そこに泊まった者は不可解な死を遂げるという、呪われた部屋―― しかも、二人でいるときは悲劇は起こらず、決まって一人きりのときのみそれは起きるという。代々に渡る屋敷の主やその知人達を処刑してきたその部屋を、いつしか人は虞れを込めて”赤後家の間”と呼ぶようになった。――そう、ギロチンの間、と。
と、いったような”部屋の伝説”ではじまるのが、言わずと知れたカーター・ディクスンの『赤後家の殺人』だが、なぜまた突然その導入を持ってきたかというと、フィリップ・マクドナルド(当初はマーティン・ポーロック名義で出された)のこの作品『フライアーズ・パードン館の謎』もまた、同じ”呪われた部屋”を題材にしているからだ。
その部屋に滞在した者は必ず奇怪な死を遂げる―― ”部屋が人を殺す”。細部は違えど、大見出しは一緒、ということになる。無論、部屋が人間を殺すことなどありえない。しかしそこへ、クラシックなムード溢れる描写やら、恐怖心を煽る挿話などが盛り込まれれば、ありえないはずのことが起きてしまう恐怖劇の世界へと、読者はいざなわれていってしまうのだ。
もちろん、ミステリだから、裏にはからくりが存在する。過去の伝説はともかく、物語の中心となる現在の事件には、合理的な説明がなくてはならない。これはミステリのお約束とでもいったものであり、著者がこれを無視すれば読者から非難の嵐を食らうか、よっぽどうまく書けば、一種畏敬の念を込めてバカミスと呼ばれるかのいずれか。とにかく、ミステリの黄金時代に書かれたこの二作では約束が守られている。また、恐怖を煽る演出が盛り込まれているという点も共通している。これこそ、正統派の、由緒正しい不可能犯罪ミステリなのだ。
そこで思うのだけど、”不可能を解き明かす”、”奇怪な事件を合理的に解決する”ことが売りの不可能ミステリなのだが、そこには、黄金期の作品の場合は特に、最後まで解けない謎が存在する。それが、最初に挙げた”部屋の伝説”。『赤後家』でも『フライアーズ・パードン』でも、序盤にお話を盛り上げた挿話の謎は結局解き明かされない。読者としてはつい、すべての謎が余さず解かれることを期待してしまい、読み終わってはじめて、あの魅力的なエピソードが単なる雰囲気づくりのための小道具だった、と気づかされるのだ。
中にはもっと賢明な読者もおられるのだろうけど、わたしの場合は『赤後家』でうっかりその思い込みに嵌まってしまい、おしまいで愕然とさせられたのだった。その苦い思い出があったため、『フライアーズ・パードン』を読んだとき思わず彷彿としてしまった、というわけ。
お陰で、今回は余計な期待をせずに本筋の謎のみに集中することができた。考えてみれば、のちのち明かされる謎ばかりを散りばめては本筋がおろそかになるし、挿話も迫力に欠けたものになりそうだ。合理的解決を旨とするミステリでありながら、前提として怪奇現象の実在を認めてしまう、という乱暴とも言える(森英俊氏はおそらくそんなところも含めて、解説で「おおらか」と書いておられたが)作風だからこそ、現代人の常識に凝り固まった頭をがつんとやってくれるのかもしれない。
と、先に本作に関わりがあるようなないようなことを書いてしまったが、ようやくあらすじを説明すると、戦争で輝かしい戦歴を立て、帰国してひと財産を築いたものの、やむをえない事情でそれを失い、財産管理人となった青年、チャールズ・フォックス=ブラウンが主人公。フライアーズ・パードン館の女主人に雇われることになった彼は、やがてその館にまつわる呪われた過去を知ることになる。そして想像どおり、いわくつきの部屋で女主人が殺されるのだが、その死因はなんと”溺死”だった、というもの。
無論、殺人の起きた部屋は密室で、その点は『赤後家』やその他の不可能ものと同じだが、そこへさらに溺死という別の不可能状況をかぶせるあたり、さすがマクドナルド。偉い。
というわけで、あれこれと文句をこぼしてみつつも、楽しめるところは充分楽しめたのだった。
また、恐怖演出のほかに、時代がかった雰囲気、奥ゆかしいラブロマンス、念入りな情景描写、とムードは抜群。登場人物も、いかにもといった連中ばかりで、被害者の女主人に至っては、19世紀のゴシック小説家を思わせるような俗物作家。これらがあいまって、フライアーズ・パードンという謎と怪奇の空間を作り上げているのだ。実は、この本には屋敷の見取り図や人物紹介表が一切なく、最初はそのことに文句たらたらだったのだが、やがてそれもいいと思うようになった。見取り図がなければ、頭の中に思い描けばいいし、人物名が覚えられず混乱するなら、メモを取ればいい。文章のみから香りたつ想像の世界に酔い痴れるのも、ときにはいいのではないだろうか。