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折々の記 2016 ⑦
【心に浮かぶよしなしごと】

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  08 30 中学生の自殺増加   社会生活の変化
  10 01 渡来人が故郷を見た土地   韓郷神社の参考に

 08 30 (火) 中学生の自殺増加       社会生活の変化

新聞によれば、中学生の自殺が増えているという。 私は長い体験をしてきたからそうした人たちは誰でも、何とかしたいと思っているに違いない。。 現代の家庭生活環境は昔とだいぶ変わってきたからだろうと思う。 気の毒なことだ。

貧乏でも昔は親子関係や友達関係はよかった。 今は衣食住はとても良くなった。 生活用品は格段に良くなっている。

だが、人と人との生活環境は変わってきており、人との安定が崩れやすくなってきた。 一人の人間としてみると、友好関係が崩れて、孤立化が進みやすくなっている。 人がもつ価値観も変化してきている。 金銭経済が進み、その多寡による優越感(自己満足)と閉塞感(自信喪失)の混在が、理性を乱すようになってきている。

別の言い方をすれば、物質文化と精神文化の相克が顕著になってきている。 目に見えるものや持ち物、いわゆる物質の豊かさと、目には見えない人に接する心ばえや豊かな感性が、遊離してきている。

子どもたちには、こうした表現することの難しい状況に、どのように対応しどう表現したらいいか戸惑っていると思う。 これらの心情がどうしようもなくなった時、この嫌な思から解放されたい方法の一つとして自殺が浮かび上がるのだろう。

誰だって、死にたくはないのです。 大人だって死にたくないのです。 いっぱい夢も描いたであろうに、死を選ばなくてはならない子供の心に、私たちは思いを寄せたい。 子どもの悲しい心に手を差し出すようにしたい。

それではどう対処したらいいのだろうか。

まず第一に、親となるまでに「自己世界の構築」の学びや体験、分別などをわきまえなくてはなりません。 親自身が、戦前の子どもが体験し身につけたような環境がまるで変わってきてしまい、その中で成長してきているからです。 親の愛情が中核にあっても、生活を取りまく物質文化に押し流されてきてしまったからです。

子どもが自分で心の世界をどう築いたらいいのか、それを育てなければならないのです。 ほっておいていい筈がありません。

私は叔母から、「‘人をかまっちゃいけないよ、その子にも親がいるんだから’と親からよく言われたんだよ」と聞いたことがありました。 親の愛があってこそ子どもは安心して遊んだり勉強なりできたのだと、心の奥深くきざみこまれた言葉でした。

「自由と規律」池田潔著など、教育の中でよく考えてみなくてはと私は思います。 この本からもそれらは心のなかに位置づくと思います。

また、テレビで見た「什の掟」は、次のようになっています。

   一、 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
   一、 年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
   一、 虚言をいふ事はなりませぬ
   一、 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
   一、 弱い者をいぢめてはなりませぬ
   一、 戸外で物を食べてはなりませぬ
   一、 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
   ならぬことはならぬものです

「什の掟」とは、6歳~9歳の子供たち10人前後集まって構成される集団の指導の規矩だと思います。 これは昔の藩士の子弟だから最後の一項をはずしてみても、今の世の中にはこの六項目の教育を実践している集団はないと思います。 そして、この「什の掟」という徳育の基本は、この広い世界においても冠たるものといえましょう。

子どもの悲しい自殺は、こうした先人のいろいろなおしえを私たち親がとりいれて実状にあうよう訓導していくことが求められている。 では、どのようなことをしていけばいいのか。

教育制度を手直しするだけでは軌道修正などできません。 子どもを育てる両親が何を身につけなければならないか、そのことずばりの課題を考え直さなければならないのです。

「三人よれば文殊の智慧」の古俚をとりいれ、皆で意見を出し合い討議し検討し、いくつも提案していくことが求められます。 ここでも温故知新を大事にしなければならないのです。

また「Child Reseach Net (http://www.blog.crn.or.jp/report/09/)の論文・レポート>子育て応援団」や「Child Reseach Net (http://www.blog.crn.or.jp/report/01/01/)の論文・レポート>脳と教育団」、「Child Reseach Net (http://www.blog.crn.or.jp/report/04/01/index.html)の論文・レポート>普段着の小児科医 >子育ての脳科学」などの子育て関係データを利用されることをお勧めします。

少年期の自殺原因は心の深層部分にかかわっており、対処法に関する主張の大部分は心の深層部分よりも枝葉末節と思われるような部分にこだわったものは拒否していきましょう。

枝葉末節ではなく、主幹の基礎になる地下の目に見えない根っこの部分こそ親は注目しなければならないのです。

 10 01 (土) 渡来人が故郷を見た土地       韓郷神社の参考に

書いてある内容をすべて可としない。 けれども日本文化を作り上げてきた意味は、現代人にとって感謝すべきことである。 人は本来善性を心にもっている。 この考え方を離れて自分の考えを出すことは、若者は別にしても還暦過ぎのものにとっては心すべきことと思う。

両平地区にある「韓郷社(神社)」の本来の姿は、カラサトとしての願いがあったものと考えるのが素直な解釈でありましょう。

ですから平成18年5月11~12日に「高麗神社訪問(2006)」をしました。 私たちはボーダレスの世界平和を目指して手を取り合うことが必須なことです。 そんな意味からも、この新聞記事は興味を引くものでした。



朝日新聞デジタル
2016年10月1日03時30分
(みちのものがたり)高麗王若光の道 埼玉県 渡来人が故郷を見た土地

      http://digital.asahi.com/articles/DA3S12583027.html

 炎天下でも、歩きたくなる道はある。この夏、埼玉県日高市の高麗(こま)神社へ通った。

 山あいの何げない小道が気持ちいい。

 渡来文化の日本への影響を追究した在日朝鮮人作家の金達寿(キムダルス)(1919~97)もまた、この地を何度も訪れ、西武線の高麗駅から高麗神社まで約3キロの道のりを歩いた。「都塵(とじん)のなかではちょっと想像もできないような、いい道」と書き、高麗川のほとりに座ると、帰れない故郷を思う気持ちが慰められるとも語った。「高句麗人が居を定めたのも、この土地に故郷を見たからだと思う」

 高句麗とは、中国東北部から朝鮮半島北部にかけて668年まで約700年間存在した古代国家。日本では高麗(こま)と呼ばれ、多くの高句麗人が日本に渡って来たといわれる。

 「続日本紀(しょくにほんぎ)」には716年、上総(かずさ)など東国7カ国に住む高麗人1799人を武蔵国に移住させ、高麗郡を建郡したとある。現在の日高、飯能両市にまたがる一帯だ。

 1970年代後半、発掘調査に携わり、高麗郡の存在を考古学的に実証した高麗浪漫学会会長の高橋一夫さん(70)は言う。

 「風景が似ていることは、渡来人にとって、治水など自分たちが持つ高度な技術を発揮できる場所として、重要な要素だったんですよ」

 高麗人は無人だった土地を開拓し、三つも寺院を建てた。建郡は大規模な国家プロジェクトだったとみられる。

 「地方行政機構のモデルを示そうとした。対外的には、滅びた王族が国内にいることをアピールし、天皇を中心とする“日本型の小中華思想”を示したのではないか」

     *

 高句麗といえば、韓国ドラマで知った人も多いだろう。始祖の生涯を描いた「朱蒙(チュモン)」、中興の祖・広開土(こうかいど)王をペ・ヨンジュンが演じた「太王四神記(たいおうしじんき)」。日本で放映された当時は、高麗神社に「ヨン様」ファンが大勢訪れた。韓流は朝鮮古代史を一気にお茶の間に持ち込んだ。

 高句麗からの渡来人にも、主人公になれそうな人物がいる。王族の血をひく若光(じゃっこう)だ。

 666年に来日、2年後に祖国が滅亡したため、日本にとどまり、朝廷から貴族の位階に叙され、「高麗王(こまのこきし)」という姓を授かった、と記録にある。のちに高麗郡郡司となり、晩年は「白髭(しろひげ)さま」と尊ばれ、高麗郡で没し、葬られたと伝えられる。

 高麗神社から約70キロ南、神奈川県大磯町にも、若光の伝説が残る。町内の高麗山のふもとには、かつて高麗神社と称していた高来(たかく)神社が立つ。史実ははっきりしていないものの、若光が高句麗系渡来人の精神的支柱だったことをうかがわせる。

 日高市の高麗神社は、その若光を主祭神として祭っている。「高麗家系図」によると、宮司は若光の子孫が代々務め、現在の高麗文康さん(49)で60代目。日本で脈々と高句麗の血をつないできたことになる。

 鎌倉幕府が滅亡した前後には戦乱に巻き込まれ、断絶の危機もあった。しかし、その後は「戦に参加しない」を家訓とし、代々受け継ぐことで高麗家を守ってきた。

 ■歴史を知ることの意味は?

 高麗郡は形を変えながら1896(明治29)年まで存続した。しかし、入間郡に編入される形で地図から消えた。

 前年、朝鮮半島の支配権をめぐって争った日清戦争で日本は勝利し、朝鮮人蔑視の風潮が強まっていた。1910年の日韓併合後は、高麗神社に朝鮮総督府関係者が参拝し、新聞などで「内鮮融和」が強調された。一方、地元の人によると、軍隊などでは高麗出身というと「朝鮮人か」といじめられたという。

 金達寿は太平洋戦争中、「朝鮮人が行くと、祖先が来たと歓迎してくれる」村があると聞き、心ひかれた。戦後ほどなく高麗の里に赴いた。

 51年、作家の坂口安吾も高麗神社を訪れている。戦前の歴史を疑い、自分の目で確かめようとした安吾は、海を渡って日本に移り住んだ人々にも関心を向けた。神社で獅子舞の笛の音を聴き、エッセーに「民族のハラワタをしぼって草の露にしたような切なさをたたえている」と書いた。

 古代に大陸からやって来た人々は60年代までは「帰化人」と呼ばれた。彼らを不当に軽視する言葉だとして、歴史学者の上田正昭(1927~2016)は「渡来人」に呼び改めるように提唱した。文明の導入に大きな役割を果たし、大和朝廷の一員として政治、経済を支えただけでなく、技術や芸能、仏教はもとより日本の神々の世界にも影響を及ぼしたと説いた。

 70年代、上田に共鳴した金達寿は、日本各地で朝鮮文化を再発見する旅に出かけ、「日本の中の朝鮮文化」シリーズを著す。高麗神社や若光は第1巻で取り上げた。

 それでも大きく見れば、高麗郡の歴史が顧みられることはほとんどなかった。

 その名を地元で呼び起こしたのが高麗神社の59代目宮司だった故・高麗澄雄さんだ。息子の文康さんは96年、父がこう言うのを聞いた。

 「あと20年たつと、高麗郡建郡1300年。盛大にお祝いしよう」

 高麗郡って? 20年後の話って? 文康さんは当初、意味が分からず、冗談かと思ったという。後になって96年は高麗郡消滅から100年の節目だったことに気がついた。

 「100年たつと、地元でも忘れてしまう。その悔しさ、無念さがわかった」

 2002年、日韓ワールドカップ共催の年に準備を始めた。地域興しとして取り組む態勢を整えながら、15年、一般社団法人「高麗1300」が発足。日高市も動いた。

 事業の核には「歴史」を置く。東アジアの中での高麗郡と位置づけ、専門家と市民が共同で高麗郡や渡来文化の研究を進める。高麗浪漫学会も13年に発足した。

 「これまで高麗郡は深く研究されたことはなかった。まだわからないことだらけ」と、会長の高橋さん。実は若光が高麗郡にいたのかどうかも、わかっていない。

 高句麗史跡を3度訪ねるなど、韓国との交流を重ねてきた。埼玉以外の、朝鮮半島からの渡来人ゆかりの地との連携も始まっている。

     *

 そして祝祭の年。シンポジウムや講演会はどこも盛況を博す。4月、若王の生涯を探ろうと、神奈川県大磯町の高来神社から高麗神社まで歩くウォークイベントを開催し、4日間で延べ255人が参加した。5月には3千人が色鮮やかな高麗の衣装を着て、パレードをした。

 神社でも、高麗人の装束展や韓国の伝統音楽の演奏会など神社にしては異色の行事が続く。文康宮司は言う。

 「特別なことをしている意識はない。渡来の歴史を知ることは、日本人とはどういうものかを問いかけること」

 日高市内には、あちこちにチャンスンが立っている。大きな目をむく「天下大将軍」と「地下女将軍」。朝鮮半島の村の入り口で見かける魔よけである。

 山あいを歩いているのに、海を渡ってきた風を感じる。暑さが気にならなかったのは、きっとそのせいだ。

 (文・林るみ 写真・杉本康弘)



 ■今回の道

 高句麗国王の使者として来日した若光は都で官人として仕えたのち、武蔵国へ移ったといわれているが、そのルートは明らかでない。

 神奈川県大磯町の高麗山ふもとの高来神社(明治期に高麗神社から改称)一帯では、一族と海を渡って来た若光が相模国大磯に上陸、この地に大陸文化を広めたと言い伝えられている。

 古道研究家の宮田太郎さん(57)は、初期の高麗郡の中心地が大磯の高麗山の真北にあることと、若光の別名「玄武若光」に注目する。四神信仰で玄武は北を守護する神。「若光たちは測量技術をもって、玄武の方角をめざし、移住に適した土地を探した可能性が高い」。宮田さんが「高麗若光ライン」と名付けたルートには測量に適した丘や峠、渡来文化を考えるうえで重要な神社、遺跡や古墳群が分布しているという。

 この説をもとに「高麗1300」事務局は今年4月、高麗王・若光ウォーク(約95キロ)を実施した。(写真は聖天院に立つ若光像)

 ■ぶらり

 高麗神社(電話042・989・1403)は「出世神社」といわれ、芳名板には総理大臣経験者ら著名人の名が並ぶ。社殿は明治神宮などを設計した伊東忠太によるものだ。裏手には代々宮司の住居であった高麗家住宅がある。

 同神社から徒歩5分。高麗山聖天院勝楽寺(電話042・989・3425)も若光ゆかりの寺院だ。若光の墓とされる高麗王廟(びょう)がある。14世紀に法相宗から真言宗に改宗。庭園が美しく、本堂からの眺めもよい。拝観料は大人300円。境内には在日有志が建立した在日韓民族無縁仏慰霊塔や高句麗の広開土王など偉人の像、3.1独立運動にゆかりのあるソウル・パゴダ広場の八角亭を縮小再現した建物もある。

 西武池袋線高麗駅から徒歩10分。巾着田曼珠沙華(きんちゃくだまんじゅしゃげ)公園(電話042・982・0268)では毎年秋の彼岸の頃、約500万本の曼珠沙華が、赤いじゅうたんを敷き詰めたように咲き渡る。巾着の形のように流れる高麗川に取り囲まれていることが名の由来。開花期間中は有料(300円)。

 西武池袋線高麗駅前には、朝鮮半島の魔よけのチャンスンが立つ。JR高麗川駅前、高麗神社や聖天院の前にもチャンスンがある。

 ■味わう

 日高市のご当地グルメとして最近人気なのが高麗鍋だ。「地元産野菜を使用」「高麗ニンジン入り」「キムチ味」の3条件を満たせば、あとは店次第という。JR高麗川駅近くの「はら」(電話042・985・1919)の高麗鍋=写真=には、埼玉県産小麦粉の手打ちうどんが入る。

 ■読む

 金達寿「日本の中の朝鮮文化」シリーズは、電子書籍化されている。坂口安吾のエッセー「高麗神社の祭の笛―武蔵野の巻―」は青空文庫で。上田正昭『渡来の古代史』(角川選書)には、高麗氏についての解説もある。

 高麗文康『陽光の剣 高麗王若光物語』(幹書房)は、高麗神社宮司自ら筆を執った若光の物語。比古地朔弥『まんが高麗王若光物語』(埼玉新聞社)は、漫画で高麗家の歴史も伝える。高麗郡の歴史は「高麗1300」のHP(http://komagun.jp/別ウインドウで開きます)が詳しい。

 ■読者へのおみやげ

 高麗郡建郡1300年記念手ぬぐいを20人に差し上げます。住所・氏名・年齢・「1日」を明記し、〒119・0378 晴海郵便局留め、朝日新聞be「みち」係へ。6日の消印まで有効です。