まで争いは続いたため、応仁・文明の乱ともいいます。そして、足利将軍家の場合、結局は足利義尚が第9代将軍となりました。もっとも、将軍に力は無く、本来将軍を守るはずの畠山、斯波などの各家も没落・・・。

 結局、室町幕府の権威は地に落ちる。さらに、地方では守護の家臣である守護代や、地元の国人たちが着実に力をつけ、中には守護を追い出すような例も出てきます。こうして、戦国時代とも呼ばれる騒乱の時代へ、全国が突入します。

 ちなみに、この応仁の乱の間、足利義政はいい気分なもので、庭園作りや和歌に熱中し現実逃避。その集大成が、京都の銀閣ですね。また、妻の日野富子は、だらしない夫に代わって、関所などからの税金などをせっせと溜め込み、後世から批判のされる種となっています。

○中央にばかり気を取られていると
 既に見たとおり、応仁の乱に乗じて、地方の国人(こくじん)と呼ばれる地元の武士たちが、自分たちの権益を守るべく、国人一揆を起こすようになります。特に、1485(文明17)年に発生した山城国一揆は、内紛が続く畠山氏を追い出し、なんと8年も住民と一緒に自治を行うという、珍しいものでした。結局は鎮圧されてしまいましたけど。

 さらに、そもそも守護が追い出されて、部下が政権をのっとる下克上(げこくじょう)もしばしば発生。
 その代表例としてよく言われるのが、美濃の守護である土岐頼芸を追い出した、斉藤道三(さいとうどうさん)。その出自は不明ながら、元々は京都の油商人だったとも言われていますが、頼芸の家臣になり、気に入られて出世したところで、軍事クーデターを起こして追い出したというわけ(親子2代で成し遂げたという説が最近では有力です)。

 ちなみに後年、娘婿の織田信長を大層気に入り、何かと支援していましたが、自分の息子である斉藤義龍に謀反を起こされ、戦死しています。

 それから、小田原北条氏の祖として名をはせた伊勢長氏。
 室町幕府の家臣である伊勢氏の出身といわれていますが、妹が駿河の守護、今川義忠の妻になっていた縁で、今川家のお世話になります。そして、今川義忠死後の相続争いに介入し、妹が産んだ子を跡継ぎとすることに成功。その功績で興国寺城を得ることに成功します。

 ここからが伊勢長氏の腕の見せ所です。
 まずは1491(延徳3)年、堀越公方である足利政知(義政の弟)が亡くなり、政情不安定だった伊豆へ攻撃開始。足利茶々丸(政知の子)を殺害し、堀越公方を滅ぼして、これを占領。さらに1495(明応4)年には扇谷上杉家の家臣、大森藤頼を追い出して、小田原城を占領し、これを本拠地にします。さらに、相模(現在の神奈川県)の守護である三浦義同(よしあつ)を滅ぼし、相模国を支配するようになります。

 まさに勢力拡大の見本的存在です。
 ちなみに、息子の氏綱の頃から、鎌倉ゆかりの「北条氏」を名乗るようになります。一部には「鎌倉時代のの北条氏の子孫だから」と考える向きもありますが、多くの研究者は「鎌倉時代の北条氏とは血縁関係はなく、わざと”北条”の名前を持ってきた」と考えています。

 ところで、浄土真宗本願寺派による一向一揆(いっこういっき)は、守護たちの頭痛の種でした。とくに、1488(長享2)年に発生した加賀の一向一揆などが有名ですね。なんと、守護の富樫政親(とがしまさちか)が倒され、約1世紀にわたって本願寺による支配が続いたのでした。

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⑨ 応仁の乱について|社会の部屋|学習教材の部屋 - Biglobe
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