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続折々の記 2018⑪
【心に浮かぶよしなしごと】

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                               日系アメリカ人

【 05 】02/01~

 02 01 (金) 日系アメリカ人     アメリカへの移民妨害(温故知新)

ルーズベルト大統領の政策がフーヴァー大統領の回顧録によって、意図的に日米戦争を引き起こしたという論調が一部の歴史家によって吹聴されている。 ことの正邪はわからないけれど、歴史の動きにも幾多のからくりや虚構があり、私たちは冷静な判断を負わされていると考えざるを得ない。

どんなことがあろうとも、平和な生活の実現に向かうという牢固たる腹がまえを思索の根っこにもっていなくてはならない。

一代を終えるというのに、判りきったことだというのに、真実はどうなのかは解からない。

ただ、思考の世界からいえば、筋の通った論理と倫理の考えにたっての思考でなくてはならない。 ウソかホントかを求めていくと脈絡は支離滅裂となってしまうから、時間的な経過と空間的なへだたりを経てから、さらに利害得失という本性の篩(フルイ)をわきまえて、温故知新を想定しなければならない。

まあまあ面倒なことは抜きにして、移民という新たな世界への夢を考えてみたい。 それは心が求めるパラダイスでなくてはならないからだ。




日系アメリカ人
   日系アメリカ人の辿ってきた道を追うオンライン歴史資料館
   http://nikkeijin.densho.org/legacy/index.htm

このウェブサイトについて

このウェブサイトは、Denshō :The Japanese American Legacy Projectにより、2010年に放映されたTBS開局60周年特別企画ドラマ、「99年の愛~Japanese Americans~」の歴史背景を紹介する目的をもって作成されたものです。歴史的写真とインタビューの抜粋は、すべてDenshō のデジタルアーカイブからのものです。

Denshōについて

Denshō は日本語の「伝承」、1996年にワシントン州シアトルで設立された非営利団体です。日系アメリカ人の歴史を肉声で伝えるため、インタビューのビデオに作成、保存を行っています。こうして集めらられた900時間を越えるインタビューと、11000件近くの歴史的写真や文献は、Denshō のウェブサイトwww.densho.orgのデジタルアーカイブで、すべて無料でご覧頂けます。19世紀後半の日本からの移民に始まり、第二次世界大戦中の日系アメリカ人の強制収容を経て、1988年の公式謝罪と賠償金の法案化に至るまで、豊富な資料を提供。米国図書館協会、日系アメリカ人市民連盟から等、数々の賞を受賞し、毎年世界各地から、15万人以上の人達がこのサイトを訪れています。

担当
  プロジェクトマネージャー: トム・イケダ、直子・マガシス
  ウェブデザイン: BIMO - Design & Development
  編集: パトリシア・キヨノ
  翻訳:直子・マガシス
  写真編集:デイナ・ホシデ
  歴史的写真と文献:Denshō のデジタルアーカイブより www.densho.org/archive

協力
  TBSテレビ
  峰岸良彰
  在シアトル日本国総領事館
  米日財団
  全米日系人博物館

Denshō
  1416 South Jackson Street
  Seattle, Washington 98144
  206-320-0095 phone
  206-320-0098 fax
  www.densho.org
  info@densho.org
  nihongo@densho.org  (日本語でのメールはこのアドレスまで)

Denshō の日本語の資料、In the Shadow of My Country (祖国の影で) の日本語ページ

この二ヶ国語のサイトには、ある日系人家族の、第二次大戦中の収容生活の思い出が描かれています。アーティストとして名高いロジャー シモムラは3歳の時にアイダホ州のミ二ドカに収容され、祖母の日記An American Diaryに、製作の刺激を受けました。In the Shadow of My Country(祖国の影で)は、その祖母の我慢強さと、希望を持った言葉を、鋭い風刺に満ちた作家の絵と共にたどっていきます。

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目次

  トップページ
      http://nikkeijin.densho.org/legacy/index.htm
  第1章
  第2章
  第3章
  第4章
  第5章
  日米関連年表

トップページ

1880年(明治13年)頃に、始めての日本人が団体で、ハワイとアメリカ本土に移民として渡っていったのを御存知でしょうか? この「一世」と呼ばれる世代から始まった日系アメリカ人と言われる人達は、それから130年を経た現在すっかりアメリカ社会に溶け込んでいます。海を渡った最初の世代の人達は、より良い暮らしへの夢を抱いて新天地へと向かって行きました。そこで出会った差別や過酷な労働条件にも負けず、農場や事業を起こし、やがて成功を収めるまでに至ったのです。しかし、日本とアメリカが敵国として戦った第二次世界大戦中、この日本からの移民に加え、アメリカで生まれた二世の子供達までもが、合衆国政府によって、僻地の収容所に留置されてしまったのです。

このウェブサイトでは、このように監禁され、資産も誇りも失った日系アメリカ人達が、大戦後にその生活を立て直すまでの歴史をたどります。当時の写真からその歴史的背景を顧みて、彼らの辿った足跡を追ってみて下さい。

米国ワシントン州シアトルにある非営利団体Denshoが、このサイトの作成にあたりました。より充実した歴史的資料の保存のため、現在、第二次大戦直前または戦中に日本に渡って来られた、または強制送還されて来られた方のお話を募っております。敵国となった日米両国の間で、多くの人々が困難な選択をせまられ、またはやむを得状況に置かれ、日本においても苦難の時代を過ごされました。御本人、御家族の体験談をnihongo@densho.orgまで御送付下さい。あまり語られることのなかったこの国での歴史も記録、伝承していきたいと思います。

第一章船出
当時を語るインタビューから
私の父とその兄弟達は、当時日本で起こった大洪水で両親を失って、ほうぼうの親戚に預けられていました。明治維新で工業化が進むなか、農家には重税が課せられて、農民は苦しい生活を送っていたんです。その頃日本では職もない若い男達がたくさんいて、特に親のいない者にとっては厳しい状況でした。そんな時、アメリカという大きくて素晴らしい国があって、そこで財を築けると知ったわけです。父とその兄弟は、(ワシントン州の)ベンブリッジ島へ渡って来ました。当時世界一の規模を持ったポートブレークリー製材所があったんです。材木は直径180センチをゆうに超える大きさで、木材の宝庫でしたね。日本を含めて、世界各地から船がやって来ていました。でも過酷な労働条件と安い賃金に嫌気がさして、それで農場を始めるようになったのです。
ジュンコウ・ハルイ 第二次大戦後、ワシントン州のベンブリッジ島で、父親の苗木業を立て直した二世の男性
1885年から1924年ごろ、多くの日本人がアメリカへと向かいました。明治維新の土地や税制の改革で、特に地方ではますます貧困に拍車がかかり、若い男性が、職を求めてアメリカへと出て行ったのです。これ以前にも1860年後半に、ハワイやカリフォルニア州に渡った先駆者もいました。彼らは日系移民といわれ、後に続く世代と区別して「一世」と呼ばれるようになります。夢や期待を抱いてアメリカに渡りましたが、彼らを迎えたものは、孤独な独身者の労務者生活と、過酷な労働条件でした。彼らの雇われ労働者としての職場は、ハワイのさとうきび農園、アメリカ本土の缶詰工場、材木製材所、鉄道建設、農場といったところです。その斡旋を行ったのは、当初は日本政府、後には民間の斡旋会社でした。アメリカ西海岸へ、個人で移民した人達も多くいました。土地の労働組合は、このような日本人労働者達に対して強い反感を抱きます。農場経営者達もまた、勤勉な一世達の存在に、自分達の地位を奪われるのでないかと脅威を感じるようになりました。そこで労働組合や農場経営者たちは、日本人を始めアジア人が土地を購入したり、借用することができないよう、外国人土地法を制定させたのです。当時の日本政府は、このような一世に向けられた差別的な措置に対し、抗議を申し入れています。

マスコミや、政治家、移民排斥主義団体などは、「異人種の『黄禍』が、米国を侵略している。」と取り沙汰しました。しかし、実際には1910年の時点における日本からの移民数は、アメリカ太平洋側の人口のわずか1.5パーセントにしかすぎなかったのです。一世たちは差別的な連邦法によって、アメリカの市民権を取得することも許されず、選挙権もなく、政治的な力もない状況にありました。反日的な排斥同盟は、はさらに、日本からの移民を全面禁止することを政府に要請します。そして1908年、日米間で紳士協定が締結され、日本人労働者の米国への入国が禁止されることになりました。ただし、アメリカ在住の日本人の家族については、引き続き渡航が許可されました。

手続きを受ける写真花嫁達そこで、一世の男性達の中には、日本に一時帰国して結婚し、花嫁を連れてアメリカへと戻る者もいました。また、写真でしか見たことのない一世男子との結婚を決意し、アメリカへ渡って行った日本女性もいたのです。彼女達は「写真花嫁」と呼ばれ、何千人を越す女性達が、こうしてアメリカに渡ったといわれています。これら花嫁達の到着により、アメリカ生まれの新しい世代が現れ、「二世」と呼ばれるようになります。しかし、このような日系アメリカ人の人口構成の変化は、新たな反日感情を招く結果ともなりました。1924年、日本からの移民を禁止する移民法が制定され、ここで排斥主義者達の主張が認められることとなったのです。

一世と初期の移民
当時を語るインタビューから
私の父親は一世でした。中学校の義務教育しか受けていませんでしたが、思索好きな人で、お寺のお坊さん達と、酒を酌み交わしていましたよ。哲学的な話にふけるのが好きでね。時々一緒について行って、座って聞いていたものです。両親を敬えなんてことを言ってました。裸で生まれて裸で死ぬんだから、生きてる間に何か良い事をしようとか、そういう話でしたよ。よく「客は丁寧に扱わないといけない。そうしたらまた来てくれる」と言ってました。そんな大げさなことじゃありません。お説教というのでもないのですが、だたそういったことを考えていたんですね。世界は広いとも言ってました。旅をしなければいけないとね。旅は視野を広げると言っていたものです。
トミオ・モリグチ
出身地の四国の宇和島から名前を取った食料品店の二世経営者
一世とは、アメリカ大陸に渡って行った日本人移民の最初の世代を指します。1861年から1940年の間に、約27万5千人の日本人がハワイとアメリカ本土に移民しました。一世達は、何十年と移民先の土地に住んでいたものの、文化的には祖国日本との強い絆を保ち続けました。当初の男性労働者の時代は、花嫁達の移民によって、根を張った地域社会へと変貌を遂げていきます。一世達のアメリカでの体験は、人種的偏見とと法的差別にふちどられたものでした。最も大きな制約は、アメリカの市民権を得ることを禁じられていたことです。日本との宣戦が布告された後、一世全体は即時に敵国民となり、法的に抑留の対象とされます。その後1952年の移民法改正を待って、一世はようやくアメリカの市民権を取得することができるようになったのです。一世の男性は、第二次大戦中強制立ち退き、監禁を受け、一家の家長、そして地域社会の指導者としての立場を失います。老年期になって監禁生活から開放された後も、経済的にも精神的にも立ち直れないままになってしまった一世の人たちも多くありました。

反日土地法
当時を語るインタビューから
父と父の友達が全部で四家族集まって、ワシントン州のトーマス村に50エーカー(約6万坪)ほどの土地を買いました。沼地でしてね。父達が排水溝を作って、木の切り株をダイナマイトを使って掘り起こしていたのを覚えていますよ。年々、だんだん整地していってね。四家族がそれぞれに家を建てました。外国人土地法が布かれていたもので、一番上の子供の名前で、その土地を購入していたんです。1920年頃でしたか、新鋭のキング郡の検察官が、知事の座を狙っていましてね。それで、土地法関係の裁判を利用して、評判を得ようとしたんです。彼はそれは多くの一世の農夫達を起訴しましたよ。私達の一件では、父達がごまかして、土地の購入を行ったと言い立てたんです。その結果、土地と、そこに自分達で建てた家は没収されました。それで父達は、自分達の土地を没収したその州から、今度は土地を借りなければならないはめになってしまったんです。
ジム・ヒラバヤシ
サンフランシスコ州立大学名誉教授、人類学部創設者
1913年に始まり、反日的な政治圧力から、日本人移民にアメリカ西海岸地域での農地を購入、または借入を禁じた外国人土地法が制定されました。意図は人種差別的なものと、経済的理由の双方でした。この支持者達は西海岸地域は「白人の土地」であるとして、一世が荒地を実り豊かな農場に変えていくのに敵意を抱いたのです。

この法はかなり回避的な表現になっています。「市民権を取得できない外国人」は農地を購入、または借り入れができないとしているのです。この部分は、アメリカ市民権を「自由身分の白人」と「アフリカ人の血を引いた者(元奴隷)」に与えるとする連邦移民法から来たものでした。アジア人はアメリカ市民権を取得することが許されず、従ってこの土地法は、アジアからの移民だけに適応される結果となったのです。

一世は、当初、親日派の人から土地を借りるか、アメリカ市民である子供達の名前で土地を買うなどして、この禁止令を回避することができていました。その後、より厳しい土地法によって、その生活は困難なものとなり、この新天地で歓迎されない存在であることを、ひしひしと感じさせられることになるのです。これらの外国人土地法が撤回されたのは、1950年代に入ってからでした。

黄禍
当時を語るインタビューから
白人種が白人の国家で繁栄を続ける限り、黄禍による危機はないと言ってよい。アーリア人種の生活は、高い文明を持った人々によってではなく、周辺の野蛮人の部族によって継承されてきた。これは我々の弱点である。現在我々は、人種的自殺に直面し、その危機は刻々と迫ってきている。黄色人種の繁殖力の強さはもちろんだが、そればかりではない。黄色人種は食料の選択と調理に長け、ごくわずかな資源で最大限の栄養を確保することができるのだ。
「アメリカにおける人種的自殺」
サンフランシスコ クロニクル、1905年5月10日発行
20世紀始めの日本人移民への反感をこめた「黄禍」という人種差別語は、第二次世界大戦中の日本人の血を引く人達の拘留に際して、一役買うことになりました。カリフォルニア州をはじめとするアメリカ西海岸の州では、期を利用しようとする政治家、報道関係者、労働組合などが日本人の団体がアメリカ合衆国をのっとり、征服して、白人種を陥れ、その純血を汚すと世間に警告したのです。このような中傷は、その以前は中国人労働者に向けられていました。危険で邪悪だとというのが、アジア人に対する典型的なイメージだったのです。白人種より劣るものとされながらも、同時に「東洋」の不可思議な力で、恐ろしい計画をたてているとも考えられていました。新聞は、一世の労働者は、白人より過酷な生活条件でも生き延びられると書きたて、一世の女性の出産率を誇張して報道しました。20世紀初頭の日本による軍事拡張は、この「黄禍」の警告に拍車をかけ、アメリカ大陸に侵略して来るのは、時間の問題だと言われるまでに至ったのです。アメリカに住む日本人を長年心憎く思っていた人達にとっては、真珠湾攻撃は、敵国人に対してのみでなく、敵人種に対する戦争に合衆国をかりたてるものだったのです。

写真花嫁
当時を語るインタビューから
(写真花嫁だった祖母は)船で13日かかって海を渡って来て、シアトルに着いたそうです。その船には, 他に60人の写真花嫁が乗っていました。祖母の話によると、皆はまだ会ったこともない将来の夫の写真を手に船先まで走って行ったそうです。それで、下で待っている男達を、どれが自分の夫になる人か見つけては指差していたんですね。その将来の夫達も、自分の花嫁の写真を持っていて、下から同じように指差している。祖母は、始めは(祖父のことを)少し期待はずれに思ったという話でした。でもすぐに気持ちが変わって、実は素晴らしい人だと分かったそうです。
ロジャー・シモムラ
シアトルで知られた助産婦トク・シマムラの孫で、三世のアーティスト
多くの一世の男性は日本に一時帰国して花嫁を見つけましたが、「写真花嫁」の制度を利用した人も少なくありません。1920年までに2万人以上の日本女性が、写真でしか見たことのない男性と結婚するために海を渡りました。男性達は、この長距離見合い結婚で、日本に行く費用と手間をはぶいたわけです。日本での貧困生活には明るい将来を見ることのなかった若い女性達は、長い旅の末にアメリカにやって来ました。残念ながら、このような多くの花嫁達をアメリカ西海岸で出迎えた男達は、写真よりずっと年を取り、聞いていたような財産もなかったという場合が往々にしてありました。中には結婚を拒んで、帰国したり逃げたりする女性もいました。それでも、何千もの女性はその状況を受け入れ、家族を育て、夫と共に懸命に働いて、新しい国での生活を築いていったのです。

第二章緊迫
当時を語るインタビューから
(1941年)12月7日の日曜日のことは、忘れられませんね。(真珠湾攻撃は) 最悪のニュースでしたよ。これから何か良くないことが起こるだろうという感じましたね。決定的な打撃でした。それまでの偏見や差別に加えて、日本のコミュニティーにとって最悪の出来事です。皆それだけは分かっていました。家に帰る道で、これ以上いったいどんなことが起こるんだと思いましたよ。明日は月曜日で学校に行く。でも、何のために学校に行くんだ? 戦争が始まってしまって、これからどんなひどいことが待ってるんだろう? この世の終わりだと思いましたよ。とにかく、月曜日の朝には、いつものように学校に行きました。図書館へ行きましてね。ひどく静かでした。皆の目が自分に向いているのを感じるんです。それくらい、自分の日本人の顔に対して、自意識過剰になっていたんですね。真珠湾攻撃は、それは打撃的なものでした。もう、我々のコミュニティーも終わりだと思いましたね。学校に行って、何になるんだと思ったものです。もう将来も、チャンスもなくなってしまったんですからね。その痛みは、皆分かりあっていたと思います。その精神的な苦痛と言うものをね。でもそんな気持ちは内に秘めていました。父親や母親にも、これからどうなるんだと聞いたりしませんでしたね。ただ、これから厳しくなると言うことだけは分かっていました。その後の状況が、どんなにひどいものだったかはご存知でしょう。
ヒロ・ニシムラ
1941年12月当時ワシントン州立大学の生徒だった二世
アメリカに渡った日系移民一世達は、白人の住居地区では歓迎される存在ではなく、一部地域に集まって生活するようになります。第二次世界大戦が始まるまでの何十年かの間に、各地で日本人のコミュニティーが形成されました。当時のアメリカ西海岸には、いくつもの日本街が現れています。一世達は日本街で、店舗を構え自営業を始めました。銭湯や日本語学校が開かれ、寺院や教会も建てられました。白人客向けのレストラン、クリーニング店やホコミュニティーピクニックテルなども軒を並べるようになりました。外国人土地法で土地の所有を規制されていましたが、その規制を回避しながら、多くの一世達が農場、牧場、苗木行などで成功を収めるようになりました。出身地域ごとに県人会が組織され、地域の祝日などに催し物を主催したり、経済的な援助も提供したりする余裕もうまれました。一世達はアメリカ社会から疎外され、偏見を持たれていましたが、経済的には安定し、お互い支えあって暮らしていたのです。アメリカで生まれた二世達は成長し、学業に励み、一世の両親よりはアメリカ社会に溶け込めるのではないかという希望を持って暮らしていました。

しかし一世達の成功は、また周囲のアメリカ人達の反日感情と恐れを招くことにもなるのです。1930年代の日本による中国への侵略は、アメリカ国内で日本人に対する不信感を高め、両国間の緊張の高まりは、日本人の血を引く人達への反感を強めます。信用のおけない人種だという先入観に加え、危険な敵国人としてのイメージも報道されるようになりました。反日運動家は、アメリカ在住の日系人を、昭和天皇の「秘密部隊」だと責め立てました。

連邦政府は、「戦争勃発の際に危険性のある人物達」についての情報報告をまとめ、その中に日系移民一世と二世を含みました。1941年12月7日、真珠湾攻撃により、アメリカ国民である二世も含め、すべての日本系の人々は猜疑と不信の目で見られるようになります。その数週間後には、連邦捜査局が2000人以上に及ぶ一世の指導者的存在を逮捕し、在住敵国人を抑留する「抑留所」に送りました。日系の地区では規制が布かれ、住居や事務所の家宅捜査、財産没収、夜間外出禁止令、旅行禁止、銀行口座凍結などが行われたのです。新聞には、西海岸に住む日系人達がスパイ行為や妨害行為を行っているという虚偽の政府報告が掲載され、恐怖に陥った一般市民達は、日系人全体を監禁するべきだと要求し始めるまでに至りました。

二世
当時を語るインタビューから
日本の習慣を持った日本の家庭から来て、幼稚園に入った時には、英語が全く話せませんでした。学校生活を通して、多くのアメリカの習慣を学んだんです。アメリカの食べ物にも慣れていなかったもので、学校の食堂の食事がとても珍しかったですね。とてもよく覚えているのは、焼きたてであつあつの(アメリカ式の)ビスケットにバターを塗ったものでした。当時、日本人はバターをほとんど使わなかったんですけれど、このビスケットは、べったりとバターが塗ってあるんです。家に帰って親に「学校でこんなに美味しいビスケットを食べたのよ。どうして家では食べられないの?」と言ったものです。親は、何の話をしているのかも分かっていませんでした。先生達は、とても根気よく教えてくれましたね。日本人だけでなく、イタリア人移民の子供もいましたからね。イタリア人達も、自分達特有の味がありました。私も、にんにくの味を教わりましたよ。学校を通して、読み書きだけでなく、こういったアメリカや他の国の文化も学んだんだと思います。
カズコ・ビル
カリフォルニア州のツールレイク収容所から開放された後、医師になったシアトルの二世
二世とは、一世の移民のアメリカ生まれの子供達を指します。法律上は正式なアメリカ国民で、日本に対して宣戦布告が行われた時も、敵国外国人として合法的に投獄されることはできないはずの存在でした。それにもかかわらず、ルーズベルト大統領が大統領令に署名し、陸軍に指定軍事地域から住民を排除する許可を与えた後、7万人以上の二世が、一世の親と共に強制収容所に送られたのです。一世の親の中には、自分達のアメリカ生まれの子供を日本領事館に登録して、日本国籍も取得させた人達がいて、これも二世に対する疑惑を招くことにつながりました。第二次世界大戦中、大部分の二世は10代か20代でしたが、収容所では、アメリカ政府当局により敵国日本につながりが強すぎるとされた一世より重視され、指導者的立場に立つことになります。二世は、日米二カ国の文化の混ざり合った存在と言えます。家の中では、両親と日本の食べ物、習慣、時には宗教も共にしました。学校や家の外の生活では、アメリカの生活態度や好みを身につけます。ほとんどの二世は、日本語学校に通わされたものの、流暢ではありませんでした。帰米というのは、二世の一部で、ある時期日本に送られて教育を受け、より日本的な考えを持った人達のことです。

第二次世界大戦前の情報報告
当時を語るインタビューから
父が連行されました。連邦捜査局が(モンタナ州の)ミズーラにしょっぴいて行ったんです。その間に誰かがやって来て、父の所持品を全部箱に詰めて、どこかへ保管してしまいました。とにかく、突然やって来ていろんな人を連れて行ったのです。数年前に地区の人に聞いてまわったことがあります。「どうやって、誰を連行するか決めたんだろう?」と聞いたら、老齢の二世の人が「知らないのかい?」って言うんですよ。「知りませんよ。どうやってですか?」「犬だよ。」「犬ってそれはどういう意味ですか?」「やつらのことさ。」 密告者のことを犬と呼んでたんですね。日本のコミュニティーの中で、誰か団体に属していたりする人の名前を提供した人がいたんです。日の丸会という、日本陸軍に入っていた人達のための、日本の軍部団体がありました。父は陸軍にいたんです。一年やそこら召集されましてね。騎兵でした。日本商工会議所にも入っていたんです。特に活動していたわけではありません。入会するのが普通だったんで入ったんでしょう。日の丸会にも、ただ入会するものだからというだけの理由で入ったんです。一度くらい集会に行ったかもしれませんがね。連邦捜査局は全部情報を握っていましたから、会員だったことは間違いないんでしょうけど。
タッド・サトウ
軍事隔離地区外の鉄道工事に就いて、拘留を回避したシアトル出身の二世
1930年代、情報各局は、戦争の際、アメリカの国家安全を脅かす可能性のある外国に関する情報を収集していました。連邦捜査局、アメリカ海軍や民間の捜査機関は、危険とみなされるつながりを持つ外国人達の身上調書を作成していたのです。フランクリン・ルーズベルト大統領は、日系一世と二世に関する情報報告も指示しています。その結果、開戦の際、日本人の血を引く人達は、他のどの団体と比べても、特に危険度は高くはないと報告されました。捜査員達は、ほどんとの一世は、合衆国に少なくとも消極的ながらも忠実で、二世は、アメリカ市民としての強い自覚を持っているという見解を示したのです。それでも人種的な偏見から、アメリカ政府は、ドイツ人とイタリア人に対しては、特別人物だけ厳密調査したのに比べ、日系人は全員危険性があるとしました。連邦捜査局は、日系一世を宣戦布告の際に逮捕すべき「容疑者」として挙げ、A,B,Cにグループ分けしたリストを製作しています。「A」のグループは文化団体、または日本を援助するような団体の指導者達、「B」はそれよりは疑惑度の低い一世達、「C」は日本団体への寄付者、日本語学校教師と仏教僧でした。個人的な恨みから、一世の競争相手の名前を、連邦捜査局に密告するという場合もみられます。大戦中に20人の日本政府の工作員が逮捕さましたが、全員白人で、日本人の血を引いた情報部員は皆無でした。ちなみに、第二次世界大戦前、戦中、戦後を通して、スパイ行為や妨害行為で、有罪判決を受けた日系人は一人も存在しません。

敵国人抑留所
当時を語るインタビューから
(抑留所で会った)医者に「どうしてここにいるんですか?」と聞いたら、いきなり来て連れて来られたということでした。指導者的な立場にある人であろうということは分かりましたね。そんな感じがしたんです。ハワイから来た人達は「なんで引っ張られたのかわからない。何もしてないのに。」って言ってました。それだけしか知りません。どうやってあの人達が選ばれたかは、私の想像の域ではありませんね。何人かの人は福岡県人会とかの団体の会長だったり、和歌山県人会の会長だったりしましたけどね。でもそれ以外は、どうやって選んだのか分かりません。一人の人は「家に帰ってから、どうすればいいんだ?」って言ってました。「家はどこなんですか?」「サンタバーバラの家に帰りたいよ。女房がいるんだ。」「奥さんがいらっしゃるんですか?」「ああ。それに子供も二人いる。」ということでした。「どうしてここに?」と訊ねると、分からない、と話していましたね。なぜ連れてこられたか見当もつかない。だた働いて、家族のために住む場所を探していただけなのに、っていうことでした。「ああ、どうやってまた元通りの生活に戻ればいいんだ?」って嘆いてましたよ。
ノーマン・ヒロセ
アメリカの市民権を破棄した後、ニューメキシコ州のサンタフェにある司法省の抑留所に連行された二世
真珠湾攻撃後わずか数時間の間に、アメリカ連邦捜査局と移民局の係員は、家々を廻り、その何年か前に作成された「容疑者」のリストに載せられていた一世の男性を逮捕していきました。連行された大部分の人達は、日本語教師、新聞編集者、仏教僧など、地域社会や企業の指導者達です。こうして逮捕されたドイツ人、イタリア人、そして日本人達は、とおりいっぺんの事情聴取を受けた後、釈放されるか、または敵国外国人抑留所に送られたのです。このような抑留所は、後に一世と二世が拘留されることになる大規模な強制収容所とは違い、司法省や陸軍によって運営されているものでした。一世男性は事情聴取の結果「釈放」された場合も、自由の身になれるわけではなく、他の拘留所に送られたのです。

第二次世界大戦が終わるまでに、アメリカ政府は約11,500人のドイツ人と2,700人のイタリア人を抑留しました。17,500人近くの司法省に抑留された日本人系の人々の中には、5,000人以上のアメリカ市民権を破棄した二世達が含まれていたほか、戦争捕虜の交換に使われるために国外追放になった2,000人以上の南米日系アメリカ人もいました。多くの一世の男性は、何年もの間隔離されて抑留されていたため、その家族達の苦労はなおさらで、家族関係にも支障をきたす結果を招くことになりました。司法省の抑留所に入れられていた人たちの中では、終戦後、さらに1年半もそこに留まっていた人たちもあります。

  主な在住外国人抑留所

    テキサス州、クリスタルシティー
    ノースダコタ州、フォートリンカーン
    モンタナ州、フォートミズーラ
    ニューメキシコ州、フォートスタントン
    テキサス州、ケネディー
    アイダホ州、クースキア
    ニューメキシコ州、ローズバーグ
    ニューメキシコ州、オールドレイトンレンチ
    ハワイ州、サンドアイランド
    ニューメキシコ州、サンタフェ
    テキサス州、シーゴビル

妨害行為の虚偽報道
当時を語るインタビューから
始めに戦争(第二次世界大戦)が起こった時点では、地方の新聞は非常に冷静でした。シアトル市民に、国内に住む日本人は開戦とは何のかかわりもない、非難しないようにと、呼びかけていたのを覚えています。4、5週間は、静かでしたね。少なくともシアトルでは、団体や個人が、日本人に暴行をくわえたといような話は聞かなかったです。カリフォルニア州は、それほど平和的ではなかったようですがね。その後、新聞や報道機関が、反日的な偏見をかりたてるようになってから、周りの雰囲気は険悪になっていきました。新聞があんなことさえ書きたてなかったら、あるいは避難命令も、避けられていたかもしれません。もともと全く不必要なことだったんですから、、アメリカの報道機関が無責任に、意味もなく世論を炊き付けなかったら、我々があのように監禁されることもなかったと思いますよ。
ショウスケ・ササキ
シアトルに住む賠償金運動に参加した一世の活動家
真珠湾攻撃後の数ヶ月の間に、ラジオや新聞記者達は、アメリカ西海岸の日系人達が日本軍を助け、大日本帝国の手先となって働いているという、根も葉もない報道を行いました。特にカリフォルニア州の新聞各社は、卑劣なアジア人と「黄禍」の侵略という、使い古されたイメージを持ち出してきて、その長年にわたる反日運動をなおも続けていたのです。記者達は、一世の漁夫や農夫は、アメリカの軍事基地の位置を教えるために、船を並べたり、農作物を形に植えたりして、敵国日本軍の飛行機に信号を送っていると言い立てたのです。それに加え、合衆国海軍長官は、「第五列」の活動が太平洋艦隊の破壊を援助したと発言しました。ハワイ州の海軍司令官と連邦捜査局はこれを否定しましたが、一般市民は違いました。特に合衆国西部の防衛責任者ジョン・ドゥウイット中将は、日本人の血を引く人々がたどる運命に、破壊的な影響をもたらせた人物です。ドゥウイットは反日感情をかきたてるような噂を流し、アメリカ西海岸に住む日系人が日本軍の潜水艦に信号を送って、アメリカ軍の戦艦の攻撃の手助けをしていると、虚偽の発表を行ったのです。連邦各局は、この言いがかりを否定していましたが、アメリカ政府は、このような日本人の血を引く人達に対する根拠のない恐れをかきたてるような作り話を、正式に誤りと証明する努力をしめそうとはしませんでした。

第三章強制立ち退き
当時を語るインタビューから
(強制立ち退きで)家を出て行くことになった時には、あちこちの白人の家に、家財道具を売っては運んでいた感じでしたね。それでとにかく後ろ髪をひかれながらも、あわただしく出て行ったんです。母は、新しい洗濯機が自慢だったんですけれど、それも売り払わないといけませんでした。新しい料理用のコンロもです。後で(売りたくないと)気が変わったんですが、その時にはもう時すでに遅しでした。お風呂場の焚き口にいろんなものくべて焼いたのを、はっきり覚えています。日本のレコードとか、特に日本の親戚の写真ですね。その当時、日本軍にいた叔父が何人かいましたからね。皆(アメリカ政府に)監視されてるって噂があったんです。それで、日本に関係あるものは全部処分されました。ひどい話でしょう? 悲しいことでしたけれど、これも、うちの家族だけじゃなかったのを覚えてます。他の人たちも同じことでした。全部置き去りで、帰って来た時には、またいちからやり直しでしたよ。家財道具の一部は、どこかの倉庫に突っ込まれたりしましてね。私の部屋にあったローズ色のカーペットだけが、まだそこに残っていたのを覚えています。
ノートン・チズ
シアトル東方の地区から、カリフォルニア州パインデイルの集合センターに連行された二世
収容所でソフトボールをする女性達(1942年 1942年2月、フランク・ルーズベルト大統領は、「軍事活動に重要とみなされる地域から,いかなる人物でも追放できる権限」を軍に与えます。当時のアメリカ陸軍省と西海岸の政治家達からの圧力によるものでした。指導者達は日系人のアメリカ国家に対する忠誠心の有無を疑問視し、「この地域からすべての日系人を排除することが軍事上必要である」と唱えました。大統領命令の告知が西海岸の州に張り出され、日本国籍の一世だけでなく、アメリカ国籍を持つ二世も含め、日本人の血を引く住民はすべて、移転所に出頭するようとの告知がなされました。準備のために与えられた期間は約一週間で、持参の許されたのは手に持てるだけの所持品でした。財産の借り手がついたり、近所の人に財産等の世話を頼めた幸運な人もいましたが、多くの家族が、農場、自宅、経営している事業を始め、全ての財産を失うか、二束三文で売り払うことになったのです。こうしてどこに連れていかれるのか、どれくらいの期間になるのか等知らされることなく、強制的な「避難」が行われました。政府の権力者は、アメリカ市民を追放することにはいささか抵抗があったので、二世に対しては「非外国人」という言い回しを使っていました。

二世の団体日系アメリカ市民連盟は、アメリカ国家に対する忠誠心をあらわすためこの強制立ち退きに従い、「避難」を支持するようにと呼びかけました。西海岸の北から南まで、多くの日系家族が自ら立ち退きに登録し、登録番号を付けられ、武装兵士の監視の下にバスや汽車による長い旅の末、「集合センター」へと送られました。「集合センター」は、会場となる空き地や競馬場に急ごしらえで建てられた仮施設で、有刺鉄線と監視塔に囲まれていました。12万人以上の日系の老若男女が、厳しい暑さと寒さの中、バラックのほったて小屋に粗末な食事、ついたてもないシャワーやトイレといった粗末な環境で暮らすことを余儀なくされたのです。それは、自由も誇りも奪われた生活でした。

何ヶ月か後、「集合センター」に留置されていた人々は、内陸の人里離れた常設強制収容所に移されました。収容所を運営するため、多くの人が低賃金で所内の仕事に就くことになりました。収容所での生活のわずかながらの改善のため、住居宿舎は改良が加えられたり、スポーツや収容所でソフトボールをする女性達娯楽が企画されたりし、物質的には最低の生活を送ることができていました。しかしながら、罪もなく囚われの身のなっていることによる心理的打撃は免れません。連邦政府は、このような日系人の拘留が、いずれは解消されるべきことを承知していました。そこで、誰が安全かを見定めたうえで収容所外に開放することとし、1943年に忠誠登録を行いました。忠誠登録は日系人の間に怒りと誤解を招き、将来への不安もあり、多くの家庭内で口論を引き起こし、家族を引き離す結果になってしまったのです。

強制立ち退き
当時を語るインタビューから
(立ち退きの日)私達は、大型の軍用トラックが迎えに来るのを、待っていなければいけませんでした。かなりの大家族だったんですよ。父はいませんでしたから、7人家族でした。皆スーツケースを持っていました。他にも、日本人家族がたくさんいて、それぞれ荷物を持っていましたね。そこで、皆でフェリーに乗るために待っていたんです。トラックが来たら、出てきたのは銃を持った兵隊達で、そこに立って私達を見張ってるんです。それも恐ろしかったですね。とにかく、私達が何か悪いことでもしたみたいに、沢山の兵士に囲まれて、そこに立ってたんですからね。知っている人の顔を見たくなかったですよ。出て行かなくてはいけないということが、恥ずかしかったんです。フェリーが着いてシアトルに下りた時、今度はすぐ横の線路にとまっている汽車へと歩かされました。たくさんの人が、高架から私達を見下ろしていたのを覚えています。皆、私達がどこかへ行くのを見物しに来ていたんですよ。まるで奇妙な動物にでもなったような気持ちでした。いつ帰ってくるのか、帰って来れるのか、どこに行くのかもさえ分からず、とても恐ろしい経験でしたね。
マツエ・ワタナベ
ワシントン州のベンブリッジ島からカリフォルニア州マンザナー収容所へ連行された二世
1942年の初頭、アメリカ一般市民は、日本軍によるアメリカ本土侵略への危機感をつのらせ、西海岸の政治家達は、日本人の血を引く住民全員を立ち退きさせることを主張しました。真珠湾攻撃に対する怒りは、日本人の顔をしてる者は誰でも敵国日本に同調するだろうという、人種に基づいた憶測を招きます。これに一世の経済的競争力を排除しようという思惑が加わり、アメリカ在住の日本人と、そのアメリカ市民である子供達を含めた12万人を、全員追放しようという世論の圧力は高まりました。連邦捜査局と海軍情報局は、集団追放の必要性を認めず、司法省は立ち退きは基本的人権の蹂躙にあたるとしました。それにもかかわらず、フランクリン・ルーズベルト大統領は、アメリカ国民であるなしにかかわらず、日本に民族的つながりを持つ者達は、遺伝的に信用のおけない存在であるとする陸軍高官に耳を傾けたのです。1942年2月19日、ルーズベルト大統領は、大統領令第9066号に署名し、陸軍に軍事排除地区を指定し、「すべて、どのような人物でも」危険と認められれば、立ち退きを強要できる権限を与えました。この大統領令は、日本人の血を引いた人達に適応されましたが、ドイツやイタリア系の人達には使われなかったのです。ハワイ州に住む15万8千人の日系人達も、集団立ち退きを強いられていません。アメリカ西部の各州からのこのような集団「避難」に対して、反対の声はほどんど聞かれませんでした。1942年3月、途方にくれる日系人達は、武装した兵士に伴われ、どこへ行くかも知らされないまま、自宅や経営する事業からの立ち退きが始まったのです。

日系アメリカ人市民同盟
当時を語るインタビューから
JACLは、日系社会とアメリカ政府の仲介者役になったことで、かなり重要な団体とみられるようになりました。逆に言えば、政府がJACLを仲介者として選んだために、JACLが情報源として、それに、いろいろ湧き上がってくる問題に関してどう対処すればいいのか助言を求める場所として、一目置かれるようになったんですね。避難命令に従うことで、多くの人はJACLが政府当局にへつらってると思ったし、協力者として行動したことでも、(政府の)命令に従ったと非難されました。あの時期を通して、JACLに対して良い思いを持ってる人は少なかったですね。JACLの指導者達は、やむを得ず権力者的な態度を取っていたのですが、日系社会の人たちは、それに反感を抱いていましたよ。その一方で、JACLは、どんなことであれ、コミュニティーの業務をまとめられる唯一の団体だったんです。一世のコミュニティーの団体は、ことごとく閉鎖されてしまっていましたからね。JACLが唯一存在した日系アメリカ人の団体だったんです。それで、JACLに対しては、好き嫌い両方入り混じった感情が持たれていましたね。皆、いろんなことをやってくれることには感謝してたんですが、アメリカ軍部と政府の代表者である限りは、批判的で良くは言いませんでした。
フランク・ミヤモト
ワシントン州大学、社会学名誉教授
日系アメリカ人市民同盟(Japanese American Citizens League、略してJACL)は、人種差別や偏見にさらされた日本人の血を引いた人達や、他人種の人達の人権を守るため、1929年に設立されました。今日では、アジア系アメリカ人の中では最大の人権擁護団体に発展し、米国内の各所に多数の支部を持っています。当初の指導者達は、大学教育を受けた親アメリカ派の二世達でした。1930年代、日系アメリカ人市民同盟は、いくつかの差別的な法律の撤回にも成功しています。同団体は、政治的には、対立より融和を図るという立場を取っていました。1942年の冬に、一世の日系社会の指導者達が逮捕された後、当時設立されたばかりだったこの市民同盟は、日系人と連邦政府の仲介者的役割をにないます。立ち退き命令に抵抗するのは無駄な努力だという判断から、日系人のアメリカ政府に対する忠誠心を証明するため、政府当局に全面的に協力することを人々に呼びかけたのもJACLでした。収容所内では、会員達は政府管理者に協力し、政府反対者達を非アメリカ的だと批判します。JACLは日系社会を裏切ったと感じる人もあり、いくつかの収容所では、会員達が犬(裏切り者)だとして、暴行を受けることもありました。1970年、80年代には、賠償金請求活動を推し進めるのを援助しています。

強制収容所
当時を語るインタビューから
マンザナー収容所は、埃っぽくて暑かったのを覚えています。小川に遊びに行きましたね。鉄柵のすぐ内側にあって、(アメリカの)兵士が銃を持って、監視塔の上にいたのが見えたのを覚えています。野球の試合もありましたし、野外映画もありましたね。土の上に座って、外で映画を見たことがなかったので、ちょっとわくわくしました。弟のフランクの世話をするのが、私の仕事になっていまして。それで、人ごみの中で土の上に座っていたんですけど、強い砂嵐が来て、皆立ち上がって帰ってしまったんです。皆自分のバラックに帰るのに右往左往で、大勢の人に囲まれてしまって、フランクの手を握ったまま、怖い思いをしたのを覚えています。今でも、大勢の人がいる所が嫌いなんですよ。押し合いへし合いになると、その時のことを思い出してしまうんです。さそりも怖かったですね。ミニドカは、冬場になるとすごく寒くなるんです。私は妹のフランシスを学校まで送って、また迎えに行かないといけませんでした。それにフランクの面倒もみないといけなくって。どこかからの帰り、雨が降ってきて、道が泥だらけになったんです。フランクは泥にはまってしまって、ひっぱり出せなくなってしまいました。パニックになりましたね。天候のことは一番よく覚えています。すごく暑くて、すごく寒かったんです。でもそれ以外は、どこでも子供がするように、私達も遊んでました。それから10年経って、家に戻って来て、そこで始めて差別の経験していやな思いをしました。その時はもう思春期にかかっていましたからね。その影響は、小学生の時より大きいですね。
リリー・コダマ
7歳の時にワシントン州のベンブリッジ島からカリフォルニア州のマンザナー収容所に立ち退かされ、アイダホ州のミニドカ収容所に移された
1942年から1946年まで、アメリカ政府は、7万人のアメリカ国民(二世)を含む、12万人の日本人の血を引く民間人を拘留するため、「転住センター」と呼ばれる10箇所の強制収容所を運営していました。アメリカ西部と中部にある砂漠と沼地の過酷な設置条件に置かれ、これらの収容所は、小規模な人工の町のように運営されていました。収容者達は所内の農場、調理場、学校、病院、リクレーションホール、新聞出版所などで働き、その管理にもあたっていたのです。それぞれの家族は、一部屋だけの粗末なバラック小屋の住居に住み、混雑した食堂で食事を取り、共同のトイレとシャワー施設を使用していました。運営を担当していた戦時転住局は、通常生活の装いを作り出そうとしましたが、収容者達はたとえ映画を見ようが、ダンスパーティーを開こうが、野球の試合を観戦しようが、鉄柵と武装監視員に囲まれていることは忘れません。この合衆国収容所で、最低限の生活はまかなえたものの、一生かかって積み上げてきた業績を失った老齢者や、学業やキャリアを中断された若者、監禁されて幼年期を送った子供達でさえ、その長期的な心理的、精神的を打撃をこうむりました。全員その人種のために危険者扱いされ、不忠誠だとされたこの国での将来に不安を感じ、家族内や世代間では言い争いが起こり、それは人々の生涯に大きな影響を与えるような結果を招きました。

  戦時転住局強制収容所

    アリゾナ州、ギラリバー
    コロラド州、グラナダ(アマチ)
    ワイオミング州、ハートマウンテン
    アーカンサス州、ジェローム
    カリフォルニア州、マンザナー
    アイダホ州、ミニドカ
    アリゾナ州、ポストン
    アーカンサス州、ローワー
    ユタ州、トパーズ
    カリフォルニア州、ツールレイク

忠誠登録
当時を語るインタビューから
あの(忠誠登録の)アンケートが, どうやって配れらたのかは覚えていません。でも27番目と28番目の質問は覚えていますよ。「この国に忠実を誓いますか?」とういものでしたね。もうひとつは、「言われた部署どこにでも就いて、合衆国軍で兵役を果たしますか?」でした。これが日本人が分裂していった始まりだと思いますね。特に帰米の人達だったら、いいえって答えますよ。この国(アメリカ)で兵役に就こうとは思わなかったでしょう。二世はなんと答えたらいいのか分からないし、一世の親は子供にどうしろと言ったらいいのか分からない。(一世の)親はもちろん、合衆国で兵役に就くことはありません。アメリカの市民権ももらえなかったんですから。収容所内では、アメリカ国籍を持っていて、合衆国のために戦うべきだと主張する人もいました。合衆国に対して非常に怒りを感じていた人達もいて、こちらは「兵役なんかに就くものか」と断言しました。その後は、日本人同士の間での争いですよ。政治的な質問だったと同時に、非常に個人的な質問でもあったので、大変でした。いろいろな感情があいまって、同じ家庭の中で、意見が分かれることもありましたね。あちこちで家族が崩壊し始めてしまったんです。
ユリ・チヤマ
カリフォルニア州サンペドロ出身の二世、アーカンサス州ジェローム収容
1943年始めの忠誠登録は、強制収容所にいる日系人の忠誠心を図り知ろうという、ずさんな企画と実行で行われた計画の一部でした。収容所生活は、いづれ釈放されなくてはならない人々を傷つけていると悟り、政府当局は、いくつかの目的を持って忠誠登録を作成しました。内陸部の地区に転出を許可してもいいのは誰か見極めること。二世の男性達に兵役を通して、アメリカ魂を見せる機会を与えることで世論の改良をはかること。そしてアメリカ政府に不忠実とみられる人物を隔離することでした。当局はこのアンケートの意図の説明もなく、物議を呼んだ二つの質問を投げかけました。27番目の質問は、二世の者がアメリカ軍入隊の意志があるか、28番目の質問は、アメリカ合衆国に忠誠を誓い、日本国天皇への忠誠を「破棄」するかというものでした。二世の中には、自分達を投獄した国のために戦えと言われ、憤慨した者もいました。一世は、当時アメリカの市民権の取得を許可されていませんでした。そのために、日本との関係を否定することは無国籍状態につながり、日本に忠誠を示せば、国外追放の危機にさらされるという状態に追い込まれたのです。アメリカ生まれの二世達は、アメリカ政府から日本に忠誠心を持っていると思われたことに憤りを感じました。この質問両方に、怒りや抗議心から「ノーノー(いいえ)」と答えた者は、全て不忠実というレッテルを貼られたのです。親が開放されれば兵役に就くとした二世のように、条件付きで答えた人達も、同様に不忠実とみなされました。欠陥だらけのアンケートでしたが、それでも政府当局はこれを忠誠心を計る真の検証として扱い、その結果に基づいて日系人を振り分け、何千人もの人々に悲惨な結果をもたらすことになったのです。

第四章不和
当時を語るインタビューから
収容所での生活は、とても楽しいと言えるものではなかったので、どうにか出て行きたいと思っていました。出所許可を貰ってシカゴに住んでいる友達が何人かいましてね。私もすぐに収容所を出て、何千人かの人たちと一緒にシカゴへ行きました。 大都市のほうが就職口がありました。戦時中で人手不足だったんです。そこにある会社は、日系アメリカ人は良く働いて、良心的だっていうんで喜んで雇ってくれましたよ。ほとんどの仕事は、ホテルのメードや、レストランの皿洗いといった、サービス業の下働きでしたけれどね。でも、収容所を出られただけで、嬉しかったんです。仕事を持って、市民としてまた自由を味わえることが嬉しくてね。ついに自由になったんだ、と思いました。
ジョージ・ヨシダ
1943年に21歳でアリゾナ州のポストン収容所を出る
第二次世界大戦中の強制収容所への監禁政策の中で日系人達は、それぞれ選択を強いられました。 政府の政策に抗議する人達は処罰が課せられました。1942年の春に収容所が開設された直後から、アメリカ政府は、アメリカに忠誠心があるとされた日系人を、収容所から解放して軍事隔離地区から離れた地域に落ち着かせるという施策を行っていました。また、忠誠心があるとされた日系人は、一時的に収容所から出て、戦争に取られた農園労働者の代わりに働く許可を得ることも可能でした。人道主義者や宗教団体が後ろ盾となり、二世の大学生を収容所から出して学校に戻すといった活動も行なわれました。国家の安全を脅かす人物ではないことを証明し、地域住民の反対がない地区で仕事と住居を確保すれば、収容所を去ることもできました。この退出政策は、若くてアメリカ社会になじんだ二世にとって有利であったために、収容所から出て行く者もあり、年老いた一世は収容所に残されるという結果を招きます。

収容所から出るためのもうひとつの手段は、アメリカ軍への入隊でした。第442連隊戦闘団は日系の兵士だけで編成され、イタリアとフランスでの激しい戦闘で活躍し、後に日系アメリカ人の一般的なイメージの向上に役立つことになります。二世と帰米兵士は、太平洋地域の陸軍情報局にも従事していました。兵士達の中には、自分達の公民権の回復を訴え、徴兵忌避の罪で連邦刑務所に投獄された者も300人以上いました。

ツールレイクから司法省管轄の抑留所に送られる親日派の奉仕団のメンバー1943年に行われた忠誠登録は、日系コミュニティーに内部亀裂をもたらし、それまでの人々の生活を大きく変えました。その中に含まれていた「アメリカ軍に参加するか」と「日本の天皇への忠誠を破棄するか」という二つの問いに「ノー」・「ノー」と答えた人たちは、アメリカ政府に不忠誠とみなされたのです。そして、監視度の高い隔離センターであるカリフォルニア州北部のツールレイク強制収容所に移される結果となりました。1944年の冬から1945年にかけ、この収容所では5500人以上の二世がアメリカ市民権を破棄し、戦争で大きな打撃をこうむった日本へと国外追放される可能性に直面することになったのです。日本に帰還を望む一世の親への思いや、生まれた国であるアメリカに拒絶された怒りに影響された決断でした。大部分の人たちは戦後、アメリカ市民権を再取得しています。

抗議者達
当時を語るインタビューから
召集令状を受け取った時は、まったくうれしくなかったですね。「どうしてこんなことができるんだ?」と言いましたよ。政府は私達の権利を奪って、日本人であること、顔が違うということだけで罰した(収容所に入れた)んですから。理由はそれだけです。ドイツ人とイタリア人の中でも、ある地域から立ち退かされた人がいたかもしれませんが、民間人が強制収容所に入れられるなんてことはありませんでした。明らかに人種差別です。誰にだって分かっていました。アメリカ人は否定しますが、それが真実です。事実がそれを物語っていますよ。それでも一生懸命やるしかないというのは、よく承知してましたがね。「政府がいうんだから、召集に応じる。それしか、アメリカ国民になれる手はないかもしれない。」と、兄(弟)が言ったようにね。でも、私は、それは違う。僕達だってアメリカ国民なんだから、白人のアメリカのご機嫌をとるために、出征して自分を犠牲にすることはないって言ったんです。「どうして、自分達の権利を回復したあとで出征しちゃいけないんだ?」ってね。入隊する前に、憲法にのっとった権利の回復のために戦わなければならない。私は「それが唯一正当な道だろう。」と言ったんです。
ミツ・コシヤマ
19歳の時にワイオミング州ハートマウンテン収容所から、徴兵されるのを拒否し、召集回避で2年間連邦刑務所に投獄される
1940年代、アメリカ政府によってばらまかれた一般向けの情報は、日系人はアメリカへの忠誠心を証明するために、喜んで監禁されたと強調していました。しかし実際には、多くの個人や団体が、自由の喪失と権利の剥奪に抗議していたのです。抗議の方法はいろいろでした。何人かの二世は、政府にかせられた夜間外出禁止令と排除命令に対抗し、ゴードン・ヒラバヤシ、ミノル・ヤスイ、フレッド・コレマツ、ミツエ・エンドウの4者は訴訟を起こし、アメリカ最高裁判所での審議に至りました。初めの3者は政府の命令を無視したとして有罪判決を受けます。エンドウ氏の訴訟は、後に収容所の閉鎖につながったものの、裁判所はこのような強制収容が違法であるとは認めませんでした。日系人の労働者達はストライキやデモを決行し、危険で不平等な労働と生活条件の改善を求めて嘆願書を提出し、アリゾナ州ポストン収容所や、カリフォルニア州マンザナー収容所のように、暴動にまで至ったこともあります。1943年には、何千人もの人々が、忠誠登録の強制に反対しました。この悪名高い忠誠登録に反対したことで、日系人は不忠実とみなされ、カリフォルニア州ツールレイクにある弾圧的な隔離収容所へと送られたのです。徴兵に応じる前に、彼らの人権の回復と親の幽閉からの解放を要求することで、抗議を表した二世も何百人といました。判事達は、この主義主張の通った訴えを退き、徴兵回避で300人以上の若い男性に有罪判決を下し、連邦刑務所に送ってしまいます。

学生の解放
当時を語るインタビューから
私は(収容所を出た後)ソルトレイクシティーに行って、ユタ大学に行くはずでした。書類を全部揃えて、収容所を出るのに必要なのは、住む所を見つけることだけだったんです。たくさんの家庭が家を開放して、食事と部屋を提供してくれました。それで、あるお家に住むことになっったんですが、ここの人達は、私を学校に通わせるつもりなんか全くなかったんです。だた子守とお手伝いさんが欲しかっただけだったんですね。私が「学校に登録に行かないといけないんですけど。」と言うと、「あらあら、夕方しかいけないわよ。昼間は、食事代と部屋代をまかなうために働いてもらわないと。」と言うんです。学校に行くと、「そのスケジュールでは出席できません。」と言われました。私が「でも学校に行きたいんです。」と言うと、「では、実業学校はどうですか。」というとこになって、それでLDSビジネスカレッジに行ったんです。兄が軍の休暇でソルトレイクシティーに来た時、この家の女主人は「ジャップの兵隊なんか家には入れたくないね。」と言うんです。私は、「兄はアメリカ軍兵士なのよ!」と言っても、だめだと言うんですね。それに、私宛の手紙が自分の家に送られてくるのも嫌って、手紙は姉の所に送ってもらっていました。姉もある家庭で働くために、収容所を出ていたんです。それで、兄が来て、「もうこんな所にいるんじゃない。」と言いました。女主人の方は、「だったら、収容所に送り返してやるわ。」と言うんですが、兄は「いや、僕が戦時転住局の事務所に連れて行く。」と言いましてね。姉が住んでいた家庭の人が、他の場所が見つかるまでと、私に部屋を用意してくれました。それで、他に住む場所を見つけて、学校に通い続けたんです。
アキ・クロセ
大学に通うためアイダホ州ミニドカの強制収容所をあとにし、シアトルで教師、人権擁護活動家として尊敬を集める
1942年の時点で、二世のうち最も多かった年齢は21歳でした。アメリカ西海岸から立ち退き命令が出たとき、何千人もの二世は大学に通っていたのです。この強制立ち退きに反対して、学生を軍事排除地域外の学校に移そうした大学もありましたが、必要な手続きを行うには時間がありませんでした。強制収容所に入れられてしまうと、大学生達は、そこに取り残されてしまいました。収容所には小学校と高校はありましたが、高等教育機関への道は閉ざされていたのです。人道主義や宗教団体は、支援活動を組織し、二世の学生達を収容所から出し、大学での勉学を始めたり、再開したりできるよう資金援助を行っていました。特にアメリカフレンズ奉仕団(The American Friends Service Committee、クエーカーとしても知られる)は、「全米日系アメリカ学生転住審議会」(National Japanese American Student Relocation Council、略してNJASRC)の設立を援助し、軍事排除地域外の約600校の大学に、4千人あまりの二世を入学させました。NJASRCは二世が収容所を出るための膨大な事務手続きを手助けし、周囲の地域住民の反対を抑えて日系の学生を受け入れるよう大学を説得し、奨学金と生活費を提供するために資金を募りました。このような二世の学生達は、日系人を代表する者として見られ、優秀な成績をあげなければならないという、大きなプレッシャーを感じることになります。最近になって、カリフォルニア州を初め、他の州でも、何校かの大学が強制収容により勉学を中断された二世達に名誉学位を手渡しました。

兵役
当時を語るインタビューから
(戦場で)ドイツ兵達を追い払った後、砲弾が降ってきていました。今度は私たちがドイツ軍の隠れ穴に飛び込む番です。一番下にいたんですが、砲弾がやって来るなか隠れ穴に走っていきました。F軍からのやつが一人、そこに飛び込んで来ましてね。最初は誰だかわからなかったんですが、すぐに見覚えのある顔だと気付きました。「アリゾナのメサから来たマス・イケダじゃないかい?」 「そうだよ」「故郷からどんなこと言ってきてる?」って家のことを話し始めました。砲弾はドンパチ爆発していたのですが、気にもとめませんでしたよ。ただ家のことを話してました。誰かが故郷の話をするのを聞くのがうれしくてね。砲弾は炸裂して、救急隊員を大声で呼んでいるやつや、叫んでるやつもいましたが、私達はそんなこと気にもしませんでした。
ジョージ ジョー・サカト
第442連隊戦闘団の兵士で、失われた大隊の戦いの功績により名誉勲章を受ける
第二次世界大戦中、約3万3千人の二世男女が、戦線に出て、もしくは通訳その他の部門で、アメリカ軍で兵役に就いていました。政府によって親が強制収容所に監禁されている中、自分達の生まれた国のために生命の危険を犯すことで、二世兵士達は忠実な市民として、日系アメリカ人の一般的なイメージの回復に大きな役割を果たしました。

合衆国陸軍の第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団は、当初志願兵で形成され、後にハワイとアメリカ本土の強制収容所からの徴兵が行われました。指揮官はほとんど全員が白人だったものの、兵士は全員日系二世でした。この部隊はイタリアとドイツでドイツ軍と交戦し、数多くの死傷者を出しました。もっとも悲惨だった戦いは「失われた大隊」の救出と呼ばれ、フランス北部でドイツ軍によって孤立させられた200人以上の元テキサス州兵を、二世兵士が救出したものです。この第100第442連隊は、その規模と戦闘期間を考慮すると、アメリカ軍史上、最も多く、その勇気を讃えられ、勲章を受けた部隊です。

太平洋地域では、アメリカ軍情報部に訓練を受けた二世の言語専門家が、入手書類を翻訳し、捕虜を尋問し、日本の占領、再建の援助に携わりました。戦時中の二世兵士の活動は、最高機密とされていました。戦後の日本国内において、二世兵士は、合衆国の関係者と日本国民の間で、言語的、文化的両面において橋渡しの役目を果たしたのです。

ツールレイク隔離センター
当時を語るインタビューから
(収容所内の)農場でのストライキが、問題の一部でしたね。作物は植えられていたんですが、誰も収穫しない。養豚所も閉鎖された。食糧事情は悪くなる一方でした。それはもうひどくて、ある時なんか、各食堂に、カリフラワーが一箱ずつ届けられただけなんてこともありましたよ。300人用に一箱ですよ。それで花の部分を切って、葉っぱのところは残しておくんですね。葉っぱで何をしようっていうのか? 考えたもので、それをきざんで、漬物を作ったんです。もう食べ物を要求して、大騒ぎになりました。少しずつ何か運ばれてくるんですが、とにかく皆を食べさせるために、何とかしないといけない。管理側は我々にちゃんとした食事を与えてないんですから、皆怒って、それで奉仕団(即時帰国奉仕団、親日派の団体)の人達がもっと力を持つようになったんですよ。「ほら、あいつらは戦わないだろ? 管理側と戦わない。だから、こんな扱いを受けるんだよ。」と言うふうにね。そこで力をつけていったんです。管理側がますます弱くなる、陸軍はひどい食事を送ってくるで、彼らにしてみれば、もっとたくさんの人をグループに引き入れる武器が揃ったわけです。それをうまく利用しましたね。だから短期間の間に、あれだけたくさんの人を引き入れられんたんです。それから、管理側が2百、3百人の奉仕団員を捕まえて、4百、5百人にもなりました。皆追い出して、収容所を落ち着けようというわけです。団員達は柵に入れられて、それからビスマルクに送られて、それからニューメキシコのクリスタルシティーでしたね。グループ全体を分裂させて、国内中に散らばしたんです。それで問題解決ってわけです。
ジミー・ヤマイチ
ツールレイク隔離センターの道徳的徴兵拒否者
カリフォルニア州北部のツールレイク強制収容所は、戦時転住局によって運営されていた10ヶ所ある収容所の一つとして開設されました。1943年に、欠陥だらけだった忠誠登録の答えに基づいて、合衆国政府が不忠誠とした人達のための、隔離センターへと変更されることになるのです。1943年9月に、ツールレイクにいた日系人で、政府によって忠誠心があるとされた人達は他の収容所へと転出し、他の強制収容所からは、不忠誠だとされた人達が入所して来ました。また、既にツールレイクに収容され、再び移動するより留まることを選択した人達も6千人以上いました。ここでは、収容所以外の場所に移転することは、全員禁止されていました。およそ千人の警備員が導入され、二重のフェンスが建てられ、軍用戦車が収容所を取り囲んでいました。強制捜査は1年に及び続行されました。収容数は最高で1万9千人に膨れ上がり、密集状態は収容所内の緊張を高めます。1943年10月、住民と管理関係者の間での口論の後、戒厳令が布かれ、これは外部の報道機関によって暴動にまつりあげられてしまいます。管理体制に反抗的だとの疑惑を持たれた男性達は、法的手続きも踏まず、柵内に閉じ込められました。1944年の春には、収容所管理者は、すべての集会を禁止し、学校、職場、スポーツ、リクレーションが閉鎖となります。ツールレイクでは、親日的な団体や、日本に帰国を希望する親からの圧力で、5千人以上の二世がアメリカの市民権を破棄することになりました。この隔離センターは、1946年3月に閉鎖されます。

第五章復帰
当時を語るインタビューから
(収容所から帰った後、知り合いの)林さんは、下宿屋を経営していたので、それを修理しました。お寺にホステルを設置するのも助けてくれましたね。仮ベッドや毛布なんかを、用意してくれたんです。でもお寺にはシャワー施設がなくてね。トイレはあったんですが、シャワーはなかったんです。とにかく皆、私の家で風呂に入りましたね。軍のバラックみたいなものでしたよ。いろんな家族が一緒に住んで、大部屋に一緒に雑魚寝です。「これじゃあ、収容所と一緒だね」って言ったものです。皆、仕事と住む所を探して出かけました。その頃、ワトソンビルの農商工会議所は、我々を迎え入れない、雇わない、物を売らない、土地家屋を貸さないという提案を15対3で可決しましてね。「その(反対してくれた)3人は誰なんだ?」って言いましたね。 (この反日的方針に賛成した)15人のことなんかどうでもいい。関係ありゃしない。勇気を持って、我々のために立ち上がって、また迎え入れてくれた、その3人が誰だったのか知りたかったんです。メイン通りには「ジャップ禁止」「ジャップお断り」の看板が目につきました。徴兵はまだ続いていました。戦争は終わっていたんですが、まだ徴兵されて、若いハワイ出身の二世がオード軍事訓練センターで訓練を受けてました。仏教会に寿司を食べに来たものです。そいつらは、メイン通りにそんな看板を見ると、その店に入っては、はずして破いていました。ワトソンビル出身の帰還兵は、そんなことはしません。静かで「我慢しろ」とか「ことを荒げるな」っていうふうでした。でもハワイの二世達は、我慢しませんでしたよ。我々はそれが有難かったものです。
マス・ハシモト
10歳の時にアリゾナ州のポストン収容所から開放され、カリフォルニア州のワトソンビルに帰る
第二次世界大戦中の、日本の血を受け継いだ人達の集団拘留は、日系アメリカ人の地域社会を劇的に変えました。強い横のつながりを持っていた日本人街や農場地域は崩壊し、一世が汗を流して築いてきたものは壊れ去り、二世の世代が日系社会の指導的な役割を担うようになりました。1945年に日本との戦争が終わり、収容所閉鎖後、収容されていた多くの人達はアメリカ西海岸地域へ戻って来ました。そしてそこで日系家族は、自分たちの財産が破損・紛失している現状を目の当たりにするのです。

また、反日感情の強い西海岸地区を逃れ、中西部や東部で出直しを図ろうとする日系人も多くいました。アメリカ全体で職も住居も不足している時期です。当時持たれていた反日感情のため、収容所帰りの人達の職探しや家探しは厳しいものでした。ハリー・トルーマン大統領はホワイトハウスの演説で、日系人兵士で組織された第442連隊戦闘団に対し「あなた達は敵国と戦っただけではなく、偏見とも戦って勝利を得た」と讃えたにもかかわらず、その帰還兵でさえ、人種差別と拒絶に迎えられました。

一世が年老い、二世がキャリアと家族を築くうちに、痛ましい強制収容所の記憶は、かたすみに追いやられるようになります。戦後、アメリカ主義が強く打ち出されるに従って、二世は自賠償金請求の公聴会分達の日本の部分を表に出すこともなくなりました。三世の子供達に、収容所の記憶を語ることもありませんでした。1960年代後半になって、三世の活動家と二世の指導者達が、裁判と立法により、連邦政府に対し賠償金の要求を始めます。1988年にロナルド・レーガン大統領が、戦時中の不正な拘留の被害を受けた存命の被害者全員に、それぞれ2万ドルの賠償金の支払いと、大統領公式謝罪を認める法律に署名するに至り、この賠償金請求は成功裏に終わりました。

現代の日本人の血を引くアメリカ人たちは、その伝統に誇りを持って活躍しています。日米間の強い絆から、新世代の日本人移民達も日系アメリカ人の歴史に新たなページを加えています。アメリカ政府が、再びある人種の拘束を行うようなことをするとは思えません。しかし、国際化が進展し、国家の安全保障を真剣に考慮すべきこの時代に、第二次世界大戦の収容所の悲劇をかんがみることは価値のあることではないでしょうか。

再出発
当時を語るインタビューから
1945年の初めから、アメリカ西海岸地域は、日系人の帰還の受け入れを始めます。大部分は、人種差別からくる敵意や、自警の脅迫など周囲の闘争的な態度にもかかわらず、自分達の土地へと帰って行きました。多くの人が、教会の地下や、近所の人達に預けていった所持品が姿を消し、自宅や農園は略奪され、放置されていたり、法的権利もない人達に横取りされていたりする状態を目の当たりにすることになるのです。中には、信用のおける知り合いが留守を守ってくれていたお陰で、また生活を築きなおせた幸運な人もいました。しかしながら、住宅が不足しているうえ、収入もない多くの元収容者は、寺や日本語学校に設置された粗末なホステルでの共同生活を余儀なくされたのです。職を見つけるのも、特に年を取ってしまった一世には困難で、多くの人は経済的に自立していた生活から、過酷な下働きの暮らしへと落ちて行きました。多くの日系人は、収容所に監禁されていたことも痛ましいものながら、(政府から支給されたわずか25ドルと片道切符を手に)開放後、いちからやり直すことは、それ以上に困難なものだったと語ります。アメリカ中西部や東海岸の新しい土地では、差別を受けた人もいれば、西海岸地域を離れ、人々はアジア系の顔を受け入れてくれ安かったと言う人もあり、元収容者達は複雑な歓迎を受けることになります。

賠償金運動

当時を語るインタビューから


1988年8月10日、ロナルド・レーガン大統領は1988年市民自由法に署名し、公式謝罪と12万人を監禁した第二次世界大戦強制収容所の存命者全員への、2万ドルの支払いを承認しました。この法案成立は、1970年に始り、時に論争を巻き起こした賠償金運動の総決算と言えます。ことを起こしたくないと二の足を踏む多くの二世達を説得し、日系の活動家と何人かの日系以外の人達が協力して、一世と二世の強制立ち退きと収容は不当であったとの認識と、それに対する支払いのために、努力を共にしました。1943年に最高裁判所が強制収容所の合法性を認めた際、連邦検察官が証拠を偽造したことをつきとめた弁護士チームも、この運動を援助しました。連邦議会、戦時転住及び抑留に関する委員会(the Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians、略してCWRIC)が、謝罪と支払いを勧告する前に、全国からの元収容者からの証言を公聴しました。何百人という人々が議会に働きかけると同時に、二世の議員達が、議会を通して賠償金法案の通過に力を注いだのです。1990年10月、最初の賠償金が、第二次世界大戦強制収容所の最も老齢の生存者達に支払われました。

現在活躍する日本人の血を引くアメリカ人
当時を語るインタビューから
私の家族は日本の伝統をとても誇りに思っていて、習慣などできるだけ教えようとしてくれました。それと同時にアメリカの生活習慣にも溶け込もうとしていましたね。学校では、日本人の強制収容所のことは学びませんでした。家族の者達も日本的なもので、そんな話はしませんでしたね。収容所経験が終わって何世代が過ぎてから、孫達が興味を持ち始めて、いろいろ調べるようになったんです。生活を奪われ、財産を取り上げられ失って、戦後またいちから始めないといけなかった日系アメリカ人の体験は、それは大変なものでした。今三世、四世の時代になって、この話を皆に伝えていかないといけないと思っています。
クリスティー・ヤマグチ
オリンピック、フィギュアスケート金メダリスト、Faces of Americaという公共テレビ番組のインタビューでヘンリー ルイス・ゲイツに語る
日系人の構造は、様々な変化を遂げています。2000年度の合衆国の国勢調査では、両親共に日本人の血を引くという日系人が796,700人、その他に片親が違う人種のという人が352,232人という数字が出ています。混血の日系人が自分をどのように見るかには、かなり個人差があります。自分の受け継いだ伝統を重んじる人もいれば、昔の第二次世界大戦中に家族にが経験したことなど、まったく興味のない人達もいるのです。五世、六世の世代も生まれました。日系人人口はいまだに西海岸に集中しているものの、ニューヨークやシカゴ、アメリカ南部の各州などにも、多数が暮らしています。著名な日系人として、退役軍人長官のエリック・シンセキ陸軍大将、オリンピックメダリストのクリスティー・ヤマグチ、俳優のケイン・コスギなどがあげられるでしょう。シンセキ氏はハワイ出身の三世、ヤマグチ氏は収容所生まれの母を持つ四世、そしてコスギ氏は父親が日本から移民して来た新日系人と、この3氏からも日系アメリカ人の多様さが伺えます。

日本からの新しい移民
当時を語るインタビューから
ショーンに(オノ ヨーコ氏のご子息)「東京でコンサートするから来ない?」って2008年に呼ばれて。で、その時はその一晩のために日本に行くなんてちょっとねえ……って思ってたんですけど。私の歌は案外ミュージシャンにとっては、ついていくのが難しいんです。だから「日本のミュージシャンには無理かなあ」なんて思ってたんです。彼らが誰かぜんぜん知らなかったし。でも、実際にやってみるとそれがピシャッとついてきたんですよね。あっ、これはどういうことかしら?って思って。そのついてくるっていうことがね――私の今までの経験では、世界中ですごく尊敬されているようなミュージシャンたちでも、私についていくのは難しかったんです。(そのライヴの時に)ふと後を見たら、みんなニコッとしてるのね。それが凄い!と思ってね。みんな自然で力んだりしてないのよ。皆さんすごいミュージシャンだったわけでしょ。それでショーンとね、「ママ、アルバムを作ろうよ」なんて話になった時に、「あの時のあの人たちを呼んでよ」って、呼んでもらったの。
オノ ヨーコ
ローリングストーン日本版、2009年10月号のインタビュー記事より
現代では、新しい日米間の移民が、この両国の関係を物語っています。2009年10月現在で、合衆国に住む日本人は384,411人でした。この中で37%にあたる142,017人が永住者で、在米の在留邦人数は、他国に群を抜き最多となっています。日本の大企業は、合衆国でアメリカ人を雇用し、特に太平洋岸地域では、日本のポップカルチャーが人気を得ています。日本からの商社員の子女は、アメリカで両国の言語と文化を持ち合わせた世代へと成長し、毎年、多くの日本の学生が、合衆国の高校、大学に留学しています。

100年以上前の一世の集団移民の時代と比較すると、現在の日米両国間の関係には大差が見られ、戦後の協力体制、日本の経済的な発展は、合衆国への新しい形での移民を生み出しました。日本から合衆国への、著名な移住者には、アーティストでミュージシャンでもあるオノ ヨーコ、国際的に知名度の高いバイオリニストの五嶋みどり、そしてオリンピックのフィギュアスケート選手の長洲 未来などがあげられます。

日米関連年表

日  本
西暦
アメリカ
アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が大統領親書を 携えて浦賀に入港、開国を迫る1853 -
徳川幕府が日米和親条約に調印し鎖国が解かれる1854
 -1855 -
 -1856 -
 -1857 -
 -1858 -
 -1850 -
 -1860 -
 -1861南北戦争が始まる
 -1862 -
 -1863リンカーン大統領による奴隷解放が行われる
 -1864 -
 -1865 -
幕府が始めて日本国民の海外渡航許可証を発行する1866 -
最後の将軍徳川慶喜が引退、大政奉還によって明治政府が成立する1867アラスカ州がロシアから買収される
元年者と呼ばれる初めての移民団体が政府の許可を持たずにハワイへ渡る1868会津若松藩地区からの非公式移民団体がカリフォルニア州に渡り、短命に終わったアメリカ最初の日本人植民地(若松コロニー)をゴールドヒルに建設する
 -1869大陸横断鉄道が開通する
 -1870 -
廃藩置県が実施される
ハワイ王国との間で日布修好通商条約が結ばれ、日本政府が移民にパスポートを交付する
1871 -
 -1872 -
徴兵令が出される
地租改正条例が交付され、税制が物納から金納へと変わる
1873 -
 -1874 -
 -1875アジア系移民への市民権授与禁止を移民法に追加、1952年の改定まで続く
 -1876 -
 -1877 -
 -1878 -
 -1879 -
 -1880 -
ハワイ王国のカラカウア国王が来日、ハワイの農業生産を支えるための日本人労働者の斡旋を依頼する1881 -
 -1882議会が中国人排斥法を可決、その後60年間の中国からの移民を禁止する
 -1883 -
明治政府が日本国民の海外渡航を正式に許可する1884ハワイ王国に日本領事館開館が開設される
内閣制度確立、初代総理大臣伊藤博文が選出される
政府募集の初めての官約移民がハワイに 農場労働者として渡航する
1885ハワイに日本人の集団移民が、サトウキビ農場の労働者として渡航する
 -1886 -
30人の日本人がカリフォルニア州に20エーカーの土地を購入し、農業共同体を始める1887 -
 -1888 -
 -1889 -
 -1890 -
 -1901 -
 -1902 -
 -1903 -
日露戦争が勃発する(~1905)1904 -
 -1905アジア人排斥同盟がサンフランシスコで発足、労働指導者とヨーロッパ系移民で結成され、初の反日運動が組織される
 -1906サンフランシスコ教育委員会が中国、日本、韓国系の移民の子供を大多数から隔離する決議を採択する
 -1907 -
 -1908日本、アメリカ間で紳士協定が締結され、日本からの移民労働者を制限、アメリカに在住する者の妻である日本人女性に対しては、移民が許可される
 -1909 -
 -1910 -
 -1911 -
 -1912 -
 -191313の州が外人土地法が可決し、市民権を持たない外国人の土地所有を禁止し、後に借地の禁止へと発展する
第一次世界大戦に参戦する1914
 -1915 -
 -1916 -
 -1917 -
 -1918 -
 -1919 -
日本政府は写真花嫁に対するパスポート発行を中止する1920 -
 -1921白人の自警団が58人の日本人労働者をカリフォルニア州ターロックから追放するなど、カリフォルニア州、オレゴン州、アリゾナ州で日本人追放の事件が発生する
 -1922米国最高裁判所が日本人への市民権授与の禁止は合法とする判決を下す
 -1923 -
 -1924アメリカ議会が移1924年民法を可決、事実上日本からの移民を全面禁止する
 -1925 -
 -1926 -
 -1927 -
 -1928 -
 -1929 -
 -1930Japanese American Citizens League (JACL -日系アメリカ市民同盟)がシアトルで第一回集会を開催、その後戦中、戦後を通して日系最大の政治的組織となる
満州事変が勃発する1931 -
日本政府が清の最後の皇帝溥儀をたてて、満州国を設立する1932 -
国際連盟を脱退する1933 -
 -1934 -
 -1935 -
 -1936 -
日中戦争が勃発する1937 -
 -1938 -
ドイツがポーランドに侵略し、第二次世界大戦が開戦する1939 -
日独伊三国同盟が締結される1940 -
日ソ中立条約が締結される
フランス領南インドシナ進駐するBR>日米交渉が決別する
日本軍が真珠湾を爆撃する
日本軍がグアム、ペナンを占領し、香港を制圧する
1941米国陸軍がサンフランシスコに日本人の血をひくアメリカ人を諜報部員として訓練するための小規模な学校を開設する
ルーズベルト大統領へ、日系アメリカ人の大部分はアメリカ政府に忠実で、日本との開戦になっても国家安全に危機をもたらすものではないとの報告が提出される
日本政府にハルノートを提示、中国からの撤退を勧告する
日本軍が真珠湾を攻撃、3500人以上のアメリカ兵の被害者を出し、ハワイに厳戒令がひかれる
アメリカ議会が日本への対戦布告を承認する
西部国防司令部設立、保安上の理由から日本人、ドイツ人、イタリア人の追放を支持する
根拠のない日系人によってのスパイ行為が政治家、報道によって取りざたされる
米国海軍が日系人の危険性はドイツ人、イタリア人と同様で、市民権の有無にかかわらず、個人を判断すべきだと報告する
連邦捜査局が、牧師、日本語教師、新聞発行人、各種団体責任者などの、日本人移民の指導者達を逮捕する
マニラ、クアランプール、ラバウルを占領するBR>ジャワ島のバタビア、ビルマのラングーンを占領する
東京への初の空襲が行われる
ミッドウェイ戦でアメリカ海軍が日本海軍を大破するBR>最初の交換船「浅間丸」が日本人の帰国のためにアメリカに向けて出向する
ニューギニア島で日本軍が全滅する
1942ルーズベルト大統領が大統領令9066号に署名、裁判、事情聴取 なしに、軍部がいかなる地区からも民間人を隔離できる権限を 与える(結果として収容されたのは日系人だけであった)
ドウィット司令官が日本国籍、アメリカ国籍所有者の日本系市民の強制立ち退きを開始、日本人系市民への夜間外出禁止令も布かれる
戦時民間管理局が16箇所の集合センターを開設し、約92000人の老若男女を留置する
ミノル・ヤスイが夜間外出禁止令の合法性を法廷で争うため、オレゴン州ポートランドで自首する
ルーズベルト大統領が大統領令9102号に署名、戦時転住局を開設する
ワシントン州シアトル近郊のベンブリッジ島で初の市民排除命令が実施され、45家族が一週間の猶予で強制立ち退きを命じられる
収容者が、戦時転住局の10箇所の収容所に送られ、転住局、司法省、その他の収容所に送られた収容者は、最終的に12万人にのぼる
ゴードン・ヒラバヤシが強制立退き命令に背き、合法性を裁判で争うために自首する
ミツエ・エンドウにより、強制収容に反対して人身保護礼状の要求が申請される
ガダルカナル島を撤退する
東京で大東亜会議が開催される
1943米国旧陸軍省が日系二世のみで編成される戦闘団の結成を発表し、ハワイと収容所から志願兵を募る
第442連隊戦闘団がルーズベルト大統領により発表される
ハワイ州から1万人、本土の収容所から1200人の日系人が志願兵となる
ドウィット司令官が日系人の米国に対する忠誠心を計る術はなく、軍部の許可なく西海岸地域に戻るべきではないと証言する
米国最高裁判所が、軍事的必要から夜間外出禁止令は合法とする判決を下す
忠誠心登録が行われ、忠誠心のある者とない者が分けられるBR>ツールレイク収容所が、不忠誠とみなされた者の隔離所に認定され、警備が強化される
マリアナ沖海戦で日本軍が大敗する
東条英機内閣が総辞職する
神風特攻隊が初出撃する
1944アメリカ陸軍省が収容者も含めた日系男子の徴兵を始め、少数の拒否した者達は、ほとんどが連邦刑務所に投獄される
第442連隊戦闘団がフランスで、ドイツ軍に包囲された211人のテキサス大隊兵の救出に、800人以上の犠牲者を出して成功する
フレッド・コレマツの強制立退き拒否に対する有罪判決を最高裁判所が支持する
最高裁判所が忠実なアメリカ市民を本人の意志に背いて監禁することはできないという判決を下し、日系人の隔離命令が撤回される
硫黄島の戦いで、日本軍が陥落する
沖縄の陸戦が繰り広げられる
降伏文書に調印し、第二次世界大戦が終結する
連合国最高司令官総司令部による日本占領が始まる/TD>
1945東京、大阪、神戸などで大空襲を行う
広島、長崎に原爆を投下し、第二次世界大戦が終結する
約44000が、住居や職を失い反日感情をおそれ、収容所に残留する
昭和天皇による人間宣言が発布される
日本国憲法が公布される
1946最後の戦時転住局収容所、ツールレイクの隔離収容所が閉鎖される
トルーマン大統領が「敵兵だけでなく、偏見と戦って勝利を得た」と第442連隊戦闘団を称える
 -1947トルーマン大統領が267人の日系の徴兵拒絶者を釈放する
 -1948最後の司法省の収容所、クリスタルシティーが閉鎖される
トルーマン大統領が日系アメリカ人Evacuation Claims Actに署名し、3800万ドルが支払われる
 -1949 -
 -1950 -
連合国最高司令官総司令部による日本占領が終わり、主権を回復する1951上下院が、マッカラン・ウォルター法を可決し、日本人移民の市民権の獲得が承認される
 -1952 -
 -1953 -
 -1954 -
 -1955 -
 -1956 -
 -1957 -
 -1958 -
 -1959ダニエル・イノウエ氏が日系アメリカ人で始めて連邦議会員に当選する
 -1960 -
 -1961 -
 -1962 -
 -1963 -
東京オリンピックが開催される1964 -
 -1965 -
 -1966 -
 -1967 -
 -1968 -
 -1969 -
 -1970 -
 -1971 -
沖縄が日本政府に返還される1972 -
 -1973 -
 -1974 -
 -1975 -
 -1976フォード大統領が大統領令9066号を撤回する
 -1977 -
 -1978 -
 -1979 -
 -1980強制収容と大統領令9066号の調査を目的に、戦時転住及び抑留に関する委員会法が発足する
 -1981 -
 -1982 -
 -1983戦時転住及び抑留に関する委員会が報告書を提出、大統領令9066号の必要性は正当化できないと結論し、公式謝罪と2万ドルの賠償金の支払いを提案する
戦時中のゴードン・ヒラバヤシ、ミノル・ヤスイ、フレッド・コレマツへの有罪判決が覆される
 -1984 -
 -1985 -
 -1986 -
 -1987 -
 -1988レーガン大統領が市民自由法に署名し、強制収容に対しての正式謝罪と、各収容者に対しての2万ドルの賠償金が提示される
 -1989 -
 -1990ワシントンDCの式典で初めて賠償金が9名に支払われる






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◆ 枠なしの色地に文章を入れる方法
  

  

  

◆ ハンディスキャン

◆  全てを解決する、ハンディスキャナーで読み取る際の、簡単なコツ




エゴマ油

2018産
α-リノレン酸62.4%
オレイン酸 13.6%
リノール酸 16.8%
飽和脂肪酸 8.1%
用途:ドレッシング
(1人㏠:2g見当)
注意:加熱厳禁




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