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折々の記 2015 ⑦
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 02 】08/23
08 23 あとに心は残れども 許してくれ、並木君
08 30 国会で全国で声が上がる きょうの天声人語
2015年
08 23 (日) あとに心は残れども 許してくれ、並木君
あとに心は残れども ……… (戦友 06番)、‘折々の記 2015⑥【06】07/23’無性にこの『戦友』を歌いたくなったのは、戦争の惨(ムゴ)さが大脳の奥からよみがえったのだろうと思う。 戦争のむごさは人の肺腑をえぐって永く精神の中枢にミイラのようになって幽閉されるのです。
そして、思い出すといつまでも許しを請わなければならないのです。 負傷者を置き去りにした、それは今でも目に焼きついているのです。
戦争はむごい。 むごいという漢字は「惨い」という文字です。 悲しい惨さは悲惨と書きますが、戦争は悲しい惨たらしさが心に残るのです。 戦争で戦友の死に直面した人は誰でも悲しさの限りない残酷さが心に閉じ込められているのです。
安倍総理のアメリカの言うとおりに政策の舵を切っていく人達には、戦争の惨さの体験はありません。 そしてまた戦争によってご子息(いとしご)を亡くした親の気持をまったく知らない人達です。 平和の根源は親子兄弟が仲良く暮らしている姿のことです。
積極的平和主義とは、どんな親子関係を想定してのことでしょうか? 戦争によって、相手を死亡させたときの相手の親子兄弟の平和をどうするつもりなのでしょうか?
相手に対しての個人的な恨みもなく、時の国の政策によって相手を殺すことは、積極的平和主義のどの部分の主張から答えが出てくるのでしょうか? 一つの国の国民の生命財産を守り、領土を守るためなら、相手を殺してもいいというのは何処からその理由が出てくるのでしょうか?
戦争の実態は国の政策によって、相手を殺すか相手に殺されるか、相手のすべてのものを破壊するか相手にすべてのものを破壊されるか、にほかなりません。 平和のときの個人間に通用する国の法律は、戦争の時には自分の国も相手の国も、個人の生存権も自由権も完全に無視されるのです。
こんな積極的平和主義はまったくのまやかし理論に基づくものです。
国のため………、国民のため………、 というのは武力を使う戦争行為の何の説明にもなりません。
それよりも、積極的平和主義というなら、安倍総理は何をしようとしているのでしょうか? 温かい手をさしのべる政策をとっているのでしょうか?
20世紀という戦争時代を卒業する課題は何であるのか、その対策を国民に示す考えはあるのでしょうか? 戦争をしない方法を考えているのでしょうか? 軍需産業<死の商人>をやめて、金融の安定化を図る対策を考えているのでしょうか?
ピケティのいう今のままでの経済動向は格差社会を増大してしまうというが、なにかいい対策はあるのでしょうか? 信用紙幣の乱発が市場価値の不安定をきたしているのに、金融市場の安定化の対策は何かあるのでしょうか?
金融市場の不安定は、武器使用による戦争時代のあとに、姿を現した金融戦争と言えましょう。 米国に追従する日本と昔からの友人として米国に同調してしまう西欧諸国、それに対応している社会主義本流のロシヤと中国、これは第三次世界大戦の様相と見たほうがいい。
人間の欲望によっての争いは、烏合の衆と化している。 それも地球規模の大きな、大きな、烏合の衆である。
安倍総理はこうした予見もしているだろうに、どうしてアメリカ追従に姿を装っていくのでしょうか?
積極的平和主義というのならば、むしろこうしたいろいろな対策や考え方を国民に提示することをやってもらいたい。
私達は、 “さすが日本の総理という人は、世界平和へすすむために、論理的な面からも道義的な面からも経済的な面からも素晴らしい考え方をもっている” と世界の人達からも思われることをしてほしいのです。
許してくれ、並木君
あとに心は残れども
1945/06/10 土浦海軍航空隊 予科練兵舎爆撃
負傷兵・戦友を置き去りにした悔恨
06/10 その日は日曜日でした。 朝食にイカの料理が出ていた。 イカの料理が出ると「敵機襲来、総員退避!」になる、というのが誰いうとなく言われていた。 果たしてこの日も拡声器から「敵機襲来、総員退避!」の指令が出たのである。
普段であれば20分くらい駆け足をして、トンネル状になっている防空壕へ避難していた。 だがその日は土浦警衛隊だったので、第一練兵場の南正面司令防空壕に近くの防空壕まで走っただけの避難行動でした。
しばらくしてから、サワサワ~、~~というかすかな音が聞こえると同時に「あれは爆弾の音だ」と東京出身の戦友が言った。 すぐ目と耳をふさぐやいなや爆発音が続いた。
これは凄かった。 後でわかったが出てみると20数棟ある兵舎のあちらこちらから火の手が上がっていた。 火の海である。
第一練兵場の中央正面に航空隊の司令部棟があった。 松林の前に士官専用の防空壕があり、それが直撃されたという、その救援指示によって練兵場を横切って走った。 すでに何人も救援に当たっていてので、格納庫へ向かうよう指示され、霞ヶ浦湖岸にある格納庫へまた走っていった。
そこの救援活動まえに、更に「敵機が引き返してくるから直ちに避難せよ」の指示が出されたのである。 走るのは得てていたから、練兵場南端の防空壕へ必死になって駆け出した。
後になって考えてみると、そこにいたみんなは何処へ向かって逃げたのかまとめた話はする隙もなく、月日は経っていった。
逃げ足の速い私は防空壕の一つへ走りこんだ途端です。 ものすごい爆音と共に幾つもの爆弾が破裂したのです。
逃げ込んだ途端でしたから、しゃがむ隙(スキ)もなく 「なむ八幡! これが終わりか?」 の一念が頭をかすめた。
目を開けたら防空壕の入り口の前の板が顔のまえに倒れかかり、入り口前の口塞ぎの堆土と逃げ込んだ通路は、この防空後の後ろで爆発したその爆圧で完全に埋まっていた。
二番手に逃げ込んだ戦友は肩口まで埋まっていた。 堆土の向こう側にも爆弾が破裂したため、すり鉢状になっていた。 地下水が高いのでドロドロになっていた。
めったにない突然の状況は、70年経った今も鮮明に網膜に影を落としているのです。 土に埋まった吉田は助かった。
だが、防空壕の左へ出ると戦友並木君(彼の名前は知っていたが、何分隊の何班かはわからなかった)が「やられた!」といって右手で左手の手首をささえて出てきた。 彼はどういう状況でやられたのか、私にはまったく見当はつかない。
左手の手首の上部を止血すればいいと思って固く縛ってやり、営門横にある病棟に目をやってみれば、病棟はメラメラと火炎に包まれている。 それでも営門を出て彼を救わねばならない。
左腕を押さえ抱きかかえるようにして営門へ向かった。 彼の息遣いはだんだん大きくなり歩みがおぼつかなくなってきた。
おかしいなと思って足元に目をやると、左の尻の下の肉がベラッと剥がれてたれているではないか! ‘やっ! これはひどい!’口にはできない。
折りしも司令の防空壕の上で、「総員、第二練兵場へ非難せよ!」が繰り返されはじめた。
‘どうしよう?……’、一瞬ためらったのだが、指令に従わなければと考え「後に来るから、ここにいてくれ」といい、防毒マスク(袋入)をはずして枕とし、戦友を寝かせてその場を去ったのである。
どうしてこんな考えをしたのか、悔やんでも悔やみきれないことでした。
畑のようになった第一練兵場を駆け抜けて第二練兵場へ逃げたのだが、敵機は来なかった。
その後は班長の指示に従って別行動に移ってしまったのです。
われわれの兵舎のそばにあった防空壕が直撃弾をうけ、白川義夫があとかたなく亡くなってしまった。 みんなで探したのだが手がかりになったものは、ズボンの左内側の名札「第42分隊 第6班 白川義夫」唯一つだけでした。
この壕にいたのは 41分隊 42分隊 から各班1名の編成だったのかもしれない。 どのように白川が選ばれたのかわからない。
この日は奈良空から特攻隊で出撃する先輩がきており、家族の面会日でした。 彼らはいつもわれわれが避難する北の道20分ほどの防空壕へ避難していた。 だが、上官もいただろうけれど真面目に壕の中には入っていなかった人もいたようで、爆撃によっての死傷者が多かったようでした。
この日の一撃で土空は完全に破壊され訓練機能を失ってしまった。 死傷者は数百名といわれていた。 霞空は丘の上にあったが、その丘へ上がったところで三つの穴を掘って死者は荼毘に付されました。
一週間ほどして、同じ千葉県の茂原飛行場へ移動しました。 そこでも艦載機による空襲や爆撃をうけました。 爆弾の破片の威力は10cmの立木を切断してしまいました。 衣服をいれた衣嚢(イノウ)も小さい破片によって上から下へ貫通してしまいます。
P51という米軍の艦載機はスマートな機体で、操縦席の軍人は日本の飛行兵のようにマフラーをし眼鏡のついた飛行帽をかぶっています。 戦後になってから、あの飛行兵は日本人を憎んで機銃掃射をしていたのか? 対空陣地の戦友はアメリカ人を憎んで対空機関銃や対空砲の引鉄を引いていたのか? 国の方針によって人を殺し、殺され、鉛の兵隊と同じように言うがままの行動をとっていたのではないのか………?
歳端もいかない満16才の少年が、‘ああ紅の血は燃ゆる’を歌い、七つボタンの服装に身を固め、月月火水木金金の集団訓練をうけ、国益と国益という相克の集団本能を利用されて鉛の兵隊になって、やがて散っていく。
そこには積極的平和主義のカケラも見当たりません。
70年前、私は負傷兵を置き去りにした男なんです。 こんな悲しい感情はありません。
大脳の奥からときどき悲しい惨たらしい思いがよみがえるのです。 『戦友』の歌の中に “ 行燈のかげで親達の読まるる心おもいやり思わずおとす一雫 ” とあります。
この歌の、生き残った兵隊はもちろん「悲しい惨たらしい思い」ですが、死んでしまった戦友、さらにわが子を失った父母の悲しみは、たとえようがありません。
……… これが戦争の実態なのです 敵も味方もおなじなのです ………
……… それなのに、戦争をさせた人はいつも平気で生きています ………
「戦争時代を卒業する手立て」それが積極的平和主義の本命課題です
④ 戦争の鎮魂歌 「戦友」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%8F%8B_(%E8%BB%8D%E6%AD%8C)
01 此處は御國を何百里 離れて遠き滿洲の
赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下
02 思へば悲し昨日まで 眞つ先驅けて突進し
敵を散々懲らしたる 勇士は此處に眠れるか
03 嗚呼戰の最中に 鄰に居りし我が友の(が)
俄にはたと倒れしを 我は思はず驅け寄って
04 軍律嚴しき中なれど 是が見捨てゝ置かれうか
「確(シッカ)りせよ」と抱き起し 假繃帶も彈丸の中
05 折から起る吶喊(トッカン)に 友は漸(ヨウヨ)う顏上げて
「御國(オクニ)の爲だ構はずに 後れて呉れな」と目に涙
06 後に心は殘れども 殘しちやならぬ此の體
「それぢや行(ユ)くよ」と別れたが 永の別れとなつたのか
07 戰濟んで日が暮れて 探しに戻る心では
どうか生きて居て呉れよ 物等言へと願ふたに
08 空しく冷えて魂は 故鄕(クニ)へ歸つたポケットに
時計許りがコチコチと 動いて居る(の)も情無や
09 思へば去年船出して 御國(オクニ)が見えず(なく)爲つた時
玄界灘で手を握り 名を名乘つたが始めにて
10 それより後(ノチ)は一本の 煙草も二人で分けて喫み
着いた手紙も見せ合ふて 身の上話繰り返し
11 肩を抱いては口癖に どうせ命はないものよ
死んだら骨を頼むぞと 言い交はしたる二人仲
12 思ひもよらず我一人 不思議に命永らへて
赤い夕陽の滿洲に 友の塚穴掘らうとは
13 隈無く晴れた月今宵 心染み染み筆執って
友の最期を細々(コマゴマ)と 親御(オヤゴ)へ送る此の手紙
14 筆の運びは拙(ツタナ)いが 行燈(アンド)の陰で親達の
讀まるゝ心思ひ遣り 思はず落とす一雫
<青文字は勝手ながら下平流>
「戦友」(1905年)...唱歌:軍歌、作詞:真下飛泉作詞、作曲:三善和気...この歌は全14番の詞から成り立っており、日露戦争時の戦闘の詩がつづられている。戦友を失う兵士の哀愁を切々と歌い込む歌詞と、同じく哀切極まりない曲調が人々の共感を呼び、たちまち全国に広まって永く歌い継がれました。
08 30 (日) 国会で全国で声が上がる 天声人語
これだけ国中で安保法案に対する批判が多いのに、自民党議員の中から反対する声が一人もあがらない。 異常としか言いようがない。
国民の信託によって国会議員になっているというのに、世論調査の意向にはまったく答えず無言のままでいる。 こんなことがあっていい筈がない。
選挙区において、世論調査の意向にたいする所信を明言してもらわなくてはならない。 これは基本中の基本の義務である。
天声人語は公の新聞紙上だから、概括したことを表現するしかないだろう。 だが、私たち一人ひとりの国民が国政の重大な危機だと感じているならば、自分達が選挙した代表者にたいして所信を明言するよう主張することは、私たちのもっている権利の基本中の基本の権利である。
選挙区の政権与党の国会議員に来てもらって所信を聞き、代表者が私たちの気持にかなうかどうか決める必要がある !!
国会議員を続けてもらうか、辞めてもらうか、決めなければならない。 猶予すべきではない !!
2015年8月30日05時00分 朝日新聞デジタル > 記事
国会で全国で声が上がる
きょうの天声人語
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11938781.html
▼フルスペックという言葉をふだん使う人はどれほどいるだろう。「完全仕様」などと言い換えられる。テレビやパソコンといった機械や器具で、あらゆる機能が搭載されていることをいうらしい
▼集団的自衛権の行使にもフルスペックのと、フルでないのがある。安倍政権は国会でそう説明する。従来、憲法上行使できないとしてきたのはフルの集団的自衛権であり、昨年の閣議決定で行使できるとしたのは、あくまで限定的な集団的自衛権なのだ、と
▼「なんという開き直りでありましょうか」。政権の姿勢を指弾したのは、元内閣法制局長官の宮崎礼壹(れいいち)さんだ。それはそうだろう。歴代内閣は「ちょっぴりであろうと、たっぷりであろうと行使できない」と答弁してきたのだから
▼安保関連法案への反対、そして安倍政権批判が強まる。宮崎さんが登壇した26日の集会や記者会見は大規模だった。日弁連による「オール法曹、オール学者の一斉行動」だ。会見では元最高裁判事ら約300人が「違憲」「廃案」の紙を掲げて訴えた
▼反対する大学有志の会、ママの会、学生らの団体SEALDs(シールズ)……。世代や立場を超えて連帯が広がるのは、村越進・日弁連会長が語ったように「立憲主義の破壊だけは認められない」という危機感を共有するからだろう
▼当然ながら、民主主義は議会の中だけでなく外にもある。一人ひとりの市民の声が、それを鍛える。きょう、国会周辺や全国で「大行動」が展開され、多くの人々の声が響き合う。
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