身近な場所で殺人事件が起こり、その容疑が家族全員にかかる。やがて色濃い狂気の影が、女主人公を飲み込んでいく。確かに怖い話だ。そして実際、恐ろしくもある。マーガレット・ミラー『鉄の門』とは、そういう恐ろしい本だ。
しかし、この本の真髄は本当にそれほど怖いものなのだろうか。
舞台となるのは婦人科医アンドルー・モローの一家。モローの妻は既に亡くなり、後妻のルシールは前妻の子供たちとうまくやっていけずに悩んでいた。彼女の心を蝕む不安の種はほかにもあった。それは前妻、ミルドレッドの死に関することだ。ミルドレッドは何者かによって無残な殺され方をしたのだ…… そんなある日、彼女のもとに送り主の分からない郵便物が届けられる。その中には――
その出来事が引き金となって、ルシールは心を病む。やがて彼女は精神病院へ入れられ、文字通り”鉄の門”に閉ざされた場所で暮らすことになる。彼女の心の中は支離滅裂だが、実際は医者らに見せかけているほど狂っているわけではなく、自分を安全な場所に置くためにわざとおかしな振る舞いをしているのだ。彼女が恐れている相手、彼女の身に危害を加えかねない相手とは、家族の中の誰かだった。
もちろん、お話の軸は殺人事件にあり、前妻を殺した人間は誰かという点が最大の謎になっている。構成自体はミステリそのものであって、その出来映えもかなりいい。だが、最も重要なテーマはほかにあり、人間の狂気がそれだと思う。タイトルにもなっている”鉄の門”は、言うまでもなくダブル・ミーニングであって、物理的な閉鎖状態以上に、閉ざされた心を指している。ミラーが本当に描きたかったのは、無論人間の心の謎にほかならない。
だが、ミラーが病んだ人間の心を”不思議なもの”、”奇怪なもの”として描いていたと同時に、”恐ろしいもの”として捉えていたかどうかは疑問だ。わたしにはそうは思えない。よく聞かれる意見に違いないが、ミラーは狂気を非常に身近なものとして捉えていたようだからだ。
登場人物を振り返ってみたい。婦人科医のモローは、仕事と家庭内のストレスに悩む、”中年の危機”の年代。息子のマーティンは、若く才気に溢れ、何かにつけ行動を起こさずにいられない。娘のポリーは、家族の中では最も複雑で、いつもどこかしら謎めいている。モローの妹のイーディスは、口うるさく影のように印象の薄い存在で、まるで”いてほしくない人間”を象徴化したようだ。
実にありふれた家族像ではないだろうか。このうちの誰かが自分に害をなそうとしている、とルシールは信じている。だが、彼らは彼女の家族として何年も一緒に暮らしてきた人々だ。そんな彼らが、ある日突然敵になったりするものだろうか?
そう、身近なところにこそ敵意や狂気はある、とミラーは考えていたに違いない。家族や知人、友人らの、毎日見ている顔の中にこそ、それはひそんでいるのだと。内部で狂気の吹き荒れる”鉄の門”は、人それぞれの心の中にこそ存在するのだ。そしてひとたびそれが開けば、途方もない狂気や感情が溢れ出すのだ、と。
それは確かに恐ろしいことかもしれないが、同時に、そんなに恐れるべきことでもない、という気がしないだろうか。なぜなら、その狂気はすぐそばの人々の心の中、つまりはすべての人間の心の中に存在するはずだからだ。
最近の、精神病者の犯罪を扱った、いわゆるサイコパスものが、狂気に蝕まれた冷酷な殺人犯を徹底的に排除することをテーマにしたものだとすれば、ミラーの作品はそれとはまったく対極にあるのかもしれない。”鉄の門”というタイトルには、疎外や差別が含まれているとついつい考えてしまう読者もいるかもしれないが、実際はそうではない。ミラーはもっと身近なものとして狂気を持つ者を―― あるいは人間すべてを―― 描こうとしていたのではないか。それを思うと、単純に怖いという感想の向こう側の何かに、ふっと手が届きかける気がするのだ。