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折々の記 2015 ④
【心に浮かぶよしなしごと】

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  06 07 比大統領の歓迎宮中晩さん会で述べられた天皇陛下の挨拶   留意すべき事項
  06 07 構想力欠く安保法案、禍根残す   (日曜に想う)特別編集委員・星浩
  06 07 用語解説   理解のためのキーポイント

 06 07 (日) 比大統領の歓迎宮中晩さん会で述べられた天皇陛下の挨拶   留意すべき事項

比大統領歓迎晩餐会の天皇陛下のお言葉を読んで、ホッとしました。 これが一般庶民の気持だからです。

政権の時の流れは異様に見えるからだ。

  ① (★阿修羅♪)比大統領歓迎晩餐会の天皇陛下のお言葉を安倍夫妻は何と聞く
  ② 天皇陛下、比大統領を歓迎 宮中晩餐会でのおことば全文
  ③ 戦後70年、新年の御製



2015年6月04日20:00:05 (★阿修羅♪)
① 比大統領歓迎晩餐会の天皇陛下のお言葉を安倍夫妻は何と聞く―(天木直人氏)
   投稿者 赤かぶ
   http://www.asyura2.com/15/senkyo186/msg/181.html


 佳子さまの初出席が話題になった比大統領の歓迎宮中晩さん会であったが、そこで述べられた天皇陛下のあいさつをメディアは軽視してはいけない。

 国賓の歓迎晩餐会の冒頭で、戦後70年に当たる本年に言及し、過去の戦争に触れて、深い痛恨と犠牲者への深い哀悼の意を述べらたことは、衝撃的だ。

 陪席していたはずの安倍首相は、昭恵夫人ともども、そのお言葉をどういう思いで聞いたのだろか。

 もし天皇陛下がこの国の首相なら、中国や韓国との関係はたちどころに改善するだろう。

 世界に与える平和国家としての日本の印象は揺ぎないものとなるだろう。

 象徴天皇には直接に政治や外交をおこなうことはできない。

 しかしこのあいさつに込められたメッセージは、これ以上ない外交だ。

 村山談話を見直して、戦後の日本人が築き上げて来た平和国家日本の努力を水泡のごとく失わせようとする安倍首相に対する、これ以上ない天皇陛下の叱責である。

 その事をメディアははっきり書いて国民に知らせるべきだ。

 なによりもメディアはここまで天皇陛下を苦しめる安倍首相に反省を促すべきである。

             ◇

2015年6月4日00時15分 朝日新聞
天皇陛下、比大統領を歓迎 宮中晩餐会でのおことば全文
   http://www.asahi.com/articles/ASH6336D4H63UTIL005.html


2015年6月4日00時15分 (朝日新聞)
② 天皇陛下、比大統領を歓迎 宮中晩餐会でのおことば全文
   http://www.asyura2.com/15/senkyo186/msg/181.html


写真・図版 フィリピンのアキノ大統領を招いた宮中晩餐会であいさつされる天皇陛下=3日午後7時38分、皇居・宮殿「豊明殿」、代表撮影

 皇居・宮殿で3日夜、フィリピン大統領を招いた宮中晩餐会(ばんさんかい)が開かれた。天皇陛下の「おことば」は次の通り。

     ◇

 この度、フィリピン共和国大統領ベニグノ・アキノ三世閣下が、国賓として我が国を御訪問になりましたことに対し、心から歓迎の意を表します。ここに、今夕を共に過ごしますことを、誠に喜ばしく思います。

 貴国と我が国の人々の間には、16世紀中頃から交易を通じて交流が行われ、マニラには日本町もつくられました。しかし、17世紀に徳川幕府はキリスト教を禁じ、鎖国令を出して日本人の外国への渡航、外国人の入国を禁じました。そのため、キリシタン大名であった高山右近と内藤忠俊は、徳川幕府により、日本人キリスト教徒と共にマニラに追放されました。本年は、高山右近がマニラで病没してから、ちょうど400年に当たります。我が国は19世紀半ば、鎖国政策を改め、諸外国と国交を開くことになりました。20世紀初頭には、多くの我が国の人々が貴国に渡り、両国民の交流は盛んになりました。

 しかし、先の大戦においては、日米間の熾烈(しれつ)な戦闘が貴国の国内で行われ、この戦いにより、多くの貴国民の命が失われました。このことは私ども日本人が深い痛恨の心と共に、長く忘れてはならないことであり、とりわけ戦後70年を迎える本年、当時の犠牲者へ深く哀悼の意を表します。

 戦後、1956年の国交回復から今日に至るまで、両国は、共に手を取り合い、友好関係の増進に努めてまいりました。今や、約1万8千人の日本人が貴国に住み、20万人を超えるフィリピン人が我が国に滞在しております。その中には我が国の福祉施設に勤める人々もあり、高齢化する社会の中で大変重要な役割を担ってくれています。私どもが福祉施設を訪れた時、介護に当たる人々の中にフィリピンから来たと紹介される人もありました。

 我が国の青年海外協力隊は発足した1965年から間もなく貴国において活動を開始し、今までにその総数は1600名近くに達しています。近年、経済、文化、そして人の交流など幅広い分野で両国関係がますます緊密になっていることを、誠に喜ばしく思っています。

 今から53年前、当時皇太子であった私は、ガルシア大統領を国賓としてお迎えしたことに対する答訪として、昭和天皇の名代という立場で、皇太子妃と共に、貴国を訪問いたしました。その時、マカパガル大統領御夫妻を始め、貴国国民から温かく迎えられたことは、忘れ難い思い出となっております。また、カヴィテにアギナルド将軍御夫妻をお訪ねし、スペインとの独立戦争に勝利し、1898年フィリピンの独立が宣言されたバルコニーに将軍御夫妻と共に立ったことは、誠に感慨深いことでありました。

 1986年2月、閣下の母君は、大統領に御就任、その年の11月、我が国を国賓として御訪問になり、私は皇太子として、大統領をお迎えいたしました。その後、1989年2月の昭和天皇の大喪の礼、翌年11月の私の即位の礼にも、御列席いただいたことに深く感謝しております。

 閣下は、2010年の御就任以来、我が国を度々御訪問になっていらっしゃいます。2011年9月には東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市を御訪問になり、復興のための義援金が贈られました。このほかにも貴国からは、緊急物資や医療チームの派遣など、様々な支援を頂いております。また、昨年6月には広島市を御訪問になり、平和記念公園の原爆慰霊碑に献花をなさいました。我が国に対する温かいお気持ちに対し、心より感謝の意を表します。

 閣下が、御就任以来、国民の声に真摯(しんし)に耳を傾け、貴国の平和と発展のため、貧困対策を始めとする諸課題に献身的に取り組んでいらっしゃることに、深く敬意を表します。また、我が国との関係強化に意を用いていらっしゃることを心強く思います。この度の御訪問が、両国の相互理解と友好協力関係の一層の発展に資する、実り多いものとなることを切に願っております。

 ここに杯を挙げて、大統領閣下の御健勝とフィリピン国民の幸せを祈ります。


2015年1月 (NHKTV)
③ 戦後70年、新年の御製

昨年の平成25年平和記念式典で広島市長による平和宣言と首相の挨拶をお聞きしていて、首相の意識の程度が察しられて悲しかった。

この想いが頭の隅に巣くっていましたから、今年の天皇陛下の御製が心の奥深く沁みこみました。 陛下が象徴であるからこそ年頭の御製やフィリピン大統領への挨拶など終始一貫していた心根を痛切に感じとっているのです。

私たちにとっても考えの基底にとどめておきたい心がけです。



     爆心地の碑に白菊を供えたり
           忘れざらめや往にし彼の日を



御製について調べていると、次のURLに出会いました

分岐点=『明確な歴史認識と反省』  沼野 龍男
       http://yuyu-life.net/f-jaunal/2015/1274-s.htm

 今年の歌会始めで、天皇陛下は、「爆心地の碑に白菊を供えたり忘れざらめや往にし彼の日を」と。皇后陛下は、「我もまた近き齢にありしかば沁みてて悲しく対馬丸思う」と詠まれた。(筆者注、第二次大戦中、沖縄からの学童疎開船「対馬丸」は鹿児島県悪石島沖で米潜水艦の攻撃を受けて沈没、学童780人を含む1485人が命を失った。)

 又、皇太子殿下は2月23日の誕生日に、「我が国は、戦争の惨禍を経て、戦後日本国憲法を基礎として築き上げられ、平和と繁栄を享受しています。戦後70年を迎える本年が、日本の発展の礎を築いた人々の苦労に探く思いを致し、平和の尊さを心に刻み、平和への思いを新たにする機会になればと思っている」と語られた。いずれも非戦の願いが痛切に感じられる。

 フィリピン作家のF・ショニール・ホセ氏は、朝日オピニオンのインタビューで語っている「太平洋戦争中、フィリピンで約52万人の日本人が戦没した。一方フィリピンは、111万人が亡くなった。当時の国民の16分の1に相当する。(人口に比してアジアで最も大きな惨禍を受けた国といわれている)

 日本は自国を傷つける歴史は若者に語らない。靖国神社を訪れ、遊就館を見た時、怒りが収まらなかった。あなた方の名誉ある兵士はフィリピンを蹂躙したのだ。私はフィリピン人として、安倍首相の靖国参拝を批判する。私は日本を許したわけではないし、忘れない。

 それでも過去が未来を見直す際の妨げになってはいけないと思う」

 「過去の犠牲にこだわりすぎると物見えなぐなる」
と。

 昨年末、統一ドイツの初代大統領ワイツゼッカー氏が亡くなった。

 彼は、ドイツ敗戦40周年に当たる85年5月8日に連邦議会で演説した。

 「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」と。国民に対し、ナチス・ドイツの過ちをありのままに見つめる勇気を持つよう求めた。

 又、94年の大統領離任演説で、「われわれは外国で自分たちがどう見られているかばかりを考えるべきではない。もっと重要なのは、鏡に映る自分の姿に何を見い出すかだ」とも述べている。

 国防政治学者、藤原帰一氏は、「過去の正当化によって現在の信用を失う。歴史問題をめくる論争が自国の犠牲者に焦点を当て、他国の犠牲者をみる視点が乏しい。自国の国民の受難を語る一方で、他の国民がどのような経験をしたかが語られることが少ない」と。

 元オーストラリア首相のJ・ハワードは、「先住民迫害の歴史」に対して、「国家というものは、自国で過去に起きたことについて客観的に対処するしか選択の余地はない。忘れることはできなくても、過去は水に流せると信じている」と語っている。

 法律社会のアメリカでは、謝罪すると責任を認めたことになり、裁判では不利になっていた。何もかも訴訟で解決しようとし過ぎてアメリカ人は素直に謝れなくなっている。

 今アメリカは法律より前に、人として謝ることが大切だと気付き始めている。

 1974年以降制定された、「アイムソーリー法」は、医療現場や交通事故で謝罪の言葉を述べても裁判で不利な証拠にならないという法律が、現在36州で制定されているとのこと。

 昨年の米大リーグ、ヤンキースの田中投手は、「この時期に力になれないことを、ファンの皆様に謝ります」と。

 これに対するアメリカ人の反応は、「日本の文化は素晴らしい」、「RESPECT(尊敬するぜ)」「日本の紳士的な姿を真似したい」などと報じた。そして今アメリカでは、「忘れていた過去を突然謝罪するブーム」が起こっているとのこと。例えば、「35年前のあの時の事を心から謝りたい」とか。(2月27日TBS『所さんの日本の出番』より拝借)

 戦争責任、歴史認識は、中国、韓国、フィリピン、米・欧の問題である以前に、我々日本人の問題として何も解決されずに残っている。

 憲法の精神をいとも簡単に閣議決定で踏みつぶし、横暴の限りを尽くしている。

 安倍首相はいったい何のために誰に向かって新しい談話を出すのか。その基礎となるものは、戦前の日本の行為についての明確な認識と反省である。それをあいまいにしたまま、未来を語っても説得力は生まれない。


 日本には神話の時代から、罪・汚れは時間と流れに従って浄化されるという、いわゆる「水に流す」文化もある。

 善・悪、白黒つけたままで狭い島国にいるよりも、水に流して一緒に暮らしていく方を選択してきた。水に流す側はあくまでも被害者の側であって、加害者の側ではない。

 ハワイオアフ島には、今も「NEVER FOGET PEARLHARBOR」と刻まれている。



 06 07 (日) 構想力欠く安保法案、禍根残す   (日曜に想う)特別編集委員・星浩

時の政治権力の御用機関に堕してはならない。 殊にジャーナリストに携わる人、学者、評論家、の人々にはあらゆる情報を収集し分析しマクロの立場からミクロで判りやすい解説を発信し続けてほしい。

一般市民の判断は、自分を取り巻く情報を受け取る側にある。 情報発信側と情報受信側によって社会全体の動きが変わる。

いわゆるプロパガンダに乗せられることが繰り返し押し寄せているのです。

安倍さんになってから、日本の進む方向が偏ってきている。




2015年6月7日05時00分 (日曜に想う)
構想力欠く安保法案、禍根残す
   特別編集委員・星浩
   http://digital.asahi.com/articles/DA3S11795854.html

 国会議事堂3階にある衆院第一委員室。政治とカネや増税などをめぐり、攻防が繰り広げられてきた。戦後政治の歴史が刻まれている。新たな安全保障関連法案を審議する特別委員会(浜田靖一委員長)の論戦の舞台も、この部屋である。これまでの質疑で気になった点をあげてみたい。

 まず、ペルシャ湾での機雷掃海。安倍晋三首相の説明では、紛争が発生してホルムズ海峡が機雷封鎖され、日本に中東の原油が届かなくなれば「存立が脅かされる」から、集団的自衛権を行使して自衛隊の掃海艇が出動、機雷を除去する可能性があるという。機雷封鎖が続けば「日本国内で消費する原油のうち8割が滞る」そうだ。

 一方、外務省によると機雷封鎖によって中国も4割の原油が来なくなる。多くの国が深刻な影響を受ける。国際社会全体の問題となるのだ。国連も動くだろう。各国が協力して停戦を実現し、その中で日本が掃海艇を出す場面もあるかもしれない。それは集団的自衛権というより、国際的な枠組みでの自衛隊の活動となる。特別立法が必要となるが、与野党が対立して成立に手間取ることはないだろう。半年分ある石油備蓄が枯渇するとは思えない。

     *

 次に後方支援。法案では、日本の安全のために活動する米軍などへの後方支援が可能になる。これまでは「非戦闘地域」といった制限があったが、こんどは「現に戦闘をしている現場」以外なら活動できるようになる。

 新しい日米ガイドライン(防衛協力の指針)の英語版では、「後方支援」を「logistic support」と記している。通常は「兵站(へいたん)」と訳される。武器・弾薬の補給や兵士の輸送をする任務だ。日本側は、前線から離れた「後方」で支援するから安全だと強調するが、米国は前線への補給を続けてくれる「兵站」と受け止めている。そんな言葉の使い分けがまかり通っているように思える。

 自衛隊の安全は確保できるのか。国連のPKO(平和維持活動)などでの経験が豊富な伊勢崎賢治・東京外大大学院教授によると、最近の紛争地では前線よりも後方が格好の標的になるケースが多いそうだ。さらに伊勢崎氏は「紛争地では各国の軍隊の宿営地に住民が逃げ込み、それを武装勢力が追いかけてくることがしょっちゅうある。自衛隊の宿営地でそんな事態が起きたらどうするのか」と心配する。

 国際情勢を冷静に分析し、日本の貢献策を練り上げる。そんな構想力が安保法案には欠けている。

     *

 そして、法案が抱える最大の問題点は国民の理解があまりにも不足していることだ。自民党で安全保障問題に長年取り組んだ山崎拓・元副総裁から、こんな経験談を聞いた。

 安保法案の説明に来た防衛省の担当者が、ため息まじりで打ち明けたという。「自民党の会合で法案の説明をした時、『この法律が成立したら、自衛隊が北朝鮮に乗り込んで拉致被害者を奪還できるのか』という質問が出た。それも一度ならず、数回あった。我々が『できません』と答えると、議員たちはがっかりした様子だった」。政治家が法案の内容を分かっていないのだから、有権者に理解しろと言っても無理な話だ。

 11本の法案が提出されている。1年に1本、10年以上かけてじっくり審議してもおかしくない重いテーマだ。拙速な審議や採決は将来に禍根を残す。

 衆院第一委員室といえば、こんな思い出がある。1988年2月6日。土曜日だったが、当時は国会審議をしていた。予算委員会が開かれていて、私は記者席にいた。夕刻になって突然、浜田幸一委員長が暴言を吐き、委員会が大混乱。浜田氏は辞任に追い込まれた。くしくも、特別委の浜田靖一委員長は幸一氏の息子。これまでのところ「委員会運営は紳士的で公平」と与野党から評価されている。

 国会は何が起こるか分からない。


 06 07 (日) 用語解説   理解のためのキーポイント

日中関係を最大関心事として日本は進まなければならない。 世界の趨勢は金融を中核として多極化している。 ここではニュースや解説を確かな理解にするため、キーポイントになる次の用語を検討したい。

   ① 鄧小平の24字戦略から積極政策へ
   ② 多極化
   ③ QE=量的金融緩和政策



用語解説 24字戦略
① 鄧小平の24字戦略から積極政策へ
     http://doyu-kumamoto.gr.jp/special/teigen/2687/

孫子の兵法をはじめ、中国の長い歴史は多くの戦略家を生んできました。私は軍事・外交の専門家ではありませんし、この小文をお読みいただいている皆さんの多くも、おそらくそうであると思いますが、孫子に由来する格言のいくつか(たとえば「彼を知り己を知らば百戦して殆(あや)うからず」や「風林火山」など)は、皆さんもよくご存じであると思います。

さて、21世紀に入り、軍事的にも、政治的にも、経済的にも、超大国への道をひた走る中国ですが、現在の隆盛に至るグランドデザインが鄧小平の改革開放路線であることは論を待たないでしょう。他方、着々と軍事力増強を進める中国の軍事及び安全保障についての基本戦略がどのようなものであるか、必ずしも明らかではないようです。米国では、国防総省が、毎年「中華人民共和国の軍事力」という年次報告書を議会に提出しており、その2008年版を財団法人日本国際問題研究所が邦訳しています。

この報告書の第2章「中国の戦略を理解する」の冒頭に引用されているのが、1990年代初頭、当時の最高指導者である鄧小平が外交・安全保障政策関係組織に発した、「24字戦略」として知られることになる指示です(「24字方針」、「24字箴言」などとも呼ばれるようです)。それは次のようなものです。

「冷静観察、站穏脚踵、沈着応付、韜光養晦、善於守拙、絶不当頭」

「冷静に観察せよ、我が方の立場を固めよ、冷静に事態に対処せよ、我が方の能力を隠し好機を待て、控えめな姿勢をとることに長(た)けよ、決して指導的地位を求めるなかれ」。

(本来は、「簡体字」で書かれているのですが、ここでは適宜、相当すると思われる日本の漢字に置き換えています。また、米国議会報告書の邦訳ですので、中国語を英語経由で重訳したことになり、ニュアンス等が異なるかもしれません)。

上記報告書は、鄧小平の指示を、「不必要な挑発の回避、過度の国際的負担の回避、及び長期的な中国の国力構築を通じ将来のオプションを最大限に広げるための戦略を示唆するもの」と解釈しています。また、意図と能力を隠そうとする努力を暗示するものだとも指摘しています。この方針が出された時期は、天安門事件における中国政府の対応が国際社会、とりわけ欧米諸国から厳しく批判されていた時期に当たりますから、当面の難局を乗り切るための便法(例えば、欧米の批判に反発して国内の排外的ナショナリズムが噴出し、それが欧米の更なる批判を招くことを防ぐ、というような)かもしれませんが、「意図と能力を隠す」ということ自体が長期的な戦略であるのかもしれません。いずれにせよ、冷徹なリアリストの言であるというべきでしょう。

1997年の行政改革会議「最終報告」は、国政における「総合戦略機能」を強化するため内閣機能の強化策を提言し、これが法制化されて2001年からスタートしています。また、このたび成立した鳩山内閣は、「国家戦略局」の設置を予定しています。「戦略」という軍事用語からは大軍を動かす勇ましいイメージが浮かびますが、実際には、何をあきらめ、何を行わないことにするかという苦しい判断こそ、その中核をなすものかもしれません。鄧小平の24字戦略は、こういった意味でも興味深いものだと思います。

「中国積極防御軍事戦略の変遷」  齊藤良(さいとうまこと 2等陸佐)
   http://www.nids.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j13-3_2.pdf

   このレポートの はじめに と おわりに を参考に取り上げてみる。

〈要 旨〉

 中国の軍事戦略は「積極防御」であり、この戦略は戦略上の防御と後発制人(攻撃を受けたのちに反撃)を堅持し、戦役戦闘上は積極的な攻勢行動と先機制敵の採用を重視している。本稿は積極防御軍事戦略の変遷を時系列に考察し、防御性と攻撃性が併存している軍事戦略を人民解放軍が採用した経緯を明らかにする。

 毛沢東の創始した積極防御軍事戦略は、全土をあげて戦う反侵略全面戦争では後発制人を原則とし、戦略上は防御的であるものの、戦闘地域、戦争目的が限定される局部戦争のような戦略レベルより一段下位の戦役レベルでは先制攻撃を含む積極的な攻勢を是とした。

 ソ連との対立が終了し、全面戦争の危険は遠のくと、中国の軍事上の関心は局部戦争に移行し、局部戦争は戦役レベルから戦略レベルへと引き上げられた。このため、「後発制人」は後景に退き、攻勢と先制が一層前面にでることになった。

 また、現代の情報化戦争では先制攻撃が有利であり、「後発制人」が成立しないことをふまえ、人民解放軍は「情報化戦争」と「後発制人」のロジックの整合を試みている。

はじめに

 中国は、毛沢東が創出した積極防御軍事戦略を現在も堅持している。積極防御について、中国の国防白書『中国の国防2008』は、「中国は積極防御の軍事戦略を実行し、戦略上は防御、自衛および後発制人(攻撃を受けた後に反撃)の原則を堅持する」と説明している。この説明からは、通常、中国の軍事戦略は攻撃的ではなく、防御的であるというイメージをもつであろう。

 しかしながら、米国国防省が毎年議会に提出している中国の軍事力に関する報告では、中国が先制攻撃を行った朝鮮戦争やインド、ソ連およびベトナムとの国境紛争を例にあげて、積極防御軍事戦略における「後発制人」の原則に対し疑念を提起している。この疑念は2004年の報告から2010年の報告まで毎年提起されている。

 後発制人と先制の関係について、人民解放軍は否定しているわけではなく、人民解放軍の著名な研究者で、国防白書の執筆者でもある軍事科学院の陳舟上級大佐は中国共産党中央党校の機関紙『学習時報』で、「戦略指導においては、戦略上の防御と後発制人を堅持し、戦役戦闘上は積極的な攻勢行動と先機制敵の採用を重視する」と、説明している 。ただし、陳舟上級大佐は、このような二律背反的な表現について更なる説明はしていない。

 本稿では、積極防御軍事戦略の変遷を時系列に考察し、防御性と攻撃性が併存している軍事戦略を人民解放軍が採用した経緯を明らかにする。第1章では毛沢東が創始した積極防御軍事戦略が確立されていく過程を、第2章と第3章では安全保障環境の変化に応じて積極防御軍事戦略が変容していくと同時に矛盾も発生する過程を、第4章ではその矛盾について考察する。

 なお、積極防御軍事戦略に関する研究状況については、当然ながら研究の層が厚いのは中国であり、本稿でも主として人民解放軍の研究者の論文を参考にした。しかしながら、彼らの論文からは積極防御軍事戦略の二律背反性についての論理的な説明は得られなかった。日本においては、鄧小平期の積極防御については平松茂雄の論文に詳しく、江沢民期以降については、浅野亮が詳細に分析している。本稿は平松、浅野の論文も参考にした。

(中略)

おわりに

 本稿では、防御性と攻撃性が併存している軍事戦略を人民解放軍が採用した経緯を考察した。

 その結果、大規模な反侵略全面戦争を想定していた時期は、「後発制人」の原則を遵守していたものの、先制攻撃を含む攻勢を是とする局部戦争に重点が移行したために、「後発制人」の原則が後景に退き、「先機制敵」がより前面に出るようになったことを明らかにした。

 また、現代の情報化戦争では「後発制人」が成立しないことをふまえ、人民解放軍は「情報化戦争」と「後発制人」のロジックの整合を試みていることも明らかにした。

 本文でもふれたように、中国は「情報化条件下の局部戦争に勝利する」ことを目指している。「局部戦争」の「局部」は陸上、海上、空中にとどまらず宇宙空間、電磁空間、サイバー空間、心理空間も含んでいる。よって、局部戦争においては「先機制敵」を追求しているのであれば、当然上記の空間においても先制攻撃を準備しているのである。



用語解説 多極化 2013年11月1日 田中宇
② しだいに多極化する世界
     http://tanakanews.com/131101multipolar.htm

 田中宇といえば「多極化」だ。最近の私の記事は「多極化中毒」と揶揄されかねない状態だ。http://tanakanews.com を見ると、多極化や、その反面である米国覇権の衰退について何らかの言及をした記事がほとんどで、最近とくにその傾向が加速している。今回の記事の題名も「しだいに多極化する世界」で「中毒」がひどくなっている。グーグルで「多極化」を検索すると、上の方に私の記事が出てくるので、日本で多極化というと田中宇だ、といえるかもしれない。

 なぜ私が多極化の話ばかり書くかというと、それは多極化や覇権体制の変動が、国際情勢の根幹に存在するもので、しかも、米国の覇権が崩れて世界が多極化する傾向が、最近強まっているからだ。2001年の911事件までの、米国中心の覇権体制が比較的安定していた時期には、世界のマスコミや言論界が覇権体制に言及することは少なかった。政治経済の体制が安定していると、多くの人に、その体制が未来永劫、不変に続くものに見える。現体制が、いくつもあり得る体制の中の一つにすぎないと考える人は少なく、体制分析が出てきにくい。 (The de-Americanisation of the world has begun - emergence of solutions for a multipolar world by 2015)

 しかし今のように、米財政危機でドルや米国債の国際信用が揺らいだり、米国がシリア問題の主導役をロシアに任せたり、サウジアラビアの外交担当王子が米国を見放す発言をしたり、国連など国際社会で中露の発言力が拡大したり、米国が持つインターネットの管理権をBRICSや国連が奪おうと動き出したりすると、米国が覇権を持つ世界体制が崩れ、世界が多極化(multipolarization)しつつあるという指摘が国際的に出てくる。「数年前まで、米国の覇権が終わると言うと失笑されたものだが・・・」という言い方をあちこちで読むようになった(日本では、もしかすると今でも失笑を受けるかもしれないが)。 (中東政治の大転換)

「歴史的に見て、金本位制など物質的な支柱を持たず覇権国への信用のみが支柱の『亡霊通貨』になった基軸通貨の寿命は、だいたい40年だ。ドルは1970年代のニクソンショックで亡霊通貨になってから42年だ。ドルの基軸通貨としての歴史は、すでにポルトガルやオランダが覇権国だった時の両国の基軸通貨の寿命より長い」とか「世界中が基軸通貨で財産を貯めようとする結果、基軸通貨は為替が強く国債金利が低くなり、借金と消費(輸入)がしやすくなる。今の米国が、借金による消費漬けで、製造業が弱いのは、覇権国だからだ。ドルと米国債の崩壊を容認し、覇権の重荷を放棄した方が、米経済は蘇生できる」などという指摘も出てきた。英文情報の世界で米覇権衰退と多極化についての言及が増加したため、今回の記事を書こうと私は考えた。 (An Exorbitant Burden)

 足下の経済状況を見ると、米国の株式相場は史上最高値の水準だし、米国債も高値(金利安)で、まったく危なそうに見えない。これだけを見ると、米国覇権の失墜や多極化の予測は「失笑」の対象だ。しかし同時に言えるのは、米連銀がリーマン危機再発防止策として続けている、ドルを大量発行して米国債やジャンク債を買い支えるQE(量的緩和策)が、株や債券を押し上げており、QEをやめたら株も債券も下がることだ。連銀の買い支えに依存して、米国ではリーマン危機前を超える空前の規模でジャンク債が発行されている。今の相場は、QEバブルが膨張しており、バブルの規模は史上最大だ。史上最大のバブルがはじける時、史上最大の金融危機が起きる。 (Jim Rogers: 'Catastrophe' Coming, Thanks to Central Banks) (◆米連銀はQEをやめる、やめない、やめる、やめない)


 最近、日本の当局が米国債を大量に買い増している。これは「日本が対米従属のため、米国債が崩壊に瀕しているのを知りながら買い支えている」と考えることもできるが、そうではなくて「世界の中央銀行や投資家が、米国債の危険を懸念して買い控え、代わりに円を買って日本国債を買うので、日本政府は円高回避のため、反対売買として米国債を買わざるを得ない」と考えることもできる。世界が買わない分の米国債を買い支える最大の勢力は、日本でなく、QEを続ける米連銀だ。どちらにしても、米国債の国際信用が落ちていることに違いはない。

 ドルの代わりの基軸通貨体制として以前から注目されているのが、IMFのSDR(特別引き出し権)など、数種類の諸大国の通貨(ドル、ユーロ、円、人民元など)を加重平均した「バスケット型」の通貨単位だ。第二次大戦中に英国の学者ケインズ(MI6要員)らが構想した、金地金や原油など、数種類の国際相場商品(コモディティ)の価格を加重平均した「バンコール」など商品バスケットを、通貨バスケットと合わせて基軸通貨単位にする構想もある。

 これらバスケット型の基軸通貨に対する批判は、ドルが単一の通貨でわかりやすいのと対照的に、バスケットは複雑で、投機筋が通貨や商品の相場を乱高下させてバランスを崩すことで、通貨体制が壊されやすい点だ。ドルは紙幣として広く流通しているが、SDRは紙幣化されておらず、国家間の取引で名目的に使われているだけだ。IMFがSDRの紙幣を発行するとしたら、その前提としてIMFで主導権を持つ米国が、ドルの基軸性をSDRに移譲することに同意する必要がある。米国がその同意をするとは思えない。 (Support for 0.5% Tax on Wall Street Trading Grows in Congress)

 しかし世界では今、これらのSDRの難点となる状況を変えようとする動きが進んでいる。その一つは、金融取引課税(トービン税)やタックスヘイブン課税による、投機筋の監視・抑止体制の強化だ。欧州ではすでに、大口の金融取引に0・5%の課税をすることが決定している。米議会でも最近、同様の課税をしようとする動きが開始された。従来、投機筋はどこの国の当局にも知られず活動できたが、課税されるとなると、当局に逐一動きをつかまれ、防御策を張られて投機ができなくなる。金融課税強化を「自由市場を壊す」と批判する主な勢力は、金融界傘下の人々だろう。 (BANK France central bank chief says Robin Hood tax is `enormous risk')

 また、IMFやその上位機関である国連における米国の主導権は、中露などBRICSによって剥奪されかけている。国連を主導する安保理事会では、米英仏と中露が拮抗して決定ができない事項が増え、その分、いままで力を削がれていた国連総会の多数決の決定力が増している。多数決なら、先進国より途上国の方が圧倒的に数が多いので、BRICSと途上国の非米連合体の主張が通る。 (国連を乗っ取る反米諸国)

 IMFで中国など非米諸国の発言権を拡大する策は、何年も前に決定しているのだが、米国の拒否で進まなかった。しかし今後は、いずれIMFの構造も多極化(BRICS化)されていき、投機筋を抑止して、金融市場の国際管理を強め、SDRを基軸通貨にできる前提が形成されていくのでないか。

 以前なら「自由市場」こそ人類のためになるという考え方が世界的に席巻していたが、リーマン危機後、自由市場は米欧金融界の儲けにしかなっていないという見方が広がり、国際市場の管理強化への抵抗感も減っている。従属好きな人々が「代わりの通貨がないのでドルは安泰だ」と高をくくっている間に、ほとんど報じられないまま、通貨の多極化への準備が静かに進んでいる。

 予定されている多極型通貨体制では、日本の円も基軸通貨の一つに数えられている。だが日本政府自身は、できるだけ長く対米従属を続けたいらしく、多極化の動きをできる限り無視して、自国の国際力をあえて弱めている。日本は以前、自他ともに「経済大国」を称していた。対米従属だし敗戦国なので「国際政治大国」ではありません、という意味で「経済」が「大国」の前に必ず入っていた。しかし今の日本は「大国」を自称するのをやめて、大国性を失った(もしくは、震災や原発事故でそれどころでない)ので「取り戻す」必要があると称する国になっている。安倍政権の「日本を、取り戻す」という標語は、日本の自己格下げして、多極化される世界の中で大国とみなされないようにする「覇権のがれ」「いないふり」の策に見える。 (ドイツ脱原発の地政学的な意味)

 軍事の分野でも、米国の力は、静かに自滅的に削がれている。軍事で最も重要な分野は、兵器の性能ではない。最重要なのは、敵性国や同盟国の中枢が何を考え、どう動きそうかを早く把握する諜報の技能である。今の世界における諜報の中心は、007やハニートラップ的な人的スパイ行為よりも、最近騒がれている米国の「NSA」がやっている信号傍受、通信の盗み見などの信号諜報だ。

 元NSAのエドワード・スノーデンによる連続暴露で、NSAが世界中の人々の私的な通信を盗み見していることが国際問題になり、怒ったドイツやブラジルが国連などで通信の盗み見を禁止する国際体制作りに動き出している。中国とロシアも、NSAを抑止した後の世界の通信管理体制の構想を、国連に提出した。ブラジル主導で、BRICSが米国を回避したインターネット網を構築する計画も完工間近だ。これらの動きは、米国の軍事力の根幹に位置するNSAの信号諜報の力を劇的に低下させかねない。 (China to reap harvest of NSA scandals)

 また、ドイツやフランス、イタリア、スペインというユーロ圏の4大国が、NSAによる盗聴が発覚して怒っていることは、米国とEUの同盟関係を崩しかねない。もともと来年にはNATO軍がアフガニスタンから撤退し、その後のNATOは米国と欧州が乖離していきそうだと予測されてきた。欧州はEU統合の一環としての軍事統合を進めており、これが具現化するとNATOの必要性が低下する。中東で唯一のNATO加盟国であるトルコも、NATO(米国)に見切りをつけるかのように、NATOのシステムと合わない中国からの地対空ミサイルシステムの購入を決めている。トルコの諜報部は、米国の同盟国であるイスラエルを犠牲にするかたちでの、イランとの連携も強めている。NSA騒動は、もともと崩れかけているNATOの崩壊を早めそうだ。 (Turkey must show allegiance to west as doubts rise over ties) (Turkey blows Israel's cover for Iranian spy ring)

 中東では、サウジアラビアの外交担当のバンダル王子が米国からの離反を表明したことも、米国の覇権体制を危機にさらしている。サウジは、その産油余力ゆえに、世界最有力の産油国である。サウジが原油をドルだけで決済し、石油収入のほとんどを米国の金融界に投資してきたことが、ドルの基軸性を支えてきた。 (◆米国を見限ったサウジアラビア)

 サウジが米国を見限る動きに出たのは、米国がサウジをいじめすぎたからだ。米国はアラブ諸国の「アラブの春」の民主化・政権転覆活動を支持してきたが、アラブの春を放置すると、いずれサウジでも王政の独裁と、王室による石油収入の独占を批判する声が強まり、王政転覆につながりかねない。米国は、サウジのとなりのイエメンで「アルカイダ退治」と称して武装勢力への無人機による空爆を続けており、これがイエメンを混乱させ、本当にアルカイダの巣窟にしてしまいかねない。イエメンの不安定化は、サウジの不安定化となる。米国がバーレーンの反政府運動を容認していることも、サウジの危機を扇動している。 (End western deference to Saudi petrodollars)

 サウジの米国離れの原因は、オバマがシリアのアサド政権やイランとの関係を改善する動きをしたからと報じられている。しかし、サウジにとってイランの台頭よりもっと危険なのは、アラブの春の伝播やバーレーンやイエメンの混乱といった、王政転覆につながりかねない流れの加速だ。それらの流れを止めるには、サウジ王政が対米従属から離れ、米国から批判されてもバーレーンやエジプトの民主化を逆流させ(サウジは、エジプト軍部に金を出してクーデターさせた)、米軍にイエメンから出ていってもらうのが良い。

 サウジが米国離れを表明する前から、中国やロシアがサウジと親しくなりたがっている。最大の石油消費国が米国から中国に移り、世界の石油利権の管理者が米英から中国やロシアなど非米諸国に移りつつある。そのような今、中露と組んだ方が、石油の国際市場の管理や、自国の王政維持に好都合だとサウジが考えるのは当然といえる。 (反米諸国に移る石油利権)

 米政界で強いタカ派は反サウジ的で、サウジの離反は望むところだという反応が強い。今後サウジが本気で米国から離反すると、ドルの基軸性崩壊と、覇権と通貨の多極化の加速につながるだろう。世界では、目立たないが不可逆的に多極化が進んでいる。



Google QE(Quantitative easing)
③ QE=量的金融緩和政策
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E7%9A%84%E9%87%91%E8%9E%8D%E7%B7%A9%E5%92%8C%E6%94%BF%E7%AD%96

量的金融緩和政策(りょうてききんゆうかんわせいさく、Quantitative easing、QE)とは、金利の引き下げではなく中央銀行の当座預金残高量を拡大させることによって金融緩和を行う金融政策で、量的緩和政策、量的緩和策とも呼ばれる。

平時であれば金利を下げていけば、経済刺激効果が出て景気は回復するが、深刻なデフレーションに陥ってしまうと、政策金利をゼロにまで持っていっても十分な景気刺激効果を発揮することができない[1]。そこでゼロ金利の状態で、市場にさらに資金を供給するという政策である[1]。

日本銀行が2001年3月19日から2006年3月9日まで実施していた。本稿では主に日本について記述するが、この他、アメリカのFRBによるQE1(2008年11月-2010年6月、1兆7250億ドル)、QE2(2010年11月-2011年6月、6000億ドル)、QE3(2012年9月-、月額400億ドル)がある。

概要[編集]

市中銀行は日本銀行に置いてある当座預金残高の額に比例して融資を行うことができる。量的金融緩和政策とは、この当座預金の残高を増やすことで、市中のマネーサプライ(マネーストック)を増やそうとする政策である。

日銀が公開市場操作で銀行等の金融機関から国債や手形を買うことで資金を供給し、市中に出回る資金の量が増えて、金利が低下し、金融緩和となる。公開市場操作での債券の売買に応じるかどうかは民間金融機関の自由であり、金融機関から申し込まれた金額が、入札予定額に達しない札割れと呼ばれる現象も起きている。資金供給オペレーションでの札割れは、十分な資金が金融機関に供給されていることを意味する。日銀当座預金は利子がつかないため、金融機関が余った資金を市場での運用や融資に振り向けるので、年0.15%に誘導されていた無担保コール翌日物の金利が0%近くまで低下し、事実上のゼロ金利政策ともなっている。銀行に大量に資金を供給することで金融不安を抑制したとも言われる。

日銀は生鮮食品を除く消費者物価指数の前年比上昇率が安定的に0%以上になるまで続けることを約束した。このことにより、消費者物価が0%以上になるまでゼロ金利政策・量的緩和政策が継続されると予想されるので、より長い期間の金利も低下し、金融緩和の効果を高めるとされており、時間軸効果と呼ばれる。

経済学者のエドウィン・トルーマンは、経済学者のジェームス・トービン、ウィリアム・ブレイナードが共に取り組んだ資産市場に関する研究が「本質的に量的緩和の骨格になっている」と指摘している[2]。

経緯[編集]

マネーサプライの伸びは代表的な指標であるM2+CDの前年比の伸びが1980年代後半には10%を超えていたのに対して、1992年末頃には前年比でわずかながら減少し、その後も2-4%程度の低い伸びが続いていた。

1990年代に入ってからの日本経済では物価上昇率が低下し、とりわけ1999年頃以降は消費者物価が持続的に下落する状況となってデフレが問題となった。こうした状況を改善するために、物価上昇率を高める政策が求められていた。当初は、公共事業の増加などの財政政策によって需要を増加させて需要不足によるデフレギャップを縮小するという政策が志向されたが、状況は改善せず財政収支の著しい悪化を招いた。

金融政策は、そのほとんどの場合、金利(とくに短期金利)を目標に実施される。しかし、幾度かマネーサプライを目標にしたことがある。最も有名な例は、1970年代末期から1980年代初めにかけてFRBが行なった新金融調節方式である。このときの目的はマネーサプライの伸びを抑制しインフレーションを撲滅することであった。このため、目標にされなくなった金利は急上昇し、インフレ率は低下した。

日本銀行のアダバイザーであったジョン・テイラーは、1990年代から量的緩和政策の採用を助言していた[3]。

量的緩和は、金融政策決定会合の審議委員であった中原伸之によって提案され、2001年3月に初めて採用された[4]。

日銀による量的金融緩和は、マネーサプライの伸びを促進しデフレを撲滅することが目的であった。この政策はインフレ抑制の場合と違い金利がゼロ以下にならない制約があるため効果発揮への期待が薄かった。さらに、すでに名目金利はゼロ近くに誘導しているところにデフレが進行したため、実質金利を引き下げる手立てが無くなり、従来型の金融政策の打つ手はこれ以上考えられなかった。

作用・副作用がわからない、この政策を実施せざるを得なくなったのは前年の政策ミスが背景にあった。2000年8月、日銀は日本経済の見通しが明るいとしてゼロ金利政策を解除した。金利機能を取り戻したいと言う日銀たっての希望の下での決定であったが、2000年秋からITバブル崩壊後の厳しい設備投資後退で景況は急速に悪化していった。このため、早くも半年後に政策転換を余儀なくされる結果となった。議会などからは、日銀の政策錯誤への責任を問う声が上がり、独立性を侵害されかねない状況となった。このような状況下において、より強力な金融緩和姿勢を表す量的緩和が実施されることとなった。

量的金融緩和政策の採用によって日本銀行の当座預金は、2001年2月頃の4兆円程度から徐々に引き上げられ、最大では30兆円から35兆円に維持することが政策目標となった。これによって、マネタリーベース(ベースマネー、ハイパワードマネー)の伸びは大きく高まったが、ITバブル崩壊の影響から投資案件の低迷もあり、これらの資金の多くは国債の購入に振り向けられマネーサプライ(例えばM2+CD)の伸びは低迷を続けた。

2006年3月、日銀は「消費者物価上昇率が0%より上回った」とし、量的緩和政策を解除した[5]。当時、竹中平蔵総務大臣と中川秀直自民党政調会長は量的緩和解除に反対していたが、与謝野馨経済財政担当大臣の後押しもあり、日銀は量的緩和解除を強行したとされる[5]。

効果を巡る議論[編集]

物価の下落はマネーサプライの伸びの低迷が原因であるという貨幣数量説的な意見が世界の経済学者を中心に強まった。日本の潜在成長力は実質2%以上あり2%程度の物価上昇率を前提とすれば、マネーサプライの伸びは少なくとも4-5%は必要であり、マネーサプライが低いのは日本銀行の金融緩和が不十分であるというもの指摘があった。これに対して日本銀行は、政策金利は十分に低く金融は極めて緩和的であり、とりわけゼロ金利政策に至った後はこれ以上政策金利が引き下げられない以上、金融緩和はほぼ限界に達しているという見方をしていた。

経済学者の中から、準備預金制度によって義務付けられている所要準備額を大幅に上回る資金を日本銀行の当座預金に供給すれば、結局はマネーサプライが増加するはずだという見解が表明されるようになった。日本銀行が過剰な準備預金を供給すれば、銀行は無利子の資金を大量に保有することになるが、そのままにすれば収益機会を見逃すことになるので、この資金を貸し出しや株式の購入や土地などへの投資に使うはずであるという、貨幣乗数論のような考えである。

量的緩和政策の効果については様々な期待が持たれ具体的には、

1.世の中のマネーの総量が増えインフレ期待が高まり、デフレからの脱却が可能となる
2.ゼロ水準の短期金利が長期間に渡って続くという期待が強まり、長期金利が低下し景気を押し上げる(時間軸効果)
3.日銀当座預金が高い水準を維持することによって、銀行の資金繰りが滞ることがなくなり金融システムの不安が回避される

といったものが挙げられる[6]。

また、ポートフォリオ・リバランス効果[7]、為替を減価させる効果、資産価格を押し上げる効果などが挙げられる[8]。

速水優日銀総裁は「ゼロ金利・量的緩和は、企業経営の危機感を失わせ構造改革を阻害する」と述べていた[9]。

日銀が2001年3月から2006年3月まで実施した量的緩和政策について白川方明日銀総裁は記者会見で「金融システムの安定を維持する上では大変効果があった」とする一方で、景気を押し上げていくという面では「効果は限定的だった」との見解を示した[10]。白川は、ゼロ金利・量的緩和は、不良債権処理を支援する政策としては大きな効果があったとしている[11]。

学者の見解[編集]

日銀企画局参事役の鵜飼博史の文献(2006年)によると、イールドカーブの押し下げ効果は明確に確認され時間軸効果は十分に機能した、マネタリーベースの補強(コミットメント)は一部にリスクマネー化(ポートフォリオ・リバランス)を生じたが、コミットした分量よりは効果が小さかったとし、金融機関については資金繰り不安を払拭することができたが、総需要・物価への直接的な押し上げ効果は限定的で、むしろ企業のバランスシート調整による影響が大きいとしている。

経済学者のジョセフ・E・スティグリッツは「量的緩和がわずかでも効果を持ちうる点は、住宅ローンの金利を低下させることである。これは不動産価格を維持する助けになる。量的緩和はおそらく弱いものだろうがバランスシート効果をもたらす」と指摘している[12]。

経済学者のアダム・S・ポーゼンは「日本の量的緩和策は正しいサインを送ったが、それだけで高いインフレは起こせなかった」と指摘している[13]。

経済学者の伊藤修は「日銀によるゼロ金利政策、量的緩和政策でもマネーサプライは増えなかった」と指摘している[14]。

経済学者の翁邦雄は「市場にマネーを供給する量的緩和と物価が上がることの間に、理論上の結びつきはない」と指摘している[15]。

経済学者の池尾和人は、非伝統的金融政策について、市場が機能不全となっている金融危機においては効果を発揮するが、平時においては景気刺激の効果は少ないというのが経済学的コンセンサスであるとしている[16]。

経済学者の高橋洋一は「日本の量的緩和は不徹底であったため、デフレから脱却できなかった」と指摘している[17]。

経済学者の岩田規久男は「量的緩和としておきながら、マネタリーベースの増加率は5年間で年率12%しか増えなかった。この程度の量的緩和では、貨幣はデフレ脱却に必要なほど増えないし、デフレ脱却に不可欠であるインフレ予想も生まれない。量的緩和の期間中、貨幣は11%しか増えなかった」と指摘している[18]。

経済学者の飯田泰之は「日銀は自身でゼロ金利政策・量的緩和政策を実施しながら、効果に疑問を呈する発言を重ねてきた経緯がある」と指摘している[19]。 経済学者の森永卓郎は「戦力を逐次投入する形での小出しの金融緩和は、デフレ政策の継続にほかならない」と指摘している[20]。

エコノミストの片岡剛士は「実証研究では、量的緩和は日本の場合でも微弱ではあったが効果はあった。そして量的緩和は、デフレ予想の深刻化に歯止めをかけ、資産価格の上昇をもたらすことで総需要の回復を後押ししたという結果が得られている」と指摘している[21]。経済学者の本多佑三は、「日銀が採用した量的緩和政策が、株価の変動を通じて生産に影響を与えた」と指摘している[22]。経済学者の田中秀臣は「2004年には、それまでのデフレ予想が急速に改善していった」と指摘している[23]。飯田泰之は「2001-2006年のゼロ金利・量的緩和政策によって、マイナス1%のデフレから0%まで、失業率は5%後半から4%前後まで下がっている」と指摘している[24]。

片岡剛士は「量的緩和策により貨幣供給が進めば、短期的には流動性が高まることで名目金利が低下する効果が見込めるが、名目金利の低下は耐久消費財や資産の購入を刺激することで実質所得の増加や物価上昇につながっていく。そして実質所得の増加は貨幣需要の増加につながり、物価上昇は実質貨幣残高を減少させるために長期的には名目金利が上昇する。更にフィッシャー効果によっても名目金利は上昇する。こうして短期的には流動性が高まることで名目金利は低下するが、経済の回復が進む長期では名目金利は上昇する」と指摘している[25]。

経済学者の原田泰は「金融緩和によってお金を増やせば、必ず物価が上がり、名目GDPも増加する。いくら緩和しても貸出が増えないから景気は良くならないという主張は誤りである。金融緩和の効果は貸出を通じてのものだけではない。金融緩和によって為替が下がる。輸出企業が復活し、リストラをやめる。賃金の総収入が上がるのだから消費が増える。地場の産業にもお金が落ちる。この過程で税収が上がる[26]」「金融緩和の目的は雇用を増やすことで賃金を上げることではない。勿論、金融緩和で雇用が伸びて、失業率が下がっていけば、いずれ賃金は上がる。しかし、雇用が伸びる前に賃金を上げては、かえって雇用の伸びを妨げることになりかねない[27]」と指摘している。

経済学者の若田部昌澄は「論壇では『日銀の量的緩和政策に効果はなかった』という意見も多い。勿論、デフレが終わっていないのだから効果はまったく不十分だった。しかし、それはこれだけ長くデフレが続き、デフレ期待が根づいているのに日銀が適切な政策を怠ってきたつけでもある。逆に貨幣供給量を減らす政策よりははるかにましであった[28]」「日銀がいかにデフレ脱却的に見える政策をとっていても実際にはデフレ容認的なレジームなのではないか、という疑念を呼び起こした。具体的にはそれは、量的緩和期には生じていた予想インフレ率の上昇が下落に転じたことが証拠である[29]」と指摘している。

流動性の罠[編集]

池尾和人は「金融政策を研究している世界の専門家の間でも、ゼロ金利の制約下では量的緩和は効かないというのがコンセンサスである[30]」「ほとんど金利が付かない国債とマネーの入れ替えを大々的に行うことにほかならない。ほとんど金利が付かない国債とマネーは似たもの同士で入れ替えても劇的な影響が生じるかは疑問である[10]」と指摘している。

経済学者の齊藤誠は「ゼロ金利の制約下ではいくら貨幣供給をしても物価は上がらず、貨幣数量説が成り立つことはない」といった命題を数式で示している[31]。一方で高橋洋一は、齊藤の数式に一切手を加えず再計算し「貨幣供給すればインフレになる」という正反対の命題も同時に導き出せたとしている[32]。

「ベン・バーナンキ#バーナンキの背理法」も参照

高橋洋一は「名目金利がゼロ近辺になると名目金利の引き下げ余地はなくなるが、実質金利は予想インフレ率が高まればマイナスにできる。実質金利の引き下げ余地がなくなるということはない」と指摘している[33]。

岩田規久男は「日銀がインフレ目標の達成に説明責任を負ってコミットしなければ、量的緩和によってデフレ脱却を達成できない。量的緩和はあくまでインフレ予想の形成のための手段の一つに過ぎない」と指摘している[34]。

経済学者の星岳雄は「ある程度の効果はあったと考えるが、十分な量的緩和ではなかったためデフレを解消するには至らなかった。量的緩和自体が効かないというわけではない。量的緩和は将来の期待に働きかけることによってのみ有効性を発揮するものであるため、コミットメントが重要である。日銀の量的緩和では、消費者物価指数で見たインフレ率が安定的にゼロ以上になるまで量的緩和を解除しないという明確なコミットメントを発表したにもかかわらず、実際はまだデフレから完全には脱却していなかった2006年に量的緩和をやめ、ゼロ金利も同じ年に解除してしまった」と指摘している[35]。

「流動性の罠#合理的期待形成学派の対策」および「流動性の罠#議論」も参照

予想インフレ率と実質金利[編集]

「デフレーション#インフレ期待」および「デフレーション#金融政策」も参照

金融機関が、日本銀行に預け入れる無利子の預金のことを預金準備または準備といい、法律で自金融機関の預金の一定比率以上を預け入れることが定められており、この比率を超える超過準備のことをブタ積みという[36]。

池尾和人は「全体のおカネをさらに増やすと、動くおカネが増えると量的緩和論者は主張している。だが、私は死蔵されるおカネがさらに増えるだけである。量的緩和政策では、おカネは日銀の準備預金として貯まっていく。準備預金の保有者は民間金融機関だから、彼らが引き出さなければ、市中に出回って動くおカネにならない。では、準備預金を10兆円から30兆円に増やしたら、民間金融機関が引き出す意欲が増すのか。やはり違い、貸し出し需要が増えなければ、民間金融機関は引き出さない[37]」と指摘している。

「量的緩和を行っても日銀の準備預金が増えるだけで、おカネは市中には回らず消費も設備投資も増えない」という反論(ブタ積み論)について岩田規久男は「デフレ脱却のためには貨幣は増えなくてよい。景気回復が始まった2002年以降も貸し出しは2005年まで減っていたが、当時は企業はカネ余りの状態だったからである。しかし、企業の設備投資は増加していった。自己資金で設備投資をファイナンスした。今(2011年)も企業は貯蓄超過なので、貸し出しルートは問題ではない。予想インフレ率が上がると、死蔵されている貨幣の流通速度[38]が上がるからである。そうなると、いずれ貸し出しも増える。重要なのはインフレになるという期待であり、人々の期待に働きかけることである」と指摘している[39]。岩田は「金融政策で予想に働きかけることを不安視する声もあるが、金融政策は基本的に予想に働きかけるものであり、予想を否定する金融政策はありえない」と指摘している[40]。

池尾和人は「日銀の準備預金の残高を増やすとインフレ期待が高まるといった主張は正しくない。短期金利がゼロの状態では貨幣数量説は成り立たない」と指摘している[30]。

岩田規久男は「金融を緩和しているどうかは、名目金利ではなく、予想実質金利で判断されるべきである」と指摘している[41]。

ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンは「金融緩和によって名目金利が一定に抑えられていると、期待インフレ率が上がり実質金利は下がる」と指摘している[42]。

「量的緩和が予想インフレ率に波及する経路がない」との反論がある[43]。岩田規久男は「予想実質金利の低下が国債・株式・外国為替といった資産市場の市場価格の変化を引き起こす。こうした資産価格の変化が消費や実物資産投資、すなわち設備投資と住宅投資および輸出などの総需要を増やし、その総需要の増加が生産と雇用の増加をもたらすといった実体経済の変化を引き起こすまでには時間がかかる」と指摘している[44]。

高橋洋一は「量的緩和を行えば予想インフレ率が高くなる。日本では半年程度のラグがあって、予想インフレ率は高くなった。日本だけでなく各国に実例があり、各国ともに中央銀行のバランスシートの拡大に応じて、予想インフレ率が高くなっている。そうなると、名目金利が一定に維持されていると、実質金利が低下する。名目金利はゼロ以下に下げられないが、実質金利はマイナスにもできる[45][46]」「アメリカ・イギリスでは、量的緩和により実際に予想インフレ率は高まり、タイムラグを経て実際のインフレ率も上がってる[43]」「量的緩和してから、予想インフレ率が上がり出すのは半年くらいずれるときが多い。さらに、実質金利が下がっても、すぐに設備投資は増えないこともある。貸し出しが増え出すのは、さらに遅れる[36]」と指摘している。

予想実質金利 = 名目金利 - 予想インフレ率[47][45][46]

高橋洋一は「実質金利の下落こそが、決定的にその後の経済動向に対して重要なのである」と指摘している[43]。岩田は「お金を借りるほど実質的にマイナス金利が付くので、借りたお金で消費・投資をしたほうが得ということになる」と指摘している[48]。

「インフレ期待が生じた場合、名目金利が上昇する(フィッシャー効果)」という批判がある[49]。

フィッシャー効果についてベン・バーナンキは「長期的には成立しても、経済が不均衡の状態では当てはまらない。実際に中央銀行が金融緩和によってインフレ政策を行っても、物価水準は緩慢にしか変化せず、名目金利も緩慢にしか修正されない。そのため実質金利の低下は短期的に成立し、実体経済を浮揚させる効果を持つ」と指摘している[50]。

高橋洋一は「フィッシャー方程式『名目金利=実質金利+予想インフレ率』において、予想インフレ率の上昇分だけ名目金利が上昇するためには完全雇用でなければならず、デフレ状況では直ちにフィッシャー効果は起こらない。現金需要が旺盛な状態であれば、インフレ期待が生じても一部の資金が債券購入にまわり、債券価格の下支えになって金利はなかなか上昇しない。これは、景気回復期と後退期でフィッシャー効果が非対称になるという実証研究から裏付けられている。1930年代大恐慌において、アメリカや日本の歴史事実を見ても、名目金利の上昇は見られなかった」と指摘している[49]。また高橋は「デフレから脱却するために一時的に実質金利がマイナスとなるが、長期的にマイナスのままとはならない」と指摘している[51]。

金利上昇懸念[編集]

「日本の財政問題#金利」も参照

「大胆な金融緩和をすると財政規律喪失懸念で長期金利が上昇する」という議論について、翁邦雄は「日銀が大胆な金融緩和を推し進め長期国債を大量に買う姿勢を示す中で、長期金利が急騰するとは考えにくい」と指摘している[52]。また翁はFRBの量的緩和について「準備預金を増やすことで通貨供給量を増やすことを目的に金融緩和を行っていると誤解されているが、QE2以降FRBは一貫して長期金利を下げる手段として長期債を買ってきた」と指摘している[53]。

高橋洋一は「量的緩和のために日銀が大量の国債を購入しているため、名目金利が低下するのは自然である。予想インフレ率は高くなるので、実質金利は大きく下がる。そうなると、少しでも名目金利のつく債券ならば民間金融機関などは購入する。その結果、名目金利が低下する」と指摘している[54]。

経済学者の小黒一正は「政府債務が増加しても長期金利が上昇しないのは、日銀による金融緩和が長期金利を抑制しているためである。しかし、インフレが顕在化し、その圧力で長期金利が上昇を始めれば、政府債務の利払い費は急増させてしまう。それを防ぐには、マネタリーベースを縮小する必要があり、日銀は国債などの資産を売却しバランスシートを縮小しなければならない。しかし、この措置も長期金利を上昇させてしまう」と指摘している[55]。

ハイパーインフレ懸念[編集]

「インフレターゲット#岩石理論」も参照

「岩石理論」とは「斜面で止まっていた岩石を押して転がすと加速して止められなくなり、すごい速さで転がり斜面の下の住民を押し潰してしまう」というものであり「デフレからハイパーインフレへ瞬間的に変化する」という理論である[56]。

経済学者の小野善康は「貨幣を極端に増やしても、貨幣から他の資産へ多くの資源が割り振られるだけであり、消費・投資への効果はない。実需に効果がない一方で、貨幣の膨張によって貨幣は紙切れ同然となり、ハイパーインフレとなる」と指摘している[57]。

「増発された紙幣は消費に回らずインフレにつながるだけである」という議論について、ジョセフ・E・スティグリッツは「消費に回らなければ、どうやってインフレを促進することになるのか」と指摘している[58]。

経済学者の田中秀臣は「貨幣の増加によって、貨幣以外の流動性資産(株・社債・外債など)に資産選択が移動する、つまり投資が増加する。これは実質投資を増加させる経路として機能する。金融資産の価値が上昇し実質投資が増加すれば、やがて投資も増加する」と指摘している[59]。また田中は「過去のハイパーインフレの事例を見れば、ハイパーインフレの原因は巨額の財政赤字にあり、財政ファイナンスが行われたからである。金融緩和が原因となってハイパーインフレが発生したという事例は、歴史上存在しない」と指摘している[59]。

田中秀臣は「『日銀理論』とは『日本銀行にはデフレに対し何もできない』という理論である」と指摘している[60]。

原田泰は日本銀行の理論(日銀理論)について「これまで日銀は、銀行貸出が伸びない限り金融政策には効果がないので実体経済には何も起きない。金利がゼロになったら金融政策は何もできない。物価は金融政策では決まらない。何も起きないからとどんどん量的緩和を進めていくと日本銀行のバランスシートが悪化し、円が暴落する。日本銀行のバランスシートの拡大は通貨の信認を揺るがす。一度インフレになったら止めることは出来ずハイパーインフレになると唱えてきた」と述べている[61]。

岩田規久男は「量的緩和は、民間の非銀行部門でおカネがジャブジャブにないと効果が薄い。日銀引き受けというと、すぐにハイパーインフレ、通貨の信認が云々されるが、不況とはある意味では通貨の信認が厚くなるという現象であり、みなが縮こまる。信認がありすぎるのも問題で、ある程度それをぐらつかせる。そうなれば、もっとモノを買い、おカネを使い、またドルを買うようになる」と指摘している[62]。

ポール・クルーグマンは「日本では大きな戦争でもやらない限り、ハイパーインフレにはならないということは認識しておいたほうがいい」と述べている[63]。

経済学者の浜田宏一は「戦後経済を見渡しても2桁のインフレだったのは第1次石油危機後の1974年くらいで、第2次危機後の1980年には日本銀行が1桁の上昇に抑え込んでいる。ハイパーインフレというのは、物価が何千倍とか何万倍になるのを指す言葉で、今の日本で起こることは絶対にない」と述べている[64]。

飯田泰之は「絶対にそんなことにはならないが仮に、日銀がお札刷りすぎてハイパーインフレになったとしても、『財政で支える総額はいくらまでにする』と言えば、ピタリと止まる」と指摘している[65]。

元日銀審議委員の中原伸之は「急激に円安や物価上昇を招いた場合は引き締めに転じればよい。日銀は『金融政策は万能でない』と主張するが現状維持の擁護だろう」と指摘している[66]。

エコノミストの村上尚己は「アメリカは4年間で140兆円の量的緩和を行ったが、2%程度のゆるやかなインフレしか起きていない」と指摘している[67]。

エコノミストの安達誠司は「デフレ下の日本で、大規模な金融緩和をとった場合、日本でのみハイパーインフレが生じるというのなら、ではなぜアメリカやスウェーデンではハイパーインフレが起こらなかったのかを説明する義務が生じる」と指摘している[68]。

不安定化[編集]

エコノミストの櫨浩一は「2000年代に入ってからのアメリカの金融政策が成功してきたと言えるかどうかは疑問であり、むしろ経済の振幅を大きくしてしまった可能性がある」と指摘している[69]。

ジョセフ・E・スティグリッツは「小国が量的緩和をしてもグローバルな影響はない。しかし、アメリカのような大国が量的緩和をするとグローバルに影響を及ぼす。しかもアメリカでの実体経済には降りてこないで、アメリカ以外の海外資産に使われる。為替市場に向かう場合も、コモディティ市場に向かう場合もあるが、その過剰流動性が世界経済の不安定さを助長している」と指摘している[70]。

「金融緩和するとハイパーインフレ、円・国債の暴落という副作用が起きる」という議論について、高橋洋一は「副作用の具体例はない」と指摘している[71]。高橋は「アベノミクスの前は、金融緩和するとハイパー・インフレ、国債暴落、円暴落が起きると言われた。しかし、ハイパー・インフレは起きていないし、金利もすぐに落ち着き、円は予測通りに動いた。つまり、ハイパー・インフレ、国債暴落、円暴落はすべてウソだった」と指摘している[72]。

バブル懸念について[編集]

日銀副総裁であった山口広秀は、緩和政策の副作用で円キャリートレードを生み、海外市場に影響を与えた可能性は否定できないとしている[73]。

経済学者の真壁昭夫は「金融緩和策にも問題点はある。大胆な金融緩和策は劇薬であり、プラス・マイナス両面の効果が想定外のかたちで出ることも考えられる。劇薬の副作用が顕在化した場合、それを抑える方法が限られている。特に潤沢な資金を背景に、バブルが形成される可能性は十分に注意する必要がある。一旦バブルが形成されると、崩壊後の大規模なバランスシート調整などの弊害は大きい。また、出口戦略に要するエネルギーは計り知れない」と指摘している[74]。

一部で量的緩和による資産バブルへの懸念の声が挙がっていることについて、池尾和人は「バブルが生じるにはさまざまな条件が必要だと分析されている。金融緩和だけで起こるものではない。ある程度の人々が、新しいパラダイムがやってきたのだから資産などの値上がりは正当なものだと納得することが必要である」と指摘している[75]。

影響[編集]

短期金融市場の機能低下[編集]

コールレートが0.001%という実質的にゼロの水準に低下したため、銀行など金融機関はコール市場で資金を運用してもコストが賄えない状況となった。このためコール市場の資金残高が大幅に縮小し、短期金融市場の機能が低下した。

池尾和人は「民間銀行から長期国債という資産を取り上げて、その分準備預金を増やすというのは、民間銀行にとっては、資産の満期構成を短期化させることになり、サヤの稼げる運用に追い込まれ、ポートフォリオリバランスが起こりやすくなる」と指摘している[75]。

マイナス金利の発生[編集]

通常、実質金利はマイナスになりうるが名目金利はマイナスにならないとされるが、量的金融緩和政策の下では無担保コールレートがマイナスになるということがしばしば見られた。これは外国銀行がマイナスのコストで入手した円資金をマイナス金利でコール市場に放出したためと見られている。日銀当座預金に多量の資金を抱えて万が一、日銀が破綻するなどのリスクを回避するために、マイナス金利で与信枠の残っている民間銀行に資金を放出したものと見られる。

2014年の黒田東彦日銀の量的緩和では、実質金利はマイナス0.5%からマイナス2.5%となり、下げ幅は2%となった[76][77]。

#予想インフレ率と実質金利も参照。

量的金融緩和政策の推移[編集]

日銀当座預金残高の目標は5兆円程度とされていたが、2001年8月から8回にわたり、段階的に引き上げられ、2004年1月以降は30兆から35兆円程度となっている。2006年3月9日の金融政策決定会合において、消費者物価指数が前年比上昇率が4ヶ月連続して0%以上になったことから、解除のための条件が満たされたと判断し、約5年ぶりに解除されることが決定した。政策解除は、日銀が政府の反対を押し切るかたちとなった[42]。経済学者の高橋洋一は「形式的なインフレ率0.5%、物価指数の上方バイアスを考えるとマイナス0.1%で量的緩和を解除してしまった」と指摘している[78]。

2003年3月25日の決定では、当座預金残高目標は3月31日までは15-20兆円程度とされた。4月から2兆円の増加となったのは、日本郵政公社の発足に伴うものである。

決定日  調節方針  残高目標  日銀総裁 2001年 3月19日 調節目標を無担保コールレートから日銀当座預金残高に。国債買い切りオペ月額4千億円から増額 5兆円程度 速水 8月14日 国債買い切りオペ月額6千億円 6兆円程度 速水 9月18日 6兆円を上回る 速水 12月19日 国債買い切りオペ月額8千億円 10-15兆円程度 速水 2002年 2月28日 国債買い切りオペ月額1兆円に 速水 10月30日 国債買い切りオペ月額1兆2千億円に 15-20兆円程度 速水 2003年 3月25日 17-22兆円程度 福井 4月30日 22-27兆円程度 福井 5月20日 27-30兆円程度 福井 10月10日 27-32兆円程度 福井 2004年 1月20日 30-35兆円程度 福井 2006年 3月9日 調節目標を無担保コールレートへ。 福井 2012年末、日銀の長期国債保有額は89兆円であった。2013年3月末で91兆円、2013年末で142兆円である。国債を売却したのは第一に国内銀行であったが、それでも足りず日銀は他からも買っている。日銀、国内銀行ともに、長期国債の保有残高は2010年度から増加傾向にあったが、このとき国内銀行の保有残高が上回っていた。しかし、2012年度下半期には日銀が急激に保有残高を増加させ、国内銀行のそれを上回った。この逆転は2007年度上半期以来である[79]。

資産買入等の基金[編集]

日本銀行は2010年から長期国債(残存期間が1年以上2年以下の2年債ならびに同1年以上3年以下の5年債、10年債および20年債に限るもの[80])・国庫短期証券、CP、社債、指数連動型上場投資信託(ETF)、不動産投資信託(J-REIT)などの金融資産の買入れる「資産買入等の基金」を創設した[81][82]。

2013年4月4日、「資産買入等の基金」は廃止となり[83] 、長期国債の買い入れは金融市場の調節に使う「通常の国債購入枠」と一本化して日銀のバランスシート上に明示される事が決定された[84][85]。

残高の推移は資産買入等の基金の残高の推移を参照。

量的・質的金融緩和政策[編集]

量的・質的金融緩和政策(Quantitative-Qualitative Easing、QQE)は、

  1.2%の物価目標へのコミットメント(必達目標)
  2.国債などの買い入れによるマネタリベースの増加

の2つの柱からなる[86]。

2013年4月、日本銀行は金融政策決定会合で「量的・質的金融緩和」(異次元緩和)の導入を決定し、量的緩和は2%の物価安定目標を達成するまで継続されるとしている[87][88]。

金融市場調節の操作目標は、無担保コール翌日物金利からマネタリーベースに変更し(「マネタリーベース・コントロール」の採用[89])、2006年までの量的緩和を復活させたほか、資産買い入れ等基金の廃止も決めた[87]。併せて、日銀が保有する長期国債の残高を銀行券の発行残高の範囲内とする「銀行券ルール」の適用を一時停止させた[89][88]。結果として、2014年3月末現在、日銀は銀行券86.6兆円の1.8倍に相当する長期国債154.2兆円を保有している[90]。

日銀は2%の物価目標を2年程度で実現するためにマネタリーベースを2年間で2倍にする金融緩和をに踏み切った[91][92]。

2013年12月27日、日銀が公表した「日銀当座預金増減要因と金融調節」によると、12月26日のマネタリーベースの残高が200兆3100億円となり、2013年末の到達を見込んでいた200兆円を突破した[93]。

2014年10月31日、日銀は金融政策決定会合で、マネタリーベースを年間で約80兆円増加するペースで資産買い入れを行う追加緩和を決定した[94]。追加緩和には正副総裁・研究者出身の委員5人が賛成した一方で、金融機関・民間企業出身の委員4人が反対する異例の僅差となった[95]。

各国[編集]

テーパリング(tapering)とは、ベン・バーナンキ元FRB議長が使用した言葉であり、量的緩和の縮小を意味する[96][97]。

経済学者のケネス・ロゴフは、他の国々(日本以外)で量的緩和がうまく機能しなかった主な理由のひとつは、中央銀行が約束を渋ったことにあると指摘している[98]。

アメリカ[編集]

FRBは、買い入れ対象としていなかった証券の買い入れ、それを担保する資金貸し出しについて「信用緩和(credit easing)」と称した[99]。「信用緩和」と称したのは、日本銀行の「量的緩和」と区別するためである[100]。

2008年のリーマンショック時にアメリカは、一時的なデフレ寸前の状態にまで陥り、その後QE1(量的緩和第1弾)・QE2(量的緩和第2弾)と呼ばれる大規模な金融緩和政策によってデフレ懸念から脱し、その後のインフレ率はまたデフレに陥ってしまうのではないかと危惧されるほど、低位のインフレの状態で安定した[68]。

2010年11月から2011年6月までの8カ月間にわたって1カ月あたり750億ドルのペースで6000億ドル分の米国債の追加購入を行ったQE2は、株式市場をはじめとする資産市場や実体経済に一定の効果をもたらしたが、雇用創出に大きな影響を持ち得なかった[25]。

2013年現在、リーマンショックが起きた直後FRBは、マネタリーベースを危機前の3倍以上に増やしている[101]。

量的緩和とは何かを正確に知っている一般のアメリカ人は4人に1人程度しかいないことがロイターの調査で明らかとなっている[102]。

2013年12月18日、FRBは連邦公開市場委員会(FOMC)で、量的金融緩和策について、2014年1月から購入額を毎月850億ドル(約8兆7500億円)から750億ドルに縮小すると発表した[103]。ベン・バーナンキ議長は記者会見で「アメリカ経済は緩やかに回復してきた。雇用と物価水準が改善すれば、さらに緩やかに資産購入を減らしていく[104]」「量的緩和の縮小は金融の引き締めではない[103]」と述べている。

2014年1月29日、FRBは連邦公開市場委員会後の声明で、2月から債券購入額を750億ドルから650億ドルに縮小すると発表した[105]。

2014年4月30日、FRBは連邦公開市場委員会声明で、5月から債券購入額を月額100億ドル減らして、計450億ドルにすることを全会一致の決定した[106]。

2014年9月17日、FRBは連邦公開市場委員会後の声明で、同年10月の会合で量的緩和を終了する見通しを明記した[107]。

2014年10月29日、FRBは開催した連邦公開市場委員会で、量的緩和第3弾(QE3)の終了を決定した[108]。

イギリス[編集]

イギリスはリーマンショック直後の2008年10月にイングランド銀行のバランスシートを一気に3倍近く増やした後、2008年11月から2009年3月にかけて段階的に縮小させていった[109]。その後、2010年4月頃まで緩やかに拡大させた後、2011年末まではほぼ一定水準に維持した[109]。2011年1月に消費税率の引き上げを実施後、景気が悪化したため、2012年に一旦停止していた量的緩和政策を再開[110]。景気が回復基調に戻った2013年以降は、量的緩和を停止し、イングランド銀行のバランスシートはほぼ横ばいで推移している[110]。

2013年現在のイングランド銀行のバランスシートはリーマンショック直前から約4倍に膨れ上がっている[109]。

2013年8月8日、イングランド銀行のマーク・カーニー総裁は日本が過去に早すぎる緩和解除を行った誤りをイギリスが繰り返さないことが重要だと指摘している[111]。

スウェーデン[編集]

スウェーデン国立銀行はリーマンショック後、通貨発行量を4.5倍に増やした[112]。

ヨーロッパ[編集]

2015年1月22日、欧州中央銀行(ECB)は定例理事会を開き、「量的緩和政策」の導入を決めた[113]。