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折々の記 2012 @

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】01/01〜     【 02 】01/07〜     【 03 】01/08〜
【 04 】01/10〜     【 05 】01/15〜     【 06 】01/17〜
【 07 】01/19〜     【 08 】01/30〜     【 09 】02/03〜

【 05 】01/15

  01 15 星霜移り人は去り
  01 16 餓鬼の首
  01 16 学びの21世紀塾と太宰春台
  
 01 15 (日) 星霜移り人は去り

実母がなくなってもう十七年もたちました。 つい昨日のように亡くなった時が網膜に残っております。 実父は五月で二十年になる。

星霜移り人は去り

この言葉が痛切に頭をかすめる。

一高寮歌の歌詞にある、連想とはおかしなものです。 一高寮歌など普段は思い起こすこともない。

   「嗚呼玉杯に花うけて」  (一高第12回記念祭寮歌)

      嗚呼(ああ)玉杯に花うけて
      緑酒(りょくしゅ)に月の影宿(やど)し
      治安の夢に耽(ふけ)りたる
      栄華(えいが)の巷(ちまた)低く見て
      向ケ岡(むこうがおか)にそそり立つ
      五寮の健児(けんじ)意気高し

      芙蓉(ふよう)の雪の精をとり
      芳野(よしの)の花の華(か)を奪い
      清き心の益良雄(ますらお)が
      剣(つるぎ)と筆とをとり持ちて
      一たび起たば何事か
      人世の偉業成らざらん

      濁れる海に漂(ただよ)える
      我国民(わがくにたみ)を救わんと
      逆巻く浪をかきわけて
      自治の大船勇ましく
      尚武の風を帆にはらみ
      船出せしより十二年

      花咲き花はうつろいて
      露おき露のひるがごと
      星霜移り人は去り
      舵とる舟師(かこ)は変るとも
      我(わが)のる船は常(とこし)えに
      理想の自治に進むなり

      行途(ゆくて)を拒むものあらば
      斬りて捨つるに何かある
      破邪の剣を抜き持ちて
      舳(へさき)に立ちて我呼べば
      魑魅魍魎(ちみもうりょう)も影ひそめ
      金波銀波の海静か

(追想) 時の流れを表した詞は数多くありました。 だが、青年期までの記憶は脳裏にいつもでも残るものなんです。 老生が温故知新という言葉によって人生の一つの戒めとするようになったのも、日本が第二次大戦によって敗北し歴史の本を漁っていた時に大類伸の歴史観によるものでした。

いまでも因果という考え方に拘りたいのは、そのことが大きな要因になっています。

“世情の変態雲の如し”という言葉もまた、時の流れを表した詞です。 これも二十代のとき奈良の猿沢の池からの登り口にある旅館の二階の門間にある一室に、この言葉を書いた扁額があったのです。 今でも鮮明に脳裏にあります。

こうしたことが考えの土壌にあって、現状世界の因果に目が注がれるのです。 温故知新の温故に目が注がれるのです。 金融世界に成り下がった世情は、‘ビルダーバーグ’に始まっていることに留意し、その歩みを検証しなければならないのです。

試みにグーグルで検索してみると、約 179,000 件/(0.08 秒)瞬時にして提示されます。


  ビルダーバーグ会議 - Wikipedia
    ビルダーバーグ会議(ビルダーバーグかいぎ、英語:The Bilderberg Group, Bilderberg conference,
     Bilderberg Club,Bilderberg Society)は、1954年から毎年1回、欧米各国で影響力を持つ王室関係者・
    欧州の貴族や政財界・官僚の代表者など約130人が、 ...

  ビルダーバーグ会議2011「陰の政府」と出席者リスト | すべては気づき
    2011年6月11日 ? 今開催中のビルダーバーグ会議で、爆弾を仕掛けたと脅した2人が逮捕。 ...
    このビルダーバーグ会議の主催側は「グローバル・エリート」(グローバリスト)と呼ばれており、
    グローバリストの真の目的は世界統一政府を樹立すること. グローバリスト ...

  「闇の支配者」による秘密会議『ビルダーバーグ会議』 - 暗黒夜考〜崩壊し ...
    2011年6月12日 ? (転載開始) ◆今年も開催 「闇の支配者」による秘密会議 2011.06.10 『日刊SPA!』
    「陰のサミット」とも呼ばれる「ビルダーバーグ会議」が、6月9日よりスイスのサンモリッツで開かれている。
     ――ビルダーバーグ会議。 日本のメディアは ...

  第三次世界大戦は始まっている NWOとビルダーバーグ会議: 世界の ...
    2011年8月26日 ? 第三次世界大戦は始まっている NWOとビルダーバーグ会議,世の中は陰謀、謀略
    、ウソ、欺瞞に満ちている。真実はいったいどこにあるのだろうか。様々な事柄を判断するための情報を
    収集し記録している備忘録である。

  もうすぐ北風が強くなる 2011ビルダーバーグ会議
    2011年6月14日 ? 6/9から6/12まで、スイスのサンモリッツで、2011年のビルダーバーグ会議が開か
    れた。 西欧王室、国際金融資本、政治マスコミなど100人あまりによって、第二次対戦後に毎年開催さ
    れている。 完全非公開の会議であるが、 ...

  2011年ビルダーバーグ会議 メディアが報じない世界有力者による秘密 ...   (動画)
    6月20日 (ベンジャミンフルドード氏) BISとCIAの情報として、ビルダーバーグ会議は 開催期間の当初の
    半分程度で打ち上げになった ...

  ビルダーバーグ会議 の他の動画

  NWOによる家畜的羊人間Matrixからの脱出:ビルダーバーグ会議の ...
    2011年12月5日 ? ビルダーバーグ会議のメンバー、ジャック・アタリが世界政府のことを語りだした.
    ビルダーバーグ会議のメンバー、ジャック・アタリが世界政府のことを語りだした. ジャック・アタリの世界は、
    googleが情報通信省になり、ロックフェラーが資金提供し ...

  ビルダーバーグ会議 スイスの銀行家の証言|アラフォーママの日記
    2011年10月13日 ? SHIHOのアラフォーママの日記の記事、ビルダーバーグ会議 スイスの銀行家の
    証言です。

  Kazumoto Iguchi's blog : 「2010年ビルダーバーグ会議メンバーリスト」
    2010年5月31日 ? 「2010年ビルダーバーグ会議メンバーリスト」. 「世界は裏の世界を知らない。世間一
    般の人々が想像しているものとはずいぶん違った人物によって動かされているのだよ」 ベンジャミン・
    ディズレーリ英国首相 ...

  ビルダーバーグ会議、今年が最後だそうで・・・静かに逝ってください 属国 ...
    2011年6月13日 ? (Powered by BIGLOBEウェブリブログ) 公のメディアでは全く報道されないビルダー
    バーグ会議。先日ブログで「金融破綻のNWO一派が集う哀れなビルダーバーグ会議」と書いたが、
    今日6月13日の「ベンジャミン・フルフォードの国内外 金融・ ...

●ビルダーバーグ会議からのニュース一例

「ビルダーバーグ会議2010内容」という言葉をグーグルで検索してみると、約47,500件が(0.14 秒)で検索されます。 そしてその初めのサイトの概要説明は次の通りです。

2010年ビルダーバーグ会議・緊急報告 - 副島隆彦(そえじまたかひこ)の ...
www.snsi.jp/tops/kouhou/1393 - キャッシュ
2010年6月10日 ? 「1133」【2010年ビルダーバーグ会議・緊急報告】“主役”不在の今年のビルダーバーグ会議。 .... ところが、今年のビルダーバーグについては、その討論内容や参加者の声を生に取材したりする例は少ないものの、会議が開催されていること、 ...

そこで、クリックしますと次の内容が提示されるのです。 ちょっと驚きでした。


副島隆彦の学問道場 - 今日のぼやき(広報)


「1133」【2010年ビルダーバーグ会議・緊急報告】“主役”不在の今年のビルダーバーグ会議。崩壊しつつある“グローバル・ガバナンス”の行方 (1) 2010年6月10日

 (NY市場のと株価急落と金価格急騰アメリカ油田流出事件イスラエルとイランの一触即発の緊張関係。一見、関係のない複数の事件が今月上旬に相次いで起きている。6月上旬にスペインで開催された今年のビルダーバーグ会議がその謎を解く鍵である)

副島国家戦略研究所 中田安彦/2010年6月10日

 6月7日のニューヨーク株式市場は大幅に下落した。「ウォールストリートジャーナル」(日本版)によれば、「ダウ工業株30種平均は引け際の1時間で下げ幅を拡大し、前週末比115.48ドル(1.2%)安の9816.49ドル」とこの日の最安値を若干上回る水準で取引を終えた。さらに同紙は、「この安値は、終値ベースで7カ月ぶり安値を付けるとともに、電子取引で突然一連の売りが行使され相場が急落した5月6日の安値 9869.62ドルも下回った」と伝えている。(http://jp.wsj.com/US/node_68515

      
 同紙が記事で伝えている5月6日の安値とは、「超高速取引」(フラッシュ・トレーディング)を電子取引システムの不具合が原因とされる株価急落のことで、「フラッシュ・クラッシュ」と言われている。5月6日の株価急落は一時、ダウ工業株30種平均が一時998ドル安を記録した。この原因となったのが、アルゴリズムのプログラムを利用した超高速取引ではないかとメディアで報じられた。しかし、今のところ本当の株価急落の原因は分かっていない。6月7日の株価急落と連動するように国際金価格が上昇、一時、国際金価格は1254ドルまで急騰した。

 また、我が国では、韓国の哨戒艦「天安」が謎の沈没を遂げて50人弱が亡くなった事件や北朝鮮問題の急展開がマスメディアで報道された。しかし、この間、欧米の主なメディアのトップを飾ったニュースは、メキシコ湾の海底油田から大量の原油が流出した事件と、地中海諸国を中心にするヨーロッパの債務危機の話題である。日本のメディアは普天間問題とそれにまつわる政局報道に紙面が大きく割かれた。そして、我が国では菅直人新政権が誕生することで国全体が色めき立っていたこの6月上旬は、世界では地政学的なリスクが浮上している。それは一つはすでにのべた北朝鮮に対する国連の経済制裁の取り扱いを巡る主要国の議論であるが、もう一つは中東問題である。

 5月30日ころ6隻の船団がパレスチナのガザ地区に向かってキプロスを出航。この船団の旗艦はトルコの「マビ・マルマラ号」といい、このクルーズ船にはイスラエルに包囲されたパレスチナのガザ地区を支援する活動家500人と多数のジャーナリストが乗っていた。この船団の接近を察知したイスラエルは、公海(こうかい)上にもかかわらず船団に接近。海軍側はヘリコプターやボートで奇襲部隊を送り込んだのである。この突撃作戦で民間人9人が死亡している。この作戦を巡ってはイスラエルとパレスチナ側の見解が食い違っているが、民間人をこともあろうに公海で殺害したイスラエルの行動は大きな非難を浴びた。今国連ではイスラエルの核保有を調査する動きが、イランの核開発に対する追及と並行する形で進んでいる。


 メキシコ湾での原油流出事故は、国内で支持率低迷に悩まされるバラク・オバマ政権にとって追い打ちを掛ける事件だった。この事件はメキシコ湾沖合80キロの海底にある、石油掘削施設「ディープウォーター・ホライズン」が爆発した事件である。この爆発によって、海底1,522mへ伸びる深さ 5500mの掘削パイプが折れて海底油田から大量の原油がメキシコ湾全体へと流出する惨事となった。

 欧米のメディアは、イラク戦争の時にアメリカの爆撃を受けて破壊された油田によって汚染された時のように、ルイジアナ州沿岸に流れ着いた石油まみれになった水鳥の姿を報じている。この事件は、オバマ政権にとって、ブッシュ政権の支持率を大きく下げた「ハリケーン・カトリーナ」のようだとも言われるほか、カーター大統領の再選を阻む原因の一つとなった「イラン大使館人質事件」のようだとも言われるようになった。私はこの事件はオバマの支持率を下げることは間違いなく、11月の中間選挙が近づくにつれ、オバマのこの油田問題への責任追及が深まると予想する。


 この「株価急落と金高騰」、「中東・極東の緊張」、「油田爆発事故」という大きな事件に加えて、今年の春からギリシャの債務危機に端を発し、スペインやポルトガルの財政状況の危機が喧伝され、大きなユーロ売りが仕掛けられるようになった。これを受けてドイツは全ての金融商品の空売りを規制するなどの動きをみせている。5月に政権交代が実現したイギリスの保守党・自由民主党の連立政権も、緊急の課題として財政再建に取り組む姿勢を見せている。


 このように、世界全体がかなり変動(ボラティリティ)した状況下で開催されたのが、今年のビルダーバーグ会議である。本稿では今年5月上旬に開催された、三極委員会(トライラテラル・コミッション)と6月上旬に開催されたビルダーバーグ会議の様子を周辺報道を交えながら分析する。

<ビルダーバーグの公式ウェブサイトが出現>

 今年のビルダーバーグ会議(Biderberg Meetings)は、スペインのバルセロナ近郊のリゾート地、シッチェス(Sitges)で開催された。去年は、ギリシャのアテネ近郊の都市、ブリアグメニ(Vouliagmeni)で開催された。現在の欧州債務危機の舞台となっている都市で同会議が開催されたことは、非常に象徴的である。


 ビルダーバーグ会議と前後して、5月には三極委員会がアイルランドのダブリンで開催され、この場にはデイヴィッド・ロックフェラーの姿もあった。(ユーチューブの動画で、ロックフェラーが会場に入っていく姿が確認されている)

 ビルダーバーグや三極委員会というのは、知らない人の為に説明しておくと、世界経済フォーラム(ダヴォス会議)と類似する国際会議体である。ただ、ダヴォス会議がマスコミの取材や、セッション(討議)の生中継があるのに対して、ビルダーバーグや三極委員会は基本的にマスコミの取材を受けていない。会議としての性格は同じで、三つの国際会議ではその年に大きなテーマとなる政治課題について、世界中の有識者や多国籍企業の経営者、政治家たちが集まって討論を行う。ビルダーバーグや三極委員会にしても、後述するように世界の主要なメディアのトップクラスの記者達が参加しているにもかかわらず、その討論内容についてはほとんど報道されない。

 ただ、三極委員会には公式ウェブサイトがあり、毎年の総会が終わった後、数ヶ月後には討論の要旨だけは公開される。また、毎年の会員名簿もインターネットを通じて流出している。同様にビルダーバーグについても、メディアで時々その名前は取り上げられることもあるし、会議が終了したあとに主催者側から「プレスリリース」としてFAXで主な議題と参加者リストを請求することは出来る。

 ところが、今年のビルダーバーグについては、その討論内容や参加者の声を生に取材したりする例は少ないものの、会議が開催されていること、会議に対する市民団体の抗議活動が起きていることが、かなり精力的に報道された。

 私もインターネット検索を通じて全世界のニュースを調べてみたが、6月上旬から英語、スペイン語などを問わず、会議についての報道が増えている。「ニューヨークタイムズ」や「ワシントンポスト」、「ウォールストリート・ジャーナル」などの主流メディアよりも認知度で多少落ちる、英「ガーディアン」や「タイムズ」、「インデペンデント」などの英字紙では実際に会議が開催されるホテルの前に記者を派遣している例もあった。会議が終わった後、「ガーディアン」のウェブサイトには、会議に参加していた、ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官やロバート・ゼーリック世界銀行総裁の姿の隠し撮り写真が掲載されている。


 それ以外にも、ビルダーバーグ会議が開催される直前の6月1日には欧州議会(ストラスブール)では、イタリア系の民族系議員の求めに応じて、ビルダーバーグ会議を長年取材してきた、ロシア生まれのダニエル・エスチューリンというジャーナリストが欧州議会のコンファレンスでビルダーバーグの実体について証言するなどの異例の出来事があった。

 ところが、さらに異例だったのは、従来ビルダーバーグはFAX以外の手段で一般向けに情報発信をしてこなかったのだが、会議が終了する前後に突然、「bilderberg meetings.org」のドメインで公式ウェブサイトを設置したのである。このウェブサイトについては海外のビルダーバーグ・ウォッチャーの間ではかなりの真贋論争が行われているようだ。


 ただ、私がある海外在住の金融関係者から教えて貰ったところでは、このウェブサイトはオランダ国内で設置運営されており、ウェブサイトの設置者もオランダのIT企業関係者であるということだ。ビルダーバーグはこれまで事務局はオランダのライデン市にあり、ただ1人の職員として女性事務局長のマヤ・バンク=ポルダーマン(Maja Banck-Polderman)がいるだけであると声明してきたが、オランダにウェブサイトが開設されていることや、内容に一貫性があることからこれは本物ではないかと思う。

 このウェブサイトには、1954年から現在までの毎年の会議の主要テーマや運営委員会(ステアリング・コミッティー)の名簿、ここ2年の会議の詳しいアジェンダや参加者名簿が掲載されている。

 この名簿に掲載されているように、今年のビルダーバーグには、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツが初めて出席した。奥さんのメリンダ・ゲイツは過去に一度出席したことがある。ゲイツはこの前後にはバルセロナ市内で、世界の食糧危機問題を考える国際シンポジウムに出席。そのことは現地の主要メディアでも報じられており、ゲイツ自身もビルダーバーグへの出席を認めた。マイクロソフト創業者としてではなく、ウォーレン・バフェットなどが資金援助をしている、ビル&メリンダ・ゲイツ財団のトップとしての出席ということである。


<地球寒冷化を話し合った今年のビルダーバーグ>

 そこで、このウェブサイトで紹介されている内容を紹介することにしたい。それによれば、今年の議題となったのは以下のテーマだという。

 「金融制度改革、安全保障、サイバーテクノロジー、エネルギー問題、パキスタン問題、アフガニスタン問題、世界食糧問題、地球寒冷化問題、ソーシャル・ネットワーキング、医療サイエンス、EUとアメリカの関係」(10年、スペイン会合)

 ここで地球寒冷化問題が含まれているのは何かの冗談ではないかと思う。これまでビルダーバーグでは地球温暖化問題が主要な議題として話し合われてきたからだ。ちなみに去年09年のアジェンダは以下のようになっていた。

 「金融危機、政府と市場の関係、国際機関の役割、イラク、パキスタンとアフガニスタン、アメリカと世界、サイバーテロ、新帝国主義、保護主義、ポスト京都議定書の課題」(09年、ギリシャ会合)

 地球温暖化問題をめぐっては、去年の12月にコペンハーゲンでCOP15(コペンハーゲン国連気候変動会議)が開かれているが、この前後には国連の気候変動に関わる報告書で使用されたデータが改ざんされていたことが分かったり、ヒマラヤの氷河が温暖化で2035年までに消失するとされたIPCC報告書に根拠がないことが報じられたりもした。

 さらに、温暖化問題への取り組みでノーベル平和賞を受賞した、気候変動枠組み会議(IPCC)のラジェンドラ・パチャウリ議長が温暖化を宣伝することで、排出権金融取引などの自分のビジネスに利用していたことがイギリスの「テレグラフ」などによって報道されるに至り、世界中の地球温暖化対策への熱意は一気に冷めてしまった。実際、コペンハーゲン会議は事実上決裂。中国やインドなどの新興国と欧米の亀裂が表面化、日本だけは鳩山由紀夫首相(当時)が、夢のようなCO2削減目標を掲げていたのである。


 ここに来て、「地球寒冷化」(global cooling)が討論の議題に加わったことは、事実上、この問題でビルダーバーグが世界の世論形成に失敗したことを認めたに等しいだろう。分かる人には分かる形で白旗をあげたようなものだ。

<主役だった人物が不在だったビルダーバーグ>

 ビルダーバーグを長年取材してきた、アメリカのリバータリアン系のジャーナリスト、ジム・タッカーは、今年のビルダーバーグを総括して、「今年の会議は エリートのための権威主義的な世界政府樹立への障害となる課題が露呈し、歴史上最も控えめで悲観的なものとなった」と述べている。

 ビルダーバーグは世界政府を目指しているかについては議論が分かれるが、近代国民国家の上に存在する、グローバルな統治機構(グローバル・ガバナンス)を確立することを目的にして登場したことはもはや誰もが認めることである。ビルダーバーグというのは、一言でいえば、欧州帰属の悲願であった「ヨーロッパ共同体」をアメリカの力を借りて樹立すると言うことを目的にしており、ヨーロッパ共通通貨のユーロの導入についても同会議が大きな役割を演じた。欧州だけではなく世界中の国家指導者や企業経営者の中から「超国家的指向」を持ったものだけがビルダーバーグに長年参加してきた

 その中の1人であるデイヴィッド・ロックフェラーは、自らの回想録の中で「自分が国際主義者であることを批判されるなら私はその批判を甘んじて受けるし、それを誇りに思う」と書いているが、このようなグローバリストたちが集まって会合を開くのがビルダーバーグなのである。

 国際的にビジネス展開をしている多国籍企業の経営者たちにとっては、実際の住まいと仕事場、バカンスを楽しむところはまったく同じである必要もない。彼らは自家用ジェットで世界中を飛び回り、資金の移動についても自家用ジェット「ガルフストリーム」で行う。世界的に今進行している金融統制の網にはかからないだろう。だから、「超特権階級(スーパー・クラス)」なのである。毎年自家用ジェットでスイスのダヴォス会議にやってくるエリート達はそのようにして密かに資金を移動しているのであろう。


 その意味では、5月の三極委員会直前と6月のウォール街の急落は、彼らが資金を移動する際に行われた売りの副産物であった可能性がある。エリート達は、ドルであれユーロであれ、本音では「資産の価値としては金投資に勝るものはないのだ」と信じている。この秘密会合の前後で国際金価格が急騰するというのはどういうことなのかを私たちはもう一度考える必要がある。

 ジム・タッカーが言うように今年のビルダーバーグ会議は、確かにウェブサイトに掲載されている「出席者名簿」を見ただけでもこれまで会議で主要な役割を果たしてきた人物の姿がなかった。まず、5月の三極委員会には元気な姿を見せたデイヴィッド・ロックフェラーの名前が名簿にはない。去年のギリシャ会合には参加していた。

 それから、欧州中央銀行(ECB)総裁のジャン・クロード=トリシェやイギリス財務大臣のジョージ・オズボーンの名前もなく、ティモシー・ガイトナー米財務長官、クリスティーヌ・ラガルデ仏財務大臣の名前もなかった。

 それもそのはずで、かつてビルダーバーグに参加していた、IMFのドミニク・ストロス=カーン専務理事も含めて、彼らはみな、6月4日から5日にかけて韓国の釜山で開催されていた、G20財務大臣・中央銀行総裁会議に出席していたのである。ビル・ゲイツとアフリカ支援問題を話し合ったと見られる、ロバート・ゼーリック世銀総裁だけが今回のビルダーバーグには主立った国際金融機構のトップとしては出席していた。現役のFRB(連邦準備制度理事会)議長がビルダーバーグに出席することは、会合が米国内で開催される場合を除いてはないのだが、フランス中央銀行総裁時代から毎年出席していたトリシェECB総裁の姿がないことは「異常」と言って良かった。


 しかも、肝心のG20ではビルダーバーガーたちがもくろんでいた、世界的な銀行税の導入は上手くまとまらなかった。ビルダーバーガーたちは、去年の11月に地球温暖化問題を口実にして欧州域内で「炭素税」(グリーン・タックス)を導入し、ヨーロッパ連合の今後の財務基盤にしていく方針も出していた。この方針を、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官や、現在のビルダーバーグ名誉議長のエティエンヌ・ダヴィニオン子爵に提示したことで、初の欧州大統領に特別に推挙されたのが、ヘルマン・ファン=ロンパイ(ベルギー前首相)だったのだが、このファン=ロンパイもビルダーバーグには出席していない。ファンロンパイ大統領は、ロシアで5月31日から二日の日程で開催された、「ロシア・EUサミット」に、これもビルダーバーグ会議の「超常連」ともいうべき、ホセ・マヌエル=バローゾ欧州委員長と出席している。


 このように、今年のビルダーバーグ会議はかつてのビルダーバーグの主役たちが軒並み欠席するという異常事態の中で開催されたのである。会議のホテル周辺から隠し撮りした写真には会議の参加者と思われる人がゴルフに興じているものまであった。

 地球温暖化を奇貨としたニューエコノミーの創造や、世界的な金融規制を通じての国際協調、といったアジェンダをビルダーバーグは掲げてきたのだが、この全てがビルダーバーグの本拠地であるヨーロッパ大陸の中でアメリカの銀行が売った金融商品による欧州銀行危機によって全ての歯車が狂い始めた。08年のリーマン・ショックによる金融恐慌を回避するためにG20諸国は巨額の財政出動を実行に移したが、それでも景気は思うように回復していない。

 デフレの中で財政出動をくり返すことで、世界的な国家債務危機(ソブリン・デット・クライシス)を引き起こしてしまい、日本の「失われた10年」のような状況が世界的に広がっている。デフレ経済が専門のバーナンキFRB議長までも月曜日のシンクタンクでの講演で、「景気回復が失業率を急速に押し下げることは恐らくない」との見解を示しており、失業率が「当面は高止まりする」見通しを述べている。

 去年の会合ではギリシャの中央銀行総裁や外務大臣が、今年の会合ではギリシャのジョージ・パパコンスタンティヌ財務大臣やホセ・ルイス=ロドリゲス・ザパテロ(スペイン首相)が会合に出席していることが確認できる。会合は、それぞれギリシャ、スペインという債務危機の震源地で開催されている。しかも、その会議の場にはギリシャやスペインの国家指導者が呼ばれているということは、彼らの間で事態が深刻であることを示唆している。この点から考えると2011年の会合は同じく最近、国家債務問題が大きく取り上げられている、イギリスで開催される可能性が高いのではないか。

 01 16 (月) 餓鬼の首

小林石材店では餓鬼の首は休みにするという。 調べてみるとお墓関連の仕事をする店としては大事なことなんだろうと思いました。 少年の頃にはこの「餓鬼の首」については、母からもサイトにある説明と同じことを聞いている。 戦前は誰しも知っていたことでした。



   http://kaizenji.org/sonota/gakinokubi.html
   ■ 「餓鬼の首」って何?
   開善寺HPより

「餓鬼の首」って何?

子どもの首という意味ではありません。

お盆の十五日の翌日(十六日)には「今日は餓鬼の首だから、何もしないぞ」と、昔はいいました。「餓鬼の首」ってのは、何ですかと聞くと「今日は地獄の釜も蓋が開いて、餓鬼も出入り自由になる日なのだ」ということで、意味がはっきりしません。

餓鬼の首は一年では二度あります。1月16日と7月16日です。(お盆が8月の所8月16日)実はこの日は閻魔さまの御縁日(えんにち)(注1)で、閻魔様の御縁日の場合は特に「賽日(さいにち・さいじつ)」(注2)というそうです。「閻魔賽日」といます。一般にこういう日を斎日(注3)といいますが、閻魔様には賽の河原との繋がりもあって「賽日」がふさわしいですね。1月16日は[初閻魔」とも云われています

閻魔さまにとっては公休日らしく、地獄の釜も蓋が開き、彼の川も出入り自由になるそうです。

此の岸の住民(この世の人々)にとっては、斎日(賽日)であれば、この日は身を慎まなければなりません。「注2」にもあるように、この日は藪入りでもあります。藪入りについては、

1月16日及び7月16日は藪入り(やぶいり)です。

江戸時代までは商家の奉公人は年2回のこの藪入りの時だけ、お店を休んで実家に帰ることができました。明治になって「週」の制度が入ってからも、外国系の企業以外は昭和初期までこの風習が残っていました。昭和初期の頃ですと、一般には商家の主人が奉公人に小遣いを持たせて家に帰し、戻ってくる時は母が送ってくるといったものもあったようです。

また地方によっては、この日は嫁が実家に里帰りする日にもなっていました。この時通常婿が送っていく訳ですが、婿も一緒に泊まる風習の所、婿は家に入れない風習の所などが地方によってありました。今はいつでも里帰りできますので、こういう風習も消えていっています。またこの里帰りの時にお餅を持っていく習慣のところもありました。

この日は閻魔様の縁日でもあります。そのため「地獄の釜のふたが開く」と言われ、海に出ることを禁じてきました。この日に地獄の十王詣でをする人もあり、藪入りで帰った人が故郷の閻魔堂にお参りに行く風習もありました。

餓鬼が遠い(?)彼の岸(かのきし)より帰ってきます。出かけて留守にしては、餓鬼に申し訳ないでしょう。餓鬼といえども家の者です。此の世の子どもたちも帰ってくる、嫁(婿)も実家に返す。家庭内は内輪の者ばかりになります。所謂「水入らず」です。一番遠慮がなく気楽になれるわけです。

こういう時は何もせず団欒(だんらん)に徹するのが人の道だ、ということでしょうか。

この地方(長野県飯田)では、人の一番いい時(季節・時節)を「蚊帳を吊る前、嫁来る前」(かやをつるまえ、よめくるまえ)と表現することがあります。「蚊帳を吊る前」はいうまでもなく、やっと暖房がいらなくなって、しかもまだ蚊も出ない暮らしやすい季節のことです。

「嫁来る前」は、お嫁さん(婿さん)だった人が甲羅を経てお母さん(お父さん)になり子どもが成人した頃(家の人になり)、が、まだ嫁(婿)(他人)がいない、家族だけの遠慮の必要のない時で、その頃が一番暮らしやすいというのです。

そういう気持ちのいい時間を、一年の内幾日かでも実現できるのが「餓鬼の首」です。兄弟(姉妹)たちが帰省して、お嫁さんが死ぬほど疲れると云うこともない。なかなかうまくできた仕組みなのです。

「今日は餓鬼の首だから、何もしないぞ」という意味はこういうことです。地域の諸行事などはもってのほかでしょう。



以前のものは消える前には、以下のように書いたらしい。

ここから

閻魔賽日(えんまさいにち)といって地獄の公休日である。獄の釜の蓋が開く日と伝えられる。餓鬼も出入り自由なのかも知れない。こういう日を利用してご先祖様は帰ってこられるのだろうか。ご先祖様も、遠い(?)ところから来たのに家族が留守ではさぞやがっかりとされるのではないか?

此岸でも両日は昔で云う藪入りでもある。奉公人に年二回の休暇が出る日で、草深い田舎に帰ることから藪入りと言ったとか。

当然店は休みになるわけだし、受け入れ先の実家でも野に出るわけにいかない。また、共同体の行事を行うことも避けられたはずである。

嫁いできたお嫁さんも実家に帰すのである。家族だけで水入らずの時を過ごそうという、先人の知恵であったろうか。

ここまで


しかし、水入らずの時がいかに至福の時であろうとも、何時までも続くわけではないようです。また続けてはいけないのでしょうね。子はいずれは親離れが必須となりますし、ご先祖様もご先祖様一般(その他大勢の中の一人としての)になり、やがては生きた個としては記憶からこぼれていきます。お施餓鬼などのことを思えば、なおのことそうなのでしょう。小さな流れがやがては大海に注ぐように、元の川の記憶は薄れていくべきなのでしょうか。



ついでに、お施餓鬼を調べると次のことがわかりました。

   施餓鬼の由来
   ウィキペディアより

目連の施餓鬼は「盂蘭盆経」によるといわれる。この経典によると、釈迦仏の十大弟子で神通第一と称される目連尊者が、神通力により亡き母の行方を探すと、餓鬼道に落ち、肉は痩せ衰え骨ばかりで地獄のような苦しみを得ていた。目連は神通力で母を供養しようとしたが食べ物はおろか、水も燃えてしまい飲食できない。目連尊者は釈迦に何とか母を救う手だてがないかたずねた。すると釈迦は『お前の母の罪はとても重い。生前は人に施さず自分勝手だったので餓鬼道に落ちた』として、『多くの僧が九十日間の雨季の修行を終える七月十五日に、ご馳走を用意して経を読誦し、心から供養しなさい。』と言った。目連が早速その通りにすると、目連の母親は餓鬼の苦しみから救われた。これが盂蘭盆の起源とされる(ただしこの経典は後世、中国において創作された偽経であるという説が有力である)。

これに対し、阿難の施餓鬼は「救抜焔口陀羅尼経」に依るものである。釈迦仏の十大弟子で多聞第一と称される阿難尊者が、静かな場所で坐禅瞑想していると、焔口(えんく)という餓鬼が現れた。痩せ衰えて喉は細く口から火を吐き、髪は乱れ目は奥で光る醜い餓鬼であった。その餓鬼が阿難に向かって『お前は三日後に死んで、私のように醜い餓鬼に生まれ変わるだろう』と言った。驚いた阿難が、どうしたらその苦難を逃れられるかと餓鬼に問うた。餓鬼は『それにはわれら餓鬼道にいる苦の衆生、あらゆる困苦の衆生に対して飲食を施し、仏・法・僧の三宝を供養すれば、汝の寿命はのび、我も又苦難を脱することができ、お前の寿命も延びるだろう』と言った。しかしそのような金銭がない阿難は、釈迦仏に助けを求めた。すると釈迦仏は『観世音菩薩の秘呪がある。一器の食物を供え、この『加持飲食陀羅尼」』(かじおんじきだらに)を唱えて加持すれば、その食べ物は無量の食物となり、一切の餓鬼は充分に空腹を満たされ、無量無数の苦難を救い、施主は寿命が延長し、その功徳により仏道を証得することができる』と言われた。阿難が早速その通りにすると、阿難の生命は延びて救われた。これが施餓鬼の起源とされる。

この2つの話が混同され、多くの寺院において盂蘭盆の時期に施餓鬼が行われるようになったといわれる。

 01 16 (月) 学びの21世紀塾と太宰春台

NHKのTVで「学びの21世紀塾」が放映されました。

塾頭あいさつとして、豊後高田市長永松博文さんは次のような言葉をホームページへ書いています。

  「教育のまちづくり」をめざして

 豊後高田市では、平成14年度から完全学校週5日制の受け皿として、「学びの21世紀塾」を開塾しました。
 本市は、昔から教育の盛んな土地柄で、かつては「戴星堂」や「涵養舎」をはじめ多くの寺子屋が存在し、教育への情熱は、県下でも群を抜いていました。今日でも「学びの21世紀塾」を通じて、市内の学校では、学習・スポーツ面で素晴らしい成果を上げており、大いに役立てていただきたいと考えています。
 みなさんには、自分で課題を見つけ、自ら学び自ら考える力や正義感、倫理観などを身につけ、豊かな人間に育っていくことを期待しています。
 豊後高田市の将来を担う塾生の皆さん、あらゆることに挑戦し、自分の夢の実現に向けてしっかりと頑張ってください。
そしてその動機と組織・内容は次の一頁のまとめられております。

    http://www.city.bungotakada.oita.jp/kyoiku/page_00030.html
    豊後高田市ホームページ/学びの21世紀塾とは?

大分県豊後高田市はどこにあるのか、google で確認するとよい。

    http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&utm_source=ja-hp
    大分県豊後高田市中真玉2144-12



喬木村が教育に寄せる意気込みは、

    http://www.vill.takagi.nagano.jp/img-Z02145933.pdf
    平成23年度 喬木村 教育の概要
    その中の49p〜50p
    喬木村生涯学習基本構想(抜粋)平成14年12月策定

この二つを見ると、取り組みの具体化が推察できます。 喬木村の皆さんはどう考えますか?



次代を担う青少年の育成は、0歳教育を土台にした親子、地域活動に始まり、保育園教育、小学生教育、中学生教育、成人教育など、喬木村の将来を見据えた基本構想を持つことが必要なのではないでしょうか?

「子育て憲章」という名前にとらわれた一時的な構想では、村の将来を見据えた考え方とは言えません。

OECDの学力調査の推移に驚き慌てふためいていても、脚下照顧、自分たちの実情に眼を向けないかぎり、日本全体の学力は向上しません。 温故知新というではありませんか?

郷土の先人、太宰春台の説を傾聴しようではありませんか?



● 「信濃の国」に謳われた太宰春台について

@http://www.geocities.jp/goromaru134/goromaru/seitoku11b.html
<太宰春台の学校論>



 春台の著作は多いが、『経済録』が主著である。『経済録』は彼の経世思想を書いた、現代的には政治論・経済論であるが、第1「経済総論」、第2「礼楽」、第3「官職」、第4「天文地理」、第5「食貨」、第6「祭祀・学政」、第7「章服・儀仗・武備」、第8「法令・刑罰」、第9「制度」、第10「無為・易道」の10巻からなっている。このうち春台の学校論・教育論は、第6「学政」の項、その他の著作では『聖学問答』『弁道書』などに展開されている。

 春台は「学政」で次のようにいう。

「学政というは、学術の政令なり。天下国家を治むるには、人才を得るを先とす。人才は学問より出るなれば、天下の人に学問をなさしめて、人才の出る様にする政を学政という。‥‥およそ学政はただ人才を多く得るを要とす。人才は国家を治むる道具なる故なり」

では、天下国家を治める人材とはどのような人間をいうのか。それは、博い知識と広い視野を持ち、見識の高邁な人物を指す。春台によれば、このような人物は学問をすることによって育成されるのである。だからこそ、学校という組織が必要なのである。

「学問なき者は、今日、目に見、耳に聞きたるばかりを知りて、遠き古の事、広き天下の事を知らざる故に、聞見狭く知識少なくして、一己の身を修め、小さき家を治むるにも是非に惑い、処置に惑うことあり。‥‥書を読み学問したる者は、この国に居りて異国のことをも知り、今の世に生まれて千万年の遠き古をも知り、聖賢の教えを守り、歴代の治乱、政事の得失を考えて、今日の時宜にしたがう、これ学問の益なり」

続いて、中国を例に引きながら、人材主義を主張するのである。

「今の世に、七八才以上の童子を師の所に集めて、物書くことを教え、小謳を教え、今川状、庭訓、式目などを読まして、九九八算などを教える如くなり。‥‥さて十五にして大学に入りて、先王の礼楽を学び、士大夫となりて朝廷に立つべき礼義を習う。‥‥総じて中華の風は、古より今の世に至るまで、学問才芸によりて立身して、庶民の子も爵禄を得て、富貴にも進むが故に、人々競って学問を励むなり」

徹底した学問中心の人材論である。しかし、ただ学問だけではない。「徳行才芸ある者」でなければならない。

 春台が学校教育によって養成する人材とは、学問と徳行才芸を兼ね備えたものであったのである。そのような人物こそが、天下国家を治めるにふさわしいことは、言うまでもない。




Ahttp://www8.plala.or.jp/hkino/file4-3.htm
 <飯田藩補遺―山口お藤と太宰春台>

 飯田高校の校歌3番に「遊惰の世より抜け出でて、骨ある儒者の名を得たる、太宰春台先生は、昔この地に生れたり。侫諛ネイュの俗を退けて、血ある女と謳われし、山口阿藤その人も、またこの中に育ちたり」とあるが、二人の詳しい話は聞いたことがなく、福澤悦三郎という作詞者についても注意することなく永年が過ぎてしまった。

 偶然この03年11月の飯田高校同窓会の新聞で、福澤氏が伊那出身の国漢の先生で、飯田中学在任は明治39.544.3。赴任した年に「南信健児の歌」を作詞、それが校歌となったと判った。また、お藤も春台も知らない人が多い。今は3番は歌われていないらしい。

 たまたま住んでいる小金井の市民講座で、ICUの小島康敬先生の指導で荻生徂徠の「答問書」を読む機会があって、徂徠の弟子であった春台について、多少の認識を加えることができた。しかしそれではとてもわかった事にならない。何冊か本を読む必要があった。

 山口阿藤については、大分前に三田村鳶魚の書いた文庫本によって、烈婦説の根拠が安井息軒の「阿藤伝」にあり、それには異論があることは承知していたが、その蔦魚の本が見つからない。図書館にもない。国会図書館で探さねばという時,ようやく本箱の隅から見つかった。そこで、小島康敬「徂徠学と反徂徠」1994ぺりかん社、武部善人「太宰春台」1997吉川弘文館、相良亨著作集「日本の儒教1・2」1964ぺりかん社、原念斎「先哲叢談」1994東洋文庫、三田村鳶魚「お藤は烈女か」1998中公文庫「お大名の話・武家の婚姻」所収(原著は大正12年刊)、鈴川博「消された飯田藩と江戸幕府」2002南信州新聞社などによって概説を試みることにした。

 なお、春台については、日本思想大系「徂徠学派」と、相良亨著作集「日本の儒教」1・2は、儒教史上の位置付けについて教えられるところが大であった。相良氏の書物については稿を改めて精読したいと思っている。

1 山口お藤

@       三田村説の問題点

 三田村鳶魚については、江戸時代についての膨大な著作がある事しか知らない。たまたま本屋で手にした中公文庫に、お藤と飯田藩のことが71ページにわたって書いてあった。(校歌では阿藤、息軒も阿藤であるが、蔦魚にならってお藤で通すこととする。)

 蔦魚説に対する問題点は4点ある。

 1は「お藤は烈女か」と、校歌にある烈女説に疑問を呈していること、

 2は天保改革に貢献した英邁なはずの飯田藩主堀親宝(正字は宝の下に缶を付ける。

  チカシゲ)の女性問題をあげつらっていること、

 3は幕末4代の将軍に奏者番などとして仕えた嗣子親義(チカノリ)の暗愚が問題の

  発端としたこと、

 4は殿様の幕政への参加。本人は望んだろうが、余分な出費のもととして国許からは歓

  迎されなかったということ。

 事情に通じていると思われる三田村さんの意外な発言にはいささか驚かされ、また勉強させられたが、以上の問題を頭に置きながら考察する。

A 烈女説とお家騒動と安井息軒

 鳶魚によると、当時大名家のお家騒動を面白おかしく書いた本があって、その中に作者不明の「飯田忠婦伝」なる写本があった。それを当代の碩儒安井息軒が鵜呑みにして漢訳「烈女阿藤伝」が公刊された。さらにそれをなぞった藤田藤陰の小説「藤の一本」が世に流布されて、烈女説となった。しかし息軒が烈女と考える理由がなかったわけではないと、蔦魚は、飯田藩の家督相続を巡っての、お家騒動になりかねなかった内幕を語る。

 なお上記3冊の江戸時代の書物、国会図書館で探したが見当たらなかった。飯田のどこかにあるかもしれない。確かめたいものである。

 なおこの小論執筆後に、江戸末期に噂話を集めた「藤岡屋日記」を編集した、鈴木裳三編「藤岡屋ばなし」ちくま学芸文庫に、「信州飯田藩の「お初」」という題で、お藤事件が載っているのを発見した。烈女説で終始しており、これが当時流れた噂だったのかもしれない。(04.2.8)

B 藩主堀親宝と嗣子親義とその弟

 親宝は徳島257千石、蜂須賀侯の妹を正室としたが(彼女の姪が後に松平定信の嫡男の正室となった。蔦魚は彼女を定信の姪としているが誤り)、迎える親宝18歳に対し夫人は20歳でその間に子は生まれず、側室によって15人の子女(当時珍しいことではない)があったが、長男は早世した。お糸という側室に生ませた次男が親義で、嗣子のはずだが親宝になつかない。「癇性で発育が鈍く」と伊那03.11に永井辰雄氏は書いているが、蔦魚は暗愚だからであるという。ところが同腹で2歳下の三男が怜悧といわれ親宝の心も傾き、まだ幼年の大納言家慶の紅葉山東照宮と赤坂日枝神社参詣のお供に選ばれ(年齢で親義は該当しなかった)、将軍家斉へのお目見えも兄に先立ち、家督論が御殿女中の口の端に上るようになった。

C 側妾蒹お年寄若山

 この間親宝の寵愛は、お糸から中老若江(後に阿藤に斬られたお年寄若山)に移った。若江は、お糸と同年輩で美人ではなかったが才気もあり文筆も立ち、殿様の心を捉え離さなかったので、側妾は現役のままでお年寄として奥向き支配をも任されるようになった。この人が、嗣子ではあるが暗愚な兄でなく弟を押すようになった。殿様と一体の立場である。「烈女阿藤伝」に、この人の姉が西丸御殿でお年寄を務め、親宝の幕閣へのとりなしに役立ったとあるが、蔦魚はそれらしい人を推定してはいるが、地位も低く時期も場所も異なると否定している。

 お家騒動の危機感を抱いた国許から、親宝の叔父(蔦魚は従兄弟としているが間違い)に当たる家老安冨主計が江戸に来て諫言をした。黒幕と睨まれていた若山は一時君側を離れたが、安冨帰国後、老女豊浦(後に若山に戻る)として復帰した。よほど気に入られていたらしい。間もなく問題の弟が急死して家督問題はなくなったが、復帰した若山が、側妾の身でお年寄りとなって奥の取締りをするのがけしからぬという若山排斥問題が表面化した。蔦魚も異例と批判するこの点が消えないで、若山は親宝から名跡を与えられる恩典に浴し、それがまた周囲の反感をそそり、お藤の凶行は、原因など一切発表されなかっただけに、「君側の奸を除く烈婦」という物語にふくれあがった。

D 親義お手つきのお藤と若山排斥問題

 嗣子の立場が安泰となった親義は、天保改革で親宝と一体の水野忠邦の妹を正室として迎えたが、いつか若山のところに召し使われていた地位の低いお藤に手をつけた。お藤の父は飯田藩の江戸屋敷に勤める下級武士であった。鳶魚は、徳川泰平爛熟文化という時勢にあって、側妾蒹お年寄という異常を許した飯田藩の風紀の乱れを指摘しているが,取り締まりの立場にあった若山は、若殿と下女との事件を心配して親宝に打ち明け、お藤を親義附き中老に取立てる解決を願った。しかし水野に遠慮して自身の生存中は親義に妾を持たせなかったほどの親宝は(自分に比べれば厳しすぎるが)これを拒否、お藤を御殿から下らせた。実家に戻されたお藤は、金貸しの盲人と結婚したが間もなく死別し、再び実家に戻ったが、父親によって親宝の妹で出戻っていたお重様の屋敷へ奉公に上げられた。まだ20歳であった。この経緯からすれば若山はお藤の味方であった。

 若山は、親宝の従弟西尾為右衛門の男子を養子として名跡を立てることを認められたが、国許の家老安冨は西尾氏と犬猿の仲という偶然が、安冨の若山への反感をさらに荒立てることになった。そして江戸屋敷における若山の側妾蒹お年寄の問題は未解決で、国許で若殿によるお家安泰を願う安冨は、鳶魚によればその排斥の巨魁なのであった。

E お藤の決意

 お藤は、若山が豊浦といった天保元年から姫君付でいたので、若山がお年寄りで寵愛を受けている事を知らないはずはない。しかし憤激して殺意を決したのは天保9年冬という。この年、若山は名跡を立てられた。しかし親義の生母お糸も若山の先任老女もこの恩典に浴していない。それが影響しているかも知れないと鳶魚はいう。若山排斥の周囲の風潮と自身の不安定な精神状態とが相乗じたのではないかというわけだ。お屋敷を下げさせられてからの不幸な結婚で、お藤は悪い病気を貰い、精神異常説もあるらしいが蔦魚は否定している。

 若山は上屋敷,お藤は下屋敷にいる。毎年虫干しにお年寄が来るのが接近のチャンスだが,この年来たのはお糸であった。お糸は若山と年配も同じ、しかも若殿の生母なのに名跡など与えられていない。嫉妬・敵対感情があってもおかしくない。お藤へのお糸からの手紙があったというが、教唆説には証拠が伝わらず不明である。

F 凶行とその後

 お藤は、虫干しに若山が来ないので天保1092日、若山から呼び出されたと偽り、自宅から脇差を持ち出し、西丸下の上屋敷に夕方到着した。宿直している父親が明日帰宅するというので、決行はその後にすべくその夜は足軽小屋に無理に泊った。

 3日朝お藤は、まずお糸の部屋に寄り、そこで父親の退出を待った。しかしこの日は、殿様が下屋敷へ行くというので父親の退出は遅れ、お藤は若山と二人だけで接触する機会がなかなか掴めない。結局、父親と話していた若山が戻って来たところを背後から襟髪をつかみ、右手の脇差で脇腹を突いた。逃げる若山を追おうとしたが、父親に取り押さえられた。脇差は衣服が見苦しいからと合羽を着て隠していたが咎める者はなかった。若山にもお藤にも武術の心得はなかった。

 若山の傷は1箇所で、重くはなかったらしい。自分の部屋で加療し床上げを急いだのが傷口を化膿させることになり、3ヶ月後に死去した。

 お藤は吟味方、館野東六・柳田東助によって内密に取調べられ、若山死後に飯田へ送られ、12月4日首を打たれた。辞世は「しなのなる山路の雪ともろともに、春をも待たできゆる今日かな」であったという。大殿・若殿に関わることなので、お藤が「ただただ若山罷り在り候ては宜しからずと一図に存じこみ,何分止み難く,右の次第に及び候」と口供したというが、吟味役は取調べ内容を一切口外せず、藩中では噂をするのも禁物であったらしい。だから膨らんだのであろう。お藤の墓は箕瀬町の長源寺にある。

 お藤の父親は、事件後国詰となって俸給を減額されたが、親義が家督相続後再び江戸詰となり、従前どおりの役に戻った。親義には若山を心よく思わない理由がある。お藤とは愛を交わした仲であった。このあたりにも烈婦説の生まれる原因があると思われる。

G 親宝とその幕政への参加

 蔦魚は、親宝の子女の多さを家斉・家慶の多さと並べて挙げつろい、側妾である若山をお年寄に引き上げ、奥の取締りをさせたことをけしからぬと批判しているが、他方親宝が、家慶将軍の奏者番・寺社奉行・若年寄・御側用人と昇進し、天保の改革では水野忠邦と組んで「随分鳴らした」ことを認めている。また、殿様の幕府勤めは、多額の出費をもたらすとて、藩財政を預かる家臣からは忌避されたとも書いている。しかし親宝が若殿時代に、家臣や領民に心配りのある振舞で明君の誉れがあったことも書き落としていない。

 幕閣において若年寄の時、付け届けが半期1200両もあったが、内外に殿様料として散布を惜しまない。その人心への配慮が御側用人への昇進を呼び寄せた。妻方の姻戚にあたる松平定信からの「そんなにまわりに心を使わずに、少し横着をしたらどうだ」という手紙が残っている。弱点は女色であったと蔦魚はいうが、15人の子女を生んだ女性は4人、正妻と若山など子を産まない女性もいたろうが、27から61歳までであるから当時では不自然ではない。咎めるには当たらない。

 親宝時代の幕政がらみの持ち出しは、奏者番拝命に付き3000両、将軍日光参拝に付き3500両、若年寄拝命に付き13000両の御用金が領民から徴収されているから(消された飯田藩と江戸幕府、鈴川博2002南信州新聞社)確かに負担は重く領民にかかった。金座の後藤三右衛門との関わりはこの負担と関係したろうし、水野とともに失脚後に、加増の7千石召上げに加え本領2万石が3千石削減されたのは痛かった。領民からの御用金は幕末にどうなったかが問題だが、返済が建前ではなかったか。

 蔦魚が掲げる文政101827の堀大和守親宝を痛烈に皮肉った落首。誰が作ったか何に載せたか書かれてないが、真実を突いて笑わせる。

  寺社奉行掘り出し物の小身は、若年寄がやまとうぞ見ゆ(大和と山が遠いを掛けた)

  身上にこれから穴を堀大和、いつの世にかは梅の紋所(穴を掘る、堀家の=家紋梅花紋の梅と埋めを掛けた)

 親宝の負債と減封の後を継いで、幕末・維新の激動期に藩主だった親義は、家慶・家定・家茂・慶喜の将軍4代に主として奏者番として仕えたから、さぞ物入りだったろうと思われる。返済の状況は明らかでないが、明治になってからの偽金騒動では全額補償したらしいし、明治13年親義の葬儀では葬列見送りが延々と続いたというから、苛酷な取立てで嫌われてはいなかったのであろう。

H 親義は暗愚か

 蔦魚の評価で,一番引っかかるのは殿様のこと、殊に親義の評価が低い。親宝については、若山問題がお家騒動寸前まで藩政を混乱させたが回避できた。幕政参加は金はかかったろうが、それなりに評価されている。しかし親義については、幕末動乱期の将軍4代にわたる忠勤について言及もしないで馬鹿者扱いはいかがなものか。殿様を馬鹿呼ばわりは維新後に珍しくないが、蔦魚ともあろう人、知らないはずはないのにひど過ぎないか。しかもケチだという。

 親義が藩政を受け継いだ時には、飯田藩の石高は親宝時代の加増で膨張した27000石から17000石に減っていた。人減らしができない以上緊縮財政が当然であったが、蔦魚は親義をケチだ世間知らずだ低能だと指弾して止まない。

 親宝には晩年に生ませた7歳男子と5・4・3歳の女子=4人の子を抱えた側室がいた。親宝死後の冷遇を悲しんで母親は自殺したと蔦魚はいう。しかし子を生ませられなかった親義は、その女子の1人を養女にして養子を迎えている。この養子とは気が合わなくて間もなく離縁となるが、母親の自殺が親義の冷遇への抗議であったなら養女にはしないであろう。そもそも馬鹿殿様の葬列を、維新後の領民が延々と列をなして見送るはずはないであろう。

 蔦魚がこの論説を刊行したのは大正12年で、資料がまだ十分でなかったとは推測されるが、親義馬鹿殿説は間違いではなかろうか。郷土史家の反証を聞きたいものである。

2 太宰春台(1680−1747)

 太宰春台について小生は、荒町の太宰楼という料理屋が屋敷跡であり、太宰松という曲がりくねった大木(大火で消失)があったこと、我が家にある「太宰春台」という本の主人公がそれである程度の認識しかなかった。大学で丸山真男先生に習い、「日本政治思想史研究」を読んで、初めて春台が荻生徂徠の弟子と知った。

 春台は江戸中期の儒学で覇をなした荻生徂徠一門の儒者で、徂徠の儒学の「経世済民」面を受け継ぎ、「詩文」を受け継いだ服部南郭と双璧をなした。徂徠の儒学は、幕府主流の朱子学ではなく、それを批判する古学派の伊藤仁斎に連なる古文辭学と称する一派であったが、古典の正しい読み方を主張し,新しい政治のあり方を提唱して広く受け入れられた。

 立ち入って考察するとまことに興味津々であるが、詳しくは別稿で論ずることとし、ここでは春台の家系と経歴に焦点を絞って略述する。経歴は主として武部善人、「太宰春台」による。

@ 父は飯田藩の重臣だったが、春台8歳のとき浪人となった。

 太宰春台の父は、言辰ノブトキといった。若き織田信長の守役で、治まらぬ素行を死をもって諌めた平手政秀の後裔=外様であるが、母方の縁で同じ外様の飯田藩200石の重臣太宰謙翁の娘梅(後游と改名)と結婚し養子となった。梅は20歳下であった。長男重光が生まれたのが1672年で、言辰の飯田赴任は1679年とされている。1672年は堀藩の飯田転封の年であるから、縁組はその前ということになる。

 元禄元年、春台8歳の時飯田藩を離れた。飯田在住は足掛け10年であった。原因は同僚との争いともいわれるが、鈴川氏は、将軍綱吉に小姓として仕えた3代藩主親常の藩政改革の犠牲ではないかという。綱吉は徳川一門や譜代大名に遠慮なく改易の斧を振るったが、親常もそれにならって高禄の重臣にリストラを強制し、家臣団を再編成したのではないか。だからこの頃、堀家の重臣が相次いで改易・降格・減禄されているという。

 太宰言辰は飯田藩退去の時、槍を掲げ列を組んで堂々と歩み去ったという。豪気な人だったのだろう。春台は礼にこだわる厳格謹直な人だったらしいが、死去の時、遺言して葬列に槍を掲げさせたのはこの故事を踏んでいると思われる。

 父親の浪人に伴い、春台も飯田を離れた。しかし春台は飯田を懐かしみ、また平手政秀を誇りとし、署名に「信陽」を加えたり、「東都処士本姓平手氏中務大輔政秀五世孫」と名乗ったりした。 

A 父の浪人で貧乏生活

 言辰52歳での浪人生活であったが、既に元禄平和謳歌の時代、商品経済の浸透で各藩ともに財政難。出費切り詰めで武術で再就職の道はなく、家計はわずかの蓄えと主婦のやりくり内職に依存せざるを得なかった。春台の8歳上の兄重光は病弱で(後仏門に入る),期待は春台の肩にかかり春台はそれによくこたえた。春台は父から素読を学び豪気を受け継ぎ、母の薫陶を受けた。母の影響か和歌を学んで12−3歳までに3−4千首詠んだが、和歌では公卿に対抗できないと焼き捨て、漢詩に転じたという。面目がうかがえる。

B 出石藩6年出仕後、放浪生活10年 

 貧窮のなか15歳で但馬出石藩松平忠徳の小姓となる。17歳朱子学者中野ヒ謙の門に入る。21歳母死去45歳。6年出仕した出石藩の退職で藩主の怒りを買い10年間禁錮=他藩に出仕できなくなる。その10年間、25歳京都に行き伊藤仁斎の講義を聞いたり、各地を放浪したり、大阪で30歳結婚したり、医術で貧乏生活を支えたり、しかし舞の免状を取ったり笛の名手となったり、勉学以外に余裕がないわけではなかったようである。

C 江戸に戻って徂徠門に入り、紫芝園を開く

 32歳江戸に戻って中野門で親しくなった安藤東野の仲介で荻生徂徠に対面。禁錮が解け、寺社奉行生実藩主森川重令より5斗の扶持を受ける。35歳妻死去。再婚する。36歳生実藩を4年で辞め、小石川牛込天神あたりに私塾紫芝園を開き、研究・執筆・教育活動を始める。徂徠門で頭角をあらわす。42歳火災にあい、芝浦に一時仮寓、この頃「紫芝園前稿」刊行、春台の名声次第に上がる。44歳父死去88歳。幾つかの大名から扶持米が贈られるが、後に断る。潔癖で作法にうるさいのである。紫芝園に俊才が集まり、厳格で礼儀正しい教育が注目される。49歳荻生徂徠死去63歳。50歳主著「経済録」刊行。吉宗が見たいというのを断る。将軍にもへつらわない。53歳「上書」を建白。「聖学問答」ほぼ成る。刊行は57歳。63歳定保を養子に迎える。68歳死去。結局嗣子は家名を残せなかったらしい。

D       春台の儒教史上の位置付け

 簡単にいうと、江戸幕府は、京都朝廷に対し自らを合理的に位置付ける教学として、儒教の朱子学を採用し林羅山がそれにあたった。朱子が重んじた「大学」に、正意・誠心・修身・斎家・治国・平天下とあるように、修養によって国を修めることを要求する哲学であり、忠・孝・義といった身分に基づく規範の遵守も要請していた。しかしそのうちに、朱子学の煩瑣な規範主義は、孔子が説いたことと違うのではないか、聖人の真意は孔子・孟子の直接の精読に依るべしという日本独特の「古学」思想が伊藤仁斎によって唱えられ、徂徠はこの系統の大学者として「弁道」「弁名」を著し、柳沢吉保に仕えて綱吉将軍に関わり、吉宗将軍にも「政談」「太平策」などの政策論を献じ、多くの弟子を養成した。徂徠の学問は多岐にわたったが、弟子は、自由な文学生活を享有しようとする派と、時代の問題を直視し経世済民を志す派との二派に分れた。前者を代表するのが服部南郭であり、生真面目な太宰春台は経世済民派であった。

E 明治政府の徂徠処遇 

 維新後の新政府は華族制度や位階勲等制度を設けて、暦史上国家に貢献した人にも追贈した。江戸時代の主要な学者は殆ど贈位された。国学四大人は揃って従三位、儒学では闇斎・山陽が従三位、仁斎・蕃山・白石は正四位、しかし徂徠は、大正天皇即位での大量贈位でも外された。徂徠が生前「朝廷を押さえ幕府を持ち上げ将軍を皇上と称したこと、日本夷人物茂卿とへりくだり孔子・中国尊崇をしたこと」が天皇制国家主義体制下で問題となったらしい。従って弟子である春台も外された。贈位がなかっただけでなく学界でも敬遠された徂徠を、きちんと儒学思想史に世界共通の用語で位置付ける仕事は、19412年=戦時中の丸山真男まで待たねばならなかった。春台もそのあおりを食った形跡なしとしないであろう。

 春台が日本にのみ伝わった古写本によって、徂徠死後に刊行した漢の孔安国「古文孝経孔安国伝」は、中国=清朝に輸出され、訓詁が盛んであった現地学界で評判となり,太宰純が何者か不明のまま覆刻された。春台の学問水準を知るべきであろう。

F 日本思想史上の儒教

 日本の哲学思想には古来、インド・中国に由来する仏教、中国の儒教・道教、日本固有の神道という三つの流れがあり、近世になって西欧の近代思想・キリスト教が加わった。明治維新は徳川幕府こそ倒したが、成立した政権は万世一系の天皇絶対主義イデオロギーであった。その思想は主として江戸時代の国学が提起した「神話」に過ぎなかったが、歴史学も思想史学もその思想に呪縛され、自由な研究は戦後まで抑圧された。

 さらに維新後欧米に追いつくために導入された諸科学には、ギリシャ・ローマに発する哲学はあったが、仏教や儒教を含む東洋思想の分野は未開拓であり、それにはイデオロギーの制約があった。日本固有の神道思想を加えた日本の思想史はまだこれからであろう。

 仏教が中国を経て日本に伝わり,独自の仏教となったように、儒教も日本で本家の中国とも,隣りの韓国とも異なる独自の受け止められ方をした。そこに維新後の日本と中国・韓国の近代化の差が生じた。興味しんしんたるところである。そこにわが太宰春台がどのような位置を占めるのか。



Bhttp://www8.plala.or.jp/hkino/file3-2.htm
 <飯田藩の江戸時代と明治維新>

小生の故郷飯田は、長野県の南端にあって古くは東山道に位置し、日本最古の貨幣という富本銭が近郊から出土している。戦国時代以後は信濃への物資の集散地、森林資源の供給地として重要視された。

飯田藩の維新前後における実体は必ずしも明確ではなかったが、鈴川博「消された飯田藩と江戸幕府」02.7南信州新聞社出版局によってかなり明らかになった。これに加賀藩の維新前後に関わる磯田道史「武士の家計簿」、雑誌「伊那」誌上の永井辰雄氏の多くの論文、兼清辰徳の「伊那」誌上の「閨秀歌人安東菊子」・作品社「松浦辰男の生涯」、石川正臣他編「図説飯田下伊那の歴史」、市村咸人「伊那史概要」「飯田郷史考」を加え、ささやかな考察をすることにした。

目次

1 戦国時代の飯田

2 信長・秀吉系の大名堀氏と徳川氏―消された事

3 堀氏が入った頃の飯田藩

4 3代藩主親常の経営と藩士の対立

5 中央と連動した藩政改革

6 中期以降の飯田藩と藩主

7 天保改革と飯田藩主親寚

8 幕末4将軍に仕えた堀親義

9 戊辰戦争における飯田藩

10 「官軍」の軍資金調達―二分金騒動

11       人脈作りと婚姻政策

12       幕政参加の領民負担

13       堀家菩提所「普門院」のその後

14       飯田藩民衆の堀施政の評価

15       平田国学と尊王運動

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1 戦国時代の飯田

秀吉の天下統一後、飯田は織田大名の毛利秀頼(10万石)の居城となり、秀頼の死後は姻族の京極高知(2万石)がやってきて、町並みを京風の碁盤の目のような城下町として整備した。

徳川家康の時代となって、飯田には1601年、秀吉の命で家康の姻族となった小笠原秀政(5万石)が下総古河より配せられたが、1613年小笠原氏は松本へ転封され、飯田はしばらく幕府直轄となった。1617年豊臣大名の脇坂安元(55千石)が伊予大洲から入って、老中堀田正盛の次男=春日局の孫を養子に迎えた。用材の調達で脇坂氏も苦しんだが、町方は苛酷な課税に苦しめられた。1672年脇坂氏は播磨竜野へ転封され、替わって下野烏山から堀親昌(2万石)が入った。伊那の山林資源は、欂木=クレキという屋根板材として米に替わる年貢であったが、乱伐の自然破壊で出水増加、田畑にも荒廃をもたらしていた。

2 信長・秀吉系の大名堀氏と徳川氏―消された事

堀氏は信長・秀吉に仕えた有数の大名の家柄で、飯田藩の堀氏は分家であったが、豊臣秀次を名付け親とし羽柴姓を与えられた秀家=堀親良チカヨシを藩祖とした。

親良の父秀政は信長によって長浜城をあたえられ、毛利攻めでは秀吉を加勢する武将であった。秀吉時代は越前・加賀298百石の大名で、柳生宗矩が「天下人の指南をしても落ち度あるまじき人」というほどの人物であったが、小田原陣中で37歳の若さで急死した。毒殺の疑いがあり石田三成の蔭があった。

秀吉が、兄秀冶15歳の家督相続を認めたとき、秀家11歳には越前に2万石が与えられ初めて大名となった。堀家に羽柴姓が与えられたのはその翌年である。

1598年上杉景勝の会津転封に伴ない兄が越後45万石を知行した時、秀家には長岡に4万石が与えられた。この時目録には家臣の知行割りまで細かく指示され、当主の自由になる所領は狭められた。後に問題を起こす家老堀監物直政には5万石が与えられた。

秀吉・三成は、大名の家臣を独立させ、領国細分化による有力大名の解体=中央統制の強化をはかり諸大名の反感を買ったが、堀家はその最初の対象となり、それが関が原で家康に味方した原因ともなった。

しかし家康にとっても、早くから家康に通じていた豊臣大名の前田・伊達に比べて、堀は安心できる相手ではなかった。1599年秀家の叔父利重と家老直政3男直重は人質として出された。(利重は徳川秀忠に仕え後寺社奉行になった)1600年関が原の戦いにおいて、越後はかつて上杉領で上杉は三成方だったから、一揆を装った軍勢と堀氏との戦いがあったが、秀家と秀治家老堀直清(正室は秀治妹)・直竒(直清弟)は難なくこれを鎮圧し、秀忠の上方行きを助けた。秀家の武将としての力量は家康を脅かした。戦後の論功行賞において家康はことさら家老堀家を賞揚し独立大名として扱い始めた。秀家は弟政成(秀家の家老近藤重勝の養子)を家康の小姓として差し出させられた。

1606年秀治が31歳で死去、秀家の尽力で11歳の嫡男は松平忠俊と名乗り越後30万石を相続した。堀家の所領は分断された。秀家は秀治の子を養子として12千石で隠居していたがその養子も死去したため、秀忠に仕えることを条件として隠居領が安堵された。秀家の家老近藤氏の1万石を除く18千石は宗家の家老直清の弟直竒に与えられた。やがて問題を起こす人物である。直清は主君忠俊と幼年からなじんでいたが、庶子で外に出ていた直竒も同じ主君に仕えることになった。二人の父直政が死去すると直竒は、家康の指示に従って嫡男直清の地位をうかがうようになり、その争論を家康が決する事になった。家康は忠俊が直清を弁護して提出した書面を「幼弱のものいかでかかる事をわきまうべき」といって1610年直清と忠俊を改易とし、直竒は咎められるどころか、旧所領と同じ4万石で信濃飯山に移封され、加増・転封を経て1618年には越後村上10万石に転封された。目覚しいというほかない。

こうして越後30万石堀家は予定どおり改易された。豊臣大名改易の第1号であった。

1611年秀家は下野真岡12千石に転封され、1615年豊臣氏の滅亡後、それまでの羽柴秀家の姓名を菅原親良、家紋を梅花に改めた。家康の謀略的堀家つぶしに対する暗黙の抗議であった。

秀頼滅亡まで羽柴姓を変えなかった硬骨漢は、本来の堀系として唯一残り、1627年下野烏山25千石に加転され、163757歳で江戸で死去した。従って1672年飯田入りしたのは親昌チカマサ=嫡男66歳である。

3 堀氏の入った頃の飯田藩

親昌が飯田に入って1年後に、江戸にいる嫡男親貞に宛てた「飯田の状況・それに対して行った施策・今後の心得」などを記した長文の書状が残っている。藩主として円熟した人柄が偲ばれる。

当時の飯田藩は材木供出要求がきつくて、乱伐による自然災害も多く、脇坂氏も領民も疲弊していた。脇坂氏は任地への移転費用=銀300貫目を幕府から借りねばならなかった。堀家にとってこの領地がえは満足すべきものではなかったが、親昌は「毎日烏山の市日のように人出の多い」飯田の地理的特質をとらえ、商業重視の経営方針を定め、年貢を減免・種籾貸与・養蚕指導などの商業・興業策を施すなど、明確な経済政策を持った大名であった。侍屋敷の配置にまで干渉する幕府要人に特産物の氷餅や外山柿を贈った親昌は、堀家の徳川政権での立場を心得ていて、中央への配慮も怠らなかった。翌年67歳飯田で死去、渋谷の東江寺に葬られた。渋谷区広尾5丁目地下鉄広尾駅の近くにある。

4 3代藩主親常の経営と藩士との対立

堀飯田藩で特徴とすべきは、脇坂藩が米だけで俸禄を支給していたのに対し、貨幣を併用していた事で、貨幣併給は家臣団の65%を上回り、さらに高禄知行者が少なくその知行の総石高も表高の24%=元禄末と比較的少ない。知行割りは1村に多くの給人を割り当てるので、給人に実質的知行権はなかった(この例外は薩摩と仙台だけという)。また江戸詰には国元より多くの給米を与えるなど、貨幣経済の発達に対応した合理的な制度が行われていた。(加賀藩では江戸詰には余分な出費がかさむのに給与は国元と変わらず、借金がかさんだ事実が伝えられている。)

堀家3代=飯田藩主2代親貞チカサダは1685年越後高田城在番中に急死し、伊那立石5千石の旗本近藤家より藩祖親良の実弟政成の孫=親常チカツネ12歳を養子として迎え3代藩主とした。この親常の代に親昌以来の重臣が6名次々と去り自害もあった。真っ先に退去したのは太宰春台の父金左衛門であった。

それまでの藩主が藩政に関心を持って熱心だったのに、幼年の親常は江戸にあって国元・江戸を問わず重臣任せとならざるを得なかったが、親常は将軍綱吉の奥詰となり小姓となって綱吉の幕政における政治改革の実体に触れ、養子で若年ながら藩主として改革に乗り出し、重臣と対立したのであった(鈴川説)。同じく養子として将軍家を継いだ綱吉は、徳川一門や譜代大名に遠慮なく改易を加え、堀氏のような外様大・小名を将軍側近や幕府重職に取立て、幕政改革をしようとした。親常はそれにならって飯田藩の重臣の高録知行を減額し有能な若手を抜擢しようとして衝突し反発されたらしい。しかし結末を見ることなく169724歳で死去した。

5 中央と連動した藩政改革

4代藩主親賢チカカタは、藩祖の曾孫・上総一ノ宮3千石の旗本の嫡男で、実家を断絶して養子となり、同じく養子の親常が早世して実現できなかった藩政改革事業を受け継いだ。親常改革の結果として、堀家一門の重臣で禄高も1‐2の高禄者が相次いで隠居・退去をした。元禄15年=1702年を堺に分限帖に認められる飯田藩政のこの変革は、家臣団の再編成であって、上級家臣は殆ど改易・降格・減禄され、扶持米取りと給金取りが8割を占めるまでになり、知行取りの石高は減少し必要に応じて「足高の制」(吉宗が導入した実力ある資格不足者に在任中石高を加算する制度)が導入された。それは綱吉・吉宗の幕政改革と方向を同じくするものだった。鈴川氏はこれを個別藩主が徳川官僚制に組みこまれるステップとしているが、飯田藩でも幕政と時代の方向を敏感に把握し、その手法を藩政に応用したものと評価できよう。

綱吉が設置した幕政における吟味方・御側用人などの新しい職制が藩政にも取り入れられ、藩政は幕府の地方行政機関に組み入れられて行った。

在方支配においても、当初在方役人は「肝煎キモイリ」と「与頭クミガシラ」のみであったが、元禄期以降「庄や」「組頭」といった百姓側が書いてきた新しい名称が定着し、さらに村には新たに生まれた有力百姓が「長百姓」「惣百姓代」として、村役人ではないのに公文書に署名するようになり、村の運営に有力者が加わり始めた。藩はそれを受け入れた。

町方支配では、役人は「町年寄」=世襲・苗字帯刀士分格、「問屋」=実務担当、「庄屋」=問屋を出さない町から輪番、これが町方3役で、それに「組頭」=各町での庄屋との連絡役が加わった。在方と同じくそれぞれ月番制の郡奉行の支配下にあり、やがて置かれた町奉行は郡奉行の兼務であった。

寺社には御朱印地という所領を有するものが43寺院・3社あって、元禄5年の所領は百数十石で、支配する寺社奉行は郡奉行の兼務であった。

軍事組織は番方といわれ、初代から10代まで7組編成であったが、武器の鉄砲比率はむしろ削減された。幕府の軍役令基準による再編成は泰平の世を維持する為であって、その後の組編成や武器名称の変更は、戦闘体制強化ではなく参勤交代の行列隊形を意識したものであった。初期の鉄砲80丁は元禄末期には40丁に半減し、弓は5張から20張、槍は50本から60本となり、軍備面では旧式装備が追加された。

この番方組織=軍備に変化が起きたのは10代藩主親寚=チカシゲの天保時代、従来の7組に、2組の武士でない領民を郷足軽とした部隊を追加し、武器も鉄砲と弓を増やし大砲2門を増強、槍隊を縮小した。外国船の来航など風雲急な時代に備えたもので、藩主が幕政の中枢に位置し、時代の流れに敏感だった事から実現した。

武士で最下級の扶持米蒹給金取りは1834年=天保5年において、3人扶持6両=23名、2人扶持4両=29名、3両=20名、2両=33名、1人扶持4両=12名。他方足高による加増(時期は同じでないが)7名、その足高は計310石であった。今風にいえば、暇を出したり(=解雇)減禄もあり、登用による加増もある、厳しい実力主義による査定があったという事ではないか。

町方・在方=町人・百姓から武士への登用は明和・安永の交=1770年前後の分限帖に表れ始め、中央で勝海舟家が御家人株を手に入れたように、飯田藩でも侍株が町方・在方の有力者によって手に入れられ始めた。財政難に陥った飯田藩は、1779年財政赤字を富裕な町人や豪農=仕送方に依頼して埋めるようになり、その貢献者が士分に取立てられ俸禄が与えられた。新しい人材登用であった。

6 中期以降の飯田藩と藩主

4代親賢チカカタ、1684171531歳大阪加番中に死去。14歳で親常の養子となって家督相続。正室は弘前10万石津軽信政の娘、長男=5代親庸チカノブ、次男=6代親蔵チカタダ、1707年大地震で家屋50軒余倒壊。1715年「正徳のひつじ満水」という天竜川大洪水。

5代親庸チカノブ、1707172821歳、飯田で生まれ江戸で死去。9歳で家督相続。1717年江戸上屋敷類焼、1719年大洪水、飯田在4年。

6代親蔵チカタダ、1715174631歳飯田で死去

7代親長チカナガ、17391808、親蔵の嫡男として江戸で生まれ江戸で死去69歳。1746父死去により7歳で相続、1779年隠居。治世33年、中興の英主といわれるが若い頃は粗暴で放蕩児。江戸家老柳田為美(婿養子となった柳田國男の祖先)の諌死により心機一転名君となったという。学問を勧め天竜川護岸、江戸屋敷火災、駿府・大阪加番などで財政建てなおしの為、黒須楠右衛門の進言で「千人講」募金をするが騒動となり失敗。

8代親忠チカタダ、17621784、嫡男として飯田で生まれ1779年父隠居により17歳で相続。正室弘前藩主津軽信寧の娘、22歳で江戸で死去。

9代親民チカタミ、17771796、先代の弟、江戸で生まれ8歳で相続。19歳飯田で死去。

8‐9代は若くして相続し若くして亡くなったが、隠居の父親親長が健在で藩政の面倒を見た。4代から9代に至る間に長生きしたのは7代親長の69歳のみであった。この後の激動期に長生きし幕政にも関わった親寚・親義が続く。

10代親寚チカシゲ、17861848、7代親長の4男として江戸で生まれ、1796年相続、正室は徳島257千石蜂須賀侯の妹(彼女の姪が後に松平定信嫡男の正室)。江戸で死去62歳。1845年天保改革の責任をとらされ逼塞。

11代親義チカノリ、18141880、親寚の次男として飯田で生まれ、正室は水野忠邦の妹、1845年父逼塞により相続。1868年隠居、養子親廣に譲るが、1877年離別、66歳飯田で死去。

12代親廣チカヒロ、18491899、江戸で同族の堀親因の子として生まれ1865年親義の養子となり、1868年相続、1877年離別、東京で52歳死去。

13代親篤チカアツ、19621928、江戸で谷田部16300石細川興貫を父として生まれ、1877年堀家の養子となり家督相続。1984年子爵となり浅草区長をする。66歳東京で死去。

14代秀孝ヒデタカ、18951941、朝草区向柳原で生まれ陸軍歩兵中尉、46歳東京で死去。15代秀和ヒデカズ、東京都新宿区柏木2−471

7 天保改革と飯田藩主親

徳川5代将軍綱吉は外様大名を幕閣に登用したが、その多くは徳川や譜代とのつながりがあった。以後10代家治まで外様大名の起用が続いたが、1767年田沼意次が側用人となって田沼時代となると、外様大名でなく譜代大名が幕政に登用され、田沼の弟・甥と続いた一橋家家老との連携のもと11代将軍家斉が生まれた。田沼に替わった松平定信は外様大名の起用を復活し、京極・脇坂といった飯田ゆかりの名前が登場し、定信の老中辞任後に飯田藩10代堀親寚が1814年奏者番となった。親寚は1826年寺社奉行、1828年若年寄にまで昇進した。家老系ではあったが、秀政系堀氏では初めての事であった。

親寚は引き続いて12代家慶によって1841年側用人に登用され、さらに1843年生粋の外様として異例の老中格に任じられ、翌年には老中を命じられたが辞退し、1845年まで在職した。この側用人から老中格辞任までの足掛け5年がいわゆる「天保改革」である。

天保改革は一般に老中首座水野忠邦の名で知られているが、影の主役は親寚であった。だから親寚は水野2度目の失脚時に同罪に問われた。水野は加増分1万石・本治1万石・家屋敷を召上げられ隠居・蟄居を命じられたが、親寚は加増分7千石・本地3千石を召上げられ隠居・逼塞を命じられた。改革には他に多くの老中が関係したが、罰せられたのは二人だけで、中心人物がこの二人であった事を示す。水野は親寚より12歳若く、18145年に相前後して奏者番となってから30年にわたる仕事仲間であり、水野の妹が親寚の嫡男の嫁という関係にあった。飯田藩主として経験豊かな親寚の智慧が例えば「株仲間の解散」という商品流通の自由化政策となり、打撃を受けた独占御用商人が反対運動を展開したのではないかという。なお貨幣改鋳にからむ不正事件で死罪にされた後藤三右衛門は飯田出身で、金座改役の後藤家に養子で入った人物で、この事件は水野は絡んだかもしれないが、親寚は事件後に老中格になったのだから関係しなかったと思われる。

8 幕末4将軍に仕えた堀親義

親寚の嫡子親義チカノリは、父の失脚後8年ぶりに1853年奏者番に任じられ12代家慶に近侍した。その2ヶ月後にペリー艦隊が浦賀沖に現れた。老中は阿部正弘で家慶急死後13代家定にも引き続き仕え、攘夷派と開国派の争い・井伊大老就任・日米修好通商条約調印・将軍継嗣を巡る争い・安政の大獄などを体験しつつ、14代家茂にも仕え、和宮の降嫁を出迎え、行政改革で奏者番がなくなって1年ばかり無役であったが、1863年攘夷決行やら四国艦隊長州下関砲撃など騒然たる中で寺社奉行を拝命するが3か月余りで辞任、府中昼夜廻り=江戸の治安維持を命じられ、翌年復活した奏者番に、さらに本来旗本の職である講武所奉行に任じられ、飯田藩領内の水戸浪士通行では戦わず逃した罪を問われ奉行は罷免・本地2千石を召上げられた。

しかし1865年第2次長州征伐で家茂が大阪城に入ると、物価急騰で騒乱状態の大阪警衛を命じられ、幕府軍が長州に敗れると家茂は21歳で死去、慶喜が後継者に内定、親義は会津藩主松平容保の京都守護職と共に、京都見廻役・文武場用向取扱も兼任、新撰組を配下に置く京都治安維持責任者の一人となった。15代慶喜は就任後2ヶ月で支持者であった孝明天皇の急死により幼少の明治天皇を討幕派と取合う事態となり、1867年京都見廻役頭を辞任し奏者番に任じられた親義には朝廷警備の任も課せられ、慶喜の手足となって朝廷を監視する事が求められた。以後慶喜の大政奉還勅許、それに対抗する薩長岩倉一派の討幕の偽勅密造、討幕派の御所占領クーデター(これを許したのは親義たちの油断であった)、王政復古宣言、小御所会議における公武一体派の敗北、鳥羽伏見の戦で錦旗出現、慶喜大阪脱出と政局は急転し、薩長主体の討幕による維新政権の成立となった。

この間、親義は終始松平容保とともに京都治安維持に献身し、孝明天皇死後の展開で討幕派の怨みを買った。歴代将軍に仕えた外様大名で最後の将軍慶喜に仕えたのは親義一人であった。親義は岩倉に勤王の志を疑われ、岩倉が受け取ろうとしない慶喜の嘆願書提出を種々試みた。親戚の蜂須賀家から家名存続の為にと隠居を勧められ、1868年養子親廣チカヒロ(父は堀親因=藩祖の3男親泰の曾孫)に家督を譲った。しかし折合い悪く1977年離別し、後に谷田部の細川興貫の子を養子親篤13代とした。親義は飯田市松尾の侍医木下家に居を移し、明治13年=188066歳で死去。墓は飯田市長久寺にある。

坂本竜馬暗殺は飯田藩士ではなかったかという説があり、大村益次郎は飯田藩士によって暗殺された。

9 戊辰戦争における飯田藩

藩主が幕府中枢にあって幕府倒壊までの4代の将軍に仕えた飯田藩は、当然「官軍」には属しなかった。しかし江戸城開城=幕府滅亡後に、北信の幕府領を管理下においていた尾張藩からの要請で、松代藩と共に3隊の兵を出し、東山道総督軍監で坂本竜馬の甥に当たる岩村精一郎の軍に合流した。部隊は長岡で河井継之助と戦い、会津若松の山間地を転戦し7ヶ月後に帰った。隊長は御物頭(側用人、表用人に次ぐ重役)の中川雄之助、副隊長は軍監堀保次郎であった。お目見え以上の武士が13人、足軽23人ほか2人、人夫39人併せて77人が飯田藩で、死者2名負傷者は数名、中川雄之助は負傷し、後は堀が勤めた。

下伊那の武士の中には彰義隊に加わり「官軍」と戦った者もいたという。

飯田藩は第2次征長軍として出征してから2年半ほどの間戦乱に巻き込まれた。幕末の動乱は小藩財政の重い負担となった。

10 「官軍」の軍資金調達―贋造二分金騒動

飯田藩兵が従軍した東山道軍を率いた岩村精一郎は翌年京都への途中飯田に立寄り、当時小京都といわれた飯田領の豊かさを見た。明治政府は財政難で苦しんだが、その責任者は坂本竜馬の推薦で新政府参与となった福井藩士後の由利公正で、大量の「太政官札」を発行したがこれが信用不足でさっぱり流通せず由利は辞任した。

これより先討幕派の薩長土3藩は、軍資金として「チャラ金」といわれた真鍮メッキの偽二分金を大量に使用し、「官軍」通過の各地で「二分金騒動」を起こしていた。

由利の後任となったのは佐賀の大隈重信で、流通貨幣の品位向上のため悪幣の流通禁止を布告した。困った薩長土は、流通できなくなった大量の「贋造二分金」を幕府側であった飯田藩に持ち込んだ。最初は1868年生糸商恒吉が、京都の大文字屋丈助から受け取った800両であった。当時飯田の生糸は京都西陣に供給されていたから、京都には飯田に向かって大量の支払債務があった。その支払金が狙われた。

大隈は「チャラ金」の流通禁止と同時に旧幕府貨幣の鋳造も停止し、正貨の流通量縮小による「太政官札」の流通促進を図ったから、権力交代期の警察機能不全という状況下で、逆に偽金の流通条件が整えられることになった。新政府は1869年版籍奉還により旧藩主から統治権を奪い藩主を知事としたものの、新しい法体系ができるまで空白が生じ、その隙が偽金使いに絶好の機会を提供した。

近江商人小林重助によって「薩摩藩御用達」肥後孫左衛門の「贋造二分金」1万3千両が持込まれ、阻止できなかったので総額は8万両に達した。飯田の商人で利欲の為にこの二分金を買い出す者がいて、俵に詰め大平峠を越えて輸入するのを元結職人に探知され騒動になった。発生した騒動を藩主は厳しい財政状況にもかかわらず買取で収拾した。「二分金騒動」は信州全域に広がり中野が最も激しかったという。

信州諸藩と伊那県(旧幕府領)は、信州でだけ通用の紙幣を発行して貨幣流通量を確保した。

事件には状況証拠しかない。しかし勅語を偽造し、天皇をクーデターでわが手に巻き込み、大政奉還が勅許されていたのに王政復古を宣言し、小御所会議で慶喜の処分を決し、幕府軍を挑発して賊軍としてしまった討幕派である。福澤諭吉の「立国は私なり、公にはあらざるなり」=やせ我慢の説は、まさにその間の事情を知っていたからである。しかし権力は彼らに移ってしまった。「官軍」という長い物にはまかれるしかなかった。大村益次郎が飯田藩名古熊の関島金一郎たちに襲われたのは、この騒動の後である。

11 人脈作りと婚姻政策

@豊臣と徳川の対立の中で、豊臣大名堀家は関が原で徳川に荷担し、その過程で何人も人質を徳川に出した。秀家の叔父利重、家老直政の3男直重、秀家の子で秀家の家老近藤氏の養子政成、最後に秀家自身である。彼らは徳川秀忠のもとにあって利重は後に寺社奉行になったし、秀家は既に大名隠居の身であったが、中枢における譜代重臣たちとの交流は堀家の存在を重からしめたに違いない。

A3代親貞の母は三条西右大臣家の女、正室ではない。4代親賢の正室は弘前津軽10万石の娘。

B7代親長は正室に大和郡山151288石松平吉里の娘=柳沢吉保の孫娘を迎え、子の親忠には弘前10万石津軽信寧の娘、親民には広島新田3万石浅野長員(426500石の分家)の娘を娶らせ、浅野家を介して譜代の有力大名唐津水野家(忠邦につながる)、尾張徳川家、高須松平家と姻戚となった。幕末尾張徳川慶勝・桑名松平定敬・会津松平容保・高須松平義比4人は兄弟だった。

C10代親寚(=親長の子)の正室は阿波徳島255千石蜂須賀治昭の妹=その姪が松平定信の嫡男の正室。

D11代親義の正室は水野忠邦の妹

長生きした7代親長は夫人が柳沢吉保につながり、三人の子にそれぞれ名家から正室を迎え、婚姻を通じてのネットワーク作りに成功した。彼の子で長生きした親寚や孫の親義が幕政に有力メンバーとして参加できた原因は、親長の婚姻政策の成功に依存する。親寚とともに中興の英主といわれる所以であろう。

12       幕政参加の領民負担

幕府は幕政に藩主を起用したが、「勤務手当」があったわけではないから、藩財政は持ち出しという多額の負担を余儀なくされ、それは少々の加増などではとても賄いきれず、御用金として領民の負担となった。「消された飯田藩」には天保改革で活躍した10代堀親寚の御用金徴収の主なものが記載されている。

1799              3150両 湯島聖堂普請のため領民から2000両、人指御用金1150

1805              3000両 勝手元入用・息女嫁入りで人指御用金

1806              4000両 江戸屋敷消失で領民から

1809              3000両 伝奏馳走役拝命で領民に年貢高に応じた御用金

1814              3000両 奏者番拝命につき領民に誤用金

1825              3500両 将軍日光参拝供奉で御用金、翌年寺社奉行拝命

1828              13000両 若年寄拝命にて人指御用金と冥加金

1832                     125両 御用金

1838              2000両 江戸上屋敷炎上で領民に年貢高に応じた御用金

 1840  2365両 江戸城西の丸炎上で領民に年貢高に応じた御用金

1841              2850両 将軍日光参詣供奉で御用金

11年分を合計すると、39890両で、この89%は幕府への奉公の支出という。これを当時の賃金と現在との比較によって換算すると、1両は30万円に相当すると磯田道史氏の「武士の家計簿」にある。これで換算すると、11年で133億円=年12億円となる。

堀藩の領地に匹敵すると思われる飯田市の平成12年の歳入は、総額445億円で、うち市税135億円である。

生産には土地と人口が関わる。1672年飯田領の人口16872人、平成12107千人。江戸時代日本は25002600万人、今は13000万人だから数字は大体整合している。

御用金は年貢の10%程度の臨時徴収で、それほどきつくはないという気がする。鈴川氏は、御用金の多くは赤字国債とでもいうべきで、返済されるものであったという。幕府からは加増以外の給付はないから、藩財政の負担となっただけということらしい。幕末に藩の財政は赤字でとても維持できなかったから、赤字もろとも新政府に押し付けられる「版籍奉還」が摩擦なく終わったという説を記憶しているが、飯田藩の領民からの借金はどうなったのだろう。

13       堀家菩提所「普門院」のその後

堀親昌は飯田城に入って、城の丑寅の鬼門除けとして星光山月山寺普門院を建立した。京の比叡山・江戸の東叡山と同じ趣向である。堀家累代の祈願所として50石が寄進され、境内は1740坪、鎮守として菅原にちなんで天満宮が祭られ、8代藩主親長の弟直昭が海忍和尚として院主を勤めるほどの格式であった。

維新期の藩主親義は1851年、この院中に堀家の始祖秀政・2代親昌=飯田藩初代・3代親良の三人を祭る社殿を建て「三霊祠」とした。

明治4年=1871年廃藩置県で、親廣はお城を去って東京へ永住すべく飯田を去り、親篤はそもそも江戸住まいだった。主のいなくなった城は山県狂介が受けとって、安東欽一郎・菱田鉛冶に預けて去った。なお安東家は安東大将・木越陸軍大臣につながる名家、鉛冶は菱田春草の父である。城は解体され売り払われ負債の清算に当てられた。普門院も同じ運命にあった。普門院内にあった三霊祠は、明治13年=1880年、旧藩士3百余名の協議で、数百年の恩沢に報いる為醵金し、旧二ノ丸に社殿を建て「長姫神社」として三霊祠を移すべく、長野県令薩摩の楢崎寛直に懇願した(筑摩県は明治8年長野県に統合された。)願いは聞き届けられ9月遷宮祭典が行われたが、隠居して松尾にいた親義はこれに間に合わず直前に死去した。親義の葬儀のときは松尾から長久寺まで長い距離を人垣が続いたという。

町にはかねて遊郭設置運動があったが、明治151882年認可され、三霊祠が移ってあいた1740坪の普門院跡地に設置された。長姫神社は飯田中学校設置に伴い現在地に再度移転した。図説飯田下伊那の歴史にその記述があるが、普門院にはふれていない。永井辰雄氏もふれていない。知られていないのであろうか。長姫神社建設に尽力した旧藩士たちの心境はどうだったのだろう。

小生は子供時代を仲之町で過ごし、すぐ近くの天神様と二本松遊郭は遊び場だった.が、この事実はもちろん、天神様と堀家との関係も鈴川氏に教えられるまで知らなかった。そして唖然としている。これは薩摩の陰謀というよりその場所を選んだ人々の心の問題ではないか。

14 飯田藩民衆の堀施政の評価

関東平野で豊かな烏山からやって来た堀親昌は、脇坂時代に疲弊した山国の飯田に入部祝いとして町方に鳥目100貫文を下付し、地代3分減免、在郷28か村には種籾1800俵を与えた。親昌は飯田の地政学的特徴を掴んで嫡子に懇ろな施政方針を残し、親貞これに従って製紙業や元結業など農商工業振興の積極政策を施したので、「上の御仁政厚ければ御領内益々豊饒にして万民安堵の思いをなす」(1772年大田文碩)という状況であった。農地開墾も進み桑や楮が植えられ、生糸・紙・元結などの商品生産と、流通の要としての立地条件から商業や運送業=中馬も盛んであった。

こうして堀藩は押しなべて善政を敷いたので、領民の不満は領主の幕政参加に伴う御用金や所領召上げに伴う不安に集中した。米本位制という幕府の経済システムは、農業生産性の向上=米価格低下につれて武士階級の生活水準低下をもたらす必然性があり、米価に固定された収入は生活水準向上に伴う支出増加についていけず、武士階級の生活は苦しくなっていた。幕府財政も同じだったから幕府奉公は持参金つきで、そのための御用金が藩財政を圧迫した。

※ 千人講騒動 特に御用金が多かったのが17世紀半ば中興の明主といわれた親長のころで、年貢先納め2度と御用金でも資金不足で、郡奉行黒須楠右衛門が12両・千口の無尽、高に応じて1口から毎月2分集めて年6千両という計算で在方に割り当て、朝鮮通信使馳走役を果たそうと計画した。黒須の強硬姿勢が農民の反感に火をつけ一揆となって黒須はお役御免、農民側にも入牢者が出たが3年で放免。これ以後御用金は富裕層から調達される事になった。

※ 紙問屋事件 文化年間のこと、飯田以南の村では冬仕事で紙漉きをしていた。ところが毛賀村の御用達が殿様に取り入って紙問屋をこしらえ、1束いくらの口銭を取り、問屋の判のないものは売りさばけない事になった。自由売買を統制しようとした。憤慨した者たちが藩内で争うのを避け隣の天領の百姓や町の元結仲間に反対させ一時廃止になったが、再び設置となったので問屋打ちこわしが発生した。首謀者は罰せられ問屋は廃止となった。

※ 南山騒動 これは天保改革の責任をとらされて飯田藩から没収された6か村を含む天竜川東の幕府領南山36か村の出来事である。6か村3千石の没収については領民から幕府に、堀家の善政を称え旧領主への付け替えを代表が江戸へ出て直訴していた。しかし弘化3年、幕府領から奥州白河阿部氏領となった。年貢は近隣3市場の米相場平均の金納だったが米が安くなって1年では500両もの差が出る。嘆願したが聞き入れられない。立ち上がって代官所へ行こうとするのを飯田で止められ、願意は聞き届けられたが首謀者は入牢、これも間もなく許された。白河藩が慣行を無視したために発生した下伊那郡最大の一揆であった。

※ 幕末水戸浪士関所通過事件で2千石召上げられたが、南山一揆の先例を知る領民は再び幕府に減封反対・場合によっては不調法の義=一揆を起こすかもしれないと嘆願した。幕末混乱の折から、幕府は堀家の家禄を1万5千石に減らしたが、実質的には何もできずに維新を迎えた。

減封に対する領民からの反対嘆願が再度にわたって出され、その中で善政が称えられたのは堀家の支配が領民を納得させていたからだろう。農民が多数押しかけたり打ちこわしをしたりする事は何回もあったが、その都度穏やかな処置がされたと思える。明治3年の「二分金騒動」では藩主は、武器や城外の樹木を売却して引換え資金に当てた。飯田藩の領民からの借財は転換期においていかに処理されたのか。藩主の飯田引き払いの時、売立てをして完済としたのではと推定するが不肖にして明らかでない。

15 平田国学と尊王運動

宣長の国学には皇国思想が含まれていたが、学説に止まっていた。これを弟子達の意に反して、独特の敬神尊王思想に潤色し時代に適合したイデオロギーに仕上げたのは平田篤胤であった。本人は不遇の内に没したが、篤胤の「没後門人」と称する信奉者3800人は、宣長の門人400余人をはるかに上回った。その平田国学の門人が伊那に387人いた。その大半239人は農民で、篤胤の古史伝出版に協力したり=今村豊三郎、水戸浪士の伊那谷無事通過に心を砕いたり=北原稲雄・今村豊三郎、本学神社という国学4大人を祭る社を立てたり=北原稲雄、した。京に上って尊王の公卿・志士と和歌を以って交わり、岩倉具視に親近した松尾多勢子もいた。多勢子は山本の竹村家の出で和歌を良くしたし、子息達は勤王派として働いたが、本人は伊那に帰って死去した。同じ山本の島地家出身で安東家に嫁し、和歌で松浦辰男に師事して明治上流社会に溶けこんだ安東菊子と対照的であるが、公卿ややがて明治の大官となるべき人に伊那や飯田を植えつけたのは多勢子の功績だろう。

幕府追求の勤王派志士は伊那にかくまわれ、松尾家には常時何人もいたという。足利高氏木像首切り事件の角田高行もその1人である。

伊那に平田国学を持込んだのは甲府から飯田に住みついた岩崎長世で、山吹藩家老(といっても農に従事)片桐春一が入門したので多数が続いたという。

今から見ると平田説は後向きの思想なのになぜあのように多くの人が帰依したか、時代の流れという他ない不思議であるが、伊那957月に上條宏之氏が、今村豊三郎が維新後に地租軽減運動をしたり、明治39年結成の日本社会党に77歳の最高齢者として入ったことを記している。当時真面目に考える人達は、行動の指針となるようなわかりやすい学問を求め、結集してことに当たろうしていた。それが平田国学だったのではないかと今のところ小生は思っている。

おわりに

飯田藩のことについて小生は殆ど知らなかった。長姫神社がお城跡にある・長久寺に藩主の墓がある・太宰春台は藩士の子であった・水戸浪士通過事件があったなどがすべてであった。鈴川氏の本によって改めて昔を偲ぶ事ができた。同時に隠された事実を知ることになった。歴史には謎が多いというが、謎を解き明かすことは面白い。それはまた現在に生きる者の、次ぎの世代に対する責任ではないだろうか。