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折々の記 2014 ③
【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】03/03~     【 02 】03/05~     【 03 】03/09~
【 04 】03/09~     【 05 】03/10~     【 06 】03/10~
【 07 】03/17~     【 08 】03/21~     【 09 】03/22~

【 05】03/10

  03 10 吉田松陰 4  良いことは学ぶとよい 喬木村の教育のために
           07  吉田松陰の足跡をたどる旅
           08  吉田松陰関連史跡データ一覧


 03 10 (月) 吉田松陰 4  

全体の目次

それぞれのサイトへリンクしてみると、吉田松陰についての膨大なデータを調べることができます。 これらのデータによって、喬木村の教育の在り方に取り入れたいものがあれば大いに参考にすることがいいと思います。
 吉田寅次郎(松陰)のこと 松下村塾門下生のこと
 01 吉田松陰について(年表) 22 松下村塾門下生について
 02 吉田松陰の生い立ち  23 幕末の風雲児・高杉晋作
 03 青年期(脱藩、下田踏海) 24 松下村塾の双璧・久坂玄瑞
 04 松下村塾主宰  25 松下村塾三無生・吉田稔麿
 05 吉田松陰の最期  26 初代総理大臣・伊藤博文
 06 吉田松陰の死、それから 27 元帥陸軍大将・山県有朋
 07 吉田松陰の足跡をたどる旅 28 日本大学の学祖・山田顕義
 08 吉田松陰関連史跡データ一覧 29 維新の三傑・木戸孝充
 09 我が兄・吉田松陰について 30 松陰史料、書籍、小説紹介
 10 吉田松陰の号について 31 幕末関連史料、書籍紹介
 11 松陰から門下生への手紙 32 吉田松陰関連サイト厳選リンク集
 12 吉田松陰資料室(直筆の書簡) 33 映画「獄に咲く花」特集!
 13 長谷川勤先生のブログ 34 幕末 携帯待ち受け画像 配布
 14 幕末維新・写真紀行ブログ 35 幕末 ブログテンプレート 配布
 15 吉田松陰語録アプリ! 36 「翔天隊.com」海援隊と陸援隊
 16 幕末志士群像検定アプリ! 37 幕末維新祭り(東京・松陰神社)
 17 「幕末志士検定」に挑戦!-
 18 「幕末人物肖像クイズ」に挑戦!-
 19 幕末志士関連グッズ紹介-
 20 幕末維新・動画チャンネル-
 21 幕末関連最新更新情報-

 吉田松陰の遺したもの 吉田松陰.comについて
 38 魂の遺書「留魂録」のすすめ 42 サイトの趣旨
 39 吉田松陰の死生観(留魂録) 43 RSS配信について
 40 吉田松陰の教え(松陰語録) 44 リンクについて
 41 国難の時、今こそ「草莽崛起」 45 管理人にメールする


  ※ 46 吉田松陰の教え~松陰語録~
    47 炎の遺書「留魂録」のすすめ
    48 吉田松陰の名文・手紙を読む
    49 吉田松陰関連史料・書籍・小説リスト
    50 吉田松陰関連史跡データベース
    51 「幕末志士検定」に挑戦!
    52 オンライン公開講座「特集・吉田松陰」



07 吉田松陰の足跡をたどる旅
     <http://www.yoshida-shoin.com/monka/shiseki.html>

吉田松陰関連の史跡は全国に点在していますが、このページでは、吉田松陰関連の主な史跡が集中する 萩(山口県)、下田(静岡県)、東京、下関(山口県)の4エリアの史跡を、「吉田松陰の足跡をたどる旅」と題してご紹介します。

※松陰遊学の地・水戸(茨城県)、下田渡海前に立ち寄った古都・鎌倉(神奈川県)の2エリアを追加しました。 ※番外編として、吉田松陰の師である佐久間象山の故郷・松代(長野県)を追加しました。

④【下関編】<http://www.yoshida-shoin.com/monka/shiseki-shimonoseki.html>

山口県下関は、松下村塾の双璧で、松陰の愛弟子・高杉晋作に関する史跡が数多く点在している場所です。
このページでは、関門海峡と幕末ロマンの地・下関にある高杉晋作関連史跡をご紹介します。

【東行庵、東行記念館】
「東行庵」は曹洞宗の寺院で功山寺の末寺にあたる。
もともとは、清水山と称し山縣狂介(有朋)が麓に草庵を建て「無隣庵」と名付けていた。 慶応3年、高杉晋作(東行)の遺言により遺骸を奇兵隊の本拠地に近いこの地に葬られると、 晋作に仕えていた愛人おうの(後に谷梅処)は黒髪を落とし出家。 山縣は明治2年に無隣庵を谷梅処に贈り、谷梅処は生涯、高杉晋作の菩提を弔い続けた。  現在の庵は明治17年、伊藤博文・山縣有朋・井上馨等全国諸名士の寄付により建立されたもの。 東行庵敷地内には東行記念館があり、晋作の遺品、遺墨などの資料が収蔵・展示されている。

【高杉晋作像、高杉晋作顕彰碑(東行庵内)】
東行庵敷地内にある高杉晋作の陶像(日和山公園にも同じような高杉晋作の陶像がある)。 右画像は高杉晋作顕彰碑。有名な伊藤博文による高杉晋作顕彰碑の碑文「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するものなし。これ、我が東行高杉君に非ずや」

【高杉晋作の墓(東行墓)、おうの(谷梅処)の墓】
慶応3年に死去した高杉晋作の遺骸は、遺言により奇兵隊の本拠に近いこの地に葬られた。 高杉晋作(号「東行」(とうぎょう))の愛人おうのは、晋作の死後、尼となって(谷梅処(たにばいしょ)と改名)、その墓を守り、菩提をとむらうようになった。はじめは山形有朋が住んでいた吉田の無隣庵(むりんあん)を僧堂にあてていたが、 明治17年に山形有朋・伊藤博文・井上馨らの寄付によって、無隣庵の隣接地に、現在の東行庵が建立された。おうのは明治四十二年にその生涯を閉じるまで生涯、東行の菩提を弔い続けた。

【奇兵隊及び諸隊士顕彰墓地(東行庵内)】
東行庵敷地内にある奇兵隊及び諸隊士顕彰墓地 第三代奇兵隊総管・赤祢武人(あかね たけと)の墓
維新戦争で亡くなった長州諸隊士の多くは、10代、20代の青年だったので、無縁仏となり荒れ果てるケースが多かった。 これを嘆いた東行庵三世谷玉仙羽が、墓地を開き各地から隊士の墓を集め、供養した。 右画像は、第三代奇兵隊総管・赤祢武人(あかね たけと)の墓。

【国宝・功山寺】
功山寺山門 功山寺
高杉晋作、一世一代の大博打!功山寺挙兵(回天義挙)の舞台・功山寺。 仏殿は、鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。 高杉晋作による功山寺挙兵の勝利・成功により、長州藩の藩論は倒幕に統一されることとなり、まさに維新の原動力となった。

【高杉晋作「回天義挙」像(功山寺内)】 功山寺内にある「高杉晋作回天義挙像」。
これから戦いに臨もうとしている馬上の高杉晋作の姿が、躍動感豊かに表現されている。 「これから長州男児の肝っ玉をご覧にいれます!」五卿の前で言い放ったという晋作の声が聞こえてくる。

【関門海峡にある壇ノ浦砲台跡】
関門海峡の壇ノ浦砲台跡に復元された長州砲。
文久3年(1863年)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る外国船を5回にわたって砲撃した(攘夷戦)。 翌年、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊の報復攻撃に受け、壇ノ浦砲台は壊滅、大敗。 外国の軍備を思い知った長州藩が、開国倒幕へと転換する契機となった。

【高杉晋作終焉の地】
慶応3年、新地の庄屋・林算九郎邸の離屋があったこの地で、高杉晋作は肺結核により、27年8ケ月の短い生涯を閉じた。 明治維新が成るわずか2か月前の出来事だった。

【桜山神社、招魂墓】
桜山神社 桜山神社の招魂墓
元治元年(1864年)高杉晋作の発議によって創建された桜山招魂場が、現在の桜山神社のはじまり。 招魂社としては日本で最初のものと言われている。 吉田松陰から奇兵隊の名もない者にいたるまで同様に祀られており、整然と立ち並ぶ多数の霊標の姿は、まさに圧巻! 右画像の中央が、吉田松陰の招魂墓。その左右には、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一の招魂墓が並ぶ。

【金麗社(山口県美祢市)】
金麗社鳥居と石灯籠 金麗社
大田・絵堂の戦いで、奇兵隊や諸隊が本陣を置いた山口県美祢市にある金麗社。

【大田・絵堂戦跡記念碑(山口県美祢市)】
功山寺決起の後、俗論派と正義派(倒幕派)が衝突した大田・絵堂の戦い激戦地跡。 現在は石碑と説明文があるのみ。

⑤【水戸編】<http://www.yoshida-shoin.com/monka/shiseki-shimonoseki.html>

幕末の志士たちに多大な影響を与えた水戸学発祥の地・水戸(茨城県)。
弘道館初代教授頭取を務めた会沢正志斎が書いた「新論」は、松陰にも大きな影響を与えた。
このページでは、22歳の若き松陰が遊学した際、一時期滞在した地である水戸の松陰関連史跡をご紹介します。

【吉田松陰留学の地碑)】
吉田松陰留学の地碑 吉田松陰留学の地碑に刻まれている松陰の漢文の詩
吉田松陰留学の地碑の裏に刻まれている文字 吉田松陰留学の地碑案内板
吉田松陰が水戸を訪れたのは、嘉永4年(1851年)12月19日から翌年1月20日にかけてである。
この地にあった永井政介宅に約1カ月余り滞在したが、その間、会沢正志斎・豊田天功等に師事し、また水戸の青年有志と交わり、水戸の学問の真髄を学んだといわれる。その精神は、やがて長州藩の志士を奮起させ明治維新の原動力となった。この詩は、政介の長子・芳之介に与えて志を励ましたもので、 石に刻んで長く松陰の水戸留学を記念するものである。(現地案内版より)

※松陰が滞在した永井政介宅跡に石碑は建てられている。 水戸滞在の1ヶ月間のほとんどを永井宅に宿泊した。 碑の正面には「四海皆兄弟」で始まる吉田松陰直筆の詩文が刻まれている。 水戸駅前近くのNHK向かいにあり、当時の面影は全くない。

【会沢正志斎の屋敷跡】
会沢正志斎の屋敷跡 会沢正志斎の銅像
会沢正志斎は藤田幽谷の弟子として学問を深め史館に入って修史に携わり、後に彰考館総裁となった。また、第9代藩主・徳川斉昭やその子・15代徳川慶喜の師でもあった。 幽谷から正志斎へと発展した水戸学の思想は藩政改革の指導理念となった。 特に文政8年(1825年)にに著した「新論」は我が国体に基づいた大改革の構想を示したもので幕末志士達の尊皇攘夷論の教科書として熟読され長州の吉田松陰、久留米の真木和泉守などに強い影響を与えた。この辺りが、屋敷跡と言われている。(現地案内板より)

※松陰も何度か会沢正志斎の屋敷を訪れている。 松陰は正志斎の「新論」を、後に松下村塾のテキストとしても採用している。 現在は、市街地の中(住友生命水戸ビル)にあり、当時の面影は全くない。

【藩校・弘道館】
水戸の藩校・弘道館 水戸の藩校・弘道館
弘道館は、徳川斉昭が設立した水戸藩の藩校で、藤田東湖(藤田幽谷の子)、会沢正志斎を擁し、水戸学の総本山となった。 桜田烈士である関鉄之介らや、15代将軍・徳川慶喜も幼少より弘道館で学んだという。 水戸遊学の際、松陰も弘道館を訪れている。 管理人が再訪問した時は、先の震災で大きく破損しており、復旧工事が進められていた。

【徳川斉昭の像、徳川慶喜向学の地碑】
弘道館入り口付近に建つ水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の像と、「徳川慶喜向学の地」石碑。
斉昭は自ら設立した弘道館で、息子であり、後に徳川幕府最後の将軍となる慶喜を学ばせた。

【偕楽園】
偕楽園東門 偕楽園内にある好文亭 
日本三名園として知られる偕楽園は、1841年(天保12年)、徳川斉昭によって造園が開始され、翌年に開園した。 斉昭は、弘道館で文武修行する藩士の休養の場とすると同時に、領民と偕(とも)に楽しむ場にしたいとして「偕楽園」と名づけ、その名の精神により当初から毎月「三」と「八」が付く日には領民にも開放されていたという。 松陰も水戸遊学の際に、偕楽園を訪れている。

【常磐神社と摂社・東湖神社】
偕楽園隣りにある常磐神社(左)と、その摂社・東湖神社(右)。
常磐神社は黄門さまでお馴染の、2代藩主・徳川光圀と9代藩主・徳川斉昭を祭神とする神社。
東湖神社は、藤田幽谷の子である藤田東湖を祭神とする神社。
藤田東湖の著した「弘道館記述義」は、会沢正志斎の「新論」と共に志士達の間で愛読された。

【番外編 千葉県松戸・本福寺】
松戸・本福寺にある「吉田松陰脱藩の道」石碑 松戸・本福寺にある「吉田松陰脱藩の道」石碑
嘉永四年(1851)十二月十四日、江戸藩邸を脱して東北旅行に出た吉田松陰は、水戸に向かう途中、千葉・松戸に達した。 脱藩した松陰は追手を恐れ、旅籠を避け、この本福寺に宿泊したということが「東北遊日記」に記されている。 本福寺の門前には、「吉田松陰脱藩の道」という文字と松陰の辞世が記された石碑が建てられている。また、境内には「吉田松陰当山に宿す」という石碑も建てられている。

⑥【鎌倉編】<http://www.yoshida-shoin.com/monka/shiseki-shimonoseki.html>

鎌倉の吉田松陰関連の史跡としては、松陰の母方の伯父が住職を務めていた瑞泉寺がある。 松陰も伯父を訪ねて幾度もこの寺を訪れている。このページでは、鎌倉の松陰関連史跡をご紹介します。

瑞泉寺 瑞泉寺本堂
瑞泉寺にある吉田松陰留跡の碑 瑞泉寺の庭
吉田松陰は、母方の伯父にあたる瑞泉寺第二十五世住職をしていた「竹院和尚」に会いにこの寺を訪れた。 松陰が瑞泉寺を訪れたのは、寛永6年(1853年)の六月中旬のこと。その後幾度か来たという。 瑞泉寺は(ずいせんじ)は、臨済宗のお寺で、鎌倉時代に夢窓疎石を開山として創建された。 禅寺として、鎌倉五山に次ぐ十刹(じっせつ)の筆頭格の扱いを受け、以後、夢窓派の拠点として重きをなした古刹である。 司馬遼太郎の松陰を主人公にした小説「世に棲む日々」でも、鎌倉で松陰が瑞泉寺を訪ねるエピソードを取り上げている。

【鶴岡八幡宮】
言わずと知れた鶴岡八幡宮。源頼朝以降、各時代の権力者たちに手厚く保護された。
長州藩毛利家の祖である毛利季光も鎌倉武士であった。吉田松陰も鶴岡八幡宮を訪れている。

【法華堂跡・源頼朝の墓】
源頼朝の館のあった大倉御所の北隅で持仏堂(頼朝が信仰し礼拝した仏像を安置しておく建物)があった場所。
頼朝の死後は、法華堂と呼ばれ、この場所に葬むられていたという。鎌倉幕府の保護も厚く永く崇敬を集めた。 法華堂跡の石碑には、上部にある源頼朝の墓(右写真の五輪塔)は、安永8年(1779年)に島津重豪が建立したものとある。

【長州藩毛利家の祖・毛利季光の墓】
参道に続く道 石燈籠。安政5年(1858年)に長州藩が大江広元の墓に建立した。毛利家の家紋が彫られている。
参道 毛利季光の墓
毛利季光は、大江広元(後述)の四男で、 相模国毛利庄(現在の神奈川県厚木市)を領有していたことより、「毛利」姓を名乗ることとなったという。 戦国時代の中国地方の雄であった「毛利元就」は、この季光の子孫となり、長州藩主・毛利家へと繋がっていくこととなる。
毛利季光は、承久の乱の際にも活躍を見せ、評定衆にもなり、鎌倉幕府の幕政に深く関わるものの、1247年「宝治合戦」の際には、三浦泰村の妹を妻としていたことから、 三浦一族に味方をし、頼朝を祀る「法華堂」にて、三浦一族と共に自決した。  なお、「毛利季光」の墓は、元々は鶴岡八幡宮の西にある「志一稲荷」の近くにあり、 後年毛利家によって、現在の地に移されたという。 大江広元、毛利季光、島津忠久の墓が横一列で並んでおり、向かって左が毛利季光の墓。

【薩摩藩島津家の祖・島津忠久の墓】
 島津忠久の墓 島津忠久の墓までの参道は安永8年に島津重豪が整備した。 建久3年、源頼朝が鎌倉幕府を開いた1192年、薩摩・大隅・日向の三国の守護に任じられた薩摩藩島津家の祖・島津忠久の墓。 「島津(惟宗)忠久」は、惟宗忠康(異説あり)と丹後内侍の子。
母の丹後内侍が源頼朝の乳母である比企局の娘であることから、 頼朝の信頼も厚く、薩摩、大隈、日向(現在の鹿児島・宮崎県)の守護職となった。  この島津忠久に対する厚遇ぶりには、実は源頼朝のご落胤だからという説がある(一般に言う俗説)。 島津斉彬の父であり蘭癖(らんぺき)大名として有名な薩摩藩主「島津重豪」が「源頼朝」と「島津忠久」の墓を整備したが、このような背景があるからである。
大江広元、毛利季光、島津忠久の墓は横一列で並んでおり、向かって右が島津忠久の墓。「大江広元」、「島津忠久」の墓は、江戸時代に出来たが、奇しくも幕末に薩長同盟を為した「薩摩」と「長州」の祖の墓が、こうして並んでいるというのも不思議な因果を感じさせる。

【大江広元(毛利季光の父)の墓】
大江広元は、毛利家の祖となった毛利季光の父であり、源頼朝による鎌倉幕府で頼朝の側近として辣腕をふるった政治家。
「大江広元」は、頼朝の信頼も厚く、鎌倉幕府の政所別当として活躍し、草創期の幕府を支えた人物。 文政6(1823)年に長州藩家老村田清風が毛利季光の墓と共に整備したもので、 別の場所(十二所の明王院の裏山)にも大江広元の墓と伝えられるものがあり、そちらの墓がもともとあった本物の墓と言われる。 大江広元、毛利季光、島津忠久の墓が横一列で並んでおり、中央が大江広元の墓。

⑦【松代編】<http://www.yoshida-shoin.com/monka/shiseki-shimonoseki.html>

佐久間象山は、幕末の高名な思想家であり、吉田松陰や小林虎三郎の師でもあります。
このページでは、佐久間象山の故郷である長野県松代市にある佐久間象山関係の史跡をご紹介します。

【象山神社(ぞうざんじんじゃ)】
佐久間象山は、幕末の大先駆者である。松代藩士佐久間一学の長男として文化8年(1811)に生まれる。 6才の時から父や鎌原桐山・活文禅師などから学問・武術を習い、20才で詩文・経書・武術等免許される程の秀才であった。
23才江戸佐藤一斎の塾に入門、渡辺崋山・藤田東湖と親交、3年で帰藩し、藩の子弟に経書や漢学を教える。この頃名を修理、号を象山と改める。29才江戸お玉ヶ池に象山書院を開き、多くの門弟を集める。 藩主幸貫老中で海防掛の時、海防八策を幕府に上申する。
36才帰藩し、湯田中・沓野・佐野(志賀高原)の利用係として開発に努力、又大砲・電信機等の製作・実演をする。
41才江戸木挽町に塾を開き、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰・橋本佐内など維新の英才を輩出、ペリー来航国論沸騰の際、軍議役として横浜警備に当たる。開国論を唱え横浜開港を主張する。
松陰密航事件に連座して投獄される。44才から9年間松代に蟄居される。
この間高杉晋作・久坂玄瑞、山形半蔵・中岡慎太郎・石黒忠悳らが面会に訪れ、時世について、激論、象山の学識に感動して去る。
54才元治元年(1864)幕府の命で京都へ上る。
将軍家茂・一橋慶喜・山階宮・中川宮に公武合体開国を説いて活躍中 7月11日三条木屋町で尊攘派の凶刃にたおれ、尊皇開国の捨石となって非業の最後を遂げる。
その後4年にして明治維新の世を迎え、象山の尊皇開国という憂国の至情がそのまま具現されたのであった。
大正2年象山殉難五十年祭を契機に、元大審院長横田秀雄博士の主唱で、神社建立の計画が進められ、 地元をはじめ県下全市町村及び信濃教育会・全学校・全国関係者の協力によって、昭和13年11月3日県社として創建された。 (説明板より)

【佐久間象山銅像(象山神社前)】
象山神社前にある佐久間象山像。

【高義亭(象山神社内)】
もと松代藩家老望月主水貫恕の下屋敷にあった建物である。
安政元年(1854)佐久間象山は吉田松陰の渡航事件に連座し、国元蟄居を命ぜられ望月氏の下屋敷聚遠楼に住んでいたが、 来客があるとしばしばこの高義亭の二階七畳半の間で応対し、国家の時勢を論じたという由緒深い建物である。
木造二階建ての寄せ棟造りで、屋根は桟瓦葺きとする。下屋敷も瓦葺きであるが、一部鉄板を用い、東に切妻屋根を出す。 一階は、玄関(2坪)・取り次ぎの間(6畳)・次の間(9畳)・客間(10畳)・茶の間(6畳)・勝手(4畳半)と、西に納屋を造り出す。 玄関は土間と式台からなり、次の間は南に明障子、外に縁を付す。客間と次の間は襖ふすまで仕切り、外側に明障子を立てて縁を回す。 取り次ぎの間から北に通る廊下で客間・茶の間・勝手に通じ、茶の間わきに階段を付けて二階の昇り口ととする。 二階は、階段を昇ったところに踊り場、南に控えの間、東に6畳間、北に置床付き7畳半の間がある。ここが象山が来客と対応した間。
明治以後住人が替わり、原形も一部変更した所もあったが、現在地に移築の際、当時の構造に復元したものである。(説明板より)

【左:桜賦 右:望岳賦(象山神社内)】
(左):桜賦は万延元年(1860)春、象山先生50歳の時の作で、孝明天皇の天覧を賜った由緒ある名文である。 桜花の美徳をたたえて憂国の至情をこれに託し、 人に知られぬ山の奥に散りゆく桜の花を自分にたとえ、ひそかに勤皇の志を述べた韻文である。この碑文は長野市の文化財に指定されている象山先生自筆の紙本から複製したもので、 昭和51年4月11日篤志家の寄進によって建碑された。(説明板より)

(右):望岳賦は天保12年(1841)夏、象山先生31歳の時の作といわれ、桜賦と並び称される名作である。 富士山の気高く優美な姿は讃えて、自分の理想と抱負をこれに寄せた韻文である。この碑は明治23年、象山先生と義兄弟の誼を結んだ村上政信が、先生直筆の書を碑文に彫りその邸内に建てたものであるが、その後行方不明となり、久しく幻の碑と称されていたが、東京杉並高円寺の修道院内に在ることが判明し、 昭和48年11月9日神社創立三十五周年祭の当日奉迎再建した。(説明板より)

【茶室 煙雨亭(象山神社内)】
佐久間象山は松代における9ヶ年の蟄居の後、 元治元年(1864)3月幕府の招きに応じて京都に上り、しばらくして三条木屋町の鴨川べりの一戸構えに移った。
この家は二階建で広く茶室迄も備わり、鴨川を隔てて東山・八坂の塔なども見える、眺めのよい家であった。 従って、先生は雨に煙る情緒豊かな風情を愛で、煙雨楼と名づけられた。 先生が7月11日、頑迷な攘夷論者のため非業の最期を遂げらるるまで僅か2ヶ月の住居であった。この茶室はその煙雨楼内の茶室で、昭和40年頃解体の折、京都象山会の高岡謙次氏が譲り受け保管されていた。
昭和56年にその資材のご寄贈をいただき先生の往時を偲び後世に伝えるため煙雨亭と名づけ、先生縁りの地に移築したものである。(説明板より)

【佐久間象山誕生地(象山神社内)】 ここは象山の曾祖父国品以来の佐久間家の宅跡で、象山は文化8年(1811)2月11日この地で生れた。
天保10年(1839)の二度目の江戸留学まで29年間ここに住み、藩の青年たちに学問を教えて後進の指導に努めた。
象山の父は佐久間国善(一学また神渓とも号した)といい、五両五人扶持(70石相当)の家だったが、 剣は卜伝流の達人であり、また、易学をもって知られた名門だった。 屋敷の指定面積は、877.8平方メートルで、南方中程に表門、西方中程に裏門があった。 住宅は屋敷東寄り中央に東西5間、南北3間半の茅葺平屋造りのもので、表門西脇に父神渓の槍・剣術場・学問所があり、 裏門の北と南に長屋二棟があって、藩中軽輩士分の屋敷構であった。屋敷東北隅には硝石製造原土置場があった。
元治元年(1864)3月、徳川幕府の招きで上洛し、開国・公武合体論を主張し大いに画策したが、 同年7月11日京都三条木屋町で刺客の凶刃に倒れた。享年54歳。 佐久間家は断絶になり、屋敷は藩に取り上げられ、後に住宅も破壊された。 当時をしのばせるものは、住宅の西北隅にあった井戸のみである。(説明板より)

【象山記念館】
象山記念館は、幕末の思想家である佐久間象山(1811~1864)に関する資料を展示しています。 主な展示品は、佐久間象山が製作した電気治療機をはじめとする科学に関する資料、 佐久間象山が政治に関して述べた記録類、それに佐久間象山自筆の墨跡類などです。(案内板より)

【松代藩校・文武学校】
江戸時代後期に創設された信濃国松代藩の藩校。近代的な学校の先駆け、文武を奨励した八代藩主・真田幸貫が、 佐久間象山の意見を受け入れ、水戸の弘道館にならって計画し、九代・幸教の時代に完成した。 建設当時からの建物がそのまま残っている。

【左:佐久間象山の墓、右:佐久間恪二郎の墓(蓮乗寺)】
蓮乗寺 左:佐久間象山の墓、右:佐久間恪二郎の墓
象山は文化8年(1811年)2月旧松代藩に生れ元治元年(1864年)京都にて凶刃にたおれる。 蓮乗寺は日蓮宗の名刹で日蓮が佐渡へ流された時立寄られ一泊せられたと伝えられる。 又、佐久間家累代の菩提寺であり大正11年、京都妙心寺よりこの菩提所へ分葬する。 猶父一学並に一子恪二郎等の墓もある。(説明版より)

【象山恵明禅寺(ぞうざんえみょうぜんじ)】
佐久間象山誕生地近くにある名刹。佐久間象山の号はこの寺に因んだとされる。 一般的には、佐久間象山(しょうざん)と呼ぶが、地元の方は、佐久間象山(ぞうざん)と呼ぶ。

【佐久間象山銅像(八幡原史跡公園)】
川中島古戦場である八幡原史跡公園にある佐久間象山像。

※ その他の史跡はこちら! 【吉田松陰に関する史跡データベース】


08 吉田松陰関連史跡データ一覧
     <http://www.yoshida-shoin.com/monka/guide-shiseki.html>

詳細なデータが出ています。必要であればURLを開いて利用すればいい。

ここでは、データ一覧の冒頭の部分をコピーしておきます。

北は青森、南は熊本まで全国を旅した吉田松陰。
このページでは、吉田松陰関連の史跡、石碑、銅像、訪れた主な場所、著名な観光地などを紹介しています。 松陰がいかに全国を巡ったかを感じて頂ければと思います。

吉田松陰に関する史跡巡りの一助としてもご活用ください。

(※1:松陰自身に関係した史跡のみを掲載しており、金子重輔を除く
    門下生関連の史跡は掲載していません)
(※2:現在の状態を保証するものではありません)
(※3:松陰に関する碑文や案内板等が設置されている場所の情報があ
    りましたら、ご連絡をお願いしたく存じます)

【吉田松陰の人生時系列、場所別】
時期番号 吉田松陰の人生時系列 年齢 関連する場所
生誕~青年期 1~21歳 山口県
北浦巡検、九州遊学の旅 21歳 山口県長崎県熊本県佐賀県福岡県
江戸遊学、房総踏査 22歳 山口県兵庫県愛知県東京都神奈川県
東北脱藩の旅 23歳 千葉県茨城県福島県新潟県秋田県
青森県岩手県山形県宮城県栃木県
諸国遊学の旅 24歳 山口県広島県香川県奈良県大阪府
岐阜県三重県
江戸~長崎の旅 24歳 神奈川県京都府大分県熊本県
下田踏海~萩送還 25歳 静岡県山口県
野山獄~松下村塾主宰 25~29歳 山口県
江戸送致~処刑、その後 30歳 山口県神奈川県東京都
番外編 愛媛県山口県



09 我が兄・吉田松陰について
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※ 説明の画像がたくさんあります。

※ 説明の画像がたくさんあります。

10 吉田松陰の号について
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11 松陰から門下生への手紙
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12 吉田松陰資料室(直筆の書簡)
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