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続折々の記 2020④
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 06 】04/22~
祖先を訪ねて(2)
     日本・ユダヤ封印の古代史(2)

祖先を訪ねて(3)
     日本・ユダヤ封印の古代史(3)


 04 22 (水) 祖先を訪ねて(2)      日本・ユダヤ封印の古代史(2)

☆ 第五章 イスラエル十部族は日本にやって来たか(続き)

★ ケンぺルの見た日本 107p

* 1690~1692年の江戸時代に、日本・長崎の出島に滞在したドイツ人医師がいる。 彼の名はエンゲルベルト・ケンぺル。 ケンぺルは、世界の様々な国々を見てから日本に来た。 非常に博学な人物であるが、彼はヨーロッパに帰ってから日本での体験を本にまとめて出版した。

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* 本の中でケンぺルは、日本人の言語や風習、宗教は、中国や韓国のものとは様々な点で大きく異なっていると述べている。 そして、日本人の主要民族は中国人や韓国人から分かれ出た人々ではない、むしろ、バビロニア地方から直接やって来た民族が日本の主要民族になったに違いない、と述べている。

* 「日本人は、バビロニア地方にいた民族の一つが、直接この島国に移住してきたものに違いない」

* バビロニア地方とは、中近東地域のことである。 それはイスラエル十部族の捕囚地となったアッシリヤ帝国のあった所でもある。 ケンぺルはまた、彼が見た江戸時代の日本についてこう述べる。

* 「日本人の形態は、国内の場所によって、私たちの目にもはっきりわかるほど著しい違いがある。 これは、日本人がもともと一個の主要民族のもとに、さまざまの他の民族が次第に加わって形成されたことを確かに実証するものである。

最も貴く最も古い家系の人々や、大名、高官等の人々は、一般に才力敏捷で、容姿は他のものより美しく、威厳があり、鼻も少し高くてヨーロッパ人のに似ている。

薩摩、大隅、日向の人々は、身長は中くらいだが、強厚で、言語、資質ともに男性的である。………」 

そのほか、日本の各地の人々の形態や性質に、大きな違いがあると述べている。

「日本人の根本、および最初の起源について言えば、日本人は一個独立の民族であると思われる。 その由来については中国人から分かれ出たものではないと、認めなければならない」

と書いているのである。

★ マクレオドの見た日本 109p

* 1867年、スコットランドの実業家でノーマン・マクレオドという人が、日本にやって来た。 彼は1875年に、長崎で 「日本古代史の縮図」 という英語の本を出版した(邦訳は 「天皇家とイスラエル十支族の真実」 たま出版刊 の名で出ている)。

* マクレオドはその中で、日本人がイスラエルの失われた十部族の子孫であるという説を展開した。 マクレオドは、日本に伝わる古代文字すなわち神代文字の幾つかは、中近東で用いられていた文字とよく似ていると述べている。

* また、奈良時代に吉備真備(695~775年)がつくったと言われるカタカナは、1868年にイスラエルの死海東岸から見つかったモアブ石の文字と、多くの点で似通っているとも述べている。

* マクレオドは日本の骨董品店で、長い巻物に描かれた古い絵を手に入れた。 その絵には、材木を縄でしばり合わせた大きないかだの中央に座っている神武天皇と王子たち、また彼らを取り巻いて立っている兵士たちが描かれていた。 絵を見ると、彼によればその王子たちの身に着けていた鎧は、アッシリヤかメディヤのものにそっくりだった。そして王子たちは、
「イスラエルの王が使ったような(エゼキエル書 16.10)じゅごんの毛皮の靴を履き、ペルシャの剣を腰に帯びていた」
「兵士たちのうち何人かは古代イスラエルの一角獣型の槍を持ち、何人かはメディヤの歩兵が手にしていたようなやりを持っている」
「日本の大弓が古代オリエントの弓と同じものであることは、スミスの有名な 「図解聖書辞典」 を見ればわかる。 この本に載っているイスラエルの弓は日本の弓とそっくりだ」
等と書いている。

* マクレオドはまた、とくに皇族や公家の人々は、ユダヤ的な顔だちをしていたと述べている。
1872年の第一回京都博覧会で、明治天皇と皇族方の姿を見る機会を持った彼は、
「その会場で、私はユダヤ系の顔をした人をたくさん見かけた。 彼らの顔立ちはかつて私がヨーロッパで見たユダヤ人の顔とそっくりだった。 ……明治天皇の随行員は、全員がユダヤ人の顔つきをしていた。 天皇陛下の顔立ちは、ワルシャワとセント・ぺテルスブルグの裕福なユダヤ人銀行家、エプシュタイン家の人々によく似ていた。 若い伏見宮殿下は、お写真を拝見した限りでは、皇族の中でも一番ユダヤ的な顔立ちをしておられた」
とまで書いている。

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* マクレオドは、こうした彼の主張を日本でも講演してまわった。 日本では彼の主張に耳を傾ける者はほとんどいなかったが、海外ではセンセイショナルな話題となった。

* ただし今日の学者は、彼の主張に重きを置いていない。(この本の初版は1999/1/31となっている)  マクレオドはまた、朝鮮半島におけるイスラエル十部族に関する本も書いている。

★ ユダヤ百科事典が伝えた日本 111p

* 今からおよそ70年前、第二次世界大戦前のことであるが、「イスラエルの宝」 とも言われる有名な 「ユダヤ大百科事典」(The Jewish Encyclopedia) のヘブル語版に、日本とイスラエル十部族の関係に関する記事が載った。

* 執筆したのは、編集者であるラビ=ユダ・アイゼンスタイン自身であった。 彼は記事の中で、近年の研究はイスラエルの失われた十部族に関して新しい光をもたらしたと述べ、また日本人、とくに日本の皇室には十部族の血が流れているかもしれないと述べている。

* 北王国イスラエルは紀元前722年、その最後の王ホセアの時代に、アッシリヤヘ捕囚となった。 一方、日本に最初の天皇、神武天皇が即位したのは、伝統的理解では紀元前660年である。 時代的に非常に近接している。

* また日本の神社は、拝殿と本殿の二つから成り、その構造は古代イスラエルの幕屋や神殿のものによく似ている。 日本の神社の神主の服装――白い服、肩から膝までの四角い布、袴、帯、帽子なども、古代イスラエルの祭司のものによく似ている。

* イスラエル人が父祖アブラハム、イサク、ヤコブ等に深い敬意を払うのと同様に、日本人は自分たちの父祖に深い敬意を払う。 日本人の先祖の絵を見ると、しばしばそれがユダヤ人の容貌によく似ている。 そういったことを、アイゼンスタインは書いている。

★ S・M・ラザーが語った日本 112p

* 1908年に、イスラエル十部族の運命について書いていたS・M・ラザーの 「十部族の謎と解答」 という本が出版された。 その内容は次のようなものである。
――日本は、五十年ほど前になってようやくヨーロッパに知られるようになった。 ヨーロッパ人は日本に対する知識不足により、日本人を神秘と伝説の目で見た。 とくに日本が日清戦争(1894~1895年)で超大国・中国を破ったときに、その思いは増幅された。

多くの夢想家たちは、日本人はイスラエルの失われた十部族なのではないかと思うようになった。 その根拠とされたものは多い。

たとえば日本の伝説によると、日本人の父祖たちはもともと西の地にいたが、あるとき東に旅立つことを決め、ついに日本列島にやって来たということになっている。

一方、古代ユダヤの文献 「エズラ第四書」(エスドラ書ともいい、西暦一世紀末にかかれた。外典の一つ) には、イスラエル十部族は東に向かうことを決意し、歩いて一年半かかる遠い国に旅立ったと書かれている。

日本の伝説はこれによく似ている。 日本の初代の天皇(神武)は、民を引き連れて、多くの苦労と長い旅のすえに紀元前六六〇年に大和の地に来た。 神社に保存されている古代の絵画には、この旅の様子が描かれている。

ある古代絵画には、天皇が側近の者や兵士と共に船に乗っているところが描かれている。 人々は手にオールを持っている。興味深いことに、天皇や彼のサムライたちは武装しているのだが、その武器は、アッシリヤで発見されている古代絵画や、レリーフに描かれているものによく似ている。 これは、彼らがアッシリヤ方面から来たことを示しているのではないか。

京都に行ったある旅行家(マクレオド)は、そこで戦いの舞を見物した。 そのとき舞に登場する戦士たちの服装は、ペルシャのものであった。

また帽子をかぶり、盾をにぎり、槍を投げ、弓を射る姿は、古代イスラエルの兵士そっくりだった。 また皇室に古来伝わる古代の絹織物には、イスラエル人と彼らの神殿の器物が描かれているという。

日本の神社の構造、およびそこで行なわれる宗教行事の数々は、古代イスラエルの宗教のものによく似ている。 そこには契約の箱に似たもの(御神輿)、また至聖所(神社本殿)もある。

日本神道の神官は、祭司であるとともに地域のリーダー的役割も持つ。 聖なる儀式では、神官(神主)は白いリネン(リンネル、麻)の衣を着ている。 これが古代イスラエルの祭司の服によく似ている。

神官は、餅や酒を神の前に供える。 餅はユダヤの 「種なしパン」(マツァ) に似ている。 初穂を神に捧げ、収穫の感謝の祭もする。

かつてイスラエルのダビデ王は、契約の箱と共に町を練り歩き、白い祭司服を着てその前で踊った(Ⅰ歴代誌 15.3~29)。 同様に日本でも、人々は御神輿をかついて町を練り歩き、その前で踊る。 とくに由緒ある神社の祭では、御神輿をかつぐ人々の服装は、古代イスラエルのときと同様、白い祭司服である。

契約の箱は、一種の移動式神殿であった。 日本の御神輿もそうである。
日本には、子供が生まれて一か月ほどしてから、神社に詣でてお清め(おはらい)をしてもらう風習がある(初宮詣はつみやもうで)。
日本では旧暦の八月十五日(十五夜)に、仮庵かりいおをつくる。 その下ではユダヤ的な顔をした神官がススキを花瓶にさし、その時期の収穫物を神前に供えて、人々は満月を鑑賞する。

そのとき、神官たちは古代の絵を出してくる。 その絵には、羊飼いと羊たちが描かれている。 ラバに乗った天皇や、ラクダも描かれている。 いずれも、日本にはいない動物である。

日本の神社には、古代から伝わる三つの書物がある。

そのうちの一つの書には、シナイ山の近くで発見された文字と、非常によく似た文字が記されている。 その意味は誰もわからない。 日本人は、これは神の文字だと言っている。

二つ目の書は、ペルシャの書き物に似ている。 三つ目の書は、バビロンとアッシリヤの書き物に似ている。

これらのことから、日本人はもともとはイスラエルの失われた十部族であったと、多くの人が考えるようになった。 ただ日本人は、日本に来るまでにトーラーを失い、そのほかイスラエル人としての伝統の多くも失ってい待ったのだと。

ある人々は、日本の神話やおとぎ話には、古代イスラエルのものによく似たものが多いとも指摘している。――
* これらのことが、ラザーが本の中で述べていることである。 こうした日本人=イスラエルの失われた十部族説に対し、ラザー自身は否定的であったが、私たちはさらに調査を進め、いったい何が本当なのかをよく見極める必要がある。



【注釈】

★ トーラーとは  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

トーラー(ヘブライ語: תּוֹרָה‎、英語: Torah)は、ユダヤ教の聖書(タナハ)における最初の「モーセ五書」のこと。 トーラーはヘブライ語で書かれており、「教え」という意味を持つ。

★ モーセ五書とは

  創世記  (ヘブライ語の原題は「初めに」の意味)
  出エジプト記  (ヘブライ語の原題は「名」の意味)
  レビ記  (ヘブライ語の原題は「神は呼ばれた」の意味)
  民数記  (ヘブライ語の原題は「荒れ野に」の意味)
  申命記  (ヘブライ語の原題は「言葉」の意味)

★ ユダヤ教とは

ユダヤ教においてトーラは、律法と読むが、意は教え、指示である。 なお、トーラは、プトレマイオス朝エジプトのファラオであったプトレマイオス2世の命で、ユダヤ教の祭司族とされるレビ族の書記官たちがギリシャ語に翻訳した律法の題名とされる。

 04 24 (金) 祖先を訪ねて(3)     日本・ユダヤ封印の古代史(3)

いよいよトケイヤーがイスラエルと日本の歴史を照合し確認する内容に入ります。

★ イスラエルの新聞社が語った日本 116p
* 1930年代に、イスラエルの新聞 「ハ・アーレツ」 に、日本の皇室の 「賢所かしこどころ」(温明殿うんめいでんの別名。神鏡を祭るところ) に関する記事が載ったことがあった。

* それは十戒の石の板 (出エジプト 24:12-18 ➡ 12 エホバはモーセに言った。「山に登って私のもとに来て、そこにとどまりなさい。私は、民への指示として律法とおきてを石板に書き、あなたに与える」)、 マナの入った壺、アロンの杖といった古代イスラエルの三種の神器さんしゅのじんぎが、日本の宮中の賢所にあると言われているといった内容だった。 また賢所には、エルサレムから持ってこられた聖なる鏡(八咫鏡やたのかがみ)、および、それを入れている箱(御船代みふなしろ)もあると。

* 別の記事では、その聖なる鏡の裏に 「我は有りて在るもの」 という言葉がヘブル語で記されている、という説が解説されていた。 これは聖書の出エジプト記三章一四節の言葉で、神の聖なる御名みなである。 ただし、これらはうわさであり、裏づけはない。 これについては本書の第10章でとりあげる。

* 新聞記事の中ではまた、イスラエルのテル・アビブ市の商人、S・レビという人の報告が紹介されている。 彼は何度も日本に来たことがある。 彼の報告によると、日本の貴族のある秘密のグループにおいては、割礼が行われているという。

* 彼らにおいては安息日や、ヨム・キップル(大贖罪日)も守られている。 彼らは秘密のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)を持ち、そこには日本語訳のトーラーがあるという。

* 別の人はまた、日本の銭湯で見た日本人の多くは割礼を受けているように見えたと、記事の中で述べている。 ただし、これはそう見えたというだけで、実際は誤解だったのであるが、日本人は西洋人に比べて包茎の人が少ないので、そう見えたのであろう。

* また彼は、山伏が額に宗教的な黒い箱をつけ(兜巾)、大きな笛(法螺貝)を吹く姿は、まさにユダヤ人の姿だと述べている。 ユダヤ人は、額にフィラクテリー(テフィリン)と呼ばれる黒い箱をつけ、ショーファールと呼ばれる角笛を吹くのである。

★ 小谷部全一郎の研究 117p

* 小谷部全一郎博士は、アメリカのハワード大学、エール大学、また同大学院に学んで哲学博士の称号を得、帰国後は東京皇典講究所、また國學院大學講師などとして働いた人物である。

* 小谷部は、1929年(昭和4年)に 「日本及日本国民之起源」 を出版し、日本の古来の様々な風習は、日本人と天皇家のルーツが古代イスラエル人であることを示している、と主張した(この本は 「日本人のルーツはユダヤ人だ」 の題で、たま出版から再版されている)。

* 小谷部は、日本人の風習・習慣は、古代イスラエルのものとそっくりであることを、さまざまな例を挙げて説明している。

  「正月のいわれ」
  「族長制度と長老を尊ぶこと」
  「挨拶のしかた」
  「清潔を好むこと」
  「禊のこと」
  「禊に水や塩を用いること」
  「履物を脱ぐ風習と足を洗う風習」
  「盆踊りのこと」
  「結婚式のこと」
  「神社の構造」
  「石の柱のこと」
  「白装束」
  「屍にふれることを忌むこと」
  「お辞儀の風習」

* そのほか数多くの例をあげ、これらは日本人の風習が古代イスラエル人のものに非常によく似てていると説いている。

* 日本の神話では、大和民族の先祖は 「高天原」(タカマガハラ、またはタカマノハラ) から来た、とされている。 一般にこの 「タカマノハラ」 は天上界と理解されているが、小谷部は、これは天上界のことではなく西アジアの 「タガーマ(地方)のハラン」 のことであると解した(タガーマとは、ノアの曾孫トガルマの子孫が住んだ地方の古代地名である――創世記 10.3、エゼキエル書 38.6)。

* これは現在のイラク北部からアルメニアのあたりである。 古代には、そこに 「ハラン」 という場所があった。 聖書にもハラン(カランともいう)は、イスラエル人の父祖アブラハムがしばなく住んでいた所として登場する(創世記 12.4)。

* 小谷部は、日本人の祖先はそこからやって来たと考えていた。 イスラエル人と日本人はもともと一つの民族であったことを確信している、と彼は述べた。 彼はまた、日本に来たイスラエルの失われた部族は二つ――ガト族とマナセ族であったろうと書いている。

* 彼らは東へ進み、イスラエルの聖なる宝を携えて、日本にやって来たという。 天皇と呼ぶ呼称 「ミカド」(帝、御門) は、ガド族出身を意味するヘブル語ミガド(へブル文字)から来たに違いない、とも彼は書いている。

* 小谷部は、 「ジンギスカンは源義経だった」 という本も出版している。

★ 川守田英二の研究 119p

* 一方、サンフランシスコで法人キリスト教会の牧師をしていた川守田英二(1891~1960)は、日本の民謡に着目した。

* 川守田は、 「日本へブル詩歌の研究」 その他を著し、日本の民謡とくに囃子言葉の多くはヘブル語であると主張した(この本は「日本の中のユダヤ」の題で、たま出版より再版されている)。