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続折々の記 2020⑤
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 04 】07/21~
生きる要諦②
私の願い
入院中に読んだ本でシャハンが書いた内容、ことにエジプト脱出後のアフリカ大陸40年に及ぶ放浪記事には心を打たれました。
考えてもみてください。 ビラミット建造のためエジプトの強権圧政のにより、奴隷のごとく労働を強いられその苦境を逃れるために殆どの者が、モーゼなどの指導者の考えにより未知のアフリカ大陸を引き連れられ放浪を続けていたのです。 こんなことが考えられますか? こんなことを想像できますか?
モーゼの統率がどのようなものであれば可能になったのでしょうか。 この事実を思うとき、人々の心の世界を統率できる質実な思索をモーゼはどのようなバックボーンに支えられて出来えたと思いますか?
そう感じた時この事実は、ただ事ではない驚嘆以外のなにものでもないと私は思った。
こうした民族の苦しいみんなの体験によって、明日への希望を願いながら未知の土地を求めてさまよっていたに違いありません。 こうした難渋の末イスラエルの人々は自分の国を得、モーゼが十戒を授かって律法に考えによって暮らすようになったという。
その後、自分の国として安住していた土地をアッシリアの侵攻によって追い出され、そうした人たちの集団の一群が日本にたどり着いたと考える以外になかった。
トケイヤーが出版した本を見ると、よくも調べたと思われるほどの広範にわたる日本の言語や風習が記されています。 疑う余地もない実証的な調査だと感心したのです。
このシャハンとトケイヤーの二人の記事をゆっくり読み解いていくと、日本人が身にしている文化や歴史、日ごろのちょっとした言葉遣いのなかに、素晴らしい気質を持っていることを知らされたのです。
日本列島の人々はその昔、中国の儒教や仏教などを学びとり、飛鳥、奈良、平安のそれぞれの時代にいろいろの変化をし今のような日本を作り上げてきたことに誇りすら感ずるようになりました。
殊に儒教文化と仏教文化は韓国でも現代中国でもほとんどその気質は見られません。 平安時代の女性的文化は世界にも例を見ないものとしての気品を伝えてきております。
私は東北の大震災を経た日本の人々の心に、美しい花を植えた人々の思いに万雷の拍手を送りたいと思っています。 悲しい苦しい思いの中で、あの素敵な歌 「花は咲く」 をみんなで歌っているではありませんか。
花は咲く
一 真っ白な雪道に 春風香る
わたしはなつかしい あの街を思い出す
叶えたい夢もあった 変わりたい自分もいた
今はただなつかしい あの人を思い出す
誰かの歌が聞こえる 誰かを励ましてる
誰かの笑顔が見える 悲しみの向こう側に
花は花は花は咲く いつか生まれる君に
花は花は花は咲く わたしは何を残しただろう
二 夜空の向こうの 朝の気配に
わたしはなつかしい あの日々を思い出す
傷ついて傷つけて 報われず泣いたりして
今はただ愛おしい あの人を思い出す
誰かの想いが見える 誰かと結ばれてる
誰かの未来が見える 悲しみの向こう側に
花は花は花は咲く いつか生まれる君に
花は花は花は咲く わたしは何を残しただろう
花は花は花は咲く いつか生まれる君に
花は花は花は咲く わたしは何を残しただろう……
花は花は花は咲く いつか生まれる君に
花は花は花は咲く いつか恋する君のために
作詞 ; 岩井俊二
作曲 ; 菅野よう子 ⇒ お二人とも宮城県のご出身です。
歌 ; 被災地の出身あるいはゆかりの歌手、タレント、俳優、スポーツ選手など34組(36人)
『花は咲く』を聴く
花は咲く(オリジナルフルバージョン)
<https://www.youtube.com/watch?v=QWWfWmUROPY>
あの心根にこころの根をよせ日本人として死にたいといって、アメリカの日本文学者ドナルド・キーンさんは帰化したのです。 いまでは亡くなってしまいましたが、わたしは心から嬉しかった。
アメリカで言われるフロンタイア・スピリット、幕末の人たちの進取の気性はそれに劣るようなものではなかった。 芭蕉や良寛、一茶のおじさんにしても、李白や杜甫に遜色するものではなかった。 勇ましいジャンヌ・ダルクの面影は、山本八重(会津藩)は幕末のジャンヌ・ダルクと言われた女傑だった。 繊細な日本画は洋画とは違う清楚な美であった。
今、日本は時の流れによって右往左往し享楽文化に流されそうになっている。 歴史を学んでいると平家物語冒頭の一節 「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。 ~ 偏に風の前の塵に同じ」 というふうにも思う。 戦後の日本はおかしくなったと言えそうです。 私自身もその一端を負っているのです。
2020年 コロナウイルスにより いのちは風前の灯火にさらされた
事業家 政治家 官吏 の見えない権力による戦火にさらされてきた
歴史を学んでわかるように 私たちはより良く変わってきた
だから私たちは 明るい希望をもって生きていたい
イギリスのアーノルド・トインビーは、20世紀の大事な歴史家でした。
いまは悲しいことにさらされてきているが、日本は優れた性をもっていると考えています。 だから明るい希望をもって生きていたいのです。
小さいころからのことですが、法運寺で田中和尚さんからお釈迦さまについていろいろと話を聞かされてきた。 今の保育園とは違うにしても昔の寺子屋式のものだったと思う。細かいことは覚えていない。 けれども四月の八日 小さな仏様に甘茶をかけ、甘茶を瓶に入れてもらい嬉しかったことや、矩形の落花煎餅をもらって喜び、遊具で遊んだこと、模造紙に書かれていた仏画のお話など懐かしいこととして思い出すことができます。
今朝は七月の二十二日です。きのうから梅雨明けのような暑さが戻り驚きました。 寒暖計は三十三度を示していた。 きのう蒔いたニンジンには夜のうちに十分な雨があってそれを見てほっとしました。 祇園さまには冬用の人参と霜ササゲを蒔くのだと子供のときに聞いていたのです。
今年の雨続きで、畑の草はよく伸びています。 遅ればせの大豆の芽も元気に伸びてきました。
きゅうりは思いがけず沢山なり、処理に困るほどだった。 私が好きなサトイモはぐんぐん伸びて大きくなりました。 かぼちゃは大分大きくなってきています。
大豆の芽を見て思います。 大豆は納豆にして食べ、味噌や醤油にして頂くし、キナコにして利用してもきました。 土の中に蒔けば、目を出します。 生きているのです。 考えてみれば、考えなくてもそうなんだが、生き物が生き物を食べて生きているのです。 畑の大豆は土の中から自分でいるものを吸い上げて大きくなり、海の魚は土の中から流れ出したものを食べて大きりなり、それを食べて魚は大きくなっています。 土の中には、窒素、リン酸、カリ、そのたいろいろのものがあり、植物はそれを利用して大きくなる。 微生物も繁殖しているし、いろいろの菌類もあるという。 わからないものも沢山生きている。
いのちはいのちによって生きています。 いのちは地中のいのちによって生きているのです。
モーゼは優れた先輩の人たちから十戒を訓えられました。 その六番目に 『殺人をしてはいけないこと』ということを訓えられているのです。 けれども、紙ヘリ生贄として動物の命をささげることは指示しています。
殺人といえば人を殺すことです。 けれども神への生贄は公然と指示しています。
私たちの生活感覚では、もちろん人を殺してはいけないことは誰しも共通理解しています。 さらに生き物でも殺すことはよくないと思っています。 倫理観からも拒否感覚をもっています。
芥川龍之介は、これに関連して『蜘蛛の糸』を書き残しました。 犍陀多が蜘蛛を踏みつけなかったことを表記し、お釈迦さまがそれをご覧になったことを取り上げています。
また、金子みすゞは多くの「いのち」に係わる詩を書き残しております。
『大漁』
朝焼け小焼けだ大漁だ
オオバいわしの大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしの弔いするだろう
みすゞの心では命の尊さに徹していたのでしょう。 だから、絶対矛盾そのままです。 私たちもその心根を察して彼女の詩を読んで感動し、詩人の心から一つの実感を受け取るのです。
平家物語冒頭の一節をもって締めくくったほうがいいかもしれません。 すべては無常でありといい、平家の盛衰を作品として残しています。
諸行無常 しょぎょうむじょう
是生滅法 ぜしょうめっぽう
生滅滅已 しょうめつめつい
寂滅為楽 じゃくめついらく 無常偈
この冒頭の一節は諳んじてみるのも学びとしてはいいのではないでしょうか。
吉田兼好の『徒然草』『、鴨長明の『方丈記』、仏典の『般若心経』なども日本人にはなじみの作品であります。
西田幾多郎の「絶対矛盾自己同一」の言葉を借りて 「絶対矛盾の自家撞着」良心的な呵責が残るにしてもこの言葉を受け取らなければならないのです。 私たちはいきもののいのちを食べないと生きていけないようにできています。
食事の前の「いただきます」というのは、食事を作った人へのお礼の言葉とも言えますが、昔の人たちは「食べものの命に対する意味」で合掌して「いただきます」を言うのだと教えてくれました。 ご飯をこぼしたら、拾って食べなさいと教えられたのです。 いのちに対する敬虔な思いを察することができるのです。
私が教師になってから親しい叔母からこんなことを訓えられました。 「“よし(私の名前)や、昔はなぁ、友達をかまっちゃいかんぞ、どんな親でも悲しがるでなぁ” と 親からよく言い聞かされたものだよ」 とお聞きしました。 今の世の中で、こんなことを言って子どもをしつけていく親がどれほどいるかと思うと、昔の親子間の絆、おもいは素晴らしかったんだと思わざるを得ないのです。 こうしたことは口伝として伝えられてきたと思います。
しつけという漢字は躾という表意文字でした。 着物を縫うとき「しつけ糸」の言葉があり、「待ち針」という言葉もありました。 昔は着物の縫い返しをしていたから、子供のころにはこのような言葉を聞いて知っているのです。
「子供のしつけ」は言葉で指示して言い聞かせるものではなく、着物を縫うときのように「実際のやり方」を見せて導かなくてはならないのです。 言葉で「ああせよ」「こんどは、こうせよ」という躾は実は、ほんとうの躾ではないのです。 見て真似をすることがどれほど大事な躾であるか、親は理解していなければならないのです。
今の世の中で、子供どうしの「いじめ」とか親子間の言葉による「指導」とか「教育」は、本来の人間の成長から言えば程遠い、よくない方法なのです。 「みてまねする」ことがどれほど大事なことか、改めて考えなくてはならないのです。
このことを知らずに親になってしまっては、人を育てる資格はないといっても過言ではないのです。 それほど大事なことなのです。
いのちを大切にすることは「人を殺してはならぬ」一番大事なことなのです。 そうした意味でモーゼの十戒の中核になっている「父母を敬う」の次に「人を殺してはならぬ」を取り上げているのです。 そう理解すべきです。
「いのちを大切にする」私の生涯でこのことは一番大事なこととして堅持してきたものです。 自分の体験からそう自分で決めてきたのです。 くどくなりますが、昭和二十年六月十日、この日に土浦海軍航空隊の兵舎はアメリカの爆撃によって壊滅的打撃を受けて炎上し、多くの死傷者に出会うことになりました。
その日は日曜日でした。 13期生が特攻隊として土浦へ帰ってきていて家族との別れをすることとなっていた。 朝食が済んでから敵機襲来の知らせがあり、私の班は、離れた防空壕ヘの逃避ではなく、航空隊守備で兵舎や練兵場の防空壕へ避難していました。 それから爆弾と焼夷弾による兵舎爆撃で大きな被害となったのです。 本館前の士官防空壕への直撃弾被害で第一練兵場の指令防空壕の近くへ避難していた私たちは救出に向かうことになった。
すでに救出者が多くいたので、格納庫への救出へ迂回したとき、東北東方向から爆撃編隊が引き返したとの知らせで指令防空壕のある第一練兵場の南方向へ逃げました。 みんなが逃げ切る前、多くの人が逃げている練兵場が再爆撃を受けたのです。
5m遅ければ直撃弾で吹き飛んでいたと思いました。 饅頭型の防空壕へ逃げ込むやいなや、もの凄い轟音に襲われ爆弾が壕の前10m位のところと壕の左裏で爆発したのです。 私の後ろは吉田君で体は埋まり頭だけ出していた。 饅頭型防空壕の入口は防災のため盛土がしてあった。 その盛土の左側から違う班の並木君が「やられた」と言って左腕を私のほうへ振り向けてきた。 息つく間もないことでした。
止血だけの手当てをして病棟を見ると、すでに火炎に包まれていたが、衛門から外へ出ようとしてその方向を目指して歩き始めました。 だが彼は爆撃で左大腿部の裏側の肉が爆弾の破片で大きくちぎれてたて下がっており、彼はそれに気がつかずへなへなとした足取りとなってしまった。 その時である。 「また爆撃があるから全員第二練兵場へ避難せよ」という指令防空壕の上から拡声器を通しての命令がくだったのです。 軍令に背くことはできず、私は彼を第一練兵場に防毒マスクを枕にして寝かせ、第二練兵場へ逃げてしまったのである。
だが、再々爆撃はなかった。 16期の予科練42分隊6班では同僚白川義雄がいなかった。 彼は兵舎に隣接する防空壕へ経営隊として残っていて、直撃弾をうけて跡形は何もなかった。 私たちはみんなで土を掘り返しながら捜索したが、直撃弾で吹き飛ばされた白川君の肉体はなにも見当たらなかったのです。 ただズボンの名札一布だけが見つかっただけでした。
なんという爆撃体験だったのでしょうか。 誰も言葉としては言うことはできなかった。 私は並木君のことが胸にしこりとして残って70才過ぎまで他言することもできなかった。 自責の念に傷ついていたのです。
戦後になって、それも自分に子供ができてから、子供を亡くした白川君の親の気持ちを思うとき、一層みじめさを痛感しました。
満16歳の戦争体験は生涯を通しての戦争拒否のバックボーンとした位置づいたのです。 戦後復学し長野へ行ってからは歴史の流れへの意志が強く、学びの中核ともなったのです。
いまでも、徴兵検査を終えた人たちがタクシーに分乗して、あの 「戦友」 をうたって帰ってきた情景を思い出し、長い歌詞だが歌っていると戦友の歌の兵隊さんの気持ちに打たれて胸が詰まるのです。
このことは、大類伸からは歴史の勉学の目当てを教えられから、のちのち「温故知新」の熟語を大事な思考方法としてとらえることになりました。 ついでながら、その後教職につき学びの大切さに気づき儒教の基本になっている孔子の思想が学而第一に準拠していることに目覚めたのです。 学びがいかに大事なことなのか、自分の考えの中に位置づいてきたのです。
教職を進めていくうちに、子供のいのちを育てることとして宿業教育あるいは母親の幼児教育がどれほど大事なことなのかが気づきました。 この宿業時代というのは仏教用語なのですが、私は母親が赤ちゃんをお腹の中に宿してから生まれて満三歳ころまでの時代と考えています。 この時代はいいことも悪いこともすべて、自分の大脳を作り上げていく人間の最高の超能力開発時代であり、すべて身につけていくのだと理解するようになったのです。
このことはまず間違いのない事実だと思っています。 ですから、見られてもいい、聞かれてもいい、真似されてもいい、それが教育の世界ではいちばん大事なことだと言い切れるようになったのです。
モーゼが訓えられた父母を敬うことがすべての生物の中核であり、続いて「ころすな」という言葉を取り上げていますが、生きているもののいのちを大切にすることを訓えようとしたのだと思います。 生きていく目的が種の繁栄であり一つ一つの命で大事なことは喜悦だと賢人たちは考えたに違いないと私は思うのです。
親が子を大事にすることは遺伝子のDNAに仕組まれて生物本来の特質だと理解できます。 本能的といってもいいのかもしれません。
私の生涯を通して見ると、モーゼが授かった訓えの大事な部分がそのまま受け止められるのです。
私は代々続いていく生命を作っているものを大自然の不可思議なエネルギーと考えてきました。
伊勢神宮の神様・天照大神にしても、そのような考え方に基づいていたのだろうと思います。 今の考え方とそう変わってはいないと思います。
しかも天照大神は女性であることの意味は、後々になって生命の根源を伝えてきたものは母親だと理解するようになっていたのです。 女性こそ命の伝承者だと考えたのだろうと思います。
この理解の仕方そのものは、間違っていないと思っていました。
モーゼが訓えられた十戒をよく理解して、自分の考えの中に取り入れてしようとしていて、まずおかしいなと思ったのは、二番目と三番目の訓え 「神の偶像を作ったり拝んだり名前をつけて言うな」 ということと、でした。 そしてまた、神は自分に似せて人をつくったとも言っています。 この言い方こそ、母親は神だという意味だと思います。 まず間違いない。
人間が今日の形態となっているのは、生物進化の結果であると言わざるを得ない。 この進化の姿はミトコンドリアDNAの願いであり、その不思議なエネルギーを神様と考えたに違いありません。
「敬天愛人」 という天は大自然の力と理解してきたのです。 「則天去私」、漱石も天の理解をそうしてきたと思いました。
天地人この一連の概念は古代中国の考え方の土台になっていたように私は思います。 ことに老子に至って自然そのものの根源をとても大事にし考えの中に取り入れたと思うのです。 詩人の中にも官界を志した人もあったのでしょうが、願うところは自然の真理に近づこうとする感覚の表現が基になっていたことと思います。
しかも天照大神は女性であることの意味は、後々になって生命の根源を伝えてきたものとして母親だと理解するようになっていたのです。
この理解の仕方そのものは、間違っていないと思っていました。