01 24 (月) イヴの七人の娘たち 一万年の旅路 「伝達様式」と「ミトコンドリアDNAを利用した研究など」 DNAルーツ |
これは古来の方法で伝えられた口承史です。 口承で受け継がれるほかの多くの伝承や歴史と同様、いつか自分がその責任を負うかもしれない話を聞かせてもらえるようになるだけでも、たくさんの試験と訓練が必要です。 物心つくかつかないかのころから、父は私の記憶力を試し、鍛えました。 一番単純な例をあげると、私が見ていたものから別な方向へ体を向けられ、それまで何が見えていたかを言わされるというようなことをやりました。 (好上 : 注記 … 赤文字部分は「0歳教育」で取り上げている大脳開発法そのものです) これをなんの前ぶれもなく何度も何度もやらされるうちに、人によっては、そのとき見ているすべてを頭に焼きつけると、その脳内写真のようなイメージを、たったいま見ているように再現するコツが身についてきます。 ただし、これはけっして合格・不合格を決めるテストではなかったし、うまくやらなくてはいけないというプレッシャーをかけられたこともありませんでした。 もし私がこの務めにふさわしい器でないとしたら、父があえてそれを私の肩に預ける必要はなかったのです。 けれど、それはたたの遊びでもありませんでした。 それは学びであり、生きるということをよりよく理解するための機会だったのです。 この歴史のかなりの部分を学ぶ能力が私にあるというおよその脈がつかめたとき、父はほんの断片を語り聞かせはじめました。 映画館でやる「次週の予告」のように、食欲をそそるに足る程度のものです。 物語り全体を学ぶには、まずほかにいくつか必要なことがありました。 たとえば、完璧な注意力をもって耳を傾けること、一つのことに一昼夜意識を集中して目をさましていること、歌や詩などほかのものごとを暗記すること、理解力などがあります。 右のような領域のそれぞれに私が多少の能力を持ち合わせていると納得できたとき、父は歴史の全体を聞かせはじめました。 一時に少しずつ、なおも理解を試しながらです。 私がどこかの一節を憶えたと思うと、聞かせてもらったのとは別の形でそれを“語り返す”ように促されました。 そこから二つのことを教えられました。 一つは、自分が何かを憶えたなどと性急に思い込んではいけないこと。 もう一つは、何かを聞くのと、それを理解するのとは二つの別なステップだということです。 最後にようやく、一つの部分を丸ごと父に向かって語り返す勇気ができたとき、また新しいことを学ばされました。 三つのちがった形で三回、どれも父が語ってくれたのとは別な形で語り返すように求められたのです。 つまり、私はどんな現代語でもそれを語り直せるくらい完璧な理解を示さなければならなかったわけですが、たんにおもしろがられるのではなく本当に理解してもらうためには、語り手にそれぐらいの理解が必要なのです。 父が指摘したように、言葉というのは変化していきます。 父の母親が好んで音読したシェークスピアの言葉を解する人は、あまり多くありませんでした。 歴史がそれほど眠ってしまったのでは価値がなくなります。 この学びにどれほど長い年月と忍耐力が注ぎ込まれているかを知ればこそ、私は父から学んだすべての正確さに対して深い敬意を抱くものです。 「はしがき」でほのめかしたとおり、ここで語られている内容に当てはまるかもしれない数多くのものごとを、私自身じっさいに目や耳で確かめてきました。 私の聞いた内容には、子どものときは不可能だったり存在しなかったりしたものがたくさん含まれていて、なかにはつい五年前までそうだったことさえありますが、その多くがいまでは実現していたり、最近の研究でわかったりしています。 私は父から学んだすべての正確さにたてして深い敬意を抱くものです。 けれども、父はそういうことをどこで学んだのでしょうか? いまから五世代前、智恵の道を歩みつつあった一人の若い女性が、この古代の学びの一切に関する責任を引き受けてくれました。 彼女はイロコイ連邦結成当時の五つの“国”の一つであるオナイダ族の出身でした。 氏族は亀。 それが私の祖父の祖母です。 彼女はこの<古(イニシエ)の智恵>が身のまわりから一掃されていくのをまのあたりにして、それを途絶えさせず、一つの新しい世代が耳を傾けることを学ぶときまで、のちの世に伝えていこうと決意しました。 そのときが来たらこれを、聞く耳をもったあらゆる地球の子どもたちへの贈り物とすべし――彼女はそういい残したそうです。 彼女はその学びをたずさえて西のイリノイ州へ移り、そこで私の祖父に伝えました。 祖父はそれをネブラスカ州の農場で私の父に教えました。 そして私が意欲満々でこの責任を引き受けたのは、父がロサンジェルスに手づくりした家でてした。 それにともなって、これら<古(イニシエ)の学び>から献身のなんたるかを学び、アメリカ合衆国というもっと大きな“国”の言葉である英語に書き下ろす新しい責任も受けいれたのです。 書き言葉というリニアル(直線的)な形に変換することは、いまから200年近く前、私の祖父の祖母と、彼女に学びを授けた<古きものごとの守り手>とのあいだで取り決められたものです。その<古の守り手>が七世代後に向けて語れるよう図るという特別な責任は、そこで託されて以来、私まで代々引き継がれてきました。 そのとき取り決めたことが、こうして実行されたわけです。 これがイロコイの歴史なのか、そこへ加わった一支族の歴史なのか、私にはわかりません。 けれどもこれが、数えきれぬ世代を通じて、心にとどめるということを決して忘れなかった私の祖先の歴史であることは確かです。 彼らを代表し、またもっとも最近の五世代を代表して、いま私はこれを当初の目的どおり、聞く用意のある耳への贈り物として差し出します。 やさしい想いが訪れますよう …… |