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折々の記 2014 ③
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】03/03~
【 02 】03/05~
【 03 】03/09~
【 04 】03/09~
【 05 】03/10~
【 06 】03/10~
【 07 】03/17~
【 08 】03/21~
【 09 】03/22~
【 04】03/09
03 09 吉田松陰 3 良いことは学ぶとよい 喬木村の教育のために
05 吉田松陰の最期
06 吉田松陰の死、それから
07 吉田松陰の足跡をたどる旅
全体の目次
それぞれのサイトへリンクしてみると、吉田松陰についての膨大なデータを調べることができます。 これらのデータによって、喬木村の教育の在り方に取り入れたいものがあれば大いに参考にすることがいいと思います。
吉田寅次郎(松陰)のこと | 松下村塾門下生のこと |
01 吉田松陰について(年表) | 22 松下村塾門下生について |
02 吉田松陰の生い立ち | 23 幕末の風雲児・高杉晋作 |
03 青年期(脱藩、下田踏海) | 24 松下村塾の双璧・久坂玄瑞 |
04 松下村塾主宰 | 25 松下村塾三無生・吉田稔麿 |
05 吉田松陰の最期 | 26 初代総理大臣・伊藤博文 |
06 吉田松陰の死、それから | 27 元帥陸軍大将・山県有朋 |
07 吉田松陰の足跡をたどる旅 | 28 日本大学の学祖・山田顕義 |
08 吉田松陰関連史跡データ一覧 | 29 維新の三傑・木戸孝充 |
09 我が兄・吉田松陰について | 30 松陰史料、書籍、小説紹介 |
10 吉田松陰の号について | 31 幕末関連史料、書籍紹介 |
11 松陰から門下生への手紙 | 32 吉田松陰関連サイト厳選リンク集 |
12 吉田松陰資料室(直筆の書簡) | 33 映画「獄に咲く花」特集! |
13 長谷川勤先生のブログ | 34 幕末 携帯待ち受け画像 配布 |
14 幕末維新・写真紀行ブログ | 35 幕末 ブログテンプレート 配布 |
15 吉田松陰語録アプリ! | 36 「翔天隊.com」海援隊と陸援隊 |
16 幕末志士群像検定アプリ! | 37 幕末維新祭り(東京・松陰神社) |
17 「幕末志士検定」に挑戦! | - |
18 「幕末人物肖像クイズ」に挑戦! | - |
19 幕末志士関連グッズ紹介 | - |
20 幕末維新・動画チャンネル | - |
21 幕末関連最新更新情報 | - |
吉田松陰の遺したもの | 吉田松陰.comについて |
38 魂の遺書「留魂録」のすすめ | 42 サイトの趣旨 |
39 吉田松陰の死生観(留魂録) | 43 RSS配信について |
40 吉田松陰の教え(松陰語録) | 44 リンクについて |
41 国難の時、今こそ「草莽崛起」 | 45 管理人にメールする |
※ 46 吉田松陰の教え~松陰語録~
47 炎の遺書「留魂録」のすすめ
48 吉田松陰の名文・手紙を読む
49 吉田松陰関連史料・書籍・小説リスト
50 吉田松陰関連史跡データベース
51 「幕末志士検定」に挑戦!
52 オンライン公開講座「特集・吉田松陰」
05 吉田松陰の最期
<http://www.yoshida-shoin.com/torajirou/saigo.html>
安政6年(1859年)5月25日早朝、松陰は野山獄から護送用の籠に入れられ江戸に向かうこととなった。松陰が江戸に送られた理由は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜(小浜藩士・京で活躍した尊皇攘夷の志士。安政の大獄で逮捕者第一号となった人物)が萩で松陰に会った事を話したためだった。
江戸の評定所が松陰に問いただしたのは、梅田雲浜と話した内容と、京の御所に文書を置いたのではないかという2点であったが、松陰の主張は受け入れられた。そこで、松陰は幕府に自分の意見を言う絶好の機会だと捉え、「間部詮勝要撃計画」をも告白してしまう。人間を絶対的に信用し、必ず自分の思いは届くはずだと考えた松陰ゆえの告白であったが、幕府評定所の役人は予想もしなかった老中暗殺計画に驚愕した。この時、松陰の命運は決まった。
評定所の役人の態度から死を覚悟した松陰は、家族への「永訣の書」と門下生達に向けた「留魂録」を伝馬町牢獄で記した(「留魂録」は、門下生達によっていくつも複写され、志士たちのバイブルとなる)。
安政6年(1859年)10月27日、評定所から「死罪」が言い渡され、即日処刑が行なわれた。吉田松陰、30歳という若さであった。
死に際しても平静かつ潔い松陰の姿に、首切り役の山田浅右衛門などは胸を打たれ、その様子を後々まで回顧した。
「いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、“御苦労様”と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」
維新の先駆者となり、その死を持って門下生達へと強烈に引き継がれた松陰の想い、志は、後の世で大きく花開くこととなる。
吾れ今 国の為に死す 私は今、国の為に死ぬ。
死して君臣に背かず 死すとも、藩主への忠義、父母への孝行を
悠々たり 天地の事、 尽くして、道に反することはない。
鑑照 明神に在り。 天地は永遠で果てしなく広い。
神様よ、私の行いの正しいことをご覧下さい。
※ 説明の画像がたくさんあります。
06 吉田松陰の死、それから
<http://www.yoshida-shoin.com/torajirou/sonogo.html>
松陰の死を知った高杉晋作はこの時の悲憤の思いを藩の上役・周布政之助に宛てた手紙で次のように述べている。「ついにわが師は幕吏の手にかかって殺されてしまいました。私は松陰の弟子として、きっとこの仇を討たずにはおかないつもりです」。高杉晋作が倒幕への決心を固めた瞬間である。
万延元年(1860)2月7日、松陰が亡くなって百日目、親戚・門人が集まり故人の霊を弔い、萩に遺髪を埋葬している(表には「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれている)。門下生達の想いも高杉晋作と同じであった。門下生達は松陰の死によって、倒幕という一つの目標に向かって歴史の波に身を投じていくことを決意する。幕府によって大罪人とされた人物・松陰の墓に17名の塾生たちが「弟子である」と、公然と名前を刻んでいる。
(松陰の墓は現在、全国に4か所存在する。斬首された遺骸を弟子たちが取り戻し葬った、東京・小塚原回向院の墓(現在は墓石のみ)。後に小塚原回向院から改葬した東京・松陰神社内の墓(遺骸は現在ここに眠っている)。山口県萩の松陰誕生地付近にある墓(遺髪が納められた遺髪墓)。山口県下関にある桜山神社の招魂墓(高杉晋作の発議によって創建された幕末志士達の招魂場。多数の志士の中でも一段高く松陰の招魂墓が作られている)。)
その後、歴史はうねり、高杉晋作ら門下生達の活躍により、明治維新は成った。明治政府においても松下村塾出身者は、内閣総理大臣2名、国務大臣7名、大学の創業者2名など現在の日本に続く数々の功績を数多く残すこととなった。
現在、山口県萩市の松下村塾があった付近に、学問の神として崇敬を集める神社として「松陰神社」が存在する。また、東京都世田谷区にも高杉晋作など松陰の門人によって改葬された墓所の場所に松陰神社がある。
※ 説明の画像がたくさんあります。
07 吉田松陰の足跡をたどる旅
<http://www.yoshida-shoin.com/monka/shiseki.html>
吉田松陰関連の史跡は全国に点在していますが、このページでは、吉田松陰関連の主な史跡が集中する
萩(山口県)、下田(静岡県)、東京、下関(山口県)の4エリアの史跡を、「吉田松陰の足跡をたどる旅」と題してご紹介します。
※松陰遊学の地・水戸(茨城県)、下田渡海前に立ち寄った古都・鎌倉(神奈川県)の2エリアを追加しました。
※番外編として、吉田松陰の師である佐久間象山の故郷・松代(長野県)を追加しました。
①【萩編】http://www.yoshida-shoin.com/monka/shiseki-hagi.html
山口県萩は、吉田松陰が生まれ、松下村塾を主宰し、数々の志士たちを生み出した維新源流の町です。
当然、松陰や門下生たちに関する史跡が、小さい萩の中に数多く集中して存在しています。
このページでは、明治維新胎動の地・萩の松陰関連史跡をご紹介します。
【萩城址】
長州藩主・毛利家代々の居城だった萩城址。別名・指月城(しづきじょう)。
1863年に毛利敬親が幕府の許可を得ずに、政治の中心を山口政事堂に移すまでの255年間、
長州藩の政治経済の中心地であった。指月山の麓に壕と石垣だけが残っており、
現在は、指月公園となっている。歴史情緒あふれるオススメスポット。
【旧厚狭毛利家萩屋敷長屋】
萩城址近くにある旧厚狭毛利家萩屋敷長屋。
厚狭毛利家は、毛利元就の五男・元秋を始祖とする毛利氏一門。もともとは広大な敷地を誇っていたが、
現在は安政3年(1856年)に建てられたこの長屋のみが残っている。現存する萩の武家屋敷の中では最も大きく、
当時の武家屋敷の姿をよく伝える遺構として国指定重要文化財にも指定されている。
【萩・松陰神社、松門神社】
左画像は、吉田松陰を祀る松陰神社。右画像が、松下村塾門下生たちを祀る松門神社。
明治23年、松陰の実家・杉家の邸内に松陰の実兄杉民治が土蔵造りの小祠を建て、
松陰の愛用していた硯と松陰の書簡をご神体として祀ったのが萩・松陰神社の始まり。
明治40年、共に松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、
萩城内にあった宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿に付し、同時に県社に列格した。
現在の社殿は昭和30年に新しく建てられたもの。
創建当時の土蔵造りの旧社殿は、現在、高杉晋作や久坂玄瑞など松下村塾の門人たちを
祭る末社・松門神社となっている。
学問の神として萩で最も崇敬を集める神社であり、正月には多くの初詣客が訪れる。
【松下村塾(松陰神社内)】
当時の姿を今に残す萩・松陰神社内にある松下村塾。
萩城下の松本村(現在の萩市)に、松陰の叔父である玉木文之進が天保13年(1842年)に設立したのが始まり。
松陰が塾生達の指導に当たったのは僅か2年余りにしかすぎなかったが、この小さな部屋で松陰の指導・薫陶
を受けた松下村塾門下生達は尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる者など幕末・
明治において大きな活躍を果たすこととなる。
【吉田松陰幽囚ノ旧宅(松陰神社内)】
松陰の生家である杉家の家族たちが住んでいた吉田松陰幽囚ノ旧宅。
伊豆・下田で密航に失敗し自首し、江戸伝馬町の牢に捕らえられたその後、萩に送られ野山獄に入れられた松陰。
安政2年に釈放となり、松陰の父・杉百合之助預けとなり、この一室に謹慎して読書と著述に専念した。
この旧宅で家族に孟子や武教全書を講じるようになり、やがて松下村塾での門人たちへの教育へと発展していく
こととなる。
【石碑「明治維新胎動之地」、「薩長土連合密議之處」(松陰内)】
明治維新胎動之地石碑 薩長土連合密議之處
(左)松陰神社内にある「明治維新胎動之地」と大書された石碑。揮毫は山口県出身の内閣総理大臣・
佐藤栄作によるもの。
(右)土佐藩・坂本龍馬、薩摩藩・田上藤七、長州藩・久坂玄瑞が、文久2年、この付近にあった宿屋にて一堂に会し、国事を語り合ったであろうことを記念して建立された「薩長土連合密議之處」石碑。
揮毫は内閣総理大臣・岸信介
【松陰神社宝物殿 『至誠館』(松陰神社内)】
松陰神社宝物殿「至誠館」 松陰神社宝物殿「至誠館」
松陰没後150年を記念して開館した松陰神社宝物殿「至誠館」。
現存する松陰直筆の留魂録ほか、縁の品々や書状など多数展示されている。
吉田松陰と松下村塾に関する貴重な資料が分かりやすく展示されている必見の資料館!!
【吉田松陰歴史館、花月楼(松陰神社内)】
吉田松陰歴史館 花月楼
(左)吉田松陰歴史館。田松陰の生涯を、ろう人形で展示・解説している。初心者向け。
(右)花月楼。江戸時代・7代藩主毛利重就が防府市の別邸内に建築した茶室を移築したもの。
【玉木文之進旧宅(松下村塾発祥之地】
玉木文之進の旧宅 松下村塾発祥の地碑
吉田松陰の叔父(父・杉百合之助の末弟)である玉木文之進の旧宅。
松下村塾は文之進が天保13年(1842年)に近くの師弟を集め、ここで学問を教え始めたのが始まり。
邸内には松下村塾発祥の地碑が立っている。
【伊藤博文旧宅、伊藤博文別邸】
松下村塾近くにある伊藤博文旧宅 伊藤博文別邸
(左)松下村塾近くにある伊藤博文旧宅。(右)伊藤博文別邸。
茅葺き平屋建ての小さな建物で、伊藤博文は、家族と共に14歳から13年間ここに住み、ここから松下村塾
に通った。
栄達した伊藤博文が東京都品川区に建てた別宅の一部を、萩市の伊藤博文旧宅そばに移築したもの。
【吉田稔麿誕生地】
吉田稔麿誕生地 吉田稔麿誕生地
松下村塾から徒歩3分程度の場所にある吉田稔麿生家跡(吉田稔麿誕生地)。
高杉晋作、久坂玄瑞、そして吉田稔麿を称して松陰門下の三秀(入江九一を入れて松下村塾四天王)と呼ば
れるが、池田屋事件により、24歳の若さでこの世を去った。
石碑は「吉田稔丸誕生地」となっているが、麿と丸は当時よく混同された為、間違いという訳ではない。
【東光寺】
東光寺 藩士が寄進した多数の石灯籠
長州藩3代藩主毛利吉就が萩出身の名僧・慧極を開山として創建した全国屈指の黄檗宗の寺院・東光寺。
毛利家の菩提寺で、本堂裏の毛利家墓所には、毛利吉就から11代までの奇数代の藩主とその夫人及び一族、
関係者の墓がある。 墓前には藩士が寄進した多数の石灯籠が立ち並ぶ。
【吉田松陰誕生地】
吉田松陰の誕生地は、団子岩と呼ばれる萩を一望できる風光明媚な場所。
萩藩士・杉百合之助の二男として松陰はこの家で生まれ、19才まで住んだ。
【吉田松陰・金子重輔の像(吉田松陰誕生地付近)】
松陰誕生地近くにある、吉田松陰と金子重輔の像。
昭和48年に明治維新100年を記念して建立されたもの。
【吉田松陰の墓、ならびに墓所】
松陰誕生地に隣接している吉田松陰、ならびに一族、松下村塾門下生たちの墓所。
(右上)吉田松陰の遺髪墓。
(左下)高杉晋作の遺髪墓。
(右下)久坂玄瑞の墓。
【藩校・明倫館跡(現・明倫小学校)】
藩校・明倫館跡 在は、萩市立明倫小学校となっている
松陰は明倫館で若くして兵学教授を務めており、木戸孝允ともここで出会った。
水戸の弘道館、鹿児島の造士館と並ぶ、全国有数の規模をもっていたという。
【観徳門、有備館(明倫小学校内)】
藩校明倫館の遺構・観徳門 有備館
(左)藩校明倫館の遺構で、孔子を祀る聖廟の前門である観徳門。(右)明倫館跡に現存する武道場・有備館。
旧明倫館の剣術場と槍術場を移転して拡張したもので、藩士の練習のほか、他国からの修行者の試合場とも
なったという。
高杉晋作や坂本龍馬もここで試合をしたといわれている。
【野山獄跡、岩倉獄跡】
(左)伊豆・下田で密航に失敗し、江戸伝馬町の牢に捕らえられたその後、松陰が萩に送られ入れられた野山獄跡。
(右)士分でない者が投獄された岩倉獄跡。金子重輔は岩倉獄の劣悪な環境の中で絶命した。
【高杉晋作旧宅】
高杉晋作生家 高杉晋作生家内部
萩城下町菊屋横丁にある高杉晋作生家。
見学が可能で、高杉晋作の産湯に使われたという井戸などが残る。幕末の革命児・高杉晋作はこの地で育った。
周辺は現在でも当時の城下町の雰囲気がそのまま残っている絶好の歴史散歩スポット。
【円政寺】
杉晋作生家近くにある円政寺 円政寺にある大きな天狗の面
(左)高杉晋作生家近くにある円政寺。
伊藤博文は11歳の頃、この寺に預けられ、また高杉晋作も子供の頃によくここで遊んだといわれている。
(右)円政寺にある大きな天狗の面。晋作が幼少時にこの天狗肝試でしに来たという逸話がある。
【木戸孝允(桂小五郎)生家】
西郷隆盛、大久保利通と並び、維新三傑の一人と称される木戸孝允の生家。
萩藩医・和田昌景の長男として生まれた。内部は木戸に関する多数の資料が展示されている。
藩校明倫館で山鹿流兵学教授であった吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評された木戸は、
いわゆる私塾・松下村塾の門下生ではなかったが、その後も松陰に対し、門人の礼をとリ続けた。
【久坂玄瑞誕生地】
松下村塾の双璧・久坂玄瑞の誕生地。 久坂玄瑞誕生地碑
松陰は久坂を「防長第一流の人物」であると高く評価し、自分の一番下の妹・文との結婚を玄瑞に勧めている。
(その後、玄瑞は松陰の妹・文と結婚している)
高杉晋作や坂本龍馬、中岡慎太郎など多数の志士たちに大きな影響を与えた人物でもある。
【涙松の遺址】
旧山口街道わきに建てられている「涙松の遺址」碑
ここは萩から旅に出かける者がひとしく城下の見納めと涙する場所であり、その地に茂る数本の往還松を人々
は「涙松」と呼びならわしていた。 松陰もまた、 江戸の伝馬町牢獄へ送られる際、この地で駕篭の戸を開け
てもらい、萩城下の眺めをしっかりと目に焼きつけた。
松陰は、この時「帰らじと思ひさだめし旅なればひとしほぬるる涙松かな」と詠み遺している。
【松陰記念館(萩往還公園内)】
松下村塾門下生たちの貴重な写真パネル
山口と萩を結ぶ有料道路の萩出入り口に作られた萩往還公園内に建てられている松陰記念館。
吉田松陰の生き方や、人形を使った松下村塾の再現、手紙のレプリカなどを展示している。
右画像は、松陰記念館にパネル展示されている松下村塾門下生たちの貴重な写真パネル。
上段左端:広沢真臣、上段左から2人目:前原一誠、下段右から2人目:山田顕義
【萩往還公園に建ち並ぶ吉田松陰と高晋作、久坂玄瑞の像】
松陰記念館の建物前にある、吉田松陰と松下村塾門下生たちの銅像。
(左)高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞の像。
(右)山県有朋、木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文の像。
②【下田編】<http://www.yoshida-shoin.com/monka/shiseki-shimoda.html>
静岡県下田は、日米和親条約の締結に伴い、函館とともに日本で最初に開港となった港町です。
吉田松陰が、異国を見聞しようとペリー艦隊へ乗艦し、密航を試みた場所であり、数多くの吉田松陰に関する史跡が点在しています。
このページでは、海と幕末ロマンの地・下田の松陰関連史跡をご紹介します。
【蓮台寺温泉・吉田松陰寓寄処(旧村山行馬郎邸)】
静岡県指定史跡「吉田松陰寓寄処」 静岡県指定史跡「吉田松陰寓寄処」内部
村山行馬郎邸の二階部分にあたる部屋。通称「松陰隠れの間」。松陰の密航計画を打ち明けられた村山行馬郎が松陰を匿った部屋。 吉田松陰が入浴した村山行馬郎邸の風呂場
静岡・蓮台寺温泉にある旧・村山行馬郎邸。
密航しようと下田に行った吉田松陰が、疥癬(かいせん)という皮膚病の湯治の為に訪れた
蓮台寺温泉で、数日間身を寄せた場所(医師であった村山行馬郎に匿われた)。
当時のままの姿を残しており、静岡県指定史跡「吉田松陰寓寄処」として公開されている。
松陰を匿った部屋や、松陰が使用した机や硯(すずり)なども展示されている必見の松陰スポット。
下田での吉田松陰・金子重輔の足跡なども細かく解説してもらえる。
【蓮台寺温泉・吉田松陰湯治の湯(共同湯)】
吉田松陰が、治療のために初めに訪れた蓮台寺の共同湯 蓮台寺の共同湯。現在も使用されている。
ひどい皮膚病を患っていた吉田松陰が、治療のために初めに訪れた蓮台寺の共同湯。村人しか入浴してはいけない共同湯に夜中に入浴している松陰を発見した付近の医者・村山行馬郎は、その後、松陰を自邸に呼び入れ、匿った。
【吉田松陰投宿の跡(岡村屋跡)】
「下田屋旅館」という名で現在も営業している 吉田松陰・金子重輔の二人がはじめに宿をとった旅館・岡村屋跡
下田に来た吉田松陰・金子重輔の二人がはじめに宿をとった旅館・岡村屋跡。
「下田屋旅館」という名で現在も営業している。
【吉田松陰拘禁の跡(長命寺跡)】
宝光院長命寺の跡地 吉田松陰拘禁の跡石碑
密航に失敗し自首した吉田松陰と金子重輔が、下田奉行所の命により拘禁された宝光院長命寺の跡地。
現在、長命寺は廃寺となっており、同地には下田市立中央公民館が建っている。
【黒船遊覧船「サスケハナ号」】
黒船を模した遊覧船「サスケハナ号」 海上から見た弁天島
黒船を模した遊覧船「サスケハナ号」。(史跡でもなんでもありませんが…)
松陰が密航をしようと身を隠し、小舟を漕ぎ出した弁天島を海上から見ることができる。
【吉田松陰の像(三島神社内)】
三島神社内に建立された吉田松陰の石像 下田の海を雄々しく見つめる松陰像
昭和17年に三島神社内に建立された吉田松陰の石像。下田の海を雄々しく見つめる。潮風と経年からか傷みが激しい。
【吉田松陰踏海の企て跡、吉田松陰・金子重輔の像「踏海の朝」】
吉田松陰踏海の企て跡説明看板 吉田松陰と金子重輔の像。題は「踏海の朝」
弁天島の横にある公園に建てられている、吉田松陰と金子重輔の像。題は「踏海の朝」。
【吉田松陰の七生説の碑・金子重之助の顕彰碑、弁天島 弁天社】
弁天島にある吉田松陰の七生説の碑・金子重之助の顕彰碑と弁天社。
吉田松陰と金子重輔はこの祠に身を隠して西暦1854年4月24日の夜、密航を試みた。弁天島は現在陸続きに
なっている。
【ハリスの小径、吉田松陰「至誠通天」顕彰碑】
ハリスの小径入口 「至誠通天」と大書された吉田松陰顕彰碑
弁天島から少し行くと、初代米国総領事・ハリスが散歩したという「ハリスの小径」が見えてくる。
その途中に「至誠通天」と大書された吉田松陰顕彰碑がある。
【吉田松陰上陸の碑】
松陰と金子重輔が送り返され上陸した場所(福浦海岸) 吉田松陰上陸の碑
密航の乗艦を拒否された松陰と金子重輔が送り返され上陸した場所(福浦海岸)。
ハリスの小径をそのまま15分ほど歩くと吉田松陰上陸の碑に突き当たる。
【ペリー上陸の碑】
ペリー上陸の碑 マシュー・ペリー像
ペリー艦隊の乗組員が上陸した、下田公園下の鼻黒の地に建つペリー上陸の碑。
吉田松陰、金子重輔の密航未遂事件に関するペリー提督の感想としては、松陰と金子に非常に好意的な文書が残されている。
「日本の厳重な法律を破り、知識を得るために命を賭けた二人の教養ある日本人の烈しい知識欲を示すもので、興味深いことである。日本人の志向がこのようなものであるとすれば、この興味ある国の前途は何と実のあるものであるか、その前途は何と有望であることか。(中略)哀れな二人の運命がその後どうなったかはまったく確かめることができなかったが、当局が寛大であり、二人の首をはねるというような極刑を与えないことを望む。なぜなら、それは過激にして残忍な日本の法律によれば大きな罪であっても、我々にとってはただ自由にして大いに讃えるべき好奇心の発露にすぎないように見えるからである」と述べている。
③【東京編】<http://www.yoshida-shoin.com/monka/shiseki-tokyo.html>
東京の吉田松陰関連の史跡としては、刑場の露と消えた松陰最期の地に関する史跡が点在しています。
このページでは、東京の松陰関連史跡をご紹介します。
【大安楽寺(江戸伝馬町処刑場跡)】
江戸伝馬町処刑場跡に建てられている大安楽寺。
大老井伊直弼による安政の大獄により、吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎等50人余が投獄され、その多くが処刑された。
吉田松陰もこの地で斬首された。
【十思公園(江戸伝馬町牢屋敷跡)】
十思公園 大安楽寺の向かいにある閑静な公園
吉田松陰が収容された江戸伝馬町牢屋敷跡にあたる公園「十思公園」。
大安楽寺の向かいにある閑静な公園であるが、場所柄からか心霊スポットとしての側面もある。
明治8年に廃止されるまで存続しており、当時は2,618坪と広大な牢屋敷であったという。
【石町(こくちょう)時の鐘、吉田松陰終焉の地碑】
十思公園内にある「石町(こくちょう)時の鐘」と「吉田松陰終焉の地碑」。
牢屋敷の処刑場では、この鐘の音を合図に死刑囚の首を刎ねたと伝えられている。
【第7代 山田浅右衛門吉利(首切り役人)の墓 新宿区・勝興寺】
松陰の斬首役を務めた山田浅右衛門の墓。 松陰の斬首役を務めた山田浅右衛門の墓。
江戸時代、幕府の御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し切り役(身分は浪人)を務めていた山田家の当主が代々名乗った名である「山田浅右衛門」。罪人の斬首執行人を兼ね、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれた。
第7代の吉利は、安政の大獄のとき、吉田松陰や橋本左内を斬首した人物として知られる。その人物の墓が新宿区の勝興寺にある。
吉田松陰が江戸に於いて浅右衛門に首を斬られたその最期の態度は、実に堂々たるものであったという。
吉田松陰の最期を山田浅右衛門は後年こう語っている。
「いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。悠々として歩き運んできて、
役人どもに一揖(いちゆう)し、“御苦労様”と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」
【小塚原回向院(吉田松陰墓、橋本佐内墓)処刑直後の墓】
松陰の処刑後、桂小五郎(後の木戸孝允)らの尽力により小塚原回向院に供養された当時のお墓(現在は空墓)。
「松陰二十一回猛士墓」との銘がある。文久3年、高杉晋作らの手により毛利家の別邸があった太夫山、現在の東京世田谷・松蔭神社に改葬されて現在に至る。
右画像は、松陰と同じく、安政の大獄で処刑された橋本佐内のお墓。吉田松陰の墓のすぐ隣にある。
【東京高輪 泉岳寺(赤穂四七士墓所)】
東京高輪にある泉岳寺(山門) 赤穂義士の墓がある泉岳寺(山門)
伊豆の下田で密航に失敗した松陰が伝馬町獄送りとなる途中、泉岳寺の門前を通りすぎる際、
義士たちに想いを馳せて松陰は以下の詩を詠んだ。
「かくすれば かくなるものと知りながら やまぬやまれぬ大和魂」
【東京世田谷・豪徳寺 井伊直弼の墓】
安政の大獄を断行した井伊直弼が眠る豪徳寺 井伊直弼の墓
安政の大獄を断行した井伊直弼が眠る豪徳寺(東京・世田谷)と井伊直弼の墓。
皮肉にも松陰が眠る松陰神社と井伊直弼が眠る豪徳寺は、近くにある。
寛永10年(1633年)彦根藩主・井伊氏の菩提寺として創建された。招き猫発祥の地とされる。
【東京・松陰神社】
東京・世田谷にある松陰神社 松陰神社社殿
東京・世田谷にある松陰神社。
毛利家の別邸があった場所に松陰の門下生・高杉晋作、伊藤博文らが、小塚原回向院にあった松陰の墓をこの地に改葬。
その場所に社を築いて松陰の霊を祀ったことから始まる。よって松陰神社は萩と東京の2か所にある。
【松下村塾(復元レプリカ) 東京・松陰神社内】
東京松陰神社内に復元されている松下村塾(レプリカ) 東京松陰神社内に復元されている松下村塾(レプリカ)
東京松陰神社内に復元されている松下村塾(レプリカ)。本物は萩の松陰神社内にある。
【吉田松陰の墓(遺骸が眠るお墓) 東京・松陰神社内】
吉田松陰の墓。鳥居は木戸孝允が寄進したもの。 松陰が眠る正真正銘の吉田松陰の墓
東京・松陰神社内にある松陰が眠る正真正銘の吉田松陰の墓。
松陰の墓は全国に4か所存在する。斬首された遺骸を弟子たちが取り戻し葬った小塚原回向院の墓(現在は墓石のみ)。
後に小塚原回向院から改葬し、遺骸が眠る東京・松陰神社内のこの墓。
山口県萩の松陰誕生地付近にある墓(遺髪が納められた遺髪墓)。
山口県下関にある桜山神社の招魂墓(高杉晋作の発議によって創建された幕末志士達の招魂場)。
【正松(せいしょう)神社 港区・乃木神社内】
乃木神社内にある摂社・正松(せいしょう)神社
東郷平八郎と共に日露戦争の英雄とされ、高潔な人格者として名高い長州藩出身の乃木希典大将を祀った乃木神社(港区)。
その境内にある「正松神社」(せいしょうじんじゃ)。玉木文之進と吉田松陰が祀られている。
乃木希典は吉田松陰を追慕し、16歳のときに、松陰の叔父であり、松下村塾の創始者でもある玉木文之進の門に入り薫陶を受けた。
吉田松陰を深く敬い、玉木から教育を受け、これが乃木大将の人格形成に大きく影響を与えたということで、 乃木神社戦災復興の際、萩の松陰神社から二柱の分霊を請い受け、摂社として境内に鎮守されることとなった。
【靖国神社、大村益次郎像、靖国神社元宮】
靖国神社 元宮 靖国神社 元宮
東京都千代田区にある靖国神社。右画像は靖国神社にある大村益次郎の像。
吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎などの幕末志士たちも有名無名を問わず、維新殉難者として国の為に散った幾多の戦没者たちとともに靖国神社に合祀されている。
下段の画像は、靖国神社の本殿脇にある「元宮」。
桜田門外の変や、坂下門外の変の殉難者や、安政の大獄で命を落とした吉田松陰、橋本左内などの維新殉難者の霊を祀るため京都に建てられたものを、70年後の昭和6年(1931)に靖国神社に奉納され、この場所に移されたというもの。
靖国神社の思想的源流とも呼ぶべき祠で、靖国神社のHP上では、靖国神社の前身と位置付けている。