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書斎

『美しき罠』

Rafferty: Bill S. Ballinger: 1953

早川書房,ビル・S・バリンジャー


主人公の“ぼく”は、戦争でアメリカを離れ、数年ぶりにニューヨークへ戻ってきた。友人たちとの旧交を温めるうちに、“ぼく”はふと、かつてジャーナリストとして働いていたころに知り合った警官のラファティと会いたいと思い立つ。しかし、連絡を取ろうとした“ぼく”を待っていたのは、彼にまつわる信じられない出来事だった。
 友人を襲ったものは何だったのか。“ぼく”はラファティの元同僚や知人を訪ね歩き、彼をその結末へ導いた運命の正体をさぐる。やがて浮かび上がってきたのは、次のような物語だった――

こんな書き出しで、この話ははじまる。前半は書き手である“ぼく”を主体とした情報収集の過程、後半はその情報をもとに“ぼく”が書き上げたラファティの物語、という構成だ。こう聞いただけで、バリンジャーを読んだことのある人なら、ああ、と思うかもしれない。主に過去と現在の二重構造こそ、バリンジャーが得意とする趣向なのだ。
 そのトリッキーな構成は、間違いなくミステリに分類されるものだと思うし、バリンジャーのファン、もしくは叙述ミステリのファンなら、それだけでミステリとして太鼓判を押すかもしれない。しかし、『歯と爪』のようないわゆるミステリらしいトリックや、『煙で描いた肖像画』のようなサスペンスは、この話にはない。人によっては、ミステリに分類しないかもしれないのだ。

主人公のエメット・ラファティは、マンハッタン東署に勤める警官。彼は昔から、弱気を助ける正義の心を胸にはぐくんできた。妻と娘がいて、仕事ぶりは有能で真面目、まさしく警官になるべくしてなったような男だった。
 そんなラファティが、あるとき場末の店のダンサーと出会い、心惹かれてしまう。彼女の名はローズ・パウリ。貧しい家庭に生まれ、どん底の人生を歩んできたローズは、何不自由ない安定した生活に強いあこがれをいだいている。そんな彼女にどうしようもなく恋したラファティは、彼女に与えられるすべてを与えようとする……

つまり、男と女のもつれた愛が展開されていくのだが、ここで二人の価値観の違いが問題となる。ローズはラファティに、結婚して安定した生活がしたい、と迫る。しかし、ラファティはそれに金で応えようとする。彼にはローズが望むものが何なのか分からないのだ。皮肉にも、ローズが求めているのは、彼がすでに持っている“家庭”なのだ。
 この悲しい誤解が、徐々にラファティに道を誤らせていく。

ローズのために貯金を使い果たした彼は、やがて警官としての職務の権限をも利用して金を得はじめる。悪党の金を着服し、毛皮を盗み、それでも足りず金を追い求める。彼の内で、もはや幸福は金なしでは手に入らないという妄執が育ちつつあった……

物語は結局、破滅的な結末を迎えるのだが(これは冒頭からほのめかされていることなので、ネタバレには当たらないと思う)、ラファティをそこへ至らせたものの正体こそ、この話の最大の謎となっている。ローズへの激しい執着だろうか? それとも、漠然とした幸福の追求だろうか? けれど、これは人生の謎と取り組むようなものなので、はっきりした答えが得られるかどうかは読み手次第だろう。
 もう一つの問いかけは、警官とは何だろう、というものだと思う。ラファティ自身の言葉を、ここで取り上げる。「警官は尋問するために人間を捕らえる。さて、ひとつ質問だ。どうやって相手の本当の胸のうちを知ればいいのだろう? 本当にわかる者はふたり―― 本人と神だけなのに。しかし、警官は推測によってそれをつきとめる。警官は神を演じる者なのだ」
 ラファティは神になろうとしてつきすすみ、破滅したのだろうか? その答えは、上のとおりラファティと神にしか分からないのだ。


最終更新日: 2008.2.23