【目次へ】 勝者なき戦い 9/11から20年 年米軍の標的、サッカー場が墓地に
続折々の記へ
続折々の記 ⑦
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】07/17~ 【 02 】08/09~ 【 03 】08/10~
【 04 】08/13~ 【 05 】08/15~ 【 06 】08/16~
【 07 】08/17~ 【 08 】08/25~ 【 09 】09/01~
――――――――――――――――――――――――――――――
【 04 】08/13
崩れた大義、武器つかんだ住民
松岡正剛の千夜千冊 放浪記
生命科学的思考で不安と向き合う NHK(視点・論点)高橋祥子
2021/08/12
勝者なき戦い 9・11から20年 米軍の標的、サッカー場が墓地に
【写真・図版】2004年にあった米軍の総攻撃で、多くの遺体がサッカー場に埋葬された。入り口には「殉教者たちの墓地」と記されていた=9日、イラク中部ファルージャ、伊藤喜之撮影
かつてサッカー場だったという場所は、無数の墓標で埋め尽くされていた。
「これは地元プロクラブのゴールキーパーの墓。その手前は部族長の墓。墓石はないが、あそこには赤ちゃんが埋葬されている」
イラク中部の都市ファルージャ。壁に囲まれた「殉教者たちの墓地」で、墓守のハサン・アハマドさん(47)が言った。
雑然と並ぶ墓石を見ると、刻まれた死亡日に「2004年」が多いことに気付く。ある墓には、こう書き添えられていた。
〈2004年4月6日 米国の卑劣な攻撃によって殉教した息子たちが眠る〉
米同時多発テロをきっかけに「対テロ戦争」へと踏み出した米国は、アフガニスタンに次いでイラクを標的とした。
03年3月に開戦し、わずか3週間でフセイン政権は崩壊。その後は反米武装勢力が激しく抵抗し、ファルージャはその拠点の一つになった。
米軍は04年、ファルージャで民間軍事会社の米国人が殺害されたことや、「反米テロリスト」の駆逐を理由に総攻撃を仕掛けた。おびただしい数の市民が犠牲となり、仮埋葬のつもりで造ったサッカー場の墓地には次々と遺体が運び込まれた。その数は、04年だけで1600体近くにのぼる。
あれから17年。反米勢力に身を投じた遺族らに聞いても、彼らには自分たちが「テロリスト」になったという意識はまったくない。
「9・11とイラクは何の関係もない。アメリカは口実をつくって私たちの国をめちゃくちゃにした」。ハサンさんは憤り、こう吐き捨てた。「とばっちり以外の何物でもない」
◇
当時、米国はイラクを「悪の枢軸」と名指して攻め込む際に、二つの「大義」を持ち出した。
一つはフセイン政権による大量破壊兵器の保有。そしてもう一つが、同時多発テロを起こした国際テロ組織アルカイダとの協力関係だった。だが、いずれの大義も、のちに根拠が崩れた。
「フセイン後」の国家の姿を描かないまま突き進んだ結果、戦後のイラクは宗派対立を経て、過激派組織「イスラム国」(IS)の出現への道をたどった。米国とともに参戦を決めた英国のブレア元首相はのちに、イラク戦争がIS台頭の要因であったと認めた。イラク戦争で開かれた「パンドラの箱」は今も、この国を苦しめている。(ファルージャ=伊藤喜之、高野裕介)
(7面に続く)
(7面)崩れた大義、武器つかんだ住民
勝者なき戦い 9・11から20年
https://digital.asahi.com/articles/DA3S15007714.html?ref=pcviewer
国際テロ組織アルカイダによる米同時多発テロを機に、米国はイラクにも狙いを定めた。だが、戦争の「大義」が見つからないまま、イラクは混迷を深めた。米国への憎悪を募らせ、テロ組織に絡め取られていく人たちもいた。
「フセイン政権がアルカイダを味方につけたがったのは事実。でも、実際には連携してはいない」。同政権の情報機関職員だった男性は7月、朝日新聞の取材にそう証言し、イラク戦争の大義となった「フセイン政権とアルカイダの協力関係」を否定した。
この男性によると、湾岸戦争(1991年)以降、フセイン政権はアルカイダとの共闘を模索。だが、オサマ・ビンラディン容疑者が率いたアルカイダ側は協力を拒んだという。その後もアルカイダ側に密使を送ったが、実現しないままフセイン政権は倒れた。男性は、「(米国の主張した)アルカイダとのつながりに関しては、すべて無実だ」と主張した。
根拠のない情報をもっての開戦。さらに米軍の作戦で多くの民間人が巻き添えで犠牲になった。米ブラウン大の調べによると、米軍や同盟国軍、反米武装勢力による直接的な戦時下暴力の犠牲になった民間人の死者は、18万~20万人ほどにのぼる。
ファルージャに住む教育省職員のサラハ・サヒさん(47)は2003年末、兄フォワズさん(当時35)が米軍による武装勢力への銃撃に巻き込まれて死亡した。
兄の死後、サラハさんは海外のメディアと記者契約を結び、ファルージャでの戦闘の実情を伝えた。「米軍は犠牲者の数を過少に発表することがあった。私は正確な数字を独自に報じた」。自分なりの「報復」との思いで、反米武装勢力の肩を持つような報道もした。米軍に目を付けられたサラハさんは06年、「テロ支援容疑」で2年ほど収容所に入れられた。
■憎悪利用、テロ組織拡大
アルカイダが実際にイラクで活動を本格化させたのは、イラク戦争の後のことだった。外国から戦闘員を集めるだけでなく、住民の反米感情につけ込みながら勢力を拡大。米国にとっては、自らの行動がアルカイダを呼び込むという「負の連鎖」に陥った。
その中心にいたのが、ビンラディン容疑者に忠誠を誓い、「イラク・アルカイダ機構」を率いたザルカウィ容疑者だ。外国人を誘拐して斬首する映像を公開するなど残虐な手法を用い、04年には24歳だった日本人旅行者も犠牲になった。
地元ジャーナリストは、「ザルカウィ容疑者が街中で会合を開いては戦闘員を勧誘していると聞いた」と振り返る。「反米感情を利用して勢力を拡大させていた」。肉親を失うなどした人たちには、個人的な憎しみに突き動かされてアルカイダに加担する者もいた。
「自分を苦しめたやり方で、アメリカを苦しめてやりたかった」
首都バグダッド北部に住むアブ・クサイと名乗る農家の男性(53)は、そうした一人だった。
05年5月、畑で豆の収穫をしていた男性は、爆発音とともに1キロほど離れた自宅から煙が立ち上るのを見た。駆けつけると、11歳の長女が2歳の末っ子に覆いかぶさるように、がれきの下敷きになっていた。
アルカイダの傘下組織がこの地域を拠点とし、米軍の車列を攻撃していたことへの報復攻撃だったとみられる。長女は6カ月間の入院。下半身不随となり、今も車いすでの生活を送る。「いっそ殺してくれた方がよかった」。ふさぎ込む長女は、そう口走ったこともある。男性には米国に対する憎悪しか残らなかった。
この組織に参加した男性は、爆弾を仕掛け、米兵の誘拐にも関わった。「私たちの組織は残虐なことはしなかった」と言うが、誘拐した米兵については、「上の組織に渡した後のことは知らない」。
アブ・バッサムと名乗る男性(55)も、アルカイダ系組織に加わった。弟が米軍の銃撃で犠牲になったことが原因だった。
「復讐(ふくしゅう)だ」。親族らと11人でロケットランチャーやマシンガンを手に取った。組織からは、武器の供給などで支援を受けたという。
イラク・アルカイダ機構は市民もテロの犠牲にし、過激派組織「イスラム国」(IS)の源流となった。
今でも親族で集まると、「現在のイラクの混乱に、アルカイダに加担した私たちの責任はないのか」と議論になるのだという。
だが、こうも釈明する。「敵は米軍だけで、私は一人の市民も殺してはいない。私たちもまた、アルカイダにだまされたのだ」(ファルージャ=伊藤喜之、高野裕介)
◆キーワード
<ファルージャ> バグダッドの西約55キロ、旧フセイン政権の中枢を担ったイスラム教スンニ派の都市。2003年のイラク戦争後、アルカイダ系の過激派など反米武装勢力の拠点となった。04年3月に起きた米民間軍事会社の米国人らが殺害される事件では、住民が遺体を車で引きずり、橋につるす映像が世界中に配信され、衝撃を与えた。米軍は直後からファルージャで大規模な軍事作戦を実施。その後も空爆や攻撃を繰り返して多くの民間人が犠牲になった。
下平評
生きるか、死ぬか? この資料にあるように、イラクの人々は “堪忍袋の緒が切れる” のです。 このような場面に立った人でないと、綺麗ごとでは済まされないのです。
戦争とは、生きるか、死ぬか、の問題なのです。 そのような状況を作り指導する人は、生きるか、死ぬか、には全く関係のない人たちなのです。 このことは忘れてはならない根本なのです。
世界のあちこちの戦争に、多くアメリカがかかわっており、今は同じような手口で中国への活動をしています。 このやり方はどんな理屈を並べようとも、訳の分かったやり方ではありません。 現在では世界の多くの人々がアメリカ批判の立場に立っているのです。
この考えの流れは簡単に変えることは難しいにしても、ユネスコの願いを知りイザゴザの原因になるのは、相手を知らないことと片寄った考え方だと指摘しています。 その通りです。
続いて14日の記事で、アフガニスタンの記事があったので掲載します。
2021/08/14
タリバーン、第2の都市制圧 米、大使館員撤収の動き アフガン
アフガニスタンの反政府勢力タリバーンは12日から13日にかけ、同国で首都カブールに次いで人口が多い南部カンダハルなど8州都を制圧したと宣言した。首都が包囲される事態に備え、米政府は米大使館の人員縮小を決定。大使館員の撤収を支援するため米軍部隊3千人を一時的に現地に派遣すると発表した。▼2面=周到タリバーン
この8日間でタリバーンが制圧を宣言したのは、全国の34州都のうち17州都。8月末を期限に駐留米軍が撤退を進めるなか、米軍に頼ってきた政府軍側の劣勢が鮮明になっている。
13日朝に陥落したカンダハル州の州都カンダハルは、人口約65万人の南部最大の要衝だ。タリバーンの報道担当者は同日、「州知事や警察の施設を占拠した」とツイートした。人口第3の都市である西部ヘラート州の州都ヘラートも12日夜に制圧された。
今後は首都の包囲を狙うタリバーンの攻勢が強まる見通しだ。北部の戦闘を指揮する40代のタリバーン幹部は13日、朝日新聞助手の電話取材に「数週間以内に首都に攻め上がり、旗を掲げる」と計画を語った。
タリバーン戦闘員による政府軍兵士の見せしめ的な殺害や女性の権利の制限が一部報じられ、国連などが「人権侵害だ」と警告している。国際社会の圧力をかわしたいタリバーン執行部は、戦闘員に規律を守るよう求める通達を出した。
情勢悪化を受け、米国務省は12日、大使館に中核機能を果たすのに必要な人数だけを残して職員を撤収させると発表した。安全に撤収を進めるため、米軍は2日以内にカブールの国際空港に3千人の部隊を派遣する。加えて3500~4千人をクウェートに待機させるという。8月末までの米軍撤退の方針に変化はなく、今回の増援は一時的な措置だとしている。
(バンコク=乗京真知、ワシントン=高野遼)
▼2面 (時時刻刻)
周到タリバーン、一気 州都の半数制圧、軍閥と「無血開城」交渉も
【写真・図版】
アフガニスタンで支配地域を広げるタリバーン / アフガニスタンの駐留米軍人数
アフガニスタンから米軍が撤退する8月末の期限を前に、同国の情勢不安に拍車が掛かっている。力の空白を突いて反政府勢力タリバーンが次々に主要都市を制圧。米バイデン政権の撤退方針は揺るがず、米国の後ろ盾を失ったアフガン政府軍の敗色が日ごとに濃くなっている。▼1面参照
州都への一斉攻撃が始まったのは8月初めだが、各州都を制圧する準備は2カ月前から始まっていた。
「タリバーンは長老や宗教指導者をすでに丸め込んでいた」。12日夜に陥落した西部ヘラート州の州都で、アフガン政府軍とともにタリバーンに反撃していた地元軍閥のジャマル・ナシール・ハビビ幹部(45)は、朝日新聞助手の取材にこう語った。州都制圧には事前の「根回し」があったという証言だ。
ハビビ幹部によると、タリバーンは6月ごろから地域の有力者である長老らを説得。長老らとともに州政府高官や軍閥トップのもとを訪ね、「近く州都を占拠するが、衝突は避けたい」と伝えてきた。安全を保証する代わりに「無血開城」せよという、落としどころの提案だった。ヘラートの軍閥は提案を拒んで約2週間戦ったが、タリバーンの勢いが勝った。
軍閥がいない州都では目立った戦闘もなく陥落するケースが続いた。流血を避けるため、州知事らがタリバーンの提案をのんだ模様だ。12日に陥落した中部ガズニの州知事は、水面下でタリバーンと交渉したとして捜査当局に拘束された。
タリバーンは戦術の面でもうわてだった。数千人の米軍が残っていた4月までは攻撃を控え、米軍が完全撤退に向けた動きを本格化させた5月に農村部を掌握。6~7月は国境検問所や物流拠点を押さえ、徐々に州都を包囲した。当初は南部や西部の州都を攻め、政府軍の特殊部隊が投入されたところで、手薄になった北部を一気に攻めた。
この8日間でタリバーンは17州都の制圧を宣言した。全国の34州都の半数を掌握したことになる。タリバーンは占拠した各地の軍基地や警察署から、兵器や軍用車を大量に奪い取り、刑務所からタリバーン戦闘員を脱走させることで、日増しに勢力を増している。
■政府、尽きる交渉カード
アフガン政府軍や警察は、かつてない軍事的敗北を喫している。
アフガン政府軍や警察は約30万人いるが、薄給で士気が低い。上官が部下の給料をくすねたり武器を横流ししたりする不祥事が続く。米国がタリバーン掃討のために買い与えたはずの軍用車や銃が、州都陥落とともにタリバーンに奪われている。
これまではアフガン政府軍が地上戦で押されても、米軍の援護で失地を取り戻せていたが、米軍が去るなかで難しくなった。
アフガン政府軍は空爆での反撃も試みているが、空軍機の補修を米軍に頼ってきたため、運用が滞っている。今月7日には空軍の操縦士が、タリバーンによる爆破事件で死亡した。
ガニ大統領は、タリバーンの伸長は「(米軍が)急な撤退判断をしたため」と主張している。アフガン政府はタリバーンに停戦を求めようにも、譲歩を引き出せるような交渉カードはほとんどない。
中東カタールの衛星放送局アルジャジーラによると、アフガン政府は首都陥落の事態を避けるため、カタール政府を介して、タリバーンに権力を分け合ってもいいと打診しているという。(バンコク=乗京真知)
■米軍、自国民の救出優先 首都空港に3000人派遣へ
急速に悪化する情勢を受け、米政府は対応を急いでいる。背景にはアフガン政府軍が長くは持ちこたえられないとの危機感がある。
8月末までの撤退が進むなか、残った米軍部隊はカブールに650人のみ。自国民を救出するため、米軍は3千人の部隊をカブールの空港に送り込む。国務省のプライス報道官は「我々の第一の責務は国民の安全を守ることだ」と強調。一方、アフガニスタンの国民を救う手立ては見えない。民主主義や人権を重視するバイデン政権だが、武力で制圧を進めるタリバーンには打つ手がないのが現状だ。空爆でアフガン政府軍の援護はしているが、効果は乏しい。
情勢悪化を受けても、米国は米軍撤退の方針を崩さない。バイデン大統領は10日、「我々は20年間で1兆ドル(約110兆円)以上を費やした。アフガン政府軍を訓練し、最新の装備を与えた」と強調。「自分自身のため、自国のために戦わなければならない」と半ば突き放すようにアフガン政府軍の奮起を促した。
共和党のマコネル上院議員は12日、「アフガニスタンは大規模で予測可能、かつ防ぎうる惨事に向かっている」と指摘。米軍撤退を急ぐバイデン氏の政策を「無謀」とし、「世界的な緊急事態を引き起こした」と批判した。
だが国内では、米同時多発テロ以来20年に及ぶ対テロ戦争への厭戦(えんせん)ムードが強く、批判は大きくは広がっていない。米軍駐留に充ててきた費用を、新たな投資に回すべきだとの考えには一定の支持があるためだ。
バイデン政権は米軍撤退後も、外交ルートで和平を模索するという。今週は中東カタールにハリルザード米特使を派遣し、中国や中央アジア、欧州各国などを交えて対応を協議。「武力により押しつけられた政府は認めない」とタリバーンを牽制(けんせい)した。
7月下旬には中国の王毅(ワンイー)外相がタリバーン代表団と会談。プライス報道官は「米中関係は複雑だが、アフガニスタンに関しては北京と利害が一致している」としている。だが、タリバーンが外交圧力で武力行使をやめる気配はない。(ワシントン=高野遼)
2021/08/13
https://1000ya.isis.ne.jp/0256.html(要クリック)
松岡正剛の千夜千冊 放浪記
宿命的な放浪者というものがいるのかどうか、わからない。林芙美子は「私は宿命的に放浪者である」と書く。『放浪記』はその言葉で始まっている。ついで「私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物(ふともの)の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である」とつづく。
この父と母が互いに流れ流れて下関で出会い、ブリキ屋の二階で林芙美子を生んだ。ところが父が別の女に靡いたので、母親は8歳の芙美子を連れて20歳も年下の別の男と一緒になった。この養父が二人を連れて九州一円を行商しつづけた。毎晩が木賃宿の暮らしである。
つまり林芙美子には故郷がなかったのである。故郷だけではなくて、小学校も転々としたし、長じてはあらゆる職業にちょっとずつ就いた。
わずかに尾道にいたころだけ、芙美子は自分で稼いで女学校に通いつづけ、その4年間だけで文芸の素養を磨き、表現の自由を獲得した。この時期のことは名作短編『風琴と魚の町』に鮮やかにしるされている。
それ以外は、さんざんな生活である。文学史家たちも、明治大正期を通してこれほど定住から遠い貧乏で、幸運に見放されていた作家はいなかったのではないかという見方をしている。
ところが、『放浪記』にはそうした日々が次々に描かれているにもかかわらず、文章からはそのような不幸な印象が伝わらない。躍るような文章なのである。
『放浪記』は昭和2年に改造社から出版された。とてもその時代の文章とはおもえない。瑞々しい。生きている。
この文章は、実際には大正11年から大正15年まで書きためた日記ふうの雑記帳からの抜粋で、それが、女性の才能を発見する名人だった長谷川時雨が編集をしていた「女人芸術」誌上に昭和3年から連載された。それをまとめたのが『放浪記』である。
ただし、これはまだ一部の抜粋であったらしく、その後、『続放浪記』が改造社から刊行された。同じ雑記帳からの抜粋であるらしい。が、このほかにも文章はあったらしく、それが戦後になって留女書店で『放浪記第三部』としてまとめられた。本書は新潮文庫がこれら3編をつなげたもので、標題も『新版放浪記』となっている。いわば定番にあたる。
それはともかく、本書はちょっとでも読み始めるだけで、林芙美子の生き方にも、その個性にも、たちまちぐいぐい惹きつけられるはずである。当時の女性が書ける“心が生きた文章”なのだ。ぼくは母に薦められてこれを読んだのだが、たちまち魅了された。林芙美子が大好きにもなった。おそらくぼく自身はこういう文章を書かないだろうとはおもうものの、自分のことを書いてみたいと思っている女性は、ぜひともこの文章を読むといい。勇気も湧くだろうが、文章の訓練にもなる。
では、めんどうぐさがり屋の諸姉のために、ぼくが『放浪記』のせいいっぱいの名文を、少しだけだが抜粋しておくことにする。
★私は放浪のカチユウシャです。長いことクリームを塗らない顔は瀬戸物のように固くなって、安酒に酔った私は誰もおそろしいものがない。ああ一人の酔いどれ女でございます。
★折れた鉛筆のように、女達は皆ゴロゴロ眠っている。雑記帳のはじにこんな手紙をかいてみる。生きのびるまで生きて来たという気持ちです。随分長い事会いませんね、神田でお別れしたきりですもの。
★私は商人宿とかいてある行燈をみつけると、耳朶(みみたぶ)を熱くしながら宿代を聞きにはいった。親切そうなお上さんが帳場にいて、泊りだけなら六十銭でいいよと旅心をいたわるように「おあがりやす」と云ってくれた。三畳の壁の青いのが変に淋しかったが、朝からの着物を浴衣にきかえると、宿のお上さんに教わって近所の銭湯に行った。旅と云うものはおそろしいようでいて肩のはらないものだ。女達はまるで蓮の花のように小さい湯漕(ゆぶね)を囲んで、珍しい言葉でしゃべっている。
★街中がおいしそうな食物で埋まっているではないか。明日は雨かもしれない。重たい風が飄々と吹くたびに、興奮した私の鼻穴に、すがすがしい秋の果実店からあんなに芳烈な匂いがしてくる。
★スチルネルの自我経。ヴォルテエルの哲学、ラブレエの恋文。みんな人生の断り状だ。生きていることが恥ずかしいのだ。
★一尺四方の四角な天窓を眺めて、初めて紫色に澄んだ空を見たのだ。秋が来た。コック部屋で御飯を食べながら、私は遠い田舎の秋をどんなにか恋しく思った。秋はいいな。今日も一人の女が来ている。マシマロのように白っぽい一寸面白そうな女なり。
★一切合財が何時も風呂敷包み一つの私である。
★ああ全世界はお父さんとお母さんでいっぱいなのだ。お父さんとお母さんの愛情が、唯一のものであるという事を、私は生活にかまけて忘れておりました。白い前垂を掛けたまま、竹薮や、小川や洋館の横を通って、だらだらと丘を降りると、蒸気船のような工場の音がしていた。ああ尾道の海! 私は海近いような錯覚をおこして、子供のように丘をかけ降りて行った。そこは交番の横の工場のモーターが唸っているきりで、がらんとした原っぱだった。三宿の停車場に、しばらく私は電車に乗る人か何かのように立ってはいたけれど、お腹がすいて目が舞いそうだった。
★いまさら考えてみるけれど、生活らしいことも、恋人らしい好きなひとも、勉強らしい勉強も出来なかった自分のふがいなさが、凪の日の舟のように侘しくなってくる。こんどは、とても好きなひとが出来たら、眼をつぶってすぐ死んでしまいましょう。
★淋しく候。くだらなく候。金が欲しく候。北海道あたりの、アカシアの香る並木道を一人できままに歩いてみたいものなり。
★心が留守になっているとつまずきが多いものだ。激しい雨の中を、私の自動車は八王子街道を走っている。たまに自動車に乗るといい気持なり。雨の町に燈火がつきそめている。
★黄水仙の花には何か思い出がある。窓をあけると、隣の家の座敷に燈火がついていて、二階から見える黒い卓子の上には黄水仙が三毛猫のように見えた。階下の台所から夕方のおいしそうな匂いと音がしている。二日も私は御飯を食べない。
★速くノートに書きとめておかなければ、この素速い文字は消えて、忘れてしまうのだ。仕方なく電気をつけ、ノートをたぐり寄せる。鉛筆を探しているひまに、さっきの光るような文字は綺麗に忘れてしまって、そのひとかけらも思い出せない。また燈火を消す。するとまた、赤ん坊の泣き声のような初々しい文字が瞼に光る。
参考¶林芙美子はその後、数々の小説を書くが、『めし』『浮雲』などは物語としても考えさせる(新潮文庫)。なかでも『浮雲』は晩年の変わった問題作で、主人公の女(幸田ゆき子)がインドシナのダラットで知り合った男(富岡)と奇妙な愛を絞っていくという筋なのだが、富岡がインドシナの農林に自分の生き方を賭けているところがよく書けていて、終盤、二人が屋久島の林業試験場へ行き愛をたしかめあおうとするのに、女からするとそれも確認できず、それでも富岡が屋久島に見いだすものに敗れて死んでいくという終わり方が、深かった。こういうと言いすぎかもしれないが、ここにはアジアと日本人の関係がそこいらの論文よりずっと浮き彫りにされている。
下平記
青空文庫(要クリック)ここを開くと、公開されている本をそのまま読むことができるという都合がよいサイトです。
林芙美子という作者は調べてみるととても不遇な環境に置かれていたが、おそらく母親によって宿業期の立派な養育によって人柄ができていたのでしょう。 生命科学思考という言葉に出会い、いのちの科学に関する思考だろうと思い、これを調べていて「個体として生き残り、種が繁栄するために行動する」ことを基本的にわきまえていることが書かれていました。
この説明は「いのちは細胞に支えられその願いを私に託している。 いのちの願いとは子孫の繁栄であり、強く正しく朗らかに和を宗(ムネ)として私は生涯をおくる」という私の想いに直結していました。
生命科学の説明によりますと、この基本により「自分の生存可能性が高くなって初めて、他者のことや人類のこと世界や未来のことも考えられるようになる」としています。 さらに説明が続きますが、この考えのデータを次にあげます。
2021/08/13NHK(視点・論点) 2021/06/16
生命科学的思考で不安と向き合う
生命科学研究者 高橋祥子
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/451005.html
こんにちは。コロナ禍という混沌とした状況のなかで、今、多くの人が不安や心配を抱えていると思います。今日は、そんな不安や心配とどう向き合っていけば良いのかを、「生命科学的思考」という考え方に基づいてお話していきます。
私は生命科学の「研究者」としてヒトの社会や課題と日々向き合う中で、様々な問題に直面し、不安に悩まされることもありました。しかし、そもそもなぜ「不安」や「課題」があるのかと疑問に思い、すべてが私の研究対象である生命の仕組みに関係するものだと考えるようになってから、これまでの「見え方」が一変しました。基本的にすべての生命活動には「個体として生き残り、種が繁栄するために行動する」という共通の原則が関係しています。その生命原則を客観的に理解した上で、「自分はどうしたいか」という主観的な意志をいかす思考が、「生命科学的思考」です。
生命の仕組みで考えると、私たちが「不安」というネガティブな感情を持つのは、遺伝子が正しく機能している証拠です。危機に備えて、危機を察知して回避していく。そのための守りの機能のひとつとしてあるわけです。「危険な状況だから、逃げたほうがいいですよ」と知らせてくれています。
私も起業するときは不安を感じましたが、それは「私が不安に思っている」のではなく、「遺伝子の機能によって不安に感じているだけ」と考えることができます。そうすると、不安は対策できる不安と対策できない不安に分けることができます。この対策できる不安については、事前に準備して、すべて行動することができます。
例えばコロナ禍の不安に置き換えると、マスクや消毒など、個人でできる感染対策、自分を守って、他人への感染も予防するものです。皆さんすでにされてらっしゃるかと思いますが、これらは対策できる不安と言えるでしょう。
それでも、すべて対策できるものを対策してから残る、漠然とした不安については、生命の性質によるものであり、行動ではどうしても解決できないので、ふたをして考えないようにしています。
遺伝子に搭載されている基本的な危機回避の機能に従うことが、現在における様々な環境においても最適であるとは限らないからです。つまり、不安や心配など、すべての感情は、生命の視点から客観的に自分を見ることで、とりうる解決策が見えてきます。
もちろん、すべての感情を客観視する必要はありません。例えば「楽しい」や「うれしい」といったポジティブな感情を持った時は、遺伝子が機能していることは忘れて、心の底から味わうようにしています。そこまでロジックでとらえてしまうと、何も楽しめなくなってしまいますからね。
遺伝子と感情の仕組みを知ってからは、「辛事(しんじ)は理、幸事(こうじ)は情をもって処す」と考えるようにしています。つまりつらいことは論理的に対処し、楽しいことは心から楽しむ、ということです。
このように、生命の本質や機能を理解した上で、自分でコントロールできる範囲のものはコントロールしよう、というのが「生命科学的思考」です。
生命原則とは、「個体として自分が生き残り、種として繁栄する」ということです。イギリスの進化生物学者・動物行動学者であるリチャード・ドーキンスは、「利己的な遺伝子」という書籍の中で、「すべての生物は、遺伝子を運ぶための生存機械にすぎない」といった趣旨の話をしています。一方で、ドーキンス氏は同じ本で、「私たちには、これらの創造者に刃向かう力がある。この地上で、唯一私たちだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのだ」と述べています。
創造者や自己複製子とは、遺伝子のことです。人間だけが生命原則にあらがうことができ、自分の意思で行動できるというのが、個人にとって大切になります。
この生命原則には順番があります。まず自分の個体としての生存可能性を最優先で考え、自分の生存可能性が高くなって初めて、他者のことや、人類のこと、世界や未来のことも考えられるようになります。
自分が見ている、考えている世界の範囲のことを「視野」と呼ぶとすると、生命は視野をコントロールすることが非常に不自由な存在です。
視野には、「空間的視野」と「時間的視野」の2種類があります。空間的視野は、ある時点で自分のことだけでなく他人や世界のことなどを考える範囲のこと。時間的視野は、現在だけでなく明日や1年後、10年後といったように、いろいろな時間のスパンで考える範囲のことです。例えば、生まれたての赤ちゃんは自分のことや今のことしか捉えることができず、視野がすごく狭くなっています。まず個体として生存するために、今自分のことに意識を向けています。生きるためには視野が狭い必要があるからです。
人間が成長して、個体としての生存の可能性を担保できるようになると、周りの人たちのこと、そして社会のことも考えられるようになります。個体としての生存の可能性が担保されてくると、視野が広がるからです。
空間的視野、時間的視野のどちらについても、ただ視野を広くもつのではなく、広くも狭くも調節できる能力が必要ですが、そもそも生命自体は視野が狭くなるようにできています。そのことを知るだけでも、広い視野をもてるようになります。自分が今、どの視野でとらえているのか意識するだけでも、物事の見え方は変わってくるはずです。
予測できない環境の中で、理不尽に思えることに直面した時にこそ、自分が何を求めているかについての認識が深まり、初めて理想とする世界を決めることができます。コロナ禍などつらい状況では、なぜ今の状況がつらいと思うのか、正確に認識することが大切です。
なぜつらいのか、自分はどういう世界を望んでいるのかを考えると、解決すべき課題が見えてきます。
普段の秩序ある世界では、自分が期待する世界と実際の世界にズレがない場合、なぜ違うかという疑問は発生しにくいですが、今のコロナ禍というカオスな状況では、自分の希望する世界と実際の世界のズレを認識しやすくなります。生命科学的思考を通じて、自分の置かれている環境や視野を知ることで、よくわからないけど不安だ、怖いという感情から解放されて、主観的な命題、つまり何が理想なのか、そのために何ができるのかを、迷いなく生きることができます。
今後、生命科学のテクノロジーにおいては、ゲノム編集やAI、そしてこれからも新しいテクノロジーが多く生まれると思いますが、どんな技術が生まれたとしても、私は明るい未来を作ることができると信じています。ただし、それは「私たちが生命原則を知り、ただ本能に翻弄されるだけではなく、視野が狭くなりがちになるという性質をもっていると理解した上で、主体的に思考する」という条件つきだと思います。
変化が激しい時代では、私たちは能動的に思考することが大切になります。思考して行動に移すことで、人類は明るい未来を作ることができます。
「生命原則を客観的に理解した上で『じゃあ自分はどうしたいか』という主観的な意志を活かす思考」、「生命科学的思考」こそが、人類にとって唯一の希望であるとも考えています。
下平評
この記事は私の考えとそっくりの部分があり自分でも自信が持てます。
その考えの裏付けとしてイギリスの学者の考えを借用していることが気に食わない。 遺伝子にこだわることを主とした考えの進め方が気になるのです。 村上和雄さんの考えの様に something great という神秘的な奥深い科学の領域を考えると、やはりいのちの伝承については合理的理解までに至らないのです。
ここにはモーゼが受けとめた神の存在、具体的には女性と男性の営みからいのちの伝承の授受があることを合理的に表現すべきなのです。
それと次の問題として、自己の安全が確信できてからのことをはっきり区別すべきだと考えなければならないのです。
ここに個人が自由に自分の願いの実現にむかっての道筋を想定しなければならないのです。それが彼女にも欠けていると言えます。
私の主張は以上です。