折々の記へ

折々の記 2009 E

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】07/15〜        【 02 】07/23〜
【 03 】07/26〜                    【 04 】教育問題のまとめ【その一】
【 05 】教育問題のまとめ【その二】        【 06 】教育問題のまとめ【その三】
【 07 】教育問題のまとめ【その四】        【 08 】教育問題のまとめ【その五】



【 06 】07/28

07 28(火) 今までの教育問題のまとめ【その三】

   2004 01 26(月) 学力テスト―理数教育の底上げを(続)
   2004 08 11(水) 教育の地方分権私案
   2004 10 11(月) 陽明学と中江藤樹・言葉づかい

01 26(月) 学力テスト―理数教育の底上げを(続)

●01 19 警鐘・アジアから見捨てられる日本…これでもいいのか…(続)で、日本のつまづきの要因を「人の養育」ととらえてその考え方をとりあげた。

一昨年の世界共通の学力テストの結果(23番目位)を見てドイツのシュレーダー首相が「ドイツ人は馬鹿なのか」と嘆いたと伝えられたが、今日の新聞記事を読んで、今度は日本国民すべてが「こんなことじゃあいかん」と議論が百出するだろう。

重要な問題として議論が出ないとすれば、日本での学力問題は崩れる一途をたどるしかない。きのうの日曜討論で子供のことが討論されていたが、0歳教育をふまえた考え方はでていない。知識層の指導者の考え方の基本部分ができていないといわざるを得ない。

自分の主張してきた論理の骨組を簡単には修正したくないのだと思う。学者や評論家のみにくい見栄なのである。

戦争を止めようという運動も人の養育という運動も、本来は一人で精神構造を築く運動である。

意見の多寡によって集団の方向が決められる民主主義という手法にしたがえば(弱点もあるけれども)、最小集団の喬木村からこうした運動の輪を広げていく必要が生ずる。 Like a ripple! 波紋のように! 他人任せの旧弊を破り、意見を出し合て進むべき方向をみつけたい。

朝日新聞の社説を注意深く読めば、社説自体に可笑しい考え方が見えている。

具体的にはこうである。


 高校生は学科や進学、就職など進路に応じて教育内容も決まってくる。もともと成績のばらつきは大きい。しかし、だからといって、このまま放置しておくわけにはいかない。

 理数系は途中でつまずいたままにしておくとますます分からなくなる。小、中学校で基礎ができていなければ、なおさらだ。つまずいた生徒が入ってきても、そうしたことにはかかわりなく、学習指導要領に沿って教科書を漫然と教えているのが多くの高校の現実だろう。

 高校でも小、中学校の内容にさかのぼって教える工夫があっていい。場合によっては、小学校の教員が中学校へ、中学校の教員が高校へ出向いて教えるなどの交流をすべきではないか。そうすることによって、どこでつまずいたか、なぜついていけなくなったのかを探ることもできる。

 東京都の高校改革では、勉強についていけなくなった生徒がやり直せるよう「エンカレッジスクール」という試みが始まった。ここでは小学校で学ぶような基礎的な内容も改めて教える。こうした生徒に合わせた取り組みを広げていきたい。

 学力テストと同時に実施したアンケートでは、授業がある程度分かる生徒が約4割しかいなかった。授業についていけないと、ますますやる気がうせるだろう。学校以外では勉強しない生徒も半分近くいた。

 一方で、勉強が進学や受験、社会生活に役立つと考えている生徒ほど成績はいい。何らかの動機があれば、勉強する意欲も出てくるわけだ。

 問題は、勉強する動機を見いだせない生徒をどう指導するかである。簡単ではないが、学校や大人たちが動機づけの場を幅広くつくっていくほかあるまい。生徒自身が気づかなかった将来の目的や職業意識、適性が引き出されることもある。

 兵庫県では、すべての中学2年生を対象に、5日間職場体験やボランティア、福祉活動をさせる「トライやる・ウィーク」という活動がある。自分の進路を考えるうえで役に立ったという生徒が少なくない。

 いまやほとんどの子供が高校に進む。それぞれの能力や個性を考えながら、数学や理科をはじめとする基礎学力や意欲をどう高めていくか。きちんと点検する時だ。



社説でおかしい箇所は次のような点だ。

@ 小中の学力の基礎ができていない。
A 小中高の先生方の出張交流。
B 「エンカレッジスクール」の試み。
C 動機があれば勉強の意欲が出てくる。
D 先生や親が動機づけの場をつくる。

〈@ 小中の学力の基礎ができていない。〉というのは間違いのない認識でスタート意識としてはよいのだが、ABは机上の空論というべきものであり、実行にあたっては労多くして益少なしというほかはない。

問題はCDの動機づけができれば解決するというような考え方である。@の課題がCDでは解決できないからこそ、先生方は疲労困憊しているのではないか。疲労困憊というのが妥当でないとすれば、いろいろと努力してみても改善の糸口が見出されない、ということで悩んでいるのが実態であろう。

幼少のときに教育することなくして学習の基盤はできないのである。……イ

それとともに先生方の教育権の確立が急務である。……ロ

(これはすべての人に当てはまることで、幼少のときに望ましい教育環境におかれていた人が多いが、そうでない環境のもとにおかれていた人も多くなっているのが実情であるといってもいい。)

「鉄は熱いうちに打て」の俚諺がある。吉田松陰を薫陶した玉木文之進が言った「馬の調教」の逸話もある。「瓜の木に茄子はならず」の俚諺もある。

優れた人たちの生育を読むとき、共通することは子供時代の親の立派な姿であることは議論の余地もないことであろう。

イとロに「目を向ける」ことなくしてCDにのめりこめば実相は見えてこないし、学力の練成は見込めない。だから社説としてはもっと根底に横たわる課題を提起すべきなのである。

  【坪庭の石】 横に寝ているとても硬い石、その上に小さい鹿塩の石灰石

  08 11(水) 教育の地方分権私案    .

 教育制度の変化が一つの潮流になりそうな様子。

 市町村立小中学校はその自治体の権限に委譲される流れになったと見ていい。

 これは教育行政についての政治の考え方の大きな変化であり、やっと教育の国
家統制の間違いが修正される方向になってきた。

  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040810-00000012-yom-pol

 その中に次のような骨子が書かれている。

  改革私案は、
   1 義務教育制度の弾力化、
   2 教員養成の大幅改革、
   3 学校・教育委員会の改革、
   4 国による義務教育保障機能の明確化
  の4項目で構成している。
           (読売新聞)[8月11日0時55分更新]

Yahooニュース・国内・政治の中に出てきたニュースである。
教育の原点は、幼児期ことに0歳教育如何にかかっている。
こうした大きな行政の変化を期待できる記事だった。

幼児教育の先駆者は世界各地にその活動を始めている。日本においてもその試みはいくつもある。ドーマンメソッドや七田さんや、三石さんなど、実際には私的なものだから金がかかるし、見方によれば営業として能力開発を食い物にしている業者さえいる。

私は「0歳教育」を地方行政の中に持ち込むことが理想だと信じている。それはビッテやストーナーの実践を読んだときからのものであり、教育の原点は各家庭の実践しかないと言えるからである。

10 11(月) 陽明学と中江藤樹・言葉づかい

10月8日の‘10代の妊娠(世界的悲劇)’で触れたように、心のバックボーンとして儒教を組み立てなければならないと考えている。そこで、今朝は次の二つのURLを取り上げた。

最初の「陽明学」については、実際のページを開いてみると判るが、たくさんのリンクを張ってあるので印刷していくと相当な資料が手元に入る。これらの素材から自分の考えを書き上げていく方法をとることがよい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%98%8E%E5%AD%A6(陽明学で検索)

陽明学  出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』

陽明学(ようめいがく)とは、中国の明のときに、王陽明がおこした学問で儒教の一派。心即理、知行合一、致良知の言葉に思想が凝縮されている。

封建時代の混乱時期に生まれた朱子学は秩序を志向する。体制を形作る治世者に好まれた。逆に陽明学は秩序期に体制を反発する者が好む場合が多かった。自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。ただし、これは陽明学を学ぶと革命志向になるのか、元々革命志向な者が陽明学に吸い寄せられたのか、意見の別れる所である。

そもそも陽明学の起こりは、朱子による性善説の解釈と、陸象山の性善説の解釈の 違いから起こるものであり、王陽明はそれを陸象山の考え(これを心即理説という)を引き継ぎ発展さてたものである。

幕末での陽明学の信奉者として、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山が歴史上おり、革命運動に呈する者が多かったのは事実である。一方、陽明学の造詣の深さで、佐久間象山と対比される備中松山藩の山田方谷(儒者)は、瀕死の藩財政を見事、建て直した。それは、現在の企業再生の手法がそのまま使える内容であり、近年、その功績が見直しされてきた。

陽明学は、致良知の言葉から、自らの心に問いて、自らの心が納得できるように、良知を致せ と説いている。また、知行合一の言葉から、実践を重視することを説いている。よって、自らの心の持ちようにより革命運動に呈しやすい面があるという意見がある。

なお、現在に置いては皮肉なことに、陽明学は、ビジネス書の分野で、企業の忠誠心を養う人間学なるものベースとして扱われている。すなわち革命的要素は失われ、体制派の秩序思想となった。


この儒教の一派である陽明学は、日本に於いては中江藤樹が思想体系を作り出した第一人者である。そこで“中江藤樹で検索”してみると、たくさんのURLがあるから片っ端見ていき必要と思うものを、これまた印刷していくとよい。

下記のURLは中江藤樹の概要を調べたあと、標題にあるように“中江藤樹 〜 まごころを磨く学問”として一読すると良かろうと思い取り上げてみた。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog324.html(中江藤樹で検索)

■■■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

国柄探訪: 中江藤樹 〜 まごころを磨く学問

馬方や漁師を相手に人の生き方を説く中江の学問が、
ひたひたと琵琶湖沿岸から広がっていった。

■1.「どうしてお礼を貰わねばならないんですか」■

江戸時代初期の寛永19(1642)年、飛脚の太郎が加賀藩前田家の公金二百両を京都へ運こぶ途中、琵琶湖南西岸の榎木の宿まで馬方の引く馬に乗った。宿について荷物をあらためてみると、二百両がない。太郎は真っ青になった。自分の首が飛ぶ。どこでなくしたのか、必死に考えている所に、宿の主人が「お客さん、さっきの馬方が来ていますが」と声をかけてきた。

宿の玄関に出ると、さきほどの馬方の又左右衛門がニコニコ笑いながら、包みを差し出した。「これが鞍の間に挟まっていました。お忘れ物ですよ」

(仏の助けだ!)と、思わず太郎は大きな安堵感を覚えた。又左右衛門が差し出したのは、必死に探していた二百両の包みだった。その場で中身を調べると、ピタリと全額揃っていた。「よかったですね」とそのまま帰ろうとする又左右衛門を太郎は呼び止め、自分の財布から15両を出して「お礼です。持って行っておくれ」と言った。

ところが又左右衛門は「あなたのお金をあなたに届けたのに、どうしてお礼を貰わねばならないんですか」と言って受け取らない。10両、5両、3両、1両と金額を下げていったが、又左右衛門は固辞して聞かない。

■2.中江与右衛門先生■

「弱ったな。それでは私の気持ちが済まない」と困り果てた太郎を見て、又左右衛門は気の毒になったのだろう。「それでは二百文下さい。いったん家に帰って、鞍を降ろしたときに気がついて、またここまで来たので、そのくらいの手間賃なら貰ってもいいでしょう。」

又左右衛門は貰った二百文を宿の主人に渡して、これで泊まっているお客さんたちに酒を振る舞って下さい、と頼んだ。太郎と主人は、それならお前さんも仲間に入って、一緒に一杯やろう、と誘ったら、又左右衛門は「そういうことなら、お相伴させていただきましょう」と酒盛りが始まった。

「又左右衛門さん、どうしてお前さんは、そんなに美しい心をお持ちなのだね?」と太郎が不思議に思って聞くと、

別に美しい心というわけじゃありません。ただ、私の家の近くに中江与右衛門先生という学者さんがおいでになっ て、塾を開いておいでです。やさしい言葉で、難しいことを教えてくださるので大評判です。わたしは、中江先生が 塾をお開きになった時からの門人で、毎日仕事が終わると塾に通わせていただいているのです。中江先生のところで 学んでいる連中なら、今日のようなことがあれば必ず同じ事をしますよ。私だけじゃありません。

と、こう応えました。

■3.武士と学問■

中江与右衛門が伊予(愛媛県)大洲藩を脱藩して、生まれ故郷の琵琶湖西岸の小川村(現在の滋賀県高島郡安曇川町)に帰ってきたのは寛永19(1642)年、35歳の時だった。脱藩は大洲藩主・加藤泰興が江戸から連れ帰った儒学者・若山道四郎との学問的対立が発端だった。

若山は、徳川家康に重用された朱子学者・林羅山の弟子という触れ込みだった。戦乱の世が終わり、家康はこれからは学問で泰平の世を築こうとしていた。そして新しい武士のあり方を、林羅山を中心とする学問によって実現しようとした。従来の「戦う武士」から、行政官僚としての武士への転換である。そこでは行政能力のための「読み書き算盤」が重視された。

さらに戦国の気風を一掃するために、「君、君たらずとも、臣、臣たれ」(主君が立派でなくとも、家臣として立派に務めよ)という聞き分けのよい官僚を作る事を目標として、林羅山の説く朱子学を採用していた。藩主が江戸から若宮道四郎を連れ帰ったのも、幕府に対して大洲藩も一生懸命、朱子学を学んでいます、というポーズを示す、という意味もあった。

師・林羅山の威を借りて、大洲城内で大勢の藩士たちに学問を説く若宮道四郎を、ある時、中江は徹底的に論破し、赤っ恥を掻かせた。子どもの頃から神童と呼ばれ、独自に古典を学んだ中江にしてみれば、学問とは立身出世の道具ではない、人の生き方を正すものだ、という信念がある。聞き分けの良い行政官僚を作るための学問に、多くの藩士が出世を目指して熱を上げている気風を批判して、中江は武士の身分を捨て、郷里に帰って人としての道を求めようとしたのである。

■4.人間一人一人の心の中にすでにある「明徳」■

郷里の小川村には老いた母親が一人住んでいた。9歳にして祖父に郷里を連れ出され、以来、武士として生きてきたのだが、やがて祖父母を亡くし、郷里の父も死んで、今のうちになんとか母親に孝養を尽くさねばと思うと、いてもたってもいられない気持ちであった。

そのように母親を思う孝心は、人間としての「まごころ」の始まりではないか、と中江は考えた。その気持ちで兄弟が助け合い、夫婦が相和し、友だちが信じ合う。そのまごころがさらに発展すれば、主従が心を合わせて一国を治め、またそうした国々が相和して、天下の平和を保つことができる。「修身斉家治国平天下(身を修め、家を整え、国を治め、天下を平らかにする)」という儒教の古典「大学」の一節は、まさにこの事を示しているのではないか。

とすれば、「国を治め、天下を平らかにする」という政治の根本も、まずは人間一人一人の心の中にすでにある「まごころ」を磨く所から始めなければならない。「大学」の冒頭には「大学の道は明徳を明らかにするにあり」とある。人間が本来持っているまごころこそ、この「明徳」なのではないか。そしてそれを明らかにすることが学問の目的なのである。

それに対し、林羅山の教える朱子学では、「理(ことわり)」は事物に潜んでいるので、それを発見して自分の理とせよ、と言う。これでは人間の一人ひとりが持っている明徳は無視され、自分の外にある教えに従うことが求められる。官僚的武士を量産するには都合の良い教えだが、自分の良心に従うという武士の人間性は否定されてしまう。

大洲藩を脱藩して、小川村に帰ってきたのは、土地の素朴な人々とともに、自らの明徳を磨くという本当の学問に取り組みたいという気持ちからだった。

■5.「心の鏡?」■

中江が小川村で初めに知り合ったのが、馬方の又左右衛門だった。もう武士はやめようと、刀を又左右衛門に売って貰ったのだが、頑固として礼は受け取らない。、その姿勢はすでに明徳のあらわれだと中江には思われた。又左右衛門の方も、武士の地位をなげうって、この地で真の学問に取り組もうとする中江を尊敬して、ぜひ塾を開いて自分たちを教えて下さい、と頼んだ。夜になると、又左右衛門は馬方仲間の与六と七兵衛を連れて、中江の家にやってきた。こうして馬方相手の小さな塾が始まった。

中江が「学問の目的は明徳を明らかにすることだ」と説くと、又左右衛門は「先生、明徳というのはなんですか」と尋ねる。

それぞれの人が持っている、心の鏡のことです。

「心の鏡?」と又左右衛門は仲間の方を見たが、彼らも首を振って、俺にも分からない、という顔をしている。

又左右衛門さんも、与六さんも、七兵衛さんも、それぞれ心の中に立派な鏡を持っておいでです。しかし人によっては、その鏡が曇ることがあります。鏡が曇ると、物事を正しく受け止めることができずに、歪んだ物の見方をします。そのために、人と人との間に争いが起こります。

鏡を曇らせるのは、人間の欲心です。他人のことを考えずに、自分のことばかり考えていると鏡が曇ってしまい、写る事物も歪んでしまいます。歪んだ像を本物だと思って、それに対応していきますから人間のおこないも歪んでしまうのです。大学でいう明徳をあきらかにするというのは、いつもこの心の鏡をしっかりと磨いて、事物を正しい姿で写すようにしなければならない、ということです。

「なるほど、そういうことか」と七兵衛はつぶやき、与六の肩を叩いて「おい、与六、おまえの心の鏡は始終曇っているぞ。少し磨け」と言った。与六も負けずに「何を言うか。お前の心の鏡こそ曇っている。だからいつも仲間と争いばかり起こしている。」

■6.「この村の人間は一体、どうなっているんだ」■

中江は家の前に流れる溝に魚を飼いたいと思った。塾にやってくる人々の心を和ませたいと思ったからである。それを聞いた又左右衛門は、漁師の加兵衛を連れてきた。加兵衛は生け簀(す)を作って、琵琶湖で捕った鯉を飼っているという。加兵衛が持参した3尾の鯉は、溝に放たれると住み慣れた自分の居場所のようにゆったりと泳ぎだした。「これなら大丈夫です。絶対にここからよそへは行きません。」と加兵衛は請け合った。

しかし、翌朝、中江が溝を見ると鯉はいなかった。溝の中にしつらえた盆栽もなくなっている。盗まれたのだ。夕方になると加兵衛がまた鯉を持ってやってきた。「盗まれてしまった。不行き届きで申し訳ない」と中江が謝ると、加兵衛は、

いいんですよ。鯉はまだまだ沢山います。だれでもあの鯉を見れば欲しがるのは無理はありません。この鯉もまた盗まれるかもしれませんが、そうなったらそうなったで、また持ってきますよ。

と、屈託がない。しかし、その鯉もまた翌朝には盗まれていた。

又左右衛門は「二度も鯉を盗むとは、この村の人間は一体、どうなっているんだ」と息巻いた。中江は鯉が盗まれるのは、自分の学問がまだまだ至らないからだと落胆した。ひとり、加兵衛はじっと黙って、憤りを抑えていた。

■7.「なぜ人のものを盗るのか」■

その夜、中江は又左右衛門や加兵衛らに対して「親孝行」の話から始めた。

わたしたちは、親によってこの世に生まれました。その恩は計り知れません。ですからまず、自分を生んでくれた父母を敬い愛することは大切です。しかし考えてみれば、その父母も祖父母から生まれました。そうなると祖父母に対しても愛敬の念を失ってはなりません。その考えを推し進めていくと、わたしたちはご先祖様に対しても、考を尽くす義務があります。

中江は皆の理解を確かめるように見渡したが、なかでも漁師の加兵衛は食い入るように中江の話に聞き入っていた。

が、それだけではありません。わたしたちは一人で生きているわけではありません。かならず、他人との関わりがあります。世の中との関わりがあります。恵みや慈しみをくださる方々に対しても、われわれは愛敬の念を持たなければなりません。つまり、他人や世の中に対しても孝を尽くさなければならないのです。

他人や世の中に対して愛敬の念を持てば、他人のものを盗んだり、みだりに自分の欲望を満たそうなどという考えは消えるはずです。そういうことをする人は、他人から受けた恩を全く知らない人です。

■8.「すまなかった。二度と盗まないよ」■

その夜更け、中江の家の前に二つの人影があらわれた。「ちっ、もう鯉はいない。二度も盗まれたんで、さすがに腹を立てたんだろう。ここの学者先生も案外、けちな男だな」と低く笑った。そこに加兵衛が飛び出して、言った。

お願いです。二度と鯉を持って行かないで下さい。鯉は中江先生が、溝の縁を通る人々を楽しませようと、放したものです。鯉がなくなると、中江先生が何よりもお悲しみになるのです。私は先生の悲しいお顔を見るのが辛くて、耐えられないのです。鯉が欲しければ、私の生け簀に来て下さい。ただで差し上げます。中江先生を悲しませないで下さい。お願いです。この通りです。

加兵衛は泣きながら、精一杯頼んだ。二人とも黙り込み、加兵衛の誠意に打たれて、やがて「すまなかった。二度と盗まないよ」と言って、去っていった。

溝の側には大きな藤の木がある。その陰に中江は隠れて、一部始終を見ていた。「加兵衛さん。ありがとう」と呟く中江の目も濡れていた。

■9.藤の樹と鯉■

溝に鯉を飼い盆栽まで置いても誰も盗まない、という話は近隣でも評判になり、それを聞いて、中江の塾で学問をしたいという人々が増えていった。馬方や漁師、農民から、商人、武士と身分を超えて、ともに人としての生きる道を学ぶようになった。

慶安元(1648)年、中江はわずか41歳にして亡くなった。小川村に帰ってきてから、まだ6年しか経っていなかった。中江は塾の敷地内の大きな藤の木を愛していたが、そこからこの塾は門人たちに「藤樹書院」と呼ばれるようになり、また中江自身も死後に「中江藤樹」先生と呼ばれるようになった。

中江藤樹の学問は、又左右衛門や加兵衛たちの行いによって、琵琶湖の波のように静かに、ひたひたと周辺地域に広がっていき、いつしか、中江を「近江聖人」と呼ぶようになった。しかしそう呼ばれたら、中江は草場の陰で、「とんでもない。馬方の又左右衛門さんや、漁師の加兵衛さんこそ、本当の聖人だ。わたしなどはまだまだ。」と苦笑いすることであろう。

現在も、藤樹書院は滋賀県安曇川町に完全に保存されている。大きな藤の木は藤棚には季節になれば紫色の花をたわわにつける。溝には鯉が泳いでいる。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■  <下記へのリンクはこのページを開いてから>

a. JOG(130) 上杉鷹山 〜ケネディ大統領が尊敬した政治家〜
自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的 にも
美しく豊かな共同体を作り出した。
b. JOG(144) 細井平洲〜「人づくり」と「国づくり」
ケネディ大統領が絶賛した上杉鷹山の「国づくり」は、細井平
洲の「人づくり」の学問が生みだした。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 童門冬二、「小説 中江藤樹 上・下」★★★、学陽書房人物文庫、H13

■前号「中江藤樹 〜 まごころを磨く学問」について <秀樹さんより>

私は滋賀県の出身なので、今回の中江藤樹のお話はとても懐かしく読ませていただきました。滋賀県では今でも近江聖人中江藤樹を慕う人は多く、かくいう私も小さい頃は両親から中江藤樹とその母堂の話をよく聞いておりました。

冒頭の馬方の話は後日談があります。ある日中江藤樹の家に一人の若者が尋ねてきました。備中岡山藩池田家の元藩士だった熊沢蕃山という浪人です。人づてにこの馬方の話を聞いて私の師匠はこの方しかないと弟子入りをしに来たのです。しかし藤樹は「私は弟子を持てるような立派なものではありません」と断ったのです。が蕃山はなおあきらめずに2日2晩藤樹の家の門前に座り込んで頼み込んだ。

見るに見かねた藤樹の母堂が藤樹にこんな提案をします。「そなたの気持ちも分かります。そこで師弟ではなく共に学問を求める仲間として迎えたらどうですか」 深く首肯した藤樹は蕃山を自宅に迎え入れ、それ以来、蕃山は藤樹の元で学問を励む事になったのです。

さらに後日、熊沢蕃山は岡山藩への帰参を許され、池田家に再び仕えることになりました。池田家の当主、池田光政は蕃山から中江藤樹の話を聞いて、藤樹も藩士として迎えたいと思い、再三再四要請します。ついには自身が直接藤樹に会って頼み込むのですが、中江藤樹は「殿には熊沢殿がおられるではありませんか」と笑って謝絶したそうです。

その後、中江藤樹が若くして他界した事を聞いた池田光政は深く悲しみ、藤樹の3人の子を始め、多くの門弟を藩士として迎えたと言います。

このような話を聞くと、伊勢さんが「藤樹が『わたしなどはまだまだ』と苦笑いするだろう」と指摘されたのは、私もまったく同感です。


●言葉づかい

「中江藤樹先生の教え」として“五事を正す”というのがある。

五事とは、次の五つのことだという。

「貌」・・・顔かたち
      愛敬の心をこめてやさしく和やかな顔つきで人と接しましょう
「言」・・・言葉づかい
      相手に気持ちよく受け入れられるような話し方をしましょう
「視」・・・まなざし
      愛敬の心をこめて暖かく人を見、物を見るようにしましょう
「聴」・・・よく聞く
      話す人の気 に立って相手の話を聞くようにしましょう
「思」・・・思いやり
      愛敬の心をもって相手を理解し思いやりの心をかけましょう

中でも「言」は、言霊(ことだま)の考え方が流布されており、他人とのかかわりの中で端的にその人の心が相手に伝わる。そうした意味合いでは仏教でいう「無財の七施」の‘言施’にも相当しており、極めて大切な自己表示ということになる。

さて、私たちの現代の言葉づかいはどうだろうか。

大事な家庭内での言葉づかいや、友達同士の言葉づかいなど見ていくと、家庭内暴力や家庭崩壊、長幼の序や遠慮など、枚挙に遑(いとま)ないほど気になる言葉が横行している。

「言葉づかい」一つとってみても、人の心が大変乱れていると言わざるをえない。大事にしたいことである。