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折々の記 2012 B
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】03/05〜
【 02 】03/05〜
【 03 】03/09〜
【 04 】03/11〜
【 05 】03/13〜
【 06 】03/14〜
【 07 】03/17〜
【 08 】03/18〜
【 09 】03/21〜
【 06 】03/14
03 14 山本常朝
日本人らしい静かなる品性 !! それを具備していた知性的な武士、それが山本常朝だったとおもいます。
次のデータはウィキペディアで解説している山本常朝だが、簡単な年譜を書き出してみます。
1 生まれ
9 鍋島光茂(佐賀藩2代藩主)の小僧として召し使われた
14 鍋島光茂の小々姓(いわゆる稚児小姓)となる
20 御傍役として御書物役手伝に従事する
若殿綱茂の歌の相手もすることが光茂の不興をかい、しばらくお役御免となる
失意のこの頃、佐賀郡松瀬の華蔵庵において湛然和尚に仏道を学ぶ
21 仏法の血脈(ケチミャク=師から弟子が法灯を受けつぐこと)と下炬念誦(アコネンジュ=生前葬儀の式、旭山常朝の法号を受けた)
を申し請ける
さらにこの前後、神・儒・仏の学をきわめ藩随一の学者といわれながら下田(現在の佐賀県大和町)松梅村に閑居する
石田一鼎を度々訪れて薫陶を受けた
24 6月結婚、11月御書物役を拝命
28 江戸で書写物奉行、あと京都御用を命ぜられている
33 帰国後、再び御書物役を命じられる
38 また京都役を命ぜられ、和歌のたしなみ深い光茂の宿望であった古今伝授(古今和歌集解釈の秘伝)を得ることのため
京都佐賀を奔走。古今伝授のすべてを授かることは容易ではなかったが4年後受けることができ、隠居後重病の床にある
鍋島光茂の枕頭に届けて喜ばせ、面目をほどこした
42 5月16日、2代藩主鍋島光茂が69歳の生涯を閉じる
30年以上側近として仕えた常朝は、追腹禁止により殉死もならず、願い出て出家
5月19日、高伝寺了意和尚より受戒、剃髮。佐賀城下の北10キロの来迎寺村(佐賀市金立町)黒土原の庵室朝陽軒に隠棲
52 3月5日、田代陣基が常朝を慕い尋ね『葉隠』の語りと筆記がはじまる
55 朝陽軒は宗寿庵となり、光茂の内室がここで藩主の追善供養をし、自分の墓所と定めたので、常朝は遠慮して、黒土原
から西方約11キロの大小隈(現在の佐賀市大和町礫石)の庵に移り住む
58 田代陣基が『葉隠』全11巻の編集を了える
61 山居すること20年、10月10日、61歳で没した。翌日、庵前において野焼、墓所は八戸龍雲寺。
栴檀(白檀の異称)は双葉より芳し、親の胎教や出産直後からの親の対応によって赤ん坊は如何様にも育つ、そうした背景があったに相違ない。
ではウィキペディアの解説に移ります。
■ 山本常朝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%B8%B8%E6%9C%9D
山本 常朝(やまもと じょうちょう、万治2年6月11日(1659年7月30日) - 享保4年10月10日(1719年11月21日)は、江戸時代の武士、『葉隠』の口述者。「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じた。通称神右衛門、俳号は古丸。
略歴
万治2年(1659年)に、佐賀城下片田江横小路(現在の佐賀市水ヶ江二丁目)で、佐賀藩士山本神右衛門重澄の次男として生まれた。母は前田作左衛門女。
常朝が自分の生い立ちのことを語っている項が『葉隠』・聞書第二にあり、それによると、自分は父70歳のときの子で、生来ひ弱くて20歳まで生きられまいと言われたので、塩売りでもやろうと父は思ったが、名付親の多久図書(茂富、重澄の大組頭)の「父の血を受け末々御用に立つ」という取りなしで、初名を松亀と名づけられ、9歳のとき、鍋島光茂(佐賀藩2代藩主)の小僧として召し使われたという。
11歳で父に死別し、14歳のとき、光茂の小々姓(いわゆる児小姓・稚児小姓)となり、名を市十郎と改める。延宝6年(1678年)20歳に元服して権之丞と改名、御傍役として御書物役手伝に従事する。この年に、田代陣基が生まれている。
この間、私生活面では20歳年長の甥・山本常治に厳しい訓育を受けたが、権之丞が、若殿綱茂の歌の相手もすることが光茂の不興をかい、しばらくお役御免となった。失意のこの頃、佐賀郡松瀬の華蔵庵において湛然和尚に仏道を学び、21歳のときに仏法の血脈けちみゃく(師から弟子に法灯が受けつがれること)と下炬念誦あこねんじゅ(生前葬儀の式、旭山常朝の法号を受けた)を申し請けている。
『葉隠』で慈悲心を非常に重んじている素地はこのとき涵養されたといえよう。さらにこの前後、神・儒・仏の学をきわめ藩随一の学者といわれながら下田(現在の佐賀県大和町)松梅村に閑居する石田一鼎を度々訪れて薫陶を受けた。このことも後の『葉隠』の内容に大きな影響を与えている。
天和2年(1682年)24歳のとき、6月、山村六太夫成次の娘と結婚、同年11月、御書物役を拝命。28歳のとき、江戸で書写物奉行、あと京都御用を命ぜられている。帰国後の33歳のとき、再び御書物役を命じられる、命により親の名“神右衛門”を襲名した。
5年後の元禄9年(1696年)、また京都役を命ぜられ、和歌のたしなみ深い光茂の宿望であった三条西実教よりの古今伝授(古今和歌集解釈の秘伝を授かること)を得ることのために、この取り次ぎの仕事に京都佐賀を奔走した。古今伝授のすべてを授かることは容易ではなかった、が元禄13年(1700年)ようやくこれを受けることができ、隠居後重病の床にある光茂の枕頭に届けて喜ばせ、面目をほどこした。
隠居と晩年
同年5月16日、光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年まで30年以上「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝は、追腹禁止により殉死もならず、願い出て出家、5月19日、高伝寺了意和尚より受戒、剃髮。そして、7月初旬佐賀城下の北10キロの山地来迎寺村(現在の佐賀市金立町黒土原)の庵室朝陽軒に隠棲。
田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、宝永7年(1710年)3月5日のことである。『葉隠』の語りと筆記がはじまる。(下平追記=金立公園の西の(株)黒田屋から西へ150mそこから北北西150mに「葉隠発祥の地」の碑が建てられいる)
のち、朝陽軒は宗寿庵となり、光茂の内室がここで追善供養し、自分の墓所(霊壽院)と定めたので、常朝は遠慮して、正徳3年(1713年)黒土原から西方約11キロの大小隈(現在の佐賀市大和町礫石)=(礫石の大字はなく、久池井あたり)の庵に移り住む。正徳4年(1714年)5月、川久保領主神代主膳(光茂七男、のちの佐賀藩五代藩主鍋島宗茂)のために、藩主たる者の心得を説いた『書置』を書き、翌5年、上呈する。
享保元年(1716年)9月10日、田代陣基が『葉隠』全11巻の編集を了える。山居すること20年、享保4年(1719年)10月10日、61歳で没した。翌日、庵前において野焼、墓所は佐賀市鍋島町八戸の龍雲寺。
辞世の歌:
重く煩ひて今はと思ふころ尋入る深山の奥の奥よりも静なるへき苔の下庵
虫の音の弱りはてぬるとはかりを兼てはよそに聞にしものを
史料
出家後の常朝は父重澄や祖父中野神右衛門清明のそれぞれの詳細な年譜を作製し、自分自身の詳しい年譜をも死の2週前まで書きつづけていた。なお、常朝自筆『年譜』は葉隠研究会『葉隠研究』第2号に翻刻されている。
参考文献
小池喜明『葉隠 武士と「奉公」』(講談社学術文庫、1999年) ISBN 4-06-159386-2
序章 『葉隠』と山本常朝 四 山本常朝の生涯と経歴 p59〜p88
たくさんの本を読んでいる人の書評の深さはやっぱり素晴らしい。 そんな一つを取り上げておきたい。
■ 穿った読後評価
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0823.html
松岡正剛の千夜千冊 『葉隠』山本常朝
山本常朝 『葉隠』上中下 1980 ニュートンプレス original 松永義弘 訳
卑怯とは何か。卑しく怯むこと、それが卑怯であろうけれど、卑怯から遠のいて生きることほど難しいものはない。
かつて、どんな卑怯をも許さない社会があった。徳川の武士の日々である。そこでは藩主と家来のあいだで、家と武士のあいだで、武士と武士のあいだで、卑怯という言動いっさいとの果敢すぎるほどの闘いが進行していた。乃木希典の自害の夜をもって、森鴎外がこの徳川社会の人間たちの生き方に自分の文学の荷重のいっさいをかけて、『阿部一族』などを書いたことは、すでに第758夜にも書いておいた。
鴎外から一転して三島になるが、三島由紀夫の学生時代の愛読書は3つあったそうだ。レイモン・ラディゲ『ドルヂェル伯の舞踏会』、『上田秋成全集』、そして『葉隠』である。
その三島が自決の3年前にカッパ・ブックスに『葉隠入門』を書いた。すぐ買ってなんとなく読んだのだが、ずっと「花は桜木、男は葉隠」と聞いてきたわりに、いまひとつ感動がなかった。あの『太陽と鉄』と同じ三島の書きようとは思われない。原著ではないのだから、そういうこともあるだろうと思っていた程度だったが、しばらくして『葉隠』そのものを読んで、やはり三島の読み方には何かが欠けている。読み方が焦っていて、しかも学生時代からの愛読書というわりに、やっとこさっとこ言い替えを急いでいるという感じがしたのだ。
しかし、三島は卑怯をこそ蛇蝎のように嫌った人生をまっとうしてみせた人である。誰も三島から卑怯を引き出せない。けれども、それを『葉隠』の主旨の実践だとは思わないほうがいいとも言うべきなのである。三島の生き方と『葉隠』に何が書いてあるかということは、必ずしもぴったりは重ならない。ところどころは、逆向きになっているところさえあった。
三島だけではなく、多くの者が『葉隠』を本格的な武芸書と勘違いしてきた。「武士道というは死ぬ事と見付たり」や「武士たる者は死に狂ひの覚悟が肝要なり」に最大絶無のメッセージがあると思いこみすぎていて、その部分の拡大解釈ばかりが強調されることが多い。三島も「死に狂ひ」の言葉から、「正しい狂気というものがあるものなのだ」と書いた。
いったいそれで『葉隠』を読みこんだのかと聞きたくなるほどである。その理由については、あとで書く。
ともかくもその後は、これまでぼくが散見したかぎりで『葉隠』が読めていると思えたのは、橋川文三、隆慶一郎、小池重明くらいのものだった。ちなみに隆慶一郎は学徒動員で中国戦線に送られるとき、当時の危険書とみなされていたランボオの『地獄の季節』をひそかに『葉隠』のあいだにひそませて持っていったそうだが、彼の地で静かに『葉隠』を読んだことがランボオ以上の感動をもたらし、その後は知っての通り(第169夜『吉原御免状』参照)、武門の裏側にひそむものに目を注いだ。
その「武門の裏側にひそむもの」が、江戸前期の社会においてはいったい何だったのかということが、まさに『葉隠』の一貫した思想になっている。
以下、肝腎のことだけを書くことにするが、『葉隠』は武士道の心得や心掛けを語っているのはむろんだが、どうもそれ以外のことをいろいろ書いてもいて、われわれがすっかり忘れてしまいそうになっていることを暗示しているのである。
そこには一見、武士道論としては意外とも見えることが切実で真摯な口調で縷々語られる。
たとえば常朝は、主君から恩情をかけられたときに報いようとするのはあまりに当たり前のことで、むしろ主君が冷淡に見えたり、主君が恩情をかけるのもままならないほどのときこそ、武門に仕える者の真の報恩が発動するものだというようなことを語っている。このような態度を常朝は「本来の奉公」とよぶ。その逆は、いわゆる「御為ごかし」と言われた。
つまり常朝は「非常の武士道」ではなく、「平常の奉公道」を伝えたかったのだ。
これはしばしば「忠節述懐、述懐謀叛、謀叛没落」という熟語としても語られるもので、忠節のフリをするな、そういうことばかりをすると相互の「述懐」(愚痴)が多くなり(忠節述懐)、結局は主君に対しての謀叛になって(述懐謀叛)、そのうちその家門や組織が没落していくものだ(謀叛没落)、という激しい痛罵にもなっている。
ここでは、見ての通り、忠節と卑怯とが表と裏になっているのだが、しかしその後の日本の社会では必ずしも卑怯は忠節の裏にあるものとは考えられてこなかった。今日では、卑怯という言葉すら死語になっている。しかし『葉隠』を理解するには、この徳川社会における忠節と卑怯との関係が異様なほどに独自のものとなっていたことを知る必要がある。
(下平注記=この項を見ていると、白洲次郎の counry gentleman の生き方を髣髴させられます)
また、常朝は「忍恋」ということを頻りに重視した。
そう、恋である。しかも「忍ぶ恋」だ。三島由紀夫はほとんどそのことにふれていないのだけれど、『葉隠』には「恋の至極は忍ぶ恋」と断じた箇所が何カ所もある。ここは絶対に見落としてはならなかった。
「忍ぶ恋」とは、一言でいえば永遠の片思いのことであるが、それこそが「長け高き恋」であって、そのことを存分に胸に秘められることが、実のところは武士の精神の秘密を解く鍵なのだと、そのように常朝は言ったのである。
いったいどこに、忍ぶ恋と武士の生き方(あるいは死に方)が関係するというのか、にわかには理解しがたいにちがいない。恋心だなんて、とうてい武士道とは関係がありそうもない。しかし、このことは『葉隠』が何度も解こうとした問題だったのだ。このことがわからなければ、「武士道というは死ぬ事と見付たり」の意味はわからない。
それを説明する前に、ざっと本書の背景を紹介しておきたい。
『葉隠』全11巻は、鍋島藩の山本常朝が51歳のころから7年にわたって語った聞き書きという体裁をとっている。
聞き役は同じ鍋島藩の祐筆だった田代陣基(つらもと)で、田代自身が享保元年(1716)にみごとにまとめた。八代将軍に吉宗が就いたころのことである。7年にわたった聞き書きを濃縮構成したその編集ぶりは、すでに何人かの研究者が指摘しているように、すこぶるうまい。たとえば冒頭の「夜陰の閑談」から「聞書一」「聞書二」までは、実際には何年もかかったことだろうに、あたかも一夜の語りのように編集されている。
田代は鍋島藩に伝わってきた武士としての心構えや事歴を、先輩の常朝に聞いておきたかった。常朝はすでに佐賀市北方の金位山の麓の黒土原(くろつちばる)に隠栖して、10年ほどがたっていた。そこは木の葉隠れの草庵ともいうべき「朝陽軒」である。常朝は二代藩主の鍋島光茂が元禄13年(1700)に死去したおりに、主君の死に殉じて剃髪し、その庵室に引いていた。当時は決してめずらしくないのだが、わずか42歳での引退である。
それまでの常朝は9歳で藩主の御側小僧、20歳で御書物役手伝、24歳で御側御小姓、28歳で書写物奉行になるというように、家老にまではならなかったものの、ずっと藩主の側近としての日々を送っている。藩内での切腹にも、すでに24歳から介錯としてかかわっていた。
ようするに山本常朝は、藩内の武士の生き方や過ごし方を語るには十分かつ必要な条件はすべてもっていた人物だった。仮に藩内で誰が鍋島武士の心を語り伝えるべきかという投票をしても、きっと常朝に票が集まったにちがいない。それほどの人物だった。
とくに「御側」(おそば)という立場が重要である。常朝は、主君の一挙手一投足から喜怒哀楽の細部までを、衣擦れの音から咳払いの調子までを、ほとんどすべてを知悉していた「御側」なのである。そういう「御側」が藩内の武士たちの将来のための指針的覚悟として、祐筆を相手に語ったのが『葉隠』である。
こういう『葉隠』を、主人もなく、組織にも所属したことがない者が、その精神や教訓だけを引き写そうとしても、どこかが食い違う。ぼくは必ずしも「家来」という言葉を封建制の遺物のように見ずに、むしろ「家来」とは何かを考えてみることが日本の武家社会の歴史の最も重要な問題を解くキーワードのひとつになると思っているのだが、『葉隠』はそのような「家来」を案ずる者にとってこそ、如実なものになってくる。
常朝は、このような立場からさまざまな藩内武士の遭遇する出来事に言及していった。
徳川の世になって、武士道や士道を扱って評判になった主要な書物には、大久保彦左衛門の『三河物語』(1622)、宮本武蔵の『五輪書』(1645)、鈴木正三の『驢鞍橋』(1660)、山鹿素行の『山鹿語類』(1663)などがあった。
だが、これらの言説の調子は、18世紀に入って仕上がった常朝の『葉隠』と松代の大道寺友山の『武道初心集』によって面目を一新する。なぜ面目を一新したかというと、この時期を挟んで赤穂浪士の仇討ちと殉死があった。この日本中を沸かせた事件が荻生徂徠によって判定されてからというもの、武士における君主と臣下の主従関係の真の姿はどうあるべきかという問題が、世論のなかにも一気に噴き出たのだった。それは「仇」とは何か、「殉死」とは何か、「忠節」とは何かということにほかならない。
それゆえ赤穂浪士事件のあとにまとまった『葉隠』に期待できるのはまさに“殉死の哲学”というものであるはずなのだが、ところが常朝は殉死についてはほとんどふれずに、もっぱら追腹を問題にした。
当時の武士の常識では、殉死は名誉、追腹は犬死である。殉死は主君が認めたうえでの切腹であり、追腹は認められないままに勝手にする自刃のことをいう。もうひとつ先腹があって、これは主君の身代わりになって死ぬ。
なかで常朝は、追腹のみを問題にした。ここには江戸藩政史上に注目すべき事実がかかわっている。鍋島光茂が全国に先駆けて追腹禁止令を出したのだ。
しかし、このような事情を踏まえたうえで常朝が持ち出したのは意外にも「思ひ死」というものだったのである。「狂ひ死」ではない。「思ひ死」なのだ。この「思ひ死」が「武士道というは死ぬ事と見付たり」の真意を解く鍵になる。
もう一度、「忍ぶ恋」に戻りたい。
常朝は、究極の恋は相手に恋心の負担を感じさせない恋闕の情というものであるということを、何度も何度も強調した。その強調は異常なほどで、そこには人間の哲学の究極のひとつがあるかと思えるほどである。古代ギリシアにおける「アガペー」の哲学などを思い合わせれば、そうだとしてもそれもありうることだろう。
けれども、この「忍ぶ恋」は普遍的な愛を議論したいために言い出したことではない。存在の覚悟や社会における自身の「負」をあえて凝視するためのものである。しかも常朝は、そのほうがずっと楽ではないかとさえ考えていた。「忍ぶ恋」の哲学は、単に卑怯の謗りを離れるためのものではなかったのだ。
しかし、ここからがちょっと難しい。
ひとつは、この「忍ぶ恋」はむろん男女のなかにあてはまっていいのだが、当時は「衆道」とよばれた男と男の恋情にもあてはまっていた。ここでは詳細はふれないが、そのころ鍋島藩は衆道のさかんな国で、いわば流行さえしていたのである。それはイタリア・ルネサンスがレオナルド・ダ・ヴィンチをはじめ、さかんに少年愛を公然と流行させていたことに似ていなくもない。
けれども、鍋島衆道は武士と武士とがその魂と愛を懸けての衆道であった。常朝は、そこに「忍ぶ恋」をもちこんだ。流行に反対したのではなく、ただ「忍べ」と言った。
もうひとつは、この「忍ぶ恋」から本来の武士道が出てくるということである。
常朝の多くの語りのなかで、「常住死身」(じょうじゅう・しにみ)という言葉ほど輝くものはない。これはいざというときに死んでみせるという覚悟ではなくて、その前提にあるのは、いつだって死んでいる覚悟が必要だという意味である。
それゆえ例の「武士道というは死ぬ事と見付たり」の文章(語りだが)は、次のように結ばれる。「毎朝毎夕、改めては死々(しにしに)、常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課(しおお)すべきなり」。
これはなんと一瞬一瞬の生死を亙るということで、ベルグソンの「純粋持続」さえ思わせる。しかし常朝はそういう哲学の合理などにはまったく関心がなく、ひたすらそのことが家職に従事するにあたって必然となるはずだと言ったのだった。
武士というもの、いつも戦場にいるとはかぎらない。「虎口前」にも「公界」にも「畳上」にも武士はいる。それでなお武士でありつづけるとは、どういうことなのか。常朝は、このことを先駆する鈴木正三とともに考え切った。
ここで浮上してくるのが「奉公」という概念である。奉公は、商家にとっては丁稚や番頭になることであるけれど、武士にとっては「公」に「奉る」ということだった。常朝のすばらしい言葉づかいでいうのなら、「奉り置きたる此の身」というものだ。この「置きたる」がいい。
では、どう「置く」か。常住死身になっていく。これである。しかしながら、これは単に死を覚悟するというのではなくて、そんなことは当然で、むしろそこで「生死(しょうじ)を離るるべき事」に思いを致すことなのである。
ここにおいて、「奉り置きたる此の身」と「忍ぶ恋」とが馬を蹴立てて近寄ってくる。「常住死身」と「生死を離るる」が急速に重なっていく。そして「長け高き心」というものになっていく。
そもそも「長け高き心」は藤原定家らによって見つめられた和歌の極上の心のことである。それを常朝は「奉り置きたる此の身」が秘める「忍ぶ恋」の様相に見た。『葉隠』聞書二には、こんなふうにある。
「恋の至極は忍恋と見立て申し候。逢ひてからは、恋の長けが低し。一生忍びて思ひ死にするこそ、恋の本意なれ」。
思ひ死――。常朝はここに「思ひ死」を出してきた。
さらに「打見たる所に(一見しただけで)、其の人々の長け分の威が顕るるなり」とも言った。これは和歌でいうなら、「無心」に対するに「有心」ということなのである(この説明をしている暇がないので省くが、「無心」からもう一度「有心」に進めることが定家の真骨頂だった)。また、世阿弥でいうなら「闌けたる位」というものだ。
さあ、こうなってくると、常朝の武士道は歌道や芸道の極みとも重なってくる。しかもそこには、頑として「奉り置きたる此の身」と「忍ぶ恋」が控えきっている。軟弱であろうようでいて、断固として凛としたものが息づいてくる。すでに識者たちによって、『葉隠』が「死の哲学」であるはずなのに、どうも「生の哲学」に見えると指摘されてきたことは、ここなのだ。
「負」を引き取ることが断固たる「正」を通すことになるとは、ここなのである。
それにしても、こういう常朝の考え方は、わかりにくいのであろう。最初に述べておいたように、多くの者が『葉隠』をまるで特攻隊や散華の精神のように読みすぎてきた。しかしこれは、ひょっとするとある種の女性ならば見破れる精神でもあったのである。
昨夜ぼくは香禅道の福澤喜子さんに招かれて、隅田川の上空44階の一室から東京の夜景を眺めていた。夜景があまりに絶妙なので、咄嗟に「香禅の人に招かる高層の下に流るる隅田七月」「隅田川下に眺むる夜の中を電気仕掛の屋形舟ゆく」の座興も置いてきた。
福澤さんはずっと以前からの『遊』の愛読者であって、未詳倶楽部の会員でもある。日本で初めて香道と禅味を重ねて、すでに数十年になる。その福澤さんと久々に話しているうちに、ふいに「恩寵のエレガンス」「一宿一飯の義理」という話になって、福澤さんが「だって、『葉隠』だって忍ぶ恋ですものね」と言った。
あっ、と驚いた。
ぼくはその日は野村萬斎主演の男だけの『ハムレット』を世田谷パブリックシアターに観て、両国リバーサイドシティに駆けつけたのだが、その前は自宅の書斎で「千夜千冊」のための『葉隠』の下書きをしていたところだったのだ。そこで書きたかったことは、すでにおわかりのごとく、『葉隠』の最大のキーワードは「忍ぶ恋」だということだったのである。
しかも午前中にそれを書きながら、ぼくは地唄の西松布咏さんを思い浮かべていた。布咏さんは地唄も小唄も富松も端唄も上手だけれど、なんといってもその唄に「忍ぶ恋」が静かにぴんと張っていて、そのうえ布咏さんその人が、長らく海外の殿御との「忍ぶ恋」に生きつづけている! ああ、『葉隠』が本当にわかるのは布咏さんのような人だろうと思っていた。
それが夜の両国では、たちどころに『葉隠』で、それもずばりの「忍ぶ恋」だった。福澤さんも布咏さんもつながっていた! これには心底、脱帽なのである。
というところで話を締めたいのだが、これでは「花は桜木、女は葉隠」で終わってしまうので(笑)、もう一つ二つの、きっとあまり気がつかれていないだろうことを、付け加えることにする。
尚武の気概に富んだ『葉隠』には、「和の道」という言葉が出てくる。この「和の道」は礼儀のことで、その礼儀とは相手の心を思う心のことをいう。相手とは亭主のことだ。「亭主のことを能く思ひ入れて行くがよし」と聞書一にある。
もう一カ所、どうしても紹介しておきたいのは、「伊達する心にてなければ、時期はならずと也」とある箇所だ。これは現代語に訳せば、「意気がって恰好よく見せようというほどの心構えがなければ、どうして時や処や位にかなった振舞ができようものか」という意味である。「風体の元は時宜なり」とも言っている。
伊達、なのである。時宜の伊達、なのだ。奉公とは、武士道とは、そして「忍ぶ恋」というものは、この伊達にこそ支えられていたのである。
山本常朝殿、貴殿をぜひとも平成の世に呼び戻し、福澤喜子の香や西松布咏の唄を聞かせたい。よろしいか。