スコットニー・エンド館の新しい主人としてやってきたヘンリー・カーゲートは、およそ誰からも好かれない人物だった。彼の横柄で世の中のすべてを憎むかのようなやり方に、村人はおろか使用人やロンドンの切手商さえ反感を抱く。しかし、一瓶の砒素が登場するまでは、誰も彼を殺そうなどともくろむ者はいなかった。皮肉なことに、その砒素を買った人物こそ、誰あろうカーゲート自身だったのだ。
彼が殺害されたのは、町を出ようとする列車の中だった。その方法とは彼の嗅ぎ煙草に砒素を混入するというもので、死んだとき被害者は一人、当然ながら犯人の姿はそばになかった。いくつもの偶然から、一見ただの心臓発作にしか見えないこの事件は殺人事件と判明する。そして捜査の過程で、犯人がきわめて犯意の低い―― ある意味で悪意のない人物だということが分かっていくのだ。
この本は容疑者の中のある人物が犯罪を犯すことができた非常に微妙なタイミングをさぐりあてていくという話なのだが、それは逆の見方をすれば犯人にとっても同じで、その人物が犯罪に手を染めたのは偶然と運のなせる業、もしくはそれに近い理由からなのだ。偶然の重なり、そしてタイミング、それこそが殺人が起きるもっとも大きな要因になりうるのであり、そこには何も私利私欲や悪魔の心などは必要ないのだ、と言っているように思える。
そう考えると、『善意の殺人』というのはちょっと言い過ぎのような気がするが、短くて的を得たタイトルとも言えるだろう。
ミステリ・ファンとして読み応えのある部分は、言うまでもなくこの犯人が得た針の目を通すような犯行の機会を捜査側がさぐりあてていく過程であり、捜査にあたるフェンビー警部という人物の緻密にして見事な捜査と推理には思わず引き込まれるし、地道な調査が徐々に実を結んでいくところなどは、深い滋味すらおぼえるほどだ。
しかし、この話の本当の読みどころは、事件の始まりから終りまでが一つの裁判として綴られるところにある。そう、この作品は実によくできた裁判ミステリでもあるのだ。
とはいえ、話の主体は過去の事件にあり、それを法廷ものの体裁を借りて語ってゆくという形式なので、新しい証人が現れるたび過去の場面に遡る、いわば回想リレーとでもいうべき展開になっている。これが一種の趣向としてお話を面白くしているのだ。法廷を舞台にしたミステリには詳しくないが、この本の解説にも名前が登場するバークリー/アイルズの『殺意』あたりが斬新だったように、この物語も当時はかなり斬新なものとして迎えられたのだろう。テーマや切り口などは地味ながら、今読んでも躍動するような”新しさ”が伝わってくる。芳醇で、斬新、そしてどこかやさしい物語だった。