折々の記へ

折々の記 2011 @

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】01/19〜     【 02 】01/24〜     【 03 】01/25〜
【 04 】01/31〜     【 05 】02/10〜     【 06 】02/11〜
【 07 】02/12〜     【 08 】02/14〜     【 09 】02/15〜

【 06 】02/11

  02 11 岸壁の母 ・ その涙の意味を忘れずに

 02 11 (金) 岸壁の母 ・ その涙の意味を忘れずに

テレビを見ていたら、「岸壁の母」を歌っていた二葉百合子が歌手引退のニュースがありました。 多くの方が涙を流したことと思います。

        岸壁の母  二葉百合子    作詞 : 藤田まさと 作曲 : 平川浪竜

     母は来ました 今日も来た
     この岸壁に 今日も来た
     とどかぬ願いと 知りながら
     もしやもしやに もしやもしやに
     ひかされて

       また引揚船が帰って来たに、今度もあの子は帰らない……
       この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか……
       港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ……。
       帰れないなら大きな声で……
       お願い……
       せめて、せめて一言……

     呼んで下さい おがみます
     あゝおっ母さん よく来たと
     海山千里と 云うけれど
     何で遠かろ 何で遠かろ
     母と子に

       あれから十年……
       あの子はどうしているじゃろう。
       雪と風のシベリアは寒いじゃろう……
       つらかったじゃろうといのちの限り抱きしめて……
       この肌で温めてやりたい……
       その日の来るまで死にはせん。
       いつまでも待っている……

     悲願十年 この祈り
     神様だけが 知っている
     流れる雲より 風よりも
     つらいさだめの つらいさだめの
     杖ひとつ

       ああ風よ、心あらば伝えてよ。
       愛し子待ちて今日も又
       怒涛砕くる岸壁に立つ母の姿を……

この歌を聴いていると、迫りくる母の心情に胸が突き上げられるのです。 母が持っているわが子への愛情は、どんな言葉でも尽くすことも出来ない尊い愛情なんです。

尊い命とは知りながら、国の大事にわが子を送り出す……。

  みんなのために、わが子を戦場へ送り出す……。

こんな壮絶な覚悟をして、わが子を戦場へ送り出す……。

人の死を「お金儲けのために」謀略によって仕組む人は誰ぞや……。

私たちはこのような不条理に対して、敢然として立ち向かわなくてはなりません。

涙は千差万別でしょう。 でも、この歌を聴いて流す涙の意味を私たちは深く考えなくてはいけないのです。

涙にはいろいろの意味がこめられているのです。

尊い母がわが子ゆえに涙するような社会を作ってはなりません。 

そんな社会の仕組みを許してはなりません。

Google で検索しますと、次のような解説が載っています。



     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E5%A3%81%E3%81%AE%E6%AF%8D
    岸壁の母 - Wikipedia


岸壁の母

岸壁の母(がんぺきのはは)とは、第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親マスコミ等が取り上げた呼称。そのひとりである端野いせに取材した流行歌の楽曲、映画作品のタイトルともなった。

概要

ソ連からの引揚船が着くたびにいつでも見られた光景であったが、時間の経過とともに、毎回、同じような顔ぶれの人が桟橋の脇に立つ姿が見受けられるようになり、これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられ、たちまち有名になった。

モデル・端野いせ

流行歌、映画「岸壁の母」のモデルとなったのは、端野いせ(1899年9月15日 - 1981年7月1日)。

明治32年(1899年)9月15日、石川県羽咋郡富来町(現在の志賀町)に生まれ、函館に青函連絡船乗組みの夫端野清松、娘とともに居住していたが、昭和5年(1930年)頃夫と娘を相次いで亡くし、家主で函館の資産家であった橋本家から新二を養子にもらい昭和6年(1931年)に上京する。新二は立教大学を中退し、高等商船学校を目指すが、軍人を志し昭和19年(1944年)満洲国に渡り関東軍石頭予備士官学校に入学、 同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となる。

終戦後、いせは東京都大森に居住しながら新二の生存と復員を信じて昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つ。昭和29年(1954年)9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行。

一方、帰還を待たれていた子・新二(1926年 - )は戦後も生存していたとされる。それが明らかになったのは、母の没後、平成12年(2000年)8月のことであった。

ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、のちに満州に移され中国共産党八路軍に従軍。その後レントゲン技師助手として上海に居住。妻子をもうけていた。新二は母が舞鶴で待っていることを知っていたが、帰ることも連絡することもなかった。理由は様々に推測され語られているがはっきりしない。 新二を発見した慰霊墓参団のメンバーは平成8年(1996年)以降、3度会ったが、新二は「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」と帰国を拒んだという。旧満州(現中国東北部)の関東軍陸軍石頭(せきとう)予備士官学校の第13期生で構成される「石頭五・四会」会長・斉藤寅雄氏は「あのひどい戦いで生きているはずがない」と証言し、同会の公式見解では「新二君は八月十三日、夜陰に乗じて敵戦車を肉薄攻撃、その際玉砕戦死しました」と述べられている(北國新聞社平成18年(2006年)10月4日)。

端野いせは新人物往来社から「未帰還兵の母」を発表。昭和51年9月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたてる。息子の生存を信じながらも昭和56年(1981年)7月1日午前3時55分に享年81で死去。「新二が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい」と入院中も話し、一瞬たりとも新二のことを忘れたことがなかったことを、病院を見舞った二葉が証言している。

平成12年(2000年)8月に慰霊墓参団のメンバーが、新二が上海市で生存していたことを確認。京都新聞が新二の生存を報道。中国政府発行、端野新二名義の身分証明書を確認。だが、その人物が本当に新二であるかについてはいまだに疑問がある。平成15年文藝春秋に「『岸壁の母』49年目の新証言」が掲載。

流行歌

岸壁の母
菊池章子シングル
リリース 1954年9月
ジャンル 歌謡曲
レーベル テイチクレコード

昭和29年(1954年)9月、テイチクレコードから発売された菊池章子のレコード『岸壁の母』が大流行(100万枚以上)した。

作詞した藤田まさとは、上記の端野いせのインタビューを聞いているうちに身につまされ、母親の愛の執念への感動と、戦争へのいいようのない憤りを感じてすぐにペンを取り、高まる激情を抑えつつ詞を書き上げた。歌詞を読んだ平川浪竜は、これが単なるお涙頂戴式の母ものでないと確信し、徹夜で作曲、翌日持参した。さっそく視聴室でピアノを演奏し、重役・文芸部長・藤田まさとに聴いてもらった。聞いてもらったはいいが、何も返事がなかった。3人は感動に涙していたのであった。そして、これはいけると確信を得、早速レコード作りへ動き出した。

歌手には専属の菊池章子が選ばれた。早速、レコーディングが始まったが、演奏が始まると菊池は泣き出した。何度しても同じであった。放送や舞台で披露する際も、ずっと涙が止まらなかった。菊池曰く「事前に発表される復員名簿に名前がなくても、「もしやもしやにひかされて」という歌詞通り、生死不明のわが子を生きて帰ってくると信じて、東京から遠く舞鶴まで通い続けた母の悲劇を想ったら、涙がこぼれます」と語っている。

昭和29年9月、発売と同時に、その感動は日本中を感動の渦に巻き込んだ。菊池はレコードが発売されたとき、「婦人倶楽部」の記者に端野いせの住所を探し出してもらい、「私のレコードを差し上げたい」と手紙を送った。しかし、端野の返事は「もらっても、家にはそれをかけるプレーヤーもないので、息子の新二が帰ってきたら買うからそれまで預かって欲しい」というものであった。菊池はみずから小型プレーヤーを購入し、端野に寄贈した。

岸壁の母
二葉百合子シングル
リリース 1972年
ジャンル 歌謡曲 / 浪曲
レーベル キングレコード

この歌は、昭和47年(1972年)にはキングレコードから二葉百合子浪曲調で吹き込んだ。LPレコード、シングル、テープを合わせて(250万枚[1])の大ヒットとなり、昭和51年(1976年)には中村玉緒主演で映画化された。さらに、昭和52年(1977年)に市原悦子主演でドラマ化(「岸壁の母」)された。今も二葉百合子の十八番として息長く歌い継がれている。

脚注

  1. ^ 長田暁二『歌謡曲おもしろこぼれ話』社会思想社、2002年、109頁。ISBN 4390116495

参考文献

書籍

雑誌記事

関連項目

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E5%A3%81%E3%81%AE%E6%AF%8D」より作成