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続折々の記 ⑦
【心に浮かぶよしなしごと】

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【 04 】10/04

老人のたわごと

これはもう宰相個人の党利、身勝手な衆議院解散選挙であり、
みともない日本歴史の汚点に他ならない


老人のたわごと

国会議員の皆さんへ 今回の衆議院解散・選挙をみて発言したい。

  一 皆さんは知を重んずる集団ではなかった
  二 国会議員という浮き草の集団だった
  三 人が生きる根源もたずねてみない
     無知・偏見の集団だった
  四 そして、よわい人の発言や知恵の論理に、
     聴く耳をかさない人が多い集団だった
  五 これでは、平和をめざす覚悟が
     心の奥にすわっていない集団ではないか
  六 党議拘束(コウソク)という訳もわからぬクサリに
     しばりしばられている集団の一員ではないか
  七 烏合の衆といわれても反論はできない
  八 みなの衆、そうは思いませんか


「なんだもんで」 こんな ‘たわごと’ を書くのか。

死んでしまっては書けない、その通りだ。

すべては温故知新をもとにしている。


  歴史家の指摘   トインビーの見通し

  論語(学而第一)の教え   老子の教え
  不戦条約の願い   満州事変とリットン調査団
  5.15事件   2.26事件   軍政の始まり
  ユネスコ前文   ‘無知と偏見(その語源)’の解釈
  国家の品格の認識

上にあげたいくつかのテーマについて、選挙民に質問されても恥ずかしくない認識を明らかにしておかなくてはならない。

現実をみていると、

日本の物質文化は享楽的あるいは退廃的に傾いている。

革命という言葉の概念にはフランス革命の概念を失っている。

チュルゴーの経済政策を無視し所得格差是正に一顧だにせず、ついには民衆の革命によって政治の変革を成し遂げた事実を国会議員になろうとす人は肝に銘じていてもいいはずです。

再びフランス人のピケティ氏はその著書「21世紀の資本」で行政サイドへの警告を告げているではないか。

為政者になろうとする人なら誰しも真剣に世界の幸福実現のため自国の施政の根底になる構想を築いておかなくてはならない。

どうしてそう考えるのか

皆さんは知を重んずる集団ではなかった

なんだもんで ・・・ 国の基本法を見ると日本国民は、

  正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
  われらとわれらの子孫のために、
  諸国民との協和による成果と、
  わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、
  政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、
  ここに主権が国民に存することを宣言し、

この憲法を確定する とあり、平和を第一の柱とすることを心得とし

さらに ・・・ そもそも国政は、

  国民の厳粛な信託によるものであつて、
  その権威は国民に由来し、
  その権力は国民の代表者がこれを行使し、
  その福利は国民がこれを享受する。
  これは人類普遍の原理であり、

この憲法はかかる原理に基くものである として、人々の厳粛な信託を常に心得ることを柱にすえており

更に ・・・ 

  われらは、
  これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する

と、法治国家の基本原則を明確に表記しています。

このように人々の基本原則を謳(ウタ)い、殺戮に到る戦争を拒否して手を取りあう平安の世界に進めようとして、

日本国民は、

 恒久の平和を念願し、
 人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、
 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、

われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、

 平和を維持し、
 専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、

名誉ある地位を占めたいと思ふ。

われらは、

 全世界の国民が、
 ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
 平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、

 いづれの国家も、
 自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、
 政治道徳の法則は、
 普遍的なものであり、
 この法則に従ふことは、
 自国の主権を維持し、

他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、
 国家の名誉にかけ、
 全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成する

ことを誓ふ。

とあるからだ。 



言霊

ことたまの言葉は古来大事にされてきたといいます。
身勝手な宰相の対話を見ていると,
その顔の表情から心の動きはどうなのか観ていると、
ことの真実を直視した対話とはどうしても思われない。
そこには言霊が直感できないのです。


言霊

言霊を調べてみると、次のような解説が出ています。
言霊(ことだま)とは、一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。言魂とも書く。清音の言霊(ことたま)は、森羅万象がそれによって成り立っているとされる五十音のコトタマの法則のこと。その法則についての学問を言霊学という。

概要

声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良いことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。

日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。『万葉集』(『萬葉集』)に「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ」(「志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具」 - 柿本人麻呂 3254)「…そらみつ大和の國は 皇神(すめかみ)の嚴くしき國 言靈の幸ふ國と 語り繼ぎ言ひ繼がひけり…」(「…虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理…」 - 山上憶良 894)との歌がある。これは、古代において「言」と「事」が同一の概念だったことによるものである。漢字が導入された当初も言と事は区別せずに用いられており、例えば事代主神が『古事記』では「言代主神」と書かれている箇所がある。古事記には言霊が神格化された一言主大神の記述も存在する。

自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられた。例えば『古事記』において倭建命が伊吹山に登ったとき山の神の化身に出会ったが、倭建命は「これは神の使いだから帰りに退治しよう」と言挙げした。それが命の慢心によるものであったため、命は神の祟りに遭い亡くなってしまった。すなわち、言霊思想は、万物に神が宿るとする単なるアニミズム的な思想というだけではなく、心の存り様をも示すものであった。

万葉時代に言霊信仰が生まれたのは、中国の文字文化(漢字)に触れるようになり、大和言葉を自覚し、精神的基盤が求められたこととも無縁ではないという指摘がある[1]。江戸期の国学によって、再び取り上げられるようになった際も、漢意(からごころ)の否定や攘夷思想とも関連してくるとされ、自国文化を再認識する過程で論じられてきた[2]。

金田一京助は『言霊をめぐりて』の論文内で言霊観を三段に分類し、「言うことそのままが即ち実現すると考えた言霊」「言い表された詞華の霊妙を讃した言霊」「祖先伝来の一語一語に宿ると考えられた言霊」とし、それぞれ「言語活動の神霊観」「言語表現の神霊観」「言語機構の神霊観」ということに相応しいと記している。

山本七平は、日本には現代においても言葉に呪術的要素を認める言霊の思想は残っているとし、これが抜けない限りまず言論の自由はないと述べている。山本によると、第二次世界大戦中に日本でいわれた「敗戦主義者」とは(スパイやサボタージュの容疑者ではなく)「日本が負けるのではないかと口にした人物」のことで、戦後もなお「あってはならないものは指摘してはならない」という状態になり、「議論してはならない」ということが多く出来てきているという[3]。

他の文化圏の言霊

他の文化圏でも、言霊と共通する思想が見られる。『旧約聖書』の「ヘブライ語:רוח הקודש」(ルーアハ)、『新約聖書』では「希: πνεῦμα, pneuma」(プネウマ。動詞「吹く(希: πνέω, pneō)」を語源とし、息、風を意味する)というものがある。「風はいずこより来たりいずこに行くかを知らず。風の吹くところいのちが生まれる。」この「風」と表記されているものが「プネウマ」である。

一般に、音や言葉は、禍々しき魂や霊を追い払い、場を清める働きがあるとされる(例:拍手 (神道))。これは洋の東西を問わず、祭礼や祝い、悪霊払いで行われる。神事での太鼓、カーニバルでの笛や鐘、太鼓、中華圏での春節の時の爆竹などはその一例である。

言葉も、呪文や詔としてその霊的な力が利用される。ただし、その大本になる「こと」(事)が何であるかということには、さまざまな見解がある。たとえば「真理とは巌(いわお)のようなものであり、その上に教会を築くことができる」と考えたり、あるいは「真実を知りたければ鏡に汝自身を映してみよ、それですべてが明らかになる」といい、それは知りうるものであり、また実感として捉えられるものであるとみる意見や、「こと」自体はわれわれでは知りえないものであるという主張もある。これらはさまざまな文化により、時代により、また個人により大きく異なっている。

脚注

 1.  川村湊 『言霊と他界』 講談社学術文庫 2002年 ISBN 4-06-159575-X p.15.
 2.  同『言霊と他界』 p.15.
 3.  山本七平・小室直樹「日本教の社会学」ビジネス社、2016年、P58(初出1981年)