これはほんとうに変わった話だ。
何が変わっているって、まず出だしが尋常ではない。被害者は医者。一人暮らしの自宅で何者かに殺害されていた。その遺体は作中の表現を借りれば「見事なひらめきのうかがえる傑作」で、現場は血と糞尿と吐瀉物の「大洪水」だったのだ。そこへ、たまたま同じアパートに住む記者のパーラベインが侵入し、容疑者として捕らえられる、という展開だ。そして、たまたま”記者らしい”記者としてLAから逃亡していたパーラベインは、ここでも記者魂を発揮して事件を追及しはじめる。
その後、この惨状を作った殺し屋が現れて、その不幸ぶりが明らかになっていくのだが、このダレンという男がターゲットに指を噛みちぎられたうえ、犯行をごまかそうと現場で大便をした、というくだりになると、最初の、「んんっ?」が、「はああああ??」に変わる。殺人現場に侵入した挙句、パンツ姿で警察に捕まるパーラベインも情けないが、この殺し屋の情けなさたるや、悲惨を通り越して同情心が芽生えてくるほどなのだ。
一体、この話は何なのだろう。確かに、『鉤爪』シリーズを初め、最近は風変わりなハードボイルドやアクション・ミステリが多く世に出回っている。けれど、その中でもこれはどこか様子が違う。まず、汚すぎる。それに、弱すぎる。主人公も敵も軟弱きわまりないのだ。
しかし、それでいて、この話にはただの奇をてらった作品にはない何かがある。何か、特にわたしの世代に訴えかけてくるものがあるのだ。それは、あの映画と似ているからだ。そう、『ダイ・ハード』と。
この本の主人公や敵の軟弱ぶりは、『ダイ・ハード』(2や3や4.0では断じてない)の主人公、マクレーンや敵の自称テロリストにとてもよく似ている気がする。そう感じるのは、おそらくわたし一人ではないだろう。作品が書かれたのも1996年だというし、これでデビューしたという著者がダイ・ハード世代なのは間違いない。あの映画は、リアルタイムで観た者にとっては強いインパクトを持つ作品だった。なぜなら、あれはハリウッドがCGだらけの”ちっとも痛くない”アクション映画を大量に世に送り出しはじめた境目に作られた、”とんでもなく痛い”映画だったからだ。あれ以来、ハリウッドはリアリティを失い、よりバーチャルな暴力を創作しはじめた。そして、それはおそらく小説の世界でも同じだったのだ。
――記者として事件を追いはじめたパーラベインの前に、国民健康保険機構の理事長のライムという男が現れる。パーラベインはライムが、不必要なほど金をかけた病院のコンピュータ・システムを使って被害者の情報を得ていたという疑いを抱く……
やがて、パーラベインは被害者の元妻の協力を得て、病院のコンピュータ・システムに侵入するのだが、このへんのくだりだけを取ると、物語はまさに”バーチャル”としか言いようがない。コンピューターを使った情報戦こそが、この話のほんとうの見せ場と言っても過言ではないのだ。冒頭の殺人さえ、黒幕が殺し屋を雇って行ったものだ。黒幕や主人公自身がこの話の中で演じるアクションは、ほんの僅かなのだ。
だが、『ダイ・ハード』世代の作者はそれでは物足りなかったのかもしれない。そこで、殺人現場の目を剥くような惨状や、殺し屋の笑ってしまうほどの不幸を描き出した。
そう考えると、このどうしようもなく汚く、ばかばかしく、残酷な本と著者に、妙な理解と親しみを覚えてくる。リアリティとバーチャルの両方が、この本の中にはある。と、『ダイ・ハード』世代の一人としては考えずにいられないのだ。
とにかく、面白いことは面白いので、汚くても大丈夫、という人は読んでみてください。
ちなみに、読み終わったあとで、初めてこの著者が映画化された『楽園占拠』の原作者だと知った。『楽園占拠』はマクレーンも真っ青の情けない主人公が活躍する話らしいので、やっぱり想像は当たっているな、とにやりとしたのだった。