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折々の記 2014 ③
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 08】03/21
03 21 吉田松陰 7 良いことは学ぶとよい 喬木村の教育のために
22 松下村塾門下生について
23 幕末の風雲児・高杉晋作
24 松下村塾の双璧・久坂玄瑞
25 松下村塾三無生・吉田稔麿
03 21 (金) 吉田松陰 7
全体の目次 <http://www.yoshida-shoin.com/>
それぞれのサイトへリンクしてみると、吉田松陰についての膨大なデータを調べることができます。 これらのデータによって、喬木村の教育の在り方に取り入れたいものがあれば大いに参考にすることがいいと思います。
吉田寅次郎(松陰)のこと 松下村塾門下生のこと 01 吉田松陰について(年表) 22 松下村塾門下生について 02 吉田松陰の生い立ち 23 幕末の風雲児・高杉晋作 03 青年期(脱藩、下田踏海) 24 松下村塾の双璧・久坂玄瑞 04 松下村塾主宰 25 松下村塾三無生・吉田稔麿 05 吉田松陰の最期 26 初代総理大臣・伊藤博文 06 吉田松陰の死、それから 27 元帥陸軍大将・山県有朋 07 吉田松陰の足跡をたどる旅 28 日本大学の学祖・山田顕義 08 吉田松陰関連史跡データ一覧 29 維新の三傑・木戸孝充 09 我が兄・吉田松陰について 30 松陰史料、書籍、小説紹介 10 吉田松陰の号について 31 幕末関連史料、書籍紹介 11 松陰から門下生への手紙 32 吉田松陰関連サイト厳選リンク集 12 吉田松陰資料室(直筆の書簡) 33 映画「獄に咲く花」特集! 13 長谷川勤先生のブログ 34 幕末 携帯待ち受け画像 配布 14 幕末維新・写真紀行ブログ 35 幕末 ブログテンプレート 配布 15 吉田松陰語録アプリ! 36 「翔天隊.com」海援隊と陸援隊 16 幕末志士群像検定アプリ! 37 幕末維新祭り(東京・松陰神社) 17 「幕末志士検定」に挑戦! - 18 「幕末人物肖像クイズ」に挑戦! - 19 幕末志士関連グッズ紹介 - 20 幕末維新・動画チャンネル - 21 幕末関連最新更新情報 -
吉田松陰の遺したもの 吉田松陰.comについて 38 魂の遺書「留魂録」のすすめ 42 サイトの趣旨 39 吉田松陰の死生観(留魂録) 43 RSS配信について 40 吉田松陰の教え(松陰語録) 44 リンクについて 41 国難の時、今こそ「草莽崛起」 45 管理人にメールする
※ 46 吉田松陰の教え~松陰語録~
47 炎の遺書「留魂録」のすすめ
48 吉田松陰の名文・手紙を読む
49 吉田松陰関連史料・書籍・小説リスト
50 吉田松陰関連史跡データベース
51 「幕末志士検定」に挑戦!
52 オンライン公開講座「特集・吉田松陰」
22 松下村塾門下生について
<http://www.yoshida-shoin.com/monka/monkasei.html>
萩城下の松本村(現在の萩市)に、松陰の叔父である玉木文之進が1842年(天保13年)に設立したのが松下村塾のはじまり。
松陰は1855年(安政2年)に、実家である杉家に蟄居する事になり、杉家の母屋を増築して、引き継ぐ形で松下村塾を主宰、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた。
松陰が塾生達の指導に当たったのは僅か2年余りにしかすぎなかったが、松陰の指導・薫陶を受けた松下村塾門下生達は尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる者など幕末・明治において大きな活躍を果たす。
久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿など倒幕運動の中で重要な役割を果たしながらも、それ故に明治維新を前にして道半ばで斃れた者も多いが、生き残った者は、伊藤博文、山県有朋の内閣総理大臣を筆頭に、多数の国務大臣、大学の創業者など近代日本に繋がる大きな役割を果たした。
塾生名簿は現存しないが、著名な門下生には久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎などがおり、総計で約90名余りが松陰の教えを受けたと言われている。
「吉田松陰」と「松下村塾」の名は門下生達の活躍により、全国に轟き、現在まで語り継がれる歴史上稀に見る奇跡の私塾となったといっても過言ではない。
しかし、一方で松陰研究者の泰斗・海原徹氏はその著作のなかで松下村塾の門下生達についてこう書いている。
『世に出た成功者、市井に隠れた非成功者、いずれも村塾で学んだ代理不可能、掛け替えのない人間そのものであるという事実が確認されてよく、それゆえに成功者の数の大きさを言い募ることにもともと何の真実もなく、またそのことを前提にしながら理想の学校や理想の教師、はたまた理想の教育を云々することが極めて無意味な作業であることに気付くだろう。位階勲等に象徴される世俗的な成功の有無、もしくはその大小が、人間としての価値、彼がいかに意味のある人生を生きたのかを果たしてどこまで正確に言い表すことができるのかはなはだ疑問であるが、おそらくこの事実をもっとも明快に承知していたのが、松陰その人であったように思われる。』(海原徹著「松下村塾の明治維新」あとがきより)
松下村塾の主な門下生(順不同) 久坂玄瑞
くさかげんずい松下村塾の双璧。松陰から「年少防長第一流の人物たり。因って亦、天下の英才たり」と高く評価された英才。長州藩における尊王攘夷派の中心人物として活躍した。坂本龍馬や中岡慎太郎、西郷隆盛など幕末の志士達に多大な影響を与えた。禁門の変で自刃(享年25)。
高杉晋作
たかすぎしんさく松下村塾の双璧。功山寺挙兵により長州藩の藩論を倒幕に統一。その後の第二次長州征伐(四境戦争)でも海軍総督を務め、江戸幕府のを倒壊を決定づけた。結核により明治維新を見ずに逝去(享年27)。
吉田稔麿
よしだとしまろ松下村塾の三秀(久坂、高杉、吉田)。松陰主宰初期の松下村塾門下生として、増野徳民、松浦松洞と共に「三無生」とも言われる。松陰から「陰頑にして皆人の駕馭を受けざる高等の人物なり」と高く評価された。奇兵隊に参加後、屠勇隊を創設するなど、松陰死後に有力な志士として活動したが、池田屋事件で討ち死(享年24)。
入江九一
いりえくいち松下村塾の四天王(久坂、高杉、吉田、入江)。久坂、高杉などの門下生の大半が反対する中、松陰が考えた老中・間部詮勝要撃計画に加わるなど、最後まで師に追従。高杉の奇兵隊創設にも協力した。禁門の変で自刃(享年28)。
伊藤博文
いとうひろぶみ高杉の功山寺挙兵に力士隊を率いて参加。明治維新後は兵庫県知事の後、初代内閣総理大臣となり、以後、第5代・第7代・第10代と4次にわたり内閣総理大臣として内閣を組閣。長きにわたり、国政の発展に貢献した。明治42年、満州にて安重根に暗殺された(享年69)。
山縣有朋
やまがたありとも奇兵隊軍監として活躍。明治維新後は、明治22年に第9代内閣総理大臣に就任。明治31年にも第2次山縣内閣を発足させた。山県の松下村塾在塾期間は極めて短かったが、松陰に多大な影響を受け、終生深く畏敬していた(享年85)。
前原一誠
まえばらいっせい長州藩における倒幕活動に尽力。戊辰戦争では参謀として活躍した。維新後は越後府判事や参議を勤める。明治9年、不平士族を集め「萩の乱」を起こし、処刑された(享年43)。
品川弥二郎
しながわやじろう松陰死後、尊王攘夷活動に奔走。山田顕義らとともに御楯隊を組織するなどした。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍。維新後は、第一次松方内閣で内務大臣をつとめた。民間にあっては、現在の獨協学園(獨協大学)や京華学園(京華中学・高校)を創立した(享年58)。
山田顕義
やまだあきよし禁門の変や、功山寺挙兵、戊辰戦争に参戦。明治7年「佐賀の乱」、明治10年「西南の役」では征討軍の将として戦った。明治新政府では、明治18年、初代司法大臣として入閣。以後四代の内閣で司法大臣を務めた。また、日本大学の前身である日本法律学校を創設し、次いで翌年、國學院(現在の國學院大学)を設立した(享年49)。
野村靖
のむらやすし入江九一の弟。兄とともに老中・間部詮勝要撃計画に加わるなど、最後まで師に追従した。維新後は神奈川県令、枢密顧問官、駐仏公使などを歴任。第2次伊藤内閣の内務大臣、第2松方内閣の逓信大臣にも就任している。現存する「留魂録」を、松陰の死から17年後、元牢名主であった沼崎吉五郎から受け取った人物(享年68)。
正木退蔵
まさきたいぞう現在の東京工業大学の初代校長や、ハワイ総領事を務めた。正木は明治4年、ロンドン大学で化学を学ぶため渡英し、帰国後、再度渡英しているが、このとき「宝島」で知られる世界の文豪R.H.スティーブンスンに、師である松陰の思い出を語って聞かせた。正木から聞いた松陰の生き方に心を動かされたスティーブンスンは、世界初の松陰の伝記「YOSHIDA-TORAJIRO(ヨシダ トラジロウ)」を著している。(享年51)
松浦松洞
まつうらしょうどう松陰主宰初期の松下村塾門下生で「三無生」の一人。現存する江戸におくられる直前の吉田松陰の肖像を描き残した人物として知られる。公武合体論を唱える長井雅楽の暗殺を企てるが果たせず、京都で自害(享年26)。
増野徳民
ましのとくみん松陰主宰初期の松下村塾門下生で「三無生」の一人。文久2年に久坂玄瑞らによる長井雅楽暗殺計画に加わろうとして失敗。これ以後は、故郷で医業に専念した。慶応2年の四境戦争の際には芸州口へ軍医として赴いている(享年37)。
(木戸孝允)
きどたかよし志士時代(桂小五郎)は長州藩尊王攘夷派の中心人物として活動。新政府では参与となり、「五箇条の御誓文」の起草に参画、版籍奉還の実現にも尽力した。西郷隆盛、大久保利通とともに、「維新の三傑」と呼ばれる。長州藩の藩校・明倫館で兵学教授であった松陰に学び、「事をなすの才あり」と評される。木戸孝允は、いわゆる私塾・松下村塾の門下生ではなかったが、その後も松陰に対し、門人の礼をとリ続けていた(享年44)。
※ 説明の画像があります。
23 幕末の風雲児・高杉晋作
<http://www.yoshida-shoin.com/monka/takasugi.html>
天保10年8月20日(1839年9月27日) - 慶応3年4月14日(1867年5月17日)諱(本名)は春風。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫。号は東行。
長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士 高杉小忠太・みちの長男としてうまれる。高杉家は戦国時代毛利家中興の祖・毛利元就からの家臣であり、代々毛利家に仕えてきた名門。父、祖父は藩の重要な仕事に就いてきたこともあり、高杉家の武士としての誇りを持って育っていった。
弘化3年(1846年)8歳の時に寺子屋・吉松塾に入り、後に晋作と共に松下村塾の双璧と言われた久坂玄瑞(年齢は晋作の1歳下)と出会う。嘉永5年(1852年)藩校の明倫館に入学、安政4年(1857年)に久坂玄瑞の誘いで吉田松陰が主宰していた「松下村塾」に入り、生涯の師・松陰と出会う。
ペリー来航時に黒船の艦隊に乗り込み密航を企てるなど国禁を犯していた松陰を晋作の家族は快く思っていなかったが、単なる知識ではなく、物事を実践する知識として教えていく松陰に晋作は引き込まれていった。松陰の下で一心不乱に勉学を始め、「人物・高杉晋作」が形成されていった。
その後、藩命で江戸へ遊学。大橋訥庵塾、昌平坂学問所(当時の最高学府)で学ぶものの、晋作は久坂玄瑞への手紙で「江戸の学問は面白くない」と記している。その間、松陰は間部詮勝要撃計画の罪により、江戸小伝馬町の牢に投獄されており、奇しくも江戸で晋作は松陰の世話をしながら師との対話を行なった。
ある時、晋作は牢に囚われている松陰に手紙を出し、「男子たる者の死」について質問している。それに対し松陰は書簡でこう返答した。
【吉田松陰の高杉晋作宛書簡】
安政六年七月中旬 松陰江戸獄 高杉江戸。
死は、好むべきでも憎むべきものでもない。人としての道を尽くしたならば自然と心も落ち着いてくる。この時が死ぬ時である。また、世の中には、身は生きていても心が死んでいる人があり、身は亡んでいても魂が生きている人がある。心が死んでいれば生きていても益はなく、逆に魂があれば亡んでも損はない。死んで名声が永久に亡びないのであれば、いつ死んでも良い。また、生きて大業を成す見込みがあれば、いつまでも生きるべきである
手紙全体の現代語訳はコチラ!
松陰が晋作に送った死生観に関するこの手紙が、後の晋作の生き方に大きな影響を及ぼしたことは想像に難くない。
安政6年(1859年)藩命により、萩に帰郷を命じられた晋作は「いずれ長州でお会い出来るでしょうから、その時お目にかかりましょう」との書簡を松陰に送り、江戸を出発。その10日後、松陰の死罪が決定し、その日のうちに刑が執行されてしまう。
予期しなかった師・松陰の死に、悲しみと幕府への激しい怒りに打ち震えた高杉晋作は、倒幕を心に誓い、歴史のうねりの中に自らの身を投じていくこととなる。
(安政6年(1859年)11月26日、長州藩の要職・周布政之助に宛てた手紙で「松陰先生の仇は必ず取ります」と激しい怒りを書き記している)
文久2年(1862年)5月には藩命で、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情を見聞して帰国。
文久2年(1862年)12月12日には同志とともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちを実行。行動の過激の度合いを強めていく。
文久3年(1863年)5月10日、関門海峡において外国船砲撃。6月に廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない画期的な軍隊・奇兵隊を結成し、奇兵隊開闢(初代)総督となる。
文久4年1864年8月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台占拠を行い、晋作が和議交渉全権を担う。
文久4年(1864年)12月、幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩では俗論派(佐幕派)が台頭。功山寺にいる五卿の前で「今こそ長州男児の肝っ玉をご覧に入れます」と気勢を挙げ、伊藤俊輔(伊藤博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。後に奇兵隊ら諸隊も加わり、俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩論を倒幕に統一することに成功する。
慶応2年(1866年)1月、桂小五郎(後の木戸孝允)らと共に、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を締結。
慶応2年(1866年)6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として、幕府艦隊を退け周防大島を奪還に成功。同年7月、将軍徳川家茂の死去の報を受けた幕府軍総督小笠原長行は戦線を離脱。事実上幕府軍の敗北に終わり、幕府の権威は大きく失墜し、1867年11月の大政奉還へと導かれる事となる。
戦い続けた晋作の身体は、その間、病に冒されていた。肺結核のため桜山で療養し回復に努めるも、慶応3年(1867年)4月14日深夜に死去。大政奉還を見ずしてこの世を去ることとなる(享年27)。松陰の教えを実行し、時代を駆け抜けた太く短い一生だった。
【高杉晋作辞世の句】
おもしろき こともなき世を おもしろく
下の句を看病していた野村望東尼(勤皇の歌人)が「すみなすものは心なりけり」とつけたと言われている。
【高杉晋作顕彰碑文】
動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、
衆目駭然、敢て正視する者なし。
これ我が東行高杉君に非ずや・・・
(一たび動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。周りの者は、ただただ驚き、呆然とするばかりで、敢えて正視する者すらいない。それこそ我らが高杉さんのことだ)後年、伊藤博文が高杉晋作顕彰碑に記した言葉。
奇兵隊を率い、幕末期長州藩を倒幕の方向に決定付けた革命児・高杉晋作。
長州が倒幕に傾いたことにより、歴史が大きく動き出した。
* (上)萩城下町菊屋横丁にある高杉晋作生家。
* (左)高杉晋作生家の入り口。
* (右)生家内にある高杉晋作の産湯に使われたという井戸。
* (上)高杉晋作生家外観。
* 晋作一世一代の大博打!功山寺決起の舞台。国宝・功山寺(山口県下関市)。
* (上)高杉晋作生家内部の様子。
* 功山寺決起後、俗論派と正義派(倒幕派)が衝突した大田・絵堂の戦い激戦地跡。
* 大田・絵堂の戦いで、奇兵隊や諸隊が本陣を置いた山口県美祢市にある金麗社。
* (左)円政寺にある大きな天狗の面。晋作も肝試しに来たという。
* (右)高杉晋作と伊藤博文が幼少期に遊んだという木馬(神馬)。
* 功山寺の末寺・東行庵にある高杉晋作が眠る墓(東行墓)。下関市吉田。
* 関門海峡にある壇ノ浦砲台跡。
文久3年(1863)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る外国船を5回にわたって砲撃した(攘夷戦)。翌年、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊の報復攻撃に受け、壇ノ浦砲台は壊滅、大敗した。 外国の軍備を思い知った長州藩が、開国倒幕へと転換する契機となった。 * 東行庵にある愛人・おうの(谷梅処)の墓。明治42年に亡くなるまで晋作を弔った。
* 山口県下関にある高杉晋作終焉の地。
* 後年、伊藤博文が高杉晋作を顕彰した顕彰碑(東行庵)。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し…」
* 高杉晋作の遺言により遺骸を奇兵隊の本拠地に近いこの地に葬った。
愛人・おうのは出家し生涯、晋作の菩提を東行庵で弔った。
* (上)師・松陰を見守るようにある高杉晋作の遺髪墓(山口県萩市)。
* 元治元年(1864年)高杉晋作の発議によって創建された桜山招魂場。
招魂社としては日本で最初のものと言われている桜山神社。(山口県下関市)。
* 吉田松陰の隣に建つ高杉晋作の招魂墓(下関市・桜山神社)。
* 功山寺決起の高杉晋作挙兵像(功山寺内)。
* 東行庵にある高杉晋作像。
* (上)高杉晋作自筆の書。
* (上)下関・日和山公園にある高杉晋作の像
* 喋る高杉晋作(Photospeakにて作成)
他の幕末の人物たちが喋る動画を見たい方は幕末維新・動画チャンネルへ。
高須晋作が書いた著作を読む!
高杉晋作の「革命日記」 (朝日新書)
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高杉晋作の手紙 (講談社学術文庫)
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Amazonで詳しく見る by G-Tools「幕末の長州藩を縦横に走り回った高杉晋作は、時代を大きく旋回させて惜し気もなく舞台から去って行った。享年二十九―。一方で晋作は、厖大な手紙や日記、詩歌草稿を残している。手紙の相手は父母をはじめ、吉田松陰、久坂玄瑞、桂小五郎(木戸孝允)、山県狂介(有朋)ら、多岐にわたる。その行間からは幕末を生きた人間の生の息吹が伝わってくる」。
高杉晋作 詩と生涯
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24 松下村塾の双璧・久坂玄瑞
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天保11年(1840年)5月誕生日不明 - 元治元年7月19日(1864年8月20日)。
幼名は「秀三郎」、諱(本名)は「通武(みちたけ)」。字は「玄瑞」、「実甫」通称は「誠」「義助」。
久坂玄瑞は、長門国萩平安古(現・山口県萩市)に萩藩医 久坂良迪と富子の三男として誕生。両親が歳をとってから生まれた子供だったこともあり、両親の愛情を一身に受けて育った。家業である医学を勉強するため、藩校医学所好生館に入学した後、藩校・明倫館に入学。嘉永6年~7年(1853~1854)にかけて母、兄、父が次々となくなり15歳にして家督を継ぐこととなった(次男は玄瑞誕生時に既に死亡していた)。それと同時に名前を「玄瑞」と改めている。
安政3年(1856年)17歳の時、藩に願い出て九州に3ヶ月間遊学。松陰の親友であった宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰に学ぶことを奨められ、初めて生涯の師となる松陰の名を耳にする。
帰藩後、松陰に手紙を書き、吉田松陰と書簡のやりとりを行い、その1年後、18歳となった玄瑞は松下村塾へ入塾し、松陰の薫陶を受けることとなる。松陰は久坂を「防長第一流の人物」であると高く評価し、高杉晋作と争わせて才能を開花させるようつとめた。松陰は、自分の一番下の妹との結婚を玄瑞に勧め、安政4年12月、玄瑞は松陰の妹・文と結婚。時に玄瑞18歳、文15歳。
安政5年(1858年)江戸と京都に遊学。安政の大獄による師・松陰刑死の後から、玄瑞は松陰の遺志を継ぐかのように長州藩尊攘運動の先頭に立ち活発に活動するようになる。
長井雅楽の「航海遠略策」によって藩論が公武合体論に傾くと、文久2年(1862年)同志と共に上京し、長井の弾劾を叫び、藩論の転換に尽力した。
1862年10月、高杉晋作らと攘夷血盟を行い、御楯組を結成。12月には品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。
文久3年(1863年)1月27日に京都翠紅館にて各藩士と会合。4月からは京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策。同年5月には、下関にて光明寺党を結成。首領に中山忠光を迎えて外国艦船砲撃を実行する。
文久3年(1863年)8月、「玄瑞」から「義助」に改名。再度入京し、尊攘激派と大和行幸の計画などを画策した。八月十八日の政変によって長州勢が朝廷より一掃された後も、しばらくの間京都詰の政務座役として在京し、長州藩の失地回復を図った。
元治元年(1864年)6月池田屋事件の報が国許に伝わると藩内で京都進発の論議が沸騰。来島又兵衛や真木和泉らが諸隊を率いて東上。真木和泉らと共に堺町御門で戦ったが(禁門の変または蛤御門の変)負傷して、同じ松下村塾塾生である寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃した。享年25。
松陰から受け継いだ久坂玄瑞の思想と行動力は、坂本龍馬や中岡慎太郎をはじめ、多数の志士たちに大きな影響を与えた。西郷隆盛は、明治維新の後、久坂玄瑞について以下のようなことを述べている。「今、俺が少しばかりの手柄があったからといって皆にチヤホヤされるのは、額に汗が出るような気がする。もし藤田東湖先生や、久坂玄瑞、その他の諸先輩が生きておられたなら、とうてい、その末席にも出られたものではない。それを、ああいう先輩方が早く死なれたために、俺のような者が偉そうに言われるのは、恥ずかしゅうてならぬ」(頭山満「大西郷遺訓」)。
※ 画像その他があります。
* 高杉晋作と並び松下村塾の双璧と言われた英才・久坂玄瑞。
松陰は久坂を「防長年少第一流の人物」と高く評価した。
蛤御門の変で若くして無念の死を遂げた。
* (上)山口県萩市にある久坂玄瑞誕生地
* (上)久坂玄瑞の墓。
* (上)萩往還公園にある松陰と並び立てられた久坂玄瑞の像。
* (上)久坂玄瑞直筆の書状。
久坂玄瑞 関連の書籍を読む
高杉晋作と久坂玄瑞
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Amazonで詳しく見る by G-Tools 松下村塾の双璧・久坂玄瑞の伝記小説。坂本龍馬や中岡慎太郎をはじめ、多数の志士たちに大きな影響を与えた久坂の激動の生涯を描く。
NHK「その時歴史が動いた」 幕末 京都炎上~長州・久坂玄瑞、志に散る~ [DVD]
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25 松下村塾三無生・吉田稔麿
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吉田 稔麿(よしだ としまろ)
天保12年閏1月24日(1841年3月16日) - 元治元年6月5日(1864年7月8日))。名は栄太郎。文久3年(1863年)23歳の時に稔麿と改名。高杉晋作、久坂玄瑞、そして吉田稔麿を称して松陰門下の三秀(入江九一を入れて松下村塾 四天王)。
吉田稔麿は、萩藩松本村新道に足軽・吉田清内の嫡子として生まれる。安政3年11月、松陰主宰の松下村塾で最初の塾生である増野徳民に連れられ、松下村塾の門を叩き、門下生となる。松陰主宰初期の松下村塾入塾生であり、松陰が特に親愛の情を示した稔麿には「無逸」という字(あざな)が付けられ、同じく「無」がつく字を付けられた増野徳民、松浦松洞と共に「三無生」とも言われる。
無駄口を利かず、謹直重厚な人物であったといわれ、松陰は稔麿を「足下の質は非常なり」「才気鋭敏にして陰頑なり」「久坂玄瑞の才能は自由自在で妨げるものは何もない。高杉晋作は陽頑、つまり頑固さが表に出るが、稔麿の陰頑というのは、心に秘めた強い意志を持っている。それは人により安易に動かされるものではない」と高く評価した。
安政5年(1858年)に松陰に下獄の命が下されると、家族・親族一門を守るために師の元を離れる。(翌年松陰が江戸に送られる際には隣家の塀の穴から見送ったとの逸話が残されている)その後、松陰は処刑される。
松陰死後も、暫く志士としての活動を控えていたが、万延元年(1860年)10月に脱藩、文久2年(1862年)京で行なわれた松陰の慰霊祭に参加する。
文久3年(1863年)6月、高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。7月には「屠勇隊」を創設。8月の朝陽丸事件(幕府の軍艦を襲撃)では始末を任され、烏帽子・直垂姿で船に乗り込み、説得に成功する。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件で池田屋に稔麿も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。 しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいて、吉田は奮闘の末、討ち死にする。 最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした、とされている。 また別の説として、池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃したという話もあり、稔麿の最期については諸説ある。 享年24。
いずれにしろ、これから志士としての活躍が期待された人物であった。本人も無念であったに違いない。
※ 画像その他があります。
* 松下村塾近くにある吉田稔麿の誕生地。 現在は、石碑が残るのみ。
* (上)松下村塾講義室。他の門下生と共に稔麿もここで学んだ。
* 松陰主宰の松下村塾初期からの入塾生・吉田稔麿の墓
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