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折々の記 2009 D

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】05/02〜        【 02 】05/08〜
【 03 】05/20〜        【 04 】05/24〜
【 05 】06/04〜        【 06 】06/10〜
【 07 】06/24〜        【 08 】07/06〜



【 06 】06/10

  06 10 土浦空爆の日 ●童門冬二、藤沢周平
  06 17 直江兼続 ●南魚沼市(その一 龍澤寺まで)
  06 21 直江兼続 ●南魚沼市(その二 雲洞庵まで)

06 10(水) 土浦空爆の日 ●童門冬二、藤沢周平

   http://park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.404.html <折々の記 2007A【 05 】 06 10 土浦空爆の日…62年前>

ご冥福を祈ります。

大河ドラマ「天地人」を調べていて、「上杉鷹山」「直江兼続」を書いた童門冬二と、「漆」を書いた藤沢周平に出会いました。

二人とも老生より一才年上の昭和二年生まれです。 

藤沢周平は山形出身の人であり、童門冬二は予科練出身でした。 それぞれ先哲の心を奉じて書いたに違いありません。

藤沢さんは、人の表出に派手さはないけれど、雪深い裏日本が住んでいる人たちに与える性根という凄い宝に気がついていたのだろうと思うのです。

童門さんは戦争というものは命を粗末に扱うことへの心のそこからの憤りが今でもあるに違いありません。 同年輩前後の人々といえば、おぞましいあの戦争の被害をうけた人であり、同僚が戦火に散った悲しい思いを心の奥に秘めた人であったりします。

それだけに、戦国時代や江戸時代の生活の中で、隣人を大事にした武将につよく心を惹かれるものがあるとも思うのです。

   購入する本

      童門 冬二 「全一冊 小説 直江兼続 北の王国」  集英社文庫

      童門 冬二 「全一冊 小説 上杉鷹山」  集英社文庫

      藤澤 周平 「漆の実のみのる国 上 」 文春文庫

      藤澤 周平 「漆の実のみのる国 下 」 文春文庫

      内村 鑑三 「代表的日本人」 岩波文庫

童門 冬二(どうもん ふゆじ、1927年10月19日 - ) 本名・太田久行。目黒区名誉区民。

   1944年海軍土浦航空隊に入隊するが、翌年終戦。

   http://lounge.cafe.coocan.jp/novels/isbn4087470873.php
   小説 直江兼続 北の王国(あらすじ・感想等):時代小説県歴史小説村

   内容(「BOOK」データベースより)
   上杉景勝の家臣でありながらも、太閤秀吉より三十万石を賜った男・直江山城守兼続。
   主君・景勝との深い魂の絆を胸に秘め、合戦の砂塵を駆け抜けた彼は、戦国乱世に勇名を馳せる。
   だが、己の歩むべき真の道を見いだした時、天下取りの争いに背を向け、北の大地に夢を託すのだった。
   米沢の名藩主・上杉鷹山が師と仰いだ戦国武将の、凛々たる生涯を描いたロマン大作。全一冊・決定版。

   http://lounge.cafe.coocan.jp/novels/000955.php
   童門冬二: 小説-上杉鷹山(あらすじ・感想等):時代小説県歴史小説村

藤沢周平(ふじさわ しゅうへい、1927年12月26日 -1997年1月26日 ) 本名・小菅留治。山形県鶴岡市直木賞受賞作家。

   http://www.aianet.ne.jp/~yokoyama/2fuzi.html
   2fuzisawa.html(藤沢目次・他)

   http://www.tsuruokakanko.com/tsuruoka/fujisawa/index.html
   藤沢周平作品ゆかりの地案内板

生い立ち

1927年12月26日、山形県東田川郡黄金村大字高坂字楯ノ下(現在の鶴岡市高坂)に生まれる。父小菅繁蔵、母たきゑの第三子(きょうだいは順に繁美、このゑ、久治、留治、てつ子、繁治)。実家は農家で、藤沢自身も幼少期から家の手伝いを通して農作業に関わり、この経験から後年農村を舞台にした小説や農業をめぐる随筆を多く発表することになる。郷里庄内と並んで農は、作家藤沢周平を考えるうえで欠くことのできない要素である。

1934年、青龍寺小学校入学(在学中に黄金村国民学校に改称)。小学校時代からあらゆる小説、雑誌の類を濫読し、登下校の最中にも書物を手放さなかった。同高等科を経て、1942年に山形県立鶴岡中学校(現在の鶴岡南高校)夜間部入学。苦学しつつ1946年に中学校を卒業後、山形師範学校(現在の山形大学)に進む。入学後はもっぱら文芸に親しみ、校内の同人雑誌『砕氷船』に参加した。この時期の思いでは自伝『半生の記』に詳しく記されており、また小説作品にしばしば登場する剣術道場同門の友情などにも形を変えて描かれている。

教員時代

1949年、山形師範学校卒業し、山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学校(鶴岡市湯田川、現在は鶴岡市立鶴岡第四中学校へ統合)へ赴任。国語と社会を担当しながら、『砕氷船』の後継誌である『プレリュウド』に参加するも、1951年に集団検診で肺結核が発見され、休職を余儀なくされる。翌年、東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)の篠田病院に入院し、保生園病院において右肺上葉切除の大手術を受ける。予後は順調で、篠田病院内の句会に参加し、俳誌『海坂』に投稿をおこなうようになる。北邨という俳号を用いた。またこの時期に大いに読書に励み、ことに海外の小説に親しんで、作家生活の素地を完成させた。

手元にあるNHK出版「NHK大河ドラマ歴史ハンドブック天地人」の表紙裏見開きには


   天地人の物語に、雪は欠かせない。

   降り積もる雪は、心の底に燃えさかるような熱い思いを秘めながら、

   辛抱強く春を待つ思慮深い人々を育てた。

   雪こそが、「天地人」を彩る人々の心のふるさとなのである。



と、火坂雅志さんは言っています。

06 17(水) 直江兼続 ●南魚沼市(その一龍澤寺まで)

六月十三日〜十四日 老夫妻と俊成の三人 俊成運転の軽自動車AET土日千円

六月十三日

朝三時半近くに出発、松川ICから飯山豊田ICまで自動車道、千曲川沿い国道117号線から76号線で南魚沼市大沢地区へ出る。 

樺沢城 と 龍澤寺

「上越国際スキー場前駅」の西150m、ガード下をくぐって出たところが樺沢城登り口であり、道を挟んで龍澤寺になっていた。

ここには「史跡 樺沢城跡東登口」という案内石柱があり、さらに‘史跡樺沢城’パンフレットをゲットできるよう手配してありました。 保存会の皆様の心配りの一端がわかります。

このパンフには‘樺沢城跡探訪案内の概要’が載せてあり、‘本丸から望む上田庄’解説付略図があり、‘城跡を巡る写真、龍澤寺の写真’、さらにA3一杯の‘上田庄・樺沢城下の屋敷跡など略地図’が判りやすく印刷してあります。

これは「樺野沢まちおこし委員会」が主体になって作ったものと思われます。 こんなのが旅行前に手に入っておれば大変参考になると思われました。 もう一度、行ってみたい。



この略地図のデータを見ながら、樺沢城へ登っていった。 石がほとんど無い地肌で、杉が鬱蒼としていました。 登りはじめてすぐ、杉の木がだいぶ切り倒されていました。 そこに、このフクロウの親子が刻まれていたのです。

   < 仙桃院 と 景勝 >   この二人を髣髴させるではありませんか?

石塁は一つもありませんから、漆喰の城壁であったと思います。  三の丸、二の丸、帯曲輪へと草むらの中の道をたどっていくとやがて頂上の本丸にたどり着きます。

なかなか規模の大きな城です。 曲輪の一端に景勝の胞衣塚があり、本丸の直前には樺桜がありました。 樺桜の立札には

      当城跡に自生する桜

   外の花は一重散りて 八重桜咲く
   花盛り過ぎて 樺桜は開け

              源氏物語 幻の一節

とある。  樺桜とは何でしょうか?


日本国語大辞典   かば‐ざくら 【樺桜】

カンバ類と類似の樹肌をもったウワミズザクラ、チョウジザクラ、ヤマザクラなどの桜の木をいう。かんばざくら。《季・春》

*源氏〔1001〜14頃〕野分「春のあけぼのの霞の間より、おもしろきかばざくらの咲きみだれたるを見る心地す」


樺桜と樺細工については、<面白いサイト>があります。

樺沢城跡本丸に立って見渡すと、豊かな上田庄(うえだのしょう)が一望できます。 見事な景観です。

この城については<樺沢城(埋れた古城)>を開いて、その歴史や解説などに目を通したい。 写真も参考になります。

天地人に登場する上田衆は、眼下に広がる豊かな自然をおたがいに守り抜こうとした武士集団だったのですね。 この山城の麓に城主の屋敷があり、それを取り囲んで部下の屋敷があり、点在する地域にも武家集団の人々が住んでいたのでしょう。 上田五十人衆として火坂雅志さん(ヒサカマサシ=天地人の著者)は書いております。



    
        景勝生誕地の石碑            福聚山 龍沢寺

景勝はこの樺野沢一帯でも母・あや(仙桃院)と子供時代をすごしたのでしょう。 樋口与六も、一緒だったのでしょう。 景勝の補佐役として与六を見出した、母あやの眼力も偲ばれます。

樺沢城跡登り口の道の反対側に<龍沢寺>があります。


          福聚山 龍沢寺

    臨済宗円覚寺派(神奈川県鎌倉市)に属す。
    今から586年前の室町時代前期応永27年(1420年)に白崖宝生禅師三世の孫である
    不蔵青単禅師により開創され、開山は夢庵祖観禅師である。

    現在の伽藍(建物)は今から270年前江戸時代中期・元文2年(1737年)
    徳川八代将軍吉宗の頃に再建されました。

    ご本尊は智慧の仏様として広く信仰の篤い「文殊菩薩」(大聖文殊師利菩薩)で
    尊像は名仏師・毘首羯磨とされている。

    文殊菩薩のみをご本尊とするのは全国的にも希少で、県内では例を見ないようです。



文殊菩薩とは  <Rayから 資料集、 思想、 仏教とリンクを辿ると、当ページ 文殊菩薩>

文殊菩薩は「もんじゅぼさつ」と読み、智慧を司る菩薩とされる。 南インドのバラモン家に生まれた実在の人物といわれる。 サンスクリットで「マンジュシュリー」と呼ばれ、これを音写して「文殊師利」となる。 様々な経典でその存在が語られているが、釈迦如来の弟子達を論破し続けていた維摩居士(ゆいまこじ)と論戦を交わしたエピソードは特に有名である(維摩経)。 『華厳教』では、文殊菩薩が南方の人々を教化しに行った話が伝えられている。 また、釈迦如来の二大弟子の一人で「智慧第一」と称されるシャーリプトラ(舎利弗)までが文殊菩薩の智慧を褒め称えたとされる。 「三人寄れば文殊の智慧」との諺もあるように智慧を司る存在として信仰されている。 ただし、文殊菩薩が象徴する智慧とは仏教でいう智慧であり、一般的な知恵とは異なる。 『華厳経』によれば、文殊菩薩は東方清涼山(しょうりょうざん)に住んでいるとされる。

■(解説) 本尊となっている文殊菩薩は、景勝の母仙桃院ゆかりの品です。仙桃院は文殊菩薩に深く帰依していました。弘治元年(卯歳)生まれの景勝の武運長久を願い、永禄10年(1568)に、卯歳生まれの守護仏である厨子入りの文殊菩薩を奉納し、祈祷仏供米料として五十石を寄進しました。現在の堂宇は江戸時代中期の天文2年(1737)に再建されたものです。


龍沢寺の見学を終え、‘つむぎの里’へ行きました。

06 21(日) 直江兼続 ●南魚沼市(その二 まで)

つむぎの里

‘つむぎの里’は17号線を北へ進んだところで鈴木牧之記念館の手前の街道沿いにありすぐわかりました。 南魚沼市│南魚沼市の国指定文化財を見ると次の解説が載っています。

……………………………………………………<はじめ>……………………………………………………

重要無形文化財「小千谷縮・越後上布」

  名称:小千谷縮・越後上布
  芸能工芸区分:工芸技術
  種別:染織
  認定区分:保持団体認定
  指定年月日:1955.05.12(昭和30.05.12)

  解説文:
新潟県の越後地方は古来上質の麻織物を産し、中世には京都・大阪方面へ相当量の移出があったと思われ、江戸時代に至って幕府への上納も行なわれた。この時代以降原料の苧麻【ちよま】は会津地方に産する良質のものを使用し、またそれまでの平織【ひらおり】に工夫を加えた縮【ちぢみ】も作られるようになり、生地を薄く軽くつくる技術の向上がみられる。これには越後地方の雪と湿度が大きな生産条件であった。この伝統技法のおよその特質は次のとおりである。

   ・すべて苧麻を手うみした糸を用いる
   ・絣模様は手くびりによる
   ・いざり機で織る
   ・しぼとりをする場合、湯もみ、足ぶみによる
   ・雪ざらしを行なう

これらの技術は、雪国としてのこの地方文化の特質を有するとともに、このように原料から加工技術の全般にわたって純粋に古法を伝えているものはまれであり、貴重な存在である。

……………………………………………………<おわり>……………………………………………………

苧麻を用いて布を生産したのはこの地方の特産で、戦国時代には裏日本の船便で全国へ運ばれていた。 雪国の冬の仕事であったことがわかる。

このお店で機織をしていたのは絹織物でした。 機織機は数台あって実演もしていました。 記念に銭入れを手に入れました。

雲洞庵

 予定にしたがって魚野川の右岸へ渡り雲洞庵へいきました。 ここは見学者が大勢いました。 上杉景勝と直江兼続が幼少の頃に薫育をうけたことで知られているお寺でした。 兎も角、その壮大な構えに驚きました。

 庵というからその始めは庵が結ばれていたのでしょう。 交通安全の御守を買ってくれたその紙袋に、

  今を去る千数百年前、藤原先妣尼公(センビニコウ)がこの地に
  やってまいりまして、庵を結び、金城山よりわきいずる霊泉で
  沢山の病人を救い、金城山雲洞庵という尼僧院を建立され
  たのであります。

  以来千年来女人成仏の庵寺として、深く信仰されてまいりま
  した。
  室町時代関東管領、上杉憲実(ノリザネ)公藤原末裔の因縁で禅宗の寺に開創され、日本一の庵寺、越後一の寺といわれて
  おります。

  赤門よりの参道には法華経が一石一字ずつきざまれてうめられ、古来、「雲洞庵の土ふんだか」といわれ、
  踏みしめてお参りしますと、罪業消滅、万福多幸の利益にあずかるといわれております。

このような縁起が書かれていました。

また、http://www.tentijin.jp/01/01-1/<天地人、直江兼続生誕の地 新潟県南魚沼市 01)南魚沼市アーカイブ>というサイト(サイトの中ほどにある)は、こう説明しています。


   雲洞庵(うんとうあん)

       …… 上杉景勝、直江兼続は少年期、この寺で学んでいた ……

 金城山の山麓にある曹洞宗の寺院です。

 喜平次景勝と与六兼続は幼少のころ、ここで学問を学びました。当時の住持は北高全祝や通天存達でした。通天存達は長尾政景の兄で、景勝の伯父にあたる人でした。兼続の兜の前立ての「愛」という文字は、この通天存達の教えからなると言われています。

 雲洞庵は養老元年(717)に藤原氏ゆかりの尼寺として開かれましたがその後衰退し、室町時代に上杉憲実が藤原氏末裔の縁で、曹洞宗の寺として開創しました。本堂は上杉憲実によって建立され、江戸時代の宝永年間に出雲崎の大工群によって再建されました。

 新潟県の指定文化財になっています。本尊釈迦無尼仏、脇侍、伽葉尊者、阿難尊者、十六羅漢、を安置しています。宝物殿には、上杉景勝公遺墨、武田信玄公書状、北高禅師「火車落としの袈裟」、戦国武将の古文書などが展示されています。

 樹齢300年の杉木立の中の赤門をくぐると本堂正面まで石畳が続きます。その下には法華経が一石一字ずつ刻まれていて、踏みしめてお参りすると罪業消滅、万福多幸の利益に預かると言い伝えがあります。そこから「雲洞庵の土踏んだか」という言葉が生まれたということです。


雲洞庵のパンフレット
         ……大事な内容が載っており、パンフレットは散逸する恐れがあるので転載します……

縁 起

 今を去る千三百余年、ここ越後の山深い寒村に、一人の行脚の尼僧さまが訪れ、山よりこんこんとわきいでる霊泉で沢山の人々をすくい、庵をあんで住まわれました。
 この尼僧さまこそ、藤原家の主藤原房前公の母君でありました。 尼僧さま亡き後、養老元年(717年)薬師如来をたずさえられてこの地を訪れた藤原房前公は、山を金城山と名づけ母の菩提を弔うため、薬師如来を本尊とする金城山雲洞庵を建立されたのです。 以来藤原家の尼僧院として律宗に属し、六百年間にわたり栄えたのです。 以来現代にいたるまで女人成仏の寺として、女の人の参拝信仰がさかんに行なわれ、その規模により日本一の庵寺といわれるようになりました。
 藤原房前公は父を不比等、祖父を鎌足といい、ことに藤原鎌足は中大兄皇子(天智天皇)とともに曽我氏を滅ぼして大化の改新を成功させた人です。 この藤原鎌足はもと中臣鎌足という中臣姓でしたが、このとき藤原姓を賜って藤原家が始まったのです。(今の天皇家の始まりといってもいいでしょう…好上註…)
 そんな関係から近在には藤原家ゆかりの地名や神社仏閣があります。また、現在にいたるまで、房前公の母(初代天皇家・藤原鎌足の子供の嫁) = 藤原先妣尼公(センビニコウ)のお墓はここ雲洞庵にあり、遺品類が残されています。

雲洞庵の土踏んだか

 往古より越後では、
      「雲洞庵の土踏んだか」
      「関興庵の味噌なめたか」
と言われ、信仰が盛んでした。 それは諸国の修行者がこの二大禅道場で曹洞宗と臨済宗の禅を学ばなければ一人前の禅僧と言えない、ということから修行者が互いに言い合った言葉だといわれています。
 また、赤門より本堂にいたる石畳の下に法華経を一字ずつ刻み、その経石を敷きつめたことから、一年に一度赤門が開かれたとき、お参りの善男善女がその有難さに随喜して言い合ったのだと伝えられています。

上杉家との因縁

 藤原家の尼僧院として栄えた雲洞庵も、鎌倉時代から室町時代にかけて武家階級が政治の実権を握るようになると、藤原家の援助もとだえ荒れてしまいました。 ところが、室町時代の応永年間、関東執事・上杉憲定公は、越後遊覧のおり曹洞宗の名僧・傑堂能勝禅師と雲洞庵に会して、庵の再興を約しました。
 後年上杉憲定公の孫・関東執事・上杉憲実公は祖父の意志をついで永享元年(1429年)雲洞庵を再興して上杉家の菩提寺にし、曹洞宗金城山雲洞護国禅庵とされました。 そして傑堂能勝禅師の高弟顕窓慶字禅師を請じて開山とされました。 以来上杉家の竹と雀を寺紋とし、上杉家の菩提寺として発展したのです。
 戦国時代には上杉謙信公によって多くの庇護を与えられ、跡継ぎの上杉景勝公は幼・少年時代を当庵で教育されたのです。

楠家との因縁

 開山した顕窓禅師の師・傑堂能勝禅師は、俗名を楠正勝といい、楠正成公の第三子正儀の嫡男(=正妻の生んだ最初の男子。嫡出の長男。あととり。嫡子。) でした。
 楠家一族は後醍醐天皇の南朝に属し、正成公は湊川で戦死、各地の戦いで一族ことごとく戦死。 楠正勝公も戦傷をうけたのだが、その後、一族の菩提を弔うため、曹洞宗の高僧梅山聞本禅師の門に投じ悟りをひらき名僧になられたお方です。
 以来雲洞庵では、傑堂能勝禅師を挿草開山として祀り、楠家の菊水の御紋も寺紋としております。 また、楠正成公の遺言状などが伝えられております。

北高全祝禅師(第十世)

 師は南朝の大忠臣北畠顕家の子孫で、十二歳にして出家、諸山を遍歴、当庵九世不點存可禅師に継いで当庵十世となられた禅師です。 その高徳をしたい、修行僧が集まること五〜六百人と伝えられている。
 当時は戦国時代であったが、越後の上杉謙信も甲斐の武田信玄もふかく師に帰依せられ、競って禅を学ばれたのです。 師は民百姓の迷惑をおもわれて、川中島で戦うよう図られたり、謙信公に塩を甲斐に送らせるなど指導したといわれています。 後に武田信玄公は信州佐久の地に龍雲寺を開き武田家の菩提寺となし、北高禅師を請じて開山とせられたのです。
 以来、雲洞庵の赤門、龍雲寺の黒門といわれて栄えました。現在当庵には、上杉家、武田家の書状が伝えられています。
 その後当庵は、宝永四年(1707年)二十四世鳳仙恵麟禅師によって諸堂を建てかえられ、江戸末期にいたるまで、本堂禅堂、衆寮、江湖寮、客殿、大庫裡、開山堂、経蔵、宝蔵、鐘楼堂、赤門、黒門、土蔵倉庫、鎮守蔵王堂、桂昌軒、威音庵、自在軒、紫雲軒、節忠軒、樵雲軒、書庫、十王堂、熊能神社、水車小屋等など林立し、禅風を誇っていました。
 明治維新となり、雲洞庵は徳川幕府側にたったため、官軍によって諸堂宇を破壊され、本堂、庫裡、赤門、黒門が残存するのみとなりました。

本 堂

永享元年(1429年)、上杉憲実によって建立されたのであるが、のちの江戸時代宝永四年(1707年)二十四世によって十四間、十間半の現本堂が再建されました。 戦後の昭和二十七年屋根を銅板に葺きかえて今日にいたっています。
 釈迦牟尼仏十六羅漢を正面に安置し、越後一の禅宗の最高寺格の建造物です。 県文化財に指定されています。

赤 門

本堂とともに十万石の赤門として建立され、のちに再建されて現在にいたっています。 昔から通じよう開かずの門として、皇室、大名などの来訪のときや寺の特別行事のとき開閉するのみでありました。 両脇の仁王像は江戸末期の作です。

北高禅師の怪獣退治

あるとき雲洞庵で葬儀が行なわれ、北高禅師がその葬列の先導をされました。 葬列が墓地を目指して山間の小道にさしかかったとき、不思議なことに一天にわかにかき曇り雷鳴稲妻が走り、風雨も加わって凄まじい荒天となりました。 村人は恐ろしさに逃げまどい、そのとき黒雲の中から得体のしれない怪獣があらわれ、柩と禅師に襲いかかりました。 禅師は手にしていた鉄如意を振りおろし「喝ッ」と一閃するや怪獣は「ギャーッ」と呻き、禅師の袈裟はその血に染まりました。 と見るまに、暗雲は去って明るくなり、村人が恐るおそる見ると、禅師の足下には頭を割られた怪獣の体が横たわっていたというのです。
 北高禅師の名声は益々高まり、やがて、上杉謙信、武田信玄など数多くの戦国大名が、道を問いにやってくるようになったといいます。 怪獣の頭骸骨、鉄如意、血を浴びた袈裟などが、今なお大切に保管されています。

お酉の百体観音

 その昔、関山の檀家に名字帯刀を許された小野塚という豪族がおりました。 ここに酉の年の酉の月の酉の日の酉の刻に生まれたお酉という才色兼備の働きもので、小鳥や動物をかわいがるやさしい娘がいました。
 お酉がおおきくなると、都の宮廷の官女として仕えることになりました。 母親は心配のあまり雲洞庵の千手観音のお守りを戴き、お酉に「千手観音のようによく働き、人の和を大切にしなさい」といい、そのお守りを持たせてやりました。
 官女となったお酉は一生懸命働き、皆からかわいがられました。 ところが、その名望をねたんだ官女が眠っているお酉の部屋に火をかけました。 
 すると不思議なことに、観音様のお守りが幾百とも知れぬ鳥の姿となり、お酉を火中から救い出してくれたのです。 この恩に報いるため、官女を辞したお酉は百態の観音様を刻み朝な夕なに拝んでいたといいます。
 のちに、その百体観音はお守りを戴いた雲洞庵に寄進され安置されたというのです。
 なお、お酉の作に………
       「霜柱 氷の梁に 雪の桁
                雨の垂木に 露の葺き草」
という歌があります。 この歌は上棟式のおり、今も棟梁が三遍唱えて火災除けの祈祷にしているそうです。

長生きの水

 この地に庵を結んだ 藤原先妣尼公(センビニコウ) = (藤原鎌足の子供の嫁) は、金城山より湧き出る霊泉を見つけられ、病で苦しむ多くの人々をすくわれたといいます。
 養老元年(717年)、藤原鎌足の子・房前公は「これこそ母の形見」と感激され、「長生きの水」と命名されたといわれています。 以来、千三百年にわたりこんこんと湧きでて人々に親しまれ、修行に励む雲水を和ませているのです。

姥子様(山姥)

 縄文時代からつづく日本人の宗教観や信仰の基となり、山姥を祭っている場所は、七〜八千年の歴史を持っている聖地とされています。
 当庵の女人成仏の思想も、この山姥伝説に発しています。 庵という名前もここから来ているとおもわれ、とくに当庵の山姥は歯痛を治すと信仰されています。

  注記:………

  関興庵  <関興庵
          ―御館の乱の戦火から大般若経を守った味噌
          南魚沼市上野にあります。約六百年の歴史がある臨済宗円覚寺派の寺院です。
          上田長尾氏や上杉氏と深い関わりをもち、かつては越後、北陸に300もの末寺を抱え、
          別格10万石の格式を与えられていました。
          天正6年(1578)の御館の乱では、戦火を受け諸堂が焼失しましたが、上杉氏から寄進された約600巻の
          大般若経を味噌樽の中に入れて守ったと言い伝えられています。それからは、この味噌をいただくと
          大般若経の御利益にあずかり福徳が授かると言われ、「関興寺の味噌なめたか」という言葉が生まれました。
          慶長5年上杉景勝の米沢への移封に従い、東岩和尚が米沢に関興庵を建立しました。
          寛文年間に米沢より万源和尚を招き上山の地から現在の上野に移りました。
          歴史ある石段を登ると大きな石庭が広がっていて、本堂裏には睡蓮池そして鐘楼があります。
          所在地 新潟県南魚沼市上野267

  龍雲寺   <龍雲寺(りゅううんじ)
           長野県佐久市岩村田にある曹洞宗の寺院。山号は太田山。本尊は十一面観音。
         <太田山 龍雲寺(岩村田)
           武田信玄ゆかりの龍雲寺 正和元年(1312)大井美作入道玄慶開基。天文末期佐久郡を制覇した
           武田信玄が北高禅師を招いて中興開基。境内から信玄の遺骨が発掘され霊廟に納める。
           惣門には正親町天皇の勅額「東山法窟」がかかる。

  関山    <関山慧玄(かんざん えげん)
          鎌倉時代末期から南北朝時代の臨済宗の僧。
          信濃国(長野県)の出身で、家は高梨氏で、高梨高家の子とされる。朝廷から本有円成、仏心、覚照、
          大定聖応、光徳勝妙、自性天真、放無量光の国師号が与えられ、また、明治天皇から無相大師と追諡された。
          1337年、花園上皇は、離宮を禅苑に改めてその寺名命名と開山となる禅僧の推薦を宗峰に依頼。
          宗峰が関山を推挙し、関山は妙心寺開山となった。
          禅風は厳格で、その生活は質素をきわめ、枯淡な禅風で修禅に専念したという。
          『沙石集』には「本朝ならびなき禅哲なり」と称賛されている。形式に拘らず厳しく弟子を指導し、
          法嗣は授翁宗弼(じゅおう そうひつ)ただ一人であり、また妙心寺の伽藍整備や経営に拘泥することはなかった。
          1360年12月12日、関山は旅の支度をして授翁に行脚に出るといい、
          「風水泉」と称する井戸の辺で授翁に遺戒し、立ったまま息をひきとった。




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