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折々の記 2012 @
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 02 】01/07
01 07 個々の主張が大切な<ネットの動き> : アラブの春@
01 07 (土) 個々の主張が大切な<ネットの動き> : アラブの春@
インターネットの普及により、政治や経済の支配階級にたいする民衆の思惑が反映される動きが始まっております。 それが多くの人の目に明らかに判るようになってきました。
新春を迎えての心構えとしては第一の中核的課題であると思っています。
工業生産が国内ではなく、後進国へ移っていく実情がこの動きの背景にあります。 資本の海外進出が激しくなってきております。
これに伴って労働賃金の安い人たちから見れば、労働の機会がふえて収入も多くなりより良い生活ができるようになってきております。 逆に言えば、今までの国内工場が海外へ移ってしまい、就職難や失業者が増加して生活不安に襲われるようになりました。 銀行や資本家にとっては金儲けができればよいのであって、自国とか他国とか就職難や失業者など経営条件にはないのです。 格差社会をどうするとか社会生活の向上とか、そんなことは問題にしておりません。
資本の海外進出を可能にしますと、水が低いほうに流れるように低い生活者は順次潤い、いわゆる先進国の人たちは就職難や失業という不平等な社会にさらされるようになるのです。 弱い者を助けて進むということは、国際間では不可能になってくるのです。
この実情を見て、よい対策を提示している人はありません。
どうしたらいいのでしょうか?
言えることは、一人一人が思うことを表明し合うことが、基本的に大事にされなければなりません。 ネットの普及が“アラブの春”を引きおこした事実を大事にしなければなりません。
その際、望ましい社会の在り方をどう設計するかが大きな課題として前途に立ちはだかっているのです。 問題を一度にすべて解決する方法など簡単にはわかりません。 基本にしておきたいのは、気の毒な人とどう手を取り合って考え方を進めるかをつねに根底に持っていなければならないことです。
“なすべきことはみずからなせ”と教えられたように、まず一人一人が手を取り合ってゆく手を見つけなくてはならないのです。
参考のために、次のサイトを取り上げておきたい。
@http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E3%81%AE%E6%98%A5
アラブの春 - Wikipedia
アラブの春(アラブのはる、英語: Arab Spring)とは、2010年から2011年にかけてアラブ世界において発生した、前例にない大規模反政府(民主化要求)デモや抗議活動を主とした騒乱の総称である。2010年12月18日に始まったチュニジアでの暴動によるジャスミン革命から、アラブ世界に波及した。また、現政権に対する抗議・デモ活動はその他の地域にも広がりを見せている。
概要
この地域は、世界の原油・天然ガスの産出・埋蔵量の多くを持ち、アラブ世界の中のユダヤで核保有国と目されるイスラエル、世界の大動脈スエズ運河、反米のイラン、カダフィ大佐のリビア、少数派スンナ派が多数派シーア派を支配し石油の富が公平に分配されていない湾岸諸国を抱えている。数度の戦争が起きた地域であり、政情が不安定だ。
チュニジアやエジプトなど30年以上の長期独裁政権が、数ヶ月足らずの間に相次ぐ民衆のデモで揺らぐことになった。当初、特にイラン(シーア派、反米)、イスラム原理主義、イスラム過激派、軍部、宗教指導者などの影響は限定的であり、民衆の力によって次々と影響が広がっているため、これからの展開が流動的であると考えられていた。
しかし蓋を開けてみると、2011年10月23日にチュニジアで行われた選挙の結果[27]はこれに反し、ムスリム同胞団の影響を受けたイスラーム系政党「アンナハダ」が第一党の地位を獲得することとなった。今後は経験の浅いイスラーム系政党がどのように地域の安定化を図るか注目されている。
イスラエルやアメリカ合衆国、また国際連合に対する支持は薄いとされている。
シーア派の多い国々、安定しないアフガニスタン、政情不安の東南アジア諸国、さらに民主化要求が根強い中国・北朝鮮に対する影響も懸念されている。
世界経済が不調の中、原油価格の高騰(1バレル100USドルを超えた)と資源価格高騰は世界経済にさらに大きなダメージを与えるおそれがある。もともとエジプト騒乱では小麦価格の高騰による貧困層の困窮や、若年失業率(最低でも2割、多いところでは5割と言われる)の大きさが原因としてあげられている。逆に革命を引っ張っているのは、まだ少数ながら教育を受け経済力を持ち、情報手段を持つ中間層である。
これらの革命の背景にはソーシャルネットワークの役割も大きいとされる。衛星放送[注 1]やインターネットの普及で情報は寸時に伝わり[注 2]、携帯電話、ツイッター、フェースブックなどで呼びかけがあった。さらにイスラム教の金曜礼拝(国民的宗教行事のため禁止は不可能)のため合法的に人が集まり情報と気持ちが直接伝わる。死者の棺は大通りを練り歩き、治安部隊などの行動は周知される。
[編集] 事件の発端
2010年12月17日、チュニジア中部シディ・ブジド(スィディ・ブーズィード)にて失業中だった26歳の男性モハメド・ブアジジ(ムハンマド・ブーアズィーズィー)[28](アラビア語:???? ?????????)が果物や野菜を街頭で販売し始めたところ、販売の許可がないとして警察が商品を没収。これに抗議するためにガソリン(もしくはシンナー)をかぶり火をつけ、焼身自殺を図った。チュニジアでは失業率が公表されている14%よりも高く、青年層に限れば25〜30%という高い水準に達しており、同様に街頭で果物や野菜を売り生計を立てる失業者も多かった[28][29]。このトラブルがブアジジと同じく、大学卒業後も就職できない若者中心に、職の権利、発言の自由化、大統領周辺の腐敗の罰則などを求め、全国各地でストライキやデモを起こすきっかけになったとされている[30][31]。次第にデモが全年齢層に拡大し、デモ隊と政府当局による衝突で死亡者が出るなどの事態となった[30]。やがて高い失業率に抗議するデモは、腐敗や人権侵害が指摘されるベン=アリー政権の23年間の長期体制そのものに対するデモとなり、急速に発展していった[28]。その後、チュニジアの政権は崩壊した。
[編集] 広範囲へ拡大
チュニジアでの一連の出来事(ジャスミン革命)は、瞬く間にアラブ諸国へ伝わった。
ヨルダンでも早い段階で反政府運動が飛び火し、サミール・リファーイー内閣が2011年2月1日、総辞職。エジプトでは1月25日より大規模な反政府抗議運動が発生、これにより30年以上に渡るホスニー・ムバーラク大統領下による長期政権が崩壊(2011年エジプト騒乱)。立憲君主国バーレーンでも反政府運動が計画され、政府は給付金を全世帯に給付するなど対処したようにみえたが、首都マナマの真珠広場であった中規模反政府集会を政府は治安部隊を動員し強制排除し死者が出ている。
カダフィ大佐による独裁体制が敷かれているリビアでも、カダフィの退陣を要求するデモが2月17日に発生、2月20日には首都トリポリに拡大し放送局や公的機関事務所が襲撃・占拠され、軍はデモ参加者に無差別攻撃を開始し多数の犠牲者が出た。政府側はサハラ以南のアフリカから多額の時給で民兵を雇用し、反政府派も施政権が及ぼなくなったとされる東部や南部を武器をとり掌握するなど勢力を拡大、首都での戦いが避けられないという見方が報道によりなされた。これをうけ国連安保理は「民間人に対する暴力」としリビアに対し経済制裁と強い非難決議を採択した。その後、半年間に及ぶ事実上の内戦状態に突入したが、NATOによる軍事介入などの支援の成果もあり、8月24日には首都トリポリが陥落、42年間に及ぶカダフィ政権が崩壊した(2011年リビア内戦)。
現政権に対するデモなどの動きはアラブ以外の諸国にも広がり、中国共産党一党独裁下である中華人民共和国でも、チュニジアのジャスミン革命に追随しようとする運動の呼びかけがインターネットの掲示板等に書かれ、当局はネット規制とデモ場所によびかけられた北京王府井での警備体制を強化した。
一方でイランは、エジプトやバーレーン、イエメンの野党・反政府勢力に接触し、影響を与えることを画策しているとの見方もある[32]。なお、アラブ諸国の中でデモなどの動きがほとんどない国としてカタール、アラブ首長国連邦が挙げられる。
[編集] 各国の状況
[編集] 政権の打倒
[編集] チュニジア
詳細は「ジャスミン革命」を参照
2010年12月17日にモハメッド・ブウアジジが焼身自殺した事件をきっかけに、反政府デモが国内全土に拡大した。軍部の離反により2011年1月14日にはザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー大統領がサウジアラビアに亡命し、23年間続いた政権が崩壊した。この事件はジャスミン革命と呼ばれた。
[編集] エジプト
詳細は「エジプト革命 (2011年)」を参照
チュニジアのジャスミン革命に触発され、2011年1月25日より大規模な反政府デモが発生した。ホスニー・ムバーラク大統領は2月11日にエジプト軍最高評議会に国家権力を委譲し、30年に及ぶムバラークの独裁政権に終止符が打たれた。
その後はエジプト軍最高評議会による暫定統治が行われ、12月7日には同評議会から指名を受けたカマル・ガンズーリを首相とする暫定政権も発足したが、現状に反発する民衆によってデモが継続されている[33]。
[編集] リビア
「2011年リビア内戦」および「ムアンマル・アル=カッザーフィーの死」も参照
2月15日に発生した人権活動家の弁護士の釈放要求デモをきっかけにカダフィ大佐の退陣を求めるデモが国内で拡大。2月20日には首都トリポリにまで飛び火し、多数の犠牲者が出た。カダフィやその息子らは改革の姿勢を見せつつもデモに対する強硬な姿勢をとり[34][35][36]、国民に対する弾圧は欧米を中心とした軍事介入を招いた。リビアは事実上の内戦に突入し事態は長期化するかに思えたがNATOとリビア国民評議会を主にした反政府組織の綿密な作戦が功を奏し、8月24日に首都が陥落[37]、42年間に及ぶカダフィ政権は崩壊した。
以後もカダフィ派による抵抗は続いていたが、国民評議会は9月21日にカダフィ派の諸点の一つである南部サブハを制圧すると、翌10月には残るバニワリドとシルトを17日、20日にそれぞれ制圧し全土を掌握した。シルトの制圧においてカダフィ本人が発見されたが、拘束時に受けた攻撃により死亡した。
[編集] イエメン
詳細は「2011年イエメン騒乱」を参照
イエメンでは、サーレハ大統領の退陣を求める反政府抗議活動が発生。2011年2月3日のデモでは2万人以上が集る大規模なものとなった。サーレハはその前日の2月2日、2013年に行われる次期大統領選に出馬しないこと、世襲もしないと表明した[38]。湾岸協力会議(GCC)が政権移譲を含めた調停を試みたが、サーレハは受け入れを拒否し続け、11月23日になってようやく30日以内にアブド・ラッボ・マンスール・ハーディー副大統領に大統領権限を移譲することに同意。12月10日に暫定政権が発足した。サーレハは2012年の2月21日の大統領選挙で正式に大統領を退任する[39]。
イエメンのデモ活動に参加していたタワックル・カルマンは、女性活動家という名目ではあるが2011年のノーベル平和賞を受賞した。
[編集] デモにより何らかの結実がみられた国家
[編集] アルジェリア
詳細は「2010年-2011年アルジェリア騒乱」を参照
アラブ諸国の中では早期にデモが飛び火した。この影響を受け、アブデルアジズ・ブーテフリカ大統領は1992年以来発令されたままの状態となっており、野党勢力弾圧の有力な手段となってきた非常事態宣言を2011年2月24日に解除した。非常事態宣言の解除はデモ側による要求の一つであった。
[編集] サウジアラビア
詳細は「2011年サウジアラビア騒乱」を参照
サウジアラビアのアブドゥッラー国王は1月29日にエジプトのムバーラク大統領と電話で会談し、デモを行なっている反政府勢力は「表現の自由の名の下でエジプトの治安と安定を危うくする」と非難、ムバーラクを支持する考えを示した[40]。「自由青年同盟」を名乗るサウジアラビアの若者グループが2011年3月11日を「怒りの日」としてフェイスブックを通してデモを呼びかけた結果、賛同者は1万人に上った[41]。
その後も政治改革要求は続き、9月25日にはアブドゥッラー国王が地方行政区評議会に対する選挙権・被選挙権を女性にも与える意向であることが明らかとなった[42]。
[編集] ヨルダン
詳細は「:en:2011 Jordanian protests」を参照
ヨルダンの首都アンマンでも大規模な反政府抗議運動があり、穏健派イスラム原理主義組織「ムスリム同胞団」や左派系団体など数百人が加わった。これをうけサミール・リファーイー内閣が2月1日、総辞職した。内閣が総辞職し国王が政治改革にたいして肯定的な姿勢を見せ、数日後にはデモへの参加者は減った[43]。しかしながら、ベドウィン系部族が、貧窮する国民をよそにラーニア王妃の主催している豪華な誕生日パーティーや海外旅行が公費で行われていることに対し「自らのイメージアップのために国民のお金を不正に流用している」と批判している。王室批判はタブーであるのと同時に、この部族が元々王室支持者だったために波紋が広がっており、この件によって今後の状況が内閣辞任要求から王室打倒にまで至る可能性がある[44]。 2月25日、ムスリム同胞団が呼びかけた6,000人のデモが行われ、国王権限の制限を要求した[45]。
[編集] モロッコ
詳細は「:en:2011 Morocco protests」を参照
2月20日には、首都ラバトやカサブランカなど国内の50ヶ所で、フェイスブックで情報を共有した若者達数千人が国王の権利の制限する新憲法の制定を要求するデモが発生[46]。当初ムハンマド6世はデモに譲歩しない姿勢を明らかにした[47]が、最終的には国王権限を縮小し議会権限を拡大することに合意。7月に改憲が行われ、11月25日の議会選挙で穏健派イスラム政党が第一党になった。2012年1月3日にはアブデルイラーフ・ベン・キーラーンを首班とする新内閣が発足し[48]、今後は王政を維持したままでの緩やかな民主化が期待されている[49]。
[編集] クウェート
チュニジアやエジプトの独裁体制が倒れて以降、クウェートでも事実上のサバハ家独裁に不満を抱く反政府デモが起きるなど改革要求の動きが強まっている。2月18日に同国中部のジャハラで市民権を持たない数千人による住民がデモを起こし、治安部隊と衝突。30人が負傷している[50]。
11月に入り数百人のデモ隊がナセル首相の汚職疑惑を巡り議会に乱入、内閣は責任をとって28日に総辞職、首長はジャビル国防相を新首相に任命した。サバハ首長は12月に国民議会を解散する勅令を出した。憲法の規定では、2ヶ月以内に総選挙が実施される。[51]。
[編集] 大規模なデモに発展・デモが継続中
[編集] シリア
詳細は「2011年シリア騒乱」を参照
バッシャール・アル=アサド大統領が強権的な権力をもつシリア・アラブ共和国では、2011年4月15日に大規模な民主化要求運動が発生、治安当局と参加者との衝突で、首都ダマスカスではデモ隊約20人ほどが負傷したとロイター通信が報じた[52]。
[編集] 小規模なデモに留まる・政権側により制圧
[編集] オマーン
詳細は「:en:2011 Oman protests」を参照
2月27日デモ隊が警官隊と衝突し、4人が死亡した。28日にはソハール港につながる道路を1000人のデモ隊が封鎖した[53]。
[編集] バーレーン
詳細は「2011年バーレーン騒乱」を参照
バーレーンでは2月14日に反政府デモが計画されていたが、直前の12日、政府はこれに対抗する形で、1000バーレーン・ディナールの臨時給付金を全世帯に支給。しかしデモはマナーマや東部のディヤで予定通り行われ、排除した警察により1人が死亡している。15日にも、葬儀のため集まった群衆と治安部隊が衝突、発砲で1人が死亡している[54]。こうした動きに対して湾岸協力会議(GCC)は合同軍「半島の盾」を派遣し反政府デモ参加市民を次から次へと拘束し、またバーレーン政府自身も3月中旬から約2ヶ月半にわたって非常事態を宣言するなどしてデモを力づくで抑えこんだ。その結果、デモ自体は沈静化しているものの、治安部隊とシーア派との衝突はいまだに続いている。
[編集] イラク
詳細は「:en:2011 Iraqi protests」を参照
[編集] モーリタニア
ヌアクショットの議会前にて、政権に不満を持った実業家が車内で焼身自殺を図った。2月25日、首都ヌアクショットで数百人規模のデモが行われた(人口約300万人)。
[編集] スーダン
詳細は「:en:2011 Sudan protests」を参照
1月30日、オマル・アル=バシール政権の打倒を叫び学生らがデモを起こす。
[編集] ソマリア
[編集] ジブチ
詳細は「:en:2011 Djiboutian protests」を参照
2月18日にはイスマイル・オマル・ゲレ大統領の3選に抗議し、今期限りの退陣を求める数千人のデモが発生し、ジブチ市郊外でデモを鎮圧しようとした警察官1人が死亡している。翌日の19日にもデモが発生している。イギリスに在住しているジブチ人のデモ支援者によれば、平和的なものであったという[55][56]。
[編集] イスラエル国境への波及
詳細は「:en:2011 Israeli border demonstrations」を参照
[編集] アラブ以外の類似の活動
詳細は「:en:Impact of the Arab Spring」を参照
[編集] 中国
詳細は「中国ジャスミン革命」を参照
インターネットの呼びかけにより、現在の一党独裁体制からの脱却及び民主化を目的として計画されたデモ。2011年2月20日には13都市での開催の呼びかけにより大人数が集まったが、中国政府がインターネットの監視や外出禁止令などを強化したこともあり以降は下火となっている。中国版ジャスミン革命とも称される。
[編集] アメリカ合衆国
詳細は「ウォール街を占拠せよ」を参照
カナダ人の雑誌編集者で雑誌アドバスターズの創始者カレ・ラースンが金融界を批判するデモを呼びかけた[57]。2011年10月1日にはブルックリン橋におけるデモで700人以上が警察によって逮捕されており、またデモは全米に飛び火している。
[編集] イスラエル
詳細は「:en:2011 Israeli social justice protests」を参照
イスラエルでも物価の高騰により、若者や中間所得者層を中心とした経済改革などを求めるデモが2011年7月以降、繰り返し発生している。特に8月6日のデモでは参加者がイスラエル全土で30万人を超え過去最大規模のものとなり、9月3日のデモでは40万人を突破した[58][59]。さらに、アラブ系イスラエル人の地区などでは差別撤廃を要求する声も出ている[60]。
[編集] ロシア
詳細は「2011年ロシア反政府運動」を参照
2011年12月4日のロシア連邦下院選挙における不正疑惑を発端として起こった反政府デモである。12月10日に野党の国民自由党が計画したデモの参加者は主催者発表で5万人、警察発表で約2万5000人となり[61]、またモスクワ以外の10以上の都市で行われたデモの参加者は合わせて15万人規模という報道もあり[62]、1991年のソ連崩壊以来、最大級のデモに発展している。長期強権統治を続けるプーチンへの不満も水面下にあり、デモの要求として選挙結果の見直しや不正疑惑の解明のほか、プーチン首相およびメドベージェフ大統領の退陣を求める声、政治犯の釈放を求める声も出ている[63]。
[編集] アルバニア
詳細は「2011年アルバニア反政府デモ」を参照
アルバニアでも、政府関係者が不正の計画を話し合うビデオが流出したことがきっかけとなり、総選挙における不正の疑惑や政府関係者の腐敗と汚職、さらに高い失業率や貧困への不満が噴出し、2011年1月に死傷者を出すデモに発展した。
[編集] イラン
詳細は「:en:2011 Iranian protests」を参照
[編集] その他
詳細は「:en:2010?2011 anti-government protests」を参照
[編集] アラブの春でもたらされたその他の影響
アラブの春での悪影響を受けた国はイスラエルといわれている。革命の後、親イスラエルの体制だったエジプトではパレスチナ問題などのイスラエルとアラブ諸国の対立による反イスラエル感情からかイスラエル大使館への襲撃事件が起きている[64]。 また同時にイスラエル寄りのアメリカへの反発(反米)が膨れ上がっているともいわれている。
この他、パレスチナが9月24日に国連加盟申請を行ったことについて、アラブの春が後押しをしたという考察も出ている[65]。
Ahttp://mainichi.jp/select/world/news/20111217dde001030025000c.html
チュニジア:アラブの春「発火」1年 誇りと不安
◇焼身自殺青年を顕彰/革命後も生活厳しく
【シディブジド(チュニジア中部)和田浩明】「アラブの春」の発端となった町は、誇りと不安のはざまで揺れていた。23年続いたベンアリ前政権崩壊のきっかけになったムハンマド・ブアジジさん(当時26歳)の焼身自殺から17日で1年。革命が「成就」した一方で、情勢不安から主産業の観光は停滞し、経済状況は苦しいままだ。市民が「春」を実感するのは、まだ先なのが実態だ。
16日午後、首都チュニス南方約260キロのシディブジド中心部の広場。抜けるような青空の下、ブアジジさんの記念碑の設置が急ピッチで進められていた。17日に予定されるマルズーキ暫定大統領の訪問に備えてのことだ。隣接する郵便局の外壁には、ブアジジさんの巨大な垂れ幕も掲げられた。
現場には数百人の市民が集まり、作業を見守る。職探し中だというカイスさん(26)はブアジジさんを「(キューバ革命に参加した)ゲバラのようだ」と称賛した。その口調には、中東の政治地図に「大変革」を呼び起こしたことへの誇りがにじんでいた。
革命は成った。だが、1月に訪問した際にも聞いた、シディブジドが直面する厳しい経済状況に大きな改善は見られない。
小学校視察官のモアエズ・ブズィディさん(35)によると、革命の余波で観光業が停滞して失職したり、出稼ぎ先だったリビアの混乱で帰郷を余儀なくされた住民が少なくない。カイスさんもチュニジア中東部スファクスのホテルに勤めていたが、「革命後の観光客激減でクビになった」という。
「何でも話せるし、自由になったけど生活は変わらない」。玩具工場で働くイスマハン・バルグーギさん(23)は革命後も続く苦しい現状を訴え、「若い人の失業問題やインフラの整備などに取り組んでほしい」と新政府に注文をつけた。
◇アラブの春
チュニジア中部シディブジドで昨年12月17日、路上で果物を無許可で販売していたブアジジさんが女性警官に摘発され、抗議の焼身自殺。これを機に、長年の抑圧に耐えかねていた市民の大規模な抗議デモに発展し、ベンアリ大統領は1月14日、サウジアラビアに事実上亡命した。
民主化要求のうねりは中東一帯に次々と飛び火し、エジプトのムバラク大統領が辞任に追い込まれたほか、リビアの最高指導者カダフィ大佐は徹底抗戦の末、反体制派に拘束・殺害された。シリアでは3月以降、アサド政権が武力弾圧を続け、内戦寸前の状態に陥っている。
毎日新聞 2011年12月17日 東京夕刊