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続折々の記 2020⑤
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【 08 】08/17~
子どもの可能性を引き上げる
時の断面
GDB戦後最悪の下落
続・記憶のメカニズム
記憶力と年齢は無関係
神とは何か? 自己とは何か?
宗教と現実
08 17 (月) 暗記ではない記憶力! 子どもの可能性を引き上げる
今朝外へ出てみると、流しの前の植え込みに何本を背を高くしてきた植物の一つが、12~13cm 位もあるラッパ状の白いユリの花が咲いていた。
調べてみたがはっきりとはわからない。とにかく白くて背が高いのは私くらいはある。 何本も伸びてきた。タカサゴユリという名前に似ているがわからない。 どこから来たのかもわからない。
子どもの可能性を引き上げる
暗記と記憶の違い
「記憶」と「暗記」は似ているようですがそれぞれに違う意味を持っています。勉強に必要なのは暗記力だと考えられていますが、暗記力を高めるためには実は記憶力を高めることが大切なのです。
暗記力と記憶力の違いをしっかり理解して、子どもの記憶力を高めるトレーニングをしていきましょう。
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新しく物事を覚える「暗記」・覚えたことを忘れないようにする「記憶」
暗記と記憶は似ているようですが意味合いはかなり違います。暗記とは、そのものや文章を見なくても思い出せるようにしっかり覚えること。記憶とは、経験したこと、学んだことを頭に残しておくことを意味します。
つまり、暗記は新しく物事を覚えることで、記憶は覚えたことを長く忘れないようにする力のことです。暗記をした内容を記憶しておくことが大切であり、この2つの力はどちらが欠けても成り立ちません。
子どもに大切なのは暗記力より記憶力
子どもの脳は真っ白なキャンバスのような状態です。さまざまなことをインプットしやすく、その分暗記もしやすいのが特徴です。丸暗記をする力が高いのは10歳前後がピーク。
しかし、子どもは暗記は得意なものの、記憶することは苦手な傾向にあります。覚えたつもりでもすぐに忘れてしまうので、テストの成績がよくてもその後暗記した漢字や数式などを思い出しにくく、結局力が身についていない状態になってしまいます。
子どもの頃に習う漢字や数式などは大人になっても大切です。そのため、暗記力だけでなく記憶力を高めるトレーニングもしっかり行っていかなければなりません。子どもの記憶力を高めることで、その後も無駄な復習をする時間を省き、スムーズに勉強を進めていくことができるようになります。
子どもの記憶力を高める方法
子どもの記憶力を高める方法を6つご紹介します。
1. 親子で会話をしながら散歩をする
人はわくわくすると、脳からθ波という脳波が出ます。このθ波が出ている間は脳が活性化しており、記憶しやすい状態になります。θ波は意識的に出すことができます。
それが、歩くこと。ハードな運動ではなかなか続きませんし、子どもと一緒に行うことも難しくなります。
しかし一緒に散歩をするだけでもθ波を出すことはできるのです。室内のランニングマシンを使ったり毎日同じルートを散歩するのではなく、外に出て違う道を探索するようにあちこち歩いてみるとより効果的です。
あとでもご紹介しますが、親子の会話も記憶力を高めるには効果的です。散歩をしながらたくさん会話をして、子どもの記憶力を高めていきましょう。
2. ストーリーを作る遊びを行う
いくつかのものをピックアップして、それらのものがつながるようなストーリーを組み立てるような遊びをしてみてください。どんな内容でも構いませんし、話のつじつまがあっていなくても大丈夫。一見意味のないことのように見えますが、物事を忘れないようにするには大切な方法です。
このようなストーリーを作る遊びを何度も行うことで自然とこの習慣が身につくようになり、必要な持ち物を忘れにくくなる、文法や手順を忘れ難くなるといった記憶力を高めていくことができます。
3. 具体的な質問を投げかけながら会話をする
基本的なことですが、記憶力を高めるには会話をすることも大切です。「今日は何があった?」「それでどう思った?」など、質問をたくさんしてあげるようにしましょう。質問に答えることでその日のことを思い出すことができ、頭の中から記憶を引き出す力を身につけていくことができます。
記憶力を高めるには、その記憶したことを言葉に出して何度も表現することが大切です。小さな子どもには、教育番組のクイズのように楽しく質問を繰り返してみてください。
「もっと覚えたい!」という気持ちを引き出すことができ、自然と記憶力を高めることができます。中学生や高校生の子どもには、さらに詳しく具体的な質問を投げかけるようにしてみましょう。
勉強についてのことはわからなくても、日常に関する出来事を掘り下げて質問するだけで大丈夫です。質問を繰り返すことで、何歳になっても記憶力を高めていくことができますよ。
4. 興味のある分野を深める
子どもは、興味を持った分野においては素晴らしい記憶力を発揮することがあります。時間を忘れてのめり込んだこと、何かを成し遂げたことはその子どもの記憶に深く刻まれるようになります。
たとえばアニメのキャラクターや電車の名前、植物の種類など、子どもが興味を持った分野なら何でも大丈夫。その分野に対しての知識を深められるような図鑑、動画、絵本などを与えて、関心を高めてあげましょう。好きなものをたくさん記憶することで、自然と記憶力を身につけていくこともできます。
また、その興味のある分野に結びつけて記憶するという想像力も身につくようになります。漢字、英単語、数式など、子どもは意外なものを興味のある分野に結びつけて覚えているケースも多いのです。アニメのキャラクターの名前など、一見記憶力に関係なさそうに見えることでもとことん付き合ってあげましょう。
5. 一緒に楽しみ子どもの心を動かす
過去の体験も、記憶力を高めるには大切です。記憶に強く結びつけるには心を大きく動かすような出来事が必要。そのためには、子どもが発見したこと、感動したことを共有していくことがおすすめです。
自分が知っていることでも、子どもにとっては初めて知ったことはたくさんあります。適当に相槌を打って終わらせずに「すごい!」「知らなかった!」と感動してあげましょう。身近な存在であるお母さん、お父さんと共有した感動は、子どもにとっては記憶に結びつきやすくなります。
子どもの心を動かすには、積極的にさまざまな場所に出かけて楽しいこと、美しいものに触れることが大切です。一つ一つのことに大げさくらいに反応して、子どものリアクションに合わせて感情をしっかり表現することで、子どもも感動しやすくなります。一緒に楽しむことで子どもの記憶力を鍛えていくことができます。
6. 付箋を好きな場所に貼り付ける
付箋を使って記憶力を高めていくことも可能です。記憶したいことを付箋にかいて、どこでも好きな場所に貼り付けていきましょう。
子どもの場合は記憶したいことだけでなく、思いついた言葉をなんでも付箋にかいて楽しむだけでも大丈夫。中学生や高校生の子どもなら、テストに出る範囲の単語などをかいて部屋やトイレ、リビングなど好きな場所に貼り付けていいよという風に教えてあげましょう。
付箋は、ノートとは違いいつでもどこでも見ることができます。ノートを開くという手間がない分、すっと目に入れて記憶していくことが可能になります。
また、子どもの場合はシールと違ってどこに貼り付けても剥がしやすく、大人のストレスにならないというメリットも。可愛いキャラクターの付箋やカラフルな付箋を使うことで見るのも楽しくなり、何度も付箋をチェックする習慣を付けることができます。
暗記との違いを押さえて子どもの記憶力を引き上げる
親は暗記と記憶の違いをしっかりと押さえておき、子どもの記憶力向上に活かしましょう。記憶力は、散歩中の会話やストーリーを作る遊びなどで養えます。まずは子どもも親も楽しめる方法で、記憶力を引き上げていきましょう
【下平記】
すべては、宿業教育の一環であり、見られてもいい、聞かれてもいい、真似されてもいい、これが基本的な心構えです。
ジツコ・スセデックの考え方や実際にしてきたことも参考にするとよい。
08 18 (火) 時の断面 GDB戦後最悪の下落
郵便箱から新聞をうけとる。 第一面
GDP、戦後最悪の下落 4~6月、年率27.8%減
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14589800.html
浜松41.1℃ 国内最高に並ぶ
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14589801.html
【図版】 4~6月期の実質成長率は戦後最悪の落ち込みに
詳細は URL を開いてみればよい。
【猛暑】 各地で猛暑日となった17日、浜松市で午後0時10分に41・1度を記録し、2018年7月に埼玉県熊谷市で観測された国内最高気温に並んだ。浜松市では16日も40・9度を記録し、2日連続の40度台になった。▼31面=熱中症で死者相次ぐ
厳しい暑さは少なくとも今週いっぱいは続く見通しで、気象庁は熱中症への警戒を呼びかけている。
気象庁によると、宮崎県西米良村と岐阜県美濃市で39・7度、長野県飯田市で39・5度など各地で40度に迫った。全国269地点で35度以上の猛暑日となり、午後4時50分時点で26地点で観測史上最高気温を更新した。
https://www.class-l.jp/webmagazine/feature/kurashi/kenko/kenko02.html
いつまでも健康
記憶力も、心の元気もアップする
記憶力と年齢は無関係
「最近、忘れっぽくなった」「人の名前を思い出せない」など、記憶力の低下に不安を覚えながらも、年のせいとあきらめていませんか? 記憶力に年齢は関係ありません。脳は刺激を与え続ければ、いつまでも成長し続けます。
未来を創造する記憶力
記憶力とは、過去の記憶を呼び戻す力だけではありません。未来を創造する力も記憶力です。例えば、「明日何をしよう」と計画するとき、「あのときこうしたから」「こうしなかったから」と、過去を振り返りながら考えているはず。
未来を創造することは、過去の記憶を再生・定着させることにつながり、結果として記憶力を高めることになります。
脳の各基地を刺激する
人間の脳は小さな基地ごとに役割を分担しています。記憶の保管場所である「海馬」は記憶系基地にありますが、海馬だけを鍛えようとしてもうまくいきません。記憶力を鍛える最大のコツは、視覚系や運動系など他の基地も同時に鍛えること。これにより各基地をつなぐ神経細胞のネットワークが強化され、脳全体を活性化することができます。
脳の各基地を刺激する脳トレ法は、記憶力を高める効果はもちろん、認知症予防や認知症の症状改善にも効果があります。ここにご紹介するトレーニングを参考にしながら、脳をいつまでも若々しく保ちましょう。
自分の脳のタイプを知り、苦手な課題に敢えて挑戦!
脳のタイプは、大きくは「視覚情報を覚えるのが得意」、「言語情報を覚えるのが得意」、「運動情報を覚えるのが得意」の3つに分けられます。自分とは違うタイプの課題に敢えて挑戦するほうが、より効率的に脳を鍛えることができます。
視覚系脳トレ
過去の記憶力を鍛える
①歩きながら美容院の数を数える
歩き慣れた道ほど、人は周りの景色を見ていません。いわゆる「慣れ」の状態で、こんなとき脳の視覚系基地は働いていません。今日は美容院、明日は不動産屋さんと、ターゲットを決め、街並みの変化に注意を払って道を歩いてみましょう。
創造的な記憶力を鍛える
②頭の中で料理を作る
まだ作ったことがない料理のレシピを見ながら、食材を準備し、下ごしらえをし、調理し、盛り付けるまでをシミュレーションします。記憶に関わる海馬は、物事の順序を覚えたり、段取りを考えたりするとき特に強く刺激されます。
言語系脳トレ
過去の記憶力を鍛える
③その日の「ベスト&ワースト発言」を選ぶ
物忘れ防止に効果的な脳トレの一つが、一日の終わりに自分の言動を振り返る時間を持つこと。ただ漫然と振り返るのではなく、「ベスト発言(誰かを喜ばせた発言)」、「ワースト発言(誰かを傷つけた発言)」を選びましょう。自分の発言をランク付けすることで、過去の記憶をしっかり定着させることができます。
創造的な記憶力を鍛える
④一日の出来事を俳句にする
俳句と言っても季語を気にする必要はありません。その日の印象的な出来事を「五・七・五」にまとめるだけ。とはいえ、出来事を選び、わずか17文字に収める俳句作りは脳全体を使う作業です。日々智恵を絞るうち、神経細胞のネットワークが強化されていきます。
運動系脳トレ
過去の記憶力を鍛える
⑤指先トレーニング
何かを記憶する際、最低でも3種類の脳の基地が働いて「情報をキャッチ」→「情報を分析」→「情報を保管」します。この連動性が弱ってくると記憶力や集中力が低下します。左右の手の指先を別々に動かすトレーニングを行うと、脳が活性化し、基地と基地の連動性が高まります。
創造的な記憶力を鍛える
⑥利き手と逆の手を使う
利き手と逆の手を使って、雑巾がけをしたり、歯磨きをしたり、リモコンのボタンを押したりなど、普段使わない運動系基地を刺激します。運動系基地は海馬のある記憶系基地と連動しています。しかも記憶系基地と異なり鍛えれば意識して動かすことができるので、ここを鍛えれば効率的に記憶力をアップすることができます。
「慣れ」は禁物
脳には慣れると怠けるという困ったクセがあります。トレーニングの目的は“上手になる”ことではありません。慣れたなと思ったら、別のトレーニングに切り替えるか、難易度を上げましょう。
ローテク生活のススメ
ちょっと不便、手がかかる、そんなローテク生活が、実は脳の健康を保つ秘訣。例えばレオパレスのオーナー様なら、手持ちの物件を書類上で管理する(言語系)だけでなく、時々は足を運び(運動系)、自分の目で観察し(視覚系)、メンテナンスなどの計画を立てる(創造的記憶力)というように…。ほかにも、エスカレーターより階段を使う、わざわざ遠回りして買い物に行くなど、「ローテク生活=脳トレ」と考えると、毎日が新鮮で楽しくなります。 「脳の学校 ワークブック」(ポプラ社)
貯筋手帳記憶術の監修、加藤俊徳さんの著書。
加齢のせいと思われがちな、物忘れやうっかりミスも3つのメソッドで改善できます。
考え方、習慣などを変えることで、脳を成長させ、楽しい生活へと導く一冊です。
「神とは何か」
わたしが「神とは何か」を読んでみると、著者は稲垣良典 氏で、彼は恵まれた環境にあって戦後東大に進学しプロフィールにある通り、何故そうしたかはわからないが哲学分野で自分の思いを学んできた同年輩の人でした。 思考過程が深く内容表現がよく調和しているのに驚いた。 ただものではないと思う。
わたしが「モーゼの十戒」と「古代日本にたどり着いたユダヤ人 失われた十部族の足跡 イスラエルの地から日本まで」などを読んでから、十戒の第一番に取り上げている「主が唯一の神であること」と五番目に取り上げている「父母を敬うこと」は本当のことの表裏だと納得している。 さらに一歩進めて言えば、親があってこそ自分があるのです。
その中核になっているものは、「命を大事にする」ということであり「命は細胞の活動により支えられ細胞の願いはわたしに託されている」ことに違いないのです。 細胞の願いは自らのよろこびと種の伝承と繁栄なのです。
わたしの生涯の総括として、このことを子供や孫に伝えてやりたい。
命はよろこびを最大にねがっている。 そのために学び、考えをせいかつに活かしてきたつもり。
学而第一で肝要なのは、宿業時代の親子家族の在り方でした。 学びは、すべての生活にとって大事なことであり歓 びの泉になっています。
2019/02/12
現代の「常識」への挑戦
科学時代の今、なぜ「神とは何か」という「問い」を立てるべきなのか
稲垣 良典
* プロフィール 哲学者 稲垣 良典 RYOUSUKE INAGAKI
1928年生まれ。東京大学文学部卒業。アメリカ・カトリック大学大学院哲学研究科にてPh. D.を取得、文学博士(東京大学)。南山大学、九州大学、福岡女学院大学、長崎純心大学大学院の教授を経て、九州大学名誉教授。専門は中世スコラ哲学。2013年、『神学大全』(創文社)の翻訳で毎日出版文化賞(企画部門)受賞。2015年、『トマス・アクィナスの神学』(創文社)および『トマス・アクィナス 「存在」の形而上学』(春秋社)で第27回和辻哲郎文化賞受賞。 『現代カトリシズムの思想』 (岩波新書)、『トマス・アクィナス』(講談社学術文庫)、『トマス・アクィナス「神学大全」』(講談社選書メチエ)、『人格《ペルソナ》の哲学』 (創文社)、『カトリック入門 日本文化からのアプローチ』 (ちくま新書)など多数の著作がある。
* 「神とは何か」——科学万能の現代に、なぜこのような「時代遅れ」の問いが発せられなければならないのか? だがしかし、本当に、「神」の問題は哲学的にはすでに解決済みなのか?
中世スコラ哲学の第一人者・稲垣良典氏の『神とは何か——哲学としてのキリスト教』(2月13日発売/講談社現代新書)より、「まえがき」を公開。
「神とは何か」に「答え」はあるか
「神とは何か」というこの書物の表題が目に留まり、今の時代に風変わりな人間がいるものだ、いったいこんな問いかけに興味を示す者がどこにいるのか、この問いに答えがあるというのか、いやその前にこの書物の著者は答えを知っているのか、と疑問を抱く人がいたならば——たぶん、その数は少なくないと思うが——私はここでただちにその疑問はそっくりそのまま私自身感じたものだと答えたい。
「神とは何か」という問いの特異性というか不思議さについては、この後「序論」で集中的に取り上げて考察するほか、繰り返しさまざまの角度から考えてゆく。
それはわれわれの日常生活のなかで好奇心から生まれる問い、あるいは科学者が自らの特定の研究領域のなかでそれぞれ固有の方法を駆使して対象からいわば力ずくで答えを掴み取ろうと試みる問いとはまったく違う。
それは「何か」と問うことが無意味に感じられるほどわれわれ自身に身近で、自分自身の奥深く現存するかと思えば、われわれの想像力はおろか認識・思考能力のすべてを無限に超えるとしか言いようのない何物かに向けられた問いである。
ということは「神とは何か」という問いはわかりきったことに向けられた空虚な問いであるか、「知りえない・語りえない」と自ら認めつつあえて知りたいと熱望する自己矛盾的な問いである、ということになろう。
いずれにしてもこの問いは普通の意味での答えがない、その意味で特異で不思議な問いであることは間違いない。
科学時代の常識を破る問い
いまこの問いは科学者が科学者として取り組む問いとはまったく違うことに触れたが、われわれにとってきわめて身近で、平凡と言えるほどわかりきったことでありながら、いざそれは何かと問い始めるとまったく不可解で測りがたいようなことは科学的探求の領域からは原則的に排除される。
そして科学的探求の領域から排除された事柄についてはもはや厳密な意味で知ることは不可能だ、というのが科学の時代である近・現代の常識であるから、「神とは何か」という問いは知的探求の領域から原則的に排除されることになる。
ここからして、人間の「知る」という働きは正確に言えば科学的に知るということだ、少なくともそのことを目指すべきだ、という立場をとる人々——恐らく「知識人」とか「科学的な考え方をする人」の大半がそうだと思われるが——にとっては「神とは何か」という問いは知識の領域に属するものとは見做されない。
ところで(科学的)知識の領域に含まれないということは、科学的に説明される現実の世界には存在しないということであり、科学的に説明される世界のみが現実の世界だと信じる者にとっては、そのような(科学的知識の領域に含まれない)ものは実在しないに等しいことになる。
実際に、科学的知識の対象になりえないような神の実在は認められないという理由で無神論を支持する者は多いのであり、冒頭で触れた「いまの時代に風変わりな……」という表現はそうした科学時代の「常識」を言い表すものであった。
つまり「神とは何か」という問いは、科学時代の常識を前にして知的な問いとしての意味を喪失したというわけである。
確かに「神とは何か」という問いが置かれている状況は、右に述べたような科学的知識の領域、したがってまた知的関心の領域からの追放というものであり、この問いにはすでに結着がついているとの印象を受ける。
しかし、本当にそうであろうか。
デカルトにおいて始まった絶対に不可謬で不可疑の基礎原理の上に築かれた新しい哲学、そして、ガリレオ、ニュートン、ラプラスなどによって開かれた道を急速に突き進むことによって築かれた近代科学は、「神」という前提を必要としない人間的知の体系を創り上げたのであろうか。
ここでのわれわれの関心事である「神とは何か」という問いに限って言えば、「この問いは無意味であることが科学的に明らかにされた。論証完了!」ということなのであろうか。私にはそうだとは思われない。
「自己」を問うことは「神」を問うこと
なぜかと言えば、「神とは何か」という問いときわめて類似した「自己とは何か」という重大な問いも、近代哲学においては明確な答えが見出されないまま、あたかも解決済みであるかのように放置されているからである。
つまり自己とは、われわれが「自己とは何か」と問う時に、問うているわれわれ自身なのだから、これ以上に身近で、私自身に親しく現存するものはありえない。
しかしあらためて自己とは何かと問うと、自己は私が見て、触れる存在のように感覚で直接に捉えることのできないものであるから、それを明確に知的に認識するためには精密かつ熱心な探求と洞察が必要とされる。
そのことを理解しないで自己認識を試みたヒューム(David Hume, 1711-1776)は「自己は知覚の束にすぎない」と結論したのであった。
また、デカルトが試みた自己認識は単なる自己意識にすぎないことを見てとって、自ら自己認識の難題と取り組んだカントは、結局のところ理性の正当な(認識)要求と不当要求を判定する法廷の設定に過ぎない「純粋理性批判」を遂行するにとどまったのである。
ここでは「神とは何か」という問いと「自己とは何か」という問いは極度に類似していると述べるにとどまったが、この後できる限り明らかにしようと試みるつもりの「神とは何か」という問いは、「自己とは何か」という問いの探求の深まりが必然的に呼び起こし、考察せざるをえなくなる問いであると同時に、「自己とは何か」という「人間精神の自己への立ち帰り」である問いを真剣に問うことによってのみ生まれてくる問いである。
ということは、自己認識の挫折が「神とは何か」という問いの忘却を引き起こしたということなのであろうか。
近代哲学の欠陥
そして私がこの書物で指摘して、今後の討論を期待したかったのは、デカルト、ヒューム、カントという、近代哲学を建設し、方向づけた哲学者たちは人間的認識、つまり人間の「知る」という働きをもっぱら確実で検証可能な科学的知識という側面に限定し、その帰結として「神とは何か」「自己とは何か」という問いが(科学的)知識の領域ではなく、知恵の領域に属する問いであることを見誤ったのではないか、ということである。
言いかえると、これら近代哲学を代表する思想家たちは人間の「知」を確実な答えが原則的に発見できる「問題」に関わる「知識」のみに限定し、一見わかりきった平凡なことのようで、あらためて正面から立ち向かうとその不思議さでわれわれを驚嘆させ、限りない探求へと誘う「神秘」に関わる「知恵」を区別しなかったのではないか。
(科学的)知識が関わる「問題」と、知恵そして真正な知恵の探求(哲学)としての形而上学が関わる「神秘」との明確な区別は、20世紀前半にガブリエル・マルセル(Gabriel Marcel, 1889-1973)を始めとする一連の形而上学の復権を主張する哲学者によってあらためて指摘された。
とはいえ、この重大な区別を前述の偉大な哲学者たちが見落としたと言うのは幼稚な暴言だと、これらの哲学者の研究者たちから非難されるかもしれない。
しかし後で触れるように、知識と知恵の区別、そして人間的認識の本質を考察する精神の形而上学ないし形而上学的霊魂論は、すでに中世末期にウイリアム・オッカム(William of Ockham, 1280?-1349?)において崩壊していたのであり、デカルトが学んだ「スコラ哲学」は、このような精神の形而上学の根本問題に対処できなくなっていた。
したがって古代・中世思想に比べてはるかに広大な宇宙論的展望と、信仰への依存を脱却した「経験と理性に従う者」(オッカム)の誇りをもって出発した近代思想は、形而上学的探求を適切、有効に進めるための途をはなから閉ざされていたのであった。
このことを考慮に入れるとき、前述の私の批判的発言への反撥はかなり和らげられるのではないだろうか。
「知恵の探求(フィロソフィア)」の復権を目指して
じつを言うと「私は信じることに場所を得させるために知ることをやめなければならなかった」というカントの「理性批判」によって閉ざされたまま現在にまで到っている、形而上学的な「神」探求への道を拓くことが、この書物で私が目指している目標なのである。
13世紀の神学者トマス・アクィナスの研究から出発した、いわばスコラ哲学を抱え込んだ哲学研究者が、近代哲学を代表するデカルト、ヒューム、カントの仕事を「挫折」といった否定的な言葉で簡単に切り捨てるのは不遜ではないか、と専門研究者に叱られるのは覚悟している。
私があえてそうしたのは、12世紀ルネサンスのある学識ある人物の言葉を借りると「巨人の肩に乗った侏儒(こびと)」としてである。
実際に古代・中世の古典を研究した先輩たちから「人生の大事に関して古人が開拓してくれた知的遺産に比べると、近代哲学の偉大な人物たちの発言がどこか矮小に響く」という感想を聞いたことがある。
例えばわが国ではカントと言えば人間の真の道徳性、自律としての自由、人格の尊厳を明確・体系的に説いて倫理学の頂点を極めた哲学者であるという評価が定着している。
しかし幸福や徳などに関するカントの議論を古代・中世の古典的な教説に比べると、倫理学の根本問題である人間の究極目的や、人間が真の究極目的への到達に向かって歩むべき道としての徳などの重要な問題をさしおいて、もっぱら「最小限の道徳」について緻密な分析を重ねたに過ぎないという印象を受ける。
カントにとって人間の道徳的完全性とは義務を義務として完璧に、すなわちあらゆる困難に打ち克って遂行することであり、それが徳にほかならない。
そして人間は、徳という卓越性には名誉や富など、人々が幸福と呼ぶものが伴うように望むことが許されるが、これらのものは偶然に左右されるものであって、限りある地上の生では正義の要求を満たすような仕方で配分されることは期待できない。
そこでカントはこのような窮状の是正のために「実践理性の要請」として霊魂の不死性を導入する。
私は昔、旧制高校の哲学概論でこのカント説を聞いたかどうか覚えていないが、もし聞いていたら納得したと思う。
しかし、よくよく熟考すると、偶然に左右されるような「幸福」(それはむしろ「幸運」「僥倖」と呼ぶべきであろう)のために霊魂の不死がなくてはならぬ、という説が道理に適うものであろうか、むしろそうした偶然に左右されるものは、たとえ多くの人が欲するものであっても人間の真の幸福とは言えないのではないか。
そしてアリストテレス、アウグスティヌス、アクィナスは揃ってそのように主張したのであった。
「哲学としてのキリスト教」の探求
言うまでもなく、私は近代思想が数々の独創的で知的刺激に富む哲学者たちによって形成されたことを否定するつもりはない。
ただ近代哲学や科学が古代・中世の「知恵の探求」を無用にしてしまったのではなく、そこにはわれわれが今こそ学ぶべき、そして学ぶことで人間として善く生きる道の発見が可能となるような知的遺産が含まれているのではないか、と示唆したいのである。
この書物の副題を「哲学としてのキリスト教」としたのはそのような気持ちからであった。
中世哲学は「キリスト教的哲学」と呼ばれ、そして中世哲学を代表する「スコラ学」はキリスト教の教義・教説をプラトンやアリストテレスの哲学の学説や概念の助けをかりて明確・説得的に解説したものだ、という説明がかなり一般化しているようである。
だが、これは事柄の本質を捉え損なった皮相的な説明にすぎない。そうではなく、卓越したスコラ学者たちはギリシア哲学における知恵の探求を、自分たちの信仰を知的に理解することで得た知恵の光の下で大いに進展させたのであった。
それは取りも直さずキリスト教を知恵の探求という面で捉えることであり、私がここで「哲学としてのキリスト教」という表現を用いることを正当化するものではないだろうか。
自己発見への知的な旅
いま「古代・中世の知恵の探求を学ぶことで人間として善く生きる道の発見が可能になる」と述べたが、そのことについて簡単に述べてこの「まえがき」の結びにしよう。
「自己」を知る、すなわち「自己」という精神的存在を知的に理解するために第一に必要なのは、自己を「どこに」見出すかである。
それは目に見える物体のように「ここ・あそこ」に在るのではなく、「時」のうちに在るものとしてまず見出される。時のうちに在るということは自己という存在には始まりがあって、終わりに向かって進んでいることを意味する。
古今、東西を問わず、昔から自己を振り返ることを学んだ者が第一に問うのは「私はどこから来て、どこへ行くのか」であるのがその証しである。
このように見てくると、「神とは何か」と題するこの書物の内容は、一言でまとめれば、自己発見への知的な旅ということになろう。
つまり人間とは「旅する者」であり、われわれが「人生」と呼んでいるのは「揺り籠」から「墓場」まで移動する単なる「過程」ではなく、はっきりと目的地を目指して歩む「旅路」だということである。
じつは「知恵の探求」ということも、人間が「旅する者=人間」でなければ意味がないのであり、それというのも「知恵」は人生という旅路の目的地に関わるからである。
「人間、この旅する者」という自己認識がどうして人間として善く生きる道の発見に繋がるのかと尋ねられるならば、人生を真実に旅路として受け取り、旅路として歩む者は、この旅がいつか必ず死をもって終わる事実を挫折感や絶望をもって受け止めるのではなくて、むしろ目指していた目標・終着点——それがじつは「神とは何か」と問うていたものである——への到達であるという「希望」をもって待ち望むことができるからだ、と答えよう。
これに対してなぜどのような根拠で諦めや絶望ではなく希望について語りうるのかと厳しく問われるならば、この書物で私が自らの知恵の探求について述べたこと、とりわけ自己認識と「存在」理解に関する私の見解のほかに私の答えはない。
いずれにしても私が語りうる希望は明証的な結論、堅く握りしめた確信のようなものではなく、私自身のささやかな知恵の探求のなかで私のうちに生まれ、育まれた習慣のようなものとしか言いようのないものだからである。
* 『神とは何か——哲学としてのキリスト教』(講談社現代新書)より抜粋
敬神崇祖 黒住教
http://kurozumikyo.com/oshie/2018/03/201803mioshie
黒住教について>御教えをいただく>
千早振る神の生み出す生みの子よ
親の心をいたましむるな(御文一九号)
平成30年・31年の2年間にわたる修行目標は、よりよく生きるための“五つの誠”の第二項の“孝養の誠”を眼目に、「活(い)かし合って取り次ごう!」を合言葉として、「暮らしの基本に“敬神崇祖(けいしんすうそ)”」を、教主様よりお示しいただきました。
「敬神崇祖」とは、神を敬い先祖を崇めるという意味です。この四文字熟語は、今日(こんにち)国語辞典に掲載されていません。先の大戦までは辞典に記されていたとのことですが、戦後教育において“政教分離”のもとに辞典から消えてしまったのです。古来、この「敬神崇祖」は“神道の基本精神”として大切にされ、わが日本国の、そして日本人の根本精神でした。殊に「崇祖」の精神は、日本におけるほとんどの宗教に共通する概念で、わが国の宗教は神道や仏教を問わず、“先祖教”と言えます。
御文一九号の今号の御(み)歌は「天照大御神が生み出(い)だす子供よ、親神様の御心を痛めさせてはなりません」という意味です(「千早振(ちはやぶ)る」とは「神」にかかる枕詞(まくらことば)で、特に意味はありません)。この御歌に続く御文は殊に格調高く、私たち人間は大御神様のご分心(ぶんしん、みわけみたま)をいただく、いわば神の子で、一切がご神徳の中の出来事であるから、ご神慮に沿って天命(大御神様のご命)のままに生きていくならば、少しも苦になることはないと強調されています。