【目次へ】
  続折々の記へ

続折々の記 ⑩
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】10/15~     【 02 】10/18~     【 03 】10/24~
【 04 】11/01~     【 05 】11/04~     【 06 】11/09~
【 07 】11/14~     【 08 】11/16~     【 09 】11/26~

――――――――――――――――――――――――――――――
【 07 】11/14
    百歩先の見える者は狂人扱いされ(小林一三)
    瀬戸内寂聴さん死去 作家・僧侶 女性描く
        99歳
        女性たちの一生、文学の山脈に 瀬戸内寂聴さんを悼む
        「愛した 書いた 祈った」 自由な女性の生き方体現

 2021/11/10 天声人語
百歩先の見える者は狂人扱いされ(小林一三)  私鉄沿線

 あの宝塚は、鉄道王が「やむをえず」手がけたものだったらしい。阪急電鉄の創業者小林一三(いちぞう)は、乗客を増やすには線路沿いに宅地を開発するのが必須だと考えた。しかし成功するまでには長い時間がかかる
▼それゆえ「沿線が発展して乗客数が固定するまでは、やむをえず何らかの遊覧設備をつくつて多数の乗客を誘引する必要に迫られた」と後に記している。明治の末から大正にかけて、宝塚に温泉施設を造り、温泉の余興として宝塚歌劇を始めた
▼もちろん小林は宅地開発にも力を入れ、緑に囲まれた郊外で「家庭の和楽を全うせん哉(や)」と大阪市民に呼びかけた。私鉄が人々を沿線の暮らしにいざなう。そんな事業モデルは関西から関東へ広がった
▼小田急電鉄が発表した新運賃も、その流れのなかにあるのだろう。来春からICカード利用時の子ども料金を、距離にかかわらず50円にする。人口減少時代ゆえに「子育てしやすい沿線」をPRするという
▼コロナ前の業績にもどす企業が増えているが、鉄道業は苦しいままだ。在宅勤務で客が減っても本数は減らせない。列車内の犯罪が相次いでおり、警備を手厚くすれば経費がかかる。逆風のなかでの値下げの決断は目を引く
▼小林の故郷にある資料館を訪れたとき、彼が大事にしていた言葉に触れた。「百歩先の見える者は狂人扱いされ 五十歩先の見える者の多くは犠牲者となる 十歩先の見える者が成功者である」。今回の値下げはおそらく、十歩先を見た投資であろう。

 2021/11/12 朝日
瀬戸内寂聴さん死去 作家・僧侶 女性描く    99歳

写真・図版 【写真・図版】瀬戸内寂聴さん=2011年2月、京都市右京区

 新しい女性の生き方を描いた小説で人気を集め、反戦・平和を訴える社会活動にも精力的だった作家で僧侶の瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)さんが9日午前6時3分、心不全のため京都市内の病院で死去した。99歳だった。葬儀は近親者のみで行う。喪主は非公表。後日、東京都内で「お別れ会」を開く予定。▼24面=林真理子さん寄稿、30・31面=自由な女性の生き方

 徳島市生まれ。「晴美(はるみ)」と名づけられた。東京女子大在学中に結婚し、卒業後は夫の勤務先の北京へ。敗戦により、1946年に帰国。夫のかつての教え子と恋に落ち、幼い一人娘を残して家を出た。離婚後は、少女小説などを書きながら、丹羽文雄主宰の同人誌「文学者」に参加した。

 57年、「女子大生・曲愛玲(チュイアイリン)」で新潮社同人雑誌賞。これを皮切りに、61年には評伝「田村俊子」で第1回田村俊子賞、63年には離婚の原因になった自身の恋愛を描いた「夏の終(おわ)り」で女流文学賞。以後は岡本かの子、伊藤野枝(のえ)の伝記小説「かの子撩乱(りょうらん)」「美は乱調にあり」や、自我に目覚めた現代女性の生と性をみつめた長編小説を次々と発表し、人気作家になった。

 51歳だった73年、岩手・平泉の中尊寺で得度し、法名の寂聴を名乗るように。翌年、京都・嵯峨野に寂庵(じゃくあん)を開き、晩年まで法話を続けた。87年からは岩手県二戸(にのへ)市の天台寺住職を務めた。

 その後も、92年に「花に問え」で谷崎潤一郎賞、96年に「白道(びゃくどう)」で芸術選奨文部大臣賞を受賞。「源氏物語」の現代語訳(全10巻)にも取り組み、完結後の2000年に日本文芸大賞を受けた。01年には「場所」で野間文芸賞を受けた。06年に文化勲章を受章。08年に安吾賞、11年に「風景」で泉鏡花文学賞を受けた。90歳を過ぎても執筆活動は衰えず、14年には自身の人生の終着点を見つめる「死に支度」、17年には最後の長編小説とした「いのち」を出した。

 社会問題にも活発な発言を続けた。再審無罪となった「徳島ラジオ商殺し事件」の支援活動を続け、86年には元連合赤軍の永田洋子被告の裁判で証言台に立った。91年には湾岸戦争に抗議して断食し、03年のイラク戦争では武力攻撃に反対する意見広告を朝日新聞に出した。08年に発足した「憲法9条京都の会」では代表世話人を務め、11年の東日本大震災では被災地で法話を行い、脱原発運動にも加わった。

 14年に骨折やがんで約1年間療養したが、15年6月には国会前で安全保障法制に抗議するデモに参加し、平和を訴えた。17年度に朝日賞を受賞した。

 15年6月から亡くなる前月まで、朝日新聞朝刊にエッセー「寂聴 残された日々」を月1回連載。雑誌に短編小説なども書き続けた。

 20年には、新型コロナ禍でもネット上で法話を聞かせて人々を励ました。21年に数え年で100歳を迎える際、取材に「いまコロナでどんなに孤独で苦しくても、その苦しみは永遠には続きませんよ」と語った。

▼24面=林真理子さん寄稿
女性たちの一生、文学の山脈に 瀬戸内寂聴さんを悼む
   作家・林真理子

 瀬戸内先生の訃報(ふほう)を聞いた時の衝撃は、思いのほか大きかった。

 九十九歳というご高齢ということもあり、いつかはこの日が来ることはわかっていた。

 しかし今年の六月に、女性誌の対談でお目にかかった時は、とてもお元気でよく話された。来年は百歳の祝いを盛大にするということも決まっていたのである。

 喪失感はとても大きい。瀬戸内先生は、単に文学界の重鎮だったということではなく、私たち女性作家にとって精神的支柱であり目標であったからだ。

 若い頃から、本当に可愛がっていただいた……と考えるのは私だけではあるまい。若い作家たちにも興味を示し、親愛の情をお寄せになっていた。私よりはるかに年下の女性作家たちも、先生を慕い寂庵に集うこともあったと聞く。

 私の家には瀬戸内寂聴全集がある。先生からいただいたものだ。それをあらためて手にとってみると、一人の作家がよくこれだけの文学の山脈を築いたと驚くほどだ。

 伝記小説があり、現代小説があり、そして源氏物語訳がある。そのどれもが高い評価を得て版を重ねている。

 しかしある時、先生が私にこうおっしゃった。

「真理子さん、作家というのは死んでしまえば、次の年には本屋から本が一冊もなくなってしまうものなのよ」

 私はそんなことはないと否定したのであるが、先生は首を横に振られた。

「私の本の中で残るのは、おそらく源氏物語の訳だけでしょうね」

 この自己分析のすごさ、客観性が瀬戸内寂聴という人であった。諧謔(かいぎゃく)ということも知り、ユーモアもあった。何よりスター性も。先生ほど多くのメディアに出続けた人はいないだろう。テレビでもお茶目(ちゃめ)な一面を見せ人気があった。日本全国津々浦々まですべての人が知っている作家というのは、おそらく瀬戸内先生が最後であろう。まさしくザ・女性作家であったのだ。

 私は瀬戸内先生の伝記小説が好きで若い時からよく読んでいた。私が柳原白蓮を書く時も、白秋の妻、江口章子についていろいろ教えていただいた。惜しみなく後輩に知識をくださる方であった。

「先生が根こそぎ、いろんな女性を書くから、私はもう主人公を探すのが大変なんですよ」

 と申し上げたら、おかしそうに笑っておられた。同時代を生きた真杉静枝については、

「変わった女だったわねー」

 と、あのかん高い独特の声でおっしゃったのが昨日のようだ。

 伝記小説の中で『美は乱調にあり』を一とする人が多いが、私は岡本かの子を描いた『かの子撩乱(りょうらん)』をあげたい。先生の取材のねちっこさ、すごさというのは定評があるが、先生はこの天才女性作家の真実を、ねちっこい筆で説き明かしていく。

 こういう書き手には、必ず幸運がついて回るものであるが、先生はかの子の恋人である医師に会うことに成功するのだ。岡本かの子の「男妾」と言われ、夫と同居していた彼はまだ生きていて、地方の病院の院長になっている。

 そこで先生は彼から驚くべき言葉を引き出す。今はいつわりの生活で、かの子と暮らしていた時こそが、本当の生だったと。

「先生は間に合ったんですね」

「そうなのよ」

 大きく頷(うなず)かれた。私はこの時の会話を後々まで思い出すことになる。若い時にデビューして書き続けた先生は多くのことに間に合ったのだ。

 実は六月にお会いした時、先生は私にご自分の伝記を書くようにと口にされた。しかし先生は自伝的小説も数多く残している。今さら私が書く余地はないのではと申し上げると、

「まだ話していないことがいっぱいあるのよ、本当よ」

 とその場で連載にすることを承諾なされた。

 しかし私は間に合わなかったのである。口惜しくて残念で言葉が出ない。
 (寄稿)

▼30・31面=自由な女性の生き方
「愛した 書いた 祈った」 自由な女性の生き方体現
   瀬戸内寂聴さん死去

写真・図版 【写真・図版】非常にわかりにくい。 300倍に拡大すれば概略が分かります。 または、別のもので調べること。

 作家として、僧侶として、一人の女性として、さまざまな立場の人に寄り添い、世間に率直な思いを発信し続けてきた瀬戸内寂聴さんが亡くなった。その人生には戦争が大きく影響していた。▼1面参照

 ■国会前、反戦訴え

 幼い一人娘を残して家を飛び出したことが、すべての始まりだった。敗戦後、夫の教え子だった青年と恋に落ち、よき妻、よき母を捨て、幼いころから憧れた文学の世界に進んだ。

 「正しい戦争と教えられ信じてきたが、戦争に負け、自分の愚かさに気づいた。これからは自分の心で感じたことだけを信じて生きていこうと決めた。それが私の戦後の革命だった」

 家を出た後、父から「お前は人の道を外れ、鬼になった。どうせなら大鬼になれ」と言われた。この言葉を胸に、寂聴さんは何ものにも流されず、自由を貫き、文学の大鬼になった。

 小説で描いた多くは、時代に翻弄(ほんろう)されながらも自我に目覚めた女性たちだ。戦前に活躍した作家の田村俊子や岡本かの子、女性解放運動家の伊藤野枝(のえ)、大逆事件で死刑になった管野スガ(須賀子)、新橋の芸者から尼僧になった高岡智照(ちしょう)。こうした女性たちが、まだ小説のモデルになることが少なかった時代に光を当てた。代表作「夏の終(おわ)り」のように自らの恋愛にも正面から向き合い、生涯で出した本は400冊を超えた。

 愛や性を見つめた創作は源氏物語の現代語訳に結びついた。70歳から6年半を費やして全10巻を完成させた。晩年には「人生で一番うれしかったのは、世界に誇れる文化遺産の源氏物語を訳せたこと」と語った。

 常に時代の先頭を走り、女性の地位を向上させた寂聴さんが、51歳のときに出家した大きな理由も文学のためだった。当時、すでに人気作家となり、寝る間もなく売れる小説を書いた。だが、理想とする文学とはほど遠く、むなしさや絶望を感じていた。「人間より大きな、目に見えない存在に救いを求め、バックボーンになる思想を身につけたかった。すべてはいい小説を書くためでした」

 法名の「寂聴」を名づけたのは、作家で岩手・中尊寺貫首だった今東光(こんとうこう)さん。出家した心は乱れなく、仏の心が聞こえてくるという意味の「出離者は寂なるか、梵音(ぼんのん)を聴く」から取った。

 作家として「書く言葉」のほかに、京都・寂庵(じゃくあん)や岩手・天台寺で続けた法話という「語りの言葉」でも人々を救ってきた。子どもを失った女性が相談にくれば歩み寄って抱きしめ、ともに涙して励ました。ユーモアを交え、自らの愛や性、病状をさらけ出し、仏の教えをわかりやすく説いた。

 自分の目で見て、やってみなければ始まらない。その精神を貫き、平和を訴え、命を尊んだ。湾岸戦争やイラク戦争に反対し、脱原発を唱えて経済産業省の前で座り込んだ。安保法制に抗議し、京都から国会前に駆けつけたときは、骨折やがんによる約1年間の療養生活から復帰したばかりの93歳だった。「戦争にいい戦争はない」「殺すなかれ、殺させるなかれ」という言葉を繰り返し使った。

 晩年は「老」「病」との闘いでもあった。それでも書く情熱は衰えず、95歳になっても徹夜し、長編小説やエッセーを書いた。「書かない寂聴なんて何の値打ちもない」と語っていた。

 これから眠る墓は、長年住職を務めた天台寺にある。その墓碑には、愛や自由、平和を求めた強き女性作家の生涯を、端的に表す言葉を記すと話していた。

 「愛した 書いた 祈った 寂聴」

 ■<評伝>99歳、最後まで机に向かい

 ペンを握る右手の指は曲がったままだった。背骨の圧迫骨折もそう。70年以上、机に向かったからだ。亡くなる直前まで書いた。

 「88歳が人生で一番いいとき、あとは老いてぼろぼろよ」と語っていたように80代後半から何度か生死をさまよった。だが寂聴さんは不死鳥のごとくよみがえった。2015年春も骨折やがんを乗り越えたばかり。このとき92歳11カ月。京都・嵯峨野の寂庵(じゃくあん)で法話し、力強く言った。

 「命がある限り書く」。書くことへの意欲を失わない作家の情熱に打たれ、連載エッセーを持ちかけた。毎月届くのは万年筆の手書き原稿。「遺言だと思って書いている」

 なぜ書き続けるのか聞いたことがある。「まだ、お母さんともしゃべれない幼い娘を捨てて文学の世界に飛びこんだから、書き続ける責任がある。私は幸せになっちゃいけないの」

 ペン一本で生きた寂聴さんは戦後の自立した女性の先がけだ。そこには戦争体験がある。安保法制に反対して京都から国会前に行くと言いだしたのは抗議集会の2日前。死も覚悟した。「愛する人と別れること、愛する人が殺されること、それが戦争。命ある限り、戦争の恐ろしさを伝える」

 肉と赤ワイン、日本酒を囲むたびに出てくるのはビッグネームばかり。多くの人に愛されたのは文学や仏教の知識、波乱に満ちた人生経験から紡がれる言葉に加え、尽きることのない好奇心や人間味あふれた愛らしさではなかったか。若者にも期待した。晩年は66歳離れた女性秘書と過ごし、「青春は恋と革命」「100冊の本を読むより1回の恋愛」と語った。

 僧侶としての務めだからと、コロナ禍の前まで数十年間、寂庵で法話を続けた。東日本大震災など災害のたびに現地に飛び、天台宗の開祖・最澄の言葉「忘己利他(もうこりた)」を挙げた。「己を忘れ他を利する。人を幸せにすることこそ、もっとも高尚」と説いた。

 自らの不倫も隠さず、名言も数知れず。好きな1字はもちろん「愛」。その愛とは何か聞いた。「愛する人と2人、窓の外を見ると、雨が降ってきたとするでしょ。『ほら、いい雨ね』。いつまでも、そう言えるのが愛よ」

 やりたいことをやり、言いたいことを言い、「いい男」を愛した。その人生の最後の長編小説に書きたかったテーマは「家族」。人と人の付き合いが薄れ、時代とともに変わった家族のあり方を見つめ直したいと構想を明かしてくれた。

 「娘を残して小説家になったから家族の姿がずっと気になっていた。世の中は変わる。家族も変わる。だけど人間の原点は家族よ」

 晩年こう語ってくれた。「生まれ変わっても寂聴でありたい。やっぱり女の小説家になりたい。書くことは私の命」。混沌(こんとん)とした現代、もう一度でいい、寂聴節を聞きたかった。(岡田匠)
  (30面に続く)

▼30=自由な女性の生き方 頼らず、縛られず/命燃やし続けた  瀬戸内寂聴さん死去  (31面から続く)
 瀬戸内寂聴さんが亡くなった。ゆかりの人々から悼む声が届いた。
     ◇
 <50年以上にわたる交流があった歌手・俳優の美輪明宏さん> 寂聴さんは人をもてなすのが大好きで、いつもお食事をごちそうしてくださいました。お肉を食べながら「私は破戒坊主だから」と笑っていました。

 一番の功績はやっぱり人助けでしょうね。自然体で人々の相談に乗っていた内容が人々の口づてに広まって、大勢の人が寂聴さんを頼るようになりました。組織を使ったわけでもなく、自然とそうなった。人々に渇望されていた。

 ご自身が色んなことを体験なさっているから、他人の気持ちが分かったのだと思います。何十人分かの人生をくぐりぬけてきたからこそ、しっかりとした身の上相談も受けることが出来たのでしょう。寂聴さんの周囲には、若い人たちが自然と集まり、お世話する人もいました。そういう意味では、幸せだったと思います。

 <声をあげる文学者としてたびたび行動を共にした、ノンフィクション作家の澤地久枝さん> 何事も隠し立てせず、誰にも頼らず世間の思惑にも縛られずに生きたいように生きた。「瀬戸内源氏」と呼ばれる源氏物語の現代語訳など立派な仕事もされて、見事に生きた先輩でした。

 瀬戸内さんに相談すると必ず一緒に動いてくれました。国会の前にひとりで立って訴えたこともありましたね。この100年間のほかの女性にはまねできない、ほかに比べられる人がいないほどの立派な仕事をされて、見事に生きた人生でした。死は誰にもいずれ訪れることとはいえ残念です。

 <ニューヨークに滞在中で、長年人生相談をしていた俳優の南果歩さん> 異国の地で寂聴先生の訃報(ふほう)に触れ、私の心は京都の寂庵に有ります。幾度、寂庵に先生を訪ねたことでしょう。

 私の不幸話を笑い飛ばし「あなた、これからが人生楽しいんだから、たくさん恋をしなさいよ!」と、いつも励ましてくださいました。先生の法話と笑顔に救われたのは私だけではありません。

 最後にお電話でお話ししたのは今年の先生のお誕生日でした。「先生だけが100歳のアイドルになれる方ですよ」とお伝えすると、「あら、それ悪くないわね」と、また2人で笑い合いましたね。

 最後まで連載を抱え、作家として命を燃やし続けた先生を敬愛して止(や)みません。そして、先生のお言葉と笑顔はこれからも私の支えとなるでしょう。

 お側(そば)で先生の生き方に触れることができた幸せを、先生が旅立たれた後により一層感じるのだと思います。今は寂しくて堪(たま)りません。寂聴先生、もう一度お会いしたいです。心からの感謝をお伝えしたいです。

 <原発に反対する活動で志を同じくするという作家の落合恵子さん> 女性がタブー視されていた怒りを表明すること、性を語ること。この二つを見据えて書き、行動してこられた。社会が「穏やかではない」と烙印(らくいん)を押した女性たち、田村俊子や岡本かの子、伊藤野枝、管野スガ(須賀子)の評伝や伝記小説を書かれたこともそうです。「穏健派」からはみ出さざるを得なかった女性に新しい光を当てました。

 その延長線上に反原発の活動があると考えています。正しいと世間が決めたことに、「ノー」というのはたやすいことではない。批判されることも傷つくこともあったと思いますが、それでも前に進まれました。

 「自分をちゃんと生きなさい。自分の人生なんだよ」ということを言われました。背中を押してもらった言葉です。その思想と姿勢を受け継いでいけたらと思います。

 <親交の深かった美術家の横尾忠則さん> ここ数年の寂聴さんは自分の死についての話ばかりで、お葬式の計画も立てて半分楽しんでいる面がありましたね。入院されていることは知っていましたが、何とか100歳までは生きていてほしかったな。私の知人の中でも一番長い、もう50年の付き合いでした。

 生活の一部で、親戚のような存在。僕が寂庵に遊びに行ったときは、勝手に冷蔵庫を開けても許してくれた。何でも言いたいことが言える相手がいなくなったのは寂しい。寂聴さんは亡くなったけれど、魂に向けて呼びかける手紙を書こうかな。

 <テレビ番組「徹子の部屋」で共演を重ねた俳優の黒柳徹子さん> みんなの味方が、亡くなった。

 こんなことまで書いちゃうんだ!という小説家が、尼さんになった。尼さんになっても「書いちゃおうかな」と言って書いていらした。百歳近くまで尼さんで、説法しながら恋愛小説を書く。日本は面白い国だと思う。でも、もうお会い出来ないと思うと悲しい。

 <瀬戸内さん原作の映画「みれん」(1963年)に出演して以来、親交のあった俳優の仲代達矢さん> 僕にとっては、10歳上のすてきなお姉さんでした。僕の舞台や映画をよく見て下さり、お褒めの言葉をかけてもらいました。悪口もたくさんうかがいましたが(笑)。最近までご活躍を拝見していましたが、訃報(ふほう)に接して大変悲しい気持ちです。「寂庵にバーがあるから来てね」とお誘いいただいていたことも悲しい思い出になってしまいました。

 ■瀬戸内寂聴さんの語録

 「家庭でも核家族化して年寄りがいなくなって、良い伝統が伝わらなくなった。子どもたちは、人間が老い、病み、死んでゆく過程を身近に見なくなったから、命について考えもしないし、死の避け難い運命を知ろうともしない」(1996年、作家中野孝次さんとの対談で)
     *
 「自分の国の伝統や芸術に誇りをもたないで育った子どもはどうなりますか。義務教育で国語をしっかりと教えること。日本語ができないのに英語だけうまくなってどうするんですか」(2000年、朝日新聞の取材で)
     *
 「(イラク戦争は)いたたまれません。なんと人間は愚かなのか。『殺すな、殺させるな』と言うのは、仏教徒の私の義務」(03年、同)
     *
 「生きることは愛すること。世の中をよくするとか戦争をしないとか、その根底には愛がある。それを書くのが小説」(06年、同)
     *
 「源氏物語を読んで下さい。三角関係、不倫と恋愛のあらゆるパターンが書いてある。いじめもある。今あることでないことはほとんどない。読むたびに新しい発見がある」(08年、日本新聞協会のシンポジウムで)
     *
 「戦争は人災。人間がするもの。原発もそう。やらなければ、つくらなければ、防げる。より良い安全な世界を子どもたちに残すのが、先に生まれた者の義務です」(11年、徳島・鳴門での講演で)
     *
 「好きな言葉は『情熱』。情熱がなければ生きていてもつまらない。『青春は恋と革命』。その情熱を失わないまま死にたいのよ」(13年、朝日新聞の取材で)
     *
 「身体の痛みよりも、寝たきりで書けない自分が許せなかった。100歳まで生きてねって皆さん言ってくださるけど、ものを書けない寂聴なんて、生きてたってしょうがないでしょ」(14年、同)
     *
 「戦後の日本はお金、お金、お金になり、恐ろしいこと。本当は目に見えないものが大切。神や仏、ご先祖様は目に見えない。もっと見えないのは人の心。しかし、生きていく上で一番大切」(15年、岩手・天台寺の「青空説法」で)
     *
 「1922年生まれの私は、いかに戦争がひどくて大変か身に染みて感じた。戦争にいい戦争はない。すべて人殺しです」(15年、国会前の安保法制反対集会で)
     *
 「書斎でペンを握ったまま、原稿用紙の上にうつぶせになって死ぬのが理想。でも棺(ひつぎ)の中にペンや原稿用紙を入れないでほしい。あの世でも書いて、という意味でしょ。そんなの嫌よ。向こうでは花を見たりピクニックに出かけたりして遊び歩きたいわ」(17年、朝日新聞の取材で)
     *
 「どんなに熱い恋愛だって、その気持ちは5年も続きやしません。それと同じで、いまコロナでどんなに孤独で苦しくても、その苦しみは永遠には続きませんよ。『すべてのものは移り変わる』というのが、お釈迦(しゃか)さまの教えです」(20年、同)