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続折々の記 ⑦
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【 05 】08/15
       戦後76年のお盆   絶えずいのちの尊厳を貫くこと
2021/08/15
戦後76年のお盆    世情の変態雲の如しか
   絶えずいのちの尊厳を貫くこと
   記事
     ① きょう終戦76年
     ② 雨量、西日本豪雨超す 広島・福岡・佐賀など 4県、特別警報
     ③ (砂上の国家 満州のスパイ戦)打ち立てた傀儡、謀略の最前線
       将校ら178時間の証言録音
     ④ (天声人語)数々の無謀

① きょう終戦76年

 76回目の終戦の日を迎える15日、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館(東京)で開かれる。参列する遺族は、会場のある東京を除く各道府県からは1人程度に絞り、12日時点で55人にとどまる。全体で約200人となり、第1回の1952年以来、記録が残る範囲で最少となる。▼8面=社説、23面=次世代へ、26面=連載「抵抗の足跡」

 例年、約6千人が出席して約310万人の戦没者を悼んできた。昨年も新型コロナの影響のため出席者は542人(遺族193人含む)に絞られていた。今年は東京など6都府県に緊急事態宣言が出ていることを踏まえ、さらに縮小する。

 遺族のほか、天皇、皇后両陛下、菅義偉首相らが出席。午前11時51分に始まり正午に黙祷(もくとう)する。(杉浦達朗)

▼8面
(社説)戦後76年の夏 問われ続ける主権者の覚悟

 国の内外の人々に大きな苦難をもたらした第2次大戦の終わりから、76年になる。

 戦後の日本が憲法を手にめざしたのは、国民が主権を行使し、個人が等しく尊重される社会の実現だった。だが不平等はさまざまな形で残り、新たな矛盾も生み出されている。

 昨年来のコロナ禍の下で迎えた8月15日。個人の幸せの実現のために国家があることを確認し、一人ひとりが自律的に社会に関わっていくことの大切さを改めて考える機会としたい。

 ■異論封じた果てに

 戦争の終わりは「はじまりの日」でもあった。

 大正期から婦人参政権運動を率いた市川房枝は、敗戦を告げる昭和天皇のラジオ放送を東京の知人宅で聞いた。くやし涙を流した後、「さて、私たちは何をすべきかを考えた」と自伝に記している。

 その覚悟は、直ちに焦土のまちを友人を訪ねて回り、10日後には女性政策を進言する団体を設立したところにうかがえる。

 この年12月、衆議院での女性の参政権を認める法改正があった。占領軍による民主化5大政策のひとつ「女性の解放」に沿うものだったが、市川らの運動がその土台を築いていたことを忘れるべきではない。

 「男女に等しく政治的な権利を」という今では当たり前の主張は、男尊女卑の家父長的家族制に基礎をおく戦前の体制と真っ向から対立するものだった。このため当時の運動は、男女平等の本質を説くより、「台所と政治をつなぐ」ことの利点を訴えるという、妥協的なものにならざるをえなかった。それでも壁は破れなかった。

 治安維持法制のもとで、体制に疑義を唱える者は弾圧・排除され、あるいは懐柔された。非戦主義者だった市川自身も、やがて時代に絡め取られていく。言論統制に携わる組織の理事を務めたとして、戦後、公職追放された。

 批判にさらされない権力が暴走した先に、敗戦があった。

 ■平等なしに平和なし

 復権後に参院議員をおよそ25年務めた市川が死去して、ちょうど40年。戦後の改革で法律や制度の民主化が図られたが、めざした社会の実現は遠い。

 女性の国会議員は全体の15%に満たない。家父長制は廃止されても、それに由来し、世界に類を見ない夫婦同姓を強制する法律は引き継がれたままだ。性別に基づく役割分業論も、ことあるごとに姿を現す。

 男女の問題に限らない。社会的な地位、障害の有無、性的指向、民族の違いなどによる不平等や格差が歴然とある。

 コロナ禍はその現実を浮き彫りにした。例えば、ひとり親をとりまく課題に向き合うNPO法人「しんぐるまざあず・ふぉーらむ」の調査では、非正規労働者が調整弁に使われ、雇用や収入などで大きな不利益を受けている様子が見て取れる。ところが政治はそうした声をすくい上げる機能を欠き、十分な支援策を打ち出せていない。

 「こんなはずではなかった。それが76歳になろうとする私の思い」。そう語るのは、終戦の年に生まれ、ジェンダー研究から市川の歩みをたどった東洋英和女学院大学名誉教授の進藤久美子さんだ。集団の利益を重んじる政治文化が残り、異なる経験に基づく価値観が採り入れられてこなかったと感じている。

 平和なくして平等はなく、平等なくして平和はない――。市川は晩年、そう強調した。

 違いを認め合い、対等な立場で個人の尊厳が守られている国の間で戦争は起きないし、逆に戦争が起きれば平等も尊厳も、そして生存自体も脅かされる。

 「市川本人の戦争体験から出た言葉だが、後に世界に広がった『人間の安全保障』の考え方に通じる」と進藤さんは話す。

 ■コロナ禍が試すもの

 政治権力がしたこと、しなかったことの責任を、これまでの為政者だけに帰すわけにはいかない。そういう政治を選び、委ね、許してきたのは他ならぬ主権者だからだ。

 国民の命やくらしを守るという国の責務が、今ほど切実に問われているときはない。

 コロナ禍はまた、強い感染防止対策と個人がもつ自由・権利とを、どう調整するかという問題を突きつけた。権威主義的な体制のほうがこうした危機にはうまく対応できる、という言説すらある。

 公法学者から政治家に転じたブランケール仏教育相も7月に来日した際、その難しさを吐露した。大統領に強い権限がある国だが、人々が異論を挟めることに意味があると述べた。政府の決定が漫然と受け入れられることはないし、そうあるべきではないとの見方だ。

 社会にひそむ問題、とりわけ弱い立場に置かれている人たちが抱える苦しみを共有し、とられる政策を見定め、責任ある主権者として声を上げる。

 その積み重ねの先に、市川が「はじまりの日」に希求した平等があり、平和がある。

▼23面
(with読者会議)平和のバトン、次の世代へ

写真・図版 【戦争の記憶を引き継ぐためにしていることは?】
<グラフィック・菊池桃>

 ■Reライフ 人生充実

 今日は終戦の日。戦後76年がたち、記憶を継承する努力が必要です。そのためにしていることを尋ねると、戦争を体験した世代のみならず、戦後生まれの世代からも多くの声が寄せられました。

 ■銃撃逃れた日々、伝え続ける

 埼玉県に住む岡部美與子(みよこ)さん(85)には、今も耳に残る音がある。昼夜問わず戦闘機が低空飛行している音、戦闘機が「ダッダッダッ」と機銃掃射する音。「製糖工場を狙っていたようです」

 1936(昭和11)年、日本統治下の台湾で生まれた。父は製糖会社に勤め、社宅に住んでいた。太平洋戦争が始まっても当初は海水浴をしたり、運動会をしたり。穏やかな日々が続いていた。

 一変したのは、小学校に入学してしばらくしてから。空襲警報のサイレンが頻繁に鳴るようになり、社宅の庭の大きな防空壕(ごう)に家族で避難した。下校途中にサイレンが鳴ると、サトウキビ畑と通学路の間に掘られた、1人が入れる「たこつぼ」に避難した。

 45年になると、毎日のようにサイレンが鳴った。家の中に戻ると窓ガラスが割れ、畳の上に薬莢(やっきょう)が転がっていることがあった。「いつまで続くのか」。学校生活もままならず、早く日常に戻ってほしいと願い続けた。

 緊張の日々が1年半ほど続いた45年8月、大人たちの様子から戦争に負けたのを知った。「これから日本はどうなるんだろう」と不安を感じた。ひょっとしたら米軍が上陸し、危険な目に遭うかもしれない。父は「上陸してきても家族には絶対に手を触れさせない」と言っていた。3歳上の姉によると、父は床の間に白い粉が入った瓶を置いていたという。「ひょっとしたら青酸カリだったのかもしれません」

 父方の親戚が住んでいた鹿児島県に引き揚げてきたのは、その翌年。船から見た町は焼け野原になっていた。上陸するとき、シラミを駆除するためという理由で、DDTという農薬を体中にまかれたことは忘れられない。

 毎年終戦の日は、正午の時報に合わせて、平和が続きますようにと黙祷(もくとう)する。子や孫にも折に触れて戦時中のことを話してきた。「戦争になると、若い人たちが意思に反して命を落とす。平和の尊さを伝えていきたい」(有近隆史)

 ■終戦の日には「すいとん」

 終戦の日には必ず「すいとん」を作って夕食にします。父から戦時中によく食べたと聞かされたからです。私自身、戦争を知らない世代ですが、30年ほど続けています。私が作るすいとんには肉や野菜がたっぷり入っていますが、子どもたちには、戦時中は、具や味付けもほとんどなく、小麦粉の団子だけだったと教えています。子どもたちにとって戦争のことを知るきっかけになれば、と思っています。
 <静岡県 稲葉知子さん(52)>

 ■通信兵だった父、語り継ぐ

 1925(大正14)年生まれの父は、軍隊で通信兵をしていました。戦後、父にモールス信号の打ち方を教えてもらうこともありましたが、多くの仲間が特攻隊で戦死し、悔しかったという話をよくしていました。父は82歳で亡くなり、終戦記念日には必ず父の墓参りに行くようにしています。私自身は戦後生まれですが、父が私に話してくれたことを息子にも伝え、戦争の悲惨さを継承していきたいと考えています。
 <茨城県 豊沢啓雄さん(67)>

 ■母の空襲体験記、私へ娘へ

 コロナ禍で外出がままならなくなってしまったのをきっかけに、母(89)に戦争の体験記を書いてもらっています。東京大空襲で焼夷(しょうい)弾が落とされる中、命からがら逃げた母。体験記には「後ろにいた人が焼夷弾の直撃を受けた」「夜が明けて家をみにいった。一面焼け野原でまだまだくすぶっていた」などと記していました。箇条書きの母の記録を文章にまとめて、まずは娘に引き継ぎたいと思います。
 <東京都 小川裕子さん(60)>

▼26面
(抵抗の足跡 戦後76年:5)「戦争は悪」貫いた父、信念は今も

 山形県小国町に住む今野和子さん(87)は、父親の鈴木弼美(すけよし)(1899~1990)が逮捕された日のことが忘れられない。

 1944年6月12日、同町(旧津川村)。早朝、自宅の玄関前にトラックが止まると、男たち数人が家に押し入ってきた。父親が連行され、治安維持法違反の容疑で逮捕された。鮮明に記憶に残っているのは、連行される際、靴を履きながら語った父の言葉だ。

 「幸いなるかな、義のために責められたる者……」。新約聖書「マタイによる福音書」(文語訳)の一節だった。

     *
 鈴木は東京帝大物理学科在学中、無教会派キリスト教伝道者の内村鑑三の門下に入った。僻地(へきち)での伝道を夢見る内村の呼びかけに応じて、33年に小国町に移住し、翌34年に基督教独立学校を設立した。

 「戦争反対」など外で口にできなかった時代に、鈴木は「この戦争は間違った戦争だ」「日本は勝てない」と周囲に繰り返し公言し、監視対象となっていた。

 鈴木の逮捕後、残された家族は周囲の厳しい目にさらされた。

 今野さんは近所の子どもたちから「スパイ」と呼ばれた。「地下室にある水力自家発電装置を敵に情報を送る道具だといって責められたこともあった」と振り返る。鈴木の逮捕後、原因不明の下痢が続いた。

 鈴木が釈放されたのは45年2月。「八ケ月の間健康も害(そこな)わず、信仰をもまげず弱き私としては充分に福音の証(あかし)をなすことが出来ましたのは奇跡」。鈴木はのちに記した「獄中証言」という一文に、獄中でも信念を曲げなかったことをつづっている。

 敗戦後の48年、鈴木は独立学校を新制高校の「基督教独立学園高校」に衣替えさせた。今野さんも後に学園の教師となる。「父は戦後、治安維持法違反で逮捕されたことを生徒たちに話題にしなかった。むしろ、現実の政治を厳しく批判し、自衛の戦争も含めてすべての戦争は悪であると語っていた」と振り返った。

 戦争放棄を掲げた9条を持つ日本国憲法が施行された47年、鈴木は「戦争放棄の光栄」という一文を執筆した。90年5月に亡くなるまで、徹底した非戦論が一貫した信条だった。

     *
 6月、子ども向けに「あの日、ぼくらは」(いのちのことば社)という本が出版された。

 著者はフリーライターの結城絵美子さん(56)。長男は学園の卒業生だ。3章のうち2章目が「独立学園物語」。鈴木の生涯と戦後の学園の歩みを今野さんの視線を通じて描いた。

 伝えたかったのは、戦争は「個」を徹底的に抑圧するということ。そんな時代でも、自らの信念を貫き通した鈴木という人物がいたということだ。

 結城さんが若かったころ、政治家の間にも戦争体験者が多く、戦争の反省から生まれた憲法9条の改正を気軽に口にできなかった。いまは、改正が現実味を帯びて語られる。戦争の記憶の風化も進む。

 時代の変化に不安を感じていたとき、長男が学園に入学し、鈴木との接点が生まれた。鈴木の存在を通して、子どもたちに過去を伝えるべきだと思った。

 結城さんは作品の最後を、今野さんがこうつぶやく場面で結んでいる。

 「大事なのは、一人ひとりを大切にする生き方。そして、何が正しいのかということを、『そうしろと言われたから』という流れに流されないで見極める力を持つこと。その二つのことが失われていたあの時代に戻らないために、あなたたちは今、ここで、それをしっかり学んでね」

 学園では今、3学年57人(男子29人、女子28人)の生徒が共同生活を送りながら、個を尊重する生き方を学んでいる。(編集委員・豊秀一)=おわり

② 雨量、西日本豪雨超す 広島・福岡・佐賀など4県特別警報

写真・図版 【写真】
氾濫(はんらん)した六角川の近くにある順天堂病院付近は一面が水につかっていた=14日午後3時20分、佐賀県大町町、本社機から、林敏行撮影

 停滞する前線による西日本を中心とした記録的大雨は14日も続き、3年前に中国地方に甚大な被害をもたらした西日本豪雨の雨量を超える地域も出た。15日も前線に伴う低気圧の影響で大気の不安定な状況が続くという。気象庁は引き続き最大級の警戒を呼びかけている。▼27面=各地で氾濫・浸水

 気象庁は14日早朝までに長崎県と佐賀県、福岡県に、昼すぎに広島県に大雨特別警報を出した。対象地域は午後5時時点で、4県の35自治体。

 佐賀県嬉野市では降り始めからの総雨量が14日夜に1千ミリを超えた。同日の72時間雨量の最大値は午後7時10分現在、九州を中心に東海や北陸、中国地方を含む46地点で観測史上最多となった。この中には死者263人を出した2018年7月の西日本豪雨で被害が出た広島県や福岡県、佐賀県などの複数の観測点も含まれている。

 前線は15日にいったん太平洋側に南下し、雨は小康状態になる地域もあるが、20日ごろまで停滞する見通し。気象庁予報課の黒良龍太課長は14日の会見で、「前線はすぐに北上し、1週間程度本州付近に停滞する可能性がある。安心する状況では決してない」と話した。

 15日午後6時までの24時間雨量の予想は多いところで、東海300ミリ▽関東甲信250ミリ▽九州北部と四国、中国、近畿200ミリ▽九州南部180ミリ▽北陸と東北100ミリ。

 総務省消防庁によると、14日午後0時半時点で、避難情報のうち最も危険度が高い「緊急安全確保」(警戒レベル5)は福岡、佐賀、長崎、広島の4県23市町で約65万1千世帯の142万3千人に発令。避難指示(同4)は北陸から九州にかけての22府県164市町村で、約188万8千世帯に出されている。

 熊本県人吉市では14日午前、男性1人が増水した球磨(くま)川に流された可能性があるとみて、警察や消防が調べている。広島県東広島市では14日午前、住民から「田んぼの様子を見に行った家族が戻らない」との通報が市消防局にあった。外出した80代の男性の行方がわかっていないという。

 長崎県雲仙市で13日未明、住宅が土砂崩れに巻き込まれて住人の森文代さん(59)が死亡した現場では、行方がわからない夫の保啓(やすひろ)さん(67)と娘の優子さん(32)の捜索が14日も続いた。(山岸玲)

 ■降り始めからの総雨量
  佐賀県嬉野市  1022.5ミリ
  長崎県雲仙市   910.5ミリ
  長崎市(長浦岳) 890.0ミリ
  佐賀県鳥栖市   873.5ミリ
  佐賀県大町町   860.0ミリ
  福岡県八女市   844.0ミリ
  佐賀市      831.0ミリ
  福岡県大牟田市  771.5ミリ
  熊本県山鹿市   771.5ミリ
  福岡県久留米市  760.0ミリ
   (11~14日午後7時現在 気象庁まとめ)

▼27面
各地で氾濫・浸水

西日本各地で氾濫・浸水 長野、7.4万人に避難指示

 西日本を中心に降り続く大雨による被害は、広範囲に広がっている。あふれ出た川の水が流れ込んだ病院では、外来診療もままならない「緊急事態」に陥った。▼1面参照

 佐賀県では2年前に大規模な水害を引き起こしたばかりの川が再び氾濫(はんらん)し、広い範囲で浸水した。

 国土交通省によれば、同県武雄市橘町で14日午前6時半ごろ、六角川が氾濫。市内の避難所で家族と過ごす女性(40)は、2年前にも自宅が水害に見舞われた。当時は床上80センチほど浸水し、2階で過ごした。「今回はどんどん浸水して2年前より水が高くなって怖くなった」。消防のボートで救出されたという。

 広島県安芸高田市のJA吉田総合病院では14日、病棟に流れ込んだ土砂をかき出す作業が進められた。13日午前から近くを流れる多治比川の水が入り込み、1階部分が10センチほど浸水。外来患者や入院患者ら約60人が別棟に避難した。外来診療を休止し再開のめどは立っていない。森友俊文事務局長は「想定外では済まされない緊急事態」と話した。

 湯崎英彦・広島県知事は14日午後1時半に緊急会見し、土砂崩落の危険度を示す「土壌雨量指数」が、県内の多くの観測点で西日本豪雨の発災直前と同じレベルの数値を記録していると説明。「どの地域で災害が起きてもおかしくない」と県民に避難を呼びかけた。

 大雨の影響は東日本にも。長野県では安曇野市の一部に避難情報のうち最も危険度が高い「緊急安全確保」(警戒レベル5)が発令されたほか、長野市や松本市などの約7万4千人に避難指示が出た。

 ■避難場所・持ち物確認、冠水道路は避けて

 九州を中心に、出口の見えない大雨。緊急時への備えは何が必要か。

 気象庁などによると、避難場所がどこにあり、どのルートを通れば安全にたどり着けるのか、事前に把握しておくことが大切だ。学校や公民館など指定された避難場所は、国土交通省の「ハザードマップポータルサイト」で検索できる。

 避難するときの持ち物は必要最低限にしたい。飲料水や乾パンなどの食料、医薬品、健康保険証、現金、通帳、下着やタオル、懐中電灯などだ。

 家にとどまる場合、断水に備えて浴槽に水を張るなどして生活用水を確保。物が飛んでくるのに備えカーテンは閉め、ブラインドは下ろしておいた方がよい。

 日本自動車連盟(JAF)によると、道路が冠水し、水位が上がったら自動車での避難は控えたほうがよいという。車で移動中に大雨に遭遇した場合、川沿いや急傾斜地のほか、高架下などの周囲より低い場所を避けることを勧める。冠水した道路は、見た目では水深がわからない。思いのほか深いことがあるので、進入は避けた方がよいという。

③ (満州のスパイ戦)打ち立てた傀儡、謀略の最前線
   将校ら178時間の証言録音

写真・図版 写真・図版 写真・図版 写真・図版 【写真・図版】 通信傍受の舞台とされる満州電信電話株式会社ハルビン支社=1937年、本社所蔵

 ■プレミアムA 砂上の国家

 米国に眠る178時間の証言録音は、戦時下に満州で繰り広げられた日本とソ連のスパイ戦の内幕を、生々しく語っていた。

 「私どもはハルビンに特殊なセンターをひとつ持っていたんです」。1939年ごろのことだ。満州に駐屯した日本陸軍の部隊「関東軍」の情報担当参謀だった大越兼二が明かしている。

 一般向けの公衆無線電報を傍受し、分析する任務に連日約80人があたっていた。「テープでもう何十本と来ます。それをタイプにたたいて、必要なものをピックアップして情報に直していく」

 諜報(ちょうほう)の主な相手はソ連だった。外交や軍事に関わる通信は暗号化されていた。だが、基地にいるソ連の軍人と郷里の家族との連絡には、一般向けの公衆電報が使われていることを、関東軍の特務機関がつかんだ。私的なやりとりでも集めていくと、敵の作戦展開が読めることがあった。

 ある日、モスクワ近郊の街から「これから先、家から手紙をよこす時はここへ」という電報が一斉に打たれた。新鋭爆撃機を担当する部隊がいる街だった。発信人には隊長、参謀長、大隊長……。「『ほーれ来た』って言いましてね」

 モスクワ近郊の基地から極東・モンゴル国境の最前線まで、部隊が投入されてくることを、実物が姿を見せる10日前に割り出した。これはもっとも成功した例だったと大越は言う。

 日本が中国東北部に侵攻した満州事変から今年、90年になる。31年9月18日、奉天(現・瀋陽)郊外で、日本が経営権を握る南満州鉄道の線路が爆破された柳条湖事件が始まりだ。

 「中国側のしわざだ」。関東軍はそう主張して軍事行動を始め、やがて満州全土を占領したが、爆破そのものが自作自演だった。関東軍は翌32年、清朝最後の皇帝、溥儀(ふぎ)を担ぎ出し、傀儡(かいらい)国家の「満州国」をつくる。

 この地の利権をめぐって対立したのがソ連だった。その動きをつかむため、関東軍の特務機関は諜報活動に力をいれた。ソ連も同様で、満州は激しいスパイ戦の舞台となる。

 60年代初め、軍事史研究が専門の米国人歴史家、故アルビン・クックス博士は、当時の将校ら36人にインタビューをしている。大越もその一人だ。南カリフォルニア大学の東アジア図書館に、その証言録音が残っている。

 謀略、そして諜報――。満州で何があったのか。あの戦争とは何だったのか。朝日新聞は図書館の協力を得て、これらの証言をその他の資料と照らし合わせ、分析した。

 元将校らは淡々と、ときに興奮しながら当時の状況を振り返っている。日本は組織的な欠陥を抱え、多くの局面でソ連に後れをとり続けていた。=敬称略(編集委員・永井靖二、瀬戸口和秀)

▼2面
(満州のスパイ戦)極東のパリ、入り乱れる真偽

写真・図版
元関東軍将校らの証言で浮かんだ日ソのスパイ戦<グラフィック・加藤啓太郎>

 (1面から続く)

 ■プレミアムA 砂上の国家

 ■貨車に謎の印、物資輸送筒抜け

 日本の傀儡(かいらい)国家、満州国を舞台にした日本とソ連のスパイ戦。その最前線の一つがハルビンだった。

 もとは革命前の帝政ロシアがいち早く進出し、中東(東清)鉄道の拠点として開発した街だ。ヨーロッパ風の建物が並び、「極東のパリ」と呼ばれた。

 だが、日本の関東軍が満州事変を機に侵攻すると、ソ連は1935年、鉄道を満州国に売却せざるを得なかった。物資や兵力を輸送する鉄道は「植民地支配」の重要インフラだ。これで日本側が優位に立ったはずだった。

 米国人歴史家の故アルビン・クックス博士による戦後のインタビューに、関東軍の特務機関員として鉄道従業員の雇用にあたった入村松一(にゅうむらひさかず)が振り返っている。

 ハルビンを去るソ連の鉄道従業員らに、入村は「完全なあなたの敗北ですね」と声をかけた。嫌みな言い方に、意外な答えが返ってくる。「ノーノー。いずれただでいただきます」

 親ソ連か、反ソ連かは別として、実は満州国のロシア系住民は約7万人にのぼる。買収後の中東鉄道も約1500人のロシア系従業員を雇った。「その中に約200人くらいのスパイがいました」「列車の箱一つ一つにチョークで、この車両の中には何が入ってるという印が。ソ連のスパイが付けるんですよ」

 兵隊、車、食糧……。いくら見張っても、こちらには意味の分からない印が付けられ、広大な沿線のどこかで読み取られた。「ソ連は日本軍がどれだけ来ているか、何を運んで来ているかということは、ほとんど知っていた」

 買収のとき、従業員の多くを入れ替えた。仲間と見込むロシア人の協力で、身元調査に力を尽くしていた。だが、そのロシア人まで実はスパイだった。

 漢、モンゴル、朝鮮など多様な民族が暮らす満州国は、建国のスローガンに「五族協和」を掲げた。だが、統治された住民の多くは関東軍に反発を感じていた。そこに以前から暮らす人々の多くを味方にできず、情報漏れを防げないまま、関東軍はソ連への戦略を練り続けていた。

 ■現場軽視、二重スパイに欺かれる

 スパイたちを指揮した日本のハルビン特務機関は、現地のソ連総領事館に内通者を極秘につくった。陸軍参謀本部の元ロシア班長は「非常にいいスパイを入れていた」とクックスに明かしている。

 この内通者から、総領事館とモスクワとの通信内容がこと細かに送られてきた。それを「ハルビン機関特別諜報(ちょうほう)」、略して「ハ特諜(とくちょう)」と名付けたという。

 ただ、情報のあまりの生々しさを元班長は気味悪く感じていた。偽情報が混ざっているとみて、関係部署の外には出さず参考情報にとどめるよう指示した。

 だが、39年、満州国の西部国境で日ソ両軍がぶつかるノモンハン事件が起きると、文書担当の幹部の勝手な判断でこれが関東軍の作戦課に流れてしまった。

 実は「ハ特諜」は、二重スパイが発する「インスピレーション情報」と呼ばれるものだった。肝心な局面で相手がぱっと信じてしまうような、事実と正反対の情報が混ぜられていた。

 前線への物資輸送が難しい、と書かれていた「ハ特諜」を作戦課は信じた。敵は攻めてこないと楽観し、ソ連の総攻撃で壊滅的な打撃を受けた。

 組織内の連携がうまく行かなかったのは、この時に限らない。公衆無線電報などの傍受で得た情報も、重大な局面で軽んじられた。「一番大きな問題は、関東軍の作戦課が、(現場の)情報をあてにせず、自分で判断をして作戦を指導したこと」と元ロシア班長は指摘する。その背景には、陸軍大学校で成績優秀だった幹部らのエリート意識もあったという。

 ■市民を残して撤退

 41年6月、欧州戦線で独ソ戦が始まると、日本も北進し、ソ連に攻め込むべきか論争になった。戦況を眺め、機が熟すのを待ったが、ソ連は極東の兵力がさほど減っていないように見せかけていた。元将校らはそう振り返る。8月に北進を見送った日本はインドシナ半島などへの南進へ傾き、米英と太平洋戦争になった。

 シベリアへ攻め入る想定だった対ソ作戦は、防衛を前提に改められた。関東軍は当初、満州国全体を守る発想だったが、戦況が悪化し、東京の首脳陣が本土決戦を唱え始めると、最優先で守るべきは国体、すなわち天皇中心の国家だと、優先順位が変わっていく。

 関東軍作戦主任参謀だった草地貞吾(ていご)は「あとは敵の攻撃を遅らし、そして満州というか大陸の一角に橋頭堡(きょうとうほ)(とりで)みたいなものを持って持久をして、そして日本全土の大東亜戦争の遂行を有利にする考え方」と語っている。

 広島への原爆投下から2日後の45年8月8日、ソ連は日本に宣戦布告。関東軍の主力は朝鮮との国境地帯へ下がり、こうした情報を知らされぬまま、開拓民や一般市民は取り残された。

 ソ連軍の攻撃で、翌年春までに日本の軍人と民間人をあわせ、推計24万人余りが満州で命を落としたといわれる。満州国は日本の敗戦とともに13年余りで滅亡した。=敬称略(編集委員・永井靖二、瀬戸口和秀)

 ■諜報戦、背後に兵器開発競争も 山室信一・京大名誉教授

 日本はなぜ「満州国」をつくったのか。「キメラ――満洲国の肖像」(中公新書)の著書で知られる京都大学の山室信一名誉教授に聞いた。

 ――満州に進出した日本の動機は

 根底にあったのは1890年に山県有朋首相が唱えた「主権線」と「利益線」という考え方です。資源のない日本が仮想敵国に対抗するためには、主権線、すなわち国境線の外側に利益線と呼ぶ勢力圏を確保する必要があるというものです。1910年に韓国を併合した日本は、中国東北部に利益線が必要となりました。

 さらに第1次世界大戦で戦争が総力戦化し、これに対処するため中国での資源確保が課題となりました。他方、ソ連も社会主義体制を維持するためモンゴルを衛星国とし、長大な国境線を挟んで緊張関係が高まり、諜報戦が激しさを増します。

 ――では、特務機関の役割は

 ソ連は通信傍受や満州に情報提供者を作るなどしてスパイ活動を活発化します。関東軍も情報収集とスパイ摘発にあたる特務機関を拡充します。

 第1次大戦で、戦争の形も劇的に変わりました。毒ガスや細菌兵器は25年のジュネーブ議定書で禁じられましたが、相手が使うかもという疑心暗鬼のもと、ハルビン郊外に拠点を置いた石井部隊(七三一部隊)が研究に手を染めます。秘密兵器の開発競争の中、こちらの情報がどこまで漏れているかを知ることも重要となり、日本が勢力下に置いた他のどこよりも満州国で、特務機関などの活動が活発化しました。

 ――満州国は「五族協和」をうたいました

 台湾や朝鮮の人も大勢移住し、異なる文化をもつ30以上の民族がいました。しかし、そこは日本人を指導民族とする厳しい民族格差社会でした。

 ――満州事変から90年、満州国の教訓とは

 国家が作られ、崩壊するという、まさにその経験だと言えます。国とは人為を離れて営々と存続するものだという観念と、対極にある歴史の事実です。ソ連の侵攻で満州国は崩壊し、開拓民などの居留民は国家による保護が一切ない状態に放置されました。そのソ連も消滅しました。他方で国家は消滅しても、人は存在し、社会を必要とします。少子高齢社会を迎え、多様な民族といかに共存していくべきか。満州国は今も我々に大きな教訓を示しています。(聞き手 編集委員・永井靖二)

(天声人語)数々の無謀

 太平洋戦争のさなか、飢えにさいなまれたガダルカナル島の日本軍で奇妙な予言がはやりだした。「立つことの出来る人間は寿命30日間」「身体を起こして坐(すわ)れる人間は3週間」。兵士の衰弱ぶりから残りの命を予想するのだ
▼「寝たまま小便をするものは3日間」「ものを言わなくなったものは2日間」……。この非科学的で非人道的な見立ては決して外れなかったと、生き残った陸軍少尉小尾(おび)靖夫氏が手記「人間の限界」に書いている
▼「餓島(がとう)」と呼ばれたガダルカナルをはじめ、南方の日本軍で際だったのは餓死、そして飢えに起因する戦病死の多さだ。食料などの補給を軽視した作戦が、精神論をもって推し進められた。最悪の例がインパールだった
▼当時のビルマ側から大河と山脈を越え、インドのインパールを攻め落とす。持参する食料が尽きたら敵から奪えという無理な作戦だった。司令官に反対意見を述べた参謀もいたが、解任された
▼戦闘が始まると、攻撃が予定通り進まないなどとして、師団長2人が罷免(ひめん)された。「米一粒も補給がない」ことに怒り、独断で退却を決めた師団長もいた(藤原彰著『餓死〈うえじに〉した英霊たち』)。作戦は中止になったが、退却する兵士たちは次々に倒れた。その道についた「白骨街道」の名が痛ましい
▼米英との開戦は、国力の差を無視した無謀な賭けだった。そして、それぞれの作戦にも数々の無謀さがあった。この戦争を途中でやめ、講和に向かうという冷静さが働くことはなかった。


下平評
終戦(実は敗戦)から76年、76年前だから私は17才になる年、今年は12月で93才になります。 千葉の茂原で敗戦の放送を聞き月末に除隊になって帰郷しました。

海軍はいろいろゆとりがあって除隊に300円下賜され、そのせいもあって長野青年師範学校で学ぶことができた。 この三年間は生涯では大きな変容をしたと思います。 学ぶことの大切さを知ったこと、ユネスコを知ったこと、歴史の大切さを知ったこと、父親の教訓が身に染みたことも私の生涯の大きな節だったと思います。

素暢気(スノンキ)なまま教師生活を過ごし、地域のお礼の様に幾つかの役を果たし、自分で書き残したものを整理することになりました。 そして辿りついたのが「いのちの役目」でした。

そして「人は好きなような軌跡を描いていのちを全(マット)うすることかいい」そう願うことを歓(ヨロコ)びとしたいと思うようになりました。。

「いのちの役目」には二つある。 一つは「いのちを伝えること」で、これはできた。 もう一つは「自分の願いをまとめて実現に励むこと」で、これはいろいろの広がりと深さがあって一言で成否評価はできません。大げさに言えば処世観ということである。

二つ目の中核にはお釈迦様の教えでありもう一方では智を愛する立場でモーゼの知と行です。 和の心と科学です。

以上が私の一生を自分で短く言ったまでです。
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次に今日の新聞についての寸評を書きます。
① きょう終戦76年
戦没者の慰霊祭がありました。 主催者の総理の挨拶と今上陛下の言葉からその考えにおいて天地の違いがはっきりしていました。 生きる上での戦争の考え方の違いです。
私の占有も直撃団で命を失いました。 何故馬鹿みたいにまだ少年のくせに予科練へ行ったのか?
みんなのためになると思ったからです。 このことは間違いありません。 だが、戦争とは一人一人のお互いがあいてを殺すことしかないのです。 そのためにつらい訓練を生活に耐えていたのです。お互いが殺人者という一人の人間の心に刻印を負う結果になるのです。
敗戦76経たにもかかわらず、戦争の真実に立って人の道を切り開こうという大事なことの感覚が崩れているままの人が多い。
世界の人というより、子を持つ母親の想いを聞けばみんな戦争を拒否しているのです。

② 雨量、西日本豪雨超す 広島・福岡・佐賀など 4県、特別警報
この記事を見てグレタ少女の叫びを痛切に感じました。 このむごい災害は年を追うごとに激しくなる。
日本の川は短いからまだしも、それでも川の流れに逆らって狭くした堤防、今後の計画としての河川法の改革は素人でも心配の種なのです。
大々的な考えのもとに、温暖化を防がなくてはならない。 罹災者の気持ちになって考えを練り上げ、災害だけでなく温暖化は世界全体の課題として財政的にも大改革を急がなくてはなりません。

③ (砂上の国家 満州のスパイ戦)打ち立てた傀儡、謀略の最前線 将校ら178時間の証言録音
軍隊は戦争を予期した考えですべての物事を推し進めます。 スパイという考えは今でも大事なものとして考えられています。 人の猜疑心は根深い。
国家の方針の歴史を見れば、どり国でも時刻を有利にということが原則としてあった。 地球温暖化の様に各国の問題として平和を考える時代は過去のものになっています。 米中の駆け引きもこんなことで仲良くなるとは一人も考えておりません。
こうした国単位の考え方は「死の商人」そのものであり、人の利益中核の考えも、企業独自利あり方にしても、お金の在り方とか取引の在り方とか自由のあり方自体から考え直すことが求められています。

④ (天声人語)数々の無謀
戦前の国家権力についての批判は、絶えず心に持っていなければならない。
私はここで大事に思うことがある。
それは自由についての在り方と、それを支える責任・義務についてです。
コロナウイルスが悪性だとかそうでないとかの問題ではなく、人の迷惑に関わること殊に伝染する疾病についてです。
うがい、手洗い消毒、マスク着用、少人数の食事、集団行事の廃止、イベント自粛、等々いろいろの指導がある。
国や自治体や個人間での「自粛」、伝染する疾病の場合の「自粛」下で、「個人の自由と責任・義務」
それについては、国の指導者は一言も口にしない。
一人としての「いのちの安全、それができたら次は「何を目指すのか」を独自に判断してよい。
「何を目指すのか」それは自由である。 「自由と共に責任がある」ことが絶対条件である。
今のままでは、コロナの蔓延は‘雨多ければ洪水になる’その通りなのです。

今日のニュースについての寸評を終わる。