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『マンアライヴ』

Manalive : G.K.Chesterton : 1912

論創社,G・K・チェスタトン


ある風の強い日、ビーコン・ハウスに現れたイノセント・スミスという男。彼の破天荒で常識にとらわれない行動は、瞬く間に下宿人たちをとりこにする。しかし、ワーナー博士の告発によって、彼らの幸福は危機に瀕した。そこで、下宿人たちは私設法廷を提案。小さな法廷によって、スミスは裁かれることになった―― 彼にかけられた嫌疑は、殺人未遂、強盗、誘拐、重婚。スミスは果たして本当に無実(イノセント)なのか? そして、彼の正体は?

”マンアライヴ”という言葉は、内容を読むと”生きている男”という意味らしいが、どうも肉体的な生命のことではなく、チェスタトンが独自に定義した”生”であるらしい。わたしなりにそれを端的な言い方にすると、「血が体を巡っている状態を”生きている”とし、人間の頭脳にも血に相当するものが巡っているとするなら、それが凝り固まっている人間は体は生きていても”実際は死んでいる”ことになる」といったところではないかと思う。もし間違っていると思われる方がいたら、指摘してほしい。

具体的にどういう人間が”実際は死んでいる”のかというと、おとぎ話を忘れ、自由な発想ができなくなった人間、常識に捉われて自分で自分をがんじがらめにしている人間、などだという。たとえば、すべての事実を常識的に分析した結果、スミスを有罪だと断定したワーナー博士が、これにあたる。ワーナー博士がどうして”死んでいる”のかというと、それは彼が柔軟さを失い、狭量な見方で人を判断することに慣れきっているからだ。

チェスタトンといえば、『ブラウン神父』シリーズや『ポンド氏の逆説』など、ユニークな発想と逆説で知られる作家だ。その土台には、奥深い人生哲学と風刺の精神がある。『マンアライヴ』は、狂人のごとき主人公の巻き起こす旋風が全編に強烈な影響を及ぼしたような印象を抱かせる作品で、ちょっと、いやかなり、”きている”感じを醸し出している。感じどころか、たわごと以外の何でもないと思えるところもある。だが、これはほんとうは上記のワーナー博士のような人物をおちょくるための、かなりきつーい風刺、なのではないかと思う。

そう、主人公があまりに純真無垢で滑稽なためにうっかり誤魔化されてしまいそうになるが、この話の奥には批判精神という鋭い棘が隠されているのだ。

考えてみれば、チェスタトンという人は物事にとらわれない自由な考え方をする人だ。(でなきゃ、逆説など書けないだろう)そういう人にとって、常識一点張りの石頭連中は、うざったくて仕方なかっただろう。時にはやりこめてやりたくもなったに違いない。だが、逆説の使い手である巨匠は、まともに批判したりなどしない。そんなのは、彼の流儀にないことだ。彼は超絶的な技を駆使し、一見狂気としか思えない文章の中に、逆説的哲学と風刺を織り込む。

というのが、わたしの分析だが、どうだろうか。もっとも、チェスタトンの意図はもっと個人的感情を離れたものだろう。

それにしても、イギリス人のユーモアのセンスはすごい。この話も基本的にはどたばた喜劇だ。パンチとジュディでどたばたを学び、ユーモアで風刺をくるむというセンスを養ったのだろう。しかもチェスタトンは、辛口のコメディと哲学を融合させている。さすが、やっぱり巨匠は違うなあ、という感想で終わったのだった。

最後に。これを法廷ミステリだと思わないように。


最終更新日: 2007.5.30