折々の記へ

折々の記 2009 E

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】07/15〜        【 02 】07/23〜
【 03 】07/26〜                    【 04 】教育問題のまとめ【その一】
【 05 】教育問題のまとめ【その二】        【 06 】教育問題のまとめ【その三】
【 07 】教育問題のまとめ【その四】        【 08 】教育問題のまとめ【その五】



【 05 】07/28

07 28(火) 今までの教育問題のまとめ【その二】

   2003 9 22(月) 日本の教育、これじゃ哀れ
   2003 9 24(水) (続)日本の教育、これじゃあ哀れ
   2003 9 25(木) (続)日本の教育、どうしたらいい
   2003 10 24(金) 教育とマスコミ
   2004 01 16(金) 警鐘・アジアから見捨てられる日本…これでもいいのか…
   2004 01 19(月) 警鐘・ アジアから見捨てられる日本…これでもいいのか…(続)
   2004 01 24(土) 学力テスト―理数教育の底上げを
   2004        ■《天声人語》    〈コラムから天声人語検索〉
   2004        ■「理数は苦手」鮮明 高3・10万人学力テスト

9月22日(月)日本の教育、これじゃ哀れ

今日の朝日新聞を見ると、“「家で勉強しない」日本の高校生は37%”と出ている。

家での学習時間ゼロの一般高等学校の生徒は、日本は36.6%、シンガポールは13.0%、英国4.9%という調査結果である。

日本の教育はこれでいいのだろうか。 あまりにも哀れではないか。

以下はアサヒコム「教育・入試」
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200309210241.htmlから転載したものである。

---------------------------------------------------------------

「生徒指導に自信」6%、中国などより極端に少なく

 生徒指導に「自信がある」と言い切った先生はわずかに6%――。そんな調査結果が21日まで東京都内で開かれた日本教育社会学会で報告された。調査では英国、中国と比較をしたが、日本は、子どもの指導に自信のない先生の多さが際だった。学会では、日本の高校生の勉強離れの実態も報告された。

 先生については、国際基督教大の藤田英典教授らの研究グループが小中学校で調査した。日本では11都県の約1300人、中国は上海と雲南省で約700人、英国では全国の約1400人を対象にした。

 生徒指導や教科指導、教科の知識、学級づくり、部活動指導の5項目について「自信がある」「やや自信がある」など4段階で尋ねた。

 このうち生徒指導では「自信がある」と言い切った先生が日本では6%だったが、英国は47%、中国は73%。「やや自信がある」を加えても日本は55%。英国は92%、中国は98%にのぼった。

 このほかの項目でも、「自信がある」と答えたのは中国が53〜80%、英国が33〜78%に対し、日本は8〜11%で、どの項目も際だって低かった。

 日本では、子どもの暴力問題やいじめを抱える学校の先生、保護者からのクレームを頻繁に経験している先生ほど自信のない傾向が強かった。

 「子どもの変化を前に、何とか指導しようとするが、保護者や地域の目が厳しく自信を失う教師像が見える。教師と親がどう協力関係を結ぶかが問われる」と、学会で報告した福岡教育大の油布佐和子教授は話す。

 一方、高校生を調査したのは、お茶の水女子大の耳塚寛明教授らのグループ。日本、英国、シンガポールの比較をした。日本は北陸の公私立12校、シンガポールは7校でそれぞれ約1300人、英国は南部の5校の約450人。いずれも翌年に大学受験などを控えた学年を対象にした。

 家での学習時間がゼロの生徒は英国が5%、シンガポールが13%に対し、日本は37%。「できるだけいい大学や就職先に入れるよう成績を上げたい」はシンガポール、英国がともに9割に対し、日本は6割。

 日本とシンガポールの学校については、学科や成績ランクで5グループずつに分け、学習意欲の違いを分析した。

 「いい大学に入れるよう成績を上げたい」では、シンガポールはどの集団も8割を超えている。日本は成績上位校は8割だったが、下位校では4割台で格差が大きかった。「日本は受験競争の弊害を否定しようとして、学びの価値まで否定してしまったのではないか。格差の広がりが懸念される」と耳塚教授は話している。 (09/22)

---------------------------------------------------------------

9月24日(水)(続)日本の教育、これじゃあ哀れ

9月22日に続く。 教育については、今まで朝日新聞その他で次のものを調べてきた。

@ 新しい時代を切り拓くたくましい日本人の育成〜画一から自立と創造へ〜
  平成14年8月30日
  文部科学大臣  遠山敦子
  moto.343.html
   http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/14/09/020911.htm

A 児童生徒の学力について 国際数学理科教育調査
  2002/10/11 のURLでは開けたが、今は表示されない。
  「データベースサービス」か「CLUB A&A」から有料で検索できる。

B asahi.com の転機の教育をみると次のものが見れる。
  <転機の教育…第二期>(1〜13)
  国立大学法人化(1〜10)
  大学激動(1〜7;特集2)
   http://www.asahi.com/edu/tenki/index.html

C asahi.com には次の転機の教育があったが今は表示されない。
  「データベースサービス」か「CLUB A&A」から有料で検索できる。
  <転機の教育…第一期>(1〜4)
  <転機の教育…第三期>(1〜7)
  <ゆとりを追う…時間>(1〜6)
  <ゆとりを追う…この一年>(1〜6)

D 「データベースサービス」から次の項目も検索できる。
 01 日本の大人たちの基礎的な科学知識 天声人語
 02 意欲の低さが心配だ 国際学力調査(朝日新聞社説)
 03 知識の応用力上々 ОECD32ヶ国で15歳テスト
 04 学校五日制 学力低下への危機対応(ちば教育最前線)
 05 学力問題、国越え共通 国際教育シンポ・討論、各地で
 06 算数の学力大幅ダウン 20年前の75.2%→64.5%
 07 算数学力低下、計算・数量で顕著 教科書の簡素化も響く
 08 OECD生徒の学習到達度調査 2000年調査国際結果の要約
 09 算数の学力、20年で大幅ダウン 小学生6200人調査
 10 有料検索「教育:学力」→総件数697件
 11 有料検索「教育:ゆとり」→総件数427件
 12 有料検索「教育:OECD」→総件数19件

以上のデータに一度に目を通すことは至難のことかもしれません。だが、問題になりそうな項目だけでもいいから読んでいくと、戦前戦後の教育の姿を比較せずにはおれなくなります。

問題をどうとらえるか

@ 子供のとらえ

調査対象が子供だから、子供はどうして学力低下してきたのか、それをハッキリとらえなければならない。すべて環境に順応して育った結果としてとらえたほうがよい。

環境の中で一番影響を受けるのは当然のことながら子供の両親である。80〜90パーセント以上の影響を受けると考えていい。異論があるでしょうが基本的な認識として位置づけることがいい。

他人任せで子供が育ったとすれば、こんな困ったことはない。カール・ヴィッテにしても正田美智子様にしても、「この親ありてこの子あり」ということは洋の東西を問わず誰しも納得できる。子供は親の影響があってこそ親のようになる、あるいは親以上になる、ということは誰しも了解できることだと思う。

とすれば、ことの解決は親のあり方如何にある。

A 親のとらえ

親は自分の生き様が子供にとって物凄い影響を及ぼすという認識は、あるいはそういうメカニズムがあるということの認識は、一般的にはもっていない。

戦前の貧乏な時代、「子供にだけはいい生活ができるようにさせたい」という共通の願いをどの親ももっていた。「恥ずかしくない子供に育てたい」という願いをもっていた。

生活が楽になってくると、子供へ寄せるこういう意識はだんだんと薄れてしまう。忙しいときに子供に手伝わせるという、いい伝統も薄れてしまう。我慢させるという忍耐心も薄れさせてしまう。子供は困ったこともなく育ち、思ったように振舞えるようになり、自分の欲するままの行動をとりしゃべり、言わばわがままになってしまった。親と一緒に汗を流すことがなくなり、親の働く姿を見て学ぶという機会がなくなってきている。
親が自分の生き様がそのまま子供に物凄い影響を及ぼすという認識、あるいはそういうメカニズムがあるということの認識、そういう認識の有無にかかわりなく、貧乏が子供の成長にかかわっていたことは間違いのない事実であった。

物質文化の向上は精神文化の向上を阻むことになって、心のもち方の伝承が妨げられるようになりました。

B 時代のとらえ

生活が便利なものになると心のもち方の伝承が変化してくる、ということは事実であろう。物質文化と精神文化の相関性はどこかにバリア(限界)がありそうだ。
現代はこのバリアの圏外となっており、相関性はない。

C 教育制度のとらえ

国民を教育する義務は国政にある。文部科学省に全責任がある。教育行政が目指しているもの、方向というものはこれでいいのだろうか。
教育制度をどう整えていくかは一大関心事でなくてはならない。

教育制度を考えていくのに、たえず全体像を想定して修正また修正という手法をとっている。けれども基本的部分につまづきがあれば改正に改正を重ねていても、土台ができていないところへ楼閣を築くのに等しいことになる。
この基本部分の考え方を再検討すべきではないのか。
人の成長過程の基本認識ができていないように思えてならない。知的能力の成長はすでに幾多の実績によって証明されてきている。道義的能力あるいは倫理的能力の成長もおおよそ判っているのだと思われるが帰納的方便としてはまだ確立はされていない。生体維持能力については、目覚しい開発をしている最中のようである。

一人の人間がどのようにして知徳体の円満な完成に向かうのか、その科学的メカニズムにそって教育制度そのものを再構成する必要があるのではないだろうか。

教育制度のとらえについては問題がある、というとらえをしなくてはならない。

D その他

地域社会の協力とか、精神文化の高揚などの分野にも配慮していく必要がある。

9月25日(木)(続)日本の教育、どうしたらいい @

日本の教育がおかしい。いま言われ始めたことではない。それだけに根が深い。

生徒も、制度もおかしい。昨日は問題の「とらえ方」を整理してみた。
教育が嘆かれる現状をハッキリさせておいたほうがいい。

校内暴力、登校拒否、いじめ、学力低下 などの小中高の生徒の現状
髪型服装化粧、夜型徘徊、性の紊乱、礼儀の欠如 などの青少年の現状
サンマに代表されるТVの低俗化、ビニ本取締り欠如 などの現状
政治家、企業役員に代表される倫理観の欠如の現状
拝金風潮に見られる泥棒マンビキ窃盗横行の現状
「寄らば大樹」にみられる追従性の現状
………………

などなど、一人の人の個人の内部意識がおかしくなってきている。

生命体の本来の意識は、その生命体の維持進化に支えられているのだが、どこかの段階で…「俺は、これでいいんだ」という段階で…エネルギーを無くしてしまっている。維持進化のエネルギーが衰えてきているというのが言い過ぎなのなら、足ふみをし始めていると言ってもいい。

もともといつでも、自分の生命体の維持進化という「本然意識」を、誰でも心の深層にもってはいるのです。よくよく考えている時にこの「本然意識」はめざめるのです。ただそれは余計なプライドとか格好悪さで他人に表現できにくいものもあるのです。人は心に忠実に生きることが大切なのです。そして本来は心というものは自己満足に留まるものではなく、みんなが喜ぶことを喜べるようにプログラムされているのです。

そういう意味では、ウソは言ってはならないのです。ウソは自分を苦しめるものなのです。そしてそれは誰でも知っているのです。自分にもウソは言ってはいけないんです。

とは言っても、屋上屋を重ねる人がいます。上記の望ましくない現状にあげたことに該当する人たちは屋上屋を重ねているのです。自分の殻にとじこもって恥ずかしく小さくなっているのです。知らない人に対しては胸をはっているのです。見ている人は信用しなくなります。

自分を高めていくという意識というかエネルギーというか、そういうものを私たちは持たなくてはなりません。

もしそうであったとしたら、子供をどういう環境においてやればいいのだろうか。これが今回の根底的テーマなのです。

「子供たちの学力がおかしい」ということは教科書をかえたり事業時間を多くしたりしても、それはそれとして良いのだが、そんな姑息な考え方では成果はあがらない。成果があがらないことは間違いないことであるばかりか、中途半端で片つけられるのです。

枝葉末節という言葉がある。一つの問題を「木」にたとえて考える考え方であろう。「木」という生命体を支えているものは、誰しも知っているように土と水と太陽が必須のものです。根からはたとえ微量にしてもたくさんの栄養素を吸い取っていきます。一本の木を考えていこうとするとき、枝葉末節にこだわって全体の理解を中途半端にしてはいけないことは判りますね。

明日は、それではどうしたらいいかを扱いたいと思っています。

10月24日(金)教育とマスコミ

今日テレビを見ていたら、教師の乱れを大げさに放映していた。
これから細かく放映されるというから、よく見ておきたい。

問題と思うのは、教育の権利義務が保障されずにいて、社会規範のないままに、子供や生徒、学生にいたる被授業者が甘やかれ過ぎていることに、根底的な欠陥があるということだ。

親に教育についての自信のない人が多いし、定見を磨こうとする人も少ない。教育の権利義務についてしんけんになって議論する気風や雰囲気もない。そして問題を解決しようとするとき、他の人とか一般の人とか自分以外の人や制度にその責任がある、と錯覚している。

この基本的部分の認識は、マスコミ関係者にも教育に関わる指導的立場の人々の間にも、きわめて多い錯覚現象である。

同様の錯覚は、自衛隊の海外派遣についての討論の様子を聞いていてもそうである。自分以外の他人事として処理しようとしている事実にも通用している。
第九条の戦争放棄とか武力とかの意味が皮相的な認識にとどまっていて、武力の結論は自分と隣人を含む人と汗水流して作った モノ を破壊する以外のなにものでもない。自分がなにも知らない相手を殺傷するか、自分がなにも知らない相手に殺傷されるか、それ以外のなにものでもない。

この戦争認識にしても、マスコミ関係者や政治指導者の多くは、“相手が攻めてきたらどうする”という発想から“丸腰でもいいのか”という論理が横行しているのである。武力の結論は双方のことであり、双方の立場を含めて人としての認識の基本は『人を殺してはいけない』という理念が取り上げられない。他人事としての空論なのである。

教育問題も、有事論争の問題も、基本的部分に大きなずれがあると言わなければならない。

01 16(金) 警鐘・アジアから見捨てられる日本…これでもいいのか…

“Look East!”かつて、マハティールが率いたマレーシアの旗印であった。勤勉な国民性にささえられて敗戦後のドン底から経済成長を続けて立ち上がった日本を見て、彼は“Look East!”を旗印にしたのである。

首相:アブドゥラ・バダウィ(2003年10月就任)は“Look East!”から、中国、韓国との経済交流重視という方向へかえてきている。

経済は別としても、日本からは学ぶものがなくなったというのである。というのは、勤勉な国民性はなおざりにされ、将来への明るい展望も予測できないと状況判断をしているらしい。

若者の精神的支柱となっていた勤勉さだんだん希薄になって、髪を染め、ミニスカートに興じ、成人式では自分のわがままを誇らしげに行動するものが多く見られる状況を目の前にすれば“Look East!”の軌道修正は当然の帰結かもしれない。

さらに、対米追従の姿勢をあらわにして軍備を増強し続け、首相の靖国神社にクレームをつけられても耳をかさない対外姿勢をみていれば、“Look East!”の軌道修正は当然であろう。

加えて、教育の不安定、実情をずっと見ていれば、日本から学び取ろうという気持ちにはなれなくなってくるのも当然であろう。

アジア諸国の日本評価には、私たちが改めて考えなくてはならないことが非常に多い。

こうしたアジアの近隣諸国の人たちの変化に対して、日本の実情を憂える人は意外に多い。

多くの人が、どうしたらいいのか、対策に困惑している実情ととらえていいのだと思う。

根底に横たわる原因は、……


01 19(月)警鐘・ アジアから見捨てられる日本…これでもいいのか…(続)

根底に横たわる原因は、……重層構造であり複雑である。

傾いた家の修復と同じで一つの箇所を修復すれば良いというわけにはいかない。

全体の日本人が根底的にもっている欠落ではないと考えていいから、修復は可能である。

基本的部分は「人の養育」改善ととらえたい。
個人のバックボーンとなるものは価値観であり、人間性であり、世界観であり、人生観であるとみなしてもよい。こうした基本的部分のなかに「人の養育」観ができあがっている。

物質文化に目を向けた意識からは精神文化を大切にする意識が薄れて、「人の養育」のなかに精神的文化の養育がおろそかにされている。たとえば「人を大事にするという分野の礼儀」、「ウソを言ってはいけないという信義」、「モノの命を大事にするという質素倹約」、「愛情に報いるための、報恩とか孝養」、などの精神的文化の養育がおろそかにされている。

「ウソを言うな」「人のものをとるな」この部分の養育が希薄になると、自分たちが選んだ議員の人たちですら「ウソ」を言うようになる。人に迷惑をかける「ウソ」は法的にもその責任は追及されなければならないし、以後「ウソ」を言った人を信頼してはいけないはずだ。「人のものをとる」、この人を「ドロボー」と言う。「ドロボー」の汚名は人の脳裏からは拭い去ることはできない、これは基本的な倫理意識だった。そういう意味から「万引き」は、まちがいなく「ドロボー」なのである。どうして泥棒意識が薄れてしまったのか、ひとえに「わが子への養育観」が変貌していることに原因があると考えざるを得ない。

「茶髪、ピアス」に現れているウスッペラな「美意識」は、時の流れとかご時世とかいっているのも「赤信号みんなで渡れば怖くない」という個人意識を尊重しない自意識の欠如であり、「人の養育」からかけ離れた親の人生観から生まれでてきている。日本人の「勤勉さ」からは程遠いものと言わなければならない。

むかしの“イワンのばか”という教えは、薄れてきている。多くの勤労者はそのことを大事にしているのだが、「人の養育」には活かされていない。

吉田兼好とか芭蕉とか、信州出身の一茶とか、良寛とか、清貧にうらうちされた先哲への精神的文化への憧憬はどこへいってしまったのだろうか。

中江藤樹といっても、今の学校で教育を受けた若者には知る人もない。「生活できる」という生来の最低限の希望に汲々として夢を追うものが多いが、「自分を築き上げる」という壮大な夢を追うものは少ないように思う。

人が伸びる学校教育は「先生の教育権」が崩れてしまった。先生方の責任だけではなく、おやの教育指針が自己本位に流れ、くわえて行政サイドに教育哲学が軽んじられるようになってしまった。信州教育といった先生の夢も地域社会のバックアップもなく、教育行政のビジョンもなくなっている。教育の国家統制というものは、自由思想の発露を弱体化させている。

家庭における「人の養育」とともに「教育権の復活」が、日本の子供たちが蘇生する唯一のキーポイントではあるまいか。

円周率を3で処理する考え方からは、「本当のことを知ろう」という教育本来の姿勢を奪うものであって、ギリシャの「知識を愛する、真理を探究する」というフィロソフィーからは、しばらく離れた立場となることは明らかだといえよう。ギリシャの学問が人の生活のうえで如何に大切な働きを担ったかを見れば、因果関係は理解されるはずである。

日本の教科書の変遷をみていると、だんだんと低俗化していることも事実である。教室における師弟関係も低俗化している。子供たちに謙虚さがみられないのである。「人の養育」が質的にも低俗化している証拠でもある。

「瓜の木に茄子はならない」「親に似ぬ子は鬼子」……民間の諺は厳然として生きている。



  妻をめとらば 才たけて
  みめ美わしく 情けある
  友を選ばば 書を読みて
  六分(りくぶ)の侠気(きょうき) 四分(しぶ)の熱



この歌を歌った頃はバンガラではあったが、前途有望の青年の高唱はなつかしいし、野性的な夢に満ちていた時代でもあった。それが今では影をひそめてしまった。

01 24(土) 学力テスト―理数教育の底上げを

01月24日 朝日新聞

寒波が日本を襲っている。インフルエンザも始まっている。朝日新聞のトップに「高310万人学力テスト 理数目立つ低正答率」という記事が載っていた。「27面に特集、34面に関係記事」との注書があり、詳細にその記事が出ていた。

学力低下……それはもう“ああ、そう!”では済まされない事態に追い込まれている。
大事なことだから載せたい。




■学力テスト――理数教育の底上げを   〈トップから社説を検索〉

 全国の高校3年生を対象にした学力テストの結果が文部科学省から公表された。

 おおむね予想通りの水準だった国語や英語に比べ、数学と理科の正答率は文科省が期待した成績をかなり下回った。しかも、基本的な知識や原理、法則が十分理解されていなかった。

 さらに数学では、できる生徒とできない生徒に分かれ、二極化がうかがえる。理科では平均点より低い生徒たちの層が最もふくらんでいた。かねて専門家が指摘してきたように、理数系の教育が深刻な状態なのは間違いない。

 高校生は学科や進学、就職など進路に応じて教育内容も決まってくる。もともと成績のばらつきは大きい。しかし、だからといって、このまま放置しておくわけにはいかない。

 理数系は途中でつまずいたままにしておくとますます分からなくなる。小、中学校で基礎ができていなければ、なおさらだ。つまずいた生徒が入ってきても、そうしたことにはかかわりなく、学習指導要領に沿って教科書を漫然と教えているのが多くの高校の現実だろう。

 高校でも小、中学校の内容にさかのぼって教える工夫があっていい。場合によっては、小学校の教員が中学校へ、中学校の教員が高校へ出向いて教えるなどの交流をすべきではないか。そうすることによって、どこでつまずいたか、なぜついていけなくなったのかを探ることもできる。

 東京都の高校改革では、勉強についていけなくなった生徒がやり直せるよう「エンカレッジスクール」という試みが始まった。ここでは小学校で学ぶような基礎的な内容も改めて教える。こうした生徒に合わせた取り組みを広げていきたい。

 学力テストと同時に実施したアンケートでは、授業がある程度分かる生徒が約4割しかいなかった。授業についていけないと、ますますやる気がうせるだろう。学校以外では勉強しない生徒も半分近くいた。

 一方で、勉強が進学や受験、社会生活に役立つと考えている生徒ほど成績はいい。何らかの動機があれば、勉強する意欲も出てくるわけだ。

 問題は、勉強する動機を見いだせない生徒をどう指導するかである。簡単ではないが、学校や大人たちが動機づけの場を幅広くつくっていくほかあるまい。生徒自身が気づかなかった将来の目的や職業意識、適性が引き出されることもある。

 兵庫県では、すべての中学2年生を対象に、5日間職場体験やボランティア、福祉活動をさせる「トライやる・ウィーク」という活動がある。自分の進路を考えるうえで役に立ったという生徒が少なくない。

 いまやほとんどの子供が高校に進む。それぞれの能力や個性を考えながら、数学や理科をはじめとする基礎学力や意欲をどう高めていくか。きちんと点検する時だ。

■《天声人語》    〈コラムから天声人語検索〉

 いろいろな岐路があるが、あのときから日本は変になった。歴史家らがそう指摘する岐路の一つが1918年からのシベリア出兵だった。ロシア革命後のソ連への干渉戦争である。あの失敗を教訓として生かせなかったために、その後泥沼のような戦争に突き進むことになった、と。

 戦地から政治学者の吉野作造にあてた青年将校の手紙がある。軍隊にとって最も大切なのは国民の後援があることだが「多数同胞はむしろ出征の無意義を唱えているありさまである」。兵士も何のために出征したかを理解していないと訴えた(『日本の百年 6』筑摩書房)。

 派兵については、政府・政党間でも足並みがそろっていなかった。第一党の政友会総裁原敬は「自衛の必要以外ではみだりに兵を動かすべきではない」と政府に進言していた。しかし、裏では軍や若手官僚が着々と出兵準備を進めていた。

 米国の共同出兵提案に乗るかたちで派兵に踏み切ったが、犠牲者の多い悲惨な負け戦だった。「列強と共々に兵をシベリアに出しながら、結局は我が国独り露国民の反感を深く買ふの愚に陥つた」。ほぼ同時代に出た外交史の書もそう記した。

 強硬派に引きずられた。大義が不明確だった。途中から目的が拡大していった。ゲリラ戦に対応できなかった。撤兵の機会を逃した。様々な教訓を残した派兵である。

 日の丸の小旗に送られて自衛隊員たちがイラクに向けて出発していく。「ルビコン川を渡っていく」との感が深い。シベリア出兵時とは時代状況がまるで違うとはいえ、大きな岐路にある。

■「理数は苦手」鮮明 高3・10万人学力テスト   〈トップから〉
 期待の正答率、超えたのは数学で30問中1問    〈今日の朝刊を検索〉

 文部科学省は23日、全国の高校3年生約10万5千人を対象に、02年11月に実施した学力テストの結果を発表した。数学と理科では文科省側が期待した正答率を大幅に下回り、とくに数学では30問中1問しか上回らなかった。国語と英語は期待した程度の成績で、理数系教科が苦手な傾向がはっきりした。併せて実施したアンケートでは、「勉強嫌い」の生徒が7割を超え、勉強に対する意欲が乏しいことが浮き彫りになった。

 高校生を対象にした全国一斉のテストは40年ぶり。対象者は全3年生の8%で、無作為に選んだ国公私立の高校約1400校の生徒。過去の結果との比較で学力の推移をはかるのは難しいため、文科省側(大学教員らによる問題作成委員会)が、あらかじめ問題ごとに「このくらいの生徒に出来てほしい」と期待する正答率を設定(設定通過率)。実際の正答率と比べることで成績を見る方法をとった。

 今回実施された7科目は、いずれも国語、数学、理科、英語の4教科のなかで基本となっている科目だが、数学1は期待した正答率を上回ったのは1問だけで、8割にあたる24問で下回った。全体の正答率は50・2%で、期待した正答率の平均(61・2%)からは11ポイント低かった。「三角比」の問題などでつまずきが目立った。

 平均61・1〜54・4%の正答率を期待した理科の4科目でも、下回った問題数が6〜7割で、全体の正答率は50%前後だった。

 得点別の人数の分布をみると、数学1では、最も得点の高い層の人数が一番多い一方で、平均点を大きく下回る層にも集中している。理解度の高い生徒と低い生徒の「二極化」の現象がうかがえる。

 理科の4科目はいずれも平均点より低い層の人数が最も多くなっているのが特徴だ。

 国語1は4教科のなかで唯一、全体の正答率が期待より上回った。英語1もほぼ期待に近い正答率だった。いずれも記述式の問題では正答率が低い傾向があった。




「27面に特集、34面に関係記事」は詳細な記事が載っており、有料でないとURLからはコピーできないし、その分量も多い。だから新聞を保存しておこうと思う。