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折々の記 2009 I

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】11/08〜        【 02 】11/14〜        【 03 】11/15〜
【 04 】11/21〜        【 05 】11/26〜        【 06 】12/01〜
【 07 】12/03〜        【 08 】12/13〜        【 09 】12/17〜


【 7 】12/03

  12 03 12 03 は優の誕生日だ !!
  12 05 友美の沖縄旅行 ■社説…絆が大事
  12 12 素心

 12 03 (木) 12 03 は優の誕生日だ !!

ワン …… ツゥー …… スリー …… 師走の One Two Three は優の誕生日だ !! 

いよいよ満 14 才です。 四月からは中学三年生です !! 

数えの十六歳から、人は理知的に能力が加わって もの凄く記憶量が増大する年齢になります。

先ず第一に、学問がいかに大事かを ヨォーク 考えなければなりません。 それには福沢諭吉が明治五年に書いた「学問のすすめ」を読み取ることが一番よい方法でしょう。 

   1872年(明治5年2月)初編出版。以降、1876年(明治9年11月25日)十七編出版を以って一応の完成をみた。
   その後1880年(明治13年)に「合本學問之勸序」という前書きを加え、一冊の本に合本された。その前書きに
   よると初出版以来8年間で合計約70万冊が売れたとの事である。

   最終的には300万部以上売れたとされ、当時の日本の人口が3000万人程であったから実に10人に1人が読ん
   だことになる。現在のような大規模な流通販路の確保や広告宣伝が難しかった時代においては驚異的ベスト
   セラーであったと言える。

これは「学問のすすめ」を検索したウィキペディアの‘沿革’に解説してある文章です。 明治初年当時を考えてみると、この記事が表わしている意味とその影響は計りしれないほどの効果をもっていた筈です。


 学問のすすめ  天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らずと云えり。

            されば天より人を生ずるには,万人は万人皆同じ位にして,生れながら貴賤上下の差別なく,
            万物の霊たる身と心との働を以て,天地の間にあるよろずの物を資り,以て衣食住の用を達し,
            自由自在,互に人の妨をなさずして,各安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

            されども今広くこの人間世界を見渡すに,かしこき人あり,おろかなる人あり,
            貧しきもあり,富めるもあり,貴人もあり,下人もありて,
            その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。

            その次第甚だ明なり。

            実語教に,人学ばざれば智なし,智なき者は愚人なりとあり。

            されば賢人と愚人との別は,学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり。

            又世の中にむずかしき仕事もあり,やすき仕事もあり。
            そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ,やすき仕事をする者を身分軽き人と云う。

            都て心を用い心配する仕事はむずかしくして,手足を用ゆる力役はやすし。
            故に医学,学者,政府の役人,又は大なる商売をする町人,
            夥多の奉公人を召使う大百姓などは,身分重くして貴き者と云うべし。

            身分重くして貴ければ,自からその家も富で,下々の者より見れば,
            及ぶべからざるようなれども,その本を尋れば,唯その人に学問の力あるとなきとに由て,
            その相違も出来たるのみにて,天より定たる約束にあらず。

            諺に云く,天は富貴を人に与えずして,これをその人の働に与る者なりと。
            されば前にも云える通り,人は生れながらにして貴賤貧富の別なし。

            唯学問を勤て物事をよく知る者は貴人となり富人となり,
            無学なる者は貧人となり下人となるなり。

            資(ト)り  都(スベ)て  夥多(カタ=夥しく多い)


老生が青年師範在籍当時、宇野校長の着任挨拶はこうでした。 「学生の本分は第一に学問であります。 第二にも学問であります」と。 今でもその折の言葉を忘れることができません。 さて次は何を言うのかと聞き耳を立てていた老生は驚いたのです。

 「第三にも学問であります」と訴えたのです !!

‘竹の繊維の弾性はハガネのそれよりも強い’という論文で農学博士号をとった宇野校長の言葉です。 

「学問のすすめ」について、具体的には次のサイトを開いて調べる方法があります。

    学問のすゝめ - Wikipedia

    学問のすゝめ:gakumon no susume

    福澤諭吉 - Wikipedia

学問が本分だと言われても漠然としすぎています。 ‘具体的にはあらゆる知識を身につけること’となります。 ‘具体的にはあらゆる知識を身につけること’と言われても、まだ漠然としています。 

知識を身につけるということは、知識を自分の大脳にインプットすることです。 大脳へのインプットには“記憶のルール”があります。 “記憶の方程式”と言ってもよいでしょう。

記憶する方程式は次の通りです。


     記憶の方程式

          @ 意味を考えながら、よく見て文章を読み取る()
          A 何が大事か、声を出してゆっくり読む()
          B レシーバーをして、自分の声を聞きとり大脳へ保管する()
          C 一つの知識のユニットを、自分で書いて記憶を確保する()
          D 一つの知識のユニットを、自分でしゃべって記憶を確保する
          E 一定時間の後、CDを実行する(くりかえし)


          
 12 05 (土) 友美の沖縄旅行 ■社説…絆が大事

けさも沖縄の気象情報を見る。 友美の大事な旅行だから。

普天間基地移設が鳩山新政権の大事な課題になっている。 見てくる中身は本人しだいのことだが、天気だけは良くておってほしいと願うのです。



朝日の社説を見ると、‘キレる子ども―目を向ける大人をもっと’が出ています。

いつも感ずるのだが、教育に関わる課題に対して、困ったことの根本になる原因を求めようとする努力ではなくて、枝葉末節と思われる課題についての現状を調べたり対処法を作り出したりしています。 教育関係の先生方や評論家の方々、マスコミに関わる方々など、多くの方がこの陋習のとりこになっています。

りっぱなナスを収穫しようとして、種から芽をだして30センチくらいに伸びて、隣の家のナスと比べてナヨナヨとして貧弱だとわかったとき、慌てふためいているのと同じことだと言えます。

教育問題の先頭に立って将来を見据えた企画を立てるべき人たちや、知識人として先導すべき人たちは、野菜の苗と子供は違うというのでしょうか。 本来、百姓の人たちは、見るから丈夫で元気な苗をどう育てるか知恵を絞って見つけ出さなければならないのです。 この事実をどう解釈するのでしょうか。

ひ弱に育った苗をどう育てたらいいのかという課題もありますが、それは丈夫な苗をどうつくり出すかという大筋をゆがめてはならないことなのです。 さ迷っている子供の対処も大事ですが、もっと大事な根幹になっているものの考え方を求めることの方がどれほど大事なことか警鐘を鳴らしてほしいのです。

医学は大事に違いないのですが、それにもまして丈夫で活躍できるようにするにはどうしていったらいいのかを求めることの方が忘れられてはいけないのと、同じことなのです。 

ひ弱な苗も、病弱な心身も手立てを考えなくてはなりません。 だが、丈夫な苗や健全な心身をどう育てあげたらいいのかを絶えず求めることこそ、大事なことに違いはありません。

参考のために社説をのせます。


朝日新聞社説 2009年12月5日(土)
キレる子ども―目を向ける大人をもっと

 教師や同級生に暴力をふるったり、モノに当たって壊したり。児童生徒の暴力行為が増え続けていることが、文部科学省の昨年度の集計でわかった。特に小中学生の変化が著しい。

 廊下で肩が触れただけで、胸ぐらをつかみあう。授業中に騒いだことを注意され、すぐ何かを投げつける。相手に病院に行くほどのケガをさせた例は、1万件を超えた。

 感情を、言葉で表す力が未熟なまま、爆発させる。学校から報告されるのは、驚くほど簡単にキレてしまう子どもの姿だ。子どもがここまで変わってしまったのは、どんな要因があるのか。文科省は本格的な調査・分析に乗り出し、対策を考えるべきだろう。

 教育現場で「暴力は絶対だめ」と教え、厳しく対処すべきなのは言うまでもない。同時に、子どもが爆発前に発しているはずのサインを読み取り、暴力を未然に防ぐ努力が、大人たちに求められているのではないか。

 東京で中学校のスクールカウンセラーを務めてきた臨床心理士の植山起佐子(うえやま・きさこ)さんが痛感するのは、家庭環境のつらさを背負った子の多さだという。共働きだと親子が接する時間は少なくなる。一人親家庭も増えた。不況下での不安定な収入も影響を及ぼす。

 親に気持ちを十分受け止めてもらえないまま成長し、家庭でのストレスを引きずって学校に来る子どもがいる。

 ところが、そうした子ども一人ひとりに向き合い、一緒に解決策を考える余裕は、いまの学校にはない。増えるばかりの事務作業に教師が忙殺される実態は、行政刷新会議の事業仕分けでも指摘された。

 一つの対策は、教師や親以外の様々な人が支援態勢を組み、学校の内外で子どもに目を向けるようにすることだ。植山さんは、学生ボランティアに入ってもらったのを契機に、荒れかけた中学を落ち着かせた経験がある。

 上下関係にある先生とは別の大人になら、違った形で接する子がいる。図書ボランティアの主婦が世間話をしてくれる図書室は、教室とは別の居場所になるかもしれない。放課後の補習を手伝う大学生は、兄、姉のような近さで子どもらのモデルになれる。

 そうした支援者が小さな異変に気づけば、スクールカウンセラーなどの専門家につなぐこともできる。

 校門の外でも同じだ。「○○中の生徒だね」「文化祭よかったよ」と大人が声をかけるだけでも、子どもは自分の価値が認められたと感じるだろう。児童館といった子らの「たまり場」にも、目を配る大人がいてほしい。

 「子どもの危機」の深刻さは、いまや家庭や学校のレベルを超えているのではないか。地域や社会全体で、子どもを見守り、教育を支える覚悟が必要なときである。


最後にある表現 ………

     「子どもの危機」の深刻さは、いまや家庭や学校のレベルを超えているのではないか。
     地域や社会全体で、子どもを見守り、教育を支える覚悟が必要なときである。

こんなことではなく、朝日新聞の論説委員の方々ならば、“「子どもの危機」とならない家庭のあり方はこうすればいい”という、まともな子育ての方法を唱導すべきではないのでしょうか?

一人だけで、代表として主張するのではなく、こういう方法もあるという立場で、全員が原稿を書いたらいかがでしょうか。 そしてそれをまとめて発表し、一般の人たちに唱導してはいかがでしょうか。

財団法人、関西生産性本部 専務理事 辻元健二氏は次のような報告をまとめています。


訪米教育力向上調査団報告書
http://www.kpcnet.or.jp/uploaded_file/info00000020.pdf
2008年11月19日

 教える力学ぶ力の向上や教育の質保障が世界的なテーマになってきている。 人的資源によって発展を図らなければならないわが国にとって、人材の育成で遅れをとることは許されない。 しかしながら、日本の大学の教育力は非常に低い。 初等中等教育のレベルも低下傾向にある。 家庭や地域も教育力を失ってきている。 企業の教育力にも陰りがみえてきた。

 わが国が世界の先進国に発展してきた大きな要因は、学習力や勤勉性など平均的国民の質の高さだといわれている。 その水準がどんどん低下している。 日本の将来が大きな危機に瀕していると言っても過言ではない。

 学校、企業、行政が力をあわせてこの問題に立ち向かわなければならない。

 今、世界の多くの国は「教育」を最も重要な課題として取り組んでいる。

 … 以下略 …


教育行政についても、私たちは東京新聞の社説が指摘しているように、政治主導は国民主導にしていく努力をしなければなりません。

参考のためにそれも挙げておきます。


東京新聞 【社説】
週のはじめに考える 政治主導を読み替える
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/
2009年12月6日

 新政権の課題が「変革」なら主権者の課題は「参画」でしょう。投票後も参画を続けることが「政治主導」を「国民主導」にすることにつながります。

 政権交代から間もなく三カ月になります。おおかたの有権者の心境は不安と期待の交錯、「不安はあるが変化の兆しもある。日本が変わるかもしれない」といったところでしょうか。

 しかし、期待しておいて「ではよろしく」と新政権から目を離してはいけません。8・30総選挙で民主党に与えた課題の「変革」が実現するか、これからが正念場です。それを監視する権利と責任が国民にはあります。

◆「国民主権」を根拠に

 新政権のキーワードは「政治主導」と「脱官僚依存」です。

 鳩山由紀夫新首相の就任記者会見ではこの言葉が随所にちりばめられていました。

 「この国を本当の意味で国民主権の国に変えなければならない」「国民のための政治をつくり出していくため、脱官僚依存の政治を実践しなければならない」「政治主導、国民主権、真の意味での地域主権のため、さまざまな試行実験を行っていかなければならない」などといった調子です。

 脱官僚依存の根拠を憲法の基本原理である国民主権に置くのは正しいのですが、政治主導という言葉には警戒も必要です。

 もちろん、政府・与党と官僚のなれ合いを排し、政治家の勉強不足、無責任に乗じた官僚による統治から脱却しなければなりません。政策を決める政治部門とそれを実行する官僚機構との間には適度な緊張関係が求められます。

 その半面、官僚依存の背景にある政治家の資質の低さという問題も見逃せません。

 政治主導は、政治家にしっかりした政策立案能力と確かな統治能力があることが前提です。

◆政治家を見守り注文

 ところが、新しい政府・与党の政治家たちが次々繰り出す政策、方針の中には議論が十分尽くされていないものや思いつきにすぎないものもあります。政治主導という言葉が独り歩きし、政治家主導と取り違えられている観があるのです。

 政治家は憲法に基づいて主権者である国民から権力を預かっているにすぎません。その行使は国民の意思と憲法の制約を受けます。ですから国民主権下の政治主導とは国民主導ということでなければなりません。そう読み替えると政治や政治家と国民のあるべき関係が明確になります。

 それは、政治家は国民の意思を尊重して政治を行い、国民はその政治家を常に見守り、折に触れ注文をつけるという関係です。

 民主党の打ち出した「議員立法の原則禁止」も国民主権、脱官僚依存との関係で考えると微妙な問題を含んでいます。

 議員立法禁止は、法案の国会提出を内閣へ一本化し、いわゆる族議員などの不当な関与を防ぐのが目的とされます。

 しかし、大事でもあまり注目されない地味な課題の実現は議員立法が頼りです。禁止は、その実現を期待して、投票する候補者を選んだ人の意思を軽視することになりかねません。

 議員立法が活発になれば議員はもっと勉強しなければならず、政策立案能力が高まるでしょう。ほとんどが内閣提案の現在は、ろくに勉強しないでも官僚に助けられながら議員が務まります。「政官もたれ合い」です。

 したがって、議員立法禁止は、脱官僚依存どころか、官僚依存体質の維持につながる危険性もはらんでいます。

 ちなみに米国では政府による法案提出は認められません。

 いまのような変革期にはさまざまな試行錯誤が行われますが、主権者は正解探しに積極的に参画したいものです。誰かが結論を示してくれるのを待つのではなく、主体的に模索し探すのです。

 小泉純一郎元首相の政治パフォーマンスを、日本人の多くが芝居でも見るかのように楽しんだのは数年前、その後の政治の“迷走”にも大きな動きを起こさず、不安や怒りを心に秘めて表面的には静観してきました。気がついたら目の前はがけっぷちでした。

 総選挙でやっと国民の意思が明確に示されたとはいえ、それで主権者としての責任を果たしたといえるでしょうか。

◆課題は参画の継続

 鳩山首相は会見で「ただ一票を投ずればよいという発想ではなくて、政権にものを言ってほしい」と国民に呼び掛けました。

 議論があってこその民主主義です。新政権に変革を求めた有権者自身にとっての課題は、「政治家任せの観客民主主義から参加民主主義への転換」です。


 12 12 (土) 素心

   イッチ・ニ・イッチ・ニ 、サン・シ・ゴ
   12/12 は友美の誕生日 !!
   345 は誕生の体重 g だという。  今、高校二年生、おめでとう。

健康を支える要素を “ 気 ” で表わすとします。 そこで、すべての構成要素を表わすとしますと、“ 素 ” という言葉が使われます。

これは「字通」で調べた “ 素心 ” という説文文字です。


 【素心】そしん 飾らぬ心。南朝宋・顔延之〔陶徴士(潜)の誄(るい)〕有晉の徴士、尋陽の陶淵明は南嶽の幽居者なり。弱(わか)うして弄を好まず、長じて實に素心なり。


ジャパンナレッジには「字通」があり、まことに便利です。

「 素 」 をしらべると、


  〈字音〉 ソ
  〈字訓〉 しろぎぬ ・ もと ・ もとより
  〈同訓異字〉 しろ・しろい ・ つね ・ もと

  〈象形〉 金文 と 説文 があるが、省略

  糸を染めるとき、束の上部の結んだ部分が白く染め残される。その部分を素という。
  糸の上部は、その結んだところ。〔説文〕十三上に「白の緻(きめこま)かき(きぬ)なり。      .
  糸と垂とに從ふ。其の澤あるを取るなり」とするが、垂に従う字ではない。
  染め残されたところが本来の色であるので、すべて手を加えない以前の状態をいう。

  1  しろ、しろぎぬ、むじ。
  2  もと、もとのいろ、もとの状態。
  3  もとより、まえから、あらかじめ、つね。
  4  たち、本来の性質、まこと、ただしい、すなお。
  5  むなしい、いたずら、何も加えない、無位。

  【素行】 【素材】 【素地】 【素質】 【素描】 【素朴】 など 140 位の熟語があり、
  【簡素】 【元素】 【色素】 【質素】  など 30 余りの熟語があります。


金文 と 説文

金文(きんぶん)とは、青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字のこと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的には甲骨文字の後にあたる。

殷は青銅器文化が非常に発達した時代であり、この文字を器の表面に鋳込む技術は門外不出となっていた。

金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代資料であるためこの時代を研究する上で非常に貴重な資料となっている。しかし殷代の青銅器は古美術としてもきわめて高い価値があるため収集家などがこれを所持することで一貫した研究が出来ないと言うことも起きている。

なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。またこれらを研究することを金石学という。

【説文】とは【説文解字(=せつもんかいじ)】の略で中国の現存最古の字書。 後漢の許慎の撰。100年頃成る。 当時の九千余字の漢字を部首別に配列し、六書(りくしよ)の説により造字法・意義・音を解説したもの。 中国文字学の基本的文献。

 これは ‘ 説文(=中国の現存最古の字書) ’ の下平好上という字体です。

 印鑑の字体はこの字形をもちいています。
 装飾文字として面白いのではないでしょうか。

 ‘ 素心 ’とは「飾らぬ心」とあります。 私たちは誰でもいろいろに染まった心になっています。 他人と比べて考える優越感や劣等感、見栄や外聞が気にかかったり、経済力とか学力とかそんなことまでに 「 飾らぬ心 」 からだんだんと遠ざかってきています。

「枯れ木も山のにぎわい」(=正法眼蔵随聞記) 人様の邪魔にならないようこれからの生き方を覚悟しなくてはなりません。 老齢を迎えて、父母の養育への感謝の気持はますます胸にこみあげるのです。 静かに子孝行・孫孝行に遺漏のないよう心がけなくてはなりません。

‘ 素心 ’という言葉を見つけ出したとき、良寛のことが偲ばれました。 こどもとの手毬にしても、たき火を詠んだ(焚くほどは風がもてくる落葉かな)にしても、素心が偲ばれるのです。