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折々の記 2009 E

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】07/15〜        【 02 】07/23〜
【 03 】07/26〜                    【 04 】教育問題のまとめ【その一】
【 05 】教育問題のまとめ【その二】        【 06 】教育問題のまとめ【その三】
【 07 】教育問題のまとめ【その四】        【 08 】教育問題のまとめ【その五】



【 03 】07/26

  07 26 阿修羅♪(すべての虚構を暴き、真実に到達しようとしている)
  07 27 いかりや爆氏の毒独日記

07 26(日) ★阿修羅♪(すべての虚構を暴き、真実に到達しようとしている)

http://www.asyura2.com/index.html
★阿修羅♪

  〔折々の記 2009D【01】05/02〕 に‘ 阿修羅とはなにか ’をとりあげました。 

  このときは、内容について触れなかったが、今日的課題が風雲急を告げて
  いる今、取りあげ方の手法に触れておきたい。

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高齢者の尊厳と人権を踏みにじる麻生首相発言 投稿者クマのプーさん
日時 2009 年 7 月 26 日 15:38:09

  が出ており、それをクリックすれば次の記事が出てきます。


   高齢者の尊厳と人権を踏みにじる麻生首相発言
       http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-e117.html

麻生首相が7月25日に、横浜で開かれた日本青年会議所の講演で次のように述べた。時事通信が伝える高齢者に関する発言の要旨を以下に転載する。



「どう考えても日本は高齢者、いわゆる65歳以上の人たちが元気だ。全人口の約20%が65歳以上、その65歳以上の人たちは元気に働ける。いわゆる介護を必要としない人たちは実に8割を超えている。8割は元気なんだ。

その元気な高齢者をいかに使うか。この人たちは皆さんと違って、働くことしか才能がないと思ってください。働くということに絶対の能力はある。80(歳)過ぎて遊びを覚えても遅い。遊びを覚えるなら「青年会議所の間」くらいだ。そのころから訓練しておかないと、60過ぎて80過ぎて手習いなんて遅い。

だから、働ける才能をもっと使って、その人たちが働けるようになれば納税者になる。税金を受け取る方ではない、納税者になる。日本の社会保障はまったく変わったものになる。どうしてそういう発想にならないのか。暗く貧しい高齢化社会は違う。明るい高齢化社会、活力ある高齢化社会、これが日本の目指す方向だ。もし、高齢化社会の創造に日本が成功したら、世界中、日本を見習う。」



平均寿命が延びて、元気な高齢者が増えている。働く意欲を持ち、高齢者が生きがいをもって働く場が創設されることは望ましい。平均寿命の変化に合わせて、生産年齢を柔軟に見直すことも必要だろう。

大切なことは、高齢者が生きがいをもって、生き生きと暮らせる社会を構築することだ。この文脈上で、高齢者の労働の在り方についての見直しを考えることは有益である。

麻生首相発言が問題とされる理由は別の点にある。問題は麻生首相にとって国民がどのような存在として位置付けられているかにある。
……………………………………………………………………………………………………………………
「その元気な高齢者をいかに使うか。」

「いかに使うか」の言葉が自然に出てくる思考回路が問題なのである。

「この人たちは皆さんと違って、働くことしか才能がないと思ってください。」

「働くということに絶対の能力はある。80(歳)過ぎて遊びを覚えても遅い。」
……………………………………………………………………………………………………………………
政治の主権者は国民である。国民が国民のために政府を作る。政府は主権者である国民の意向を受けて政治運営を任され、国民の幸福を実現するために仕事をする。これが、国民主権の民主主義国家の基本形だ。

麻生首相の言葉は、麻生首相がこの基本を踏まえていないことを示している。麻生首相の言葉は政府が国民とは離れた高いところに位置しており、国民は政府の事情を満たすために「利用する」存在であることを示している。

麻生首相の発言は、社会保障財政、政府財政が厳しい状況に直面している現状を改善するには、元気でいるのに働いていない高齢者を働かせて、社会保障の受給者ではなく、納税者にしてしまえばよいのだという意味である。

麻生首相の言葉には、高齢者の立場に立って、高齢者が幸福になるために何をどう変えるかという発想がない。政府の財政事情を改善させることが第一の目的であり、この目的を達成するために高齢者をどう扱うのかを考察するとの思考回路が働いているのである。


これは「国民のための政府」ではない。「政府のために国民が存在する」との発想が原点にある。

さらに、「働くことしか能がない」とはどういうことか。

戦後の日本経済復興に汗水たらして働いてきた国民に対する言葉か。

戦後復興に尽力した人々の多くはたしかに、わき目も振らずに黙々と仕事にいそしんできただろう。その結果、日本は奇跡の復興と呼ばれる経済成長を実現した。勤勉に仕事をしてきたから、遊びを覚える時間はなかったかも知れない。

それを「働くことしか能がない」とは、あまりにも「人間の尊厳」に対する認識が不足している。

長い時間、勤勉に働いてきた高齢者が、高齢者になって、初めて自分のために時間を使うことを知り、それぞれの生活を潤いのあるものにしようとしている。これを、「60過ぎて80過ぎて手習いなんて遅い」と麻生首相は切り捨ててしまう。

麻生首相の発言は「失言」ではない。麻生首相の考え方を率直に示したものである。


これまでの自公政権は、国民のための政治を実行してこなかったのだ。

官僚、大資本、外国資本、御用メディアと政治が癒着し、「政官業外電の利権複合体の利益」を満たす政治を実行してきた。

この利権政治を維持するには、選挙で多数の議席を確保しなければならない。したがって、選挙の時だけ、国民の投票を誘導する施策を打ち出す。選挙を離れれば、国民は、利権政治を維持するための道具に過ぎない。だから、「高齢者をどう使うか」の言葉が出てくる。

頭を働かす首相なら選挙戦に入ってこのような発言を控えるだろう。そこまで考えが及ばないところに麻生首相の真骨頂が示されているが、最大の問題は、麻生首相にとっての国民の位置付けにある。

日本の政治を国民の元に引き寄せなければならない。


考えて見れば、歴史上、日本で国民の幸福実現を中心に据えた政府が樹立されたことはなかった。明治以降、官僚主権の政治が続き、現在に至っている。

1955年以降は、「政官業」の癒着政治が持続した。2001年からは、この利権複合体に「外国資本」と「御用メディア」が加わった。

この利権政治を排除し、国民を主役とする政府を日本の歴史上、初めて創設するのだ。「革命」と表現するのが適正だ。

麻生首相は考えていることをそのまま表現するので分かりやすい。国民がうわべの言葉に騙されて、間違った投票をしてしまうことを防ぐ意味で、麻生首相の行動は高く評価できる。

日本経済の復興に汗水流して努力してきた人々は、麻生首相がこの高齢者に対して、「どう使うか」、「働くことしか能がない」と述べたことの意味をじっくりと考えて、この麻生首相が率いる自公政権に今後も日本の政治を委ね続けるのかどうかを、よく考えるべきである。

高齢者でない人々も、このような考え方を持つ人物が率いる自公政権の存続を今後も認めるのかどうかをよく考えて、投票行動を決定する必要がある。

「政権交代」が総選挙のテーマである。

自民別働隊の「偽装CHANGE新党」の蠢(うごめ)きが予想通りに見え始めているが、「偽装CHANGE新党」に投票を分散してはならない。

投票率を最大に高め、政権交代推進勢力に投票を集中させるべきだ。政権交代を実現し、日本の政治を利権複合体の手から国民の手元に引き寄せなければならない。


【 枠組みや線引きは、勝手に手を加えたものです 】


このサイトを見始めますと、阿修羅はすべてに対して反骨精神が貫かれている感じがします。 だが、投稿者の多くが、マスコミ第一線級の人たちの裸の意見としてみるとき、じっくりその意図を汲み取る必要があるのです。

もし、阿修羅の殆どが自己顕示のメッキがかかっていたとしたら、阿修羅に対する反感が広まり人々の心の世界から埋没していくはずです。

わが身の利害得失ばかりに偏せず、しずかに五十年後の社会を想定して目を凝らして読み解いていく必要があるのです。

今や共通のメディアを介して、人の社会の平和共存を目指した哲学的で倫理的な認識を一人一人が持たなくてはなりません。 人の幸せを願い世界の平和を願うとすれば、利己中心に根ざしたものの考え方を排して、倫理に根ざした認識を崇高なものとして求めなくてはなりません。

07 27(月) いかりや爆氏の毒独日記

阿修羅の投稿者で‘いかりや爆氏’という人がいた。 どんな人なのか調べてみると、身元については判りませんが一つの見識をもって政治の流れをとらえていたことが判りました。

老生は、今回の金融危機について政治家も経済学者もアメリカ発の金融危機が何が原因でひき起こされ何をどうしたらいいのかという主張が、何一つ無いのに我慢なら無かった。

アメリカの金融政策が自国の利益に端を発していたことを指摘していた‘いかりや爆氏’の主張に喝采を送りたい。 多少とも溜飲が下がる思いがしました。

資本主義が利益追求を原則としてきたが、それは経済活動の活性化の上から認められることだけれど、人の品性を省みない方向に走ることになっては、このままの資本主義を認めるわけにはいかない。 どういう約束が大事なことになるのでしょうか。

何はともあれ、‘いかりや爆氏’の主張を理解しておかなくてはならない。


いかりや爆氏の毒独日記

最近の世相、政治経済について「あれっ?と思うこと」を庶民の目線から述べていきたい。


為替と食料自給率のまとめ
2009-07-26

 食料自給率は為替の問題を抜きにしては語れないことを、数字の裏づけをとりながら解説しました。

 為替の問題は、現在変動相場制という、いかにもまともな市場原理に基づいて、動いているかのようにみえますが、決して実体経済を反映されたものになっていません。機軸通貨としてドルを使うかぎり、またマネーでマネーを買ったり売ったりする怪しげなマネー資本主義が横行する限り、変動相場制は実体経済を反映したものになり得ません。

 為替は食料自給率の問題だけでなく、日本経済そのものをゆがめたものにしています。日本経済は為替を通じて、アメリカに支配されていると言っても決して過言ではありません。

 改めて、為替と食料自給率を考えていただくために、ひとまとめにしておきます。

年 月 日
主                    題
2009-07-08
 @ 新自由主義=市場原理主義の導入は、アメリカの日本経済封じ込め戦略の一環です
2009-07-10
 A 食料自給率について
2009-07-13
 B 食料自給率40%と愚かな新自由主義信奉者
2009-07-15
 C 食料自給率低下と為替レートという化け物
2009-07-16
 D 妥当な為替レートとは:アメリカは為替によって日本経済封じ込めに成功した
2009-07-18
 E 為替の不条理:自公政権は国民に捨てられる
2009-07-20
  F 為替1j168円は幻想?その1
2009-07-23
 G 為替1j168円は幻想かどうか?その2、新自由主義(市場原理主義)、グローバリゼーションの行き詰まり



@ 新自由主義=市場原理主義の導入は、アメリカの日本経済封じ込め戦略の一環です 2009-07-08

 新自由主義=市場原理主義は、アメリカの対日戦略(日本経済封じ込め)として中曽根政権時代に導入の原点がある。バブルの発生とバブル崩壊も、背後でアメリカ筋FRB−日銀が深く関わっている。

 市場原理主義の導入は、バブル崩壊後ビックバンと称して無思慮に規制緩和のラッパを吹き鳴らしたことからはじまった。
 その後、紆余曲折をたどりながらも、正式には小渕内閣の「経済戦略会議」でその導入が決定的になりました。これにより「ボキャ貧」と言われ、「凡人宰相」と言われた小渕首相のアメリカでの評価が高まった。アメリカの評価が高まったというところに、注目してください。アメリカナイズされたマスコミも、これにより小渕首相の評価を高めたのです。小渕首相は、アメリカの圧力が強いストレスとなったのかどうか、体調を壊して急死した。

 多くの国民は騙された。市場原理主義導入の背後には、アメリカの戦略があったことを知りませんでした。
「経済戦略会議」については以前にも書きましたが、4名いた経済学者を代表し、その後大臣までのぼりつめた男が、稀代の詐話師、竹中平蔵氏です。
 小泉ー竹中路線では、「創造的破壊」とか「聖域なき改革」とか「おそれず、ひるまず、とらわれず」、「改革なくして成長なし」などというキャッチフレーズを吹き鳴らした。「努力した者が報われる社会にする」などと、いかにも努力しさえすれば誰もが報われるかのごとく吹聴された。だが報われたのは誰だろうか?大量の弱者、ワーキング・プアー、1700万人を超える非正規雇用者を生み出した。

 弱肉強食を是とする市場主義は、脱落者がでるのを当然の結果として容認するのです、脱落したものは最終的に自己責任だからしかたがないという理屈です。脱落者はセーフティネットで救済するはずでした。しかし、このセーフティネットも、景気がいっこうに回復せず、お荷物扱いとなり、逆に財源不足のためかセーフティネットの話は、竹中氏も口にしなくなった。ところが、彼が引退して2年以上経過した後、派遣村に代表されるように、路頭に迷う人たちがたくさん出現し、弱体化したセーフティー・ネット問題がクローズ・アップされた。

   竹中氏らの市場主義信奉者によれば、これら競争に生き残った勝ち組の企業が、経済を強力に牽引していくので、経済はよりいっそう発展するというのであった。これも嘘でした。

 アメリカ型の新自由主義経済学(新古典派経済学)は、その中身は決して「新」でもなんでもなく、ケインズよりも遥かに古い「アダム・スミス」の自由放任主義を原点としている。今から二百年以上も前のイギリスの古典経済学の始祖アダム・スミスの「諸国民の富=国富論」のなかでのべられている経済理論です。要するに国は、規制や介入はしないで自己の利益の追求のままに自由にやらせたほうがよい、矛盾や衝突や混乱が起こりそうであるが、そこえ「神のみえざる手」が働いて結局はその方がうまくいく(「経済学の終わり」飯田経夫,PHP新書、その他)というのである。

 そして現実に今進行している市場経済は、弱者を食い物にした、自分達さえよければいいという弱肉強食の「野獣経済」が横行している。その古さと野獣性を覆い隠すために、新古典派とか、新自由主義経済と「新」の冠をつけて、さも新しいかのごとく、「偽装表現」しているにすぎないのです。

 第一回『石橋湛山賞』を受賞した前出の経済学者、飯田経夫(名古屋大学名誉教授)氏は10年以上も前から、市場原理主義を批判していました、亡くなる前年の2002年に上梓した『人間にとって経済とは何か』(PHP新書)のなかで、次のように述べている。

””数式がずらりと並ぶ現代アメリカの 「新古典派経済学も、一見別の経済学のように見えるが、根本精神はアダム・スミスの自由放任主義経済学と少しも変わっていないのだ””と、その偽装性を見抜いておられた。

 そしてこの本の最後の部分は、彼の遺言とも取れる言葉が述べられている。

”こうして八方塞がりになりかねない難問を整理して、拝金主義、原資本主義に変貌してしまった経済学を建て直すこと、それが二一世紀の初頭の経済学者・エコノミストに課せられた課題であることはよく承知している。しかしホンネをいえば、その期待は無理難題に近い。私自身はもはや経済学に失望しているのが正直なところだが、少なくともアメリカ流の、資源の浪費をあおり、国家や公の部門を無視し、「市場こそすべて」という市場原理主義的な経済学だけは、何とか変えることができないかと考えているところである。 ”

 グローバリゼーションと規制緩和はやりたい放題の経済、「出もの腫れものところ嫌わず」式の節度を失った品性お下劣の経済です。その行き着く先は、世界的金融危機を招いた。市場原理主義は日本のデフレ不況の元凶であることは言うまでもありません。

 折りしも、日本は政権交代が近づいています。


A 食料自給率について  2009-07-10

地味ながら、本件は極めて重要な問題を孕んでいます。

 日本の食料自給率は、20年以上前から下がり続け、ここ10年ばかり約40%台がずーっと続いています。農水省が食料自給率を高める努力をしていますが、改善の兆しがありません。
 私たちは、せめて生鮮野菜くらい安心して国内産を食べたいと思うが、それさえままなりません。

 食料自給率の問題の本質は、農業では飯が食えないからです。兼業農家が多いのも農業だけでは飯が食えないからです。
 リストラされた」人のなかには、農業をやってみたいと思っている人がたくさんいます。しかしやりたくても出来ないのが現状です。都市近郊では、農業よりもゴルフ場経営のほうが有利だからです。

 ネットの友人、kenkensyaさんという方が、「神州の泉」というブログに、「ゴルフと鳩山邦夫氏」と題して次のようなコメントを寄せられていたので、その後半部分を転載します。

 「ゴルフと鳩山邦夫氏、
 ゴルフまたはゴルフ場が自然を満喫しているように見えながら実は大きな環境破壊であることに言及されていたのを目にしたのは政治家では鳩山邦夫氏だけである。確か「飛行機に乗って上空から見れば、ゴルフ場っていうのは大きな環境破壊だということが分かる」という旨のインタビュー記事を読んだことがある。
 私は強く頷くとともに、こういう見解を持てるのは鳩山氏の趣味(蝶の収集)が自然を相手にしたものだからだろうと想像した。

 話は変わるが、私は日本文化の源を造りだしているのは、青々とした森の樹木(但し広葉樹)と、そこから絶えることなく流れ出る清流の水だと思っている。これこそが日本の他国と比較した場合の大きな特徴であり優位性である。従って中国の発展が巷間騒がれるようになってきた10年程前から「中国は早晩、水問題で行き詰まる」と公言してきた。

 次の衆議院選挙の結果がどうなるのか、そしてその後の政界や日本経済が如何様に動いてゆくかなどは、私の予想能力の範囲を大きく超えている。しかし蟷螂の斧と知りながら言えることもある。
 どれだけ米国が日本を収奪し、ハゲタカが買弁勢力と組んで肉一片さえ残らぬまで我が国の国富を食い物にしようとも、日本古来の豊かな森林が保存され、清冽な水が湧き続け、田圃に水を湛えながら海まで流れるような環境、そして教育さえしっかりしておけば日本は必ず復活する。私はそのように信じています。 以上転載終わり。

 海外から帰国するとき、着陸待ちの成田の上空から地上を眺めると、驚くほど多くのゴルフ場が散在しているのに気づいた人も多いと思う。特に冬場、冬枯れした芝生のゴルフコースがミミズ状に侵食されているのがわかります。狭い千葉県内にゴルフ場は158場、県別の面積あたりのゴルフ場数は全国トップ。里山を壊したゴルフ場は、将来温暖化が進み、渇水がすすむと保水力を失い、砂漠化するのではないかと心配するほどである。エコ、エコという前に、狭い日本、ゴルフ場が環境を破壊している事実には誰も目を向けるものはいない。

 儲け第一主義の市場原理主義社会では、農業よりもゴルフ場経営のほうが有利で、且つ環境なんて二の次三の次だからです。もう一つ重要な問題があります、為替の問題です

 アメリカ、カナダ、フランス、オーストラリアの自給率は100%を越えています。穀物の自給率に至っては、日本は27%しかありません。 次回は「日本の食料自給率が何故低いのか」の本質問題に触れてみたいと思います。



B 食料自給率40%と愚かな新自由主義信奉者 2009-07-13

 池田信夫というジャーナリスト?著名な経済学者かどうか知らないけれど、彼のブログに「食料自給率という幻想」と題した文章がある。彼の論旨のさわりの部分を以下紹介する。

”” この問題についての経済学者の合意は「食料自給率なんてナンセンス」である。リカード以来の国際分業の原理から考えれば、(特殊な高級農産物や生鮮野菜などを除いて)比較優位のない農産物を日本で生産するのは不合理である。そもそも「食料自給率」とか「食料安全保障」などという言葉を使うのも日本政府だけで、WTOでは相手にもされない。””

 ”” 食料の輸入がゼロになるというのは、日本がすべての国と全面戦争に突入した場合ぐらいしか考えられないが、そういう事態は、あの第2次大戦でも発生しなかった。その経験でもわかるように、戦争の際に決定的な資源は食料ではなく石油である。その99.7%を輸入に頼っている日本が、食料だけ自給したって何の足しにもならない。それより1993年の「コメ不足」騒動でも明らかになったように、普段から輸入ルートを確保しておくほうが供給不足には有効だ。””

”” 1960年には80%もあった自給率が半減したのは、単なる都市化の影響ではない。最大の原因は、米価の極端な統制だ。コメさえつくっていれば確実に元がとれるので、非効率な兼業農家が残り、コメ以外の作物をつくらなくなったのだ。こういう補助金に寄生している兼業農家がガンなので、民主党のようにまんべんなくばらまくのは、もってのほかである。所得補償をやるなら一定規模以上の専業農家に限定し、米価を含む農産物価格の規制や関税を全廃し、兼業農家を駆逐する必要がある。 ””

 上記、池田信夫氏の言説は、典型的な新自由主義的発想=市場原理主義万能論者の短絡的発想です。 天真爛漫と言えば言えなくもないけれど、幼稚すぎるのとちゃいますか? 実体経済を知らない机上の空論に基づく乱暴な主張である。こういう輩(やから)に限って、輸入食品の大半を占める中国原産品は、「やばいから、やーめた」と言って日本産にこだわっているに違いないのです。言っていることと、行動は違うのです・・・勝手気ままなところが新?自由主義者らいしい。
 日本の食料自給率が、異常に低いのは前回でも述べたが、極めて単純な理由からです。農業は採算にあわない、いくら作っても作っても、「採算にのらない」からです。

   採算に乗らなくしたのは、何か何故かを考えるのが本日のテーマです。
 先日(6月30日)農水省が公表した今年2月1日の現在、この1年間でさらに5万1千世帯減少して、全国の農業経営体数は175万3千、農業従事者(販売農家)に占める高齢者(65歳以上)の割合は60.5%になっている。年々農業従事者は減少しています。農家をやめざるを得ない状況に追い込まれているのです。最早、日本の農業は絶滅危惧種に近い。

 最早、農業は自然を相手にした、魅力ある仕事であるなどときれいごとでは済まされないのです。農業は仕事として成り立たないところが問題なのです。農家が作った作物が、採算に合う値段で売れないからです。

 採算にのれば農業従事者も増えるし、若者も安心して農業の跡継ぎができる。都心近郊の農家でさえ、野菜をつくる農家は少なくなっています。

 何故、かくも日本農業は採算ベースにのらないのか。原因はおおまかに、二つの要因があります。一つは、日本人の貧乏化減少、もう一つは為替にあります。

 ワーキング・プアーに代表される大量の貧しい人をつくりだし、社会全体が安物指向になった。

 毎日、東京成果市場の野菜の相場が公表されています。直近(7月11日)の野菜相場のうち、例えばネギ、茨城産、5kgで3465円(100gあたり69円)です。近所のスーパーで中国産のネギは3本(約300g)135円(100gあたり45円)で売られていました。

 できることなら、禁止農薬や基準値を超える農薬などが懸念される中国産より、値段が高くても国産品を食べたいと思う。しかし、中国原産ものと、日本原産ものと値段の較差がこれだけ大きいければ、年収低下の折から、毎日の食事のことであり、つい安いほうを買わざるを得ない。

 さらに言えば、スーパーなどで中国産野菜を買わなければ、中国産のものを口にしないですんでいるというわけではありません。安い中国産は、ファーストフードや、加工されて惣菜や弁当など業務用として大量に日本人の口に入っています。惣菜など加工食品は、原産地証明は義務付けられていません。惣菜や出来上がり食品は、手間暇かけて自分で作るよりも安いのも魅力です。その安さの秘密は極端に言えば「まるごと輸入食品」だからです。
 日本の社会全体が、輸入食品に依存する体質にしてしまったのです。

次に為替について

 輸入食品の安さの秘密は為替(円高)です。現在の為替は1USドルは90円台ですが、これまで輸出を謳歌していた輸出依存企業も、さすがにこのレートでは、軒並み赤字を出して青くなっているはずです。輸出主体の製造業は、利益を絞り出すのは大変厳しいものと思われる。

 話をわかりやすく単純化して車1台を輸出した場合を考えます。1台1万ドルの車を為替レート:1ドル110円の場合は、車1台の売り上げは110万円になります。このとき車1台あたりの*利益が5万円だったとします。

 為替レートが1ドル95円になった場合のこの車の売り上げは、95万円です。単純計算すれば、10万円の赤字になります。売れば売るほど赤字が増えることになります(勿論、輸出入業者は為替変動のリスクを避けるため為替の先物予約を利用しているものと思われますが、予約のコストもかかる、せいぜい半年先程度でしょう)。
*参考までに言えば、通常の貿易(輸出入)取引の場合、売り上げ額の5%前後の利益を目処にしているところが一般的だと思います。

 現在の1ドル90円台の為替レートは異常だとしても、1985年のプラザ合意以降急激な円高がすすみ、1990年代の前半から昨年までの100〜120円で推移してきました。1ドル110〜120円は、自動車や精密機械や電子商品などの輸出向け用のレートです。農業はいわば、為替レートの被害者です。農家への補助金は、ばら撒き行政であると非難する人がいますが、必ずしも当を得た批判ではないのです。
 日本の産業構造は、これまで輸出に特化した「いびつな産業構造」になっているのです。
 次回は、もう少し為替の問題を扱います。



C 食料自給率低下と為替レートという化け物 2009-07-15

 戦後のわが国の為替相場は、360円と308円の固定相場を経て、1973年はじめに、変動相場制に移行した。その後も、今日にいたるまで円高に次ぐ円高の歴史を歩んだ。特に1985年のいわゆるプラザ合意後の円高はすさまじかった。1usドル240〜250円だった円は、2年後には150〜140円になってしまった。そして現在はついに90円台に達した。

 この間食料自給率は80%台から現在の40%になった。まさに食料自給率低下の推移は、為替の円高の歴史を反映している。食料自給率は、この円高が維持される限り、どんなに頑張ったところで自給率を高めることは不可能です。
 世界的金融危機発生後の為替レート、1usドルが90円台の前半では、大部分の輸出企業でさえも黒字を維持することは難しいだろう。このままでは輸出依存体質の日本経済は立ち直るのはむつかしい。

 極端な言い方ですが、日本国民を殺すには刃物はいらないのです。市場原理主義(特に金融資本主義とグローバリゼーション)と為替によって、日本経済は封じ込められているのです。これらによって日本国民を虐殺しているようなものです。
 日本の自殺者はここ10年毎年3万人を越えています、経済的理由による自殺がふえています。
また、日本人の出生率をみてください、昨年(08年)の出生率はやや増えたとは言え、1.37人です。人口問題研究所によれば、2055年には日本の人口は現在より約3800万減少して8993万人という推計をしています。少子化問題は根本的に経済問題です。経済的理由で、結婚したくても出来ない若者、子供を生みたくても生めない夫婦が多いのです。

 為替に話を戻します。
 前回最後のところで、『1990年代の前半から昨年まで、1ドル100〜120円で推移している』と述べましたが、このレートは自動車や精密機械や電子商品などの輸出企業向け用のレートです。これでさらに円高が進めば、円高による低価格部品購入のメリットは若干あるものの、輸出企業は大きな打撃であることに変わりありません。そしてその行き着く先は、さらなる派遣切りや賃金削減による人件費削減です。これでは日本経済がよくなるわけがないじゃないですか。そして食料はますます輸入に依存していきます、農業はある意味で円高の犠牲者なのです。

   そもそも、為替レートは変動相場制だから、為替市場によって決まると言われています。それが極めて疑わしいのです。
 変動相場制は、1973年はじめに移行しました。1973年以降1985年のプラザ合意までは、為替は1ドル200円から300円、おおまかには250円付近が平均です。表向き変動相場制という形をとりながら、プラザ合意は円高誘導への事実上の市場介入です。
 さらに言えば、その後の規制緩和とグローバリゼーションにより、金融資本主義の跳梁跋扈です。金融資本主義といえば格好よく聞こえますが、中身は博打じゃないですか。その結果、貿易などによる実体経済のドル取引は、全体の5%程度でしかない。これでは、いくら円高是正のための市場介入したところで、市場が動くわけがありません。

 事実、2003年ブッシュのイラク攻撃開始した年の年初より翌年の3月末までの1年余りの間に、日本政府は史上最大の約35兆円の怪しげな円高介入をしていますが、全然効果なしです(もっとも、この介入は以前にも述べましたがブッシュのイラク戦争ための資金提供の疑いが濃厚)。
 ついでに言わしてもらうなら、『規制緩和とグローバリゼーションが金融資本主義(カジノ経済)の跳梁跋扈』を許し、日銀の疑惑に満ちた「超低金利政策と量的緩和策」が、その背後でグローバルな「カジノ経済」を支えた、それがまた円高の要因にもなっている。

 日本経済、勿論食料自給率もアメリカの掌の中で踊らされているようなものです。
 次回はもう少し為替の問題点を追及します。

 蛇足:私は日本経済がよくなるためには、日本はアメリカからの自立が必要であると主張し続けています。アメリカにどっぷり浸かっている今の自民党政権では、アメリカから自立することは不可能です。では民主党ならどうかはわかりません、民主党の中にも親米派がいるようですから、難しいかも。しかし何はともあれ、今は政権交代が必要だと思う。



D 妥当な為替レートとは:アメリカは為替によって日本経済封じ込めに成功した 2009-07-16

 本来なら、変動相場制になって、為替レートは妥当なところへ落ち着くはずでした。ところが、前回述べたごとく、1985年のプラザ合意以後の為替レートは極めて恣意性の高いものになっている。また、超巨額のマネーが飛び交う金で金を買うマネー・ゲームの跳梁跋扈は、いびつな為替レートを生み出し実体経済をゆがめています。

 1990年代はじめから昨年前半まで比較的長期間安定した為替レートで、1usドル100〜120であった。
 為替レートの理論的な最適値などあるはずはありません、またどれだけ厳密に、もろもろの要素を考慮して為替レートを割り出しても、実際上意味があるものになりません。
 現状では、為替レートの適正水準をおおまかに判断する基準は、やはり古典的ではあるが、購買力平価という物差しを使うしかないと思います。

 これは、全く同じ商品やサービスを購入するのに、おなじ価値を有すると言う考えに基づきます。
 内閣府では、1988年以来毎年、世界の主要都市(ニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、ジュネーブ)と東京の生計費を比較したものを公表しています。ただし、この調査結果の発表は2000年までしかなく、2000年以降も続けて調査しているのかいないのか不明です、調査していても不都合なデータは公表しないのだろうか(2001年の調査はあるが肝心の生活インフラのデータが欠落している)。

 私がもっとも重視するのは、食料品と生活インフラ(電気、上下水道、家賃)との比較です、つまり生活する上でもっとも重要視される要素の比較です。
 例えば、2000年の調査表によれば、東京は対ニューヨーク比で、食料品:1.49、電気上下水道:1.54、家賃:1.57になっています。若干乱暴ですが、これらを和して3で割ると(1.49+1.54+1.57)/3=1.53となります。
 東京は、ニューヨークに比べてかなり割高な生活を強いられていることを意味します、特に賃貸住宅生活者にとって厳しい。

 この数字からら、おおまかながら妥当な為替レートは、153〜184円(100x1.53=153円から120x1.53=184円)ということになります。これまでの100〜120円という為替レートはやはり、かなり円高に偏りすぎていると言わざるを得ません。

 そこで次に新?為替レート153〜184円の真ん中の168円をとって試算してみます。前々回に例示した車1台1万ドルで輸出した場合は、円換算で168万円の売り上げになります。レート110円の場合の売り上げは、110万円でした。その差、58万円増ということになります。同じ仕事をしてこれだけの開きが生ずる、為替は本当におそろしい。これで「同一労働、同一賃金」論のむなしさを感じます。

 アメリカは、日本経済封じ込めの道具として為替を使っている。日本人は政治家を含め経済学者もそういう認識がまるでない。その点、中国の方がよほど賢明な対応をしている、百年に一度の世界的経済危機と言われるなかで、中国経済は、今年4〜6月のGDPは7.9%の延びと発表している。
 プラザ合意前の水準に戻せとは言いませんが、円は1usドル168円±20円くらいが妥当なように思うがどうだろうか。そりゃあんまりだというなら、1ドル150円±20円でどうだろうか。

 次回は、今回の続きです。



E 為替の不条理:自公政権は国民に捨てられる 2009-07-18

 「アメリカは為替によって日本経済を封じ込めに成功した」という認識を持つ人は少ない、少ないというよりは皆無と言っていいかもしれません。大部分の日本人は、「それって何のことなのよ」と思っていることでしょう。以下に、日本経済がどのように封じこめられているかを具体的な数字で示していきます。

前回、購買力平価という物差しを使えば、おおまかながら妥当な為替レートは1j168円(153円〜184円)だろうと推測しました。

 話をわかりやすくするため、車一台、1万ドルを輸出した場合を例にあげました。為替が1j110円の場合は売り上げは、110万円で5万円の利益とすれば、1j168円の場合の売り上げは168万円になります、単純計算で73万円の利益です(無論、輸出の場合、横持料、船賃、通関料そのたのコストがかかりますが話しをわかりやすくするため省略)。

 為替が1j168円ならば、有り余る利益が出ます。トヨタは一昨年頃まで、2ヶ月か3ヶ月ごとに期間工募集の広告を出していました。つまり非正規雇用を繰り返すことで、労働者賃金をぎりぎりまで抑えて、黒字経営を維持してきました。為替が1j168円ならば、工員たちを非正規にする必要もなく、正規社員で且つもっと高い賃金を支給することができ、さらに高額の税金を納めることも可能だったに違いありません。いき過ぎた円高は社会を不安に陥れ、労働者を奴隷のようにこき使い、企業側は都合が悪くなれば切り捨てるのです。

 トヨタが公表している決算書で、為替がどのように影響しているかを確認してみましょう。
 2008年3月期の連結決算では、トヨタは過去最高の1兆7178億円の純利益を出しています。
 ところがわずか1年後の2009年3月期の連結決算では、なんと4370億円の赤字に転落です。
 販売台数の落ち込みもありますが、08年と09年の決定的な違いは為替レートです。08年は1j114円(ユーロ162円)、09年は1j101円(ユーロ144円)だったことが記載されています。為替レートが13円違うだけで、このような重大な結果の違いをもたらすのです。

 日本は1985年のプラザ合意以後今日まで、円高による損失は百兆円単位の損失になるでしょう。どなたか興味のある方は試算してみてください。

 次に、為替レートが1j100〜120円だった1995年⇒2007年の「日本」対「世界各国」の経済成長を比較してみます。
 財団法人:国際貿易投資研究所が公表している、世界各国のGDP(上位60)という表(ドル表示)があります。
 その表の中から、日本を除く上位30カ国(但し、台湾と南アはデータが一部欠落しているのでこの2カ国は除く30カ国)の1995年のGDPが12年後の2007年にはどれほど大きくなったかを、計算(2007年GDP/1995年GDP)してみました。

 その結果30カ国平均で、2.3289倍になっていました。この12年間の年間平均成長率に換算すると、なんと7.3%でした。中国とロシアの成長が極端に高い成長率を示していますので、この2カ国を除く28カ国では、年平均6.7%になります。1995年から2007年の間に世界は、驚異的な経済成長を遂げています。一方、日本はなんと0.834倍、つまりこの12年間でマイナス16.6%の経済成長です。以上30カ国だけの比較でみましたが、60カ国に増やして比較しても結果は変りません、なにしろこの12年間でマイナス成長だったのは日本以外にないのですから。
 昨年国会でも話題になりましたが、国民一人あたりのGDPが18位になったことが、大きな話題になりましたが、この国際貿易投資研究所が公表している資料によれば、2007年の段階では、さらに低下して21位になっています。
 ついでに言わしてもらうなら、厚生労働省が平成20年調査の国民生活基礎調査によると、1世帯あたり平均所得金額は、平成6年(1994年)664.2万円だったものが、平成19年(2007年)には556.2万円となり、108万円の減少です。平成19年の世帯あたり所得は、平成6年の83.7%つまり16.3%の減少です。これはまさにGDPの減少率16.6%とほとんど同じ数字です。当たり前と言えばあたりまえのことですが、日本経済が低下した分だけ、所得も減少したということになっています。

 私は経済至上主義者ではありませんが、ここ15年余りの日本経済はひどすぎる。
 これは30人クラスの生徒のなかに、箸にも棒にもかからぬ「日本という名の落ちこぼれの生徒が一人」いるのと同じことです。
 品質管理の点から言えば、一個だけ極悪の不良品が発生しているということになります。

 まともな企業管理者ならば、不良品の発生原因を究明して今後の企業運営に役立てるはずです。まともな教師なら、「おい日本君、体がどこか具合悪いの?親(米国)から虐待されているんじゃないの?」とおちこぼれの原因を探って、矯正してやるはずです。

 政治家は政争にうつつを抜かし、経済学者は役立たず、マスコミは付和雷同している。さすがに多くの国民は、どうも何かがおかしいと気づき始めたのだろうか。戦後60数年、紆余曲折はあるものの、一党支配をつづけてきた自民党(背後にアメリカ)に見切りをつけ、今度は国民が自民党を捨てようとしているのではなかろうか。
 次回は、為替と国民所得と自給率についてもう一度の検討します。

蛇足:プラザ合意後の日本はなんらの抵抗もみせず暴君(アメリカ)に虐待され続けている。次は国民の金融資産である郵貯・かんぽの金を民営化の名の下に国際金融博打市場に流され、数年後には雲散霧消ということはないよねー。こうして日本はぼろぼろになっていくのではないかと危惧する。



F 為替1j168円は幻想?その1 2009-07-20

 購買力平価という物差しを使えば、おおまかながら妥当な為替レートは1j168円(153円〜184円)だろうと推測しました。しかし、為替の円安誘導は、変動相場制の下では先ず不可能です。その場合日本独自の強力な為替管理が必要であるが、米国に隷属する現状の日本においては絶望的である。従ってこれからの話は、1jが168円(153円〜184円)に誘導できるという仮定の話になります。

 為替が1j110円が、168円になると輸入品は、約50%高くなります。7月13日のブログ「食料自給率40%と愚かな新自由主義信奉者」のところで、日本産ネギの価格と中国産ネギの価格を比較しました。茨城産、5kgで3465円(100gあたり69円)です。近所のスーパーで中国産のネギは3本(約300g)135円(100gあたり45円)で売られていました。この中国産ネギ価格を50%アップすれば、日本産ネギの価格に近い値段になります。つまり、この価格であれば、値段的には遜色はない、後は消費者がどちらを選択するかではないでしょうか。

 無論これ一つの例だけですべてを推し量ることはできないことは言うまでもありません。しかし、農作物の出荷価格が、現状よりも5割近くアップすれば、日本農業も採算ベースにのり蘇るはずです。食料自給率も大幅に改善されるはずです。

 次に、為替が1j168円になった場合の問題点を述べます。

 為替が1j168円になれば、輸入品は軒並み5割近く値上がりします。それでなくとも、ぎりぎりの生活を強いられている多くの国民、特に1700万人を超える非正規雇用者はゆとりある生活をしている人は殆ど皆無に近いと思われます。物価の値上がりは、彼らの生活を直撃します。今から10数年前の収入レベルなら、少々の物価の値上がりにも耐えられただろう。だが、現状のように国民の収入レベルを落とした上に物価の値上がりを強いることは、二重の苦痛を強いることになる。 

 従ってこの機に及んで国民の所得水準をアップせずして急激な円安誘導は困難です。円安誘導する前にまずなすべきことは、国民の所得水準を上げる必要があります。前回述べましたが、失われた国民所得を少なくとも1994、5年レベルまで回復することです。少なくとも働く人たちの賃金水準をその当時のレベルまで上げる必要があります。生活困窮者には生活給付金を支給する。年金生活者には、物価スライド制を適用する。以上を結論的に述べると、為替が1j168円レベルで起きる物価上昇に対応した国民の収入レベルにすることが必要です。何も難しいことを言っているわけではありません。普通の人が普通の生活ができる社会にするということです。

 そんなことって無理? そんなことはありません、既にのべたように、1995年⇒2007年の12年間で、世界各国のGDPは約2倍になっています。GDPだけが2倍で国民の収入がそのままなんて絶対ありえません。この12年間、日本のGDPはプラスどころかマイナスです。このことこそ、異常だったのです(その異常ぶりは、本ブログ、4月24日の「国の借金って何なのさ?・・・。その2 
http://blog.goo.ne.jp/ikariyax/d/20090424
をお読みください)。この間の日本経済の異常な出来事の一部始終は、日銀幹部(背後にアメリカ)の連中が一番よく知っているはずです。もし、この12年間のGDPが諸外国並に上昇していれば、日本のGDP(約500兆円)は1000兆円になり、日本人の年間収入は減少するどころか、大幅に増大したはずである。その場合、税収も大幅アップして財政均衡はとっくに達成済み、現在のような深刻な生活難、少子化、年金、医療費の問題も起きなかったはずである(但し、金利上昇は起こります)。その場合、もし問題が起こるとすれば、日本人は危機意識が薄れ、節度を失い「日本は経済大国だ」などと傲慢になることです。
 次回もこの続きです。



G 為替1j168円は幻想かどうか?その2、新自由主義(市場原理主義)、グローバリゼーションの行き詰まり 2009-07-23

「食料自給率40%と愚かな新自由主義信奉者」(7月13日)のところで紹介した池田信夫氏の「食料自給率という幻想」、リカードの国際分業論も、為替の問題を抜きにして比較優位を論じても意味がないことがおわかりいただけたと思う。

 為替が1j168円になった場合の最大の問題は、日本製品の輸出圧力が高まることです。日本製品が他国の市場を席捲することです。
 つまり、安い外国産の食品が大量に日本市場に出回り、日本の食料自給率が40%まで低下し、日本農業を圧迫し、補助金なしには維持できない状態になった。それと同じことがその国で起きる恐れがあります。それでも比較優位、国際分業論ですかね?

日本の輸出圧力は、相手国の産業にダメージを与えます。それだけでなく、その国において大量の失業者を発生させます。従ってその事態を防止するには、それぞれの国が独自の通貨管理と自国の産業を守るための政策を持つ必要があります、新自由主義(市場原理主義)信奉者が最も嫌う政策が必要なのです。

 新自由主義(市場原理主義)は、規制緩和、貿易自由化、グローバリゼーションを「是」としそれを求める。その結果、生き残りをかけた熾烈な国際間競争を激化させ、徹底した高効率化とコスト削減を追及することになります。コスト削減の行き着く先は、人間を過労死するまで働かせ、労働者を交換用部品(非正規雇用)のように扱い、いらなくなれば切り捨てる(派遣切り:失業率の悪化)。それぞれの労働の現場では、個人評価され、個人間に不信感が造成される。疎外感を蔓延させ、社会を不安定化させ、やけくそ人間を多産する。

 グローバリゼーションは、規制緩和もしくは規制撤廃と自由競争を前提にしている。グローバリゼーションの最大の障壁がその国の独特の商習慣や規制である。グローバリゼーションは欧米の形を変えた植民地政策である。日本の「系列取引」や「株式の持ち合い」はグローバルすタンダードに反するとして、改革を迫られた。日本の強みを削ぐとともに不当な「円高圧力」である。結果として日本経済を悪化させ、日本的な福祉とも言える終身雇用制や年功序列制も壊された、大量の非正規雇用者を発生させ、働いても働いても苦しい生活から脱け出せないワーキングプアーを生んだ。
 愚かな新自由主義信奉者たちは、何の疑いももたずに欧米流のグローバル・スタンダードを有難く礼賛して自国を貶めることにいそしんだ。

 世界は長い長い年月をかけて、地勢学的にも異なる環境のなかで、それぞれ独自の言語や文化を培ってきた。欲深い市場原理主義経済の圧倒的な力のまえに、自分たちの伝統文化や言語をあっという間にこわし、自分たちのアイデンティティーを失う。日本中どこに行っても、ファースト・フード店、ハンバーグとコカコーラが幅を利かす均一化された風景が出現する。

 世界金融危機を招いた金融資本主義はグローバリゼーションなくして成り立たなかったはずである。金融資本主義って何らの価値をも産まない「似非資本主義」じゃないですか。「資本主義」と言う名称をつけていますが、中身は仕組まれたギャンブル? 詐欺商法だった。ギャンブル(金融資本主義)は一国内で行われる分には、他国が口を挟む必要もない。自国内だけでは、儲けが小さいから世界に広げたのである。金融資本主義だけはごめんこうむりたいものである。