01 31 (月) 管鮑の交わり ■ダボス会議の発言 |
毎年1月、世界の政治家、企業経営者、学者らがスイスのリゾートに集まり、その年の世界の課題について話し合う世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に菅直人首相が出席した。 1971年に始まった歴史のある国際会議だが、日本の首相の参加は森喜朗、福田康夫、麻生太郎各氏に続く4回目。政権交代後は初めてである。 国会日程の合間を縫い、現地滞在わずか6時間という駆け足ではあったが、日本の政治指導者が国際社会に向けて直接、メッセージを発信できる数少ない機会を生かさぬ手はない。 菅首相は「開国と絆」と題した講演で、自由貿易を推進し、各国と経済連携を深めることで、「第3の開国」を目指す決意を表明した。同時に、改革に伴う格差拡大を防ぐため、孤立する個人を社会全体で包み込む「新しい絆」の創造が必要だと訴えた。 日本に住む私たちからすれば、聞き慣れた首相の持論ではある。「新味に乏しい」「抽象論に終始」との批判はあろう。しかし、「顔の見えない国」というありがたくない国際的評価が定着するなか、日本のトップリーダーが、どのような理念・目標の下で諸政策を遂行しようとしているのか、まとまったかたちで世界にアピールすることの意義は決して小さくない。 ダボス会議の真骨頂は、公式・非公式の会合を通じ、世界の知的リーダーたちが交流を深める点にある。今回、首相も不十分ながら、その輪に加わったのはよかった。 アナン・前国連事務総長、ノーベル経済学賞受賞者のスティグリッツ・米コロンビア大学教授、オバマ政権の経済運営の司令塔を務めたサマーズ・前米国家経済会議議長ら10人程度の有識者を招いて懇談したほか、米国人投資家のジョージ・ソロス氏とは個別に会談し、インドネシアの森林保全事業で協力を確認した。 政治家同士の会談ももちろん重要だが、こうした世界の有識者との意見交換は、国内にいては実感しにくい国際社会の問題意識に触れると共に、日本の閉塞(へいそく)状況を打破するヒントを得る機会になるかもしれない。 学生が海外留学をしたがらないなど、グローバル化の進展にもかかわらず、日本社会は内向き傾向を強めている。首相は外交は不得手と言われ続けてきたが、「開国」を訴える指導者として、率先して国際社会と切り結ぶ先頭に立たねばなるまい。 首相に限らず、外相をはじめとする閣僚や与野党の指導者が、国際社会への発信と交流を強化することは、日本全体の外交力を高める。そのためにも、首相や閣僚が外国訪問をしやすくなるよう、国会への出席義務を緩和する新たなルールづくりを、与野党はもうそろそろ真剣に検討すべきだ。 【注記】TPPとは 2006年、チリ、シンガポールなど4か国で発足した自由貿易協定。農業分野を含め100%の関税撤廃を目指す。09年に米国が参加を表明し、太平洋地域の貿易・経済の新たな枠組みとなる可能性が強まった。日本でも参加の是非を議論している。 |
首相「TPPは6月に結論」ダボス会議で明言▼日本経済新聞 電子版では次のように報じている。(2011/1/29 20:59)
【ダボス(スイス)=舟槻格致】菅首相は29日昼(日本時間29日夜)、ダボスで開かれている世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に出席し、「開国と絆」と題した講演を行った。
明治維新と戦後に続く「第3の開国」を実現するため、2国間や地域内の経済連携を推進すると強調。特に環太平洋経済連携協定(TPP)に関し、「今年6月をメドに交渉参加について結論を出す」とする方針を改めて示し、「6月に結論」を出すことを事実上の国際公約とした。
首相は、日本の過去10年間の経済連携への取り組みについて、「足踏み状態にあった」と振り返り、TPPのほか、世界貿易機関(WTO)の新多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)の早期妥結や、欧州連合(EU)との経済連携協定(EPA)に向けた交渉開始に意欲を示した。
菅首相、国債格下げに反論なし ダボス会議講演
強行出席も・・・「開国」抽象論に終始
【ダボス(スイス東部)=神沢龍二】菅直人首相は29日、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)で講演した。窮屈な国会日程を押して出席を強行したが「開国と絆」と題した講演は抽象論に終始。世界の政治・経済の指導者が集まる絶好の機会に国債格下げ問題への反論を試みることもなかった。 「出席することを感慨深く思う。日本で国会会期が始まった直後の週末に、ユーラシア大陸を越えて飛んできた」。首相は講演の冒頭、日本語でダボス会議への出席が悲願だったと強調した。もともと英語が苦手で外交舞台は決して好きでない。そんな首相の気持ちを動かしたのは11年連続でダボス会議に出席する古川元久前官房副長官だ。
1月6日夜、都内のホテルの中国料理店。首相は小島順彦三菱商事会長、長谷川閑史武田薬品工業社長らから「このままでは中国に負ける」「国際社会での日本の地位向上に努力すべきだ」などとダボス会議への出席を強く促された。
小島氏は世界で6人しかいないダボス会議の共同議長の一人。古川氏が昨年末から調整していたこの会食での殺し文句は「日本のリーダーとして世界に存在感を見せるべきだ」だった。小島氏ら民間人や首相旧知の学者らは外務省が用意した講演の草稿を跡形もなくなるほど直し、首相の改革意欲を前面に打ち出す内容に変えた。
だが、野党の首相経験者は「虚勢を張っただけのむなしい講演だ」と酷評する。2008年には福田康夫元首相が温暖化ガス排出に歯止めをかける「国別総量目標」を提唱。09年の麻生太郎元首相はリーマン・ショック後の世界経済の復興へ、総額1兆5000億円のアジア向け政府開発援助(ODA)を準備する方針を掲げた。
首相も今回の講演に向けて、各省にアイデアを募ったが、魅力的な案は出なかった。「脱官僚依存」の修正を菅政権が志しても、当の霞が関が距離を置く現状が透ける。
トーマス・マンの「魔の山」の舞台として知られるダボス。過去、同会議に出席した首相は3人いる。01年出席の森喜朗元首相は約2カ月後に退陣を表明。福田、麻生両元首相もダボス訪問と同じ年の9月に退陣した。
菅首相に「魔の山」のジンクスを覆せるか。首相が帰国するのは30日。その翌日の衆院予算委員会には社民以外の野党が欠席する見通しで、いきなり不正常な国会が首相を待ち受ける。
額に汗して働くのはダサイ男のやることだ。 楽して金を儲ける拝金主義が横行し、怠惰が蔓延する。 |
02 05 (土) 歌の編集 |
02 09 (水) 鬼の城 |
温羅伝説 <「おかやま 物語のみち」-「温羅伝説」>より▼この他、下記のようなサイトも参考になります。
岡山市西部と総社市東部にまたがる地帯では、昔から桃太郎伝説のルーツともいうべき吉備津彦命(きびつひこのみこと)の鬼退治にまつわる説話が語り伝えられています。それが「温羅(うら)伝説」と言われるものです。
この伝説は、総社市鬼の城山にある古代山城・鬼ノ城と、奈良時代に出来た日本最古の歴史書『古事記』・『日本書紀』に見える吉備津彦命が、大和朝廷の命を受けて吉備平定に向かう記述が基になっています。
伝説の要旨は−。
第11代垂仁(すいにん)天皇(4-5世紀、古墳時代)のころ、異国の鬼神が飛行して吉備国にやって来た。彼は百済(くだら)の王子で温羅といい、足守川の西の方の新山に城を築き、その傍のA岩屋寺に楯を構えた。人々はこの山を@鬼ノ城と呼ぶようになった。
温羅の姿は恐ろしく、両目はらんらんして虎や狼のごとく、ぼうぼうたるひげは赤く燃えているようであった。さらに身長は一丈四尺もあり、極めて狂暴であった。そして遠くを航行する船を襲っては財物や婦女子を略奪し、乗っていた人を釜ゆでにしていたという(B鬼の釜)。
そこで朝廷は、その温羅を平定するために吉備津彦命を派遣することになった。
吉備津彦命はまず吉備の中山に陣を構え(F吉備津神社 G吉備津彦神社)、西には石の楯を築いた(D楯築遺跡)。
戦いが始まると矢合戦になったが、温羅は強く、双方の矢が空中で噛み合って落ちてしまった(C矢喰宮)。そこで吉備津彦命は2本の矢を一緒に発射したところ、一矢は温羅の目にあたって沢山の血が流れ血吸川(ちすいがわ)となり、浜は真っ赤に染まった(赤浜)。温羅は雉(きじ)となって逃げたが、吉備津彦命は鷹(たか)となって追った。
今度は、温羅は鯉となって血吸川に逃げたので、吉備津彦命は鵜(う)となって温羅をくわえ、ついに首をはねた(E鯉喰神社)。その首は串に刺してさらされた(H白山神社)。しかし首は何年も吠え続けたので、犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)に命じて犬に食わしたが、まだ吠え続けたのである。このため吉備津彦命は吉備津神社の「御釜殿(おかまでん)」の下に埋めたが、13年間も唸り続けたという。
ある夜吉備津彦命の夢に温羅が現れ、わが妻・阿曽媛(あぞめ)にお釜殿の火を炊かせばこの釜で吉凶を占おうといった。これが現在も吉備津神社に伝わる「鳴釜神事(なるかましんじ)」である。
その後、吉備国の統治にあたった吉備津彦命は、晩年、吉備の中山の麓の茅葺(かやぶき)宮に住居を構え、281歳の長寿をまっとうした。
【参考文献】あるく岡山桃太郎伝説の旅(岡山市・岡山市観光協会)、岡山三市を結ぶ歴史ロマン主人公ゆかりの地をたずねる旅(パンフレット)、図説岡山県の歴史、吉備津彦命の鬼退治、博学紀行岡山県
温羅伝説 <鬼ノ城 - Wikipedia>よりこうして見てきますと、岡山の吉備地方を一回は訪ねてみたいと思います。 日本列島へは何回にもわたっていろいろの文化を携えた人たちが移り住んでいたようです。 民族意識とか国益とか、国旗掲揚の義務とか時の政治に翻弄されたくはありません。 ほんらい基本的にはマクロの視野が必要であり、その視点は通していることが大事な共生の感覚なのです。
温羅伝説とは、吉備地方に残る、桃太郎話のモチーフとなったといわれる伝説である。
古代吉備地方には百済の王子と称する温羅(「うら」または「おんら」)という鬼が住んでおり、鬼ノ城を拠点にこの地方を支配し悪行を行っていた。吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく崇神天皇は孝霊天皇の子で四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)の一人・吉備津彦命(きびつひこのみこと)を派遣した。命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。温羅に対して矢を1本ずつ射たが岩に呑み込まれた。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜いた。温羅が雉に化けて逃げたので命は鷹に化けて追った。更に温羅は鯉に身を変えて逃げたので吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。こうして温羅を討ったという。それぞれの伝説の地に矢喰神社、温羅の眼の血が流れた血吸川、鯉喰神社が存在している。
温羅は製鉄技術をもたらし吉備を治めた技術者であり豪族ではないかとされる。また、血吸川の川の赤さは鉄分によるものであろう。吉備地方は古くから鉄の産地として知られ「真金吹く吉備」と呼ばれていた。実際、鬼ノ城の東麓には日本最古級の製鉄遺跡が存在する。
なお、この伝承はその後、鳴釜神事の成り立ちへと続く。