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折々の記 2009 I

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】11/08〜        【 02 】11/14〜        【 03 】11/15〜
【 04 】11/21〜        【 05 】11/26〜        【 06 】12/01〜
【 07 】12/03〜        【 08 】12/13〜        【 09 】12/17〜


【 1 】11/08

  11/08 スペシャルドラマ坂の上の雲
  11 10 大河ドラマ「龍馬伝」
  11 12 びわの葉・種療法
  11 14 オバマ大統領の訪日

 11 08 (日) スペシャルドラマ坂の上の雲

11 29 からスペシャルドラマ司馬遼太郎原作の『坂の上の雲』が始まります。 そこで、関連することをパソコンで調べておきます。

司馬遼太郎という人はどんな人でしょうか。 つぎのサイトを開いて参考にしましょう。


  司馬遼太郎 - Wikipedia

  司馬遼太郎記念館

  司馬遼太郎記念館 - Wikipedia

  司馬遼太郎記念館

  司馬遼太郎の名言

  司馬 遼太郎の名言

  二十一世紀を生きる君たちへ   司馬遼太郎 生きる言葉 :名言・格言・思想・心理

  名言集

  坂の上の雲 - Wikipedia

  NHK 松山放送局|スペシャルドラマ 坂の上の雲

    第1部あらすじ/NHK 松山放送局|スペシャルドラマ 坂の上の雲 11/29(日)から年末 各回 8:00から90分

    第2部あらすじ/NHK 松山放送局|スペシャルドラマ 坂の上の雲 2010秋放送予定

    第3部あらすじ/NHK 松山放送局|スペシャルドラマ 坂の上の雲 2011秋放送予定

  秋山好古 - Wikipedia

  明教館 - Wikipedia

  秋山真之 - Wikipedia

  正岡子規 - Wikipedia

  兒玉源太カ - Wikipedia

  東郷平八郎 - Wikipedia

  乃木希典 - Wikipedia


大阪出身の司馬遼太郎、実名・福田 定一さんは、老生より五才年上になります。 すでに1996年、数え年、74才で亡くなっています。 

明治維新に携わった人々は勿論ですが、司馬遼太郎が扱った人々はともに漢学や儒教の教えをたぶんに受けていました。 それらに視点を集中して見ることが、司馬遼太郎の目指したものに一致するはずです。

明治をしょって立っていた人たちは、幼少の頃の教育環境が現代とは雲泥の違いがあることを認識しなければなりません。 そして、私たちは将来を担ってくれる人たちをどう育てるべきか提言しなくてはなりません。

大河ドラマ「坂の上の雲」を見るにあたって、老生の願いはそこの一点にあります。

坂の上の雲について

【松山城】

   司馬遼太郎の代表的長編歴史小説を原作として、
   今年から3年にわたってスペシャルドラマを放送。


「坂の上の雲」は、司馬遼太郎が10年の歳月をかけ、明治という時代に立ち向かった同じ四国・松山出身の秋山真之・好古兄弟と正岡子規たちの青春群像を渾身(こんしん)の力で書き上げた壮大な物語です。発行部数は2,000万部を超え、多くの日本人の心を動かした司馬遼太郎の代表作でもあります。

国民的文学ともいえるこの作品の映像化がNHKに許されたのを機に、近代国家の第一歩を記した明治という時代のエネルギーと苦悩をこれまでにないスケールのドラマとして描き、現代の日本人に勇気と示唆を与える作品になることを願っています。

   新たな価値観の創造に苦悩・奮闘した
   明治という時代の精神が生き生きと描かれています。


21世紀を迎えた今、世界はグローバル化の波に洗われながら国家や民族のあり方をめぐって混迷を深めています。その中で日本は、社会構造の変化や価値観の分裂に直面し進むべき道が見えない状況が続いているのではないでしょうか。

「坂の上の雲」は、国民ひとりひとりが少年のような希望をもって国の近代化に取り組み、そして存亡をかけて日露戦争を戦った「少年の国・明治」の物語です。そこには、今の日本と同じように新たな価値観の創造に苦悩・奮闘した明治という時代の精神が生き生きと描かれています。

この作品に込められたメッセージは、日本がこれから向かうべき道を考える上で大きなヒントを与えてくれるに違いありません。

【原作】司馬遼太郎「坂の上の雲」
【脚本】野沢 尚・柴田岳志(第1部演出)・佐藤幹夫(第2部演出)

司馬遼太郎(しば りょうたろう)
1923年、大阪府生まれ。大阪外語学校卒業。「梟の城」で直木賞、「竜馬がゆく」「国盗り物語」で菊池寛賞を受賞。
93年文化勲章。96年没。
※司馬遼太郎さんの「遼」のつくりが環境によって正しく表示できないため、文中では「遼」を使用しています。

 11 10 (火) 大河ドラマ「龍馬伝」

今年の「天地人」につづいて「龍馬伝」が1月からはじまります。

幕末に活躍した龍馬は一体なにを考えて生きてきたのでしょうか?

Wikipediaを開くと詳しく紹介されています。 概略すべてがわかるような気がします。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC
坂本龍馬 - Wikipedia

   目次
      01 生涯
      02 暗殺
      03 死後の評判
      04 その他
      05 逸話
      06 同時代の龍馬評 
      07 家系・家族
      08 記念館、顕彰施設
      09 文献
        9. 1 原典
        9. 2 龍馬を研究する上で参考になる主な文献(書籍編)
        9. 3 龍馬を研究する上で参考になる主な文献(論文編)
        9. 4 龍馬に関する創作物
            9.4. 1 小説
            9.4. 2 漫画
            9.4. 3 映画
            9.4. 4 TVドラマ
            9.4. 5 舞台
      10 高知龍馬空港
      11 関連人物
      12 注釈
      13 関連項目
      14 外部リンク


上記中 01生涯、 02暗殺、 03死後の評判、を次に載せます。

坂本龍馬

    生年: 1836年1月3日
    生地: 土佐
    没年: 1867年12月10日
    没地: 京都
    活動: 倒幕
    藩: 土佐藩脱藩
    所属: 海援隊
    廟: 京都霊山護国神社(霊山墓地) 靖国神社

坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年12月10日)は、日本の武士(土佐藩郷士)、政治家、実業家。土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。贈官位、正四位。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公とされて以来、国民的人気を誇っている。また、その事跡についてはさまざまな論議がある。

諱は直陰(なおかげ)のち直柔(なおなり)。龍馬[1]は通称。他に才谷梅太郎などの変名がある。

むしろ生前より死後に有名になった人物であり、司馬遼太郎の作品を始め、小説やドラマに度々取り上げられる人物ではあるが、それらは実際の龍馬とかけ離れているのではないかという指摘は多い。歴史家の中に、特にそのような指摘をする人は多く、松浦玲などが代表格[2]。ちなみに、龍馬の伝記を書いた歴史家としては、平尾道雄・池田敬正・飛鳥井雅道などが代表的[3]。その他、詳しくは「文献」の項目を参照のこと。

生涯

・ 天保6年(1836年)、1月3日、現在の高知県高知市上町(土佐国)に生まれた。
・ 嘉永3年(1846年)、母・幸死す。
・ 12歳の時、小高坂の楠山塾で学ぶが退塾。14歳で高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。 ・ 嘉永6年(1853年)、剣術修行のため江戸(東京都)に出て、北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉の桶町千葉道場(通称:小千葉道場)(東京都千代田区)に入門した。12月には佐久間象山の私塾にも通っている。
・ 安政元年(1854年)に土佐に帰郷。画家の川田小龍から西洋事情を学ぶ。
・ 安政2年(1855年)、父・八平が死去。
・ 安政3年(1856年)、再び江戸・小千葉道場に遊学。
・ 安政4年(1857年)、盗みを働き切腹沙汰となった仲間の山本琢磨を逃がす。
・ 安政5年(1858年)、剣術修行を終えて帰国。北辰一刀流免許皆伝[4]。
・ 文久元年(1861年)、3月、土佐で井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる[5]。半年後、下士は武市瑞山をリーダーに土佐勤王党を結成し、龍馬は9番目に加盟した(土佐では加盟第1号)。10月、武市の密使として長州へ向かい、翌年1月、萩で久坂玄瑞と面談。2月末に帰国。
・ 萩からの帰国後、1ヶ月もたっていない文久2年(1862年)3月に沢村惣之丞とともに脱藩した[6]。その直後に勤王党による吉田東洋の暗殺事件が起り、当初は龍馬が実行犯として疑われた。龍馬は九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる[7]。その後、千葉重太郎の紹介で、幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。春嶽の紹介状を携え、12月、勝海舟に面会して弟子となる[8]。
・ 文久3年(1863年)、勝が進める神戸海軍操練所の設立に尽力し、操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめる[9]。勝・松平春嶽の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許される。この頃、龍馬は勝の護衛に勤王党の人斬り・岡田以蔵をつけている。八月十八日の政変で京から尊攘派が駆逐され、土佐勤王党も藩によって壊滅状態となる。藩の弾圧は江戸の龍馬にも伸び、龍馬は再脱藩する。
・ 元治元年(1864年)、神戸海軍操練所が創設された[10]。龍馬はこの頃、弾圧が激しさを増していた京の尊攘過激派を救うべく蝦夷地への移住計画を開始するが、池田屋事件によって頓挫した。池田屋事件への報復である禁門の変で、長州側に多数の海軍塾生が加わっていたため、海軍塾は幕府から弾圧され、勝も解任された。勝の庇護を失った龍馬であるが、勝の紹介で西郷吉之助(西郷隆盛)を頼って大阪の薩摩藩邸に保護される[11]。
・ 慶応元年(1865年)、京の薩摩藩邸に移った龍馬の元に中岡慎太郎らが訪問。この頃から中岡と共に薩長同盟への運動を開始する。薩摩藩の援助により、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行った。
・ 龍馬は、長崎のグラバー商会(イギリス武器商会のジャーディン・マセソン商会の直系)と関係が深く信用を得ていたが、8月、薩摩藩名義で香港のジャーディン・マセソン商会の信用状により長崎のグラバー商会から買い付けた銃器弾薬を長州藩に転売することに成功した。この年、「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な大久保利通の書簡を、長州藩重役に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷に任されている[12]。
・ 慶応2年(1866年)、1月、坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれた。このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書を行っている。天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、彼がいかに信を得ていたかがわかる[13]。裏書を行う直前に寺田屋で幕吏に襲撃されたが、一命を取り留める。その傷を癒すため、妻おりょうと共に鹿児島を旅行する。6月、第二次長州征伐では亀山社中の船・ユニオン号(グラバー商会から薩摩藩名義で買い入れ「桜島丸」となり、長州藩に引き渡され「乙丑丸」となる)で長州藩海軍を支援。
・ 慶応3年(1867年)、土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。4月、いろは丸沈没事件がおこり御三家紀州藩に損害を賠償させる。後藤象二郎とともに船中八策を策定し、後藤象二郎が山内容堂を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させた[14]。12月、京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺された。旧暦の誕生日と命日は同じ。暗殺犯は京都見廻組という説が有力である。
・ 明治4年(1871年)、8月20日に龍馬の系統が途絶えるのを防ごうと、綸旨により姉千鶴の長男高松太郎が「坂本直」として龍馬の名跡を継いだ。
・ 墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社参道中腹。なお、靖国神社に祀られている。

暗殺

龍馬は慶応3年11月15日(1867年12月10日)の暗殺当日には風邪を引いて河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいたとされる。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問されている。中岡はそのまま龍馬と話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人に切られた。龍馬達は近江屋の人間が入ってきたものと油断しており、帯刀していなかった。龍馬はまず額を深く斬られ、奮戦するもののそれが原因ですぐに死亡。中岡も重傷を負うが、数日間は生存して意識もあり、事件の証言を残した。

死後の評判

前述の通り、坂本龍馬は生前よりも死後に有名になった人物である。

その最初は明治16年(1883年)、高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」が掲載され、大評判となった事である。

次に龍馬ブームが起きるのは日露戦争時である。日本海海戦の直前に、龍馬が皇后の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」と語ったという話である。皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣の田中光顕が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになったと言われる。真偽のほどは定かではないが、この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まる事となる。



NHK「龍馬伝」のサイトはこれからも利用することになります。

     NHK「龍馬伝」
        http://www3.nhk.or.jp/drama/html_news_ryouma.html
        2010年の大河ドラマは坂本龍馬の生涯を描きます
        トップページは‘t 大河ドラマ「龍馬伝」’として「テキスト文書」へファイル保存する

  まだ詳しい予定計画は出ていない。

 11 12 (木) びわの葉・種療法

家内の勧めで「びわの葉の薬効」を調べてみました。

次のデータは 【びわの効能】 【一汁三菜こそ長寿食】 【雑学 食のQ&A】 などが載っている 『サプリメントハウス』 というサイトに出ているものです。

     http://www.white-family.or.jp/healthy-island/htm/sapuriment/repo170.htm
     びわの効能
       「びわの種焼酎漬け」の作り方が具体的に紹介してあります。

     http://www.white-family.or.jp/healthy-island/htm/sapuriment/go-sapuri.htm
     サプリメントハウス
       豊富なデータが載っています。 常時開いてみたいデータ集です。 
         たとえば「一汁三菜こそ長寿食」を開いてもとても参考になります。


     http://www.korinbook.com/main/oshiete2.html
     過去の質問&回答集
       ためになる雑学のページ  食のQ&A(過去に掲載された質問&回答)
        参考になるので、テキスト文書としてファイルしました。


上記の三つは 枇杷の種 を使った食品です。 次のものは 枇杷の葉 を使った飲み物とエキスです。

     http://homepage3.nifty.com/kenkoucha/biwa-kenkoucha.html
     ビワ茶【びわ茶】作り方、効能、効果などの情報
       葉の成分が詳しい。

     http://biwacha.jugem.jp/
     びわの葉エキスを作る!
       ブログだが、具体的で参考になる。

     http://homepage2.nifty.com/biwa-fukyukai/
     ビワと健康 (ビワの葉温熱療法普及会)
       「ひざ痛が短期改善」と「ビワの葉茶」が取りあげられている。

     http://www.h2.dion.ne.jp/~biwa-ha/
     体によく効くびわの葉パワー
       細かくて詳しい。 参考になる。

 11 14 (土) オバマ大統領の訪日

昨日はオバマアメリカ大統領の訪日ニュースで終始していました。 今朝の朝日新聞社説を見ると、冷静な見方をしています。

いたずらに自民党が心配するような、アメリカの意向を気にする必要はありません。


朝日新聞社説 2009年11月14日(土)

   日米首脳会談―新しい同盟像描く起点に

 ニューヨークでの初顔合わせから2カ月。鳩山由紀夫首相とオバマ米大統領が初の本格会談を行った。

 ともに国民の支持を得て政権交代を果たしたが、今は選挙公約と現実との落差に苦悩する似たような政治的立場にある。

 大統領は、医療保険制度の改革で議会説得のまっただ中。「テロとの戦い」の主舞台と位置づけたアフガニスタンは泥沼化しつつある。

 首相は「コンクリートから人へ」の予算の組み替えの真っ最中。総選挙で訴えた沖縄・普天間飛行場の県外、国外への移設の問題で苦境に立つ。

 そんな両首脳にとって、今回の会談は失敗が許されないものだった。そのために幅広い領域での合意を成果として強調したが、日米関係をきしませている普天間問題は先送りした。

 だが、そのことはこの会談の意義を損なうものではない。

 さまざまな分野で協力を強化する日米同盟の「深化」。半世紀に及んだ自民党政権にとってかわった鳩山民主党政権にとって、日本の安全保障と外交の基本を米国との同盟に置くこと、地球規模の課題でも信頼できる同盟パートナーであり続けること、の2点を米大統領と確認しあった意味は大きい。

 中国の経済的、軍事的台頭が著しいこの地域にあって、日米が同盟を基礎に連携し、結び合うことは双方の国益にかなう。地域の安定を保ち、繁栄を続けるためにもそれが欠かせない。両首脳が語り合った同盟強化の根底には、そんな共通理解があるはずだ。

 中国自身も地域の安定は望むところだ。来週、中国を訪れる大統領には、良好な日米関係を基盤としつつ、中国とどのように連携していくか、大きな構図で語ってもらいたいと思う。

 首脳会談では、地球温暖化対策や「核なき世界」への取り組みなどで一致してあたることを合意した。

 鳩山首相が選挙で訴えてきたテーマでもある。従来の、安保と経済に偏りがちだった日米協力が新しい次元に入るということだろう。日本の有権者は歓迎するに違いない。21世紀の同盟のあり方を描き出す起点としたい。

 同盟とは、互いの国民が納得感を持ち、信頼しあえるものでなければならない。その点で、普天間をめぐる合意を検証するため閣僚級の作業グループができたことには意味がある。3年前に合意された辺野古移設以外の選択肢がありえないのかどうか、日本の新しい民意を背景に協議できることになったからだ。

 首相は普天間問題の難しさについて、大統領に直接、説明した。一方で、できるだけ早く結論を出す考えも伝えた。同盟の根幹にかかわる問題だという認識に立って、首相にはその言葉通りの取り組みを求めたい。

   ムダ根絶―もっと使える検査院に

 2364億円。自公政権が年間の社会保障費の抑制目標とした2200億円を上回る金額である。それだけの税の無駄遣いと不適切な経理処理のあったことが、会計検査院の昨年度検査で明らかにされた。史上最高の規模だ。

 これとても検査院が検査した範囲で判明した分であり、氷山の一角にすぎまい。全体の実態はさらに深刻とみたほうがいい。

 あまった予算を、物品などを発注したことにして業者にプールする「預け」という手口は、省庁や自治体、関連団体で横行していた。事業の役割が終わっているにもかかわらず、事業費を国庫に返さずにため込む「埋蔵金」もあちこちで発掘された。

 受注業者の選定にあたって競争入札をせずに、天下り先の業者と随意契約してコスト削減を怠っていた事例も相変わらず多い。

 財政が危機的状態にあり、国民が不況にあえぐ中でも続く役所の節操のない無駄遣い。納税者はもっと怒っていいのではないか。

 税金の無駄や非効率を改めることは、鳩山政権の最大の公約だ。それに沿って、予算の無駄を洗い出す行政刷新会議の事業仕分けが始まっている。

 たとえば難航しているGXロケットの開発などのように、行政刷新会議で取り上げられた事業の多くは、検査院も非効率だと指摘したものだ。

 この二つのシステムを無駄撲滅の両輪と考えたい。検査結果をフィードバックすることによって、より効果的な予算の査定もできるのではないか。

 そのためには検査院の機能や権限、態勢などを思い切って強化すべきだ。

 検査院がこれまでに指摘した不正経理のうち、改善されていないものが481件、131億円分もあった。

 このようなケースでは、検査院に改善を命じる権限を与え、不正経理については罰則を設けることも検討していいのではないか。組織的な不正行為を内部告発した職員については、本人の処分を免除したり、軽減したりすることも考えたい。

 約1300人の職員態勢も増強するべきだろう。公金の不正支出問題を追及してきた弁護士や検事、公認会計士など、外部の人材も積極的に登用していくことだ。

 会計検査院は憲法で設置が定められ、政治的に中立な立場を貫くために内閣から独立した機関となっている。

 独立性はなによりの武器だ。ところが、検査の対象となる独立行政法人などへの天下りが絶えないのはどうしたことか。やめるべきである。

 政権交代前の参議院には、当時の与野党がそれぞれ検査院の強化法案を提出したが、いずれも廃案となった。政府と国会は、あらためて必要な法制化に取り組んでほしい。