06 10(水) 土浦空爆の日 ●童門冬二、藤沢周平 |
天地人の物語に、雪は欠かせない。 降り積もる雪は、心の底に燃えさかるような熱い思いを秘めながら、 辛抱強く春を待つ思慮深い人々を育てた。 雪こそが、「天地人」を彩る人々の心のふるさとなのである。 |
06 17(水) 直江兼続 ●南魚沼市(その一龍澤寺まで) |
日本国語大辞典 かば‐ざくら 【樺桜】 カンバ類と類似の樹肌をもったウワミズザクラ、チョウジザクラ、ヤマザクラなどの桜の木をいう。かんばざくら。《季・春》 *源氏〔1001〜14頃〕野分「春のあけぼのの霞の間より、おもしろきかばざくらの咲きみだれたるを見る心地す」 |
福聚山 龍沢寺 臨済宗円覚寺派(神奈川県鎌倉市)に属す。 今から586年前の室町時代前期応永27年(1420年)に白崖宝生禅師三世の孫である 不蔵青単禅師により開創され、開山は夢庵祖観禅師である。 現在の伽藍(建物)は今から270年前江戸時代中期・元文2年(1737年) 徳川八代将軍吉宗の頃に再建されました。 ご本尊は智慧の仏様として広く信仰の篤い「文殊菩薩」(大聖文殊師利菩薩)で 尊像は名仏師・毘首羯磨とされている。 文殊菩薩のみをご本尊とするのは全国的にも希少で、県内では例を見ないようです。 文殊菩薩とは <Rayから 資料集、 思想、 仏教とリンクを辿ると、当ページ 文殊菩薩> 文殊菩薩は「もんじゅぼさつ」と読み、智慧を司る菩薩とされる。 南インドのバラモン家に生まれた実在の人物といわれる。 サンスクリットで「マンジュシュリー」と呼ばれ、これを音写して「文殊師利」となる。 様々な経典でその存在が語られているが、釈迦如来の弟子達を論破し続けていた維摩居士(ゆいまこじ)と論戦を交わしたエピソードは特に有名である(維摩経)。 『華厳教』では、文殊菩薩が南方の人々を教化しに行った話が伝えられている。 また、釈迦如来の二大弟子の一人で「智慧第一」と称されるシャーリプトラ(舎利弗)までが文殊菩薩の智慧を褒め称えたとされる。 「三人寄れば文殊の智慧」との諺もあるように智慧を司る存在として信仰されている。 ただし、文殊菩薩が象徴する智慧とは仏教でいう智慧であり、一般的な知恵とは異なる。 『華厳経』によれば、文殊菩薩は東方清涼山(しょうりょうざん)に住んでいるとされる。 ■(解説) 本尊となっている文殊菩薩は、景勝の母仙桃院ゆかりの品です。仙桃院は文殊菩薩に深く帰依していました。弘治元年(卯歳)生まれの景勝の武運長久を願い、永禄10年(1568)に、卯歳生まれの守護仏である厨子入りの文殊菩薩を奉納し、祈祷仏供米料として五十石を寄進しました。現在の堂宇は江戸時代中期の天文2年(1737)に再建されたものです。 |
06 21(日) 直江兼続 ●南魚沼市(その二 まで) |
雲洞庵(うんとうあん) …… 上杉景勝、直江兼続は少年期、この寺で学んでいた …… 金城山の山麓にある曹洞宗の寺院です。 喜平次景勝と与六兼続は幼少のころ、ここで学問を学びました。当時の住持は北高全祝や通天存達でした。通天存達は長尾政景の兄で、景勝の伯父にあたる人でした。兼続の兜の前立ての「愛」という文字は、この通天存達の教えからなると言われています。 雲洞庵は養老元年(717)に藤原氏ゆかりの尼寺として開かれましたがその後衰退し、室町時代に上杉憲実が藤原氏末裔の縁で、曹洞宗の寺として開創しました。本堂は上杉憲実によって建立され、江戸時代の宝永年間に出雲崎の大工群によって再建されました。 新潟県の指定文化財になっています。本尊釈迦無尼仏、脇侍、伽葉尊者、阿難尊者、十六羅漢、を安置しています。宝物殿には、上杉景勝公遺墨、武田信玄公書状、北高禅師「火車落としの袈裟」、戦国武将の古文書などが展示されています。 樹齢300年の杉木立の中の赤門をくぐると本堂正面まで石畳が続きます。その下には法華経が一石一字ずつ刻まれていて、踏みしめてお参りすると罪業消滅、万福多幸の利益に預かると言い伝えがあります。そこから「雲洞庵の土踏んだか」という言葉が生まれたということです。 |
縁 起 |
雲洞庵の土踏んだか |
上杉家との因縁 |
楠家との因縁 |
北高全祝禅師(第十世) |
本 堂 |
赤 門 |
北高禅師の怪獣退治 |
お酉の百体観音 |
長生きの水 |
姥子様(山姥) |