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折々の記 2009 D

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】05/02〜        【 02 】05/08〜
【 03 】05/20〜        【 04 】05/24〜
【 05 】06/04〜        【 06 】06/10〜
【 07 】06/24〜        【 08 】07/06〜



【 05 】06/04

  06 04 いよいよ六月
  06 06 再び太宰春台●飯田藩の実情
  06 08 モナコ宣言とは何か

06 04(木) いよいよ六月

●天安門事件 あれからもう20年も経った。 退職後緑ヶ丘中学校へ応援の勤務をしたときがありました。 いま遠山中学校で校長をしていられる、伊藤正先生の教室へ配属されていた年でした。 中学二年の生徒の皆さんに「この事は大事な歴史上の事件だから憶えておいてほしい」と話していました。

20年も経っているのに大きな国の流れは激変はしていません。

そんな記事を参考のために乗せておくことにしました。


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  天安門事件から20年 遺族は外出禁止、追悼抑え込む  2009年6月5日0時33分

 【北京=坂尻顕吾】天安門事件から20年を迎えた4日、中国当局は民主活動家や犠牲者遺族に外出禁止を命じ、追悼活動を抑え込んだ。遺族でつくる「天安門の母」発起人の一人、丁子霖さん(72)も外出を阻まれ、当時17歳だった高校生の息子を死亡現場で悼むことができなかった。

 丁さんは07年から、命日である6月3日深夜に現場で追悼式を挙げることが許されるようになった。だが、今年は姿を見せなかった。丁さんと親しい民主活動家(60)は「3日から公安当局の監視と圧力が厳しくなり、外にごみを出すことさえできない」と語った。

 丁さんの息子、蒋捷連さんは当時、連日のようにデモに参加。3日深夜、天安門広場の西約5キロで、戒厳部隊に撃たれて死亡した。29年の共産党員歴のあった丁さんは当初、「これは党内の一部がやったこと。過ちを認めるはず」。だが事件の見直しはなく、期待は裏切られた。

 90年代初めから独自の「殉難者名簿」づくりに乗り出す。勤務先の中国人民大学は夫の蒋培坤さん(75)とともに追われ、公安当局の監視下に置かれた。生活必需品は指定された商店で買うことを求められ、自由な外出も許されない。

 当局の姿勢はかたくなだ。中国外務省の秦剛副報道局長は4日の定例会見で「前世紀の80年代末に中国で発生した『政治風波』とそれに関連する問題は、すでに党と政府が明確な結論を出している」と語った。


●抜歯

虫歯(64歯)には、年をとってから歯医者に通うことになっていた。 きのう抜歯をしてもらいました。 大きい歯だから弱いぞと言われていたとおり、歯医者さまのお世話にはなってきていた。

●プリンターの修理

エプソンのA900カラープリンターが不調になって昨日、修理ができてかえってきた。 このプリンターはもう何万枚もの印刷の用を足してきています。 都合がいいといえば、インターネットを続けていくには欠かせない器具である。 時折は修理しなくてはならないのは当然のことなのです。

●熊平さんからの写真

同級会の折、こまめに写真をとって記録していた熊岡平次さんから何枚かの写真を送ってきてくれた。 とても嬉しいことです。 友達は大事です。 懐かしいし、自分を若返らせてくれます。 一杯飲むと体が火照るのは昔に変わりなく、80才なのにいつまでこんな調子が続くのやら、自分でもおかしい。

06 06(土) 再び太宰春台

ことし一月、大河ドラマ「天地人」が始まって、上杉謙信が『義』を掲げての独特な武将であったことを知りました。 さらに直江兼続が『愛』を掲げ、やがては越後から会津、米沢へと封じられてはいくが、『義』も『愛』もうけ伝わっていたことを知りました。

そして一つは‘学問’を大事にして米沢藩になってから直江兼続は「禅林文庫」を創設、藩校「興譲館」の基を築きました。 それが今日でも影響を受けていて学力検査結果では最上位にランクされています。

日本での精神生活として、仏教・儒教が取りあげられてきましたが、戦後西洋流儀の自由平等の意識が強くなってきて、仏教や儒学を心のよりどころにした生き方が薄らいできています。

こういう観点から、大河ドラマがはじまってから…‘考え直せ!’…‘考え直せ!’と老生は刺激を受けているのだろうと思います。

恵那市の岩村(岩村藩)が輩出した人物をみても、米沢(米沢藩)が輩出した人物をみても、“学問を大事にした環境”に育ってきた人には立派な人が多いのです。 ちかまでは高遠藩の人材を見ても判ります。

武力によって隆盛した地域も、財力によって隆盛した地域も、力や金によって崩れ去ります。 歴史がそれを物語っています。

ところがどうでしよう! 義によって築かれた地域は、今でもその気風が残っています。



 以前<折々の記 2009@ 【 05 】01/27〜>の『長野県歌信濃の国(歌詞と太宰春台の学校論)』で、太宰春台をみつけその高邁な見識におどろき、郷土の人物について余りにも知らなすぎていた自分をはじました。

あれから、どうしたものか思案に暮れていました。 ところがどうでしょうか、見つかったのです!

それは<木下秀人の閑談>「飯田藩補遺―山口お藤と太宰春台」という詳しいデータです。

嬉しかった。 それに木下秀人という方は飯田生まれというから同郷の方です。 そして1932年生まれというから、老生より四つ若い。 若いといっても今年は七十七歳になられるお爺ちゃんですね。 うれしかった。

太宰春台については、こんな風にかかれています。 


2 太宰春台(1680−1747)

 太宰春台について小生は、荒町の太宰楼という料理屋が屋敷跡であり、太宰松という曲がりくねった大木(大火で消失)があったこと、我が家にある「太宰春台」という本の主人公がそれに関わっている程度の認識しかなかった。大学で丸山真男先生に習い、「日本政治思想史研究」を読んで、初めて春台が荻生徂徠の弟子と知った。

 春台は江戸中期の儒学で覇をなした荻生徂徠一門の儒者で、徂徠の儒学の「経世済民」面を受け継ぎ、「詩文」を受け継いだ服部南郭と双璧をなした。徂徠の儒学は、幕府主流の朱子学ではなく、それを批判する古学派の伊藤仁斎に連なる古文辭学と称する一派であったが、古典の正しい読み方を主張し,新しい政治のあり方を提唱して広く受け入れられた。

 立ち入って考察するとまことに興味津々であるが、詳しくは別稿で論ずることとし、ここでは春台の家系と経歴に焦点を絞って略述する。経歴は主として武部善人、「太宰春台」による。

@ 父は飯田藩の重臣だったが、春台8歳のとき浪人となった。

 太宰春台の父は、言辰(ノブトキ)といった。若き織田信長の守役で、治まらぬ素行を死をもって諌めた平手政秀の後裔(子孫=外様)であるが、母方の縁で同じ外様の飯田藩200石の重臣太宰謙翁の娘梅(後游と改名)と結婚し養子となった。梅は20歳下であった。長男重光が生まれたのが1672年で、言辰の飯田赴任は1679年とされている。1672年は堀藩の飯田転封の年であるから、縁組はその前ということになる。

 元禄元年、春台8歳の時飯田藩を離れた。飯田在住は足掛け10年であった。原因は同僚との争いともいわれるが、鈴川氏は、将軍綱吉に小姓として仕えた3代藩主親常の藩政改革の犠牲ではないかという。綱吉は徳川一門や譜代大名に遠慮なく改易の斧を振るったが、親常もそれにならって高禄の重臣にリストラを強制し、家臣団を再編成したのではないか。だからこの頃、堀家の重臣が相次いで改易・降格・減禄されているという。

 太宰言辰は飯田藩退去の時、槍を掲げ列を組んで堂々と歩み去ったという。豪気な人だったのだろう。春台は礼にこだわる厳格謹直な人だったらしいが、死去の時、遺言して葬列に槍を掲げさせたのはこの故事を踏んでいると思われる。

 父親の浪人に伴ない、春台も飯田を離れた。しかし春台は飯田を懐かしみ、また平手政秀を誇りとし、署名に「信陽」を加えたり、「東都処士本姓平手氏中務大輔政秀五世孫」と名乗ったりした。
 

A 父の浪人で貧乏生活

 言辰52歳での浪人生活であったが、既に元禄平和謳歌の時代、商品経済の浸透で各藩ともに財政難。出費切り詰めで武術で再就職の道はなく、家計はわずかの蓄えと主婦のやりくり内職に依存せざるを得なかった。春台の8歳上の兄重光は病弱で(後仏門に入る),期待は春台の肩にかかり春台はそれによくこたえた。春台は父から素読を学び豪気を受け継ぎ、母の薫陶を受けた。母の影響か和歌を学んで12−3歳までに3−4千首詠んだが、和歌では公卿に対抗できないと焼き捨て、漢詩に転じたという。面目がうかがえる。

B 出石藩6年出仕後、放浪生活10年 

 貧窮のなか15歳で但馬出石藩松平忠徳の小姓となる。17歳朱子学者中野ヒ謙の門に入る。21歳母死去45歳。6年出仕した出石藩の退職で藩主の怒りを買い10年間禁錮=他藩に出仕できなくなる。その10年間、25歳京都に行き伊藤仁斎の講義を聞いたり、各地を放浪したり、大阪で30歳結婚したり、医術で貧乏生活を支えたり、しかし舞の免状を取ったり笛の名手となったり、勉学以外に余裕がないわけではなかったようである。

C 江戸に戻って徂徠門に入り、紫芝園を開く

 32歳江戸に戻って中野門で親しくなった安藤東野の仲介で荻生徂徠に対面。禁錮が解け、寺社奉行生実藩主森川重令より5斗の扶持を受ける。35歳妻死去。再婚する。36歳生実藩を4年で辞め、小石川牛込天神あたりに私塾紫芝園を開き、研究・執筆・教育活動を始める。徂徠門で頭角をあらわす。42歳火災にあい、芝浦に一時仮寓、この頃「紫芝園前稿」刊行、春台の名声次第に上がる。44歳父死去88歳。幾つかの大名から扶持米が贈られるが、後に断る。潔癖で作法にうるさいのである。紫芝園に俊才が集まり、厳格で礼儀正しい教育が注目される。49歳荻生徂徠死去63歳。50歳主著「経済録」刊行。吉宗が見たいというのを断る。将軍にもへつらわない。53歳「上書」を建白。「聖学問答」ほぼ成る。刊行は57歳。63歳定保を養子に迎える。68歳死去。結局嗣子は家名を残せなかったらしい。

春台の儒教史上の位置付け

 詳しくは別項を見ていただきたいが、簡単にいうと、江戸幕府は、京都朝廷に対し自らを合理的に位置付ける教学として、儒教の朱子学を採用し林羅山がそれにあたった。朱子が重んじた「大学」に、正意・誠心・修身・斎家・治国・平天下とあるように、修養によって国を修めることを要求する哲学であり、忠・孝・義といった身分に基づく規範の遵守も要請していた。しかしそのうちに、朱子学の煩瑣な規範主義は、孔子が説いたことと違うのではないか、聖人の真意は孔子・孟子の直接の精読に依るべしという日本独特の「古学」思想が伊藤仁斎によって唱えられ、徂徠はこの系統の大学者として「弁道」「弁名」を著し、柳沢吉保に仕えて綱吉将軍に関わり、吉宗将軍にも「政談」「太平策」などの政策論を献じ、多くの弟子を養成した。徂徠の学問は多岐にわたったが、弟子は、自由な文学生活を享有しようとする派と、時代の問題を直視し経世済民を志す派との二派に分れた。前者を代表するのが服部南郭であり、生真面目な太宰春台は経世済民派であった。

E 明治政府の徂徠処遇 

 維新後の新政府は華族制度や位階勲等制度を設けて、暦史上国家に貢献した人にも追贈することにした。江戸時代の主要な学者は殆ど贈位された。国学四大人は揃って従三位、儒学では闇斎・山陽が従三位、仁斎・蕃山・白石は正四位、しかし徂徠は、大正天皇即位での大量贈位でも外された。徂徠が生前「朝廷を押さえ幕府を持ち上げ将軍を皇上と称したこと、日本夷人物茂卿とへりくだり孔子・中国尊崇をしたこと」が天皇制国家主義体制下で問題となったらしい。従って弟子である春台も外された。贈位がなかっただけでなく学界で敬遠された徂徠を、きちんと儒学思想史に世界共通の用語で位置付ける仕事は、1941‐2年=戦時中の丸山真男まで待たねばならなかった。春台もそのあおりを食った形跡なしとしないであろう。

 春台が日本にのみ伝わった古写本によって、徂徠死後に刊行した漢の孔安国「古文孝経孔子伝」は、中国=清朝に輸出され、訓詁が盛んであった現地学界で評判となり,覆刻された。春台の学問水準を知るべきであろう。

F 日本思想史上の儒教

 日本の哲学思想には古来、インド・中国に由来する仏教、中国の儒教・道教、日本固有の神道という三つの流れがあり、近世になって西欧の近代思想・キリスト教が加わった。明治維新は徳川幕府こそ倒したが、成立した政権は万世一系の天皇絶対主義イデオロギーであった。その思想は主として江戸時代の国学が提起した「神話」に過ぎなかったが、歴史学も思想史学もその思想に呪縛され、自由な研究は戦後まで抑圧された。

 さらに維新後欧米に追いつくために導入された諸科学には、ギリシャ・ローマに発する哲学はあったが、仏教や儒教を含む東洋思想の分野は未開拓であり、それにはイデオロギーの制約があった。日本固有の神道思想を加えた日本の思想史はまだこれからであろう。

 別項に、日本の儒教の受容について小論を載せた。仏教が中国を経て日本に伝わり,独自の仏教となったように、儒教も日本で本家の中国とも,隣りの韓国とも異なる独自の受けとめられ方をした。そこに維新後の日本と中国・韓国の近代化の差が生じた。興味しんしんたるところである。そこにわが太宰春台がどのような位置を占めるのか。


飯田藩の実情

昔から領主の支配のやりかた如何によって、産業や文化ひいては地域の伝統全般の隆盛疲弊が現われてきました。 飯田藩の実情を見てみると、太宰春台が飯田藩を去っていったのもうなづけるのです。

上の枠内によれば、‘3代藩主親常の藩政改革の犠牲ではないかという’と表記してあるが、父の太宰言辰(ノブトキ)は若き織田信長の守役で、治まらぬ素行を死をもって諌めた平手政秀の後裔というから、筋の通った人に相違がありません。

そうだとすれば、3代藩主親常の太宰氏評価が疑われます。 五代将軍綱吉の小姓をした人にしては、人を観る目が肥えていなかったと言わざるをえません。

藩主 在任 石高(万石) 特記
 京極高知  文禄2.10〜慶長5.11 1593〜1600 10.0  丹後宮津へ
 小笠原秀政  慶長6.?〜慶長18.10 1601〜1613 5.0  下総古河より信濃松本へ
 脇坂安元  元和3.?〜承応2.12 1617〜1653 5.5  伊予大洲より
 脇坂安政  承応3.3〜寛文12.5 1654〜1672 5.5  播磨龍野へ
 @堀親昌  寛文12.閏6〜延宝元.7 1672〜1673 2.0  下野烏山より
 A堀親貞  延宝元.9〜貞享2.11 1673〜1685 2.0  
 B堀親常  貞享3.3〜元禄10.3 1686〜1697 2.0  
 C堀親賢  元禄10.5〜正徳5.11 1697〜1715 2.0  
 D堀親庸  正徳5.12〜享保13.7 1715〜1728 2.0  
 E堀親蔵  享保13.9〜延享3.2 1728〜1746 2.0  
 F堀親長  延享3.4〜安永8.4 1746〜1779 2.0  
 G堀親忠  安永8.4〜天明4.6 1779〜1784 2.0  
 H堀親民  天明4.9〜寛政8.4 1784〜1796 2.0  
 I堀親?  寛政8.5〜弘化2.9 1796〜1845 2.7  
 J堀親義  弘化2.9〜慶応4.3 1845〜1868 1.7  
 K堀親広  慶応4.3〜 1868〜 1.5  




飯田藩前史

飯田藩は天竜川に沿った信濃伊那谷の飯田周辺を領有した小藩である。信濃は室町時代小笠原氏が守護を勤めていたが、地域が広大で、谷筋に幾多の国人がおり最初から安定しなかった。
伊那谷には鈴岡に小笠原氏(松尾小笠原氏)が入ったが力が弱く、室町中期には土豪が割拠していた。そこに隣国甲斐から武田家、越後から長尾(上杉)が信濃を盛んに侵しだした。
小笠原家は国人層の支配を最後までできず戦国大名化に失敗、早くから国人層を支配下に置いた甲斐武田氏や、守護代として力をつけ戦国大名化した長尾氏に付け込まれることになった。

伊那地方は地理的な条件から甲斐の武田氏が勢力下に置いた。天文23年(1554年)に武田晴信(信玄)自ら兵を率いて松尾小笠原氏を追い、伊那谷一帯を平定した。
武田氏は家臣秋山信友を最初は高遠、次いで飯田に置き郡代として支配させた。飯田がこの地方の中心となるのはこの時からである。

やがて武田氏は信玄の病没により勢威を失い、設楽ヶ原で織田・徳川連合軍に破れると伊那谷は織田氏の支配下に置かれた。
織田氏は毛利秀頼を飯田城主とし伊那郡一円を支配させたが、すぐに本能寺となり飯田は無住の城となった。
この隙に徳川家康が信濃に軍を進めて伊那谷一帯を占領、関東移封により家康が信濃を去ると信長の死後秀吉に仕えていた毛利秀頼が再び飯田城主に返り咲いた。

文禄2年(1593年)の文禄の役の陣中で秀頼が没すると、秀頼の女婿の京極高知が伊那郡一帯を領有した。
高知は関ヶ原戦で家康に付き岐阜城攻撃や関ヶ原本戦で功を挙げ、それにより丹後宮津12万3千石に転封された。
家康は高知の後を松尾小笠原氏の正統であり、お気に入りの小姓であった小笠原信之に与えようとしたが固辞され、仕方なく小笠原のもう一流である深志小笠原氏の秀政に与えた。

初期の飯田藩

秀政は慶長6年(1601年)に飯田に入ったがその所領は5万石、前の京極家は10万石だったから半減である。
これは山間地帯であるこの地に大大名を置くことを好まなかった家康の戦略によるものと、伊那谷の木材を幕府直轄にするためのものだったと考えられる。
秀政は慶長18年(1613年)に在封12年で故地松本に転封となった。

秀政転封の後飯田は3年間天領となる。大坂の陣の後の元和2年(1616年)に伊予大洲から脇坂安元が5万5千石で入部するが、飯田領は飯田周辺と下条・箕輪一帯の98ヶ村約5万石で小笠原時代そのままであり、残りの5千石は上総一宮で領した。
脇坂安元は賤ヶ岳七本鑓で有名な脇坂安治の二男で、兄安忠が早世したために脇坂家を継いだもので文武両道に優れた剛直な人であった。
安元は承応2年(1653年)に70歳で病死し、養子の安政が継いだが、安政は寛文12年(1672年)播磨龍野に転封となった。

堀親昌の入部

脇坂氏の後に飯田藩主となったのは堀親昌であった。堀氏は信長の武将であった堀秀政が秀吉の側近となり、信長死後に秀吉に取り立てられて栄達した家で、秀政死去後は嫡子秀治が継ぎ、関ヶ原のころには越後春日山で45万石を領し、関ヶ原でも家康についた。
秀治の弟親良は、兄秀治の与力大名として越後蔵王4万石を与えらたが、慶長8年(1603年)に兄の政治を不満として越後を去った。
その後本多正純の家臣を経て、寛永4年(1627年)下野烏山2万5千石の大名となり、その子親昌が信濃飯田に転封となった。以後飯田藩主として代々封を受け継ぎ幕末まで続く。
ちなみに兄秀治の系統は、秀治の子の忠俊の代に家老間の争いから取り潰されてしまう。

親昌は家督を継ぐときに弟2人に5千石を分知したので、飯田に入ったときは2万石の小大名であった。
脇坂氏の領地のうち、残りの3万石は天領となり飯島に代官所が置かれて支配された。親昌は飯田に入部するとそれまでの知行制から蔵米制に改めた。
農民支配は庄屋、組頭、長百姓の村方三役にによって行われ、庄屋も世襲制ではなく廻り庄屋と呼ばれる、一種の持ち回り制であった。

親昌は飯田入部の翌年延宝元年(1673年)に死去し、親貞、親常、親賢と継ぐ。親貞は延宝元年襲封するが12年の在封で貞享2年(1685年)に死去、次の親常は12歳で家督を継ぎ、これも在封12年で元禄10年(1697年)に死去した。
親貞は松平光長改易の後の高田城在番中の急病死であり、親常も24歳の若死にで、親常の代の12年間は、重臣による執権政治であった。

牛之助騒動と藩財政

飯田藩四代藩主親賢の時に牛之助騒動が起きた。側用人牛之助が親賢の世話で殿中の女中と結ばれた。
婚礼の翌日、牛之助は御礼のために登城すると、親賢は側室に髪を結わせていた。その側室と牛之助は日ごろから見知った仲なので、側室は牛之助を見て何気なく微笑した。
鏡に映ったその笑顔を見た親賢は、側室と牛之助が不義の関係にあると思い込み、牛之助を惨殺したという、なんともお粗末な話である。

藩主がこれでは家臣もあきれ返るのだろう、藩内には退廃の気が漂い、元禄12年(1699年)には堀宇右衛門ら50人が暇をとり藩を去ってしまった。
その後、宝永4年(1707年)には大地震、正徳5年(1715年)6月には天竜川大洪水と事件が相次ぎ、親賢の跡の親庸の代にも、享保2年(1717年)江戸の大火で江戸屋敷焼失、享保4年(1719年)天竜川大洪水など災害に見舞われる。

小藩ゆえ藩財政はたちまち揺らぎ、享保年間には「御定借」と呼ばれる豪商や豪農からの借用による賄い金制度が一般化した。
この頃の飯田は伊那街道の物資運輸の中心地として発展し、特に輸送機関として中馬の中心地となった。
当時の陸上輸送は馬によって行われたが、通常は各宿駅で馬から馬へ荷物が付け替えられる中継による方式がとられていた。
中馬とは付け替えの手間を省き、一頭の馬で長距離を輸送し経費を節約する方式であった。

信州から太平洋岸へは中山道の木曽路と伊那街道の伊那路があったが、中山道は人の往来多く、日光例幣使や朝鮮通信使も通り何かとやかましい。
もっぱら貨物輸送に使われたのは、脇往還である伊那街道であった。そのために飯田は物資の中継地、中馬の中心地として発展し、小藩の城下ながら商業都市となり、富商が生まれた。
やがて藩の毎月の必要経費は富商を中心とする町人が賄うようになり、これが「御定借」と呼ばれるものになった。従って飯田藩の財政は町人層に握られることとなった。

千人講騒動

飯田藩の財政は御定借や御用金に頼らざるを得なくなっていたが、宝暦5年(1755年)の江戸屋敷焼失、宝暦8年(1758年)には駿府城加番と事件や公役が相次ぎ藩財政は逼迫した。
そこで郡奉行黒須楠右衛門の発案で千人講を行うことになった。公営の無尽である。城下桜町に千人講会所を作り、町家や各村は強制参加であった。
村は大小にかかわらず全村で二口、一口は毎月一分年で六両としたから、一村では毎月一両の拠出が必要であった。

これを村中で出すのであるが、小村ではそれでも無理であった。第二会あたりから辞退する者が現れだしたが、黒須楠右衛門は「辞退するなら、田地を差し出して立ち退け」と激怒。
これに怒った農民たちは一揆の相談を始めた。藩では不穏の動きを察知し、農民たちが意見一致を見る前に説得し、一旦は収拾しかけた。
ところが下郷三ヶ村といわれる藩南端の桐林、時又、上川路の農民は一揆の決行を決め、宝暦12年(1762年)2月22日に城下に向けて出発した。

道々人数は膨れ上がり、城下に入った頃には圧倒的な人数に防ぎようがなく、城下の富商の屋敷は打毀しにあった。
翌23日には上郷など他地域の農民も飯田に押し寄せ、打毀しを恐れた町人までが加わり、収拾が付かない状態になった。
藩では農民たちの要求である千人講の廃止と責任者の黒須楠右衛門、小林源五左衛門の罷免を決めて農民を説得、一揆を収めた。

千人講騒動は基本的には農民の要求が受け入れられた形であった。藩では騒動の始末が一段落すると騒動の首謀者を内偵捕縛、その数は50人余りに及んだという。また町人でも一揆に肩入れしたとして11名が閉門となった。
しかし死罪、追放など重い罪にはならず手錠お預けや入牢などで、やがてそれらも許されて千人講騒動は終った。

紙問屋騒動と堀親?

千人講騒動は終っても藩財政の困窮は終ったわけではない。その後も飯田藩では財政絡みのゴタゴタが続く。
豪農林新作が御用紙の一手引き受けを願って許可され、城下商人の反対にあった。新作は藩財政の一端を担うほどの豪農であり、藩では願いを拒否できず許可したのであるが、その後商人が騒いだために紙問屋の林新作独占は延期となった。

藩はよくよく考えてみると新作一人に儲けさせるより、城下商人たち利用し、その元締めを役人がやるほうが藩の直接の利益になると考えなおし、ここに公許紙問屋を設立した。
この紙問屋の公印がない紙は売買を一切禁止され、運上金と手数料を取った。たちまち紙の値段は上がり紙漉職人を巻き込んで騒動になった。
規模は小さかったが打毀しもおたが、結局は鎮圧され首謀者が処罰された。これを紙問屋騒動という。

千人講騒動、紙問屋騒動と藩政は不安定で、藩財政の窮乏は相変わらずであったが、寛政8年(1796年)家督を継ぎ藩主となった親?は、辣腕家であった。
文化11年(1814年)奏者番、文政9年(1826年)寺社奉行ついで若年寄となり、さらに天保12年(1841年)側用人、同14年(1843年)に7千石加増され老中格、天保15年(1844年)には老中となった。
水野忠邦の側近で、天保の改革を忠邦とともに推し進め、諸大名に恐れられる存在となった。
しかし弘化2年(1845年)忠邦の失脚により1万石を減封され、逼塞を命じられる。翌3年に逼塞は解かれたが、そのまま剃髪隠居した。

幕末維新の飯田藩

親?の跡は親義が継いだが、この時に親?五男で才気煥発、親?も溺愛する金四郎とのあいだで家督を巡る争いが起こる。
国家老安富主計は親?を諌めて親義の家督となったというが、それが奥向きの勢力争いに絡み、奥向で権勢のあった老女の刺殺事件にまで発展した。これを飯田騒動という。
一方で藩政面でも嘉永3年(1850年)と5年に一揆がおきた。親義は嘉永6年(1853年)に奏者番、文久3年(1863年)に寺社奉行に進み、文久4年(1864年)大坂警備、元治元年(1864年)には長州征伐に向かう。

このころ飯田藩は清内路峠の関所を管理していたが、その関所を水戸浪士に破られ、その責任を取らされて親義は逼塞の上2千石減封。清内路関所は高遠藩の管理となった。
領内では米騒動が盛んに起き、一方で行政は機能せず、すでに藩の態をなしていなかった。慶喜の大政奉還により、小藩である飯田藩は大勢に順応せざるを得ず、藩論は勤皇に決して戊辰戦争では官軍に従い各地を転戦した。

なお明治維新の混乱期飯田藩内に二分金騒動が起きる。贋金のような粗悪な二分金が多量に藩内で使われたために、その二分金の交換を要求した農民や商人が騒ぎ打毀しに発展したものである。
藩では犯人たちを捕縛し罰金を課し、城内枡形の杉や外堀の木を売って金を作り、藩札を作って二分金と引き換え収拾した。
飯田藩は小藩ゆえか一揆をはじめ騒動の多い藩であったが、最後の最後まで騒動続きであった。

06 08(月) モナコ宣言とは何か

エコとは何でしょうか?

答  《生態系》an ecosystem のことでした。

《生態系》an ecosystem とは何でしょうか?

答  二酸化炭素の排出が地球環境“an ecosystem”を崩壊させており、《生態系》を守ることを目指している言葉です。

   http://www.iconocast.com/B000000000000141_Japan/U1/News2.htm
   <海洋の酸性化の脅威への全体的な科学者の引くことの注意>

          ………(引用)………

………26ヶ国からの150人以上の導く海洋の科学者は政策担当者によって即座の行動をはっきりと海洋の酸性化からの海洋の生態系への広まった、厳しい損傷を避けるために二酸化炭素排出を減らすために求めている。

科学者はモナコの宣言、高二酸化炭素の世界の海洋のこの前の10月2日国際シンポジウムで関係者の結論に基づいて声明のこの警告を今日出した。………


          翻訳機で変換したままの文章のようです。 でも、モナコの宣言についての様子ははっきり読み取ることができます。

   http://www.iconocast.com/B000000000000142_Japan/J3/News9A.htm
   <上昇の二酸化炭素は海洋生物を脅す酸っぱくなる海洋を水平にする>

          CBCのニュース  ………(引用)………

二酸化炭素の放出は海洋生物を脅して、海洋を酸性にすることによる人間の食糧補給は、科学者の国際的なグループ言う。

「海洋酸性化加速して、厳しい損傷はモナコの宣言、26ヶ国からの155人の海洋の科学者によって署名入公文書および出された最後の金曜日に従って差し迫っている」、は。

それは釣を脅すために珊瑚礁を破壊してもよい、二酸化炭素のレベルを抑制するために政策当局者が働かなかったら観光産業は何百万の人々の食糧補給に影響を与えるために宣言言い。

大気の二酸化炭素のレベルは化石燃料の焼却のような人的活動による前世紀にわたって、主としてはっきりと上った。 ガスは大気の助力トラップ熱を気候変動に導いている科学者が責任にする主要な「温室効果ガス」の1つである。

それは損傷の珊瑚礁をそれ自体より暖かい温度が珊瑚の病気の広がりをもたらすので、責任にされた。

しかし海洋はまた炭素酸を形作る大気の二酸化炭素の約四分の一を吸収する。

酸は珊瑚、貝を分解する

増加それをもっと簡單にする海水の酸味こと水が珊瑚および貝の炭酸カルシウムの貝を分解することができるように。

測定は産業化が18世紀に始まってから海洋の表面の酸味が30%、宣言言った増加したことを示す。

科学者は何も行われなければ、世界の海洋のほとんどは今世紀の中間によって珊瑚礁に不親切であることができることを予測した。 礁は現在重要な魚の生息地を提供し、氾濫から沿岸地域を保護する。 上昇の酸味はまたそれをさらに困難にすることができ、海洋が付加的な二酸化炭素を吸収することができるように多くを大気自体に残し、気候変動を悪化させる。

宣言は10月のモナコで握られた国際シンポジウムからの結論に基づいていた。





   知らなかったモナコ宣言

NHKの「地球LIVE」を観た。 

二酸化炭素濃度の上昇は、温暖化だけでなく、海洋酸性化をもたらすことを知った。 アルカリ性である海が、二酸化炭素濃度の上昇によって酸性化するというのだ。 

二酸化炭素を吸収してくれる海が、その能力を失うことは生態系にとって致命傷であり、2020年までに二酸化炭素の排出量を完全に押さえ込まなければ、海洋酸性化が深刻な事態を引き起こすと宣言したのが「モナコ宣言(2005年1月)」でした。

モナコとは南フランス地中海沿岸にある世界二番目の小さな都市国家でした。 モナコ宣言という言葉は知らなかった。

番組の中で、この生態系を維持するために地球は、奇跡とも言える微妙なバランスのシステムを持っていることを紹介していた。
そのシステムで地球は、長い長い年月生態系を維持してきたのに、人間はその奇跡のシステムをたった100年、200年で破壊しようとしているのだ。

多くの専門家たちが、地球の危機を救うため、様々な研究に汗を流しメカニズムを解明すると共に警告を発している。 なのに、私を含めその他のほとんどの人間は、「自分第一主義」に徹し目先の利益を優先し耳をふさぎ、地球を守るどころか破壊に手を貸していると思った。

一部の専門家たちに任せているだけで良いのだろうか?
そんな状況ではないことを痛感した。

地球にとって人間は脅威なのかも知れない。
きっと、地球にとって人間が第一ではない。
だから脅威を排除するために、新たなウィルスを創り出したりしてんじゃないのか・・・なんて考えざるを得ない。

こういう番組は、NHKだけじゃなくて民放も目先の利益を度外視して、ゴールデンタイムにするべきだ。
みんなが気づけば、最悪は回避できると思うし、地球生態系の一員にちゃんと戻れると思う。
子や孫に、自分たちが生きてこれたのと同じ地球を残せると思う。

そのためにも、人任せじゃなくてできることを始めねば。



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▼僕は、エイズ然り、SARS然り、新型インフルエンザ然り、地球にとって危険な、
  横暴をふるう勝手な人間たちを自然淘汰させるために神が作り上げた、
  地球防衛のための武器と昔から考えております。

  かく言う僕も、クラシックカーを乗り回し、二酸化炭素をまき散らしているパイオツでした…(汗)。

▼私も、その番組を見てました。
  そして、パイオツ・カイデーさんと同じでガイア論の支持者です。
  人類は地球にとっては癌細胞なんだろうなと・・・。
  ま、ただ、ガイア論の解釈は、単純にパイオツ・カイデーさんや
  私のように単純に解釈してはいけないようですが・・・。

  私達も、その道ではプロとしてお給料を貰っています。
  そして、その道のプロとして警鐘を鳴らし呼びかけを行っています。
  でも、なかなか結果に結びつかない・・・。
  環境問題も同じだと思うんです。
  専門家だけが頑張ってもダメなんです。
  私達、地球人の一人一人が気をつけないとダメなんです。

  ただ、私も古い大排気量車を走らせ、山を走り海を走り
  自然を傷つけています。
  でも、出来るところで節電したりゴミを拾ったりしています。
  そんな個人レベルの「自分の出来ること」で良いんじゃないかと   思っています。
  独りよがりかもしれませんけどね。



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