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続折々の記 2018⑪
【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】12/27~     【 02 】12/31~     【 03 】01/02~
【 04 】01/24~     【 05 】02/01~     【 06 】02/08~
【 07 】03/01~     【 08 】03/05~     【 09 】00/00~

【 2018⑪ 】の内容一覧

                       01 誇り高き日本の歴史
                       02 2018年の総括
                       03 2018年の総括
                       03 歌声の思い出
                       03 放送文化について
                       04 ミトコンドリアの役目に関して
                       05 日系アメリカ人
                       06 感謝について
                            すべてに軌道修正を
                       06 日産ゴーン会長失脚
                       07 ドナルド・キーンさんご逝去
                       07 米朝首脳会談まさかの決裂
                           人の歴史は泥まみれの足跡そのまま
                       07 「戦争をしない国」と「天皇メッセージ」
                           譲位される陛下の心


【 01 】12/17~

 12 27 (金) 誇り高き日本の歴史     古代史 全(①〜⑨)

推察によって歴史の編集はされていく。 帰納的に事実に近ければほぼそれを共有認識として歴史の筋道とし認めてもいい。

今のところ、最近出版されているペトログラフや古史古伝やそれらをまとめた考え方が学問上共有されてはいない。 だから仮説というほかはない。 仮説が定説になるまでにはあらゆる考察がされて共有された部分を学問上では学生の教科書として流布されなくてなならない。

今は日本史の再編成をみんなで調べて確認し、一つの仮説として確立する必要がある。 だから、もろもろの説の一つだけに執着しなく考察を進めなくてはならない。 歴史としてはそういう段階と考えてとらえる。



この「誇り高き日本の歴史」というブログは "日本人一人一人を鼓舞しようとしている" そういう立場の考えが強すぎる。

この主張は次のように9つの説に分けて解説されています。

誇り高き日本の歴史  古代史 全(①〜⑨)

  https://blog.goo.ne.jp/ici05876/c/95f0d2c44d98976feb0470db107c7052/1
  まえがき  2017-01-07 19:52:33 | 古代史 ①
  世界文明は日本から始まっていた!  2017-01-07 19:59:01 | 古代史 ②
  ムー大陸と日本  2017-01-07 20:06:08 | 古代史 ③
  古代天皇が世界を統治した!  2017-01-07 20:10:40 | 古代史 ④

  https://blog.goo.ne.jp/ici05876/c/95f0d2c44d98976feb0470db107c7052
  日本人のルーツと超古代文明  2017-01-07 20:14:44 | 古代史 ⑤
  古代朝鮮の新羅、百済は日本が作った!  2017-01-07 20:17:06 | 古代史 ⑥
  藤原氏によって改竄された日本書紀  2017-01-07 20:20:19 | 古代史 ⑦
  大和王朝建国の謎と安倍一族のルーツ  2017-01-08 21:25:12 | 古代史 ⑧
  稲作は日本から朝鮮半島に伝わった  2017-01-08 21:30:19 | 古代史 ⑨

  ①と②を掲示し、全体のものは別にコピーしまとめた

古代史 ① まえがき

はじめに、本稿は、歴史学の専門家でもない私が、ある日、"京都皇統系奉公衆"と名乗る幾つかの筋から「長髄彦尊(縄文海人族の雄で関東日之本王朝の王)と護良親王(後醍醐天皇の長子で中世の裏天皇)と縁がある」と告げられたことがきっかけで始めたブログの原稿をまとめた趣味の所産です。

もとより、古代史、近現代史に関しては、その道の専門家から様々な出版物が出されています。が、例えば、本居宣長らに始まる戦前までの「記紀史観(皇国史観)」は「古事記・日本書紀」で思考停止し、戦後主流を占めるGHQの息のかかった「唯物史観(マルクス主義)」は「目に見える世界」に偏りすぎています。

また、全時代を通じて、あるいは国境を越えて一貫した思想に基づき記述された著作も少ない事に物足りなさを感じたため、既存の先達によって著された数多の著作や資料、さらに"その筋"からの情報を元に独自の解釈を加えて書き上げた、新しい時代に向けた私の挑戦であり、素人が書いた"歴史書っぽい"読み物であることをお断りしておきます。

ともあれ、そんな気持ちで研究しているうちに、真の日本の凄さ、深さ、古さに驚かされ、この情報を一人でも多くの日本人に知ってもらい、戦後70年経った今、改めて日本の素晴らしさと日本人としての誇りを取り戻していただきたいとの思いも交錯しています。

それでも一応、ここで私の拠って立つ歴史分析の思考方法と歴史観について、冒頭から少し専門的になりますが明らかにしておきます。まず、思考方法としては歴史哲学で有名なヘーゲルの「観念論的弁証法」を採用しています。

その理由を説明しますと、歴史を分析する時、認知されない事実や誤って認知される事実が存在し、「事実」と「叙述」の乖離が生まれます。また、歴史の事実を叙述する際には、史料類からの解釈と抽出、分析、総合を通じて、重要性や影響などが判断されます。

が、この際の拠って立つ価値基準によって、叙述された歴史には大きな違いが生まれますが、この価値基準を何にするのか、またその価値基準は普遍的妥当性を持つのかを明らかにするのが「歴史哲学」です。

ヘーゲルの「歴史哲学」では、「歴史」とは、「絶対者」である「理性(精神)」が、「自由」を実現していく過程(絶対精神の実現)であると捉えますが、このようなヘーゲルの歴史観を「観念論的歴史観」といい、当時のプロイセン国家の成立を持って歴史の終わりとしました。

ちなみに、これに対しマルクスは、生産構造や技術革新などの経済的・物質的要素を重視する「唯物論的歴史観」を唱え、歴史上のすべての闘争は階級闘争であり、階級格差のない共産主義社会の実現を歴史的先史の終わりとしました。

このように、ヘーゲルによると、歴史は「一つの摂理」に従い、「絶対精神の実現」という目的に向かって展開しているということになりますが、この歴史の「摂理」にあたる思考方法が「弁証法」です。

ヘーゲルの弁証法には、「認識の弁証法(観念論的弁証法)」と、「存在の弁証法(唯物論的弁証法)」があります。「認識の弁証法」では、まず「一つの考えを肯定」し、次にその考えが抱える「矛盾」を見出だします。なぜなら、物事は「メリット・デメリットがコインの裏表」の関係になっているからです。

そして、第一の考えと、「矛盾」を解決する第二の考えを付け合わせ、「両者を統合する新しい考え(第三の考え)」へと発展させます。が、この第三の考えも矛盾を抱えていることがわかり、より高次な考えへと統合されます。

ヘーゲルは、この第一の考えを「即自的」とよび、第二の考えを「対自的」とよび、第三の考えを「即自対自的」と呼んでいますが、第三の考えは、第一の考えを二重に否定しますので「否定の否定」ともいいます。

しかし、これはただの否定ではなく、二つの立場を統合してより高次に高めることなので、「止揚ないし揚棄」と言い、これら三者の関係が、「正・反・合」という三角形をなして発展するのが「歴史」だとします。

このように、「認識の弁証法」が「絶対者の発展過程」に焦点を当てたものであるのに対し、第二の「存在の弁証法」は、「現実的存在のありかたそのもの(目に見える世界)」に力点が置かれます。

これについて、ヘーゲルを受け継いでさらに発展させたマルクスの説明によると、例えば、まず「封建社会」があって、これが長く続くと、その内部に矛盾が生まれ社会問題化します。すると封建社会は、この矛盾を解決するように「近代市民社会」へと変貌しますが、

ここでも矛盾が生まれ、それを解決するように「資本主義社会」が形成され、さらに生じた矛盾を解消する形で「社会主義社会」が出現し、最終的に「共産主義社会」が実現するとします。が、マルクスの描いた理想の「共産主義社会」が実現しなかったことはすでに歴史が証明しています。

本稿では、以上のうちの「観念論的弁証法」を採用しています。が、ヘーゲルの言う、歴史を動かす「絶対精神」なるものがあるのかないのかについては疑問を持っています。本稿の最後に詳述するように、ニーチェ以降の現代哲学では、すでに「神、真理、真実」などという「絶対的な存在」は否定されているからです。

にもかかわらず、「観念論的弁証法」にこだわる理由は、後に詳述する我が国で発見された世界最古の哲学書・カタカムナ文献に書かれた「カタカムナ哲学」の内容と整合性があるからです。

すなわち、カタカムナ哲学では、「この世の出来事は目に見えない"潜象界"が"現象界"に反映したもので、両者は"相似象"をなしており、"対立と統合"を繰り返している」としていますが、「弁証法的思考法」は、この「二元性の原理」と共通する面があり、馴染みやすいからです。

そして、この対立する「二元項」を「ナショナリズム」と「グローバリズム」としています。これは前半の古代史編では「海洋民族(南朝皇統)」と「騎馬民族(北朝皇統)」、後半の近現代史編では「国粋派(国権派)」と「国際派」の対立として描く「歴史観」を採用しています。

ところで、先ほど、カタカムナ哲学では「この世の出来事は"(対をなす関係性の中で)相似象"をなしており…」としましたが、相似象は「空間的」に成り立つだけでなく「時間的」にも成り立っています。このことから、本稿では"日本史の臍(へそ)"と言える「南北朝時代」に一言触れた以外は、

「古代史編」と「近現代史編」だけからなるという極端な構成になっており、「時間的相似象」が現れた形をとっています。というのも、外国との接点や摩擦が生まれたのが古代(北方騎馬民族と)と近代(欧米と)だからです。

なお、古代史編に関しては参考資料が少なく、特に先史以前の出来事に至っては、数少ない先達の調査結果やチャネリング情報などを手掛かりにせざるをえないため、現下の史学の主流である、より多くの者の間で合理性を共有する「間主観主義」を貫くことが極めて困難だという事情があります。

このため、その内容は"妄想"とも言っていい程の大胆な仮説(歴史的シュールレアリズム?)になっています。これに対し、いわゆる専門の"権威者"が作り上げた「通説」は無味乾燥で、表面的な事実の切り張りに終始して面白味を感じず、真実を封印することが目的なのかと勘繰りたくなります。

そのためか、実際、古代史分野に関しては非専門家による百家争鳴の状況で、それどころか根拠のない俗説が横行し、まさに「言ったもん勝ち」の様相です。したがって、この辺りの事情を斟酌いただき、単なる"歴史エンターテイメント"として気楽に楽しんでいただければ幸いです。

もう一つ、古代史分野に関して難しいところは、〜千年、あるいは〜万年単位で捉えている関係上、一見、前後の各項の内容で整合性に欠けるように思える箇所があることです。これは便宜上、一定期間を区切って記述しているため避けることができませんが、背景では「二元性の原理」で一貫させています。

ちなみに、ここで超古代史に関して一言だけ申しますと、神々を生み出す神「元無極躰主(母止津和太良世)」が「天之身光大神」などの多くの神を生み、その中で宇宙の創造神「天之御中主大神」とその後裔で男系「高御産巣日神」と女系「神皇産霊神」が生まれて二元性宇宙を創造し、

さらにその後裔の「伊奘諾」「伊邪那美」が、それぞれ日本列島の創造を経ながらそれを起点に、時間差を置いてシリウス(+プレアデス)とオリオンから意識体を迎え入れ、前者からは「ドラゴニアン」としてのムー人、カラ族に入り、後者からは「レプタリアン」としてのアトランティス人、アーリア人に入り、三次元世界で"魂の学びの場"としての二元対立を作り出しました。

ただ、「伊奘諾」「伊邪那美」による日本と地球の創造説に関しては、「国之常立神」の出現によって一旦、日本列島を中心にした「レムリア」文明を形成していたが、そこから「ムー」と「アトランティス」に分かれたとの説もあります。

ちなみに、「レプタリアン」「ドラゴニアン」ともに「龍族」ですが、前者が西洋では「悪魔」とされるのに対し、後者は東洋で「神(龍蛇神)」とされるのは、西洋では「契約・管理・使役」の象徴である「雄牛(神)」をトーテム(種族の象徴)としているからです。

また、古代史研究家の浅川嘉富氏によると、ニュージーランドの原初民族である「ワイタハ族」の「ルカファミリー」の伝承では、「自分たちはシリウスからプレアデスを経由して地球にやってきてムーの建国に携わったが、本家筋に当たるのは日本の天皇家だ」として、実際、1930年代後半に来日、昭和天皇に謁見しこのことを伝えたそうです。

話を日本国に限ってすれば、「邇邇芸命(ニニギノミコト)」を通して二元性の象徴としての「天照大神」と「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」が生まれます。しかし、今は「国之常立神」が「二元性の統合」の象徴として再び姿を表す過程にあるようですが、この続きはそろそろ本編で…。

古代史 ②世界文明は日本から始まっていた!



1、世界の"元つ国”日本

①日本の真の歴史を知るには、世界最古の哲学書「カタカムナ文献」や、世界最古の歴史書「竹内文書」等の古史古伝を読むことが必要です。それらを紐解くと日本の歴史はカタカムナ文献でいう「二元性原理」に貫かれているといえます。

②カタカムナ文献で語られる世界が「潜像界(目に見えない世界)」とすると、古史古伝で語られる世界は「現象界(目に見える世界)」で、宇宙はこの二つの世界で成り立っています。そして日本の歴史という現象は、「東西」「南北」「表裏」というフラクタル構造(相似象)の時系列変化で成り立っています。

③そういう意味で、戦前まで主流を占めた古事記、日本書紀以降の表面的な史実だけに限定する「記紀史観」も、戦後の主流を占める"目に見える世界”だけに限定する「マルクス史観」も、正しい歴史の見方ではありません。

④また、神道では、日本列島は上向き下向き二匹の「龍」が重なり合った形をしているとします。また、台湾まで入れると、世界の五大陸が凝縮された形になっているとも言います(陰陽五行)。つまり、日本は世界の"元つ国"であり、ひな形なのです。

⑤ところで、日本で最も古い文献は「古事記」「日本書紀」とされてきましたが、記紀以前の書として「先代旧事本紀」「竹内文書」「宮下文書」「九鬼文書」「上 記」「安倍文書」「和田家文書」などがあります。そこで、以上の古史古伝を中心に、日本の超古代からの究極の歴史とその本質を明らかにします。

⑥先ず、日本には旧石器時代のものとされる「カタカムナ文献」があり、それによると、超高度な文明が兵庫県の六甲山近辺にあったことが天才物理学者・楢崎皐月博士によって明らかにされています。ちなみに、日本では世界最古12万年前の旧石器も発見されています

⑦そして、近年の調査では、この兵庫県神崎郡神河町と朝来郡生野町にまたがる八幡山には、空海によって四国・剣山から移置された世界中心の象徴「契約の箱アーク」があると言われ、上森三郎氏ら専門家による探索活動が行われています。

⑧また、創建1万5千年の熊本県・日の宮幣立神宮の御神体「日文石板」は、炭素測定の結果約20〜30万年前のものとされていますが、そこには「豊国文字」で「ひふみよいむなやこともちろら、ねしきるゆいつわぬそを、はたくめかうおえに、さりへてのますあせゑほけれ」と記されています。

⑨この意味は「大量の糸の原料となる真麻欄(まおらん)を採取し、それから取った縷(細い糸)を紡ぎ、衣料を整え、強い兵士を大量に育成せよ。そうすれば交戦してくる悪い部族の敵は彼方に退散する。神様がくださった広大な田畑を心してしっかり耕作せよ」となるとされています。

⑩さらに、全国約800カ所からは「阿比留草文字」「出雲文字」「秀真文字」「守恒文字」「神山文字」「アイヌ文字」等約54種類のペトログラフ(岩絵文字)が発見されています。注目に値するのは、海外で見つかったペトログラフが絵画中心なのに対し、日本のものは文字が中心である点です。

⑪一方、これらペトログラフからは"ムー文明"の記憶が見られます。まず下関市彦島や角島、北九州にある沖の島、出雲の日ノ御碕沖等に、与那国島海底遺跡と類似する神殿跡やペトログラフがあることから、西日本を中心にムーの生き残り「メネフネ族(先住日本人の海人族)」がいたことが推測されます。

⑫下関市教育委員会と九州大学の調査によると、彦島杉田丘陵のペトログラフには、「遠い世の父母より世に生まれ交わり、子々孫々栄え来たり。地の都となる世の来るまで、敵を倒し、我らを助け、突き進み、世も昼もみそなわす我らが日の神」と書かれていて、

⑬これらの痕跡とムー文明を結びつける傍証としては、ニュージーランド北方のポナペにある、1万2千年前の「ナンマドルの海底神殿遺跡」です。またハワイやイースター島でも古代遺跡が発見されており、上記日本の遺跡と類似している事から、太平洋上に大陸があった事も推測されますが、この点に関しては別項に譲ります。

2、神代文字の世界的伝播

⑭ところで、「竹内文書」「宮下文書」「九鬼文書」等によると、太古の昔、天から天之御中主大神が降臨して国を開き世界を統治し、また日本人から黄人、白人、黒人、赤人(ユダヤ人)、青人(スカンジナビア人)ら世界の「五色人種」が分かれたとされています。

⑮実際、スイスの考古学者デニケンが、エクアドルの古代地下都市跡で日本の縄文土器と「アンデスの黄金版」を発見、これを出雲文字で解読した結果、「マヤやインカ文明を作ったのは、日本の古代海洋民である」と公表しています。

⑯一方、インド、エジプト、南米、アフリカなどの古代遺跡で、日本の神代文字を発見している日本学術探検協会の高橋良典氏によると、豊国文字とハングルの類似性から「古代朝鮮も日本と同じ文字を使用しており、少なくとも約6000年以前から日本にあった豊国文字を参考にして作った」と指摘しています。

⑰さらに、約2000年前に書かれた中国の「契丹古伝」によると、「漢字以前の文字を天字といい、天字以前をト字、ト字というのは殷字であり、殷は元これ倭国(日本)」とあります。

⑱ちなみに、「アジア」とは、古日本語の「アジナ」が訛ったもので、「アジナ」とは"分家"を意味し、当時、ユーラシア最大の領土を占めた支那(シナ)を意識していたものと言われています。

なお、本稿では中国の呼称を「支那」としますが、これは、はじめての統一王朝を作った「秦(しん)」に由来し、英語のChina(チャイナ)に相当する正式な呼称だと判断したからです。

⑲また、インドでも、インダス文明の遺跡モヘンジョダロにある仏塔の刻印をトヨクニ文字で読むと「ユニコーンカムイ(ユニコーン神)」と読め、"象の洞窟"の入り口付近でも「阿比留草文字」と豊国文字を発見、風化が激しい中「……マツラバヤ(祭らばや)」と。

⑳さらに、キリストが日本で習得し故国に持ち帰ったのが「イスキリ文字」、釈迦が持ち帰ったのが「梵字」そして「サンスクリット語」となり、これらがローマ字になったといわれています。

3、大和朝以前の先行王朝と神武以前の"古天皇"

㉑そして、先述のペトログラフや古史古伝によると、大和朝と神武天皇以前にも先行王朝や、スメラミコト(古天皇)がいたことが記されています。これを神々と王朝、天皇の関係で整理すると、

㉒"元無極躰主(母止津和太良世)"に始まる「造化準備時代」、"天津身光"に始まる「造化時代」、"天之御中主"に始まる「修理個成時代(白山王朝)」、"国常立"に始まる「万国統治時代(富士王朝)」、"饒速日命"に始まる「鵜芽葺不合朝」、"天照"に始まる「神倭(大和)朝」となります。

㉓但し、スメラミコトが「天皇」と記されているのは、初代・天之御中主天皇、高木天皇(高御産巣日神)、天地明玉主照天皇、国之常立男天皇、大斗能地王天皇、大綱手彦天皇、弥広殿造天皇、造化氣万男身光天皇、富金足中置天皇、神心伝物部建天皇、伊邪那岐天皇、天疎日向津比売天皇などです。

㉔ちなみに、「スメラミコト」は元々シュメール語で「シュメールの王」、即ち"スサダミコ(スサノオ)"を意味します。また「スサノオ」の息子が「饒速日命(ニギハヤヒ)」、義理の息子(末娘の夫)が「大国主」、そして、妻が九州の地方豪族「倭国(安曇氏)」の「卑弥呼(後の天照)」となります。

㉕まず、神々が降臨し(?)、天皇として姿を現した「修理固成時代」の「白山王朝」ですが、竹内文書などによると、国名を「天之越根中津国」といい、富山県婦負郡久郷村御皇城山に歴代の皇祖皇大神宮が置かれていたそうです。スメラミコトのスメラは「皇」ですが、「白」と「王」からなっています。

㉖そこでは、おびただしい神代資料が発見され、とくに酒井勝軍によって発見、翻訳された神足別豊耡天皇からモーゼに与えられたという表裏二つの「モーゼの十戒石」の写し石は刮目すべきです。裏十戒石には、宗教、国家、人種を越え、天下万民が遵守すべき律法が書かれています。

㉗ちなみに、聖書では、モーゼはシナイ山で十戒を授かったといわれていますが、竹内文書では、アカバ湾から船に乗って来日し、皇祖皇大神宮で41日間修行をし、石川県の宝達山で天皇から十戒を賜り帰国、ユダヤ民衆に与えたとあります。つまり、ユダヤ教の発祥地は日本の「高天原」ということです。

㉘次に、豊後国の大守だった大伴能直が「山窩(サンカ)」の伝承を記録した「上記(うえつふみ)」によると、「鵜芽葺不合王朝の第二十五代、二十六代天皇は、皇子たちを世界に派遣し文字を伝えた。富金足中置天皇は一万五千四百八十五年前に、四百六十年間に渡って治世した」と有り、

㉙これらは、大分県国東半島で発見された巨石上のペトログラフ「豊国文字」にも記録されています。また、秦の始皇帝が不死の薬を求めて日本に派遣した物部系古代ユダヤ人徐福が、富士山麓で書き残した「宮下文書」をもとに、三輪義煕が編纂した「神皇記」によると、

㉚神武以前に先行王朝が三つあり、初めは富士山麓にあった「富士高天原王朝」で、「大陸から九州方面に大軍が押し寄せて来たため、附地見島(九州)に海佐知毘古を元帥として送り、海軍を編成、王朝も阿蘇切枝間に移し千五百日目に全島の鎮圧を完了した(阿蘇豊国王朝)」とあります。

4、緩やかな連合国家「鵜芽葺不合王朝」

㉛その後、近畿地方で長髄彦(ナガスネヒコ)が反乱を起こしたため、日高佐野王が海路から久真野に上陸、湯野崎水門近くの二高の宮を行宮として賊軍を討ち、大和国橿原宮で即位、「鵜芽葺不合王朝」が始まった、と記述されています。

㉜が、この点に関して「記紀」によると、長髄彦と戦ったのは「磐余彦(神武天皇…神倭朝=大和朝)」であり、一方、「神皇記」のいう「日高佐野王」は"日高"とあることから「富士王朝」ないし「日高見王朝」の天皇である可能性が高く、また日高佐野王=神武天皇とすると、不合王朝初代天皇となって矛盾します。

㉝そこで、「白山王朝」→「富士王朝」→「不合王朝」→「神倭朝(大和朝)」という流れから考えると、富士山の爆発で阿祖山大神宮(富士王朝)は一旦崩壊した後、関東に都を移し「日高見王朝(後の東日本"日之本王朝")」を建てたと考えられます。

㉞実際、他の文書によると「不合朝」傘下には、北から「荒覇覇吐国」「日高国」「蔵王国」「飛騨国」「熊野国」「吉備国」「出雲国」「不弥 国」「投馬国」「伊都国」「奴国」「熊襲国」などがあり、緩やかな連合体を形成していたが、最終的に「神倭(大和)朝」に統一されたとされています。

㉟だとすれば、次に問題となるのは、「神倭朝」の前の「不合王朝」の中心はどのような部族だったか、という点です。結論から言えば、島嶼国である日本人の50%を占める海人族(海洋民族"港川原人")を中心にしたものだったのではないか、ということです。

㊱勿論、その後も他民族の流入があったので、日本人のルーツは、   1)南アジア(4万5千年前)、   2)南西諸島(3万5千年前)、   3)シベリア(2万年前)、   4)華南、南西諸島(7千年前)、   5)華北、蒙古、半島、シベリア(2千年前)となりますが、詳細は別項に譲ります。 https://www.youtube.com/watch?v=43Hbp27OYas

5、太古の歴史とユダヤ人(原初日本人)

㊲ところで、太古の地球の歴史を紐解くと、「ノアの大洪水」などの大きな地殻変動が起こり、人々の大移動が行われたようです。この事は竹内文書等の古史古伝の他に「聖書」、シュメールの「ギルガメシュ叙述詩」、インドの「マハーバラータ」にも記されています。

㊳更に地球が氷河期に入ったことで、食糧難に喘ぐ日本列島に居住していた原初日本人の多くは、食料を求めて世界各地に移動して行ったと推測されます。例えば、太平洋を海流に乗って島伝いに東に移動したのが「クル族」、ユーラシア大陸を西に進んだのが「カラ族」です。

㊴実際、日本人が東に移動した痕跡が見つかっています。日本ペトログラフ協会の吉田信啓氏によると、熊本県芦北地方には「曽畑式水人がいて、約6500年前、北海道から沖縄に至るまで生活の痕跡を残しており、さらにベーリング海を渡って北米にも生活圏を拡大した可能性が高いと指摘しています。

㊵この説は、米国ブロンスウィック大学のレ・クイナー教授も唱えており、「アメリカインディアンが日本人と同じ習俗、語彙、顔を持つ事から、彼らの多くは太平洋の西からきたモンゴロイド海洋民族である」と主張。これには、スミソニアン博物館やハワイ大学等も同様の見解を発表しています。

㊶一方で、ユーラシア大陸を西に移動した「カラ族」は、現在のエジプトやパレスチナにまで達しました。当時のユーラシアの真ん中にはカスピ海のような大海があり、また現在の華中、華南地域はほとんど湿地帯で、華北以北も寒冷地化したいたため居住に適しさなかったと考えられ、実際、私もヒマラヤで取れる岩塩を使っています。

㊷ところが、西ヨーロッパを起点に東へ展開してきた「アーリア人(アトランティスの生き残り?)」が次第に勢力を増してきてカラ族と衝突、多くの戦いを経て、カラ族はメソポタミア(シュメール)、インダスと都を遷しながら東に移動し、最終的には日本を拠点にした「東大国(ティルムン)」を作ったことが中国の古文書「契丹古伝」に記されていますが、詳細は別項に譲ります。

㊸ともあれ、カラ族が最後に到達したのが"伝説の故郷”日本で、この中には物部氏(山窩…サンカ)、海部氏(海窩)、安部(安倍)氏、忌部氏、斎部氏、乙部氏、綾部氏、卜部氏、蘇我氏、秦(羽田、羽田野、畑中、川端)氏ら古代ユダヤ十支族も含まれていました。つまり、彼らの渡来は日本への"出戻り”だったのです。

㊹彼らの"帰国"は、縄文時代から弥生時代、古墳時代にかけて、"さみだれ式"に行われたようです。が、大きくわけて、大陸方面を南下してきた「前期出戻り組」の物部氏(山渡人)、ペルシャ、南アジア、東南アジアを海伝いにやってきた海部氏(海渡人)らと、「後期出戻り組」の蘇我氏、秦氏の二グループに整理できます。

このうち、「前期出戻り組」は、「日本列島居残り先住民」の海人族(安曇氏)やアイヌ族(阿蘇部)とは穏やかに合流を果たしたようです。理由は、「聖櫃アーク」や伊勢神宮、熱田神宮に保管されていると言われる「ユダヤ三種の神器」が、日本の「三種の神器」とペアの関係になっており(詳細は「國體」の項で後述)、同族である証として示されたからと考えられます。

なお、古代日本と古代ユダヤとの関係を示す傍証としては、例えば、仁徳天皇陵等の古墳は、古代ユダヤ三種の神器の「マナの壺」の形をしており、丸い部分が女性性、角い部分が男性性を表し、両者で男女という"二元性の融合"を表していると言われています。

また、伊雑の宮にはキリストの罪状板が安置され、さらに、伊勢神宮の内宮の下ではキリストの血が付いた「聖十字架」も発見されています。伊勢神宮で先祖代々宮大工をしている人の話では、西宮市に「萬谷」という明治天皇の御落胤がいて、知人(中野学校出身特務将校)と共に神殿に入って確認したそうです。

そのほか、エルサレム宮殿の門には「十六菊花紋」が、一方、青森県の三内丸山遺跡からは「六芒星(ダビデの星)」が、同じく青森県新郷村(旧戸来村…ヘブライ村)にはキリストの墓があります。https://www.youtube.com/watch?v=u8dZ7WOShOc

遺伝子的にも、日本人の45%に見られ、中韓人には見られない「Y染色体ハブロD系遺伝子」は、世界中に分散した古代ユダヤ10支族とその末裔のチベット人や中南米のインディオなどに見られるE系統と同類であることが証明されています。だとすれば、大和先行王朝だった「鵜芽葺不合朝」の中心部族は物部系だったと考えられます。

6、ピラミッド(日来神宮)は日本が発祥地?

ところで、世界的なフランスの考古学者J・ヴァレーン博士は、エジプトのピラミッドを研究、興味深い見解を発表しています。「この建造物は、地球上の大聖者が他の進化した天体の神々と交信するための場、つまり、地球よりも遥かに進歩した神人と、

人類を救済するために地球に降臨した天孫族をつなぐ神殿である」。さらに、東方に向かって座するスフィンクスの左足の下を掘り下げ、石碑を発見。そこには「光は東方より来る。東方の一小国より、全人類の滅亡を救う大救世主が現れる」との記された碑文を発見,解読しました。

ちなみに、竹内文書でも、「3月16日、吉備津根本国に詔す。大綱手彦(鵜芽葺不合王朝12代弥広殿作天皇(イヤヒロトノツクリ)の叔父)、天皇霊廟、亦名メシア、日の神、月の神、造主神、日来神宮」とあるが、この「日来神宮」が世界最古のピラミッドを指すとされています。

そして実際、青森の黒又山、岩手の五葉山、富山の尖山、長野の皆神山、京都の日室ヶ獄、徳島の剣山など、聖地とされる兵庫県の八幡山を中心に16等分、つまり、16菊花紋の角度で分割された方向にピラミッドが存在しています。https://www.youtube.com/watch?v=RAHVcgW4YD4

また、同じく竹内文書によると「上古第二代・造化氣万男身光(つくりのしきよろずおみひかる)天皇の時、15人の息子と1人の皇女を16の国に遣わし、日本を中心にした16放射の形を作って定め、天皇の十六菊花紋とした」とあります。

ちなみに、「十六菊花紋」は、バビロンのイシュタル門、スペインのアルハンブラ宮殿、アッシリアのニムルド遺跡の石像、古代エジプトのラムセス二世の妻の胸像、同じく古代エジプトのプスセンネス一世のミイラが履いていたサンダル、ツタンカーメン王のサンダル、アフリカ西部ペナンの古代石板、マヤ遺跡の石像、エルサレムの嘆きの壁にあるメシア草など、多くの古代遺跡、遺物にも刻まれています。

7、関東「日之本王朝」

さて、先ほど、「磐余彦(神武天皇)」と長髄彦が大和で戦ったと述べましたが、「記紀」によると長髄彦は戦いに強く、神武の三人の兄を倒した後、「饒速日(ニギハヤヒ)」の裏切りで殺されたとされています。が、饒速日は物部氏の祖神であり、実在性は低いと考えられます。

その後も長髄彦尊は生き続け、大和国(邪馬台国)を放棄した後「日高見国」に移り、関東を拠点にした「日本王朝」を成立させます。「日本」とは、日の出に近い場所、つまり関東地方を意味しており、埼玉古墳群では「三種の神器」が発見されています。https://www.youtube.com/watch?v=igRKLfX2zgM

また、支那の唐代の古文書「旧唐書」によると、「倭国と日本国は別の国」とあり、当時、日本には「倭国(大和朝)」とは別の王朝があったことを記しています。 https://www.youtube.com/watch?v=sJOgjB37OaQ

ただその後、「和田家文書(東日流外三郡誌)」によると、「日之本王国」は内部分裂から大和朝の分断工作と侵攻を受け、一部は大和朝の傘下に(内物部)、長髄彦らは東北地方、さらには津軽地方に逃れ、「荒覇覇吐王国」に合流、後の「安倍(安東)王国」の土台を作ります(外物部)。

ここにいう「安倍(安東)王国」は、その後も続いた大和朝との戦いの末の懐柔策として授けられた「安倍」姓が元になっており、最終的には安倍一族の一部は大和朝廷の中にも入り、安倍晴明、そして肥前国(水軍松浦党)、長門国へと落ちた安倍季任(安倍総理の祖先)に至りますが、詳細は別項で述べます。

8、神武天皇と聖徳太子に関する仮説

一方、こちらも謎の多い「神武天皇」についてですが、神武天皇はモーゼ、聖徳太子(厩戸皇子…うまやどのおうじ)はイエス・キリストという奇説があります。前述したように、青森県の戸来(ヘライ)村にはキリストと弟・イスキリの墓が現存しています。https://www.youtube.com/watch?v=u8dZ7WOShOc

竹内文書によると、キリストは18歳のとき来日、皇祖皇太神宮の神主・武雄心親王から5年間、歴史や天文学、神業などを学び、狭野尊天日嗣天皇から「向こうで死んではならぬぞよ」との命を受けエルサレムに戻りました。が、迫害に会い再び来日、百十八歳まで生きたと書かれています。

一方、モーゼですが、神武天皇の正式名称は「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラミコト」ですが、ヘブライ語では「カム・ヤマトウ・イブリ・ベコ・シュメロン・マクト」と発音し、意味は十支族の一つのエフライム族の王=サマリアの王です。

また、ヘブライ語の「モー・シェ」は、エジプト語では反対に読み「セ・モー」→「ゼ・モー」「ジ・ムー(ムー人)」「ジンム」と転訛したものと、イスラエルのユダヤ民族研究家ヨセフ・アイデルバーグ博士やアビグドール・シャハン博士が指摘しています。

モーゼは日本に帰国し理想の国づくりを目指しました。このため、モーゼは物部系でしたがつつがなく先住海人族と合流し、また、天孫族(蘇我氏、秦氏)が中心になった大和朝においても、"共通の偉人"として尊崇の対象になったと考えられます。支那共産党と国民党の双方から崇められる孫文のような位置づけです。

ちなみに、釈迦は、皇祖皇大神宮で天之越根尊より指導を受け、インドに戻り仏教を説いたが、52歳で涅槃に入るとみせて日本に再度来日、天寿を全うしたといいます。釈迦の墓は青森県の梵珠山にあり、実際、古くから不思議な発光現象の目撃談が伝わっています。

9、欠史八代と秦氏

なお、第二代・綏靖天皇から第九代・開化天皇までの「欠史八代」については、物部系海人族による政権が続いており、後に主流を占める「騎馬民族秦氏系北朝皇統」からは"都合が悪い"として詳細を封印されたものと推測されます。

この物部系海人族による政権の中心は「出雲系」と「邪馬台系」でしたが(不合朝?)、記紀によると「国譲り」によって「大和王朝」として平和的に統合されます。が、後に古代ユダヤ教の"牛の生贄"を神事とした物部氏は、後から帰国した殺生を禁じる仏教を重視する「蘇我氏」と対立、抗争になります。

その結果、物部氏は破れ一部は各地に離散、「山窩(サンカ)」となり"田布施"などに隠れ住みました(外物部)。同和地区に精肉業や皮革製品業が多い所以です。一方、一部は大和朝廷内で残り(内物部)、海人族"大海人"皇子(天武天皇)が勝利した天下分け目の「壬申の乱」で復権します。これが後の「海人系南朝皇統」の始まりです。

なお、大海人皇子(天武天皇)が海人族だったという事実は、「壬申の乱」の際、拠点だった吉野で海人族(熊野族)から黄金での資金援助を受け、伊勢、尾張、美濃などへ迂回しながら東国から軍勢を集めたこと、天武天皇以降、正式な国名を「日本」にしたこと等から窺えます。

一方、秦氏ですが、日本では第15代応神天皇のとき、最後の古代ユダヤ十支族として渡来(帰国)します。この秦氏については、「騎馬民族説」の発端となった一族ですが、秦始皇帝の末裔と言われているスキタイ+アーリア系の古代ユダヤ人で、秦朝滅亡後は現在のウイグル近辺に「弓月」と言う国を作っていました。

が、朝鮮の「好太王碑碑文」によると、漢から万里の長城造営などの苦役を強いられたため朝鮮半島に逃れ「秦韓」を建国。が、その後,大和朝による半島で の"奉迎工作"で派遣された孝元天皇の皇子・彦太尊などの縄文海人族と民族的に交雑、数代後のホムダワケが「応神天皇」として迎えられます。

この時、ホムダワケは100万人から150万人を率いて来日(帰国)、養蚕、治水などの高度な技術をもたらすなど、我国のインフラ整備等に大いに貢献しました。が、その勢力拡大の一方で、先行渡来していた蘇我、物部系先住日本人との間で覇権争いが起こり、

秦氏系の中大兄皇子(天智天皇)と藤原氏(中臣鎌足)による蘇我氏追い落としが行われます(乙巳の変=大化の改新)。ちなみに、藤原氏ですが、そのルーツは朝鮮半島(騎馬民族系)という説があります(中臣鎌足=百済王・豊章説)が、詳細は別項で述べます。

10、「二元性原理」に貫かれた日本の歴史

以上みてきたように、日本の古代史は大きくみて「海人族系(居残り先住民)」と「騎馬民族系(出戻り日本人)」の対立構造になっています。そしてこの構造は「壬申の乱」を経て「平清盛と藤原家の抗争」「源平合戦」「南北朝対立」、さらには時代を経た「明治維新の真相」にも繋がっています。

その他、鎌倉幕府以降、騎馬系天皇(北朝)が主導権を握った後に起こった南北朝の動乱と、その中で生き残り、" 裏天皇"になった海人系南朝・大塔宮・護良親王。明治天皇(護良親王の末裔で長州・大室寅之助)の擁立で果たされた南朝皇統の復活。

更には、奥州、蝦夷に逃げて生き残り、"奥州・琉球連合"で頼朝への対抗を画策した源義経。信長を討ち果たした後、家康の側近・ 南光坊天海となった明智光秀。廃藩置県で失業、不満を抱えた旧武士団を歴史から消すのに一役買い、ロシアに亡命した西郷隆盛等は南朝系です。

例えば、「義経伝説」についてですが、定説によると、沖縄の歴史は、1429年に琉球の豪族であった尚巴志が王朝を築いたことに始まるとされています。が、実は、その200年以上前に、源氏が作っていたという説があります。

日本本土では、平安時代末期の1156年に「保元の乱」が起こり、源頼朝、義経の父・義朝と、その弟の為朝が対立し、破れた源氏一の豪傑・源為朝は伊豆大島に流罪になりました。が、為朝は大島から船で一か八かの脱出を図り、黒潮の逆方向の海流に乗り、なんと琉球に辿り着いたのでした。

1650年に編纂された琉球王国の正史「中山世鑑」によると、琉球の初代王は「舜天」といいますが、この「舜天」は"源為朝"の子供であると書かれています。また、鎌倉幕府が建てた京都・建仁寺の文献にも、源為朝が琉球に渡り、建国の主となったと記述されています。

源氏がその圧倒的な強さで琉球を統一できたのは、戦において棒や石を使うのが一般的だった当時の琉球で、鉄製の武器を持っていたからだそうです。

更に驚くべきことには、為朝の背後には、同じく頼朝と対立していた源義経がいたということです。どういうことかというと、当時、奥州では、頼朝に追われた義経がいったん蝦夷(北海道)に逃れ、その後、アイヌの財力、武力をもって、打倒頼朝で動いていたからです。

定説によると、義経は頼朝に追われ、奥州藤原氏とともに討たれたことになっています。が、実は蝦夷に逃れ、同じく奥州にいた為朝の子・為頼が仲立ちすることで、連携を図っていました。奥州と琉球の交流を示す証拠として、平泉・中尊寺の金色堂には夜光貝が使われています。

為朝は琉球の力を背景に南から、義経はアイヌの力を背景に北から、頼朝の鎌倉幕府を挟み撃ちにしようと謀っていたのです。そして、この流れは南北朝時代に引き継がれ、鎌倉北朝に対し、義経の末裔と琉球は、平家の残党とともに南朝に味方したのです。
ただその後、これが原因で北朝側の九州・薩摩(島津氏)に睨まれ、後年、薩摩の侵攻を受け、その支配下に置かれることとなりました。https://www.youtube.com/watch?v=g0TRa-iPWK4

以上、大まかな日本の歴史について述べてきましたが、それは、「東西(日之本王朝と大和王朝)の天皇」、「南北の天皇」、「表裏の天皇」の存在などの二元的対立と統合の繰り返しに現れているように、世界最古の宇宙哲学書といわれる「カタカムナ文献」でいう、"宇宙の二元性の原理(フラクタル宇宙論)"が顕現した結果だったのです。

では、さらなる詳細は以降の章で説明します。

大和王朝建国の謎と安倍一族のルーツ 2018-12-17 10:45:05

1、「安倍氏」は「安曇氏」と「海部氏」の合族

安倍晋三総理の祖先・安倍晴明の出自については謎が深く、実は、縄文日本人で海人族の安曇氏と海部(あまべ)氏にそのルーツがあり、しかも朝廷内でも"陰陽師"という天皇を陰で補佐する立場にあったことを明らかにします。

「安倍(阿部)」姓の全国分布図を見てみると、1位が宮城県、2位が北海道、3位が東京、4位が神奈川、5位が山形と、極端に東日本に偏ってるのがわかります。これは安倍一族がかつて東日本に勢力を誇っていた傍証ではないかということです。

【図版】系図

一方、古代支那の正史「随書」には、当時九州北部には「倭国」があり、その王家の姓は「阿毎」と記されています。この「阿毎」は、当時の中国語で「abei(アベィ)」と発音したとされます。

【図版】歴史ミステリー 関東に謎の日本王国があった?2

この「倭国」ですが、一般には「安曇(あずみ)氏」といわれる日本列島先住民である縄文海人族で、「磐余彦(イワレヒコ)」、すなわち、のちの「神武天皇」の出身母体である氏族ですが、後に「磐井の乱」を起こして大和朝と対立した地方支国です。

ところで、縄文時代以前の新石器時代には、度重なる天変地異を避けるため、多くの源流日本人が新天地を求めてアジア大陸を中東まで移動したといわれています。その後彼らは、何波かに分かれて日本列島に"出戻り"してきましたが、

その初期の一団が、海人系古代ユダヤ人「海部(あまべ)氏=物部氏」で、「安倍(阿部)氏」一族の安倍姓は、「安曇氏」と「海部氏」が合族してできた姓だという説も有力です。

【図版】古代ユダヤ人の渡来ルート = 出戻り日本人

また、有力氏族の出自を記録した「新撰姓氏録」によると、安倍氏は、「記紀(古事記、日本書紀)」で記載が削られている第二代から第九代天皇までの、いわゆる"欠史八代"のうちの第八代・孝元天皇の子・大彦命の後裔とされています。

"欠史八代"については、後の「南朝皇統」をなす縄文海人族+物部氏系の天皇が存在しましたが、同じく後に長く主導権を握った騎馬民族系秦氏、藤原氏を中心にした「北朝皇統」の始まりとされる第十代・崇神天皇以降の勢力によって、「都合が悪い」として削られたと考えられます。

2、二つに分かれた「安倍氏(物部)」一族

⑨さて、話を縄文海人族「倭国」に戻しますが、「竹内文書」や「宮下文書」「九鬼文書」「和田家文書」「神伝上代天皇紀」などの「記紀」で封印された古史古伝によると、大和朝(神倭朝)以前の日本には、「白山王朝」、「富士王朝」などが三万年以上続いていたとされていることはすでに述べたとおりです。

そのうち、最後にあった「鵜芽葺不合朝」では、九州の「倭国」や「奴国」などを始めとして、「出雲国」「吉備国」「日高見国」など全国の有力豪族による 連合国家が形成されていたとあります。ちなみに、俗に言う「"烏合"の衆」とは、後に「不合朝」が離散したため「"鵜合"の衆」からきた俗語です。

【図版】大和朝以前(鵜芽葺不合朝)1の日本

その後、「不合朝」は、最有力豪族「出雲国」での「大国主」亡き後の後継者争いを引き金により揺らぎます。この間隙をぬって九州・倭国の王・「磐余彦(イワレヒコ)」が独立を宣言して瀬戸内海を東進、四国、吉備、出雲を傘下に収め(国譲りの儀)、紀伊半島に上陸して「邪馬台国」の長髄彦を破り、新たな「大和王朝」の「神武天皇」となります。

【図版】長髄彦

ちなみに、このことから解るように、「神武東征」と「大和建国」の真相は、九州の「倭国王・磐余彦」と近畿の「邪馬台国王・長髄彦」という"海人族"同士による主導権争いの様相を呈しています。が、真相は、北方騎馬民族の脅威に対抗するための、国防体制の強化と防御陣地の縦深化だったという説があります。

従って、GHQにおもねる曲学阿世の戦後史家が主張する「天皇家は朝鮮半島からきた騎馬民族である」などとする邪説は成り立たず、「騎馬民族の渡来(原始日本人"カラ族"の一派で古代ユダヤ人・秦氏の"出戻り”)」は、第十代・崇神天皇ないし第十五代・応神天皇以降の出来事で、「大和王朝」の建国自体には関係ないことが明らかです。

【図版】馬具出土古墳数

一方、東に逃げた長髄彦は、関東に「日之本王朝」を建て、「神心伝物部建天皇」を名乗ります。この「日之本王国」は、現在の茨城県から埼玉県に拠点(都)を設け、後に大和王朝下で反乱を起こして(承平天慶の乱)朱雀天皇に対抗し"新皇"を自称、東日本の独立を目指した「平将門(海人族)」に繫がる王国です。

【図版】平将門(903?〜940)

その後、「和田家文書(東日流外三郡誌)」によると、「日之本王国」は分裂し、一部は大和王朝に合流、一部はこれに反発して奥州、そして津軽へと逃げ延び、奥州安倍氏(後の安東氏)となって「荒覇覇吐(あらはばき)王国」を作り、さらに「秋田氏」と称して幕末まで生き残り、明治維新後は子爵を授けられました。

【図版】巻物画像

このような海人族同士の争いの中、安倍(物部氏)一族は、大和朝廷に招かれた者(内物部)と、奥州に落ち延びた者(外物部)に分かれ、大和朝廷内に招かれた方が「安倍宗家」となり、天皇("天の御門")を補佐する地位を与えられます。これが後の安倍晴明などの朝廷祭司を司る陰陽師("土の御門"=裏天皇?)です。

安倍晴明については、系譜学の大家・宝賀寿男の「古代氏族系譜集成」によると、安倍益材の兄・春材の子だが益材に養われたのではないかとされ、天禄4年(973年)と天延元年(974年)に、朝臣につぐ朝廷内第三位に位置する宿禰(すくね)として陰陽師に就任します。

さらにその後、安倍宗家は安倍晴明の子孫・季任(すえとう)が前九年の役で敗れて肥前国(現在の佐賀県)に流され、元寇の際にも活躍した「松浦党」頭の娘婿・松浦三郎大夫実任と名乗って平家水軍で活躍。

その娘も平知貞に嫁いだため平家滅亡後、"天下人"源頼朝の迫害を逃れる為に安倍姓を名乗り長門国、すなわち、現在の山口県長門市油谷町(山陽側の周防国田布施とは反対側の山陰側)に落ち、家業の醤油屋を営み、現在に至ったのが真相です。

参照;「裏天皇の謎と安倍晴明 (斎藤忠)」