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折々の記 2014 ③
【心に浮かぶよしなしごと】

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【 01】03/03

  03 03 集団的自衛権  このままでいいのか
  03 03 安倍晋三総理大臣  巧言令色鮮矣仁


 03 03 (月) 集団的自衛権  このままでいいのか


(1面)  (集団的自衛権 読み解く)
同盟の証し「一緒に戦う覚悟」
    <http://digital.asahi.com/articles/DA3S11008602.html>


 朝もやのかかる米カリフォルニア州の沖合。陸上自衛隊の精鋭部隊が乗った漆黒の戦闘用上陸艇が続々と姿を現した。険しい表情の隊員らが全身に波しぶきを浴び、ゴムボートで浜辺へと突き進む。

 狙うは「あの島」だ。上空には米軍の攻撃型ヘリ2機が旋回。米軍の揚陸艇が自衛隊の迫撃砲を載せ、轟音(ごうおん)と砂煙を巻き上げて上陸する。米海兵隊の水陸両用車も隊列を崩さず浜辺を目指す。迷彩服の自衛隊員が米軍の射撃支援を受け、攻撃目標に向かって進撃していく。

 2月中旬、陸上自衛隊と米海兵隊による日米共同訓練「アイアン・フィスト(鉄拳)」の舞台は、米海兵隊の基地内に設定された架空の日本領土、「ペンドルトン島」。「敵」の侵攻を受け、島を占領された日本は自衛隊に防衛出動を命令。一方、同盟国である米国は、日本の防衛義務を定めた日米安保条約5条を適用して駆けつけ、日米の共同対処で島を奪還する――とのシナリオだ。

 念頭にあるのは、中国による尖閣諸島を含む南西諸島への侵攻だ。

 ただし、もし「尖閣有事」が起きても、日本が発動するのは、いまの憲法解釈で認められている個別的自衛権だ。日本を助けるために集団的自衛権を発動するのは米国の方だ。ところがアフガン、イラク戦争で消耗した米国は「世界の警察官」役から退きつつあるうえ、米国内では中国との戦闘にもつながる「尖閣有事」に巻き込まれることを懸念する声は根強い。

 外務省が昨年末に公表した米国での対日世論調査によると、日米安保条約を「維持すべきだ」と答えたのは67%で、前年と比べて22ポイント減と急落。米国が実際に集団的自衛権を行使してくれるかどうか、安倍政権の疑念は消えない。

 こうした中、安倍晋三首相は中国の海洋進出や北朝鮮の核・ミサイルなどで「日本の安全保障環境が悪化している」と集団的自衛権の行使容認を訴える。

 安倍政権の安全保障政策をめぐる有識者会議に加わるメンバーの一人は「米国はあんな岩礁のために戦いたくない。日本が『いざとなったら米国と一緒にやります』と用意しなければ、米国は日本の離島防衛に『ハイ、サヨナラ』ですよ」と話す。

 日本が集団的自衛権の行使を認め、米国が関わる戦争で自衛隊が米軍と一緒に戦う覚悟を示せば、米国を「尖閣有事」にも巻き込めるというわけだ。

 一方で、防衛省幹部の一人は「日本にとって集団的自衛権の行使容認は、本当に優先課題なのか」と語る。集団的自衛権の行使容認に力をそそぐより、むしろ武装漁民の上陸など個別的自衛権を発動するに至らない事態への対応策を充実させるべきだ、との考え方からだ。行使容認を決めれば、かえって中国を刺激し、相互不信をさらに高めるリスクもはらむ。

 集団的自衛権の行使を認めることは、歴代政権が禁じてきた海外での武力行使に道を開く。国土防衛に徹する「専守防衛」の基本方針を転換し、他国を攻撃することにもつながる。さらに陸上自衛隊幹部は懸念する。「いまの日本は他国の防衛のために自衛隊員を犠牲にする覚悟があるのか」(園田耕司)

     ◇

 安倍首相はなぜ、集団的自衛権の行使容認に強くこだわるのか。行使が認められれば、日本が行き着く先には何があるのか。多角的に検証していく。

▼=突き進む首相、9面=一からわかる、10面=社説


(2面)  (集団的自衛権 読み解く)
岐路、突き進む首相
    <http://digital.asahi.com/articles/DA3S11008496.html>


 安倍晋三首相は、憲法解釈の変更で集団的自衛権を行使できるようにすることを目指している。時の内閣の判断で憲法解釈を変え、自衛隊の海外での武力行使を可能にするものだ。日本の安全をどう守るかを超えて、戦後日本の国家としてのあり方の根幹が問われる問題だ。▼1面参照

2001年 安保専門家が「照準」

 「最高の責任者は私です」。2月12日の衆院予算委員会。安倍は、民主党議員が憲法解釈の変更が許されるのかを内閣法制局に問い続ける質問にいらだっているように見えた。やっと指名を受けると、自ら強い口調で言い切った。安倍は20日、「今までの解釈のままでいいのか」とも発言。解釈変更を閣議決定で決める意向も示した。

 かつて安倍は、行使を認めない政府見解をこう批判していた。「『禁治産者』は財産に権利はあるが、行使できない。我が国が禁治産者と宣言するような極めて恥ずかしい見解だ」

 大きな影響を受けているのが、祖父で首相を務めた岸信介だ。岸は日本での内乱を米軍が鎮圧することを許した旧日米安全保障条約を「不平等だ」と考え、安保改定に踏み切った。集団的自衛権の行使が実現できれば、日本も米国を守ることができる。安倍にすれば、日米同盟がより対等な関係となり、真の「独立国家」へと一歩近づくというわけだ。

 1991年の湾岸戦争と北朝鮮の核開発疑惑をめぐる93~94年の朝鮮半島危機。官房副長官という政権中枢で二つの危機にかかわった石原信雄は振り返る。「『集団的自衛権の行使にあたる』という法制局の9条解釈が壁になってほとんどの協力はできなかった」

 安倍のめざす行使実現を長年後押ししたのが、90年代の対米外交で苦い経験を味わった人たちだ。外交安保に携わった彼らにとって安倍は「金の卵」だった。

 01年初夏。元駐タイ大使の岡崎久彦は、集団的自衛権研究の第一人者、佐瀬昌盛の自宅に電話した。元防大教授の佐瀬は当時、新書「集団的自衛権」を出版したばかり。「あなたの本で政治家教育をしよう」。岡崎は佐瀬に提案した。「どうやるんだ」と尋ねる佐瀬に岡崎は「各個撃破だ」と答えた。「誰からやるのか」。岡崎は衆院当選3回のホープの名を即答した。「安倍晋三だ。あれは、ぶれない」

1次政権 立ちはだかった法制局

 安倍は2006年、首相に上り詰めた。安倍に近い外務省幹部は、当時の内閣法制局長官宮崎礼壹(れいいち)に言い放った。「あなたたちの間違った解釈をどんなに我慢したか。やっとここまで来た」。行使容認を求める人々にとって、「憲法の番人」と呼ばれ、行使を認めてこなかった法制局は長らく「敵」だった。

 首相になった安倍は、宮崎をたびたび官邸に呼び出した。話題は集団的自衛権。安倍は憲法解釈の変更を求めたが、宮崎は「理屈が通りません」と突っぱねた。安倍は「なるほどなあ」と応じたものの、納得した様子ではなかった。

 「国会答弁で解釈を変更したい」。宮崎とのやりとりに業を煮やした安倍は、国会で解釈変更を宣言する考えを漏らした。だが事務方のトップの官房副長官、的場順三は止めた。「足場を固めてからの方がいい」

 的場は安倍が行使容認に踏み切れば、宮崎が抗議の意味で辞任する意向を聞いていた。そうなれば、閣僚の失言や不祥事が続いていた第1次政権の致命傷となりかねないと考えた。

 安倍は的場の助言を受け入れる一方、行使容認に向けて有識者会議「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)を準備。メンバーに岡崎や佐瀬らを指名した。だが、ここでも異論が出た。

 07年4月、安倍は防衛省出身の官房副長官補の柳沢協二を呼び出した。安保法制懇の事務方の取りまとめ役を指示するためだった。安倍は、集団的自衛権の行使が必要かどうか、安保法制懇に諮問する具体例を示した。米艦船に対する攻撃に自衛隊が応戦できるか。安倍に柳沢は「個別的自衛権でもやれます」。米国に向かう弾道ミサイルを撃ち落とせるかとの問いにも「そもそも今の技術では物理的に撃ち落とせません」。防衛の現場の観点から不要論を唱える柳沢に安倍は言った。「ミサイルは将来可能になった時の話で良いんだ」

 柳沢はいまも「米国にミサイルを撃ち込めば、米国から報復を受け、その国は壊滅する。どこの国がミサイルを撃ち込むのか」と疑問を持つ。安倍が挙げる具体例も「現実的な事態ではない」と指摘する。

 結局、安倍自民党は07年の参院選で大敗。安倍は体調の問題もあって法制懇の結論を待たずに退陣した。

2次政権 容認へ側近重用

 昨年6月、官邸を訪ねた岡崎に、安倍は法制局長官に行使に前向きな元外務省国際法局長の小松一郎を据える人事を打ち明けた。50年以上にわたって内部昇格が続く法制局長官人事の慣行を打ち破るものだった。

 行使容認のためのスタッフも側近で固めた。

 昨年12月に立ち上げた安倍肝いりの国家安全保障会議(日本版NSC)。事務局トップには、元外務事務次官、谷内正太郎を迎えた。谷内は小松と共に、1次政権の安保法制懇で米艦防護などの具体例を作った安倍の「知恵袋」だった。

 1次政権後の6年の空白を埋めるように憲法解釈変更に向けた動きを加速させ、強気の国会答弁を重ねる安倍。法制局長官OBの秋山収は「集団的自衛権の行使は9条の範囲を超える」と批判し、こう言う。

 「行使を認めれば、憲法解釈を権力者が自由に変える前例になる。憲法には基本的人権の尊重や言論の自由、政教分離といった根幹もある。時の政権は、それらも好き勝手に変えたくなる誘惑が出てくる。そこが最も心配だ」

 安倍が行使の理由とした米国との関係も微妙だ。

 オバマ政権は日本の集団的自衛権行使を基本的に「歓迎する」との立場だ。しかし、昨年末の安倍の靖国神社参拝が影を落とす。安倍の靖国参拝をオバマ米政権は「失望した」と批判。これに対し、安倍側近が「米国の『失望』に失望した」と応酬するなど日米関係はきしんでいる。

 オバマ政権は昨年、ワシントンを訪れた韓国政府高官に日本の集団的自衛権行使に理解を求めた。しかし、「安倍首相自身の靖国参拝が隣国との緊張関係をつくりだした」(ベーダー元NSCアジア上級部長)ことで、米国の取り組みも一層困難になっている。

 アジア・太平洋担当の次期国防次官補に指名されたデビッド・シーアは2月25日、議会承認のための公聴会で、こう証言した。「国防総省は日米韓の健全で開かれた関係を促している。強固な3カ国関係は北朝鮮の挑戦を抑止するためにも重要だ」

 同盟国との安保協力強化を急ぐオバマ政権は、4月の大統領の日韓訪問に向け、もう一度日韓関係の改善に取り組む構えだ。日本がどのタイミングで集団的自衛権の議論を進めるかは、米国にとっても難しい問題になっている。 =敬称略(蔵前勝久、園田耕司、ワシントン=大島隆)


(9面)  (集団的自衛権 読み解く)
一からわかる集団的自衛権
    <http://digital.asahi.com/articles/DA3S11008469.html>


安倍内閣が行使を容認しようとしている「集団的自衛権」とは何か

憲法のもとで、自衛隊の活動はどこまで認められてきたのか。その歴史的経緯や議論のゆくえを読み解く。

個別的自衛権とは何? 自分の身を守るために反撃できる権利。正当防衛に近い

 自分で自分の身を守るために反撃できるという権利のことだ。例えば、Xが日本を殴ったら、日本はこれ以上殴られないようにやむを得ずXを殴り返しても、正当防衛として認められるということに近い。外国が自国に攻めてきた場合、敵を排除し、国を守るために武力で反撃することができる。

 そもそも国どうしの戦争は、1928年のパリ不戦条約(資料〈1〉)で国際的に禁止された。第2次世界大戦後にできた国際連合(国連)も、加盟国に武力による威嚇や武力行使を禁じた。ただし他国からの武力攻撃を受けた場合に限り、個別的自衛権と集団的自衛権、集団安全保障による武力行使を認めた。

 日本は戦後、憲法で平和主義を掲げ、戦争をしないことや戦力を持たないことをうたった。ただ、歴代内閣の憲法解釈では自国の独立を守るため個別的自衛権を使うことはできるとした。

 日本が個別的自衛権を使えるのは「国または国に準ずる組織」から武力攻撃を受け、(1)日本への急迫不正の侵害があること(2)他に防衛手段がないこと(3)必要最小限度の実力行使にとどまること――の三つの条件を前提にするのが特徴だ。

 3条件をすべて満たし、個別的自衛権を使う場合、首相は自衛隊に「防衛出動」を命じる。原則として事前の国会承認が必要だが、緊急の場合は、防衛出動を命じた後に国会の承認を求めることができる。日本が戦後、個別的自衛権を行使したことはない。

     *

日本は―歴代内閣は憲法解釈で「行使できる」とした

そもそも集団的自衛権とは? 密接な関係にある他国が攻撃された場合、反撃する権利

 自分の国が攻撃されていなくても、密接な関係にある他国が攻撃された場合に反撃する権利のことだ。例えば、日本とYという友人同士がいて、XがYを殴ったとき、日本はYを助けるためにXを殴り返すという行動に近い。

 国連の憲法と位置づけられる国連憲章の51条(資料〈2〉)で、加盟国が個別的自衛権に加え、集団的自衛権を持っていることを認めた。

 集団的自衛権は本来、国連の集団安全保障が機能するまでの間に限り、使うことが認められた。しかし現実には米ソの冷戦などを背景に国連の集団安全保障はなかなか機能せず、各国はお互いに守り合う同盟を結び始めた。西側諸国はNATO(北大西洋条約機構)、東側諸国はワルシャワ条約機構を作った。

 集団的自衛権は、小国どうしのいざこざに大国が軍事介入する口実に使われることが多い。旧ソ連のアフガン侵攻や米国によるベトナム戦争などは、いずれも集団的自衛権を行使する形で始まった。

 一方、日本の歴代内閣は、集団的自衛権とは距離を取り続けてきた。「我が国が国際法上、集団的自衛権を持っていることは当然だが、行使することは憲法上許されない」と解釈。憲法9条(資料〈3〉)のもとでは、個別的自衛権しか認められないとの立場をとってきた。

 集団的自衛権の行使を認めない国は日本だけではない。永世中立主義を掲げるスイスは2002年に国連加盟したが、集団的自衛権を使わないという政策を取る。

     *

日本は―憲法9条により「行使は許されない」と解釈

国連による集団安全保障とは? 武力攻撃を行った国に、国連加盟国が団結して制裁する

 仲間内でXがAを殴りつけて、秩序を乱す行動に出た場合、B、C、DらのメンバーがみんなでXに反撃する仕組みといえる。国連憲章が禁じる武力攻撃を行った国に、国連加盟国が団結して制裁を加え、平和を取り戻すことを目指す。

 国連による制裁には、順序がある。まずは経済などの非軍事面で制裁を加える。それでも改善しない場合に国連軍を編成して武力行使をする。

 国連軍を編成するには、安全保障理事会の同意が必要だ。ただ、15の理事国のうち米、英、仏、中、ロの五つの常任理事国には「拒否権」があり、1カ国でも拒否権を使えば決まらないため、各国の利害がぶつかることが多い。朝鮮戦争で「国連軍」が編成された際も、実質的には米国など西側諸国中心の軍だった。日本は武力を用いる国連軍への参加は、憲法9条を踏まえて認めていない。

 一方で国連軍にかわって作られてきたのが、有志による多国籍軍だ。イラクのクウェート侵攻を受けた91年の湾岸戦争の際には、国連安保理は米国など加盟国に武力行使を認める決議をした。

 この時、海外での武力行使を禁じている日本は、多国籍軍への参加を見送った。湾岸戦争で日本は多額の財政支援を行ったが、米国などは「小切手外交」と批判。その後、憲法の範囲内で自衛隊が海外で活動できるようにする法律が作られ、停戦合意した地域で復興支援を進める国連平和維持活動(PKO)参加などを進めてきた。

     *

日本は―武力を用いる国連軍参加は認めていない

<資料〈1〉> パリ不戦条約

第1条 締約国は、国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、かつ、その相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。

<資料〈2〉> 国連憲章51条

 この憲章のいかなる規定も、国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的または集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使にあたって加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。(後略)

<資料〈3〉> 憲法9条

第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

◆キーワード

 <サンフランシスコ講和条約> 第2次大戦を終結させるため、1951年9月8日、米国など48カ国と日本が米サンフランシスコで署名した。冷戦を背景に共産圏の旧ソ連、旧チェコスロバキア、ポーランドは署名を拒否した。52年4月28日に発効し、連合国による日本占領が終わった。日本は独立を回復したが、沖縄や小笠原諸島、奄美群島は本土復帰までの間、米国の施政下に残った。

現在の政府解釈「行使は必要最小限度」 日本が攻撃受けない状態は自衛権の「範囲外」

 憲法9条は第1項で「戦争放棄」をうたい、その目的を達するため、第2項では、陸海空軍など「戦力」を持たずに「交戦権」を認めないとしている。個別的、集団的自衛権には触れていない。

 これまでの憲法解釈では、日本は個別的自衛権は使えるが、集団的自衛権は使えないとされてきた。ただ、その政府見解や解釈も時間をかけて積み重ねられてきたものだ。

 憲法の制定直後、吉田茂首相は9条の規定を厳格に解釈し、国会答弁などで個別的自衛権の行使すら否定していた。だが、朝鮮戦争を機に、1950年に警察予備隊、54年に自衛隊が発足すると、戦力の保持を禁じた第2項との整合性が疑われた。そこで政府は、自衛隊を「自衛のための必要最小限度の実力」と位置づけ、憲法上も認められるとの立場を取ってきた。

 日本に自衛権はあるが、集団的自衛権の行使は認められていないとする政府見解は、70年ごろに固まり、81年に国会へ提出された政府答弁書で確立した。9条で許されている自衛権の行使は「必要最小限度」にとどまるべきだとし、自国が攻撃を受けていない状態で武力を使う集団的自衛権は、その範囲を超えるため憲法上許されないとの解釈だ。

 自衛権の行使に抑制的な姿勢で臨んできた戦後日本が、安全保障政策の柱としてきたのが米国との同盟関係と言える。日本は51年のサンフランシスコ講和条約によって、米国など連合国の占領統治からの独立を認められた。その同じ日に締結されたのが、日米安全保障条約だ。

 60年に改定された現在の条約では、米国が日本を守る義務を負う一方、憲法の制約がある日本は米国を守ることはできない――。その「片務的」な役割分担が特徴だが、日本政府は代わりに国内の基地を提供し、維持費を負担している。2011年末での在日米軍は約3万6700人。沖縄県を中心に80を超す米軍の常駐施設・区域がある。

 憲法を改正する手続きを取らず、解釈を変えて集団的自衛権を認めることは、果たして許されるのか。

 「集団的自衛権の行使は政策の大きな転換だ。憲法改正して新たな条文の下で、政策転換をやらなければ非常に危険だ」。元内閣法制局長官の秋山収氏は、平和主義を定めた9条との整合性がつかなくなると懸念する。

 「国際法で認められている武力行使は、個別的自衛権、集団的自衛権、国連の平和維持活動の三つ。憲法を変えずに全部できるようになると、『戦力を保持しない』と書く9条は骨抜きになる」

安倍首相が目指す姿とは 米との積極的な防衛協力構築

 「我が国を取りまく安全保障環境はますます厳しさを増し、脅威は容易に国境を越えてくる」。安倍晋三首相は今国会で、集団的自衛権の行使を認める必要性を訴えている。

 なぜ、必要だと主張するのか。安倍氏は、米国が他国に攻撃されても、日本が集団的自衛権を使って反撃に加われない「日米安保体制の片務性」を理由に挙げる。安倍氏は1次政権の時から「日米同盟の『双務性』を高める努力をしないといけない」(06年の国会答弁)と強調。今国会でも「(集団的自衛権を使わないことによる)同盟へのダメージは計り知れない」と述べ、対等な日米関係を目指す。

 集団的自衛権を使える道筋をつくろうと、安倍氏は1次政権の07年、元外務事務次官や大学教授ら13人を集めて「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)を立ち上げた。

 安保法制懇が08年にまとめた報告書は「9条の解釈を変えれば、集団的自衛権は使える。改憲は必要ない」と結論づけた。さらに、(1)自衛隊とともに活動する米国の軍艦が攻撃されたとき(2)米国に向けてミサイルが発射されたとき、という二つの事例をあげ、「集団的自衛権を使って対応すべきだ」とした。

 しかし、報告書の提出時に、安倍内閣はすでに退陣。当時の福田康夫首相は集団的自衛権の行使容認に慎重で、報告書はたなざらしになった。安倍氏は首相に再登板すると、昨年2月に安保法制懇を再開し、新たに加わった1人をのぞき、同じ顔ぶれで再び議論を進めてきた。

 昨夏には、安倍氏の意向を受けて内閣法制局長官が交代した。歴代の長官は集団的自衛権について「国際法上の権利はあるが、憲法の制約で使えない」との立場で一貫していたため、安倍氏は外務省出身で集団的自衛権の行使容認に前向きな小松一郎氏を起用。法制局の解釈を変えるための布石を打った。

 4月にもまとまる安保法制懇の新たな報告書は、改めて憲法解釈の変更で集団的自衛権の行使は可能になるとの見解を示すとみられる。安倍氏は「報告書を待ちたい」としつつ、すでに「集団的自衛権の行使が認められるという判断も、政府が新しい解釈を明らかにすることで可能だ」と結論を見越した国会答弁を繰り返している。

 安倍氏が描くこれからのシナリオはこうだ。(1)安保法制懇が報告書を提出(2)自民党と公明党で話し合う(3)内閣法制局の了解をうけて憲法9条の解釈を変え、集団的自衛権が使えると夏ごろに閣議決定(4)行使する裏づけとして、自衛隊法などの改正案を秋の臨時国会以降に成立させる――。

 安倍氏が手続きを急ぐのは、今年末には日米防衛協力の指針(ガイドライン)の改定を見据えているからだ。ガイドラインは、日本が武力攻撃を受けた時などの自衛隊と米軍の役割分担を定めている。改定までに日本も集団的自衛権が使えるようにして、日米の新たな役割分担を円滑に決める狙いがある。

 ただ、安倍氏の思惑通りに進むかは、不透明だ。憲法解釈の変更に慎重な公明党は「この国会で結論を出すのは簡単ではない」(山口那津男代表)と難色を示す。防衛省内にも、安倍氏や安保法制懇が集団的自衛権の行使を必要とする事例については「米軍と自衛隊の艦艇が一緒にいる時なら、憲法が認める個別的自衛権の枠内で対応できる」といった意見がある。

◆この特集は其山史晃、上原佳久、佐藤徳仁、小林豪、広島敦史が担当しました。


(10面)  (社説)
集団的自衛権 解釈で9条を変えるな
    <http://digital.asahi.com/articles/DA3S11008454.html>


集団的自衛権とは何か。

 日本に関係のある国が攻撃されたとき、自衛隊が反撃に加勢する権利である。

 この権利を使うことは、何を意味するのか。

 日本が直接攻撃されたわけではないのに、交戦国になるということだ。

 日本国憲法のもと、この権利は認められるのか。

 歴代内閣はこう答えてきた。「国際法では認められているが、憲法はこの権利を使うことを許してはいない」

 これに対し、こんな批判もある。「持っているけど使えない。そんなおかしな議論をしているのは日本だけだ」

 確かに日本だけの議論かもしれない。でもそれは、戦後日本が憲法9条による平和主義を厳しく守ってきたからこそだ。おかしいことではない。

 安倍首相はいまの国会のうちに、集団的自衛権を使えるようにするつもりだ。

 しかし、憲法改正の手続きはとらない。9条の解釈を改め、閣議決定するのだという。

 憲法の精神に照らして、それは許されることではない。

 「国民の手に憲法を取り戻す」。首相が繰り返すこの主張にも矛盾する。

米国と憲法との間で

 国民の安全を確実に守るにはどうしたらいいのか。自衛隊が世界の平和に貢献する道はどうあるべきか。

 政府や国会がこうした議論をするのは当然のことだ。

 冷戦は終わったが、テロや地域紛争が増えた。中国の台頭と北朝鮮の核開発で、東アジアの緊張は高まっている。安全保障環境は大きく変わった。

 これにあわせ、政府は米国からの要請と9条との折り合いに四苦八苦しながら、自衛隊の活動範囲を広げてきた。

 内閣法制局が集団的自衛権の行使を認めず、海外での武力行使はできないとしながらも、苦しい辻褄(つじつま)あわせを重ねてきたのも事実だ。イラクで自衛隊が活動できるとした「非戦闘地域」という考えはその典型だ。

 首相はこんな安全保障政策の綱渡りを、一気に解消したいのだろう。ならばなおさら、正面からの議論が必要だ。

 首相の手法は、意に沿う有識者懇談会に解釈変更を求める報告を出させ、それを追認しようというものだ。

 首相に近い高官は、新しい解釈が成り立つならば、政府が状況の変化に応じて解釈を変更しても構わないという。

 そうだろうか。

立憲政治から外れる

 日本は、自国を守るための必要最小限の実力しか持たない。海外で戦争はしない。

 それは戦争の反省からうまれた平和主義であり、憲法の基本原理の一つだ。この原理は、自衛隊がPKOや人道復興支援で海外に出て行くようになっても変わっていない。

 集団的自衛権をめぐる解釈は、国会での長年の議論を通じて定着した、いわば政府と国民との間の合意だ。

 時の首相の一存で改められれば、民主国家がよってたつ立憲主義は壊れてしまう。

 集団的自衛権の容認が意味するのは9条の死文化だ。平和主義の根幹が変わる。自衛隊員が他国民を殺し、他国民に殺される可能性が格段に高まる。

 それでも日本が国際社会に生きるために必要だというなら、国会での論戦に臨み、憲法96条が定めた改正手続きに沿って進めるのが筋道だ。

 米軍が攻撃されたときに、自衛隊が集団的自衛権を行使して反撃する。これが懇談会の主な想定だ。だが、日本周辺で、米軍だけが自衛隊より先に攻撃を受けるという事態に、どれほどの現実味があるのか。

「普通の軍」ありきか

 いつでも集団的自衛権を使えるようにして、自衛隊を「普通の軍」にしたい。そんな理念が先走っていないか。それにこだわるあまり、領土を守ったり、PKOにもっと積極的に参加したりするにはどんな法制が必要かという、目の前にある課題の議論を妨げていないか。

 日本が安全保障政策を改めるにあたっては、近隣諸国の理解を得るのが望ましいことはもちろんだ。

 私たち日本人は、自衛隊が海外に出かけても、かつての日本軍のような暴走は決してしないと信じている。その信頼を、旧日本軍の被害にあった国々とも共有できるようにするのは、日本政府の責任である。

 安倍政権は、その要請には全くこたえていない。

 「侵略の定義は定まっていない」と語り、A級戦犯がまつられる靖国神社に参拝する。不信と反感をあおるばかりだ。

 そんな政権が安保政策の大転換に突き進めば、中国は一層の軍拡の口実にするし、欧米諸国も不安を抱くに違いない。

 それは、日本国民の利益と安全の確保、そして地域の平和と安定にも反する。

 03 03 (月) 安倍晋三総理大臣  巧言令色鮮矣仁

人はみんな手を取合える……その意識が浅い手前勝手な男
    <私たちはどうしたらいいのでしょうか>

口で平和を叫びながら臨戦態勢を作る男、そういう人は優しい人を危地へ導く道をつくります。 私たちが最も気をつけなければならないことです。

世界平和をめざすと言いながら、人と仲良くしようと手を差し伸べることをしない。 靖国神社参拝に始まり、特定秘密保護法を作り、教育を勝手に変えようとし、集団的自衛権という日本国憲法の精神から逸脱した解釈を作り出し、再び19世紀的国家を築こうとしています。

私たちが最も気をつけなければならないことです。

私たちの道徳原理の中核は、「人を殺してはならない」ということです。 いじめをなくしたいならば、このことをバックボーンに据えていかなければなりません。

この中核に矛盾する一切の思考結果を認めてはいけないのです。 如何に錯綜している論議の過程があるにせよ、「人を殺してはならない」という中核に違背してはなりません。

どの人も親子関係によって社会が成立してきていることを深く自覚しなくてはなりません。
どの人も兄弟関係によって社会が成立してきていることを深く自覚しなくてはなりません。
どの人も隣同士の関係によって社会が成立してきていることを深く自覚しなくてはなりません。

なぜ「人を殺してはならない」という中核は、人と人との関係のなかで一番守らなければならないことだからです。

幼児虐待という新聞記事、いじめという新聞記事がいつも目につきます。 その対策もしているのでしょうが、一向に減りません。

これはどうしたことでしょうか?

物質文化は驚くほどに変化してきています。 私たちの精神文化は物質文化に応じて変化してきているのでしょうか。 私たちは大事なことを忘れてきているのではないのでしょうか。

みんながここで、考え方の中身の奥深く入り込み、「ハッ」と気づかなくてはなりません。

「自分と同じように他人を大事にしなければならない」

わかりきったこの原理なのに、私たちはこの「大事な精神文化の泉」から遠く離れてきているのではないのでしょうか。

物質文化の生活の上で必要となる「お金」の生活にのめり込み過ぎて、大事な精神文化の生活の上で必要となる「人によろこんでもらう」たくさんのやり方にのめり込むことに遠ざかっていたのではないのでしょうか。

今の安倍総理大臣はそのことへの配慮が見当たりません。

私たちは安倍総理の言うとおりにしていると、とんでもない方向へ日本が引き回されていきそうな気がしてなりません。 ですから、私たちは一人一人でこの精神文化の充実を目指していろいろの方向を検討し、話しあいの智慧を出しあい、生活のしかたを変えていかなくてはなりません。