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続折々の記 ⑤
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 09 】6/24
       橘隆志(立花隆)「知を愛した哲学者」   佐藤優
       分野も時間も軽々越えた「知の巨人」   毎日新聞
       香港「リンゴ日報」発行停止   市民 “私たちには何もできない”

2021年6月24日 
立花隆「知を愛した哲学者」
   立花隆さんは「知を愛した哲学者」だった 佐藤優さん

 4月30日に80歳で亡くなった立花隆さんの執筆活動を、作家・元外務省主任分析官の佐藤優(まさる)さんは「長年にわたり多方面で活躍した。知を愛した本当の意味での哲学者だった」と高く評価した。
① 評論家・ジャーナリスト立花隆さん死去「田中角栄研究」
② 【特集】立花隆さんのあゆみ
 立花さんは、田中角栄の金脈問題やロッキード事件の追及に始まり、中核や革マルなどの新左翼や日本共産党の研究から宇宙、生命科学、がん、サル学に至るまで長年にわたり、あらゆる分野、多方面での知の探究を続けていました。アカデミズム内部で制度化された哲学の枠を超えて、知を愛し、生き方そのものを通じて哲学を探究する本当の意味での哲学者でした。
③ 【写真特集】「知の巨人」立花隆さんの歩み
 立花さんと私の対談『ぼくらの頭脳の鍛え方』(2009年)では、形而上学(けいじじょうがく)に対するお互いの姿勢が大きく違ったことが印象に残っています。目に見えない存在を思索の対象とすべきだとする私に対し、当時の立花さんは目に見えない存在を頑として認めない立場でした。ところが、立花さんは近著『知の旅は終わらない』(20年)で、最後に書きたい本のテーマの一つに形而上学をあげていました。考えが変わった立花さんとまた議論したかった、と非常に惜しい思いがします。

 立花さんには個人的な恩義もあります。県立浦和高校の高校生だった頃、『中核VS革マル』(1975年)を発売日に読破し、新左翼の「代理体験」をすることで、正義に殉じて他者の生命を軽んじる狂気の危険性を学びました。続く『日本共産党の研究』(78年)も含め、左派の浅薄な歴史観を乗り越えて、やがて地球環境問題や文化多元主義へと関心が向かう言論界の動きを先取りしていました。

 立花さんは、いわば腕のいい職人。担当編集者や出版社との関係も緊張感がありました。立花さんや柳田邦男さんのようなフリーランスの書き手を出版社が支え、金と時間をかけた取材の成果を本にして売る仕組みが限界を迎えています。立花さんが亡くなったことで一つの時代が終わった、ノンフィクションというジャンルが区切りを迎えた、という思いがします。(聞き手・大内悟史)

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2021年6月23日
① 評論家・ジャーナリスト立花隆さん死去「田中角栄研究」

 首相退陣につながった「田中角栄研究」などの調査報道や、科学の最先端に迫るノンフィクション作品で知られる評論家で、ジャーナリストの立花隆(たちばな・たかし、本名橘隆志)さんが4月30日、急性冠症候群のため死去していたことが分かった。80歳だった。葬儀は近親者で営んだ。
※ 「調べて書く」貫いた立花隆さん 知の巨人が残した警句
 1940年、長崎県に生まれた。64年、東大文学部仏文科を卒業後、文芸春秋社に入社。2年後に退社して、東大文学部哲学科に入り直し、在学中から文筆活動を始めた。
 74年、現職首相の金脈問題を追及する「田中角栄研究」を文芸春秋誌に発表。「政治とカネ」の問題を社会に提起し、「調査報道」の先駆的事例として知られた。後の退陣にもつながり、ジャーナリストとしての評価を確立した。その後も「中核VS革マル」「日本共産党の研究」など、綿密な取材で組織の内幕に迫る作品を手がけた。
 無類の好奇心は先端科学へも向けられた。「宇宙からの帰還」(83年)は、宇宙体験が人間の内面にどう影響するかを宇宙飛行士へのインタビューで探り、話題を呼んだ。「脳死」(86年)、「サイエンス・ナウ」(91年)などの著作で、科学の最前線と市民の橋渡し役を務めた。現代科学では説明の難しい事象に、科学的な視点で取り組んだ「臨死体験」(94年)も広く読まれた。
 2007年、膀胱(ぼうこう)がんの手術を受けた。その後、がんをテーマにしたNHKのドキュメンタリー番組の制作にも関わった。
 83年に菊池寛賞。98年には司馬遼太郎賞を受けた。
 幅広い読書家として知られ、「知の巨人」とも呼ばれた。事務所「猫ビル」(東京都文京区)に数万冊の蔵書を抱え、読書遍歴を語った著書も多数。「読書脳」(13年)では電子書籍が知のあり方に与える影響について語った。
 近著の「知の旅は終わらない」(20年)では、「葬式にも墓にもまったく関心がありません」と記した。
立花隆さん「書くことで後世に」 被爆証言の意義を語る

※ 「調べて書く」貫いた立花隆さん 知の巨人が残した警句
 4月30日に80歳で亡くなったジャーナリストの立花隆さんは、「未知の境界を見極めなければならない難問を解くのが好き」だと生前に語っていた。あふれる好奇心を満足させるため、「調べて書く」という大原則を徹底して貫いた生涯だった。
 その名前を一躍有名にした「田中角栄研究」(1974年)では、仲間と共に膨大な資料を読み解いたのに加え、田中角栄のファミリー企業や後援会などの人脈を相関図にし、データも加えて緻密(ちみつ)な分析を行った。
 金権政治の実情を暴くのみならず、執筆に向けた資料収集に大きな役割を果たした大宅壮一文庫の存在に、光を当てたことの意味も大きかった。当時設立されたばかりの同文庫には、その後記者やフリーライターらが集い、ノンフィクションという分野の興隆につながった。
 後に、科学分野での取材、執筆に力を注ぐようになる。「最先端で起きることを自分の言葉で伝えるのがジャーナリズム」と語っていた立花さんにとって、一見奇異にも見える分野の越境はごく当然のことだった。そして、「調べて書く」姿勢はどの分野でも変わらなかった。ノーベル医学生理学賞を受賞した利根川進さんとの対談にあたっては、「書棚3段分くらい」の専門書を読み込み、実験の手法や装置などの知識も身につけて臨んだという話もある。
 2001年に発表した「東大生はバカになったか」は議論を巻き起こした。東大批判ではなく、現代の教養の在り方を考えようとするのが同書の目的だったという。
 「関心がある分野は最低でも10冊は読むべきだ」と話し、10万冊もの蔵書があった立花さんからすれば、文系、理系と「知」が細分化し、分断していく状況は看過できないものだった。「調べて書く」と名付け、東大教養学部で行ったゼミでは、自身の経験を惜しみなく伝え、学生たちに様々な人物を取材させた。ゼミの活動は「二十歳のころ」という書物に結実した。
 「調べて書くことは、ジャーナリストに限らず現代社会のあらゆる人々に必要とされること。大学教育では、組織だって教えられることもない欠落部分だ」。「調べて書く」ということを突き詰めれば、強固な権力にメスを入れることも出来るし、宇宙や死という難問とも対峙(たいじ)できる。ジャーナリスト、評論家としての半世紀にわたる活動を通じ、立花さんはそのことを社会に示した。
 人々がインターネットで瞬時に玉石混交の情報を得る時代、「知の巨人」が残した警句は、いっそう重く響く。(山本悠理)

2021年6月23日
② 【特集】立花隆さんのあゆみ
   URLを開いてみること
   https://www.asahi.com/topics/word/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E9%9A%86.html?iref=pc_extlink

2021年6月23日
③ 【写真特集】「知の巨人」立花隆さんの歩み
   URLを開いてみること
   https://twitter.com/search?q=https://www.asahi.com/gallery/photo/national/tachibana/20210623/

※ 「知の巨人」立花隆さんの歩み
「田中角栄研究」などの調査報道や科学の最先端に迫るノンフィクション作品で知られる評論家の立花隆さんが4月30日、急性冠症候群のため死去していたことが分かりました。 「知の巨人」とも評されたジャーナリストの歩みを写真で振り返ります。

1/8 評論家の立花隆さん=2006年、東京・小石川の仕事場
2/8 評論家の立花隆さん=1983年撮影
3/8 田中角栄首相就任3年目の1974年10月、雑誌「文芸春秋」に掲載された立花隆「田中角栄研究と児玉隆也「淋しき越山会の女王」をきっかけに世論の金権批判が一気に高まった。国会での追及や外国人記者の報道、与党自民党内にも退陣要求が上がるなど一方の逆風の中、ついに退陣を表明した=1974年
4/8 ロッキード裁判丸紅ルートの東京地裁判決で、田中角栄元首相に懲役4年の実刑が言い渡されたのを受け、記者団のインタビューに答える評論家の立花隆さん=1983年10月12日、東京都千代田区霞が関の司法記者クラブ
5/8 「ロッキード裁判傍聴席」の出版記念パ―ティーで挨拶する立花隆さん=1985年
6/8 吉原すみれとの共同制作「とぎれた闇」のCDをクリーンルームで手にする立花隆さん=1986年
7/8 東京帝国大学航空研究所(東京大学先端科学技術研究所センターの前身)が設計した航研機のエンジン出力測定器の説明を聞く立花隆さん(右)、隣は栗野誠一・日大名誉教授=1995年、東京都目黒区駒場4丁目の東大先端科学技術研究センター21号館
8/8 立花隆さん=2016年3月、東京都文京区

2021/6/23 毎日新聞
分野も時間も軽々越えた「知の巨人」
   立花隆さんが残したもの

 「知の巨人」と評されたジャーナリストで評論家の立花隆さんが亡くなった。理系と文系、過去や現代、未来といったテーマの垣根を軽々と越えた60年に及ぶ活動が残したものは大きい。
 戦闘の体験はないが、戦争への関心は高かった。幼いころの鮮明な記憶は、中国からの引き揚げだ。教員だった父親の赴任先、北京で敗戦を迎えた。5歳の立花少年は引き揚げの旅路で大人用のリュックを背負わされた。先を行く大人について行くのがつらく、「置いてけぼり」になりかけたという。
 また長崎生まれで、原爆には思いがあった。東京大在学中の1960年には、英国・ロンドンで開かれた「学生青年核軍縮国際会議」に招かれ欧州に渡った。新藤兼人監督の映画「原爆の子」や関川秀雄監督の「ひろしま」、土門拳の写真集「ヒロシマ」などを持参し、各地で上映会などを開いた。
 64年に仏文科を卒業。卒業論文はフランス革命期の哲学者、メーヌ・ド・ビランが残した「ヨハネ伝注解」の分析だった。進路を考えていると、新聞記者だった兄から「新聞記者はやめろ」と言われた。NHKと岩波書店は入社試験で落とされ、文芸春秋に入社した。希望通り「週刊文春」に配属された。しかし好きな読書がままならず、「まったく興味が無い」プロ野球の取材を任されたことで嫌気が差し、3年足らずで退社した。
 フリーとなり、67年には東京大哲学科に学士入学。学費を稼ぐために雑誌で記事をまとめる「アンカーマン」を務め、取材や編集の経験を重ねた。60年代末からペンネームの「立花隆」で月刊誌などで記事を書いた。さらに東京・新宿の飲食店が並ぶゴールデン街でバーを共同経営。来店するマスコミ関係者との交流を深めた。
 そこで知り合った編集者のすすめで72年、イスラエルに渡った。同年に起きた、テルアビブの空港で日本赤軍の3人が銃を乱射し24人が死亡した事件を取材。1人生き残った実行犯で、現地警察に拘束されていた岡本公三容疑者への一問一答記事が「週刊文春」に掲載され話題となった。
 「立花隆」の名前がさらに大きく知られたのは74年。「田中角栄研究 その金脈と人脈」を月刊「文芸春秋」で発表してからだ。時の首相の、カネにまつわる疑惑を徹底的に調べ上げた。会社登記簿や政治資金収支報告書など膨大な資料を収集・分析。ファミリー企業や支援者、派閥などの複雑な人脈を相関図で可視化した。田中氏は日本外国特派員協会で記者会見に臨み、海外メディアの追及を受けた。「田中金脈」は海外に発信され、日本のメディアも報じた。田中氏は74年11月に退陣を表明。自民党内の権力闘争が激化していたこともあったが、立花さんの報道が田中氏退陣の引き金ともなった。
 76年2月には「ロッキード事件」が発覚。田中氏や丸紅、全日空の役員らが受託収賄、贈賄などの罪で起訴される歴史的な疑獄事件となった。立花さんは退陣で田中氏をテーマにすることをやめるつもりだったが、事件によって追い続けることに。77年の初公判以来、すべての公判を傍聴。「朝日ジャーナル」に68回の「傍聴記」を寄せた。
 「科学少年だった」という立花さんは、脳や宇宙、医療といった分野でも積極的に取材し、発信した。「宇宙での体験が意識にどんな影響をもたらすのか」に関心を持ち、米アポロ計画の宇宙飛行士たちに取材を重ねた。その成果である「宇宙からの帰還」は版を重ね、後に日本人が宇宙飛行士を目指すきっかけともなった。科学・技術の最前線に立った人間がその体験を精神世界でどう受容し、その後の人生にどう影響したのかを追う仕事は、分野を越境する立花さんの仕事の象徴であると同時に、膨大な作品群の中で一つの画期ともなった。
 並外れた読書家でもあった。蔵書はおよそ10万冊。「関心がある分野は最低でも10冊を読むべきだ」「本との出会いは自分でするもの」といった持論から、読書の方法や重要性を説いた。
 鋭い書評家でもあった。賞の選考会などでは手厳しい評もしたが、立花さんに著作を取り上げられ、力を得た書き手は多い。また母校・東京大では教壇にも立った。「調べて書くことが現代では最も重要な能力」との考えから、ゼミでは学生たちが会いたい人物に会い、インタビューして書くことを課した。自身も取材や執筆などの活動をしつつ、後進の育成に力を注いだ。
 分野をまたいで深く広く取材する発信者であり、教育者でもあった立花さんは「総合知」の人だった。アカデミズム、ジャーナリズムとも専門性が細分化する現代にあっては、立花さんのような異能の人物は、もう現れないかもしれない。

 ◇立花隆さんの著書一覧
   「思考の技術」(1971年)
   「中核VS革マル」(75年)
   「田中角栄研究」(76年)
   「日本共産党の研究」(78年)
   「ジャーナリズムを考える旅」(同)
   「農協 巨大な挑戦」(80年)
   「ロッキード裁判傍聴記」(81~85年)
   「宇宙からの帰還」(83年)
   「脳死」(86年)
   「脳死再論」(88年)
   「同時代を撃つ 情報ウオッチング」(88~90年)
   「臨死体験」(94年)
   「ぼくはこんな本を読んできた」(95年)
   「立花隆の同時代ノート」(97年)
   「21世紀 知の挑戦」(2000年)
   「『言論の自由』VS.『●●●』」(04年)
   「シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界」(同)
   「天皇と東大 大日本帝国の生と死」(05年)
   「滅びゆく国家 日本はどこへ向かうのか」(06年)
   「自分史の書き方」(13年)
   「死はこわくない」(15年)
   「武満徹・音楽創造への旅」(16年)
   「『戦争』を語る」(同)
   「知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと」(20年)
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   「読書家のお兄さん」立花隆さん 池辺晋一郎さん

【下平記】
物凄い読書家であり盛んな発想をしてきた人
普通の宿業期ではなかったと思う。 どうしてこうもフロンタイア精神をもつようになったか皆にわかることはないのだろうか。
西江さんには、母とのやり取りをお聞きできた。 ジツコ・スセディックさんは宿業期を具体的に表示してくれたし、アンダー・ウッドさんは大脳開発法を具体的に表示してくれた。
哲学というと言葉からの抵抗があるが、知を愛するとか真理を訪ねるとか、それなら抵抗感は少ない。
哲学の二つの方向
A 形而上の理論が多い
  ソクラテス、カント、西田幾多郎「一即多」、佐藤裕
B 事実に基づく追及
  ピタゴラス、ニュートン、夏目漱石、立花隆
本当のことを求めたい、本当のことを愛したい、…… それが philosophyだ。
  philosophy… by「ワードパワー」 
  定義1 the study of ideas and beliefs about the meaning of life.
      人生の意義についての思想と信条の学問 ⇒哲学
  定義2 a set of beliefs that tries to explain the meaning of life
      or give rules about how to behave.
      人生の意義を説明しようとする、またはどのように振舞うか
      についての規則を与えようとする信条 ⇒人生観、主義、持論
こう考えてくると、立花隆さんは具象的に人生の在り方を述べる手段をとって、具体的な感銘を持ち掛けていたのです。 学問の方法論としては、トマ・ピケティの「21世紀の資本」も有無を言わさない力で持論を展開したとみていい。
彼は終戦時北京にいた。 当時2才前後ですから、宿業期の最中ということになる。 父は教師だったというから、それなりに知的素養があったはずだ。 母については今まで読んだところでは何もわからない。
wikipedia で見ると次の生い立ちが判るだけである
生い立ち
1940年、長崎県長崎市に生まれる。父は長崎の女学校教師で後に編集者を務め、母は羽仁もと子の信奉者で、クリスチャンの家庭。戦前の右翼思想家・橘孝三郎は、父のいとこに当たる。1942年(昭和17年)、父が文部省職員として北京の師範学校副校長となったため、一家で中国・北京(当時は中華民国)へ渡る。
1946年、引き揚げで日本へ戻り、一時母方の茨城郡那珂西に住み、のちに父の郷里茨城県水戸市に移る。茨城師範学校(茨城大学)附属小学校、中学校を経て、1956年(昭和31年)に水戸一高、さらに千葉県に移ったため東京都立上野高等学校への転入を経る。小学校時代から読書に熱中し、自らの読書遍歴を記した文章を残している[5]。また、中学時代は陸上競技にも熱中。俳優の梅宮辰夫・モータージャーナリストの徳大寺有恒は中学時代の先輩であり、3人とも陸上競技選手だった。
1959年(昭和34年)、東京大学文科二類へ入学。在学中は小説や詩を書き、イギリスで開かれた原水爆禁止世界会議に参加。卒業論文はフランスの哲学者メーヌ・ド・ビラン。
母は羽仁もと子の信奉者で、クリスチャンの家庭。 羽仁もと子は生活の近代化、合理化や教育そして婦人の生き方などについて積極的に発言したと説明にもあるから、隆の母は積極性に富んだ進歩的気風の女性であったと推量できます。
とすれば、立花隆は私の考える宿業時代には母から相当自分の意見を言う性分を養ったに違いない。 それは彼の生い立ちを見ていて腑に落ちる判断だと思う。
生まれはどの子も同じだったことを銘記すべきである。 宿業時代の環境いかんによって人はスタートを切っているのである。 それは心に極印として位置づけたいものなのです。

2021年6月24日 22時24分 NHK NEWS-WEB
香港「リンゴ日報」発行停止
   市民 “私たちには何もできない”
   習近平り政策 香港に言論の自由無し

中国に批判的な論調で知られる香港の新聞「リンゴ日報」は、香港国家安全維持法に違反したとして警察に資金が凍結されたことなどを受けて、24日の朝刊を最後に発行停止に追い込まれました。
新聞の販売店では、通勤途中の人などが次々と訪れて最後の朝刊を買い求める姿がみられ、言論の自由が大きく後退したという批判の声が聞かれました。
香港の新聞「リンゴ日報」は、香港国家安全維持法に違反した疑いで幹部の逮捕が相次いだうえ、警察に資金が凍結され、24日の朝刊を最後に新聞の発行を停止しました。
数百人の市民が集まり「ありがとう」
郊外にあるリンゴ日報の本社前には23日夜遅く、数百人の市民が集まり、建物内で最後の編集作業にあたる記者らに向けて「ありがとう」などと声援を送っていました。
一夜明けた24日朝、香港中心部にある新聞の販売店では、最後の朝刊を買い求めようと通勤途中の人などが次々に訪れていました。
このうち、子どものころから「リンゴ日報」を読んでいるという男性は「権力者があらゆるものを少しずつ消し去ろうとしている。でも私たちには何もできない」と怒りをあらわにしていました。
また、60代の男性は「リンゴ日報が新聞を出せなくなったことは、香港にとって悲しいことです。香港はもう変わってしまった。少しの反対意見も許されない」と話して、肩を落としていました。
リンゴ日報は、中国や香港の政府を厳しく批判してきたことで知られ、多くの市民に支持されてきただけに、香港の「言論の自由」が大きく後退したとして、批判の声が上がっています。
最後の紙面は
最後となった「リンゴ日報」の24日朝の朝刊には、一面の半分を使って「雨の中のつらい別れ」の見出しとともに、本社前に集まって声援を送る大勢の市民の写真が掲載されました。
このほか多くの紙面を割いて、かつてリンゴ日報を率いてきた幹部たちが思い出をつづった記事や、発行停止を残念がるもの、それに感謝の気持ちを表したものなど読者のコメントを紹介しています。
また、別冊では1995年の創刊号から24日の朝刊までの紙面を写真で振り返るとともに「香港人への別れの手紙」と題して、副社長が「読者や香港の皆さんがこの1週間、リンゴ日報を応援してくれたにもかかわらず、期待に応えられず申し訳ない」などと無念の思いを表しています。
最後の新聞を購入した人たち
香港中心部にある新聞の販売店では、通勤途中の人などが訪れ、24日の朝刊を最後に新聞の発行が停止された「リンゴ日報」を次々に買い求めていました。
このうち、子どものころから「リンゴ日報」を読んでいるという男性は「権力者があらゆるものを少しずつ消し去ろうとしている。でも私たちには何もできない」と怒りをあらわにしていました。
また、60代の男性は「リンゴ日報が新聞を出せなくなったことは、香港にとって悲しいことです。香港はもう変わってしまった。少しの反対意見も許されない」と話して、肩を落としていました。
新聞を2部買い求めた女性は「リンゴ日報にとって最後の新聞です。これはひとつの歴史なので、1部は読むために買いましたがもう1部はとっておきます」と話していました。
また、別の男性は「新聞にそれぞれの立場があるのは普通のことです。読者が自分たちが信じる事実を選べばいいはずなのに」と話し、当局の対応を批判しました。
ニュースサイトも停止「ここでお別れ」 「リンゴ日報」のニュースサイトは、現地時間24日の午前0時半すぎに、NHKが確認したところ、記事の閲覧ができなくなり、代わりに「購読者へのお知らせ」と題して文章のみが表示される画面になりました。
この中では、23日をもってニュースサイトやアプリが停止するなどとしたうえで「読者や購読者、広告主、そして香港の人たちの変わらぬご支援に感謝します。ここでお別れです。お元気で」というメッセージで締めくくられています。

「リンゴ日報」とは
「リンゴ日報」は香港がイギリスから中国に返還される2年前の1995年に黎智英氏が創刊した日刊の新聞です。
名前の由来は聖書に出てくるアダムとイブが食べた禁断の果実で、黎氏は「もしかじっていなければ世の中には物事の是非も罪悪も、もちろんニュースも存在しなかったからだ」と説明しています。
創刊当初から娯楽ニュースや犯罪報道に焦点を当て、センセーショナルな記事や大胆な見出しで知られるようになり、人気大衆紙としての地位を確立していきます。
そして徐々に政治のニュースも取り上げるようになり、中国政府に批判的な論調を展開しました。
民主派寄りの報道姿勢でも知られ、おととし6月に香港で行われた大規模な抗議活動についても民主派を支持する姿勢を明確に打ち出しました。
香港が中国に返還されて以降多くの香港メディアが中国本土の資本を受け入れるなどして、政府批判を控えるようになる中、香港の民主派などからは「言論の自由を守る最後のとりでだ」とも言われてきました。
一方、香港の警察はこうした報道姿勢を「偏っている」と繰り返し批判し、中国政府寄りの政党やメディアなどからも厳しい非難や攻撃を受けてきました。
先月には台湾で出していた新聞「台湾リンゴ日報」が発行停止に追い込まれていて、創業者の黎氏が香港国家安全維持法違反の罪に問われ、経営状況が厳しくなっていることなどが理由だとみられていました。

中国の反応は
「リンゴ日報」の発行停止について、中国外務省の趙立堅報道官は、24日の記者会見で「香港は法の下にある社会であり法の外にある楽園ではない。報道の自由は免罪符ではない。香港政府は必ず法律を守り、違反すれば調査し、厳格に法の執行を行う」と述べました。
また、中国共産党系のメディア「環球時報」の英語版は、中国の専門家の見方として「一部の外国のジャーナリストなどは嘆き、『時代の終わり』だと主張するが、まさに、中国の内政に干渉をする外国の代理人や香港独立の勢力らが、永遠に政治生命を絶つという『時代の終わり』だ」などと伝えています。
そして、来月1日に香港が中国に返還されて24年になることや、中国共産党創立から100年となることに触れたうえで「リンゴ日報の発行停止で香港の法治と一国二制度がよりよく実践されるようになり国全体の発展によりよく統合される新たな時代を迎える」などとしています。

台湾総統「香港の自由支える」
台湾の蔡英文総統は24日午後、フェイスブックに「とても残念だ」と記しました。
蔡総統はリンゴ日報を「香港の人たちにとって、単なる新聞にとどまらず、強権を恐れずに民主を渇望し自由を追求するための拠点だった」とたたえました。
そのうえで「私はいま一度、香港の人たちに言いたい。自由のある台湾は香港の自由を支え続けていく。そして、香港の人たちが心の奥底に持つ自由と民主への希望がいつの日か再び東洋の真珠を輝かせることを切に願っている」と結んでいます。
EU 中国政府を非難 EU=ヨーロッパ連合の報道官は声明を発表し「中国が強要した香港国家安全維持法がいかに報道と表現の自由を抑え込むために使われているかを明確に示すものだ」として中国政府を非難しました。
そのうえで、報道の自由の保障は香港返還の際のイギリスとの共同声明の中に含まれているとして国際的な約束を順守するよう改めて求めました。

「リンゴ日報」記者 無念さにじませる
「リンゴ日報」の記者は、市民に支持されながらも発行停止に追い込まれ創刊から26年の歴史に幕を閉じることについて、無念さをにじませました。
リンゴ日報の記者、謝馨怡(しゃ・けいい)さんは、地元のテレビ局からことし2月にリンゴ日報に転職したばかりでした。
リンゴ日報が発行停止に追い込まれたことについて、謝さんは「覚悟はあったが、実際のこととなって、重苦しい気持ちになった。いまでもその現実を受け入れられない」と話しました。
謝さんは「リンゴ日報」では、環境問題の取材を担当したあと、インターネットで運営されていた夜のニュース番組のアンカーに抜てきされましたが、番組は今月21日、配信が停止され、アンカーとしての役目はわずか2日で終わりました。
最後の番組の終わりに謝さんは、香港のメディアで働く記者たちを勇気づける言葉で締めくくりました。
その時の気持ちについて「リンゴ日報がなくなっても自分の立場を守って、真相を伝える仕事を守ってほしいと言いたかった」と振り返りました。
その上で「リンゴ日報は言論の自由を代表していると考える人が多いと思う。同僚たちと同じ価値観を共有して、最後まで闘ったことに後悔はない」と話しました。
また、今後については記者として活動する道を探していきたいとする一方、「リンゴ日報だけでなく、ほかのメディアも言論の弾圧を受ける可能性がある。新聞が伝えられるのは、たった1つの声になってしまうかもしれない」と話し、香港の「言論の自由」の行方には悲観的な見方を示しました。

ニューヨークで抗議活動
アメリカ・ニューヨークにある中国総領事館の前では抗議活動が行われ、集まった人たちはリンゴ日報の発行停止に抗議し、中国政府や香港政府に言論の自由を守るよう訴えました。
参加者たちは歩道にチョークでリンゴの絵を描き、その中に「言論の自由」と書き込んで、「自由な香港を」などと抗議の声を上げていました。
中国からアメリカに移住したという男性は「とても悲しいです。リンゴ日報は暗闇の中の明かりのような存在でしたが、消されてしまいました」と話していました。
また地元に住む女性は「リンゴ日報が中国政府によって発行停止に追い込まれたのは明らかです。自由や人権が脅かされています」と危機感を示していました。
そして、かつて香港に住んでいたという女性は「香港の民主主義のために声を上げ闘い続けます」と話していました。

専門家「香港の自由 大きく傷ついたと言わざるをえない」
香港の政治に詳しい立教大学の倉田徹教授はリンゴ日報について、香港の自由を象徴する新聞だったとしたうえで「政府批判の鋭い声が消えてしまうという大きなインパクトがあると思う」と述べました。
また、リンゴ日報は香港の人たちの心の声を代表する庶民のための新聞という位置づけもあったとしたうえで「香港の人にとっては心理的にも香港らしさが消えてしまうと受け止められている」という見方を示しました。
そして今後の香港の言論状況について倉田教授は「インターネットのニュースメディアの中にはかなり政府批判の論調をとるところもあるが、次はこうしたネットメディアにも今回のような攻撃が広がるのではないかという懸念が強まっている」と述べました。
一方、このタイミングで当局が締めつけを強めていることについては「来月1日は香港が中国に返還されて24年となるのと同時に、中国共産党の創立100年の大きなイベントが開催される予定で、中国政府はこの日までにリンゴ日報を発行停止に追い込みたかったのではないか」と分析しました。
また倉田教授は、今回、リンゴ日報の幹部が逮捕されたことについて「言論活動が逮捕の容疑とされている。今まではあまりなかったことで、言論の自由に対する大きな脅威だ。香港の自由も大きく傷ついたと言わざるをえない」と述べ、強い危機感を示しました。
そして倉田教授は、香港市民の中には当局のやり方に対するかなり多くの不満が存在しているとしたうえで「民意のガス抜きの手段としての言論の場がなくなることが、香港の政治的安定に本当に寄与するのかは疑問で長い目でみればより激しい抗議活動が発生する可能性もあるのではないか」と指摘しました。

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