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続折々の記 2022 ②
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【 08 】03/26
    生きる意味は何か   ブッダはたとえ話で教えている
    ウクライナ問題   人道主義の声
       ロシア、東部攻撃に集中 キエフ侵攻停滞、方針転換か
       (天声人語)札幌地裁の判決
       (日曜に想う)対立する国家、巻き込まれる信仰

 2022/03/26
生きる意味は何か    ブッダはたとえ話で教えている
   https://1kara.tulip-k.jp/naruhodo/2018063170.html

「時は金なり」と格言にあるように、時間は貴重な私たちの財産です。
1日24時間、平等に与えられた「」をどう使えば、人間に生まれた喜びを味わえるのでしょう。

誰もが知りたい、その答えを示された寓話が、ブッダの説かれた『仏説譬喩経(ぶっせつひゆきょう)』という経典に説かれています。
ロシアの世界的文豪・トルストイも称賛したという、その例え話をお話しします。

目次
  1 人生を真に大切に生きるには?
  2 「人間」とは何かを教えられた釈迦のご説法
  3 例え話に登場したものは何を表すのか
  4 まとめ
人生を真に大切に生きるには?

」とは、私に与えられた「時間」だといわれます。 人生を大切に生きる、とは、時間を大切にすること。 人生は有限であり、しかもその終末は、いつ来るか分からないからです。

この明白な事実を、ロシアのトルストイは、“どうして当初から理解できずにいたのだろう”と、著書で振り返りました。 しかもそれは彼自身のみならず、すべての人が理解できていないことだと述べています。

数々の名作を残し、世界の思想に多大な影響を及ぼした文豪がこう述べたのは、ブッダのある例え話の影響でした。 彼が自著『懺悔』に引用し、「これ以上、人間の姿を赤裸々に表した話はない。単なる作り話ではなく、誰でも納得のゆく真実だ」と絶賛している寓話を聞けば、トルストイが人生に驚きを発した理由が分かるでしょう。

「人間」とは何かを教えられた釈迦のご説法

それはある日、ブッダ・釈迦牟尼の法話会場に、勝光王という一人の王様が参詣したことから始まります。 初めて仏法を聞く勝光王に、ブッダはこう説かれました。

王よ、それは今から幾億年という昔のことである。ぼうぼうと草の生い茂った、果てしない広野を、しかも木枯らしの吹く寂しい秋の夕暮れに、独りトボトボと歩いていく旅人があった。 ふと旅人は、急ぐ薄暗い野道に、点々と散らばっている白い物を発見して立ち止まった。 一体何だろうと、1つの白い物を拾い上げて旅人は驚いた。なんとそれは、人間の白骨ではないか。 どうしてこんな所に、しかも多くの人間の白骨があるのだろうか、と不気味な不審を抱いて考え込んだ。 そんな旅人に、間もなく前方の闇の中から、異様なうなり声と足音が聞こえてきた。

闇を透かして見ると、彼方から飢えに狂った、見るからに獰猛な大虎が、こちら目掛けて、まっしぐらに突進してくるではないか。 旅人は、瞬時に白骨の散らばっている意味を知った。 自分と同じく、この広野を通った旅人たちが、あの虎に食われていったに違いない。 同時に旅人は自分もまた、同じ立場にいることを直感した。 驚き恐れた旅人は無我夢中で、今来た道を全速力で虎から逃げた。 しかし、所詮は虎に人間はかなわない。 やがて猛虎の吐く、恐ろしい鼻息を身近に感じて、もうだめだと旅人が思った時である。どう道を迷って走ってきたのか、道は断崖絶壁で行き詰まっていたのだ。 絶望に暮れた彼は、幸いにも断崖に生えていた木の元から1本の藤蔓が垂れ下がっているのを発見した。 旅人は、その藤蔓を伝ってズルズルズルーと下りたことは言うまでもない。

文字どおり、九死に一生を得た旅人が、ホッとするやいなや、せっかくの獲物を逃した猛虎は断崖に立ち、いかにも無念そうに、ほえ続けている。

「やれやれ、この藤蔓のおかげで助かった。まずは一安心」と足下を見た時である。 旅人は思わず口の中で「あっ」と叫んだ。 底の知れない深海の怒濤が絶えず絶壁を洗っているではないか。

それだけではなかった。 波間から3匹の大きな龍が、真っ赤な口を開け、自分の落ちるのを待ち受けているのを見たからである。 旅人は、あまりの恐ろしさに、再び藤蔓を握り締め身震いした。 しかし、やがて旅人は空腹を感じて周囲に食を探して眺め回した。

その時である。 旅人は、今までのどんな時よりも、最も恐ろしい光景を見たのである。

藤蔓の元に、白と黒のネズミが現れ、藤蔓を交互にかじりながら回っているではないか。 やがて確実に白か黒のネズミに、藤蔓は噛み切られることは必至である。 絶体絶命の旅人の顔は青ざめ、歯はガタガタと震えて止まらない。 だがそれも長くは続かなかった。

それは、この藤蔓の元に巣を作っていたミツバチが、甘い5つの蜜の滴りを彼の口に落としたからである。 旅人は、たちまち現実の恐怖を忘れて、陶然とハチミツに心を奪われてしまったのである。

ブッダがここまで語られると、勝光王は驚いて、「世尊、その話はもうおやめください」と叫びました。 「その旅人は何と愚かなのでしょう。 それほど危ない所にいながら、なぜ5滴の蜜くらいで、その恐ろしさを忘れられるのでしょうか。 旅人がこの先どうなるかと思うと、恐ろしくて聞いておれません」

「王よ、この旅人をそんなに愚かな人間だと思うか。 実はな、この旅人とは、そなたのことなのだ」

「えっ、どうしてこの旅人が私なのですか」

「いや、そなた1人のことではない。この世の、すべての人間が、この愚かな旅人なのだ」

その言葉に、聴衆は騒然となったのです。

例え話に登場したものは何を表すのか

トルストイが、“これ以上、人間の姿を赤裸々に表した話はない”と驚いた例え話。 これは何を表しているのでしょう。一つ一つ解説します。

「旅人」=すべての人間

旅人」とは私たち、すべての人間のことです。人生は旅によく似ています。 旅に出ると、同じ所に長くはとどまりません。

人生も、昨日から今日、今日から明日へと、時の流れを刻々と進んでいます。 旅の道中は晴れの日ばかりではなく、曇天もあれば、雨や風雪の日も。 台風に見舞われることもあるでしょう。 人生も、調子のいい時ばかりではありません。 上り坂もあれば、下り坂もある。 有頂天から「まさか」と急転直下、どん底に落ちる日もあるでしょう。 そんな順境、逆境の中、旅を続けていますが、私たちはどこへ向かって歩いているのでしょう。 旅の目的地は、一体どこでしょうか。

禅僧・一休は、「門松は 冥土の旅の 一里塚」と詠んでいます。 「冥土」とは「来世」のこと。 私たちは一日生きれば、一日死に近づきます。 泣いたり笑ったりしながら「生きる」とは、死への行進であり、「冥土への旅」です。 年始の門松は、冥土の旅の一里塚なのです。

冥土へ旅立つその時まで、私たちは何をなすために生きるのでしょう。 生きる目的を知らず、気晴らしに明け暮れて、死を待つだけの人生であってはなりませんね。 人生の目的を知り、その達成に向かって生きれば、時間を最大限に生かし、人生を輝かすことができます。 目的達成の暁には「生まれてきてよかった」という無上の生命の歓喜が獲られますから、「生きる意味」「人生の目的」を知ることは、幸福な人生の第一歩なのです。 その目的の大切さを、ブッダは一貫して教えられています。

「無人の広野」=人生の寂しさ

続いて、木枯らしの吹く秋の夕暮れに旅人は、果てしない無人の広野をひとりで歩いていた、とあります。 これは、人生の寂しさを例えたものです。

今年1月、イギリスで「孤独担当大臣」が新設されました。 900万人以上が孤独を感じているというイギリスでは、月に1度も友人や家族と会話をしない高齢者が20万人に上ります。 また、400万人以上の子供が孤独を訴えているともいわれます。 そんな孤独は心と体の健康をむしばみますから、問題解決のために設けられた役職なのでしょう。

日本でも「孤独死」が社会問題化しているように、内外を問わず、“孤独”は大きな問題です。 種々の対策を施せば、癒やされる孤独もあるでしょう。 しかし“一人じゃ孤独を感じられない”と歌った人もあるように、物質に囲まれ、肉親や友人に恵まれていても、“寂しい”と深く感ずる人があります。 社会的政策だけでは、どうにも埋められぬ心の空洞が、私たちにはあるのです。 その理由をブッダは、

独生独死 独去独来」(独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る)

と経典に説かれています。 「肉体の連れはあっても、魂の連れがないのだよ」と言われるのです。 大勢に囲まれていても寂しいのは、私の「」を分かってくれる人がいないから。 たとえ親兄弟、夫婦、親友でも、何一つ隠さずに、心中をさらけ出すことができるでしょうか。 心の奥底をよくよく見てみると、とても言葉にできないものを、誰もが抱えています。 その悩みや苦しみを、完全に理解してもらえたら、どれほど救われることでしょうか。 この孤独の根本的解決が、生きる意味といってもよいほどです。 しかし、現実に一人一人の本心は、他人がのぞき見ることはできません。 それどころか自分自身でも知りえない、秘密の蔵のような心があると、仏教では説かれています。 この、いかんともしがたい人生の寂寥を感ずることが、実は人生を意味あるものにするのだと、ブッダはこの例え話で説かれているのです。

「白骨」=他人の死

孤独な道中で旅人は、道に散らばる白骨を見て驚きました。 この「白骨」とは「他人の死」を表しています。 その驚きは、私たちが他人の死を見たり、聞いたりした時の衝撃を例えたもの。 事故、災害、殺人、テロ、自殺……。テレビや新聞で、人が死ぬニュースの流れない日はありません。

ドラマの名脇役・大杉漣さんが、ロケ先で突如亡くなったのは平成30年2月のこと。 時折聞こえる、こんな有名人の不幸の陰に、名も知らぬ人々の訃報は数が知れません。 そう考えると私たちも、この旅人と同じように、白骨の広野にポツネンと立っている、ということでしょう。

「飢えた猛虎」=自分の死

その死は、私自身にも迫っている。 「猛虎」と例えられたのは「無常(自分の死)」であり、執拗に追いかけてくるのは無常の嵐の吹き荒れていることを表します。 私たち一人一人の背後に、飢えた猛虎(死)が迫っているのは、否定できない事実です。

あるガン患者が闘病記に、「死は、突然にしかやって来ないといってもよい。いつ来ても、その当事者は、突然に来たとしか感じない」と記しています。 また「きれいにそうじをした座敷に、土足のままで、ズカズカと乗り込んでくる無法者のようなものである」とも言っています。 トルストイが驚いたのは、この無法者のような自己の死の影でした。

「藤蔓」=寿命 「白・黒のネズミ」=昼と夜

猛虎に追われた旅人は、藤蔓につかまって断崖にぶら下がります。 「藤蔓」は、人間の寿命を表します。 その寿命の藤蔓をかじる「白と黒のネズミ」は「昼と夜」を例えています。 2匹のネズミが交互に藤蔓をかじる、とは、昼と夜が循環しながら、命を削っている有り様です。 白黒、いずれかのネズミに、やがて命の蔓が噛み切られる時が来る。 その命の短さを、釈迦が修行者たちに尋ねられた、こんな逸話があります。

修行者の1人は、「命の長さは5、6日間でございます」と答え、次の1人は、「命の長さは5、6日もありません。食事をする間くらいのものでございます」 3人目は、「いやいや命の長さは一息つく間しかありません。吸った息が出なかったら、それでおしまいです

釈迦は、最後の答えを大いに称賛し、「そうだ、そなたの言うとおり、命の長さは吸った息が出るのを待たぬほどの長さでしかないのだ。命の短さがだんだんに身にしみて感じられるようになるほど、人間は人間らしい生活を営むようになるのだ」と教えられた。

やがて必ず白か黒のネズミに噛み切られる細い命の藤蔓。 普段私たちは、この蔓を鋼鉄のワイヤか何かと思い込み、いつまでも生きていられるように錯覚していないでしょうか。 しかし本当は、今にも切れそうな、「ほそ~い蔓」なのです。 そしてこの「短い命」の自覚こそが、人生を真に輝かせるのだと、ブッダは言われます。

「3匹の龍」=欲・怒り・愚痴

藤蔓にすがる旅人の足下には、3匹の恐ろしい毒龍と底知れぬ深海が待ち受けています。 「3匹の龍」とは、欲、怒り、愚痴の煩悩を例えています。 青い龍は、底の知れない欲の心。 金が欲しい、物が欲しい、褒められたい、認められたい、もっともっとと求める心です。 その際限のない欲望を、深海の青で表しています。

欲が妨げられると、出てくるのが怒りです。 炎のように赤い龍で、「あいつのせいで儲け損なった」「こいつのせいで恥をかかされた」と燃え上がる腹立ちの心です。

怒っても、とてもかなわぬ相手と知ると、ネタミ、ソネミ、ウラミの心が起きてきます。 相手の才能や美貌、金や財産、名誉や地位を妬み、そねみ、他人の不幸を喜ぶ醜い心。 災難で苦しんでいる人に「お気の毒に」と言いながら、心ではニヤリとする、恐ろしい心でもあります。

「深海」=来世ゆく所

これらの煩悩で悪を造り続けながら、それでもヒシと握り締めている藤蔓が切れると同時に、旅人は底の知れない深海へ落ちていきます。 人は、死ねばどうなるのか。

まいたタネは必ず生えます。 遅かれ早かれ、必ずぶち当たる未来です。 昨今は「終活ブーム」で、「死の準備が大切だ」とか「死生観を学ぼう」とよく言われますが、そう聞くと、遺産などの身辺整理や墓の準備、死に方を考える人が多いようです。

これは「死」の地点に立ってはいますが、自身の未来後生に背を向け、来し方を眺めているにすぎません。 例えばそれは、電車から降りる時、誰に席を譲ろうかとキョロキョロして気をもんでいるようなもの。 電車に執着して、座っていた席に未練を残しているのです。 降車の迫っている人にとって重大なのは、席は前に立っている人にあっさり譲って、「降りた先」を考えること。 仏教で「死に備える」とは、「死ねばどうなるか」の来世を考えることなのです。

「5滴のハチミツ」=5つの楽しみ

ところが、こんな危ない所にいながら、旅人がうつつを抜かすのは、5滴のハチミツのことばかり。 これは、人間の五欲、5つの楽しみです。

食べたい、飲みたいという飲食の楽しみ。金や財産を追い求め、貯める楽しみ。 男女の愛欲の楽しみ。誰からでも褒めてもらいたい、称賛される楽しみ。楽して寝ておりたい楽しみ。 この5つの楽しみ求めて、限りある命で限りない欲を満たそうと、私たちは、懸命に生きています。 旅人は、これら5つのハチミツをなめながら、陶然と深海に落ちていく。 危機的状況にありながら、目先の欲に無我夢中の相こそが一大事だ、とブッダは、この例え話で教えられているのです。

まとめ

そんな私たちが、生きている今、絶対の幸福になれる法(真理)を説かれたのがブッダの教え、仏教です。 人生は有限です。当たり前のことなのですが、誰もが実は目を背けています。

限られた時間の価値に気づいた人は、本当の幸福になれる法を探し求めるでしょう。 その法を、よくよく聞かせていただくことこそが、人生を真の幸福に生きる道なのだとブッダは教示されているのです。

 2022/03/27
ウクライナ問題    人道主義の声

ウクライナ紛争は終わりに近づいている。 アメリカ主導体制のG7の不法性と並び、ロシアの政治体制の弱体化、それに国連所属の全体の意向、この三つが浮き彫りになってきた。

世界はどこを目指すのか。 米国単独の動きには世界中が辟易している。 G7の首脳の政治家も米国追従に嫌気をきたしている。 それに引き換え、世界中の一人一人は反戦感情一色になり始めている。 政治の動きを見ていると、こんな風に私は感ずるのです。

新聞紙上には‘人道’の言葉が使われるようになった。 どんな主義主張が大筋になりうるのだろうか? 私はいのちを中核とした言葉を日本はまとめていくことがいいと思っています。 一つは日本文化の特殊性ともいわれる日本人の自然感覚、処世感情、融和性などをもとにした互助互恵の平和がいいと思っているし、無知と偏見をなくしていく育児養育をだいじにした今の憲法理念を具現した言葉がいいと思っている。

今朝の新聞を拾い読みしてもいい。

その一 ロシア、東部攻撃に集中 キエフ侵攻停滞、方針転換か
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S15247283.html?ref=pcviewer

 ロシア国防省は25日、ウクライナへの侵攻開始から1カ月を総括する記者会見を開いた。ロシア軍参謀本部のルツコイ作戦本部長は「作戦の第1段階の課題は達成された」と述べ、今後はウクライナ東部での作戦に集中する意向を示した。首都キエフの侵攻作戦が停滞するなか、方針を転換し、東部の支配確立に焦点を移す可能性もある。▼2面=真意は、7面=愛国と離反、33面=反戦歌に思う

▼2面=東部に注力、真意は 「地方占領、落としどころに」「軍の失敗、美化」

▼7面=ロシアに漂う、愛国と離反と 統制を強化、隠せぬきしみ

▼33面=村上RADIOの反戦歌、思いはせ 「戦争をやめさせなくちゃ」という気持ちに

その二 (天声人語)札幌地裁の判決

 デモの列に加わるときに思うのは、ここがもしロシアやミャンマーのような国だったら、ということだ。今のロシアなら、たった1枚のプラカードを掲げただけで逮捕され、刑を科されるかもしれない
▼軍政下のミャンマーでは、たったひとこと声を上げただけで銃を向けられるか。見えない猿ぐつわが、まちの中にある。日本をそんな状態に近づけてはならない。一昨日の札幌地裁の判決が、強く警告しているように思えた
▼3年前、札幌で街頭演説をしていた当時の首相、安倍晋三氏に「安倍辞めろ」「増税反対」などのヤジを飛ばした男女が警察官に排除された。この2人が裁判を起こし、「憲法で保障される表現の自由が侵害された」との判決が出た
▼目を引くのが、警察による排除を「表現行為の内容が街頭演説の場にそぐわないと判断し、表現行為そのものを制限しようとした」と認めたことだ。首相や政府を批判する内容ゆえに口を封じたのなら、ロシア流、ミャンマー流の弾圧を水で薄めただけである
▼原告が憲法判断を求め、裁判所が正面から向き合った。当然のように思えるが、紙面にある識者談話によると「かなり踏み込んだ判断」だったらしい。憲法を避けて判決を書くことも可能だったからだ。司法が大きな役割を果たした
▼どんな制度でも担うのは人である。裁判官たち、あるいは現場で責任を持つ警察官たちが職務としてなすべきことを自分で考える。本来ならロシアやミャンマーでも同じはずなのだが。

その三 (日曜に想う)対立する国家、巻き込まれる信仰
   論説委員・郷富佐子
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S15247306.html?ref=pcviewer

 キリスト教では春を迎えるこの時期、最も重要な復活祭を祝う。その準備期間に入って間もない今月9日、ロシア正教会の最高指導者であるキリル総主教が、モスクワの大聖堂で説教をした。

 「ロシアとウクライナは同じ信仰と聖人、希望と祈りを持つ一つの民族だ。しかし、人類の敵は私たちの民族関係にウソを投げ込み、紛争へ発展させる」

 「国家は、武力を行使する法的権利を持つ。法に反する国民を従わせ、他国を脅威とみなせば強制的に排除する」

 「悪魔がいるところには必ずウソがあり、いまは対立を深めるためのウソが蔓延(まんえん)している。強い、非常に強い国になったロシアを弱体化させようと友愛の民を利用するとは、なんと卑劣なことか」

 ロシアによるウクライナ侵攻のさなか、この説教は世界中のキリスト教関係者を驚かせた。プーチン大統領とキリル総主教は、ここまで一心同体なのかと。

 確かにプーチン氏は、ロシア正教会を国民統合の象徴として利用してきた。政治と宗教のトップに立つ2人が非常に近い関係なのは、知られた事実でもある。だが、さすがに今回は、ロシア正教会内でも抗議署名などの動きが出ている。

 カトリック教会はどう受け止めたのかと、ローマ教皇庁(バチカン)の神父に聞いた。「あの説教では、侵攻に宗教的なお墨付きを与えたも同然だ。反戦・対話の基本は宗派を問わないはずなのに」と落胆した様子で、こうも付け加えた。

 「ロシア正教会はこの数年、内外で分裂の危機にある。キリル総主教は、プーチンと心中する覚悟なのだろうか」
     *
 西のローマ帝国と東のコンスタンチノープル(現イスタンブール)を中心に広がったキリスト教は、教理をめぐる論争などから11世紀に完全に分裂した。西はローマ教皇を頂点とするローマ・カトリック教会に、東は「1民族(国家)1教会」を原則とする東方正教会になった。

 ウクライナにはいま、主に三つのキリスト教会が存在する。二つは東方正教会で、国民の7割前後を占める。三つめは少数派でウクライナ・カトリック教会と呼ばれ、信者の多くはポーランド側の西部に住む。正教会の儀式を守りつつ、ローマ教皇の管轄下にある。

 ウクライナの正教会は3年前、大きな転換期を迎えた。もともとロシア正教会の管轄下にあったが、ウクライナが独立すると正教会も独立させようとする動きが広がった。ロシア側は猛反対したが、東方正教会で最も権威が高いとされるコンスタンチノープル全地総主教が2019年、ウクライナ正教会の独立を承認した。以来、ロシアとコンスタンチノープルの両総主教座は断絶関係にある。

 信仰が政治に巻き込まれて大変なのは、ロシア派かウクライナ派かの選択を迫られた一般の正教会信者だ。進んでロシア派を離れた人も多いが、ユダヤ系で世俗的なゼレンスキー大統領が就任する前は、かなり手荒にウクライナ派への「転向」を迫られた例もあったという。
     *
 同じキリスト教として、バチカンにできることはないのか。あるイタリア人神父は「ロシア側がフランシスコ教皇の仲介を受ける可能性は低い」と話す。

 別の地元神父はこう漏らした。「歴史に『もしも』はないし、時代も違う。でもカトリック国のポーランドへ避難する人々をみていると、ヨハネ・パウロ2世が存命だったらと考えることはある」

 17年前に亡くなったローマ教皇のヨハネ・パウロ2世はポーランド人で、東西冷戦の終結をはじめ外交・平和問題で影響力を発揮した。スラブ人意識が強く、ウクライナにも特別な思いがあった。

 冷戦終結の直前にソ連のゴルバチョフ書記長とバチカンで初会談をした際は、弾圧下にあるウクライナ・カトリック教会を合法とするよう繰り返し求め、法的承認の約束を取り付けた。当時、ゴルバチョフ氏は妻に教皇をこう紹介したという。「ライサ、この方が世界至上の道徳の権威だ。我々と同じスラブ人だ」

 かつての歴史的な和解と、いま目の前で続く戦争。民族とは、宗教とは何なのか。考えずにはいられない春である。