06 24(水) 直江兼続 ●南魚沼市(その三 お六饅頭まで) |
07 01(水) 直江兼続 ●長岡市(その一 与板まで) |
清酒「越後・与板衆」が誕生! 清酒・越後与板衆 / 2008/06/22 (Sun) 与板の地で与板の酒を! その思いで醸された日本酒。。。それがこのほど、直江兼続の軍旗をモチーフにしたラベルで登場しました。 その名も、 「越後・与板衆」 与板の地で収穫された酒米「一本〆」を100%用いて仕込まれた純米吟醸酒です。 「よいたさとやま」会の皆さんが、手植え、手刈りして収穫したという、こだわりのお米!! 栽培田は、兼続居城跡とされる「立ヶ入(たてがいり)」地区。 稲の番人・大橋利昭さん(与板山沢地区在住)の厳しい管理のもと、秋まで大事に育てられます。 水は、与板総鎮守・都野神社下の湧水を使用。 その米は、吉岡孝太郎杜氏(与板槙原在住)の勤める中川酒造さんで、極寒の酒作りの中で醸されます。 まさに、与板の水・人・米が作り上げた、生粋の地酒です!! 年間、2000本限定生産。 720ml 1,500円(税込) 田植え体験・稲刈り体験・酒作り体験も、同時にご参加いただけます! 詳しくは、よいたさとやまホームページを参照 http://www.kanese.com/satoyama/satoyama.htm 与板城山見学の際に、栽培田の見学もできます。(無料) こだわりの美味しいお酒、飲んでみませんか〜〜〜?? |
お船の実家 与板城 与板城は、兼続の妻・お船の実家である直江家の本拠である。城は、与板市街の南西にあり、比高80m程度の低めの山城であるが、本丸を中心に北東方向から南西方向へと鳥の翼のように曲輪が広く配されている。 直江家は、藤原鎌足の末裔といわれ、直江荘を賜って名字にしたとされる。直江氏は直江津にその名を残すが、いつの頃から与板(現長岡市与板町)に領地を得、当初は本与板城を本拠とし、後により便利の良い与板城に移った。当時の与板は信濃川沿いの水運の拠点であり、日本海経由で直江津に至ることもできる水上交通の要衝だったのである。 お船は、おそらく与板城で生まれた。八坂神社から三の丸、二の丸を通って本丸に向かう道の途中には「お船清水」と呼ばれる湧き水がある。お船が使っていた清水という。父は直江景綱である。景綱は水運でつちかった輸送への見識を買われて、上杉謙信の川中島出兵に際しては小荷駄奉行を務めている。兼続の父樋口兼豊が上田長尾氏の薪炭奉行として商業や物流に造詣の深い人物だったと考えられることから、直江家と樋口家には共通の背景があったともいえ、両家の縁組にはこうした要因もあったのであろう。 直江景綱には男子がなかったため、上野国総社(現群馬県前橋市)の領主・長尾景貞の子信綱をお船の婿にして家督を相続させた。 信綱も義父同様、上杉家の奉行を務め、御館の乱に際しては上杉景勝方として戦い景勝の勝利に貢献している。しかし、天正9年(1581)9月1日、御館の乱後の論功行賞に不満を持った毛利秀広が景勝側近の儒者山崎秀仙を春日山城内で斬殺した際、その場に居合わせた信綱も斬り殺されてしまい、お船は未亡人となった。 直江家の断絶を惜しんだ上杉景勝は、兼続をお船の婿にすることにした。こうして兼続は直江家を嗣ぎ、「直江兼続」となった。ときに兼続は23歳、妻のお船は25歳で、元和5年(1619)の兼続の死まで苦楽を共にすることとなる。 上杉家執政である兼続は、春日山城に詰めることが多かったため、与板城での生活時間は短かったようである。しかし、上杉家第一の実力者として約5万3千石の領地とそれに見合う家臣がいた兼続であるから、与板城もそれに応じて整備・拡張されたと考えられる。しかし、この点については記録が残っていないので、よくわかっていない。 兼続は、慶長3年(1598)に景勝に従って一族を挙げて会津に赴き、与板城は廃城となった。本丸跡には城山稲荷がまつられ、直江兼続自筆書状「所望事信一字」を刻んだ石碑が立っている。 |
07 02(木) 直江兼続 ●長岡市(その二 法華クラブまで) |
07 03(金) 直江兼続 ●上越市 |
……… 謙信は天室光育禅師のもと、文武の素養を磨いた ……… 上杉謙信は天文五年(1536)七歳のときに林泉寺に預けられ、七年の間天室光育禅師から厳しい教育を受けました。「節目を守り、非分をしない」謙信の心は、禅師によって培われたと言われています。謙信は生涯にわたり禅師に信頼を置き、行き詰まったときに助言を求めることもありました。 林泉寺は明応六年(1497)謙信の祖父能景により、その父重景の菩提を弔うために建てられた曹洞宗の寺院です。曇英恵応を招いて開山とし、以後は長尾家の菩提寺となりました。 現在の惣門は春日山城の搦手門を移築したと伝えられています。門を入ると、正面に楼門、鐘楼が並び、本堂の右に宝物館、左には墓地があります。慶長三年景勝の会津移封に伴い、林泉寺も移転、後に米沢へと移りました。 現在の寺は、堀氏により再建され、歴代の高田藩主の保護を受けました。宝物館には「上杉謙信画像」、謙信筆による山門額「第一義」、「春日山」、などが展示されています。墓地には、謙信公の御墓、為景公の御墓や川中島合戦供養塔などがあります。 |
春日山城と上杉謙信 春日山城は、上越市市街地の西・春日山に築かれた全国屈指の規模を誇る山城である。遺構は60万u以上の面積に広がっている。 春日山の最高所の標高は182mでそれほど高い山ではないが、古代の越後の国府、さらには中世の越後の守護所があった府内(現在の直江津地区)の背後にあり、頚城平野を一望に収める要衝であった。 春日山に築城したのは、長尾氏である。室町時代に越後の守護となった上杉氏の家臣としてこの地に入り、本家は上越一帯で、分家は上田長尾氏をはじめとして越後国内各地に土着した。 春日山城を現在残るような規模に発展する基礎を築いたのは上杉謙信(長尾景虎)の父の長尾為景であった。為景は主君の上杉氏とたびたび戦ってその地位を上昇させる一方、越中へも進出するなど、その勢力を拡大させた。 長尾景虎(後の上杉謙信)が、春日山城に入ったのは天文17年(1548)、19才の時。父・為景の病死後、兄晴景が病弱だったことから、長尾家の家督を相続したためであった。(写真:春日山城本丸跡)景虎は、天文19年には、室町幕府将軍足利義輝から越後の支配権を認められ、天文22年と永禄2年(1559)の2回上洛し、天皇や将軍に拝謁して、その威信を高めている。一方、天文21年に北条氏に追われた関東管領・上杉憲政は越後に逃れて景虎に関東への出兵を要請し、翌年には、甲斐の武田晴信の勢力拡大の前に敗れた村上義清らが越後に逃れて同様に失地回復への支援を求めるなど、国外の状況は緊縛の度合いを深めた。 “義のため”景虎は、領地を失って助けを求めてきた人々を支援すべく、再三、越後国外で戦った。関東には、生涯で17回赴いたとされ、永禄4年の小田原城包囲戦に際しては、帰路鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領に就任し、上杉に名跡を変更している。信濃(長野県)でも、武田信玄に斬りつけたとの伝承がある永禄4年の戦いを含め、5回にわたり川中島で戦うなど、再三、武田氏と戦っている。越中(富山県)へも要請に応じてしばしば出兵しており、上杉謙信(元亀元年(1570)に改名)の生涯はまさに戦いの連続であった。 このような戦いの中、謙信は、春日山城の拡充にも力を注ぎ、天正元年(1573)の実城(本丸)、二の郭の塀の完成をもって春日山城を完成させたとされている。 春日山城は謙信と共に発展し、その終の棲家ともなった城であった。 |
長尾 為景(ながお ためかげ)は、越後の戦国大名。本姓は平氏。家系は桓武平氏の流れを汲む鎌倉氏の庶流 長尾氏。越後守護代・越中国新川郡分郡守護代。上杉謙信の父。米沢藩初代藩主上杉景勝は外孫に当たる。官位は信濃守従五位下。 経歴 永正3年(1506年)9月、越中で父が戦死(為景は、上杉房能が援軍を出さずに能景を見殺しにしたことを恨んでいたとも云われる)したため長尾氏の家督を継いで越後守護代となった。翌・永正4年(1507年)8月、「為景謀反の気有り」と守護・房能が為景討伐の準備をしていたため、その機先を制して房能の居館を襲撃する。逃亡中に房能が自刃すると、その養子・上杉定実を傀儡として守護に擁立した。 しかし永正6年(1509年)、自刃した房能の兄・関東管領上杉顕定が為景に対して報復の大軍を起こすと、為景は劣勢となって佐渡に逃亡した。捲土重来を期して翌・永正7年(1510年)には反攻に転じ、長森原の戦いで退却する上杉軍に猛攻をかけ、援軍の高梨政盛(為景の外祖父?あるいは伯父か)の助力もあり顕定を敗死させた。 奪われた越後の実権を取り戻すことに成功した為景は、自分の姉妹を定実に娶らせ、さらに嫡男・六郎(後の長尾晴景)を定実の猶子とする約定を交わし守護上杉家の外戚として越後の国政を牛耳ろうとした。 下克上の代表格の一人であるが、朝廷や室町幕府といった権威を尊重し、しばしば即位費用等において献金を行った。これにより、叙爵し信濃守となった他、幕府より守護の格式である白傘袋毛氈鞍覆を免許され、塗輿も免許される。 その後は越中や加賀に転戦して、神保慶宗、椎名慶胤らを滅ぼし、越中の新河郡守護代を任されるなど勢力を拡大したが、晩年は定実の弟・上条定憲など越後国内の国人領主の反乱に苦しめられ天文5年(1536年)、隠居に追い込まれた。ただし、この年には朝廷より内乱平定の綸旨を受け、更に三分一原の戦いで勝利するなど優勢下での隠居のため、内乱鎮圧に専念するための隠居であった可能性もある。 以前は、隠居して間もない天文5年12月24日(1536年2月4日)に死去したとされていたが、最近では、没年を天文11年12月24日(1542年1月29日)とする説が有力となっており、隠居後もしばらく存命していたことになる。 死因については、病死説や上条側による暗殺説などのほかに、一向一揆との戦いで敗れて戦死したという説もあったが、これは為景の父能景と混同したものであり、現在では否定されている。 為景は、まさに戦国時代の火蓋を切る『奸雄』のひとりといえるであろう。越後を我が物にするためであれば、主家打倒も奸計も辞さず、戦うこと百戦に及ぶと言われている。のちに上杉顕定の子・憲房などは「長尾為景は二代の主君を殺害した天下に例の無い奸雄である」と評しているほどである。 |
〜越後一統〜 為景の名をを知る人は必ずそれよりも前に上杉謙信の名を知る。為景の名を見かける機会があった場合、それは「謙信の父」という場合がほとんどであろう。謙信の活躍は言わずもがなである。だが謙信の活躍を語る前に、彼の父である為景の越後統一の執念を忘れてはならない。 長尾氏は桓武平氏の流れをくむ名門である。越後守護である上杉氏の下、守護代としてその影響力を代々越後に浸透させてきた。在京の多い上杉氏に代わって直接越後の政務を司っていた長尾氏の勢力が伸びるのは自明なことであった。長い雌伏期間を経て、やがて雄飛するときが来た。それが第十代当主為景のときである。 長尾氏は為景の父・能景の代に、強大な軍事力をもって越後守護上杉氏だけでなく、しばしば関東管領・上杉顕定を助けて活躍した。のちに為景が自刃に追い詰めることになる越後守護・上杉房能は顕定の実弟である。越中で一向一揆の活動が活発となり、能景は能登畠山氏と連携し、越中に出陣。しかし、般若野で一揆勢に敗れ、戦死してしまう。 永正3年(1506)、父の戦死により為景は守護代の地位を相続した。為景は家督を引き継ぐや否や、主君である越後守護・上杉房能に牙をむいた。永正4年(1507)八月、すでに越後での実権を失いかけていた房能に対し為景は房能の養子・定実を奉じて挙兵する。そして瞬く間に房能を越後府中から追放し、自刃させた。越後の梟雄、長尾為景の誕生である。 こうして守護を傀儡化し、越後の実権を完全に掌握した為景であったが、一つの敵を葬り去ることによってまた新たな敵を出現させる。関東管領・上杉顕定である。弟を殺され怒った顕定は関東管領の名で集めるだけの兵を集め、越後に乱入した。これにはさすがの為景も隣国越中、さらには海を渡り佐渡にまで退去した。 だが翌年、為景は軍を再編成して反撃に転じ、顕定を長森原で敗死せしめる。これにて為景は二人の主君を死に追いやった。時代はもはや完全に下克上の戦国であった。 以後の為景は越後の地盤を着々と固め、大永七年(1527)に将軍義晴から大名の待遇を与えられ、天文四年(1535)には天皇から御旗を、翌五年には内乱鎮定の綸旨を賜っている。だが、為景の過度な力まかせの専横化は自立性の強い越後国人衆の反感を買い、徐々に守護定実との関係も険悪なものとなっていった。この国人たちとの対立の影響は景虎の代まで尾を引くことになる。 為景は家督を長子・晴景に譲ったあとも脆弱な晴景を補佐するように二頭政治を行った。しかし、天文五年(1536)十二月に六十六歳で没する。病死とも、戦死とも。為景派と反為景派が対立する真っ只中のことであった。 合戦に出陣すること百回をゆうに数え、主君を死に追い込むこと二度、生涯下克上を体現してきた梟雄はついに逝った。 幼き龍、虎千代は春日山城下の林泉寺にあっていまだ七歳… |
長尾 晴景<(ながお はるかげ)は、戦国時代の武将。越後の戦国大名、越後守護代である。 守護代を継ぐ 幼くして主君・定実の猶子となる。[5]その偏諱によって「定景」と名乗り、定実の娘を娶った。のちに室町幕府将軍足利義晴から偏諱を与えられ「晴景」と名乗る。天文5年(1536年)に父の為景から家督を譲られ、春日山城主となる。 父の為景と異なり穏健政策をとり、領内の国人との融和を図った。越後における争乱を鎮めることにはある程度成功したが、主君である越後守護の上杉定実の伊達氏からの養子縁組問題(天文の乱)で越後国内が乱れた際に中条氏らを抑えることはできなかった。伊達氏の内紛に助けられ守護上杉家の復権は阻止したものの、黒田秀忠などが反乱を起こし越後国内の情勢はますます不穏になる。 実弟・景虎の台頭 そのような情勢の中、城下の寺院へ入門していた弟の長尾虎千代(長尾景虎、後の上杉謙信)が還俗して栃尾城主となり、反乱を鎮め家中での名声を高めると、家臣の一部の間で景虎の擁立を望む(晴景の嫡子・猿千代は早世していた)ようになり、長尾家は家中分裂の危機を迎える。 そこで天文17年(1548年)には、定実の仲介のもとに、景虎に家督を譲って隠居する。天文22年(1553年)2月10日に死去した。享年42。 病弱な人物であったことが謙信の書状ほか諸史で伝わっている。また、後年一部の史書には景虎が晴景を殺害して家督を奪ったとする記述もあるが、多くの史書と食い違いがあり、創作と見るのが一般的である。 |