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折々の記 2011 @

【心に浮かぶよしなしごと】

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【 04 】01/31

  01 31 続 01 31 管鮑の交わり ■ダボス会議の発言
  02 05 歌の編集
  02 09 鬼の城

 01 31 (月) 管鮑の交わり ■ダボス会議の発言

▼ その一 管鮑の交わり

     http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-069.htm
     管鮑の交わり

 唐代の詩聖としてその名も高い杜甫の詩に「貧交行」と題して、

    手を翻せば雲おこり手を覆えば雨ふる、
    ふんふんたる軽薄なんぞ数うるを須いん。
    君見ずや管鮑貧時の交わり、
    此の道 今人棄てて土の如し。

   というのがある。その意味は、人情義理が地に堕ちた当世では、堅い交りをむすんだはずの友人でも、ふとしたはずみで気が変わり、全くお話にならない軽薄さだ、ちっとは昔の管仲と鮑叔牙の間のような、貧富変わらぬ交友ぶりを見習うがよろしいというのである。

   その管仲と鮑叔牙の交友ぶりとは?

  「史記」の「管(仲)列伝」によれば――

   管仲、名は夷吾、春秋時代のはじめのころの斉のひとである。若いころから鮑叔牙と無二の親交をむすび、鮑叔牙も管仲のなみなみならぬ才智のほどに心から惚れこんで、いつも彼のよき同情者理解者であった。

   のち管仲は召忽とともに斉の公子糾の側近に仕え、鮑叔牙はその弟君にあたる公子小白に仕えた。ほどなく、二公子の父の襄公は従弟の公孫無知の叛乱に遭って弑されたので、管仲・召忽は公子糾を奉じて魯の国に、鮑叔牙は公子小白を奉じて筥の国に亡命した。僭主公孫無知が国人に誅殺されるに及び、二公子は国君の地位を争うこととなり、従って管 仲と鮑叔牙も敵味方の仲となった。管仲は公子糾を位につけるため、一時は小白の命をさえねらったが成功せず、小白はついに鮑叔牙や国元の大夫高奚の協力によって位についた。これが春秋五覇のひとりとして名高い斉の桓公である。

   抗争に敗れた公子糾は、桓公の要求により亡命先の魯で殺され、その協力者だった管仲と召忽は斉に護送を命ぜられたが、召忽は自殺して果て、管仲ひとり従容として縛についた。桓公にしてみれば管仲はかつて自分の生命をねらった不屈者、その首を刎ねて意趣を晴らすつもりでいたのだが、鮑叔牙はかつての友誼を忘れず、しかも管仲の政治的才能に 深く期待するところがあったので、桓公に向かって、

   「御主君が斉一国をお治めになるだけで御満足なら、高奚と私とでも十分でございましょう。
  しかし天下に覇を唱えるのがお望みなれば、管仲をお用いなさなければなりませぬ。」

  と勧めた。度量識見の大きい桓公は信頼する鮑叔牙の忠告を容れて、罪人たるべき管仲を快く迎えいれると、さっそく大夫に任じて政治に当たらせた。はたして管仲は大政治家たるの手腕を発揮して、あの有名な、

   「礼・儀・廉・恥は国の四維、四維張らざれば国すなわち滅亡せん」        (「管子」牧民篇)
 「倉廩みつれば則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄辱を知る」

   ということばにうかがわれるような、国民経済の安定に立脚した徳本主義の善政を敷き、ついに桓公をして、春秋随一の覇者たらしめたのである。

 これらのことはもとより桓公の寛容と管仲の才智が相俟っての成功ではあるけれど、その発足点には鮑叔牙の管仲に対する終始かわらぬ友情があっての上でのこととも言える。だから後年、管仲は鮑叔牙に対する感謝のまことをこめて、こう述懐している。

   「わたしはまだ若くて貧乏だった頃、鮑君と一緒に商売をしたことがあるが、その利益の割前を、いつも彼より余分にとった。しかし彼はわしを欲ばりだとは言わなかった。わしが貧乏なのを知っていたからだ。また、彼の為を思ってしてやったことが失敗で、なおさら彼を窮地に陥れたこともあったが、わしをおろか者だとは言わなかった。事にはあたりはずれがあるのを知っていたからだ。わしはまた何度も出仕してはそのたびに馘になったが、それを無能だとは言わなかった。まだ運が向いてこないのを知っていたからだ。戦の時にも、何度も敗けて逃げ出したが、それを卑怯だとは言わなかった。わしに年老いた母のあるのを知っていたからだ。また糾さまが敗れ召忽が自殺した時、わしだけが縄目の恥をうけたが、それを恥知らずだとも言わなかった。わしが小事に抱泥せず、天下に功名のあらわれぬことだけを恥としているのを知っていたからだ。わしを生んでくれたのは父母だが、わしを知ってくれたのは鮑君だ。」

  これほどまでに自分を知ってくれる友人があったならばと、私も思う。

▼ その二 管鮑の交わり:故事成語の意味と由来

     http://www.d2.dion.ne.jp/~nob_o/kotowaza/k_kanponomaji.html
     管鮑の交わり:故事成語の意味と由来

(意味)利害によって変わることのない親密な交際  出典:史記(管晏列伝)

管鮑の交わりとは、唐代の詩人  杜甫 ( とほ ) の詩に「君見ずや管鮑貧時の交わり」とあるように、貧富変わらぬ交友ぶりを指しますが、実際は、貧富どころか生死を懸けた中での友情の話です。

時代は、春秋時代、 斉 ( せい ) の国の話です。 管仲 ( かんちゅう ) と 鮑叔牙 ( ほうしゅくが ) は、若い頃から無二の友情を結び、特に鮑叔牙が管仲の才能を認めることは並々ならぬものがありました。時を経て、鮑叔牙は、斉の公子 小白 ( しょうはく ) に仕え、管仲は、小白の兄、 糾 ( きゅう ) に仕えるようになりました。

やがて斉に 謀反 ( むほん ) がおこると、管仲、鮑叔牙はそれぞれ公子を奉じて他国に亡命し、自らが仕える公子を国主につけようという争いになりました。結果は、小白が勝利し、即位して 桓公 ( かんこう ) となりました。

負けた公子糾は、桓公の要求で亡命先の 魯 ( ろ ) で殺され、家臣の 召忽 ( しょうこつ ) は自殺してしまいましたが、管仲は1人、捕らわれて斉に送られました。

桓公は、争いの中で自分を暗殺しようとした管仲を死罪にするつもりでした。しかし、鮑叔牙は、管仲との友情もあり、また、彼の才能を高く認めていたので、
「ご主君が、斉の国主であるだけでご満足なら私でもお役に立つでしょう。しかし、天下の覇者となるおつもりなら、管仲を宰相にしなければなりません。」
と言って管仲を推薦したので、桓公は彼の罪を免じただけでなく、宰相の地位につけて国政を委ねました。管仲は、期待に背くことなく手腕を発揮し、国富に重点をおいた善政をおこなって、桓公をして覇者たらしめたのです。

管仲は、鮑叔牙の友情について、述懐して次のように言っています。
「私がまだ若かった頃、鮑君と一緒に商売をやったが、いつも分け前を彼よりも多く取った。しかし、彼は私を欲張りだとは言わなかった。私が貧乏なのを知っていたからだ。また、ある時、彼を助けようとしてやったことが失敗し、かえって彼を窮地に陥れてしまったことがあったが、彼は私を愚か者だとは言わなかった。事には当たり外れがあるのを知っていたからだ。私は何度も出仕してはその度にクビになったが、私を無能だとは言わなかった。まだ、運が向いて来ないだけだと知っていたからだ。戦さの時に何度も逃げ出したが、それを卑怯だとは言わなかった。私に年老いた母がいるのを知っていたからだ。また、糾さまが敗れ召忽が自殺したとき、私だけが縄目についたが、それを恥知らずだとは言わなかった。私が小事にこだわらず、未だ天下にその名の 顕 ( あらわ ) れないことだけを恥じていることを知っていたからだ。私を生んでくれたのは父母だが、私を育ててくれたのは鮑君だ。」

▼ その三 杜甫の雑言古詩「貧交の行」

     http://hix05.com/Chinese/dufu/dufu_1/dufu119.hinko.html
     貧交行 杜甫

杜甫の雑言古詩「貧交の行」(壺齋散人注)

  翻手作雲覆手雨    手を翻せば雲と作り手を覆せば雨 
  紛紛輕薄何須數    紛紛たる輕薄 何ぞ數ふるを須ひん
  君不見管鮑貧時交  君見ずや 管鮑貧時の交
  此道今人棄如土    此の道 今人棄てて土の如し

掌を上に向ければ雲となり、下に向ければ雨となる、紛紛たる輕薄が世上にあふれている、君はかの管鮑の貧時の交わりを見たことがないだろうか、そのような友情も今ではすたれて誰も気に留めるものがない。

天宝十一年(752)杜甫41歳のときの作。当時の杜甫は科挙に落ちて出世の見込みがなくなるうちにも、何とかして仕官先を探そうと、さまざまな人につてを求めて、自分を売り込んでいた。だがその努力もむなしく、つらい浪人生活が続いていた。

そんな中で、人情の薄さ、友情のもろさを歎いたのがこの作品である。かつて親しくしていた友人たちも、手のひらをかえしたように薄情になった。そんな人々をみるにつけて、自分はかの管鮑の交わりを思い起こすのだ。今の世の人には、そんな友情は価値のないものに過ぎないのだろうか。杜甫の嘆きと憤りが伝わってくる。

▼ その四 関西吟詩文化協会 漢詩紹介<中国の漢詩>

     http://www.kangin.or.jp/what_kanshi/kanshi_C4_2.html
     関西吟詩文化協会 漢詩紹介<中国の漢詩>

 貧交行  <杜 甫> ひんこうこう  <と ほ>

  手を翻せば雲と作り 手を覆せば雨   てをひるがえせばくもとなり  てをくつがえせばあめ
  紛紛たる輕薄 何ぞ數うるを須いん   ふんぷんたるけいはく  なんぞかぞうるをもちいん
  君見ずや管鮑 貧時の交わり       きみみずやかんぽう  ひんじのまじわり
  此の道今人棄てて 土の如し       このみちこんじんすてて  つちのごとし

  翻 手   手のひらを返して上に向け下に向ける くるくる変わる
  輕 薄   人情の薄い
  何須數   数える必要もない 問題にしない
  管 鮑   管は春秋時代斉(せい)の桓公(かんこう)に仕えた名相管仲
         鮑はその親友の鮑叔 管仲は若い頃貧乏で鮑叔と一緒に商売をし 
         もうけは自分の方が多く取ったが 鮑叔は決して腹をたてなかった 
         後に管仲は宰相となり「我を生みし者は父母 我を知る者は鮑叔なり」といった 
         貧乏時代苦楽を共にし いつまでも変わらぬ友情を「管鮑の交」という

 手のひらを上に向ければ雲となり下に向ければ雨となる。くるくると変わる人情の軽薄さは問題にするまでもない。
 よく見たまえ、あの管仲と鮑叔の貧しい時の交わりを。あれが本当の友人というもので、今の人はこの交わりを
土くれのように捨ててしまっている。

 杜甫は仕官のため長安に上ったが、試験に及第せず仕官も出来ず、求職のため貴人の家を尋ねた時、
 門前払いにあいこの詩を作る。天宝11年(752)41歳の作。「唐詩選」に所収されている。
 詩の構造は古詩の形であり、韻は上声七麌(ぐ)韻の雨、數、土の字が使われている。

 杜 甫 712-770

 盛唐の詩人で、李白と並び称せられ、中国詩史の上での偉大な詩人である。字は子美(しび)。
 少陵(しょうりょう)または杜陵と号す。洛陽に近い鞏県(きょうけん)の生まれ、7歳より詩を作る。
 各地を放浪し生活は窮乏を極め、安禄山の乱に賊軍に捕らわれる。律詩に巧みで名作が多い。
 湖南省潭州(たんしゅう)から岳州に向かう船の中で没す。年59。
 李白の詩仙に対して、杜甫は詩聖と呼ばれる。



■ ダボス会議の発言

菅総理が国会でTPPの承認も何もないのに、勝手にダボスで発言したのはとんでもない非常識です。 しかもそれをきょう、朝日の社説は容認し推奨しているとは議会も何もあったものではない。 朝日新聞の横暴であると言わざるを得ない。


ダボス出席―首相が「開国」の先頭に

 毎年1月、世界の政治家、企業経営者、学者らがスイスのリゾートに集まり、その年の世界の課題について話し合う世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に菅直人首相が出席した。

 1971年に始まった歴史のある国際会議だが、日本の首相の参加は森喜朗、福田康夫、麻生太郎各氏に続く4回目。政権交代後は初めてである。

 国会日程の合間を縫い、現地滞在わずか6時間という駆け足ではあったが、日本の政治指導者が国際社会に向けて直接、メッセージを発信できる数少ない機会を生かさぬ手はない。

 菅首相は「開国と絆」と題した講演で、自由貿易を推進し、各国と経済連携を深めることで、「第3の開国」を目指す決意を表明した。同時に、改革に伴う格差拡大を防ぐため、孤立する個人を社会全体で包み込む「新しい絆」の創造が必要だと訴えた。

 日本に住む私たちからすれば、聞き慣れた首相の持論ではある。「新味に乏しい」「抽象論に終始」との批判はあろう。しかし、「顔の見えない国」というありがたくない国際的評価が定着するなか、日本のトップリーダーが、どのような理念・目標の下で諸政策を遂行しようとしているのか、まとまったかたちで世界にアピールすることの意義は決して小さくない。

 ダボス会議の真骨頂は、公式・非公式の会合を通じ、世界の知的リーダーたちが交流を深める点にある。今回、首相も不十分ながら、その輪に加わったのはよかった。

 アナン・前国連事務総長、ノーベル経済学賞受賞者のスティグリッツ・米コロンビア大学教授、オバマ政権の経済運営の司令塔を務めたサマーズ・前米国家経済会議議長ら10人程度の有識者を招いて懇談したほか、米国人投資家のジョージ・ソロス氏とは個別に会談し、インドネシアの森林保全事業で協力を確認した。

 政治家同士の会談ももちろん重要だが、こうした世界の有識者との意見交換は、国内にいては実感しにくい国際社会の問題意識に触れると共に、日本の閉塞(へいそく)状況を打破するヒントを得る機会になるかもしれない。

 学生が海外留学をしたがらないなど、グローバル化の進展にもかかわらず、日本社会は内向き傾向を強めている。首相は外交は不得手と言われ続けてきたが、「開国」を訴える指導者として、率先して国際社会と切り結ぶ先頭に立たねばなるまい。

 首相に限らず、外相をはじめとする閣僚や与野党の指導者が、国際社会への発信と交流を強化することは、日本全体の外交力を高める。そのためにも、首相や閣僚が外国訪問をしやすくなるよう、国会への出席義務を緩和する新たなルールづくりを、与野党はもうそろそろ真剣に検討すべきだ。

【注記】TPPとは
 2006年、チリ、シンガポールなど4か国で発足した自由貿易協定。農業分野を含め100%の関税撤廃を目指す。09年に米国が参加を表明し、太平洋地域の貿易・経済の新たな枠組みとなる可能性が強まった。日本でも参加の是非を議論している。


YOMIURI ONLINE では次のように報じている。 (1月30日03時09分)

首相「TPPは6月に結論」ダボス会議で明言

 【ダボス(スイス)=舟槻格致】菅首相は29日昼(日本時間29日夜)、ダボスで開かれている世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に出席し、「開国と絆」と題した講演を行った。

 明治維新と戦後に続く「第3の開国」を実現するため、2国間や地域内の経済連携を推進すると強調。特に環太平洋経済連携協定(TPP)に関し、「今年6月をメドに交渉参加について結論を出す」とする方針を改めて示し、「6月に結論」を出すことを事実上の国際公約とした。

 首相は、日本の過去10年間の経済連携への取り組みについて、「足踏み状態にあった」と振り返り、TPPのほか、世界貿易機関(WTO)の新多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)の早期妥結や、欧州連合(EU)との経済連携協定(EPA)に向けた交渉開始に意欲を示した。

日本経済新聞 電子版では次のように報じている。(2011/1/29 20:59)

菅首相、国債格下げに反論なし ダボス会議講演
強行出席も・・・「開国」抽象論に終始

【ダボス(スイス東部)=神沢龍二】菅直人首相は29日、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)で講演した。窮屈な国会日程を押して出席を強行したが「開国と絆」と題した講演は抽象論に終始。世界の政治・経済の指導者が集まる絶好の機会に国債格下げ問題への反論を試みることもなかった。 「出席することを感慨深く思う。日本で国会会期が始まった直後の週末に、ユーラシア大陸を越えて飛んできた」。首相は講演の冒頭、日本語でダボス会議への出席が悲願だったと強調した。もともと英語が苦手で外交舞台は決して好きでない。そんな首相の気持ちを動かしたのは11年連続でダボス会議に出席する古川元久前官房副長官だ。

1月6日夜、都内のホテルの中国料理店。首相は小島順彦三菱商事会長、長谷川閑史武田薬品工業社長らから「このままでは中国に負ける」「国際社会での日本の地位向上に努力すべきだ」などとダボス会議への出席を強く促された。

小島氏は世界で6人しかいないダボス会議の共同議長の一人。古川氏が昨年末から調整していたこの会食での殺し文句は「日本のリーダーとして世界に存在感を見せるべきだ」だった。小島氏ら民間人や首相旧知の学者らは外務省が用意した講演の草稿を跡形もなくなるほど直し、首相の改革意欲を前面に打ち出す内容に変えた。

だが、野党の首相経験者は「虚勢を張っただけのむなしい講演だ」と酷評する。2008年には福田康夫元首相が温暖化ガス排出に歯止めをかける「国別総量目標」を提唱。09年の麻生太郎元首相はリーマン・ショック後の世界経済の復興へ、総額1兆5000億円のアジア向け政府開発援助(ODA)を準備する方針を掲げた。

首相も今回の講演に向けて、各省にアイデアを募ったが、魅力的な案は出なかった。「脱官僚依存」の修正を菅政権が志しても、当の霞が関が距離を置く現状が透ける。

トーマス・マンの「魔の山」の舞台として知られるダボス。過去、同会議に出席した首相は3人いる。01年出席の森喜朗元首相は約2カ月後に退陣を表明。福田、麻生両元首相もダボス訪問と同じ年の9月に退陣した。

菅首相に「魔の山」のジンクスを覆せるか。首相が帰国するのは30日。その翌日の衆院予算委員会には社民以外の野党が欠席する見通しで、いきなり不正常な国会が首相を待ち受ける。



民主党本来のマニフェストで目指した「対等な日米関係」の考えを明確に修正し、日米同盟を「アジア太平洋地域の平和と繁栄のための公共財」と表現しています。

今までの多くのアメリカ隷属国と同じようなスタンスを平気で採るつもりなのです。 

全世界の一般民衆の意識は変化の一途を辿っているようです。 それというのは自国の自立について、アメリカの隷属関係を脱しない限りそれは不可能だという意識があちらこちらで噴出し始めている現象でわかります。

ニュースを整理していますと、チュニジアの政変もイランの変化もアフガンの政情も、エジプトの政変も、それらすべて共通した意識変化の表れとして理解できるのです。

ことに、今日の朝日新聞ではアメリカ隷属のエジプト大統領ムバラクさんが離任の方向に傾き、副大統領として軍人を指名したのに対しても、民衆は「軍人はもう要らない」と要求を突きつけていると報道されています

日本もアメリカの軍隊駐留はもう要らないのです。 世界中が平和を願っているのです。

平和を願えばこそ軍備が必要だという、そんなまやかしは、もう拒否しなければなりません。 日本は中国や韓国と連携して公益を深め、平和を維持していかなければなりません。 アメリカのプロパガンダはもう御免です。 やっぱりイギリスの歴史家トインビーの慧眼には脱帽しなければならないのです。 アメリカの識者もそんなことは百も承知しているはずです。

わたしたちは日本の世論を捏造しているプロパガンダにも遠慮することは何もないのです。 嘘の宣伝を真に受ける馬鹿にならないよう、腹を据えて取り組まなければなりません。

私たちは言論の自由、思想の自由、表現の自由を堅持しなければ、また、あの殺し合いの惨禍に出会う可能性が高いのです。

あらゆるニュース・状況を調べ上げて、日本の自立を築き上げたい。

菅総理の考える方向に暗雲が広がっているとしか考えられません。



     http://weltgeist.exblog.jp/10205492/ (テキスト文書に保管します)
     トインビー「歴史の研究」が予言する日本没落の可能性 (No.489 09-09-09)

ミネルバのフクロウ氏の言う通りではないが、トインビーが日本へ来た昭和40年過ぎた頃、毎日新聞へ寄稿している記事には、日米関係はその当時よりはつながりが薄らぎ中国との結びつきがだんだん強くなると指摘していました。 とても興味ある記事でした。 今で言う東アジア共同体のようなEUに対する東アジア経済圏と想像していました。

という歴史からの流れはまずそうそう違うことはないと思います。 生活が楽になりますと、汗を流して働くことよりもその場が過ごせる程度になりますと、金儲けに走り、遊興に身を崩し、人は怠惰に流れるのです。


     額に汗して働くのはダサイ男のやることだ。
    楽して金を儲ける拝金主義が横行し、怠惰が蔓延する。



人が困っていても平気でいるのです。 やがてそれはすべて、破滅の一途を辿っていると気づくのです。 気づいても、気づいた時点では遅いのです。 破滅のスピードを支えたり、阻止することは、不可能になるのです。 残念ながらいくら考えてもそれが人が本来持っている宿業の性なのです。

 02 05 (土) 歌の編集

「お気に入りの歌」を編集しました。

今日、家内は山田さんと一緒に遠山の山崎志朗さんのお寂見舞いにでかけました。 明日は吉川敏雄さんの葬儀があり、老生が参列します。

 02 09 (水) 鬼の城


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桃太郎の伝説のきっかけになっていたかもしれません。 昔話も何にもないところからは生まれないのでしょう。 因幡の白兎のお話にしても、羽衣のお話にしても、なんらかのお話があったから創られたのでしょう。 

NHK岡山放送局80周年記念 浅野温子「よみ語り」を見て

『岡山はじまり物語』〜吉備津彦と温羅 吉備国を造った運命の二人〜

   http://www.pref.okayama.jp/doboku/doken/monogatarinomichi/ura/ura_top.htm
  「おかやま 物語のみち」-「温羅伝説」
   http://www.pref.okayama.jp/doboku/doken/monogatarinomichi/houkoku/yamada_top.htm
  「おかやま 物語のみち」-「山田方谷物語」

温羅伝説 <「おかやま 物語のみち」-「温羅伝説」>より

岡山市西部と総社市東部にまたがる地帯では、昔から桃太郎伝説のルーツともいうべき吉備津彦命(きびつひこのみこと)の鬼退治にまつわる説話が語り伝えられています。それが「温羅(うら)伝説」と言われるものです。
この伝説は、総社市鬼の城山にある古代山城・鬼ノ城と、奈良時代に出来た日本最古の歴史書『古事記』・『日本書紀』に見える吉備津彦命が、大和朝廷の命を受けて吉備平定に向かう記述が基になっています。

伝説の要旨は−。

第11代垂仁(すいにん)天皇(4-5世紀、古墳時代)のころ、異国の鬼神が飛行して吉備国にやって来た。彼は百済(くだら)の王子で温羅といい、足守川の西の方の新山に城を築き、その傍のA岩屋寺に楯を構えた。人々はこの山を@鬼ノ城と呼ぶようになった。
温羅の姿は恐ろしく、両目はらんらんして虎や狼のごとく、ぼうぼうたるひげは赤く燃えているようであった。さらに身長は一丈四尺もあり、極めて狂暴であった。そして遠くを航行する船を襲っては財物や婦女子を略奪し、乗っていた人を釜ゆでにしていたという(B鬼の釜)。
そこで朝廷は、その温羅を平定するために吉備津彦命を派遣することになった。
吉備津彦命はまず吉備の中山に陣を構え(F吉備津神社 G吉備津彦神社)、西には石の楯を築いた(D楯築遺跡)。
戦いが始まると矢合戦になったが、温羅は強く、双方の矢が空中で噛み合って落ちてしまった(C矢喰宮)。そこで吉備津彦命は2本の矢を一緒に発射したところ、一矢は温羅の目にあたって沢山の血が流れ血吸川(ちすいがわ)となり、浜は真っ赤に染まった(赤浜)。温羅は雉(きじ)となって逃げたが、吉備津彦命は鷹(たか)となって追った。
今度は、温羅は鯉となって血吸川に逃げたので、吉備津彦命は鵜(う)となって温羅をくわえ、ついに首をはねた(E鯉喰神社)。その首は串に刺してさらされた(H白山神社)。しかし首は何年も吠え続けたので、犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)に命じて犬に食わしたが、まだ吠え続けたのである。このため吉備津彦命は吉備津神社の「御釜殿(おかまでん)」の下に埋めたが、13年間も唸り続けたという。
ある夜吉備津彦命の夢に温羅が現れ、わが妻・阿曽媛(あぞめ)にお釜殿の火を炊かせばこの釜で吉凶を占おうといった。これが現在も吉備津神社に伝わる「鳴釜神事(なるかましんじ)」である。
その後、吉備国の統治にあたった吉備津彦命は、晩年、吉備の中山の麓の茅葺(かやぶき)宮に住居を構え、281歳の長寿をまっとうした。

【参考文献】あるく岡山桃太郎伝説の旅(岡山市・岡山市観光協会)、岡山三市を結ぶ歴史ロマン主人公ゆかりの地をたずねる旅(パンフレット)、図説岡山県の歴史、吉備津彦命の鬼退治、博学紀行岡山県

この他、下記のようなサイトも参考になります。

  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E3%83%8E%E5%9F%8E
  鬼ノ城 - Wikipedia
  http://www.city.soja.okayama.jp/kanko/kankochi/kinojo.jsp
  鬼ノ城トップ
   総社市ホームページ > から観光 > の中の観光地 > 鬼ノ城 > の中の鬼ノ城トップ
  http://www.kct.ne.jp/~itadani/inuhakayama.html
  鬼ノ城山・犬墓山
  http://park.geocities.jp/aenzic/
  鬼ノ城 ウォーキング
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B1%A0%E7%9F%B3
  神籠石 - Wikipedia

温羅伝説 <鬼ノ城 - Wikipedia>より

温羅伝説とは、吉備地方に残る、桃太郎話のモチーフとなったといわれる伝説である。

古代吉備地方には百済の王子と称する温羅(「うら」または「おんら」)という鬼が住んでおり、鬼ノ城を拠点にこの地方を支配し悪行を行っていた。吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく崇神天皇は孝霊天皇の子で四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)の一人・吉備津彦命(きびつひこのみこと)を派遣した。命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。温羅に対して矢を1本ずつ射たが岩に呑み込まれた。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜いた。温羅が雉に化けて逃げたので命は鷹に化けて追った。更に温羅は鯉に身を変えて逃げたので吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。こうして温羅を討ったという。それぞれの伝説の地に矢喰神社、温羅の眼の血が流れた血吸川、鯉喰神社が存在している。

温羅は製鉄技術をもたらし吉備を治めた技術者であり豪族ではないかとされる。また、血吸川の川の赤さは鉄分によるものであろう。吉備地方は古くから鉄の産地として知られ「真金吹く吉備」と呼ばれていた。実際、鬼ノ城の東麓には日本最古級の製鉄遺跡が存在する。

なお、この伝承はその後、鳴釜神事の成り立ちへと続く。

こうして見てきますと、岡山の吉備地方を一回は訪ねてみたいと思います。 日本列島へは何回にもわたっていろいろの文化を携えた人たちが移り住んでいたようです。 民族意識とか国益とか、国旗掲揚の義務とか時の政治に翻弄されたくはありません。 ほんらい基本的にはマクロの視野が必要であり、その視点は通していることが大事な共生の感覚なのです。