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書斎

『毒杯の囀り』

The Nightingale Gallery : Paul Doherty : 1991

東京創元社,ポール・ドハティー


読みはじめてまず驚かされるのは、筆の饒舌さだ。中世ロンドンの街並みが、これでもかと言わんばかりに描き尽くされている。通りに溢れる人々、熱気、活気―― そうしたものが、迸るように次から次へと、読み手に息もつかせぬ勢いで紡がれていく。その”情景の氾濫”たるや、猥雑そのものといったところだ。腐臭と汚物と血にまみれた13世紀の交易大都市。それが、圧倒的な表現力と瑞々しい筆さばきで描き出されているのだ。

13世紀のイギリスは、航海時代の真っ只中にあり、フランスとの衝突や、十字軍遠征など政治面でも激動の時代だった。このお話はエドワード三世が崩御し、幼いリチャード二世が即位したばかりの頃を下敷きにしているが、そうした情勢の不安定さがストーリーにも深く関わっている。いわば、イギリスの戦乱期を背景にしているわけで、これで面白くならないわけがない。

さらには、先述の描写力だ。人によってはミステリを読む上で、ここまで緻密な情景描写などいらない、という人もいるかもしれない。手がかりとそうでないものをより分ける上で混乱するからだ。しかも、殺人現場の描写ならともかく、まったく関係のない街の様子なのだからなおのことだ。しかし、それなら歴史ミステリの意義はどこにある、という話になってくるのではなかろうか。

ストーリーは、戦争によって心に傷を負い、修道士になったアセルスタンのもとへ、いつものごとく検死官のクランストン卿が血なまぐさい事件を携えてくるところからはじまる。いつものごとく、というのはお話上の触れ込みであって、この二人の登場はこの作品が初のようだ。検死官というと現代で言うところの検死医を想像してしまいそうだが、当時はまだそうしたものは制度としては存在せず、検死官が変死を遂げた死体や現場の検分をし、事件を捜査していたようだ。つまりクランストンは現代で言うところの警官であり、修道院長からじきじきに書記に任命されたアセルスタンは、その助手、といったところだろう。

事件が起きたのは裕福な商人、スプリンガル卿の邸宅。殺されたのは当主本人だった。邸には若く美しい妻のほかに、スプリンガルの母と弟、貿易仲間など数人が暮らしており、全員が容疑者と疑われる。しかし、前夜当主と口論をしたという執事の自殺体とみられる死体が見つかり、しかもスプリンガルの母、アーメンギルドが昨夜、卿の部屋の前の廊下を通ったのは執事一人だったと証言した―― スプリンガル邸のその廊下は、人が通れば必ず歌う、”小夜鳴鳥の廊下”だったのだ。

状況からして執事が犯人に違いないと邸宅の住人たちは口を揃えるが、疑問を持ったアセルスタンたちは捜査を進め、やがて犯人は別にいる、という確信を抱く。

謎自体はそれほど新鮮でも複雑でもない。それに、お話もここに述べた限りでは、細かい道具立てはさておき、近年を舞台にしたミステリでもわりとありがちなものではないだろうか。クランストンを警官、アセルスタンを学者か何かに置き換えれば、さほど苦労することなく現代ものに書き換えることも可能だろう。しかも、クランストンというのがまた、まさしく警官、といった人物なのだ。正義と人情担当の警官と、苦悩を背負った学術肌の青年、とくれば、探偵コンビの定型の一つといっても過言ではないだろう。

しかし、この話にあって、現代ミステリにはないものが一つある。それが時代背景だ。歴史の揺籃期をようやく抜け切ったばかりの血気盛んなイングランド。百年戦争の真っ只中をたくましく生き抜く庶民たち。このエネルギーの坩堝だけは、やはり現代には存在しえないものだろう。そしてその背景を、著者は余すところなく描き出そうとしているのだ。さらに、探偵には宮廷とは基本的に相容れない人物―― 正義に篤い庶民派の検死官と、同じく弱者の味方である修道士をあてがった。ストーリーもまた、濡れ衣を着せられた執事の汚名をすすごうというのが発端だ。これは、権力と権力のぶつかり合う激動の時代のさなかにあって、常にふみにじられ、時に殺されてきた庶民の側に立った物語なのだ。弱きものを助ける真の正義を見据えたお話なのだ。こういう大仰で感動的なテーマは、現代ものではなかなか扱えないのではないだろうか。歴史ミステリの本当の価値とは、まさにこういうところにあるのだ。


最終更新日: 2007.2.18