人は本を読む前、その本についてどういうところからイメージを掴むのだろう? わたしの場合は、やはりタイトルだ。背表紙の内容紹介もあれば読むが、ほとんど参考にはしない。帯も同様だ。タイトル、それも訳者が名づけたタイトルからまずイメージを掻き立てるのが好きだ。訳題は翻訳者が作品のイメージを簡潔に読者に伝えようと頭を捻ったものであり、多くはそれに成功している。いわゆるイメージの伝播のためのものであって、そこに作品が売れるか否かがかかっていると言ってもいい。
この本を手にとってみる気になったのは、八割方タイトルが気に入ったからだった。密室もので、カー風のタイトル。みえみえだけれど気持ちはよく分かる。読んでみるとやはりそうだった。カーに傾倒したミステリマニアの青年の作品。ただ、予想した以上に(森英俊の訳をもってしても)文章が稚拙で、最初のうちは読むのに苦労した。
ストーリーは、若き素人探偵アルジー・ローレンスのもとを、ピーター・クウィリンという男が訪れ、兄を助けてくれと頼むところからはじまる。話を聞くと、ピーターの兄、ロジャーは結婚を目前に控え、一族の慣習に従ってある儀式に臨もうとしているという。その儀式とは、いわくつきの部屋に閉じこもり夜を過ごすというもの。周囲の説得を無視し、いよいよその晩、ロジャーは問題の部屋へと向かう。ところが真夜中、水も漏らさぬ警備をよそに、悲鳴が響き渡る……
要するに、ロジャーは誰もいないはずの部屋で何者かに背中をナイフで刺され、殺害されたのだった。事前にアルジーが確認したところによると、問題の部屋は窓、ドアともに施錠されており、しかもドアの鍵は被害者自身のポケットにあった。窓は屋外を監視する警官が、廊下は別の部屋に待機するアルジーとピーターが監視する手はずになっていた。
確かに密室状況自体はよくできている。ドアと窓の施錠にはじまり、警官と探偵とによる監視、さらに、雨によって地面がぬかるみになり、ある時間帯以降は足跡を残さずに人が通れたはずがなかった。二重三重に、考えつく限りの密閉状況を作り上げているのだ。しかも、この”完璧な密室”は一つだけではなく、二つ目の密室殺人まで起きる。
このあたりまでくると話がかなり面白くなり、細かいことはあまり気にせず謎の解明だけに集中しようという気になってくる。それにしても、時折頭をよぎったのは、黄金期以降の50年、60年代に活動したこのスミスや、タルボット、『五番目のコード』D・M・ディヴァインなど、本格の後継者というべき作家たちは、果たして幸せだったのだろうか、ということだ。偉大なミステリ作家達の作品を思う存分読みふけり、教科書にすることができた反面、先人の名声やテキストに縛られる息苦しさ、プレッシャーもあったのではないか。マニアでいるのが本当に楽しいのは自分が読み手でいるうちだけだろう。
そう思うと、スミスの密室への熱狂的なこだわり、偏執ぶりがちょっと気の毒になってくる。スミスはこの作品の中で、アルジーのセリフを借りて彼独自のミステリ論の一端や、素人探偵像へのこだわりなどまで覗かせているのだ。50年代といえば、ブランド、ブレイク、マクドナルドなどミステリ史に燦然と輝く偉大な書き手も多かったが、密室ものを書く作家はかつてに比べ激減していた。かろうじて元気があったのは、海の向こうのロースンや『空のオベリスト』などのC・デイリー・キングくらいだったのではないだろうか。世の中には法廷もののヘンリイ・セシル、警察小説のマリック、エリン、ミラーなど、新しい時代の旗手たちが溢れていた。そんな時代に自らのこだわりを貫くのは大変だったことだろう。よく考えると、そんな時代に”素人探偵”などとというのもいささか時代を超越した、というよりずれた感がある。
スミスのような作家は当時のミステリ界ではかなり浮いた少数派であり、嘲笑の的だったのかもしれない。少なくとも、当時、最先端と呼ばれた作家たちは彼らのことを変人だと考えていただろう。わたしも半ば以上そう思っているが、かといって、密室マニア達が営々と築いてきた密室ものの牙城が廃れてしまうというのも寂しいものがある。そう思うと、稚拙ではあってもスミスの元気のよさには勇気づけられるところもあるのだ。