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折々の記 2014 ③
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 02】03/05
03 05 児童虐待 心理虐待が急増
03 07 什の掟 良いことは学ぶとよい いじめの対応策
03 08 目撃!日本列島「新たな絆を作りたい~“国境”を越えた交流合宿~」 NHK放映
03 08 吉田松陰 1 良いことは学ぶとよい 喬木村の教育のために
03 05 (水) 児童虐待通告、最多2万人超 昨年、「心理虐待」が急増
2014年3月6日10時54分
http://www.npa.go.jp/safetylife/syonen/jidougyakutai_fukushihan_kenkyoH25_1.pdf
虐待を受けているとして全国の警察が昨年1年間に児童相談所に通告した児童(18歳未満)は2万1603人で、前年を32%上回り、過去最多を更新した。子どもの心を傷つける「心理的虐待」が49%増で、特に増加が目立つという。
警察庁が6日、発表した。
通告児童2万1603人のうち、57%にあたる1万2344人が心理的虐待だった。このうち8059人は、配偶者らに対する暴力(DV)を子どもの目の前で行うことで心を傷つける虐待。前年より48%増え、全体の増加分の半数をこの形の虐待が占めた。
ほかに、身体的虐待は18%増の6150人、育児放棄(ネグレクト)が8%増の2960人、性的虐待が9%減の149人だった。
通告児童数は、統計を取り始めた2004年以降、毎年増えている。警察庁は、通告児童数の増加を「児童虐待への社会の関心が高まり、通報や相談が多くなっているため」と分析。特にDVに伴う虐待が目立つことについては「DV自体の認知が増加している影響」とみている。
通告とは別に、事件として逮捕、書類送検したのは467件、482人。前年より5件、4人減ったが、ともに過去最多だった12年に次いで多い。このうち、心理的虐待の摘発が10件増の16件で、子どもに刃物を示して脅すといった暴力行為等処罰法違反が12件を占めた。
また、事件で児童が死亡したのは7人減の25人で、過去最少となった。警察庁は「児童相談所と連携した積極的、迅速な対応が死亡減につながっている」とみている。(吉田伸八)
■「心理的虐待」の例
・暴力的言動で脅す
・ほかのきょうだいと比べ著しく差別的な扱いをする
・無視や拒絶的な態度をする
・目の前で配偶者や家族らへの暴力を繰り返す
・「生まなければよかった」などと心を傷つける言動を繰り返す
※児童虐待防止法は「心理的虐待」について「暴言や拒絶的対応、配偶者への暴力、その他児童に著しい心理的外傷を与える言動」と定義している
【下平】解説を見るかぎり、子供のいじめの原因となっているのは親の在り方によることが最大の理由だと思います。 そういう意味では「人には鬼子はいない」ということです。
03 07 (金) 什の掟 良いことは学ぶとよい
あらためて「什の掟」についてその根底に理解を深めておきたい。
<http://www.nisshinkan.jp/about/juu>→<http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E4%BB%80>
「什の掟」
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
幼少期の躾の要になる考えをまとめたものと思います。
什とは何でしょうか。
Wikipedia記事検索 の検索結果によると、「什_(会津藩)」→ 転送を見ると次のように解説しております。
・什(じゅう)は会津藩における藩士の子弟を教育する組織
・概要[編集]
町内の区域を「辺」という単位に分け、辺を細分して「什」という藩士の子弟のグループに分けた。什では「什長」というリーダーが選ばれ、什長は毎日、什の構成員の家の座敷を輪番で借りて、什の構成員を集めて「什の掟」を訓示した。什の掟は7ヶ条からなる。・関連項目[編集]
什の掟は藤原正彦のベストセラー『国家の品格』でも紹介され、会津出身の元衆議院議員の渡部恒三もたびたび引用したことから全国的にも知られるようになり、学校でのいじめなどが社会問題化するなか、テレビドラマ『白虎隊』でも取り上げられ、教育関係者の注目も集めた。
なお、什の掟の"現代版"として会津若松市が「あいづっこ宣言」を策定した他、最後の一節「ならぬことはならぬものです」を引用したNN運動が福島県で展開されている。
・日新館 <http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E6%97%A5%E6%96%B0%E9%A4%A8>
概要・会津藩 <http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%97%A9>
1798年(寛政10年)、会津藩家老・田中玄宰の進言により計画される。 1803年(享和3年)、会津藩の御用商人であった須田新九郎が新築経費を寄付したため、会津若松城の西隣に日新館の校舎が完成。東西約120間、南北およそ60間の敷地に水練場や天文台までをも備えた、全国有数の藩校となった。
当時の会津藩の上級藩士の子弟は10歳になると日新館に入学した。15歳までは素読所(小学)に属し、礼法、書学、武術などを学んだ。素読所を修了した者で成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められ、そこでも優秀な者には江戸や他藩への遊学が許された。全国に数ある藩校の中でも屈指の教育機関であると言える。
1868年(慶応4年)、戊辰戦争により校舎は焼失。現存するのは会津若松城趾西側に残る天文台跡のみ。
會津藩校日新館
実際の藩校は焼失したものの藩校に関する図面などの資料が残っていたため総工費34億円を費やし、1987年(昭和62年)3月に會津藩校日新館として会津若松市河東町に完全復元、開館した。この施設は、博物館・道場(弓道場・武道場)・研修や宿泊施設・映画撮影所などを兼ねており、各種の武道団体も頻繁に練習や合宿に利用している。
地図(伸縮自在)
会津藩
(1)歴史から始まって(13)外部リンクにわたって詳細な解説があります。 ことに歴史は詳しい。 会津藩URLへジャンプすると出てきます。
・郷人 <http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E9%83%B7%E4%BA%BA>
・八重の桜 <http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E5%85%AB%E9%87%8D%E3%81%AE%E6%A1%9C>
ここを開くと、細かい解説が出ています。
・外部リンク[編集]
・あいづっこ宣言の策定経過 <http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2007080601651/>
ここの考え方は、喬木村にとって参考にしなければなりません。
・NN運動メニュー <http://www.akina.ne.jp/~ichi/nn/index.html>
・會津藩校 日新館 <http://www.nisshinkan.jp/>
03 08 (土) 目撃!日本列島「新たな絆を作りたい~“国境”を越えた交流合宿~」 NHK放映
雪の魔法~日本一寒い湖~
<http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=101&date=2014-03-08&ch=21&eid=20027&f=etc>
北海道幌加内町の朱鞠内湖。冬はワカサギ釣りの家族連れでにぎわう湖のほとりで、18年間も続く合宿がある。日本、韓国、在日韓国・朝鮮人の学生たちがさまざまな共同作業を行い、交流を深めるワークショップだ。2泊3日、同じ釜のメシを食い、雪下ろしなどを一緒に行う一方、夜は互いの歴史認識や立場の違いなどを語り合う。参加者の多くは、その後も変わらぬ友情が続くという交流合宿。ことしも50人の若者が集まった。
MapFan.netの北海道ブックマークの幌加内町を拡大してみると、その場所がわかります。
03 08 (土) 吉田松陰 1 良いことは学ぶとよい 喬木村の教育のために
その一
吉田松陰の生い立ち
<http://www.yoshida-shoin.com/torajirou/oitachi.html>
吉田松陰は文政13年(1830年)8月4日、長州藩の下級武士・杉百合之助の二男として萩の松本村に生まれた。
松陰の生家は城下町を一望できる通称・団子岩と呼ばれるところにある古い一軒屋で、父・杉百合之助は下級武士ゆえ、それだけではなく農業中心の生活をしていたが、貧しい暮らしであったという。
松陰には兄と弟、四人の妹がいたが、父は農作業に幼い兄と松陰を連れていった。そこで農作業をしながら武士としての心得や、尊王の精神教えられていった。
松陰には、他家に養子に行き家督を継いでいた吉田大助と玉木文之進という二人の叔父がいた。
吉田大助の養子先・吉田家は、長州藩の兵学師範(山鹿流兵学)の家柄であったが、大助に跡継ぎがなく、松陰は幼くして吉田家へ養子に入ることとなる。ところが、まもなく吉田大助が急死してしまった為、松陰は6歳にして吉田家の家督を継ぎ、藩校明倫館の兵学師範になる宿命を背負う。そこで、松陰の兵学教育にあたったのが、山鹿流免許皆伝であった玉木文之進であった。
玉木文之進は自宅で松下村塾を開いた人物(あまり知られていないが、松下村塾は松陰が初めに開いたものではない)。松陰の教育は、主にこの玉木文之進という叔父によってなされたが、甘えや妥協を許さない、極めて厳格なものだったという。
玉木文之進の厳しい薫陶を受け、松陰は成長した。松陰が11歳になったとき、藩主毛利敬親の前で講義(親試)することになったが、松陰は山鹿流『武教全書』戦法篇を朗々と講じ、その講義は藩主をはじめ居並ぶ重臣たちも目を見張るほどのものであったという。その日から「松本村に天才あり」と松陰(当時:大次郎)の名は萩城下に知れ渡った。
その後、松陰は19歳で、玉木文之進らの後見人を離れ、藩校・明倫館の独立師範(兵学教授)に就任。21歳の時、見聞を広めるために、藩に九州遊学の希望を申し出、10ヶ月の遊学許可が下りることになった。
その二
吉田松陰.com(幕末の私塾・松下村塾について)
<http://www.yoshida-shoin.com/>
松下村塾を主宰し、幕末・維新に活躍した多数の志士達を輩出した吉田松陰。
その感化力は、世界史上でも類例がなく、不世出の教育者として語られています。
当サイトでは、吉田松陰と松下村塾門下生達を画像を交えてご紹介します。
このサイトの紹介には上のような文が載せられており、次のようなサイト及び※印以下のサイトが紹介されています。
それぞれのサイトへリンクしてみると、吉田松陰についての膨大なデータを調べることができます。 これらのデータによって、喬木村の教育の在り方に取り入れたいものがあれば大いに参考にすることがいいと思います。
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